2024/10/15 - 2024/10/23
265位(同エリア1104件中)
広島れもんさん
- 広島れもんさんTOP
- 旅行記38冊
- クチコミ7件
- Q&A回答0件
- 34,583アクセス
- フォロワー15人
3日目は予定では朝いちばんにマッシモ劇場のガイドツアーに行き、市内中心部の世界遺産のマルトラーナ教会、サンカタルド教会へ行き、カーポ市場でストリートフードをいただいた後、バスでペッレグリーノ山にあるサンタ・ロザリア聖堂へ行くはずでした。でも晴天が今日だけとありマッシモ劇場は省いて中心部の教会を見た後はそのまま大聖堂(パレルモのドゥオーモ)、そしてバスで30分のモンレアーレへ行くことにしたのです。アラブ・ノルマン様式の世界遺産の教会を訪ねる1日です。
パレルモの気候は出発する前の日本とほぼ同じで、晴れれば25度以上で汗が出る陽気。反対に雨が降ると20度くらいしか気温が上がらず上着が必要になってきます。私は近視でメガネをかけないと遠くの景色が見えないためサングラスが使えず、帽子を被ると髪が汗をかいてしまうので快晴の今日は日傘を持って出かけましたが、さしている人は1人もいませんでした(笑)
モンレアーレから市内へ戻るまでは順調だったのですが、調べていたバスの乗り換えが間違っていて1時間近くロスしてしまいました。それでも明るいうちに帰れたので助かりました。
*この前の旅行からカメラをCANONのIXY650に換えましたが、軽量をいちばんに選んだので画質は鮮明ではありません。写真はクリックすると拡大できますのでご容赦下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
時差ボケで5時ごろ目が覚めたので、グレープフルーツとヨーグルトを食べながら今日の予定を再チェック。モンレアーレ行きのバスの時間も確認し、7時にB&Bを出て指定の ”Cafe de Paris" に向かいました。
-
チケットをカウンターに出すと無口なご主人が ”どれにする?” と目で合図したので、中にクリームの入ってなさそうなコルネットを選んだら、もう一つは?と。それでおまかせするとチョコチップの入った丸いパンを選んでくれました。(よく見るとソーセージが入ったパンもありましたね・・・)
-
コルネットはクロワッサンより少しかたかったものの、チョコチップのパンがふわふわでとても美味しくておかわりしたいくらいでした。
-
ここは6時から開いているで、この時間になると通勤の方がけっこう来られていました。
-
一度部屋に帰り歯みがきなどすませて、8時半過ぎにマクエダ通りから市内中心部へ向かいました。マッシモ劇場前のTABACCHI、とってもおしゃれ!
-
マッシモ劇場の朝いちばんのガイドツアーは9時半からなのですが、終わると10時過ぎるので今日はパスしました。
-
客待ちの馬車も開店休業です。
-
”ゴッドファーザー Part 3”のラストシーンが撮影された階段”
学生時代洋画が大好きで、中でもアル・パチーノのファンだったので忘れることのできない映画のひとつです。 -
8時過ぎから街を歩いている人はあまりいません(笑)
-
マクエダ通りは街いちばんの目抜き通りなので、通りに面した建物もとてもきれいです。イタリアでは煙草を吸っている人がまだかなりいらっしゃって、歩きながら吸っている人もいるし道が汚れている印象があったのですが、明け方掃除をされたのかゴミひとつ落ちていなかったです。
-
途中セリエBのパレルモFCのショップがありました。ピンクのユニフォームはなかなかないですね!
-
ブッチリア市場へ行くため狭い路地を通ってローマ通りへ向かうと、出たところにサン・ドメニコ教会がありました。昨日バス通りから見て、美しさに振り返った教会です。
-
この教会はパレルモで大聖堂の次に重要な教会で1300年頃に創建されたのち1640年に再建したもので、その後教会前の広場を作った時にファサードをバロック様式に作り変えたそうです。
教会にはパレルモの著名人が多く埋葬されていて、マフィア撲滅運動に生涯を捧げイタリア史上最大規模の裁判でマフィアを有罪にしたものの、1992年にパレルモの空港からの帰り道に高速道路を爆破され亡くなった当時の検事総長ジョヴァンニ・ファルコーネのお墓もあるようでお参りしたかったのですが、10時からしか開かないのです・・・。
第2次世界大戦の後から1990年頃まではマフィアの力がいちばん強かった時代で、映画にも描かれたように勢力争いから暗殺事件が絶えなかったそうです。もともとマフィアはシチリアの農村部で地主が山賊などから農地を守るために雇った武装集団が起源で、そのうちに大地主らと関係を築き大きな力を持つようになったものだそうです。
そのマフィアの撲滅運動に挑んだのがここに葬られているファルコーネとその2か月後に暗殺された親友で裁判官のパオロ・ボルセリーノで、この2つの事件をきっかけにイタリア国内で反マフィア運動が加速し、マフィアに対する厳しい法律が施行されたそうです。パレルモの空港の名前にもなっているファルコーネとボルセリーノのおかげで、私たちは安心してシチリアを旅行することができるようになりました。 -
教会前の広場には聖ドメニコの像が立っていますが、ヤシの木といい通りの向こうの建物といいおしゃれです。
-
サン・ドメニコ広場から続いているブッチリア市場は市内に3つある市場の中では小さい方で、観光地から近いためアクセスはしやすいと思います。ただお店の数も種類も少ないため、ちょっと物足りない感じ。B&Bのオーナーは街で最大のバッラロ市場をすすめていましたが、参考にした2つの旅番組で混沌とした様子が写っていたので一人歩きはすこし怖いかもしれません。
右手レモンの奥にあるのはCACHI。イタリアにも柿があるんだと思いましたが、向こうでは熟した柿を食べるみたいでかなり熟したものが並んでいました。その隣は秋が旬のサボテンの実、一度食べて見たかったのですが・・・。 -
野菜屋さんの店先もいつも気になります。緑の色が濃い細身のセロリや手前の葉野菜はイタリアでよく見かけるフダン草の種類だと思いますが、日本と変わりない紫キャベツやレタスを見るとちょっと安心します(笑)
-
地中海に面しているためカジキマグロなども獲れるみたいでレストランのメニューにあるのですが、一人旅だとシャアできないのでなかなかメインまでいけません・・・。
-
パレルモ名物のストリートフードの屋台が準備を始めていました。シチリアの中でもパレルモの食文化は独特で、豊かな食材を使いアラブの影響も残った様々なお料理やこういったストリートフードが売られていました。パレルモは今でも移民が多いそうで普通に見かけましたが、イスラム教徒の国バングラデシュなどから移住してきているそうです。
-
すでにできているものもありますが、揚げ物が多いですね・・・。
-
市場を出てプレトリア広場へやってきました。
中央の ”プレトリアの噴水” はフィレンツェの彫刻家フランチェスコ・カミリアーニによって設計され、最初はフィレンツェのプライベートガーデン用に作られましたが、不評だったためパレルモ市が買い取り市庁舎の前に設置されました(右の建物がパレルモ市庁舎)。1580年当時は裸の像に抵抗がある市民から、”恥の広場” と呼ばれていたんだとか・・・。たしかに市庁舎の前に乱立する裸像がふさわしいかどうかわかりませんが、裸像の出来自体も首をかしげたくなるものがありました。
遠目に見ると奥のサンタ・カテリーナ・ダレッサンドロ教会とはマッチしているかも? -
あまり評判のよくないプレトリアの噴水ですが、上から見るととても素敵です。スペイン広場のバルカッチャの噴水のように、もっと基礎を下げて全体が見やすいようにしたらいいのに、と思いました。
-
プレトリア広場で写真を撮っていたら早くもバッテリーが減っているのに気づき予備のバッテリーに換えようとしたら、部屋で充電したあとバッグに入れるのを忘れていたみたいであわててローマ通りからバスで最寄り駅まで帰りました。歩いて帰ろうかとも思ったのですが、今日は1日券があるので使うことにしたのです。さすがに幹線、バスはすぐに来ました。
出発前にバッテリーは2つとも充電したのですが、機内でデータの整理をしたりパレルモに着くまでもけっこう写真を撮ってしまったんです・・・。 -
バスが通りからB&Bまで5分以上かかったので、帰りは歩くことにしました。朝日があたってとてもきれいなマッシモ劇場、ここから仕切り直しです(笑)
-
マッシモ劇場はパレルモが経済的に発展していた19世紀末に建設されたオペラ劇場で完成当時は客席数が3200もあり、19世紀に建設されたヨーロッパのオペラハウスの中では3番目の規模だったそうです。1974年から改修に入り98年に完成し客席数は1300になりました(なんでも平土間は立ち見だったとか)。内部は優雅なアール・ヌオーヴォ装飾で壁はすべて金箔でおおわれているため豪華絢爛で、内装に木材を使用しているため音響効果も素晴らしい劇場だそうです。
-
アランチーニのお店 ”Ke Palle” とカンノーロのお店 ”Cannoli” 。マクエダ通りを中心部へ向かって歩いて行くと、有名なお店がたくさん並んでいました。
-
老舗のお菓子屋さん ”Costa”
私は内臓系の手術をしていて糖質制限をしているため、行ったみたいお店や食べてみたいものはたくさんあったのですが、ほとんどかなわなかったなあ・・・。 -
予定していた時間から40分後の10時過ぎにベッリーニ広場に着きました。この広場には世界遺産の教会が2つあるため、インフォメーションも開いていました。
シチリアは古代から地中海の海上交通の要衝で、その中でパレルモは紀元前8世紀にフェニキア人が植民都市を作った後紀元前254年から古代ローマの支配が続いたものの、当時はシラク―サやカターニャのようには発展していなかったそうです。535年にビザンチン帝国の支配が始まるとビザンチンの文化が発展。その後831年に北アフリカのイスラム勢力が侵出、948年に首都をシラクーサからパレルモに移しイスラム人支配が始まりました。
その後10世紀に北ヨーロッパのノルマン人が地中海へ進出しイタリア南部やシチリア島へ入植した後、1076年までに島の多くを征服。そして1130年にはルッジェーロ2世がパレルモを首都としたシチリア王国を建国し戴冠しました。200年続いたイスラムの指導者と同じく、ヨーロッパ各地を旅していたノルマン人も他民族の宗教や文化に寛容で、ラテン、ビザンチン、イスラムといった文化を吸収していったそうです。
そしてこの時代はビザンチン帝国やイスラム諸国との交流も盛んで、東方の文化や産物が輸入されただけでなくイスラム圏で研究されていたギリシャ・ローマ時代の文学・哲学・芸術・科学も入ってきて、アラビア語の文献がラテン語に翻訳されていきました。このように文明の十字路と言われるシチリアでは、島を支配してきた様々な勢力により文化もまた発展していったのです。 -
マルトラーナ教会とサン・カタルド教会
初めて映像で見た時に何とも言えない感動を覚えたノルマン王朝時代の世界遺産の教会。外観が異なった2つの教会が隣り合っていることが驚きですが、この2つの教会のように世界遺産に登録されたアラブ・ノルマン様式の建築物は、イスラム文化から強い影響を受けたノルマン人によって建てられたものを意味します。 -
”マルトラーナ教会”
シチリア王国初代国王ルッジェーロ2世の宰相(海軍提督)であったジョルジョ・ダンティオキアにより1143年に建てられたビザンチン様式の教会で、15世紀に近くのベネディクト派修道院の所有になり、その修道院を創設した修道女の名前をとってマルトラーナ教会と呼ばれるようになったもの。正式名はサンタ・マリア・アミラグリオ教会(海軍提督の聖母マリア教会)。
もともとの教会はこの写真の左奥部分で四角形の形をしていましたが、鐘楼とエントランス、そして後陣ができ今の形になりました。写真中央のファサードは16世紀に作られたもので、ルネサンス様式のベースにバロック様式のファサードを組み込んだデザインになっています。 -
”サン・カタルド教会”
1160年にグリエルモ2世の宰相マイオーネ・ディ・バーリによって建てられた教会ですが、石造りの壁と屋根に3つ並んだ赤い半円形のドームがイスラム教のモスクのようで上部の凸凹の形をした胸壁などもイスラム建築の影響だそうです。 -
まずマルトラーナ教会から。鐘楼の下から入るようになっていました。
-
入ってすぐに見えるのは後ろ側の増築部分の天井一面に描かれたバロックのフレスコ画とそして中央から前のノルマン時代のモザイクなのですが、バロックのフレスコ画は好きではないのであえてモザイクの部分だけを写しました。2つのまったく違った装飾がひとつの教会にあるのはこれまであまり見たことがなく、戸惑ってしまいました。
パレルモで最初に見たモザイクは、窓からの採光で金色に輝いています!このモザイクはシチリア最古のビザンチン様式のモザイクで、色づけされたガラスや金箔を挟んだガラスを使った小さなテッセラを使い、ガラスに入る光の反射によって普通の金箔の色よりもよりはるかに鮮明に金色が出るようになっていて、耐久性も高いかったそうです。 -
イチオシ
中央へ進むと主祭壇とその上のフレスコ画が見えてきました。
-
後陣は17世紀に建てられたのでバロック様式で飾られていました。
磔刑のキリストと青色の聖龕の上には ”聖母被昇天”のフレスコ画、左右の壁には豪華な彫刻が施されていますが、17世紀から18世紀にかけてパレルモではこのようなスタッコ彫刻で教会を飾ることが多かったようです。 -
右側廊側のモザイク、青い星空のような天井がアクセントになっています。
-
左側廊側のモザイク
-
主祭壇手前のアーチには可愛い天使がいましたが、羽がちょっと立派すぎます。
-
中央のドームは ”全知全能の神キリスト” とそのまわりに大天使が描かれています。
-
その下、床にはイスラム様式の幾何学模様のモザイクが残っていました。
-
中央からひとつ入口よりに描かれたモザイクには、キリストがお見舞いに来ているような様子が描かれていました。もしかしたらダンティオキアの母親かもしれませんね。
写真の右側に身廊の後ろ側のバロック時代のフレスコ画が少し見えますが、この教会ではノルマン王国支配時代だけでなくスペイン支配時代にも改修や拡張が続き、12世紀のビザンチン様式の黄金のモザイクと18世紀のフレスコ画が同居する形になったのだそうです。 -
”キリストの誕生”
こちらはその対面にあるモザイク。馬たちも祝福していますがそれにしても天使の羽が大きい・・・。 -
側廊の壁にあったモザイクと黒人らしい聖人の絵
-
上部のビザンチン様式のモザイクはギリシャ人の手によるものですが、イスラム教は偶像崇拝を禁止していて人物が描けないため、イスラム人が床や壁のモザイクを手がけました。幾何学模様も色彩もきれいです。
-
イチオシ
”聖母マリアにひざまずく海軍提督”
この教会で忘れてはいけない2つのモザイクが入ってすぐの壁にありました。こちらは左側の壁で、この教会を建てたジョルジョ・ダンティオキアが聖母マリアにひざまずいている姿が描かれています。これはこの教会が聖母マリアに捧げられた教会でダンティオキアが亀の姿になっているのは亀が忠誠心の象徴だからだそうですが、このまわりの象嵌細工も見事です。 -
イチオシ
”キリストから王冠を授けられるノルマン王ルッジェーロ2世”
こちらは右の壁で、ローマ法王を通さず直接キリストから戴冠されていることからシチリア王国の強大さをあらわしているそうです。15世紀の委譲の際多くの絵が取り壊された中かろうじて残った2枚の絵、誰も壊すことはできなかったでしょう。 -
次は隣のサン・カタルド教会へ。見えているのは後陣側ですが、この教会は後ろからぐるっと回って正面から入りました。
-
この教会は発注したマイオーネ・ディ・バーリが途中で暗殺されたため、建設が中断されそのままの状態で残っているのだそうです。それでも土色の外観と違って3廊式の内部は明るく、シンプルな美しさが際立っていました。
-
灯り取りの小さい窓がある赤いクーポラの内側。どんな装飾がほどこされるはずだったのでょう、気になります。
-
床にコズマティ様式のモザイクが残っているということは、床から作っていったのでしょうか?
ベッリーニ広場にはもう一つ教会があるのですが、今日は急ぐのでパスしました。 -
”クワットロ・カンティ”
マクエダ通りとヴィットリオ・エマヌエーレ通りが交差する四つ角にある建物は、1608年から21年にかけてバロック様式で装飾され街のシンボルになっています。曲線の壁面はバロック時代の教会でよく見られるデザインで、上段が当時のパレルモの守護聖人、中段が歴代のスペイン王など支配者、そしていちばん下には四季を表した女性の噴水と3段の彫刻が人々を見守っているかのようです。
朝いちばんにブッチリア市場からここへ来た時はまだ日も当たってなくて建物も薄暗かったのですが、日があたるととてもきれいでした。 -
実はここは方向がわからなくなりやすい場所で、建物の装飾はそんなに区別のつくものではないのでどっちから来たかよくわからなくなるんです。朝はプレトリア広場からローマ通りのバス停へ向かわなくてはいけないのに、反対側へ進みかけたりしましたが、通りのずっと先にヌオーヴァ門が見えるのが西の大聖堂方向で、反対側は見えないけれどフェリーチェ門のある海の方角になるとやっとわかりました。西と東がわかればさすがの私でも南の駅側と北のマッシモ劇場側はわかるので、それからは迷うことはありませんでした。
-
ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを大聖堂へ向かって進みます。夜はイルミネーションできれいなんでしょうが、私は一人旅をしているため夜はなるべく早く宿に帰るようにしていて、ライトアップはほとんど見たことがありません・・・。
-
大聖堂の後陣を外側から眺めれる通りにやってきました。日が当たって見えにくいですがアラブ風の細かな模様がとても美しい外壁で、ここだけが12世紀の創建当時のオリジナルだそうです。夾竹桃の花もアクセントになっていますね。
-
ヤシの木が並ぶ前庭にはパレルモの守護聖人、サンタ・ロザリアの彫像が立っていました。
-
”大聖堂”
もともとビザンチン帝国時代に教会が建っていた場所でその後イスラムの時代にはモスクに改修され、1185年頃にグリエルモ2世によって建設されたノルマン様式の大聖堂でパレルモの司教座教会。創建後600年にわたって様々な国の支配を受ける中で改築が行われ、後陣の外壁はアラブ・ノルマン、横の外観はカタルーニャ・ゴシック(スペイン・カタルーニャ地方から始まったゴシック)とバロック、内部はネオ・クラシックと美しい混合様式の教会になりました。
写真には一部しか写っていませんが4隅にある鐘楼は14世紀に加えられたもので、広場は15世紀半ばに整備されたもの。それにしても大きなカテドラル、全体が写しきれません。 -
イチオシ
カタルーニャ・ゴシックの正面ファサードの上部にはとても繊細なレースのようなレリーフが施されています。そしてその上には聖堂の屋上を歩いている人たちの姿がわずかに見え、ワクワクしてきました。なぜだかわからないけど高いところとローカルの乗り物が大好きなんです(笑)。
写真の左側にわずかに写っているのは司教館。 -
入口の上には唯一残っているモザイク画 ”聖母子” が掲げられていました。再建当時のカテドラルは内部も黄金のモザイクで輝いていたそうなのですが・・・。
-
内部は白を基調にしたモダンなデザイン。入ってすぐ左手でチケットを販売していて、”Monumental Area” の王家の墓、宝物室、屋上テラスのすべての部分が含まれるフル・チケットを購入しました。大聖堂は7時から開いているものの、有料部分に入れるのは9時半以降なので予定をたてるときに注意が必要です。また屋上テラスの時間が予約制になっているという口コミもありましたが、その日はそれほど混雑していなかったためかそのまま先に屋上へ行くように誘導されました。
-
この赤いエリアが有料部分になります。
-
屋上テラスの入り口、大きな矢印がありわかりやすかったです。
-
階段を上って側廊の屋根部分に出ると、マヨルカ焼きの屋根を持つ小さなドームが並んでいました。(後でわかるのですがこのテラスにもきれいな模様がありました)
マヨルカ焼きはイベリア半島に住んでいたイスラム教徒の陶工がマヨルカ島を経由してイタリアに陶器を輸出していたためそう呼ばれるようになったもので、その後シチリア島にも移住し活躍しました。それまでの焼き物と大きく違う点は、釉薬に錫を使ったことでで白地に鮮やかな色柄が出せるようになったことだそうです。 -
この階段を上がってさらに進みます。
-
メルヘンチックなドーム、近くに来て初めて壁の文様が見えました。
-
大聖堂の屋上へ着きました。お天気でほんとうによかった!青い屋根をもつクーポラが青空に映えています。
-
下を見れば通りを歩いている人たちが米粒くらいに見えます。そして市街にある教会のクーポラもいくつか確認できました。
-
北東の方向に見える山はたぶん、聖ロザリアが見つかったペッレグリーノ山でしょう。
-
聖堂のファサード、上から見るとこんな風になっているんですね。写真をクリックすると屋根の文様と周りのテラスの文様が同じだとわかります。そしてその時は気づかなかったけど右中央には下から上ってくる人たちまで写っていました!
この後立ち寄る予定のバールのひさしも通りの向こうに見えました。 -
遠くに見えるのは明日行くノルマン王宮です。
-
イチオシ
鐘楼の頂部の尖塔は19世紀に付け加えられたものだそうですが、平坦のものより気品が感じられます。
時間制限はなかったのですが、11時半くらいで太陽も真上から照っていてさすがに暑くなり下に降りることにしました。(中央に見えるのは通りをはさんだ司教館の建物) -
屋上から下りるとチケットカウンターの裏手にある ”王家の墓” へ向かいました。ここには4人のシチリア王と2人の妃が埋葬されています(カッコ内はフェデリコ2世から見た血縁関係)。
1 エンリコ6世(父で神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世)
2 コンスタンツァ(アラゴンの王女でフェデリコ2世の妻)
3 コンスタンツァ(ハインリヒ6世の妻でフェデリコ2世の母)
4 ルッジェーロ2世(祖父でシチリア王国建国者)
5 グリエルモ・アテネ公爵(シチリア王でアラゴン家の一族)
6 フェデリコ2世
シチリア王国ノルマン朝は大きく2つの時代に分けられ、1130~1194年がオートヴィル朝による支配、そしてその後1194~1266年はホーエンシュタウフェン朝による支配になります。オートヴィル朝の主な王はシチリア王国を建国したルッジェーロ2世に始まり、モンレアーレに大聖堂を造った3代グリエルモ2世、そしてルッジェーロ2世の娘でオートヴィル朝最後の君主コンスタンツァが神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世と結婚したことからホーエンシュタウフェン朝に移りました。そしてこの二人の子供が1198年から1250年まで長きにわたりシチリアを治めたフェデリコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世)なのです。
シチリアの事を調べていた時塩野七生さんの ”フリードリッヒ二世の生涯” という本に出会い、それまで全く知らなかったフリードリッヒ2世のことを知り、彼を形づくるうえで大きな役割を果たしたパレルモという街にも興味を抱いてしまったのでした。(フェデリコ2世に関することはこの本から引用しています) -
”エンリコ6世のお墓”
エンリコ6世は初代神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世の息子として1165年に生まれ、1184年にシチリア王女コンスタンツァと結婚。第3代のシチリア王グリエルモ2世に後継者がいなかったため1194年にシチリア王に就任しましたが、1197年に病死してしまいます。そして跡を継いだのがまだ3歳だったフェデリコ2世だったのです。
なかなか強圧的な統治をしたようですが、戴冠式が行われたここに眠っています。 -
”フェデリコ2世の墓”
エンリコ6世とコンスタンツァの間にできたただ一人の子どもでシチリア王、そして神聖ローマ皇帝になり、その伝説的な生き方は ”中世に生きた初めての近代人”と言われています。
1194年にエンリコ6世がシチリア王に戴冠した翌日にイタリア中部の町イエージで生れ3年間はウンブリア地方で過ごしましたが、1197年に父親が亡くなるとパレルモの母のもとに戻り、翌年1198年3才の時にここカテドラルでシチリア王に即位しました。しかしその年の終わりに母親も病気になり、わずか4才のフェデリコを守るためにコンスタンツァは教皇イノケンティウス3世に後見を頼み亡くなりました。
その後のフェデリコはイスラム教徒の家庭教師に育てられ、4才から14才までの10年間アラビア語、ギリシャ語、ラテン語など語学だけでなく様々なことを学んでいきます。時にはお供もつけずに王宮からパレルモの街に出て街の人と交わり、多民族が創り出したマルトラーナやモンレアーレのモザイクからも多くのことを学んでいきました。14才になると成人を宣言、これからはすべて自分で決めると公表しました。それに驚いたインノケンティウス3世は、年上のアラゴンの王女を嫁がせることでフェデリコを落ち着かせようとしたのだそうです。
1220年には神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世に即位したものの、ドイツ王の地位は幼い息子のハインリヒにゆだね、自らはパレルモに戻って亡くなるまで神聖ローマ皇帝兼シチリア王として政治を行いました。また第6次十字軍ではイスラム側のアル・カーミルと交友を持っていたこともあり双方ともに戦いを望んでいないことから、戦闘を交えることなくキリスト教の聖地エルサレムを奪回することに成功しました。
フェデリコ2世の逸話は数限りなくいい話ばかりではありませんが、英知にたけ多民族が暮らすシチリアを一つにまとめた素晴らしい王様でした。 -
”コンスタンツァ・オートヴィルの墓”
ルッジェーロ2世の娘でオートヴィル朝最後の君主コンスタンツァは、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と結婚しましたがなかなか子宝に恵まれず9年後に懐妊しますが、エンリコ6世のシチリア王就任のためパレルモに向かう途中に産気づき、戴冠式の翌日イタリア中部の町 ”イエージ”でフェデリコ2世を出産しました。出産後体力が回復するとフェデリコ2世を政情が不安定なパレルモへ連れて行くことはせず、スポレート公爵に預けたのだそうです。
しかしその4年後にエンリコ6世が急死。ドイツ系の家臣もノルマン系の家臣も信頼できないと思ったコンスタンツァは王室最高会議をパレルモの大司教など聖職者に頼り、政局が安定したところでフェデリコを引き取ったそうです。それでもその半年後には病に倒れ、フェデリコの後見人をインノケンティウス3世に託しました。 -
”ルッジェーロ2世の墓”
ノルマン地方の小さな村から富を求め南イタリアへやってきたオートヴィル家の一族は、父ルッジェーロ1世がイスラム勢力からシチリアを奪いシチリア伯となった後、南イタリアとシチリアの両方を制圧したルッジェーロ2世が1130年に初代シチリア王となりました。ルッジェーロ2世は幼少期からギリシャ人やイスラム教徒の家庭教師に多言語の文化を学び、パレルモに住むアラブ人もキリスト教に改宗することなく信仰や文化を伝えていったことから、彼の統治下で豊かで華やかな文化が花開いていきました。
王家の墓の配列は、前列に父ハインリヒとフェデリコ2世、後列に母コンスタンツェと祖父であり初代シチリア王のルッジェーロ2世の順に並んでいてそれにも感動しました。 -
”コンスタンツァ・アラゴーナの墓”
スペインのアラゴン王国の王女でフェデリコ2世の妻。1209年にフェデリコ2世と婚約したコスタンツァは女官、吟遊詩人だけでなく500人の騎士団とともにパレルモに来ました。それにより洗練された宮廷生活を教わっただけでなく、それまで自らの兵をほとんど持っていなかったフェデリコにとって、その騎士団は無政府状態だったシチリアの秩序を回復するために大きな力になったそうです。 -
”グリエルモ・アテネ公爵” のお墓
このお墓も壁に設置してあり、おまけに横たわる姿まで描かれていました・・・。 -
右側廊 聖ロザリア礼拝堂
パレルモの守護聖人聖ロザリアの聖遺物があり、銀細工の祭壇とシャンデリアがとてもきれいでした。 -
右側廊の前の方に進んで ”宝物室”に向かいます。
-
ビロードに銀の飾りがとてもきれい。
-
珊瑚を使った装飾品もありました。
-
聖ロザリアでしょうか?
-
改修前のカテドラルを飾っていた彫り物?
-
クリプタとコンスタンツァの王冠はこちら、と矢印があります。クリプタは苦手だけど、王冠を見ないわけにはいかないので下に向かいました。
-
クリプタにはパレルモの偉人の石棺が収められているそうですが、さっと通りました。
-
いよいよです。
-
”地球の歩き方”で写真は見ていたものの、何という可愛い王冠でしょう!
コンスタンツァ・アラゴーナはフェデリコ2世よりも10才も年上で、おまけに最初に嫁いだハンガリーの王の夫を失い子供も亡くしてスペインに戻っていたところにインノケンティウス3世からの縁談話を受けました。
バツイチとはいえ14才の若き王に嫁ぐ24才の花嫁、結婚式ではどよめきが起こったことでしょう。 -
イチオシ
金糸で編んだ布に、小さなビーズで縁取られた様々な宝石が縫い付けてあります。ドレスもさぞ素敵だったことでしょうね。
-
こちらの布もとても細やかできれいです。
-
大聖堂に1時間もいてのどがからからだったので、屋上テラスから見ていたカフェ ”Maracco” へ。 ヴィットリオ・エマヌエーレ通りにはいくつもカフェがありますが、ここがいちばん人気みたいです。
-
クラシカルな店内はごった返していて、なかなかカウンターへ進めません。
-
コルネットなどのパンやパニーニ、ジェラートもありましたが、私の目的はグラニータです!
-
レモンのグラニータを注文すると後ろにあるマシンでカップに注いでくれました。シチリア名物グラニータ、暑いのでレモンにして正解!口当たりもさっぱりしていて、一気に体が冷えました。
-
グラニータを持ったまま、ボナンノ庭園まで来ました。ノルマン王宮の前にあるこの庭園はここを造った当時の市長ボナンノさんの名がついている庭園で、ヤシの木がいっぱい茂っていて南国ムード満点です。
-
ノルマン王宮までは行かず、ヌオーヴァ門に向かいます。この向こうにモンレアーレ行きのバスが出る広場があるんです。
-
”ヌオーヴァ門”
王宮自体がパレルモの街を取り囲む城壁の一部で、その城壁のモンレアーレ側に開けられた門。当時シチリアを支配していたスペインのカール5世がチュニジアで勝利したことを記念して1583年に造られたもので、アラブ人に対する勝利の象徴としてターバンを巻いたアラブ人が彫刻されています。また肉眼ではよく見えなかったけど、マヨルカ焼き屋根にはパレルモの紋章の鷲が描かれているそうです。(ひとつ前の写真をクリックすると、屋根の模様が少し見えます) -
12:30過ぎに Indipendenza から389のバスに乗りモンレアーレへ向かいました。ノルマン王宮の後ろ側にあるこの広場には写真に写っているバス停とガソリンスタンドをはさんで向かい側には ”Indipendenza Palazzo Reale” というバス停があるのですが、モンレアーレからのバスが着くこちら側で乗った方が確実に座れるようです。この日は平日でしかもノルマン王宮が一部しか見られない日だったのですが、”Reale” でほぼ埋まってしまいました。
-
渋滞もなく30分ほどでモンレアーレに着きました。大聖堂へ向かう道は2つあるのですが、景色のいい外側の道を進みます。大聖堂の屋根を見ながらゆるやかな坂道を上りました。
イタリア語で王の山を意味するモンレアーレはパレルモの南西8㎞の山の中腹にある町で元々はノルマン王の狩猟の開催地でしたが、グリエルモ2世が大聖堂と修道院を築いてから発展していったそうです。 -
けっこうな崖の上に家が建っています。
-
路地に目をやると大聖堂の後陣の外側が見えてきて、胸が高鳴りました。
-
モンレアーレの大聖堂に着きました!こちらはヴィットリオ・エマヌエーレ広場で、聖堂側面に面しています。左手にある建物はモンレアーレの市庁舎。
-
”モンレアーレ大聖堂”
ローマ教皇の息のかかったパレルモの司教の勢力を抑えるためにグリエルモ2世が1174年頃建設を始めたアラブ・ノルマン様式の教会で、1183年に完成した全長が102m横が40mという巨大な教会。西を向いたファサードにはノルマン建築の特徴である2本の鐘楼があるものの、左側は未完成で終わってしまったため高さがちがっているのだそうです。また18世紀に付け加えられた柱廊の上には、後陣の外壁にもあったサラセン・アーチとよばれる連続交差アーチのレリーフも残っていました。
聖堂正面のグリエルモ広場にはお土産を売るお店が並び、レストランもあって賑やか。右側の建物は回廊の入り口もある司教館の建物です。 -
”Forno Litria”
回廊は開いていましたが大聖堂は13時から14時までお昼休みで回廊の近くにあるトイレだけ利用して、お腹も空いていたので街のパン屋さんに行ってみました。”ボン先輩はいつもご機嫌” というブログで紹介されていたお店です。
地方の教会を訪ねる時はGooglemapに掲載されている時間よりも、教会のHPを見た方が間違いは少ないような気がします。ただ季節で開く時間が違ってもHPが変更されていなかったり急に変更になることもあるので、ぎりぎりに行くことだけは避けた方がいいと思います。 -
1時を過ぎていてお店にはあまりパンが残っていなかったのでトマトがのぞいていたパニーニとマリナーラを選び、このパニーニの名前は?と聞くと、なんと ”パーネ・クンツアートよ”って教えてくれたんです。まさにブログに載っていて食べたかったパニーニ!オリーブオイルとオレガノの香りがする塩味のきいたフランスパンにトマトとチーズが挟んであり半分の大きさだけどとっても美味しくてぺろり、念願がかなった時間でした(笑)
店先で食べているとお昼休みらしい人が次々やってきて、紙袋をかかえて帰っています。そういえば店内に紙袋が山積みされていた、みなさん予約していたんですね。ゴマのついた袋入りのクッキーも買って5ユーロとお財布にもやさしいランチ、ご馳走様でした!(店頭で食べた時はお店の方にBounissimo!と声をかけてから帰っています) -
聖堂正面の扉は1185年頃のもので、ピサの大聖堂の青銅扉も制作したボナンノ・ピサーノ作で旧約聖書から新約聖書までの場面が彫られているそうですが、柵があり近づけないようになっていました・・・。
-
ヴィット―リオ・エマヌエーレ広場から山手を望むと丘の上に住宅が点在していて、まるで別荘地のよう。入り口は聖堂側面にありますが、その前に回廊右手にあるチケットショップでフル・チケットを購入しました。
-
聖堂の側面から入ると後陣のこの景色が飛び込んできました!
この聖堂、横幅も高さもかなりあるのでそれだけでも迫力がありますが、何といっても壁一面の黄金のモザイクに圧倒されます。現存する教会の中ではモザイク装飾の表面積がイタリア1だそうで、NHKの ”旅するイタリア語” でも俳優さんが息をのんでいました。 -
イチオシ
パントクラトール ”全能のキリスト”
後陣中央のキリストは照明もあって光り輝き、聖堂を包み込むような存在感です。モザイクだけでなく天井の木組みもどのような足場を組んでどのように制作したのか、すごいとしか言いようがありません。無料で入れるのは交差部手前のここまでですが、身廊のモザイクも素晴らしいので時間がなければそれだけでも満足できると思います。 -
身廊の天井は細かな模様が描かれていて奥の青地に星の模様もかわいく、側廊部分にも同じような装飾が施されていてほんとうに美しいものでした。
-
右側廊
身廊と側廊の両方に窓があり広い堂内を明るく照らしていますが、こちら側は南に向いているので逆光気味。それでも大理石でできた下の壁以外はすべて、金地に鮮やかな色のガラスモザイクで飾られていました。
絵は聖書の一場面を題材にしており、人物を描いたモザイクはギリシャ人、壁面下部の幾何学装飾のモザイクや床面のモザイクは、偶像崇拝が禁止されているイスラム教徒たちの手によるものと言われています。 ノルマン人がシチリアに王国を作る前にこの島を支配していたのはイスラム教徒であり、その前はビザンチン帝国の一部でした。その歴史がここに生きています。 -
”ノアの箱舟” から
-
動物たちも安全な場所で舟から下されました。
-
左側廊
-
旧約聖書 ”トビアス伝” から ”大天使ラファエロとトビアス” だと思いますが、犬がいませんね。
-
ここもきれいなモザイクです。アーチの内側にもモザイクがあり柱頭の彫刻も素晴らしいのですが、全部を見ていくのはたいへん・・・。
-
上は ”アダムとイブ”
-
そして入口の内側にあたる部分には ”聖母子”のモザイクがありました。そして下側に見えるドレスを着た人形のような形のモザイクがイスラムの職人によるもので、堂内の壁にぐるっと描かれていて縁取りのようできれいに見えました。
聖堂の後ろからも全体の写真を撮ったのですが、私のカメラではぼんやりとした写真しか撮れなかったのが残念・・・。 -
南側廊の奥にある翼廊には、この教会を建てたノルマン王グリエルモ2世とその父グリエルモ1世のお墓がありました。
-
こちらは悪王と呼ばれたグリエルモ1世のお墓
-
そしてこちらがグリエルモ2世のお墓。形が異なるのはこちらだけルネサンス時代に改葬されたからだそうです。
-
南翼廊の聖ペテロ像と下の祭壇はゴシック期のもの
-
バロックの祭壇がレースのように緻密です。
-
この翼廊からは、キリストの下の ”玉座の聖母と天使”、そして ”十二使徒”もよく見えました。
-
イチオシ
”キリストに王冠を授かるグリエルモ2世”
交差部の北側の柱にあるため、南翼廊のここからしか見えないモザイク。13才で戴冠したグリエルモ2世の姿が描かれています。 -
交差部を通って有料部分の北翼廊に向かうとこちらには聖パウロ像がありました。
-
こちらの祭壇もきれい。
-
床にはコズマ―ティ様式のモザイクがきれいに残っていました。
-
お花のような模様
-
イチオシ
”聖母に大聖堂を捧げるグリエルモ2世”
これは交差部の南側の柱にあり有料の北翼廊からしか見えないモザイク。この聖堂は聖母マリアに捧げるために建てられたもので、完成した頃グリエルモ2世は大人になっていたのでしょう、顔もほっそりして髭を生やしています。2つとも大体の位置を調べていたので難なく見つかりましたが、たくさんのモザイクからこれを見つけるのはかなり大変かも・・・。 -
”十字架の礼拝堂”
北翼廊の奥にもうひとつの礼拝堂がありましたが、入口から見るだけでもすごさが伝わり足がすくむようでした。私はバロック装飾は好きではないけど、この配色はとても素敵です。 -
17世紀末にロアーノ大司教の命により建設されたため”ロアーノ礼拝堂”とも呼ばれていますが、これ以上ないくらいのシチリアンバロックの礼拝堂です。
-
イタリアの美術は時代時代でまったく変わってしまうものがありローマにあるバロックの教会も豪華ですが、ここはそれらともまったく違って見えました。
-
ジョヴァンニ・ピサーノはスペイン支配時代のスペイン人の司教でした。
-
床は色大理石を使ったモザイクの象嵌模様がきれい
-
こちらは旧約聖書の1場面 を描いたものらしいですが、一部分しか撮っていませんでした・・・。
-
十字架の礼拝堂の奥から博物館へ進みました。
-
博物館には聖堂の見取り図がありましたが、内陣がこのような三つ葉型になっているのはシリアをはじめとする東方諸国によくある形だそうです。(上が東側右が南側にあたります)
-
聖衣は絹地に金糸や銀糸の刺繍が施されていてとても豪華なのですが、早くテラスに上りたくてあまり見ていません。それどころかどこをどう歩いてテラスに上がったのかも・・・。
-
テラスに上がると修道院の回廊がきれいに見えました。中央の円を中心に4等分されているのは、イスラム建築の四分庭園という造り方だそうです。
-
側廊の上の部分を歩いて後陣の方へ向かいます。
-
前を行く男性が長身の方で、かがまないと頭がつきそうでした(笑)。
-
上から見えた聖歌隊席。ここから後陣にかけては身廊部分よりかなり高さがあり、モザイクも何段にも描かれていて壮観です。
-
主祭壇前、交差部を上から見たところ。南翼廊から北翼廊までこの部分を横切って行ったはずですが、脳内がいっぱいいっぱいで全く覚えていません。中央に小さく光って見えるのはバロックの礼拝堂で、中央の少し左側には ”戴冠のモザイク” がかすかに見えました。
-
大聖堂へ来る前に見えた後陣の外側の装飾もまぢかに見えたのですが、路地から見た方が全体が見えてすごさを感じました・・・。
-
かつてオレンジやレモンの実るころには黄金に見え ”コンカドーロ”と呼ばれていた盆地ですが、現在は住宅が立ち並んでいます。
-
ぐるっと回って山手の方。
-
そして下はヴィットリオ・エマヌエーレ広場、こちらも修道院の回廊と同じようなデザインですね。
来た時と同じように北側の通路を通って下に下りました。 -
そのあと司教館の端の方にある入り口から修道院の回廊に入りました。この回廊の大きな特徴はアーチを支える2本組の柱の1つおきに幾何学模様のモザイクが施されていることで、ずらっと並んだ様子は圧巻でした。
-
彫り物がしてある柱もあります。
-
柱頭の彫刻もみな異なっていてロマネスクの教会で見るような可愛いものもありましたが、ひとつずつ見ると日が暮れそうなのでざっとしか見れませんでした・・・。
-
今は水が流れていないようですが、一角には噴水も残っていました。
-
上の通路を歩いている人が見えますね。
聖堂出口の回廊でグリエルモ2世のモザイクの絵葉書を2枚、そして聖堂正面のお土産物屋さんで料理好きな孫に南国ムードたっぷりのエプロンも買いました。モンレアーレだけでなくパレルモの街中でもエプロンはたくさん売られていますが、ここのはちょっと上等だったからです。お店の人によると ”イタリア製なのよ~”って。なるほど(笑)。 -
1時間があっという間・・・。ここに着いた時よりも西日があたって聖堂がきれいに見えました。開いている入口も見えますが、聖堂から出るとひとつひとつの窓があの部分の窓だとわかるのがうれしいです。
-
イチオシ
帰りにもう一度路地に向かいました。後陣の外壁は溶岩の石をはめ込んで彫られているものだそうでほんとうに美しく、そのそばを人や車が通っていて不思議な光景でした。あの上まで上がったんですね、それにも感動・・・。
15:40発の389のバスに乗り夕方の渋滞もなく Indipendenza に帰ったまではよかったのですが、そのあと乗り継ぐはずの Politeama 行きの108のバスがいくら経っても来ません。バス停で待っていたのは地元のおばあちゃんばかりで英語が通じそうにもなく、30分以上たってさすがにおかしいと思いひとまず駅行きのバスに乗ってみることにしました。かなりの大回りをして駅に着いたのは17時半頃(笑)。でもまだ明るいのでパニックにはなりませんでした。 -
駅から101のバスに乗り Politeama まで帰り、ポリテアマ劇場の全景を眺めました。現在はコンサートなどで使われているようですが、構えはとても立派です!ほんとうならこの写真の右手の奥の方のホテルに宿泊予定でした・・・。
ポリテアマ劇場はパレルモの街の中心となる広場に1867~74年にかけて建設された劇場で、正面の凱旋門風な造りの上には躍動感のある4頭の馬車のブロンズ像があり、ここから北が新市街になっています。 -
18時過ぎに部屋へ戻ったのですが、行きたかったレストランが19時半からとなっていて疲れていたのでそれまで待つ気になれず、歩いて5分もかからない COOP のそばにあったカフェに行くことにしました。ところがパスタメニューは20時からしかできないと言われたんです。この時間にできるのはカフェメニューのサーモンアボカドトーストとサーモンバーガーだけだと・・・。
-
”CUMA Natural Bar”
2日目の夕食はサーモンバーガー。ヨーグルトっぽい味のソースは塩気がなく塩と胡椒をかけましたが、サーモンがすごく美味しくてあたり?と思いきや、バンズの下の部分がすごく固かったんです。私はパンを焼くのでこれは今日届いたバンズではないのではと思い、会計する時に下は固くて食べれなかった、と正直に伝えました。ただここは0.75mlの水が1.5ユーロ、席料コペルトが1ユーロと安かったのが救いでした。
部屋に帰ってシャワーを浴びてから、排水の悪い洗面台と格闘しながら下着類の洗濯をしました。下着は4日分しか持って来ていなかったので、毎日洗濯しないと乾かない日に困るからです。ゆすいだ後いちばん大きなバスタオルに包んで足で踏み部屋のいたるところに干すのですが、シャワールームに換気扇がないため湿気がこもっていて、天井近くに備え付けられているTVやドアノブにもひっかけたり大変でした。翌日出かけるときは掃除に入る人がいるので、肌着のシャツと靴下以外は多少湿っていてもしまいました。
その後翌日も利用する予定の ”Politeama” 行きの108のバスがどこから乗れるか調べ、どうやら待っていたバス停の向かいの ”Indipendenza Palazzo Reale” から出ているようで愕然・・・。向かい側に止まるバスは間にガソリンスタンドがあり見えないので仕方なかったです。 明日は曇りの予報ですが8:30から開いているノルマン王宮に行き、その後カーポ市場、そしてサンタ・ロザリア聖堂へ行く予定です。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
未知の旅 シチリアへ
-
前の旅行記
未知への旅 シチリアへ 2日目 パレルモ到着
2024/10/15~
シチリア島
-
次の旅行記
未知への旅 シチリアへ 4日目はノルマン王宮とサンタ・ロザリア聖堂へ
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 2日目 パレルモ到着
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 3日目はパレルモ市内からモンレアーレへ
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 4日目はノルマン王宮とサンタ・ロザリア聖堂へ
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 5日目はチェファルへ
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 6日目 憧れのタオルミーナへ
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 7日目はエトナ周遊鉄道でランダッツオへ
2024/10/15~
シチリア島
-
未知への旅 シチリアへ 8日目はカステッロとイゾラ・ベッラの絶景へ
2024/10/15~
シチリア島
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
シチリア島(イタリア) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 未知の旅 シチリアへ
0
156