2024/11/11 - 2024/11/11
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たびたびさん
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今回の旅の主目的は、六波羅蜜寺の十一面観世音菩薩立像の御開帳。七つの国宝十一面観音像を巡る旅もこれがフィナーレです。ただ、それだけでは当然もったいない。何を加えるかということで、すんなり出てきたのは湖西の散策二日間。滋賀はしばらくの重点エリアですから、こんな機会を利用しない手はありません。そして、最後に思いついたのが正倉院展。ちょうど開催期間中だし、かなり久しぶり。やっぱり博物館の企画展で正倉院展は最高峰。いろんな企画展があっても当たり外れがありますが、正倉院展だけはそんなことはない。聖武天皇と光明皇后の物語の背景があるし、シルクロードを伝わって来た文化を背景にした国際色豊かな御物の美しさは他の追従を許しませんからね。そんなところで、まあまあうまく四日間の旅が仕上がりました。
順番としては、回りやすさも考えて、六波羅蜜寺は最終日にして、初日は正倉院展。そこからJR奈良線沿線。井手や城陽というこれまで機会がなかったエリアを訪ねて、その日のうちに京都経由で湖西へ。マキノの宿に入ります。
では、まずは正倉院展のこと。2024年は、第76回正倉院展。一番の目玉は、七宝細工の鏡「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」です。七宝は、金属の素地にガラス質の釉を焼きつけて装飾する技法のことですが、これは銀に焼き付けたものということですね。文様は、大小18枚の花弁からなる宝相華文。仏教の匂いもそれなりに感じさせるものではあるのですが、強烈な印象となるのは、むしろその色調でしょう。濃い緑と褐色にその間を埋める紺色。華やかさと重厚感のある渋さもあって、唐三彩とも共通する感覚かな。このカラーセンスもそうですが、七宝もガラス質の技術ですから、たぶん西アジアからのものでしょう。そもそもガラスはメソポタミアが発祥ですし、エジプトだとファイアンス。西アジアには長い伝統があります。いずれにしても、この時代だと鏡と言えば銅鏡とか漢鏡とか言われる青銅製の鏡が一般的だったはずで、そんな中に生まれた突然変異のような鏡です。唐で作られたのではないかとされていますが、当時は目新しい七宝の最高技術をこうした形で結集させたということでしょう。それと併せて、今回目を見張ったのは、撥鏤尺(ばちるのしゃく)。象牙を赤く染めて文様を彫るというのが撥鏤の技法。その技法で作ったものさしなんですが、鮮やかな赤の美しさが今でも瑞々しくて、本当に素晴らしいものでした。七宝の技術も撥鏤の技術もその後に日本で根付くことはありませんでしたが、材料の入手の困難さに加えて、もしかしたら美的な趣向もあったのだろうと思います。日本の伝統工芸だと漆器や木製彫刻、陶磁器が保守本流。ガラス製品も定着したのは西洋式の生活様式が入ってきた明治以降だと思います。やはり、正倉院の御物は特別。ほかに類例はありません。
そして、その後の街歩きでは、橘諸兄のこと。井手は、橘諸兄の館があったゆかりの地なんですね。ちなみに、橘諸兄は、最高権力者として聖武天皇を支え、吉備真備の抜擢も含めて当時は橘諸兄政権ともみなされる体制の実力者。藤原広嗣の乱やその影響とも言われる恭仁宮への遷都にも対処し、活躍します。権力の背景には、光明皇后が橘諸兄の異父妹だったという関係もありますが、むしろこうした関係は藤原不比等を中心に考える方が分かりやすい。即ち、藤原不比等は、大化の改新の功臣、藤原鎌足の息子であり、後継者。持統天皇のもとで大宝律令の制定を含めて獅子奮迅の働きをするなど、藤原家のトップに相応しい能力抜群の人物でした。天智天皇の落胤とも言われる謎めいたところも魅力ですね。また、天武天皇系の天皇との関係もしっかり築いて、その結果、娘は持統天皇の孫で希望の星だった文武天皇の中宮となり、その子が聖武天皇。光明皇后も娘ですが、これは後妻の子。ですから、不比等からすると聖武天皇と光明皇后は、孫と娘の関係です。そして、不比等の後妻が前の夫との間に設けていたのが橘諸兄。橘諸兄は、義理の息子ということになりますね。なお、不比等には藤原四兄弟という立派な後継者がいたのですが、次々と天然痘に倒れてしまい、もうカードが橘諸兄くらいしかいなかったという状況もあったようです。聖武天皇と光明皇后は、天平文化が大きく花開いた時代ですが、実は不安な要素も少なくない。結局、盤石と思えた天武天皇系の系譜も聖武天皇と光明皇后の娘、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)で終わりとなってしまうのです。そして、それは隋や唐をお手本とし律令制を基本とした天皇中心の中央集権国家を目指すという理想が崩れていく時代への移行。それはもう戻ることはなく、天下統一が完成した徳川幕府でさえ、体制は幕藩体制という地方分権。日本ならではの多様性を育むことになりました。
聖武天皇と光明皇后の時代、天平文化の華の正倉院展を拝見して、そこから、今度はその聖武天皇と光明皇后を支えた橘諸兄ゆかりの地を巡る。いずれにしても、今日は、出来過ぎくらいにいい巡り合わせのコースになったかなと思います。
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9時ちょっと前に奈良に到着。
正倉院展は時間予約をしていて、まだ余裕がありますから、朝飯にしたいと思います。本当はうちで朝食べてきているので、休憩も兼ねてですけどね。
もちいどの商店街で朝早くから開いている店を探して見つけたのがシャトードール。シャトードール もちいどの店 グルメ・レストラン
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パン屋さんにしてはかなり広めの喫茶コーナーが付いていまして、モーニングを注文。
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半セルフのようなシステムですが、とにかく店内が広々しているのがいいですね。気兼ねなくリラックスできました。
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奈良国立博物館です。たくさんの人が集まっていますよ~
奈良国立博物館 美術館・博物館
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では、決められた列に並びます。
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ゆっくり進んで、館内へ。
ここからは、当然ながら撮影禁止。 -
ポスターの方だけですが、これが七宝細工の鏡「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)」です。
ほか、展示は60点くらい。そんなに多くはないですが、けっこうぐったり。全部を丁寧に見るのは体力的にも気力的にも無理ですね。何度も来て、少しづつ視野を広げていくというのがいいんじゃないかと思います。第77回正倉院展 祭り・イベント
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ここからは、奈良線の沿線の旅。まずは、井手町。JR玉水駅から歩きます。
玉川堤は、JR玉水駅のすぐ南。市街地の中を流れる玉川沿いに続く桜並木の堤。「日本六玉川のひとつ 井出の玉川 歌碑の道」と書かれた石碑があったりして、それなりに特別な場所という感じもなくはないですね。 -
桜の木は大きくはないですが、年月は経ているように見えます。
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少し進むと、あれれ?この賑やかな標識はなんでしょう。
井手町で観光地としての散策なんか期待していなかったんですけどね。かなり力が入っている感じ。当然、地図は事前にしっかり調べてきていますが、やっぱり地元の標識があれば心強いです。 -
イチオシ
標識にも助けられて、井手町の市街を進んだ先に現れた石の井戸は、六角井戸。石は古びていますが、傷みは案外少ないですね。
天平時代の左大臣、橘諸兄の構える玉井頓宮にあったものと言い伝えられる井戸 by たびたびさん六角井戸 名所・史跡
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この井戸は、早速ですが、橘諸兄の構える玉井頓宮にあったものと言い伝えられる井戸。玉井頓宮は、聖武天皇が平城京から恭仁京へ遷都される旅の終わりに仮り宮として訪ねられたほか何度か行幸されたとか。伝えられている史実が具体的で面白いです。
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そこからしばらく南に進んで、少し木津川市に入ったところ。ここまで来ると実は蟹満寺もさほど遠くはないですね。
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目指していたのは高倉神社。後白河法皇の第二皇子、以仁王を祀る神社です。以仁王は、平氏追討の命、以仁王の令旨が有名。この令旨が平家滅亡の序章となりました。
後白河法皇の第二皇子、以仁王を祀る神社 by たびたびさん高倉神社 寺・神社・教会
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イチオシ
しかし、1180年(治承4年)、 平家に追われた以仁王は、南山城の加幡河原で流れ矢に当たって落命したとか。
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治承4年(1180年)5月のこと。享年30歳。
なお、頼朝の挙兵はこの3か月後。同じ年の8月です。 -
高倉神社と隣り合わせには、以仁王の御陵があります。
改めてですが、以仁王は後白河天皇の第三皇子。以仁王の令旨は、源頼朝や木曾義仲など各地の源氏がこれを受けて挙兵。平家の滅亡につながったもの。大きく時代を動かすきっかけとなりました。 -
イチオシ
ここ自体はあまり有名な場所ではありませんが、やはりちょっと感慨深いものがあると思います。
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また、井手町の方に戻って。
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橘諸兄公旧跡は、この先。井手町の市街の外れです。
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脇道に入って少し進むと
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小山の上に上がっていく石段。
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どんどん上がっていくと
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立派な石碑がありました。
冒頭に説明した通り、橘諸兄は、光明皇后の異父兄であり、聖武天皇との関係も良好。井手左大臣とも呼ばれ、穏やかな人物のイメージです。 -
イチオシ
この地に居を構えていて、聖武天皇の行幸が何度かあったと言われる場所。
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傍らの供養塔には、「井手左大臣 正一位朝臣」と書かれていますが、正一位の状態で政務にあたったのは藤原仲麻呂、藤原永手と並んで史上3人だけ。誇らしげです。
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また少し移動して。
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今度は、玉津岡神社を訪ねます。
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石灯籠が建っていて、もうここは参道かな。
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イチオシ
小野小町塚は、あちこちあると思いますが、これは井手町の塚。玉津岡神社に向かう細い上り道の途中にありました。塚は自然石を積み重ねた豪快な意匠。小野小町のイメージとはちょっと違いますけどね。
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あの冷泉家記によると井堤寺(井手寺)で69年の生涯をとじたとあって、この地にゆかりがあるのは間違いないでしょう。
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玉津岡神社は、どんどん上がって行って、井手の市街を見下ろす山の上。参道はまだ続いていますよ~
井手の市街を見下ろす山の上 by たびたびさん玉津岡神社 寺・神社・教会
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神社の始まりは、欽明天皇元年(540年)。
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この地に下照比賣命(シタルヒメ)が降臨、
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そこで玉岡の社をお祀りしたというところから。
社殿もかなり立派。明治になってから、八王子社、春日社、田中社、八阪社、天神社の五社が八王子社殿に合祀されています。 -
最後の石段を上がって
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現れた社殿はかなり立派。
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明治になってから、八王子社、春日社、田中社、八阪社、天神社の五社が八王子社殿に合祀されたのだとか。
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イチオシ
そういう意味では、まだそんなに古いものではないかもしれません。
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では、これで帰ります。
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ただ、少し下りたところでもう一つ。
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地蔵禅院のシダレザクラを拝見します。
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玉津岡神社に行ったらついでに寄るといった感じの場所ですが、
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イチオシ
石垣の上に枝を伸ばす桜の趣はなかなか雰囲気がありますね。寺が整備した非常階段のようなところを下って、下から眺めるのがグッドです。
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これは何でもないような小道ですが、山背古道。城陽市から井手町を経由して木津川市までつながる、長さ約25㎞の散策道です。
JR奈良線と木津川が並行して走るというのですが、歩いている際は特にそれは感じませんね。市街地の中を通ったりもして、ところどころに山背古道と書いてあるので、なんとなく分かるというくらいです。 -
井手町の最後は蛙塚です。
玉川保育園の裏側。蛙の置物があったり、石のオブジェ風の意匠が特徴的な湧水の公園。井手は万葉の昔から和歌が詠まれてきた地だとかで、「かわづ」はその井手の枕詞だったとも。また、井手の蛙は夜に美しい声で鳴いたと鴨長明の無名抄で記されたほど有名。蛙は蛙でも、歴史に名を遺すような位置づけ。いろんなところがあるものです。 -
玉水駅から城陽駅に移動して。
城陽駅から水度神社に向かいます。こちらは、山城国風土記にも久世の郡水渡の社祗社とある古社。 -
途中の”京都の自然200選 水度神社と参道の松並木”という長い参道がけっこうすごいですね。
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境内に入ると拝殿から本殿の雰囲気はちょっと雅な趣き。
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特に本殿は、室町時代中期、文安5年(1448年)に造営された国の重要文化財。さすが、城陽の中心的な存在。なかなかの見応えです。
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水度神社から北に向かって、今度は正道官衙遺跡・史跡広場へ。史跡と言っても、全体としては運動場のような感じですね。
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しかし、よく見ると、一角には国史跡の指定の大きな理由となった奈良時代の山城国久世郡の群衛中心部とされる柱が林立する復元遺構がありました。
ちなみに、正道官衙遺跡は、5世紀、古墳時代の小形の古墳、6世紀後半~7世紀の集落跡、7世紀以降の大型掘立柱建物群という官衙遺構等が同じ場所にあるという複合遺跡。特に、官衙遺構は奈良時代の山城国久世郡の群衛中心部とされ、城陽市では最初の国史跡となったもの。柱が何本も建つ復元展示と説明板を見比べながら想像を膨らませました。 -
城陽は古墳も多いところ。
芝ヶ原古墳は、3世紀前半から中頃、弥生時代から古墳時代の過渡期の古墳。前方後方型古墳という聞きなれないタイプ。通りから見えるのは、前方部が見えています。珍しい銅製腕輪、銅釧(どうくしろ)が完全な形で出土したことでも話題となったようです。 -
久世神社は、日本武尊を祭神とする神社で、境内は限られた広さしかありませんが、室町時代中期に建築されたと思われる本殿が国の重要文化財。朱塗りの一間社流造、檜皮葺。柱上部や各所を極彩色仕上げした華やかな意匠で、こじんまりとまとまっている感が面白いです。
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その境内は久世廃寺跡でもあります。久世廃寺は、奈良時代前期に創建され、11世紀前半に廃絶している大寺。法起寺式伽藍配置の塔跡、金堂跡、講堂跡が土檀として残るというのですが、けっこう詳しい説明板があって、そこから想像する方がいいような気がします。
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古代の寺はもう一つ。平川廃寺跡は、山城国分寺に匹敵する、奈良時代の南山城地域を代表する大規模な寺院跡。
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国の史跡ともなっていて、それなりのものなのですが、整備がイマイチなのかな。ちょっと荒れ地のような感じになっていて、せっかくの立派な石碑もあまり目立ちません。
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その辺りにも古墳群があって。久津川古墳群は、木津川、淀川水系においては、高槻市、茨木市の三島野古墳群、乙訓地域の古墳群と並ぶ三大古墳群の一つ。城陽市から宇治市にまたがり、約150基の古墳があるということ。ただ、代表的な古墳は、この久津川車塚古墳ほか、丸塚古墳、芭蕉塚古墳、久世小学校古墳といった国の史跡。
久津川車塚古墳は、5世紀前半の古墳時代中期前半に造られた前方後円墳。国の史跡ですが、周囲はけっこう荒れていて、古墳かどうかも分からないような姿。墳丘の長さが180m。周濠も含めると272mもあって、南山城地域では最大の規模の前方後円墳なのに、残念なことになっています。 -
久津川駅のところまで出てきまして。平井神社は久津川駅からすぐのところ。線路に圧迫されてか、ひょろひょろっと奥深い境内。平川地区の氏神です。
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割り拝殿から奥に入った先が
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一間社流造の本殿。正保2年(1645年)の建立で、桃山時代風の彫刻があったりして華やか。京都府登録文化財となっています。
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ついでに、久津川古墳群の古墳ももう一つ。これも国の史跡、芭蕉塚古墳を訪ねます。
墳丘は2段築成で、全長110mの前方後円墳。久津川古墳群では、さきほどの久津川車塚古墳に次ぐ第2位の規模です。ただ、周囲は竹やぶで覆われていて、際の方まで駐車場用地になっているし、あまりいい状態ではないような。ちょっと残念なことになっています。
さて、これで城陽の方もおしまい。ここからは京都駅に向かいます。 -
京都駅に到着して、湖西に向かう前に食料調達。
ル プチメックがJR京都駅の構内。在来線の2階通路にお店を出していて、気になってましたからね。こんなところにあるようなお店ではないように思うのですが、あんまり人だかりもなくて、どういうことなのかなあという感じでした。結局、値段の設定が他と比べると一段高いので、ここではちょっとニーズが合わないのかもしれませんね。 -
私はレーズンバターのフランスパンをいただきましたが、やっぱりこの芳醇なおいしさは抜群。やはり値段相応の価値は十分にあると思います。もう少し認知されていくといいなと思います。
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あとは、駅弁旅弁当で駅弁を買いました。
一番人気の京弁当は、これならまずまず。京都らしい彩の豊かさも好感です。湖西線の待ち合わせの時間に駅のホームで食べました。 -
京都駅から約1時間でマキノ駅へ。あっという間に日が暮れて、もうまったくの夜ですね。
宿は、ペンション メタセコイア。マキノ駅まで迎えに来てもらいました。ちょっと離れているので、やっぱり歩きでは無理ですね。 -
しかし、メタセコイア並木には近いのでここにしたという次第。
なお、宿の方はペンションと言えばペンションなんですが、がらんとした建物。御主人は夜はここではない自宅の方に帰ってしまうので、一人残されて正直微妙。グループとかで泊まるならいいでしょうが、さすがの私もちょっとへこみました。
まあ、明日はまたマキノ駅までは送ってもらえるし、朝のメタセコイア並木を楽しみにしたいと思います。
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