2024/12/01 - 2024/12/01
1912位(同エリア8987件中)
minoさん
残すところあと2日間
この日は、人生で絶対来たかったメトロポリタン美術館へ
私にとってはルーブル美術館に並ぶ、超最高テンションあげあげの場所です
まずはツアーサービス、ガイドさんによる1時間の館内ツアー
その後は自由行動で閉館まで居てもOKです
ガイドツアーの後にクロークにコートや荷物を預けました
ダウンを腰に巻きながらの鑑賞だと結構鬱陶しい
預けるには一旦退場してチケット売り場の先にクロークがあります
出入り口にいたスタッフの男性が日本人で
クロークにコート預けたい旨が簡単に伝わりました
異国の地で同国民に会えるのは心強いし
言葉が簡単に通じるのって嬉しい
荷物を預け再入場した後、館内でランチです
カフェテリアで簡単にサンドイッチとコーヒー
ちょっと並んだだけで食べれました
口コミでは館内カフェテリアはべらぼうに混むと聞いていましたが
時期的なものでしょうか
11月末、12月頭は比較的空いてるのかもです
体力をちょっと残して3時過ぎに退館
外は明るいものの12月ですから寒かった
徒歩5分のノイエギャラリーへ移動です
Google mapありがとう、助かります
方向音痴なのでGoogleマップなしで知らない場所は歩けません
ノイエギャラリーで大好きなクリムトを見れました
絵の写真撮影不可で残念でしたが
絵の前のベンチに座りゆっくり鑑賞していたら
大陸から来た大人数ツアー客に囲まれて
ガイドさんが中国語で説明を始めて、なかなか終わらず
途中で離脱しました
入館のサービスで喫茶スペースで紅茶が無料の日
カフェに入るのに長蛇の列
疲れていたので並ばずに帰りました
Googleマップがあっても
帰り道は地下鉄を探して迷子に…
夕飯はホテル近くのお店でハンバーガーを購入
日本から持参のカップそばも食べました
ホテルからもらったミネラルウォーターがあり金銭的に助かりました
夜はベルトラで夜景ツアー↓
https://www.veltra.com/jp/north_america/new_york/a/7035
絵に関して色々書いてありますが、ほとんどの説明文は美術館のホームページやその他の解説から抜粋した文章です
翻訳された文を読みやすいように書き換えたりしているので
誤りがあるかもです
帰国後に知りましたが
美術館内部はGoogleでバーチャル鑑賞できるのですね
この日の最大の失敗は
メトロポリタン美術館
シスレーのヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋を見損ねてしまいました
貸し出し中だったのか、通り過ぎてしまったか
…残念です
メトロポリタン美術館でもノイエギャラリーでも
心の中で奇声を上げ、鼻息荒くし、脳内で爆発して
瞬きを惜しみながら鑑賞しました
私にとって好きな絵を見ることは
「一瞬」を切り取り、心に刻みつける行為
絵の持つ、その美しさと輝き、奥深さ
美術館には人の心を大きく動かす何かがあります
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
-
シェラトン ニューヨーク タイムズスクエアホテルに2泊
朝食を一階のレストランで(ツアーに付いてます)
朝食はしっかり食べます
ランチは毎回軽め、安め、簡単に
鑑賞時間をより長くとりたいのと、単純に外食が高価だからです
しっかり食べたら、ツアーはロビーに集合 約束の時間は9時
15分前に宿泊階のエレベーターホールにいたにもかかわらず
集合時間に少し遅れました
全くエレベーターが宿泊階に止まらない
マンモスホテルのため、朝は1階ロビーに降りていく人が多い -
満員御礼のエレベーターは通り過ぎていくだけ…
私たち以外のツアーメンバーも遅刻
1階に降りるのに20分かかるとは思わなかったですよ
(言い訳) -
ホテル裏口から出てツアーバスに乗り、メトロポリタン美術館へ移動
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セントラル・パーク付近で犬の散歩をバスから眺めました
犬飼うけど、平日は散歩出来ないご家庭がけっこうありそうな感じ -
ガイドさんと大急ぎで美術館の中へ
外観の全然写真を撮る余裕はなかったです
スタートはエジプトから
ドンドン進む -
通りすぎるだけ
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ほとんど立ち止まれず
最強のカバ ウィリアム君に再会を誓う
美術館解説より
「カバの群れは畑を歩いて収穫を台無しにしてしまうにもかかわらず、
古代のエジプトの人々はすべての生命の源である泥水の恵みの使者としてカバを尊びました。破壊と創造の両面をそなえ、特別な魔力を持つと考えられたカバの像は、頻繁に墓に埋葬されました。メトロポリタン美術館のカバの像は、ウィリアムという愛称で呼ばれています。これはある来館者の一家が自宅にあるカバ像の複製に付けた名前で、家族が何かを決めるときに、その決定の是非をカバの表情で判断するという話が風刺雑誌に掲載されたことに由来します。」 -
カバの像
メイール、センビの墓から出土
紀元前1981-前1885年頃 -
かわゆし
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数は大英博物館より多そうな?
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デンドゥール神殿
紀元前15年頃 -
紀元前15年頃に、ローマ皇帝アウグストゥスがヌビアの都市に建設した神殿
ダム建設のために水没する運命だったヌビア遺跡のために、アメリカが多大な援助
そのお礼としてエジプトから寄贈されました
他の大規模な神殿と比べて小型ですが、神殿に欠かせないすべての要素、門戸、柱廊のある入り口、供物部屋、そして至聖所が備わっています -
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元々は鮮やかな色彩で塗られていたそうです
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中にも入れます
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ティファニーのステンドグラス
本来はどこぞのお屋敷に飾られる予定でしたが中止になり
メトロポリタン美術館に展示される流れになったそう -
絵画の所までほぼダッシュ
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アメリカウィングの絵画から鑑賞スタート
『デラウェア川を渡るワシントン』
エマヌエル・ロイツェ
ワシントンと2,500人を数える部隊が夜間川を渡り奇襲に成功
1776年12月25日ヘッセン部隊を攻撃したこの戦いは、独立戦争の転機となったため、この絵はアメリカ絵画で最も有名な作品のひとつとなりました -
Lady with the Rose (Charlotte Louise Burckhardt)
ジョン・シンガー・サージェント 1882
ルイーズ・ブルクハートはスイス人商人の20歳の娘
単色の色調、そして人物のシルエットの強調する手法は
スペインの画家ディエゴ・ベラスケスを思い出させます
実際にサージェントはパリの教師カロルス・デュランから
ベラスケスの作品を学ぶよう勧められていたそう -
マダム X (ピエール・ゴートロー夫人)
John Singer Sargent 1883~84年
ルイジアナに生まれたヴァージニー・アメリー・アヴェニョ・ゴートローは
パリ社交界の有名人でした
サージェントは彼女の肖像画によって名声を高めようと無料でこの作品を描きました
モデルの了解を得て右肩の肩紐が落ちそうなようを描き、セクシーで大胆なスタイルを強調しましたが、1884年、サロン・ド・パリで批判を受け、サージェントは肩紐を描き直しました
後にメトロポリタン美術館にこの絵を売却した際に
「これは自分の最高傑作だと思っている」とサージェントはコメントしました -
描き直しの前の絵
肩紐に注目
イカガワシイ感じが許されない時代ですね -
The Wyndham Sisters 1899
『ウィンダム・シスターズ
エルチョ夫人、アディーン夫人、テナント夫人』
この絵画は批評家から絶賛されました
チャールズ皇太子(後のエドワード7世)によって「三美神」と名付けられたほど
モデルはイギリスの政治家ジョージ・ウィンダム(初代レコンフィールド男爵)の次男の3人の娘 -
サージェントの絵はどれも大きいです
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『セントラルパーク 冬』1905年
ウィリアム ・ジェームズ・グラッケンズ -
『シーリア・サクスターの庭 メイン州ショールズ諸島』
Childe Hassam 1890年 -
Jungle Tales (ジャングル物語)
ジェームズ・ジェブサ・シャノン 1895年 -
シャノンは 1880 年代にロンドンで学び、社交界の肖像画家として成功しました
「ジャングル物語」は、横顔の娘キティともう一人の子供に本を読んで聞かせている画家の妻を描いています
なんて愛らしいお嬢さんたち
シャノンの絵の中でこの絵が一番好みです -
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Young Mother Sewing
Mary Cassatt 1900
アメリカの絵画のセクション、カサットの絵がたくさん
アメリカ人である彼女は絵の勉強をするためにパリに行きましたが、
国立美術学校で絵を学ぶことが許されず(女性であるため)
ルーブルなどに通って模写などをしながら独学でどんどん腕を磨いたそう
その結果、当時のサロン展で入選を果たし、ドガに師事したそうです -
『マルリーの庭で編み物をするリディア』
1880年の夏にメアリー・カサットは姉のリディアとパリの西15㎞のマルリールロワに滞在
リディアが腎臓病で1882年に亡くなるまで、彼女をしばしば描いています
姉が亡くなってからは半年ほど絵を描くことさえできなかったそう -
カサット
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『窓の中のライラック (フェネトルのリラの花瓶)』
メアリー・カサット 1880年頃~1883年
暗褐色の花瓶に紫と白のライラック
彼女は庭園と花を愛していました
静物画は珍しいです -
さあ、移動 移動…
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フェリペ4世、スペイン王、1624年
ディエゴ・ベラスケス
フィリペ4世さまの肖像画、いろんな美術館でお会いします
彼の特徴「ハプスブルク顎」は、ハプスブルク家の君主たちに見られる特徴で、鋭く突き出た顎とふくらんだ下唇
近親交配と遺伝的な影響が重なり合って発生したそうです -
マリア・テレサ王女
ベラスケス 1651~54 -
聖母子像
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『ふたつの炎のあるマグダラのマリア』
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 1640年頃
画家が描いた4点の『悔悛するマグダラのマリア』のうちの1点
解説より
「マグダラのマリアはイエス・キリストに出会い、悔悛と瞑想の生活のために現世の肉体的快楽に決別した。本作で、彼女は鏡の前に座しているが、鏡は「虚飾」の象徴である。同様に虚飾を表す宝石 (テーブルの上に無造作に置かれた真珠のネックレスと、地面にある、留め金がつき、真珠が編み込まれた2本の鎖および楕円形の真珠がついた黒っぽい卵形の宝石) は投げ捨てられている。彼女が手にしている頭蓋骨は「死」を象徴し、ロウソクの光は彼女の信仰による精神の「啓蒙」を表している。ロウソクの光と影の極端な対比、幾何学的な形体、そして瞑想的な雰囲気を持つこの作品はラ・トゥールの典型的な作例である。」 -
『女占い師』
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 1630年代
「富裕な青年は、4人の女性に取り囲まれている画面右端にいる老婆と、左から二番目にいる女性はロマだと思われる。占いは伝統的に旅芸人、特にロマと結び付けられることが多かった。老婆は運命を告げながら、青年からコインを取り上げている。その左隣の白い顔の女性は青年を横目で見ながら、メダイヨンのついた金鎖を切ろうとしている。一番左端の女性は、青年のポケットから金品をかすめとろうとしている。
盗みの情景とはいえ、すべての登場人物は優雅な衣服を身に着け、作品には空想的で現実離れした雰囲気がある。本作は、旧約聖書にある放蕩息子の寓話を示唆するものとして演劇の場面のように描かれたのかもしれない。」 -
-
ピカソ
自画像 -
パブロ・ピカソ(Pablo piccaso)
盲人の食事(The Blind Man's Meal) 1903
ピカソの青の時代
クリスチャンの肉と血を現すためのパンとワインを味わう儀式の聖餐式を再現
ピカソは彼の友人、フランスの詩人マックスヤコブ(Max Jacob)への手紙の中で絵を説明しています
「私は盲目の男を絵に描いている。彼は左手にパンを、右手にはワインの瓶を持っています。近くに犬がいる。 私はそれにはかなり満足している、それはまだ完了していません。」
2010年に行われた蛍光X線イメージング法によって
下に別の絵が描かれている事が判明 -
上の絵の下に描かれている絵
ピカソがこの絵の上に別の絵を塗り重ねたのは、
当時まだ経済的に苦労していて節約のため -
座る道化師
パブロ・ ピカソ 1901 -
十字架を担うキリスト
エル・グレコ
「画家の「十字架を担うキリスト」を主題とする作品は11-19点
刑冠のキリストは、男性的な美しい顔立ち、太く力強い頸筋、逞しい体躯、優美な手目に涙が光り、恍惚たる表情で天を見あげ、額と頸筋には血が滴っている
キリストは、神聖な真理を象徴するサファイアの青色と、神聖な愛を象徴するルビーの赤色の衣服を着て、重い十字架を軽く抱いている
このようなモティーフは見る者の感傷に訴えることが意図され、甘く感傷的で芝居がかってさえいる」 -
トレド眺望 El Greco 1597~99年頃
エル・グレコによる風景画の最高傑作
象徴的な都市景観を描いた美術
トレドの東部を北から見た景色が描かれています
その角度からは大聖堂が構図に含まれなかったため、エル・グレコは創意工夫により、場面を圧倒するアルカサル王宮の左側に大聖堂を配置しました -
眠る女
ヨハネス・フェルメール約1656 ~ 1657 年
若い女中がワイングラスの傍らでうとうとしているこの描写
倒れたグラスが描かれた前景とシワの寄ったテーブル クロスは、今しがた出ていった訪問者を示しているかもしれません -
テーブルクロスの美しい、シワ
-
『リュートを調弦する女』
『リュートを持つ女』
ヨハネス・フェルメール 1662年から1663年頃
若い女性が調律しているリュートと、床に置かれたヴィオラ・ダ・ガンバは、彼女がデュエットをする男性が訪れるのを心待ちにしていることを表していると考えられる
しかし散らばった唱歌集とさりげなく置かれたヴィオラ・ダ・ガンバは、出会いがすでに終わっていることを仄めかしており、窓の外を眺める女性は出発する男性の背中に目を向けている可能性がある -
『少女』
ヨハネス・フェルメール 1665年から1667年ごろ
「17 世紀のオランダの鑑賞者には異国情緒を感じさせたであろう衣装とコスチューム ジュエリーを身に着けた若い女性の顔を、柔らかな光が照らしている。フェルメールの有名な「真珠の耳飾りの少女」 (1665 年頃、マウリッツハイス美術館、ハーグ) と同様に、この絵画は依頼された肖像画ではなく、奇抜な衣装を身にまとった興味深い人物を描いた、いわゆるトロニーであった可能性が高い。」 -
《信仰の寓意》
風俗画で知られるフェルメールの全作品のなかで唯一の寓意画とされている。
キリストの磔刑の絵の前に座る女性は「信仰」の擬人像とされており、
地球儀を踏む動作はカトリック協会が世界を支配することを示唆するものと解釈されている。また、十字架、杯、ミサ典書、りんごなどのモチーフにも、宗教的なメッセージが込められている。 -
水差しを持つ女
Johannes Vermeer Dutch
1662年頃
開いた窓のそばに立つ女性は、金銀の水差しと洗面器で体を清め、衣服と髪をリネンのカバーで覆って一日を始めています。構図は穏やかな日々の営みというテーマ -
初めて見たフェルメールの絵はルーブル美術館の
『レースを編む女性』
フェルメールの絵の数が少ないだけに
一点一点がどれも安定して素晴らしい
画集やネット、写真で見るよりも本物は艶やかで輝いています
この小さな世界に吸い込まれるかのよう -
「花の神様 フローラ」
レンブラント 1654
レンブラント48歳頃に亡き妻サスキアを想いながら描いたのでしょうか
若い時に描いたフローラは、エルミタージュ美術館にあります(下の絵)
レンブラントの6歳年下の妻サスキアは21歳のときに嫁ぎ、4人の子どもを産み
4番目の息子ティトゥスが生まれた翌年、彼女は結核で亡くなります
レンブラントは彼女をモデルにした作品を多く残しています
このフローラは穏やかな表情ですが、寂しげ
横を向き、こちらを見ていない
花びらをのせた手を誰かに向かって差し向けています
↓エルミタージュ美術館のフローラと比べてみてください -
こちらがエルミタージュ美術館所属の
「フローラ」
モデルはサスキア
妊婦風ですが、当時セスキアは妊娠していません
レンブラントの願望でしょうか
この圧倒的な美しさ
気合いを入れて描いた時の半端なさ、凄すぎ -
『ベローナ』
レンブラント
ローマの戦争の女神 -
『女性の肖像』
レンブラント 1633
1630 年代のレンブラントの肖像画の多くと同様に、この絵のモデルの正体は不明です。アムステルダムに住んでいた10 年間、画家は肖像画の依頼を多く受け、ときどき助手を雇い、自分の作品の質にばらつきを生じさせながら作業に取り組みました。批評家の中には、この絵に協力者の手が加わっていると感じている人もいますが、顔の力強い造形、帽子の繊細な描写、表情の素直さは、レンブラント自身の特徴です。 -
扇子を持つ若い女性の肖像
レンブラント
1633
この生き生きとした肖像画には、夫が椅子から立ち上がる様子を描いたペンダント、つまり伴侶となる絵が描かれています (1633 年、タフト美術館、シンシナティ)。夫婦が一緒に描かれると、お互いに反応し合っているように見え、この 2 枚は 1630 年代初期のレンブラントの最も独創的な作品の 1 つとなっています。レンブラントは、劇的な歴史場面を描く画家としての初期の経験と、ライデン滞在中に表現と人物像を綿密に研究したことで、1631 年から 1632 年の冬にアムステルダムに到着し、アムステルダムで最も独創的で成功した肖像画家になることができました。 -
ヘルマン・ドゥーマー
レンブラント 1640
ヘルマン・ドゥーマーは、17 世紀のアムステルダムで流行していた輸入堅木材を扱う、成功した家具職人 -
ホメロスの胸像を見つめるアリストテレス
レンブラント
1653年
ギリシャの哲学者アリストテレスの肖像画
叙事詩人ホメロスの胸像に手を置き
アレクサンダー大王を描いた大メダルを金の鎖から下げています
シシリアの収集家アントニオ・ルッフォのために描かれた作品です -
-
『自画像』レンブラント1660年
レンブラントの40点を超える自画像のうちの1枚
54歳「しわの寄った眉と心配そうな表情、彼の心の悩み」が見られる作品
彼は破産宣告を受けたばかりで、美術品のコレクションは競売にかけられ
彼の生徒や友人たちは彼から距離を置き、アトリエも失い
でも彼の目は負けていない、輝いています -
『穀物の収穫』ピーテル・ブリューゲル1565年
7月か8月、または晩夏の収穫時期を描いたもの
1年の異なる時期を描いた「季節画」6連作(5点が現存する)のうちの1点
16世紀のヨーロッパでは絵画といえば宗教画や神話に関するものが一般的でした
ブリューゲルは農民を描き、その表情や動きは緻密で、瑞々しさが感じられます -
左端のおじさん、寝てる 笑
のんびり朴訥な雰囲気 -
近世オランダ人女性による
マルガレータ・ハフェルマンの「花瓶」 -
聖母子
Duccio di Buoninsegna
1300年頃
シエナの巨匠ドゥッチョによるこの逸品は、聖母マリアと聖子を現実の視点から表し始めた西洋美術変革の時代の代表作
彼は絵画を神聖なる存在の象徴として捉えたビザンチン様式から離れて、絵の中の人物像に新たな人間性を見い出し、母子間の精神的な関係の模索を試みています -
シェナ、いいわぁ
-
受胎告知
アンブロージョ・ロレンツェッティ 1344年
シエナ市の税務署(Ufficio della Gabella)のために描かれたもの -
昔の美術館の外壁 右の茶色の壁
ここが道路に面していて、
馬車が乗り付けたセレブの方々がここで降りて
美術館に入りじっくりと芸術品を鑑賞したのでしょう
一般ピープルが鑑賞できる時代に生まれたことを感謝しています -
『パンジー』
アンリ・マティス 1903年頃 -
『金蓮花と《ダンス》』
Henri Matisse 1912年
パリ南西のイシー・レ・ムリノーにあったマティスのアトリエの様子を描いたこの作品は、彼がモロッコでの長期滞在からフランスに戻った1912年に制作されたものです。構図では左側に木製の肘掛け椅子の右半分が描かれ、右側には金蓮花を生けた花瓶が三脚テーブルに置かれています。背景全体に配置された人物群は、この作品のタイトルに《ダンス》とあることから分かるように、ニューヨーク近代美術館所蔵のマティスによる油彩の大作《ダンスI》(1909年)の一部が描かれています。マティスはこの主題で同サイズの作品を2点制作し、1作目であるこの作品がスケッチ風で明るい色使いであるのに対し、2作目(モスクワ、プーシキン国立美術館蔵)は情熱的な色彩で、背景に《ダンスII》(1909-10年、エルミタージュ美術館収蔵)を描いています。 -
Laurette in a Green Robe, Black Background
Henri Matisse 1916年
緑のローブを着たローレット、黒の背景
「マティスの作品は、テーマの再利用と繰り返しを基本としていました。1 つの主題を次々に描く場合でも、時間をかけて描く場合でも、彼はアイデアを洗練させ、バリエーションを模索しました。このキャンバスは、1914 年から 1917 年の間に制作された約 50 点のうちの 1 点です。このとき、マティスはローレットというイタリア人モデルと仕事をしていました。ローレットは、気分や衣装を劇的に変える能力を持っており、マティスが戦時中のキュビズム風のキャンバスから、戦後の芸術的伝統への関心をより反映する自然主義的な作品へと芸術的に移行する際に重要な役割を果たしました。この凝縮された構図で、マティスはローレットの姿を温かみのある黒で包み込みました。マティスはこれを「闇の色ではなく光の色」として使用しました。」 -
『座ったオダリスク』
アンリ・マティス 1926年
「1920 年代半ばにマティスのスタジオで撮影された写真には、北アフリカの織物が家具に掛けられ、壁に掛けられ、間に合わせの舞台セットに組み入れられ、オダリスク風の衣装を着たモデルたちの背景として使われていた様子が写っている。オダリスク風の絵画についてインタビューを受けたとき、マティスは織物が「女性の裸体に相当する役割を果たしている」と強調した。」 -
『灰色のズボンをはいたオダリスク』
アンリ・マティス 1927年 -
『メーダ・プリマヴェージ』
Gustav Klimt
1912年
正面を向いて真っ直ぐに立つメーダ
9歳の少女のはつらつさが表れています
真っ直ぐにこちらを見つめる目力の強いこと強いこと -
セレナ・レーデラーの肖像
クリムト -
『役者』
パブロ・ピカソ -
テテ・ド・ファム、1903 年
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壺、カップとりんごのある静物
Paul Cézanne 1877年頃
1870年代のセザンヌは、静物画を中心に制作しました -
リンゴの皿
ポール・セザンヌ 1876年頃~1877年頃 -
ジャ・ド・ブファンのプール
ポール・セザンヌ
1885年頃~1886年頃
セザンヌがエクス近郊の家族の領地、ジャ・ド・ブファンに抱いていた愛情は、彼が四半世紀にわたってこの土地を描いた多くの風景画に反映されています。彼はこの構図の右下にある道を、1880年代半ばに何度か描いています。栗の木々に囲まれたこの道は、18 世紀の家の裏から庭園へと続いています。その区画を区切る柵の近くには、水を溜める池と、中景に見える洗濯桶があります。池の両側にはライオンの形をした水門があり、そのうちの 1 つを後ろから見ることができます。 -
赤いドレスを着たセザンヌ夫人
ポール・セザンヌ
1888
「セザンヌが描いた、赤いショールカラーのドレスを着た妻を描いた 4 枚の肖像画のうち、凝った家具が置かれた室内で妻が描かれているのは、この 1 枚
背の高い黄色い椅子に座り、彼女の体に合わせて曲がり、体重に合わせて移動するように見える支柱の間に挟まれたセザンヌ夫人は、傾いた空間的に複雑な構成の要となっています。まだら模様の青い壁、羽目板の縁の濃い赤の帯、左側の暖炉の上の鏡から、この背景が、セザンヌが 1888 年から 1890 年にかけてパリのアンジュー通り 15 番地に借りていたアパートであることが分かります。」 -
カードプレイヤー
ポール・セザンヌ 1890-92
「セザンヌは50代の頃、カラヴァッジョやシャルダンのような画家にインスピレーションを与えた主題に、記憶に残る形を与えることに専念した絵画制作活動に着手した。彼は最初から、この力強いプロヴァンスの風景に見られるように、それを自分のものにしようと決心していた。セザンヌは地元の農夫を描いた人物習作からこの構図を注意深く作り上げた。構想を練り終えると、トランプ遊びをする人々のポーズや位置を微調整し続け、彼らの後ろの壁に掛かっている4本のパイプのように、それぞれが完璧に収まるまで続けた。セザンヌはここで得た静かな威厳を、はるかに大きな作品(バーンズ財団、フィラデルフィア)に注ぎ込み、無関係な詳細をそぎ落として2人の遊び人に視線を集中させた3つの作品で連作を強調した。」 -
リンゴとサクラソウの鉢のある静物画
ポール・セザンヌ
1890年頃
「セザンヌは、花の咲いた植物や切りたての花束をほとんど描きませんでした。それらは、彼がじっと見つめると枯れてしまうからです。鉢植えの植物は、静物画 3 点、家族の邸宅であるジャス ド ブッファンの温室の風景 2 点、そして 20 年 (1878 年頃から 1906 年頃) にわたって描いた 12 点ほどの美しい水彩画にのみ描かれています。セザンヌは、このテーブル (波型のエプロンと特徴的な湾曲した脚) を、1890 年代の静物画の最高傑作 3 点のために取っておいたようです。
この絵画は、クロード モネが所有してました -
リンゴとナシの静物画
ポール・セザンヌ
1891年頃~1892年頃
セザンヌはかつて「リンゴでパリを驚かせたい」と宣言し、一見すると最もシンプルな静物画でさえ、人々を魅了し喜ばせることに成功しました。エクス近郊の家族の土地の周辺で栽培されているプロヴァンス産のリンゴとブール ディール梨に目を向けると、セザンヌは伝統的な一点透視図法を捨て、果物、皿、テーブルを正面、上、横などさまざまな視点から観察しました。 -
座る農民
ポール・セザンヌ
1892年頃~1896年
この物思いにふける人物習作の雰囲気と色彩は、トランプ遊びをする男性たちを描いたセザンヌの有名な一連の絵画を彷彿とさせます。この人物はこれらの絵画のいずれにも登場しませんが、トランプ遊びをする男性たちのモデルたちと同様に、エクスアンプロヴァンスにあるセザンヌ家の屋敷、ジャス ド ブッファンの労働者の 1 人であったことは間違いありません。 -
ポール・セザンヌ、水差しとナスのある静物画
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The Bay of Marseille seen from L'Estaque
ポール・セザンヌ -
エドゥアール・ヴュイヤール
1895 -
『曇り日のグランド・ジャット島』
ジョルジュ・スーラ -
『ジャレの丘』
ピサロ 1867
ポントワーズに17年住み、フランスの田舎風景を描きました -
A Cowherd at Valhermeil, Auvers-sur-Oise
Camille Pissarro
1874 -
『コート・デ・グルエット、ポントワーズ近く』
カミーユ・ピサロ
おそらく1878年 -
The Garden of the Tuileries on a Winter Afternoon
カミーユ・ピサロ
1899年 -
Rue de l'Epicerie、ルーアン (日光の影響)
カミーユ・ピサロ
1898
1898 年にルーアンを 4 度目に訪れたとき、ピサロは「すでにこの地のモチーフに精通していた」。この画家は、以前に取り組んだのと同じ都市の風景を多く描いたが、この絵のような新しいシーンも模索した。8 月 19 日、彼は息子のリュシアンに次のように書いている。「昨日、エピスリー通りや、毎週金曜日に開かれるとても興味深い市場まで描くのに最高の場所を見つけた。」ピサロはこの風景を 3 回描いたが、メトロポリタン美術館の絵は、市場の様子を描いた唯一のものである。 -
The Boulevard Montmartre on a Winter Morning
カミーユ・ピサロ -
ラパン・アジルにて
Pablo Picasso 1905年
パリのボヘミアン(自由奔放な芸術家たち)の生活を
モンマルトルのキャバレーの装飾用として描いた
1905年から1912年まて継続的に展示されたそうです
ピカソは生涯アルルカンを自分の分身として描きましたが、
これはその最初の作品でしょう -
ルーアン大聖堂:ポータル(日光)
クロード・モネ 1894
モネは 1892 年から 1893 年にかけて、ルーアン大聖堂の風景を 30 点以上描きました。毎日キャンバスに彫刻された石の様相を伝え、雰囲気と光をはっきりと感じさせる非常に質感のある筆遣いでファサードを描きました。モネは後にジヴェルニーのスタジオで作品を完成させましたが、その際、絵を個別に、また互いの関係で注意深く調整しました。そのため、ほとんどの作品に 1894 年の署名と日付が入っています。1895 年、モネはパリのデュラン リュエル画廊で大聖堂の絵画 20 点を展示しました。この絵には「Le Portail (Soleil)」、つまり「The Portal (Sunlight)」というタイトルが付けられました。 -
「睡蓮の池に架かる橋 Pond of Water Lilies」
1899 モネ -
「睡蓮 Water Lilies,Reflections of Weeping Willows」
モネ 1918年
白内障を患っている頃のモネの睡蓮 -
菊 モネ
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ひまわり モネ
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干し草の山(雪と太陽の影響)
クロード・モネ 1891年
1890 年から 1891 年にかけて、モネはジヴェルニーの自宅近くの畑の干し草の山を題材にした絵画を 30 点ほど制作しました。この作業の途中で、評論家のギュスターヴ ジョフロワに次のような手紙を書いています。「私は一生懸命に作業しています。一連の異なる効果 (干し草の山) に苦戦していますが、この季節は日が沈むのが早すぎて追いつけません。... 作業を続ければ続けるほど、求めているものを表現するには膨大な作業が必要であることがわかってきます。」干し草の山は、モネがシリーズとして展示した最初の絵画群です。1891 年に15 点がパリのギャラリー デュラン リュエルで展示されました。 -
モネ
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モネのジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝
(Morning on the Seine near Giverny)
モネは太陽が上がったときに、光が変化する効果を描くために、長い間、早朝3時半に家を出て制作場所となるこの合流地点に向かったそうです。 その後、21点から構成されるにキャンバスを並べて21点から構成されるシリーズとして完成させました。
ボストン美術館にも同じシリーズありました -
4本のポプラ
モネ 1893 -
ティーポットとフルーツのある静物画
ポール・ゴーギャン 1896年
ゴーギャンが最も大切にしていた作品の一つは、セザンヌの絵画『果物皿のある静物画』(1879-80年、現在はニューヨーク近代美術館所蔵)
この作品ではそれを模倣している
ゴーギャンはセザンヌのリンゴをマンゴーに、
フランスの花柄の壁紙デザインをタヒチ風のプリント生地に置き換えている
大きな違いは、ドアか窓から覗く右上の人物像
この作品を完成させた翌年、ゴーギャンは金銭面で困窮し、大切にしていたセザンヌの絵を売却した
下の絵がセザンヌの絵画『果物皿のある静物画』
(1879-80年、ニューヨーク近代美術館所蔵) -
セザンヌの絵画『果物皿のある静物画』
(1879-80年、現在はニューヨーク近代美術館所蔵)
ゴーギャン、絶対売りたくなかったでしょうに -
『3人のタヒチ人女性』
ポール・ゴーギャン 1896年
この絵には、画家のメモが添えられていました
「私の作品を収集しているコレクターの方へ
この小さな絵の粗野さをお許しください
おそらく私の魂の状態が原因でしょう
古くなっても新鮮さを保てるよう、質素な額縁、できればガラス付きの額縁をお勧めします..」
なんと謙虚な -
『糸杉のある麦畑』
Vincent van Gogh
1889年
サンレミの精神病院に入院していた1年間、ゴッホは糸杉とオリーブの木が点々と生えるプロヴァンスの田園風景を描いた一連の絵を手がけました。1889年7月2日に弟のテオに宛てて書いた手紙で6月に描き始めた最新作について「糸杉と少しばかりの小麦、ケシの花、青い空があり、多彩なスコットランドの格子縞のようで、アドルフ・モンティセリの絵のように絵具を厚塗りした」と説明しています。ゴッホはこの日差しの降り注ぐ風景画を自分の夏の絵の「最高作」と評価し、同じ構図で3点制作しています。それはアシべンによる素描(アムステルダム、ゴッホ美術館蔵)と、その秋に描いた油彩2点(ロンドン、ナショナル・ギャラリーと個人コレクション蔵)です。 -
ゴッホ「バラ」
ゴッホはあまりバラを描かない作家でしたが
療養所で暮らしたサン=レミ時代
長く苦しい療養所での生活を終える頃に
退院直前の回復の喜びをこのバラで表現しました
元々はもうちょっとピンクぽい感じだったそうです
喜びの表現ですから、楽しげで明るい色だったのでしょう
それが見れず残念な気持ちもありますが
この白いバラが清くて好みです -
ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女
ゴッホ
同名の作品は5点
ボストン美術館でも鑑賞しました -
-
イア・オラナ・マリア (アヴェ・マリア、マリア礼賛)
Paul Gauguin 1891年
ポリネシアの信仰に基づく一連の作品に着手する前に、タヒチで最初の大作にキリスト教の題材を取り上げました
1892年3月の手紙で次のように説明しています
「黄色い羽のある天使がパレオと呼ばれる花模様の綿の腰巻をしたタヒチ人の裸女ふたりに聖母マリアとイエスを啓示する
背景にはとても暗い色の山々と花を咲かせた木々がある」
この作品の題名は、天使ガブリエルが受胎告知で聖マリアに言った最初の言葉を示唆し、「イア・オラナ」はタヒチ語で同じ意味を表しています -
歩き始め ゴッホ
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『暖炉のそばで料理をする農民の女性』
ゴッホ 1885年
この作品は、ゴッホが「ジャガイモを食べる人々 」(ゴッホ美術館)を完成させた直後の1885 年の晩春にヌエネンで制作されました
「皮をむいていない、ほこりっぽいジャガイモ」を思い起こさせる同じ暗い色調で描かれています -
『麦わら帽子をかぶった自画像(表面:ジャガイモの皮むき器)』
フィンセント・ファン・ゴッホ 1887
ゴッホはパリ滞在中 (1886-88) に 20 点以上の自画像を描きました
人物画家の腕を磨くことを決意し、資金不足のため自分自身をモデルにしました
「自画像を描くのに十分な大きさの鏡を買いました。」
習作の絵の裏に描かれた数点のうちの 1 点です -
2本の切ったひまわり
フィンセント・ファン・ゴッホの絵画 1887
ゴッホ34歳、この時期に切り捨てられた2本のひまわりの習作をいくつか描いており
本作はそのうちの1点です
鮮烈で印象的な存在感をもつ、このひまわりは「喪失」と「犠牲」の象徴
そこに宗教的な意味が込められています -
『アルルの女(ジヌー夫人)』
1888年から1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
モデルは、ゴッホが出入りしたフランス・アルルのカフェの経営者 -
糸杉 1889
フィンセント・ファン・ゴッホ
フランス田舎の糸杉の木
サン=レミのサン=ポール精神病院に入院していた時に描かれた作品
ゴッホは糸杉を「エジプトのオベリスクのように線と比率が美しい」と評している -
アイリス ゴッホ 1890
1890年5月、ゴッホはサンレミの療養院を退院する直前に、
アイリス2枚と薔薇2枚、計4枚の花束を描きました -
『ライオンの食事』
アンリ・ルソー -
『ビセートル近郊のビエーヴル川のほとり』
アンリ・ルソー
1908年頃~1909年頃 -
『ジョルジュ・シャルパンティエ夫人とその子供たち』
Auguste Renoir
1878年
初回から第3回までの印象派展に出展したルノワールは、1879年の第4回への参加をやめて、その代わりに毎年行われる伝統絵画を重んじるサロン・ド・パリでこの作品を展示し、大好評を博しました
当時の流行に従い3歳になる息子は髪は切られておらず、左手の愛犬の上に座っている姉とお揃いの服を着ています
この絵が認められ、絵の依頼が増えてお金を得ていったのでしょう -
-
花とウチワサボテンのある静物画
オーギュスト・ルノワール
1885年頃
この絵は、同じ花瓶(特徴的な象の頭の取っ手付き)と木製のテーブルまたはドレッサーを描いた「静物画:花」(1885年、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)と密接な関係があります。秋の花束とセザンヌ風のウチワサボテンの配置が特徴のこの静物画は、おそらく同年、その夏にセザンヌを訪ねた後に描かれたものと思われます。この頃、ルノワールは印象派の明るさとより高度な古典主義を融合させようとし、イタリアのフレスコ画の乾いた明るい色調を模倣する技法を模索するようになりましたが、その結果、表面にひび割れが生じています。 -
A Waitress at Duval's Restaurant
ルノワール -
桃の静物画
オーギュスト・ルノワール 1881
1882 年の印象派展の評論家たちは、この「非常に魅力的な」静物画に魅了されました。「ベルベットのような仕上がりがトロンプ ルイユに近い『桃』のフルーツ ボウル」です。前年の夏にルノワールのパトロンであるポール ベラールの田舎の家で描かれたこの静物画は、同じファイアンス製の植木鉢を特徴とする 2 点の静物画のうちの 1 点です。 -
『ピアノの前のカテュール・マンデスの娘たち』
ルノワール 1888年
フランスの詩人・小説家のカテュール・マンデスの娘たちが描かれています
全員愛人オルメスとの子? -
-
『ラ・グルヌイエール』
(La Grenouillère)1869年
クロード・モネ
パリ近くブージヴァル近郊セーヌ川の河畔にある新興行楽地であった水浴場
モネとルノワールはラ・グルヌイエールで水面に反射する太陽光をどのように表現するかに熱中
モネは、ゆらめきや光によって様々な色を見せる水面に興味を持ち、水面のさざ波の中の反映を縞模様として描き
ルノワールの興味は人で、にぎやかで幸せなひとときを描いています -
「ひなげしの小道」
モネ 1880年
「イル・サン・マルタンの小径」
イル・サン・マルタンはセーヌの中州にあり、かつてはここで妻のカミーユと二人の息子を描いた思い出の地(前年に妻は亡くなる)
作品には明るい初夏の香りが漂っている -
『 ポプラと草原の散歩道 』
クロード・モネ -
『朝日を浴びるサハーズ・メドウズ』
アルフレッド・シスレー
1894
シスレーは 1894 年の夏を、友人でありパトロンでもあった裕福なノルマン人の実業家フランソワ・デポーの邸宅があるル・メニル=エナールで過ごしました。滞在中、シスレーはルーアンに隣接するコトー・ド・ラ・ブイユとサウールの牧草地の風景を 7 点描きました。デポーはこの作品を含む 5 点の絵を購入しました。 -
『ソファに座る若い女性』
ベルト・モリゾ 1879年頃
モリゾがパリのアパルトマンでこのモデルを描いた頃、ある賞賛する評論家は「彼女はパレットに花びらをすりつぶし、それを後でキャンバスに軽やかでウィットに富んだタッチで広げる。生き生きとして繊細で魅力的な作品を生み出す」と書いている -
ドガ
-
『ダンサー、ピンクとグリーン』
エドガー・ドガ 1890年頃
厚く塗り重ねられた表面から、ドガがこの絵に直接、筆と指で油絵の具の層を積み上げたことがうかがえる
色を白と混ぜて不透明にし、顔料を厚く何層にも重ねて塗ることで、1880 年代に完成させたパステル技法に近づいた
ドガは、パリ オペラ座の常連客で、公演中に舞台袖でダンサーたちと戯れる特権を享受するトップハットをかぶった人物の影の横顔を構図に強調している -
『バーで練習するダンサー』
エドガー・ドガ 1877年
左に見えるじょうろは、バレエのリハーサル室の標準的な備品で
バレリーナが踊るときにほこりが舞い上がらないように床に水をまきました
ドガは、じょうろを視覚的なダジャレとしても使用、その形が右のダンサーの形に似せられています
1877 年の印象派展で展示されたこの絵は、ドガがコレクターのアンリ・ルアールに贈ったものです -
「悪魔のロベール」よりバレエ
エドガー・ドガ 1871年
ジャコモ・マイアベーアのオペラ『悪魔のロベール』は40年を経て、その古さを感じていた。中央の男性が、演技に無関心で双眼鏡を観客に向けていることからもそれがわかる。しかしドガはこのオペラが好きで、特にこの絵に描かれている第3幕のシーン、修道女たちが死から蘇り、月明かりに照らされた修道院の廃墟の中で魅惑的に踊るシーンが好きだった。この絵は1872年初頭に展示され、その日付がキャンバスに刻まれている。ドガは後に、オペラで主演したジャン=バティスト・フォールのために、より大きなバージョン(ロンドン、ヴィクトリア&アルバート博物館)を制作した。 -
『ダンス教室』
ドガ 1874年 -
『リハーサル室でコントラバスを弾くダンサーたち』
エドガー・ドガ 1882年頃~1885年頃
ドガは、20 年にわたり40 以上のリハーサル シーンを制作し、細長いフリーズ形式を採用しました。これは、そうした作品の最初の 1 つで、その前には「ダンス レッスン」(1879 年頃、ワシントン国立美術館) がありました。ここでは、前景の斜めの壁が、コントラバスと、スリッパの紐を結ぶためにかがんでいる座っているダンサーの印象的な並置を引き立てています。 -
『舞台稽古』1874
舞台の上の華やかなバレリーナたち。多くの人に親しまれている印象派の画家、エドガー・ドガの《舞台稽古》である。舞台右側の少女たちは、本番を直前に控えて緊張する舞台稽古の最中である。指先まで神経が行き届いた優美な動きを見せている。一方で、舞台左側の少女たちは、欠伸をしたり、かがんでトウ・シューズを直したりと休憩中の無防備な表情を見せる。
しかし彼女たちが目指すのは、必ずしもバレエで成功することではない。19世紀後半のフランスにおけるバレエ産業は斜陽の傾向にあった。また彼女たちの多くは芸術としての舞踊を志しているのではなく、日々の生活費にも事欠く貧しさのなかで、パトロンを探す手段の一つとして舞台で踊る、といった側面も少なからずあったのである。 -
『舞台のバレエ稽古』その2
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『The Dance Lesson』
ドガ -
マドモアゼル イザベル ルモニエ
エドゥアール・マネ
1879-82
イザベル・ルモニエはパリの成功した宝石商の娘で、マルグリット・シャルパンティエの妹でした。ルノワールによるシャルパンティエの壮大な肖像画もメトロポリタン美術館のコレクションに収められています
マネは 1879 年から 1882 年にかけて、イザベルの肖像画を数点描きました。
マネはイザベルをとても気に入っていたようです。1880 年の夏、マネは彼女に魅力的な水彩画のスケッチで飾られた一連の手紙を送りました。 -
中国の花瓶に入った花束
オディロン・ルドン
1912年頃~1914年頃
ルドンは様々な花瓶を所有しており、妻のカミーユはそれらを使ってルドンの晩年の静物画の題材となった花束を生けた。この作品に描かれた繊細な模様の白い花瓶は、メトロポリタン美術館所蔵の1906 年頃の「花瓶に飾った花 (ピンクの背景)」 (59.16.3) など、他のいくつかの絵画にも登場している。 -
マダム・アーサー・フォンテーヌ
オディロン・ルドン
1901
マリー・エスキュディエ・フォンテーヌは、パリの裕福な実業家で芸術パトロンの妻でした。彼の交友関係には、アンドレ・ジッド、クロード・ドビュッシー、ヴュイヤールなど多くの作家、音楽家、芸術家がおり、ヴュイヤールはマリー・エスキュディエ・フォンテーヌの肖像画を 2 度描いています。ルドンはこの肖像画を、フォンテーヌ夫妻がルドンの妻を訪ねて 1901 年 9 月にフランス南西部の海岸にあるサン・ジョルジュ・ド・ディドンヌの海辺のリゾート地に来た際に、パステル画の最高傑作の 1 つとして描きました。 -
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ルドン
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ルドン
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シャガール「リラの花の中の恋人たち」
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『ジャンヌ・エビュテルヌ』
アメデオ・モディリアーニ
1919
生前はパリ以外ではほとんど知られていなかったモディリアーニは、現在では20世紀初頭の最も偉大な具象画家の一人として認められています。彼の特徴的なヌードや、モンマルトルの活気ある芸術コミュニティの友人の肖像画には、彼特有の大胆な輪郭、長い楕円形の顔、細長い体の使い方が表れています。
イタリアでユダヤ人の両親のもとに生まれたモディリアーニは、1906年にパリに移り、モンマルトルの活気ある芸術コミュニティに参加しました。そこで彼は、当時パリで流通していたアフリカ美術の形式的な特質を取り入れ、新しいモダニズムの芸術形式を推進していた芸術家パブロ・ピカソとコンスタンティン・ブランクーシに出会いました。モディリアーニの作品の簡略化された性質は、これら2つの影響と、彼がフィレンツェとヴェネツィアで美術学生として学んだイタリアのルネサンス古典絵画に対する彼の賞賛によるものです。
ジャンヌ・エビュテルヌ (1898?1920) は、1917 年 3 月にモディリアーニと出会ったとき、まだ若く芸術家を目指していた。二人は恋に落ち、コート・ダジュールに移り住み、そこでジャンヌは娘を出産した。1919 年 5 月にパリに戻った後、アルコールと薬物の乱用、貧困、幼少期の苦悩により、モディリアーニの健康は悪化した。この芸術家は 1920 年 1 月 24 日に亡くなり、2 人目の子供を身籠っていたジャンヌはその 2 日後に自殺した。
この悲劇的に短いパートナー関係の間に、モディリアーニは 20 回以上エビュテルヌを描き、典型的には彼女の豊かな赤褐色の髪と青い目を強調した。これらの繊細な肖像画は、この芸術家の最もよく知られた作品の 1 つである。ここでは、白いシュミーズを着た彼女が大きな椅子に優雅に座っている非対称の構図とモデルの細長い体型は、モディリアーニが 16 世紀イタリアのマニエリスム絵画を引用したことを証明しており、これらの特徴を取り入れて誇張された優雅さを実現しています。 -
マントルピースの上のギターとクラリネット
パブロ・ ピカソ 1915
「私の人生は地獄だ」と、ピカソは 1915 年 12 月に愛人エヴァ・グエルが亡くなる直前にガートルード・スタインに書き送った。ピカソはエヴァの健康、戦争、軍隊にいる友人、フランスにおけるスペイン国籍の身分などに気をとられていたため、その年の作品数は少なかった。パリに残っていたピカソの友人は、彼が具象肖像画に進出したことに魅了されていたが 、モンパルナス墓地を見下ろすショルシェール通りのスタジオに、大きなキュビズムの構図があることに皆が注目していた。おそらく戦争のため、キャンバスはスタジオに残され、ピカソはそこで修正を続けた。この構図は数え切れないほど何度も描き直され、くすんだ茶色と灰色のパレットから、冷たく鮮やかな色調のパレット、そして最後に、エヴァの衰退に対するピカソの絶望を連想させる暗い色調へと移り変わっていった。
ピカソはマントルピースの上に多くの静物画を描いたが、これはおそらく彼の最初の作品だろう。彼は無生物の擬人的側面を強調し、マントルピースの頬を足として読み取らせ、楽器を男性と女性の解剖学と関連付けるように促している。ピカソは明らかにこの作品を重要な作品とみなしていた。彼は制作中の写真を撮っただけでなく、後にこの絵をフォンテーヌブローにある田舎の家に掛け、1930 年まで保管していた。 -
マティス
ライラックの花 -
『名和晃平氏の PixCell Deer』
輝く鹿
この作品を見るために日本のスペースに行きました
メトロポリタン美術館に行かれたら是非 -
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神々しい
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『オイディプスとスフィンクス』(仏: Œdipe et le Sphinx)
フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローが1864年に制作した絵画 -
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エントランスの像
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豪華なクリスマスツリー
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メトロポリタン美術館から徒歩5分の
ノイエギャラリーへ
館内撮影禁止のため
写真は全て美術館ホームページとGoogle mapからの転用です -
一瞬、通り過ぎてしまいました
ノイエギャラリー
違和感なく通りに溶け込んでいます -
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』
(Portrait of Adele Bloch-Bauer I)
グスタフ・クリムト 1907年
本作の返還を題材にした映画を見ました
『黄金のアデーレ 名画の帰還(Woman in Gold)』2015年 -
この絵はウィーンの銀行家で実業家のフェルディナント・ブロッホ=バウアーの妻、アデーレをモデルに描いており、彼の注文により同地で描かれました
フェルディナントは製糖業で富を得た裕福な実業家であり、多くの芸術家のパトロンとなっていて、クリムトもその一人
1912年には『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II』を描いています -
『踊り子』 1916-17年(未完成)
1912年、ウィーンの実業家アレクサンダー・ムンクとその妻アランカは、グスタフ・クリムトに娘リアの死後の肖像画を描くよう依頼しました
クリムトが最初に依頼を遂行しようとした作品は、ムンク夫妻に拒否されました
一説によると、 「踊り子」 はクリムトの2番目の作品の改訂版だと言われています
このキャンバスでは、人物と背景が、花飾りの複雑な重なりの中で、ほとんどシームレスに溶け合っています
女性の着物は、テーブルの上の豊かなアネモネの花束と、彼女の後ろにあるモザイクのような花の光輪を結びつけています
背景と前景が表面で融合しているように見え、構図の印象が平坦に
絵の下3分の1は未完成のままです
木炭で描かれた下絵が部分的に残っており、1918年に彼が亡くなった時点で絵は未完成でした
それでも、「踊り子」は 、クリムトの最も複雑で興味深い構図の1つです
これは米国に渡った最初のクリムトの絵画であり、
1922年に5番街にオープンしたウィーン工房のニューヨーク支部で展示されました -
クリムトの風景画も展示あります
少ない写真の数とは反比例して感動100倍です
ニューヨークに来れて本当に良かった -
ノイエギャラリーの素敵なミュージアムショップで絵葉書を買いました
ここの写真はギャラリーホームページから転用、撮影禁止です
鑑賞後に徒歩で地下鉄駅へ移動し、ホテルに帰りました
地下鉄駅を探して迷子になり
さらにアップタウン、ダウンタウンが理解できてなくて迷子
地下鉄のホームでも、どっち方面に乗っていいかわからず
知らない方に道を聞いてなんとかなりました
迷うと焦るし、疲れているし
夫とも険悪な雰囲気
旅あるある -
夕飯はホテルの部屋で
ホテル近くのシェイクシャックからテイクアウト
iPadのような機械で注文、支払い
レシート持って受け取り
小ぶりのハンバーガーを一個では足りなくて
持参したカップそばを食べました
夜ヒルトンホテル駐車場前で待ち合わせ
夜景ツアーに参加
夜でたいへん気温は低いけど、興奮していてあまり寒さを感じず
ニューヨークの夜景は最高でした
ガイドさんのおしゃべりも面白く
帰りはホテルの前でおろしてもらい楽々ツアーでした -
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ハミルトンパークから見たマンハッタン島
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