2024/04/05 - 2024/04/05
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Lily-junjunさん
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この旅行記のスケジュール
2024/04/05
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電車での移動
東京メトロ千代田線北千住駅(9:00発)⇒大手町駅乗換⇒都営三田線御成門駅(9:28着)
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都営三田線御成門駅⇒芝公園 4号地 ※都営三田線「御成門駅」のA6出口(エレベータ)を出てすぐ左手
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芝公園 4号地⇒お台場の石垣石 ※徒歩1分80mほど「港区立みなと図書館」正面入口の右手にあります。
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お台場の石垣石⇒御成門 ※徒歩2分120mほど、道路を挟んで「港区立みなと図書館」の反対側
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御成門⇒旧有章院霊廟二天門 ※徒歩2分120mほど、是非、歩道橋の上から眺めてください。
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旧有章院霊廟二天門⇒日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡) ※徒歩4分270mほど
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日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)⇒伝染病研究所発祥の地 ※徒歩1分50mほど
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伝染病研究所発祥の地⇒浄土宗近代教育発祥之地 ※ 徒歩1分100mほど
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浄土宗近代教育発祥之地⇒天光院 ※ 徒歩1分88mほど
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天光院⇒「潮騒の記憶」関根伸夫作 ※ 徒歩2分150mほど、港区役所前
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「潮騒の記憶」関根伸夫作⇒浅岡飯炊きの井 ※ 徒歩1分30mほど、。芝区役所の敷地の南西の角
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浅岡飯炊きの井⇒「平和の女神」北村西望作 ※浅岡飯炊きの井の5m先
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「平和の女神」北村西望作⇒共立女子薬学専門学校発祥之地の碑 ※ 徒歩2分160mほど
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共立女子薬学専門学校発祥之地の碑⇒芝大神宮 ※ 徒歩2分150mほど
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芝大神宮⇒東京佛願寺 ※ 徒歩1分50mほど
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この旅行記スケジュールを元に
今回は、東京タワーのベストショットが撮れる「芝公園4号地」をスタート地点としてその周辺のスポットを散策していました。「芝公園4号地」は、都営地下鉄三田線「御成門駅」のA6出口(エレベータ)を出てすぐの左手に「芝公園4号地」の正面入口があります。そして、「芝公園4号地」は、東京タワーを正面から眺めることができ、インスタ映えする写真を撮ることができるプロムナードがあります。このプロムナードは、ドラマのロケ地にも使われることが多く、有名なところでは、「東京ラブストーリー2020」などが挙げられます。その他に「こども平和塔」、「開拓使仮学校跡碑」などもあります。次に向かったのは、「お台場の石垣石」です。「お台場の石垣石」は、「港区立みなと図書館」の先に木の柵で綺麗に囲まれた「お台場の石垣石」があります。嘉永6年(1853年)の黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。次が、道路を隔てた「港区立みなと図書館」の反対側にある「御成門」です。「御成門」の名前の由来は、「増上寺」は徳川家の菩提寺の一つで、将軍が参詣する際に、この裏門がもっぱら用いられましたので、「御成門」と呼ばれるようになりました。「御成門」の次は「有章院霊廟二天門」です。「有章院霊廟二天門」は、江戸幕府7代将軍「徳川家継」の霊廟の惣門だった建物で、昭和5年(1930年)5月23日に、国の重要文化財に指定されています。「有章院霊廟二天門」には、仏教の護法神であり、向かって右が北方を守る「多聞天」と左が西方を守る「広目天」が祀られています。歩道橋の上から「有章院霊廟二天門」を見ると全体像がよく分かります。「有章院霊廟二天門」の次は「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」です。東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」の次は、「伝染病研究所発祥の地」です。「北里柴三郎」は、「福沢諭吉」はじめ民間の援助を受け、明治25年(1892年)11月30日この地に開設された「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」において細菌学の研究を開始しました。この研究所において世界をあっと言わせる発見がありました。「伝染病研究所発祥の地」の次は「浄土宗近代教育発祥之地」です。「伝染病研究所発祥の地」から「芝公園5号地」の側道を道なりに100mほど直進すると「天光院」の垣根の内側にあります。側道からでは、垣根の木々の葉っぱに埋もれ、はっきりと見えないので、「天光院」を参拝した後に、「天光院」の「シュリーホール」の奥にあるので、そこから見た方がよいと思います。宗派の垣根を取り外して造られた珍しい大学へと発展していきました。「浄土宗近代教育発祥之地」の次は「天光院」です。「天光院」は、慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。「天光院」の次は、「芝区役所」歩道沿いにある「潮騒の記憶」関根伸夫作です。「潮騒の記憶」関根伸夫作は、とてもダイナミックで「東京タワー」と「麻布台ヒルズ森JPタワー」を両腕に乗せています。「潮騒の記憶」関根伸夫作の次はすぐ先にある「浅岡飯炊きの井」です。「浅岡飯炊きの井」は、伊達家のお家騒動の際に毒殺からわが子を守ろうという母の愛を感じる井戸ですね。「浅岡飯炊きの井」は隣にある「平和の女神」北村西望作です。平和都市宣言にはふさわしい銅像です。平和を願い天に向かって手を差し伸べた平和の女神がやさしく迎えてくれますよ。「平和の女神」北村西望作の次は「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」です。「慶應義塾大学薬学・薬学研究科」は、「共立薬科大学」との合併によって、平成20年(2008年)に誕生しました。「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」は、「共立薬科大学」の校名がなくなってしまう年に設置されています。やはり校名がなくなるのは寂しいものです。このような形でしか残せないのでしょうね。「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」の次は、「芝大神宮」です。「芝大神宮」は、関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた「芝大神宮」を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。次は、今日の最終目的地の「東京佛願寺」へ向かいます。「東京佛願寺」は、「芝大神宮」の参道付近にあります。「東京佛願寺」は、各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。今回の散策巡路は下記のとおりです。
【今回の散策巡路】
①《芝公園 4号地》⇒②《お台場の石垣石》⇒③《御成門》⇒④《旧有章院霊廟二天門》⇒⑤《日本近代教育発祥の地》⇒⑥《伝染病研究所発祥の地》⇒⑦《浄土宗近代教育発祥之地》⇒⑧《天光院》⇒⑨《「潮騒の記憶」関根伸夫作》⇒⑩《浅岡飯炊きの井》⇒⑪《「平和の女神」北村西望作》⇒⑫《共立女子薬学専門学校発祥之地の碑》⇒⑬《芝大神宮》⇒⑭《東京佛願寺》
01_「芝公園4号地」
最初に訪れたのが「芝公園4号地」です。都営地下鉄三田線「御成門駅」のA6出口(エレベータ)を出てすぐの左手に「芝公園4号地」の正面入口がありますが、今回は、「芝公園4号地」に隣接して「港区立小中一貫教育校御成門学園御成門小学校」があり、そちらの出入口から入ります。まず、こちらの「芝公園4号地」の出入口のところには、「伸びゆく子供像」佛子泰夫作があります。「芝公園」の中で、ここは子供たちが健やかに育つよう願いが込められたエリアで、ボールで遊ぶ子供たちがモチーフとなっています。ちなみに彫刻家「佛子泰夫」は、大正5年(1916年) 12月15日に、東京都港区に生まれました。昭和15年(1940年)に「東京芸術大学美術学部」の前身である「東京美術学校彫刻科」を卒業しました。東京都港区虎ノ門の「俊朝寺住職」をつぐ一方で、昭和18年(1943年)の第6回新文展に「裸婦立像」で初入選しました。そこから都道409号(日比谷芝浦線)側にある正面出入口の方へ進むと左手に「芝公園4号地時計塔」、右手に「空襲の記憶と芝公園4号地歴史のページ」という説明板があります。さらに、正面出入口方向に進むと左手に「開拓使仮学校跡」の石碑があります。一般的に「開拓使」と言えば北海道を連想しますよね。なんでこんな所にあるのかと不思議に思い、碑文を読んでみると納得しました。「開拓使」は、明治2年(1869年)に、北海道やサハリンの北方開拓を重視する政府が作った中央官庁の一つです。そして、北海道開拓の人材を育成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、設立されたのが「開拓使仮学校」で、現在の「北海道大学」の全身にあたります。気になったので「北海道大学」の歴史を調べてみたら次のようなことが分かりました。年代を追って名称の変遷を見てみると「開拓使仮学校・札幌学校(1872年~)⇒札幌農学校(1876年~)⇒東北帝国大学農科大学(明治40年:1907年~)⇒北海道帝国大学(大正7年:1918年~)⇒北海道大学(昭和24年:1949年~)⇒国立大学法人北海道大学(平成16年2004年~)」でした。しかし、碑文の最後の部分には、「明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。」と刻まれていました。現代からするとかなり、女性の人権を無視したものですよね。碑文を参考までに下記のとおり転記しましたので、目を通していただければ幸いです。
碑文
「北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を育成するため増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。生徒は、官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった」
「開拓使仮学校跡」から「こども平和塔」の方に進むと、その手前に「芝公園4号地プロムナード」があります。「児童遊園」と「運動広場」を結ぶ「プロムナード」の入口に立つと、「東京タワー」を正面から眺めることができ、インスタ映えする写真を撮ることができます。この周辺では、「東京タワー」を綺麗に眺められる場所は何箇所かありますが、その中でも「芝公園4号地」の「プロムナード」からの景色が、個人的にはベストアングルだと思います。夜になると「プロムナード」を照らす街路灯と「東京タワー」が織りなす光のイリュージョンはとても美しい夜景になるそうです。「プロムナード」は、ドラマのロケ地にも使われることが多く、有名なところでは、「東京ラブストーリー2020」などが挙げられます。ちなみに、「東京ラブストーリー」は、「柴門ふみ」の漫画作品で、1988年から小学館「ビッグコミックスピリッツ」で連載されました。サラリーマンの永尾完治と同僚の赤名リカの関係を中心に、東京に生きる若者たちの姿を描いたものです。「プロムナード」の隣には、高くそびえたった「こども平和塔」があります。「こども平和塔」は、三人の息子を太平洋戦争で失った「田沢鐐二」の発願により、戦後の混乱の中で生きることの目標をもつことの大切さを考え、こどもたちの手によるこどもたちのための「こども平和塔」の建設が、昭和22年(1947年)から始まりました。そして、7年間の歳月をかけて全国の児童生徒が、古新聞やお小遣いを出し合った費用を中心に、「こども平和塔」が、昭和29年(1954年)7月8日に完成しました。それ以来、毎年8月15日に「こども平和塔」の清掃と「こども平和まつり」を同時に行っています。「こども平和塔」には、「戦争の痛手をきびしくうけた、わたくしたち日本の少年少女は、人類永遠の平和を願うやむにやまれぬ心のしるしとして、ながいあいだかかつてこの塔をたてました」とこどもたちの言葉が「こども平和塔」のレリーフに刻まれ、塔の上部には平和のシンボルである3羽の鳩が大空に羽ばたいていました。その先に進むと「芝公園町舎碑」、「児童遊園」、「(多目的運動広場」がありました。また、「芝公園4号地」に隣接して「港区立みなと図書館」もありました。
02_「お台場の石垣石」
「芝公園4号地」の「多目的運動広場」の出入口から左方向に徒歩1分80mほど進むと、「港区立みなと図書館」の先に木の柵で綺麗に囲まれた「お台場の石垣石」があります。「港区立みなと図書館」正面入口の右手の方にあります。
「お台場」というと「アクアシティお台場」、「フジテレビ本社」などがある今ではすっかりレジャースポットとして有名ですが、嘉永6年(1853年)の黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。「ペリー」来航後、再び来るであろう黒船を迎え撃つために、台場を築いて防衛拠点としました。未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた第3台場と第6台場の2基を残して、その他は解体され、埋め立てられました。この石垣石は、その時に、第5台場(現在の港南5丁目)から移されたといわれています。石垣石は、伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡もあります。
03_「御成門」
道路を挟んで「港区立みなと図書館」の反対側にあるのが「御成門」で、「お台場の石垣石」から徒歩2分120mほどのところにあります。
「御成門」は、「増上寺」の北方馬場にあった「裏門」の別称です。「御成門」の名前の由来は、「増上寺」は徳川家の菩提寺の一つで、将軍が参詣する際に、この裏門がもっぱら用いられましたので、「御成門」と呼ばれるようになりました。「御成門」は、当初は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年(1892年)の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、現在の位置に移築されました。関東大震災や太平洋戦争の戦火をくぐりぬけた貴重な建物です。
04_「旧有章院霊廟二天門」
「御成門」の次は「有章院霊廟二天門」です。「御成門」から「有章院霊廟二天門」までは徒歩2分120mほどのところにあります。「芝公園三丁目」の信号まで戻り、右折すると90mほど先の右手に「有章院霊廟二天門」があります。
「有章院霊廟二天門」は、江戸幕府7代将軍「徳川家継」の霊廟の惣門だった建物で、昭和5年(1930年)5月23日に、国の重要文化財に指定されています。現在の「東京プリンスホテル」の周辺は、戦前は「増上寺」の「北廟」でした。「北廟」には、6代将軍「徳川家宣」と7代将軍「徳川家継」の廟がありました。7代将軍「徳川家継」の廟は、享保2年(1717年)に8代将軍「徳川吉宗」が建立したものです。ちなみに、「有章院」とは7代将軍「徳川家継」の法号で、7代将軍「徳川家継」はわずか5歳で歴代最年少の将軍となり、その4年後には病気のため短い生涯を終えました。「有章院」を祀る霊廟には色とりどりで華やかな装飾があしらわれ、その豪華さは「日光東照宮に劣らない」と称されたほどでした。しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失してしまいましたが、そのような戦禍の中で、「有章院霊廟二天門」だけが残っています。「有章院霊廟二天門」には、仏教の護法神であり、向かって右が北方を守る「多聞天」と左が西方を守る「広目天」が祀られています。現存していませんが、6代将軍「徳川家宣」の「文昭院霊廟」の門には「持国天」と「増長天」が安置され、2門あわせて仏法を守護する「四天王」が祀られていました。昭和20年(1945年)の東京大空襲で霊廟が焼失した後、土葬されていた「徳川家継」の遺体は荼毘に付され、徳川将軍家霊廟に改葬されているそうです。「有章院霊廟二天門」をそばで見るのもいいのですが、「日比谷通り」に架かる歩道橋の上から別のアングルで見ると、建築物の素晴らしさがさらに分かります。是非、歩道橋の上から眺めてください。
05_「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」
「有章院霊廟二天門」から「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」へ向かいます。「有章院霊廟二天門」から「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」までは徒歩4分270mほどの距離の移動です。「有章院霊廟二天門」から220mほど「日比谷通り」沿いを「芝公園4号地」まで戻ります。信号(表示名「御成門」)があるので、横断歩道を渡り右折し20mほど進むと歩道の右手に「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」の石碑と説明板があります。
明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。「源流院」は江戸初期からの「増上寺」の子院で、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。他の5校は第二校が市ヶ谷「洞雲寺」に(現在の番町小学校)、第三校が牛込「万昌院」に(現在の愛日小学校)、第四校が本郷「本妙寺」に(現在の湯島小学校)、第五校が浅草「西福寺」に(現在の育英小学校)、第六校が深川「長慶寺」に(現在の深川小学校)です。この「源流院」と、第三校があった牛込「万昌院」、第四校があった「本妙寺」は移転してしまったそうです。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」は、平成2年(1990年)10月24日に港区の旧跡に指定されました。
06_「伝染病研究所発祥の地」
「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」の次は「伝染病研究所発祥の地」です。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」からま「伝染病研究所発祥の地」までは徒歩50mほどの距離です。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」から「増上寺」方向に進み、「芝剛園5号地」の一つ目の入口が左手にありますので、左折し奥に進むと、植え込みの中に「伝染病研究所発祥の地」の石碑と説明板があります。
「北里柴三郎」は、「福沢諭吉」はじめ民間の援助を受け、明治25年(1892年)11月30日この地に開設された「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」において細菌学の研究を開始しました。「福沢諭吉」は、世界の「北里柴三郎」の才能が日本において埋もれるのを心配し、「福沢諭吉邸」の一角を提供しました。その後、国立となり白金台に移転しましたが、大隈内閣が研究所を内務省から文部省へ移管したのに反対し、所長の北里とともに仝所員が辞職しました。大正3年(1914年)11月に北里柴三郎」が私財を役じて創立した「北里研究所」がこの地に完成しました。恩師の「ローベルト・コッホ」の誕生日に合わせて、12月11日に開所しました。この伝染病の研究機関においては、数々の成果をあげました。「北里柴三郎」によるペスト菌の発見、「志賀潔」による「赤痢菌」の発見、「秦佐八郎」と「パウル・エールリッヒ」によるサルバルサンの創製などで、多くの伝染病の研究成果は世界を驚かせたそうです。
07_「浄土宗近代教育発祥之地」
「伝染病研究所発祥の地」の次は「浄土宗近代教育発祥之地」です。「伝染病研究所発祥の地」から「浄土宗近代教育発祥之地」までは徒歩1分100mほどの距離です。「伝染病研究所発祥の地」から「芝公園5号地」の側道を道なりに100mほど直進すると「天光院」の垣根の内側にあります。側道からでは、垣根の木々の葉っぱに埋もれ、はっきりと見えないので、「天光院」を参拝した後に、「天光院」の「シュリーホール」の奥にあるので、そこから見た方がよいと思います。
「天光院」は、「慈恵医大病院」が仮開業したお寺であるとともに「大正大学の発祥の地」の一つです。「浄土宗近代教育発祥之地」は、以前は「天光院」前にありましたが、いつのまにかひっそりとした通用口脇に移設されました。明治になって仏教宗派は宗派ごとの近代的学校造りを始めます。「増上寺」の属する浄土宗は、「増上寺」の子院であった「天光院」内に「宗学本校」を設置します。「宗学本校」は明治24年(1891年)に現在の文京区小石川「伝通寺」裏に移転し明治37年(1904年)には「浄土宗大学」と改称します。さらに明治40年(1907年)に「宗教大学」と改称して、明治41年(1908年)に現校地のある巣鴨に移転します。そして、天台宗の「天台宗大学」、真言宗新義派の「豊山大学」が、大正15年(1926年)に合同して旧学制による「大正大学」ができました。「大正大学」は、宗派の垣根を取り外して造られた珍しい大学なのです。
08_「天光院」
「浄土宗近代教育発祥之地」の次は「天光院」です。「浄土宗近代教育発祥之地」から「天光院」までは徒歩1分88mほどの距離です。垣根沿いに45mほど進み、突き当りを左折します。30mほど進むと左手に「天光院」があります。
最初に、「天光院」の歴史を紐解いてみる、「天光院」は、浄土宗の寺院です。「天光院」は天正12年(1584)年に、「増上寺」の「11世雲誉円也上人」が隠居寺として草創したといわれています。「円也上人」の出身地は筑後とも周防ともいわれ、そこから諸国修行の旅に出ましたたが、請われて伊勢白子の「悟真寺」の住職となります。その後、関東に出て増上寺9世「貞把」のもとに学び、増上寺10世「存貞」の弟子となります。「円也上人」は「存貞」の住職した鎌倉岩瀬の「大長寺」の2世となり、「存貞」が4年後に「増上寺」を辞した後を受けて増上寺11世となりました。また、「天光院」は、「慈恵医大病院」が仮開業したお寺であるとともに「大正大学の発祥の地」の一つです。学制が近代化の一歩を踏み出た時に、浄土宗でも、その学制として「浄土宗教校の本校」の所在地として「天光院」が明治22年(1889年)から明治23年(1890年)まで使用されました。それらは、各地に発展し、「大正大学」、「仏教大学」、「芝学園」、「東山学園」、「上宮学園」、「東海学園」、「鎮西学園」などとなって、現在30校、約60000人が学び、巣立っていきました。
「天光院」の「本堂」は2階にあります。境内に入ると「本堂」の1階が「客殿」と「寺務所」になっています。正面には、「詮也不動」と大きな石灯籠があります。「詮也不動」は、「天光院」の9世住職「詮也上人」の墓碑として建立されたものです。さらに奥に進むと多目的ホールの「シュリーホール」があります。主に「天光院」の檀信徒の葬祭・法事等に利用されていますが、地元住民の催しやNPO法人、各種団体の利用に広く開放しているそうです。
09_「潮騒の記憶」関根伸夫作
「天光院」の次は「潮騒の記憶」関根伸夫作です。「天光院」から「潮騒の記憶」関根伸夫作までは徒歩2分150mほどの距離です。「天光院」の右前方に「日比谷通り」と平行に走る道路があります。そこを130mほど進むと左手に「芝区役所」がありその敷地の歩道沿いに「潮騒の記憶」のパブリックアートがあります。
「潮騒の記憶」は、彫刻家の「関根伸夫」の制作よるものです。私には、両腕をあげて力こぶを作っているように見えます。台座のプレートには「かつてこの地は海の近くで、海鳥が訪れ、潮騒がたえず響く港であった。遠ざかる思い出と港区の未来を記念してこれを「潮騒の記憶」となす」と刻まれていました。この「潮騒の記憶」は、昭和51年(1987年)にここに設置されました。港区役所側に回ってみると、まるで右上腕に「東京タワー」そして右上腕には、現時点で日本一の高さ誇る「麻布台ヒルズ森JPタワー」を左上腕に乗せているように見えます。私が撮った写真にはそのような感じで写っています。いずれにしても「東京タワー」を背景に、くっきりとした造形を形作っています。「関根伸夫」は、昭和17年(1942年)に埼玉県に生まれ、「多摩美術大学院油画研究科」を卒業しました。そして、戦後の現代美術の運動である「もの派」をリードする作品を次々に制作し、発表しました。「関根伸夫」は、そのうちの「もの派」について、誕生のきっかけを生んだ有名なアーティストです。
10_「浅岡飯炊きの井」
「潮騒の記憶」関根伸夫作の次は「浅岡飯炊きの井」です。「潮騒の記憶」関根伸夫作から「潮騒の記憶」関根伸夫作までは徒歩1分30mほどの距離です。同じ「芝区役所」の敷地の南西の角の歩道沿いに「浅岡飯炊きの井」があります。
「港区役所」の敷地には、現在はありませんが江戸時代には、「増上寺」の子院である「良源院」という寺院がありました。「良源院」は、伊達家藩主などが「増上寺」を参詣する際に使った仙台藩伊達家の支度所があったとされます。その中にあったのが「浅岡飯炊きの井」です。この井戸がなぜこれほどまでに有名かというと、それは「伊達騒動」に起因しています。それは、万治3年(1660年)に仙台藩で起きた有名な「伊達騒動」の際に、2歳の「亀千代」(のちの「伊達綱村」)を毒殺から守るため、母の「三沢初子」(側室である「浅岡の局」)が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられているからです。もともとは、港区役所旧庁舎の中庭にあったものを、昭和62年(1987年)の庁舎新築の際に現在の地に移転したものだそうです。
ちなみに、「伊達騒動」は、「伊達亀千代」(後の「伊達綱村」)の後見人になった「伊達兵部」が、藩政を専権したため、「伊達安芸」が、幕府に訴えでて、幕府の裁定により、「伊達兵部」が土佐藩山内家に預けられて結着しました。これが、歌舞伎に取り上げられて「伽羅千代萩」では、幼君「鶴喜代」の乳母「政岡」が、幼君を敵から守るためわが子「千松」を犠牲にする場面は大変有名な場面となっています。
11_「平和の女神」北村西望作
「浅岡飯炊きの井」の次はすぐ隣にある「平和の女神」北村西望作を鑑賞します。「浅岡飯炊きの井」の5m先には、平和を願い天に向かって手を差し伸べた「平和の女神」北村西望作がやさしく迎えてくれます。「平和の女神像」は、長崎市「平和記念像」の作者として有名な北村西望氏の作品で、人類の理想である平和と幸福を願って、昭和43年(1968年)にここに建立されたものです。ちなみに、彫刻家「北村西望」は、明治17年(1884年)に長崎県生まれました。大正元年(1912年)に「東京美術学校」(現在の「東京芸術大学」)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。「北村西望」は、昭和33年(1958年)に文化勲章を受章、東京都名誉都民でもありました。なお、「北村西望」の作品は、武蔵野市の井の頭公園の彫刻園、北区の飛鳥山公園周辺、板橋区役所等にもあります。
12_「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」
「平和の女神」北村西望作の次は「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」へ向かいます。「平和の女神」北村西望作から「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」へは、徒歩2分160mの距離です。「平和の女神」のすぐ先の角を左折し、「港区役所」を回り込むように150mほど進むと、「慶応義塾大学芝共立キャンパス」が左手にあり、その敷地内にあります。
「慶應義塾大学薬学・薬学研究科」は、「共立薬科大学」との合併によって、平成20年(2008年)に誕生しました。「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」は、「共立薬科大学」の校名がなくなってしまう年に設置されています。やはり校名は残しておきたいものですよね。「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」の隣にある石碑(道路側)は、設立者の「小島昇の顕彰碑」です。ちなみに、「共立薬科大学」の歴史を紐解いてみると、「共立女子薬学専門学」校は昭和5年(1930年)に、この地で「芝・麻布共立幼稚園」を運営していた「小島つな」と息子の「小島昇」が設立しました。「志賀直哉」もこの幼稚園の卒業生です。
13_「芝大神宮」
「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」の次は「芝大神宮」へ向かいます。「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」から「芝大神宮」へは、徒歩2分150mの距離です。「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」の先の角を右折し、50mほど進むと信号があります。横断歩道を渡り右方向に進むと「芝大神宮」の駐車場がありますので、その先を左折し、50mほど進むと「芝大神宮」の鳥居があります。
最初に、「芝大神宮」の歴史と概要を紐解いてみると、「芝大神宮」は、「伊勢神宮」の御祭神である「天照大御神」(内宮)と「豊受大神」(外宮)の二柱を主祭神として祀っています。創建は、寛弘2年(1005年)に「一条天皇」のときに創建された約1000年の歴史をもつ由緒ある神社です。鎌倉時代には、「源頼朝」の篤い信仰のもと「飯倉神明宮」、「芝神明宮」といわれ、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に境内や門前には、茶屋、芝居小屋等が並び、相撲や富くじの興業も行われ、賑わいをみせました。関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」ともいわれ、「歌川広重」の錦絵にも描かれました。
「芝大神宮」の祭礼は期間が長いため「芝神明だらだら祭り」として知られています。祭礼には、生姜市が立ち、土生姜が売られたこと、生姜を神前にお供えしていたこと、生姜は古くから邪気を払う縁起の良い食べ物とされてきたことにより別名「生姜祭」とも呼ばれました。授与品には「千木筥」があり、東京の郷土玩具としても知られています。また、江戸時代に境内でおきた「め組鳶」と「角力」とのいさかいは「め組の喧嘩」として再三歌舞伎で上演せられ、その半鐘は今でも宝物として「芝大神宮」に保存されています。現在は縁結びの御利益がとくに有名で、女性には大人気なパワースポットです。女優の北川景子が歌手のDAIGOとの入籍前に参拝したということが話題になりました。「芝大神宮」には「千木筥(ちぎばこ)」といわれるお守りがあります。千木は千着と考えられ、「着るものに困らない」ということから「衣裳が増える」「良縁に恵まれる」と考えられるようになり、それが縁結びに繋がったそうです。
次のような巡路で「芝大神宮」を参拝しました。
《「芝大神宮」のお薦め参拝巡路》
①《鳥居》⇒②《銅燈篭》⇒③《貯金塚》⇒④《生姜塚》⇒⑤《狛犬》⇒⑥《百度石》⇒⑦《神明恵和合取組碑》⇒⑧《力石》⇒⑨《星野立子・椿・高士 三代俳句碑》
それでは、参拝のスタートです。
⑴_《鳥居》
「芝大神宮」の参道を進むと目の前に立派な「鳥居」が現れます。「芝大神宮」の「鳥居」は、高さ12.5mある「神明鳥居」です。「神明鳥居」の特徴は、上部の横柱が一直線になっていて歴史的にもっとも古いタイプの鳥居です。「鳥居」の真下には賽銭箱が設置され、階段を上らなくても参拝できるようになっています。後ほど「拝殿」で参拝することにして、「鳥居」の両側に記念碑等があるので、そちらから見ていくことにします。まずは、「鳥居」の両側にある「銅燈籠」です。
⑵ 《銅燈籠》
参道から「鳥居」に向かうと階段下の「鳥居」の両側に「銅燈籠」があります。また、左側には、「銅燈籠」と並んで立派な「社号碑」があります。この「銅燈籠」は、港区の有形文化財に平成9年(1997年)3月11日に指定されています。次は、「貯金塚」です。
⑶ 《貯金塚》
「鳥居」の右手にある植栽の植え込みの中に「貯金塚」とその説明の石碑があります。説明の石碑には、大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京で、「不動貯金銀行」(現在の「りそな銀行」)だけが貯金の全額払い戻しを行ったことが刻まれています。貯金塚の碑文は、「武者小路実篤」の筆です。「貯金塚 根気 根気 何事も根気 篤」と刻まれていました。そして、碑文の最後にある「倉は焼けても貯金は焼けぬ」という言葉が印象的です。次は、反対側にある「生姜塚」です。
⑷ 《生姜塚》
「鳥居」の左手の植栽の植え込みに「生姜塚」が建っています。碑の上部には、金色に輝く生姜が描かれています。江戸時代には、この付近には生姜畑が広がっていたそうです。ここの生姜は「神明生姜」という名で、食べれば風邪知らずとのことです。生姜には体を温める効果があることは有名ですが、実は邪気を払う効果もあるといわれているそうです。祭礼には、生姜市が立ち、土生姜が売られていたそうです。次は、階段を上るとある「狛犬」です。
⑸ 《狛犬》
「鳥居」をくぐると階段上の左右に「狛犬」があります。「狛犬」の台座には「め組」とあります。左側の「狛犬」は吽形像で、興味深いのは山のような太い円錐形の角があることです。また、右側の「狛犬」は阿形像で、宝珠の形をあしらったたんこぶのような頭の形をしています。この「狛犬」の台座の上段には正面に「奉献」と「昭和六年九月 芝石民刻」、台座の中断には正面に「め組」、「芝大神宮 高麗犬修覆 台石奉納 昭和四十年九月吉日」と刻まれていました。文字通りに受け取ると、昭和6年(1931年)に寄進されたものを昭和40年(1965年)に修復したということになりますね。次は、「手水舎」です。
⑹ 《手水舎》
「手水舎」は、「拝殿」に向かって左手の木々に隠れるようにしてあります。ちょっと分かりにくい場所かもしれません。「手水舎」の近辺には色々な石碑等があります。まずは、「百度石」です。
⑺ 《百度石》
「百度石」は、手水舎の手前にあります。「百度石」は、神社仏閣の境内で一定の距離を100回往復して参拝し、願いの成就を祈願するために使用される石柱のことですよね。「百度石」は、お百度参りの起点となるもので、ここから「芝大神宮」の「拝殿」まで15mほどあります。つまり走行距離は、3kmほどということになりますね。次は、歌舞伎の演目にもなっている「神明恵和合取組碑」です。
⑻ 《神明恵和合取組碑》
「手水舎」の奥のスペースは庭園のようになっていて、「神明恵和合取組碑」があります。文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。「神明恵和合取組碑」は、平成22年(2010)に建立されました。この「め組の喧嘩」には、喧嘩両成敗でなく、おもしろいというか粋な裁定が下されました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。後日、寺社奉行や町奉行と勘定奉行が裁きを出しました。その喧嘩の時にならされた「め組」の半鐘が、島流しの刑という珍しいものでした。それが講談や芝居の題材にされて、「芝大神宮」の名が世間に広く知れ渡ることになったそうです。次は、約190kg近い港区の有形民俗文化財に指定されている「力石」です。
⑼ 《力石》
「力石」は、境内左手の「手水舎」の奥にあります。「力石」には、「五拾貫余」とともに「川口町 金杉藤吉」の名前が刻まれています。「五拾貫余」はキログラムに換算すると1貫が3.75kgですからなんと187.5kgもあることになります。力持ちとしか言いようがありませんよね。「力石」は、重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石です。石に対する信仰は古くからあり、神の依代である重い石を持ち上げて力を競い、その年の吉凶や稲作の豊凶を占う行事もその一つでした。「力石」は、平成7年(1995年)9月26日に港区の有形民俗文化財に指定されています。次は、「高浜虚子」の娘、孫、曾孫の三代の句碑です。
⑽ 《星野立子・椿・高士 三代俳句碑》
「力石」のさらに奥の方でこれ以上先に進めないところに、「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」があります。この句碑は、「高浜虚子」の娘、孫、曾孫の三代の句碑になります。「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」は、平成15年(2003年) 9月に建立されました。句碑には次のように刻まれていました。
①「そよりとも 風はなけれど 夜涼かな」…立子
②「千年の 神燈絶えず 去年今年」…椿
③「界隈の たらだら祭 なる人出」…高士
最後は、「拝殿」どお祈りし、「芝大神宮」を後にします。
14_「東京佛願寺」
「芝大神宮」の次は、すぐそばにある「東京佛願寺」です。徒歩1分50mほどのところにあります。「芝大神宮」の参道を進むと右手に角があります。そこを右折し、15mほど進むと左手に「東京佛願寺」があります。
「東京佛願寺」は、「往生宗舎利山佛願寺」が正式名称です。以前は、「舎利山佛願寺」と言う宗教法人でしたが、平成28年(2016年)に現在の名称に改めました。全国にも何箇所か別院があり本部は札幌にあります。開祖は「弘善大師」ということですが、詳細は不詳です。「佛願寺」では、厄除け、開運、良縁、子宝祈願などの各種祈願を行っているお寺だそうです。外観から見ると一般的な寺院に見えません。また、「東京佛願寺」の中に入りにくそうな雰囲気だったので、外観からだけ眺めることにしました。皆さんにもそれをお薦めします。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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《芝公園 4号地》正面出入口付近(都道301号白山祝田田町線側)の公園名の石碑です。これが正面出入口の目印です。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》出入口付近(都道301号白山祝田田町線側)…都営地下鉄三田線「御成門駅」のA6出口(エレベータ)を出てすぐの左手に「芝公園4号地」の正面入口があります。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》出入口付近(港区立御成門小学校側)…今回は、「芝公園4号地」に隣接して「港区立小中一貫教育校御成門学園御成門小学校」があり、そちらの出入口から入ります。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「伸びゆく子供像」佛子泰夫作…「港区立小中一貫教育校御成門学園御成門小学校」の出入口のところには、「伸びゆく子供像」佛子泰夫作があります。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「伸びゆく子供像」佛子泰夫作…。「芝公園」の中で、ここは子供たちが健やかに育つよう願いが込められたエリアで、ボールで遊ぶ子供たちがモチーフとなっています。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「伸びゆく子供像」佛子泰夫作…彫刻家「佛子泰夫」は、大正5年(1916年) 12月15日に、東京都港区に生まれました。昭和15年(1940年)に「東京芸術大学美術学部」の前身である「東京美術学校彫刻科」を卒業しました。東京都港区虎ノ門の「俊朝寺住職」をつぐ一方で、昭和18年(1943年)の第6回新文展に「裸婦立像」で初入選しました。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「空襲の記憶と芝公園4号地」歴史のページ説明板…そこから都道409号(日比谷芝浦線)側にある正面出入口の方へ進むと左手に「芝公園4号地時計塔」、右手に「空襲の記憶と芝公園4号地歴史のページ」という説明板があります。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「空襲の記憶と芝公園4号地」歴史のページ説明板と桜の花の園内風景です。一週間前に愛宕神社周辺を訪れた時とは大違いです。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「開拓使仮学校跡碑」…さらに、正面出入口方向に進むと左手に「開拓使仮学校跡」の石碑があります。一般的に「開拓使」と言えば北海道を連想しますよね。なんでこんな所にあるのかと不思議に思い、碑文を読んでみると納得しました。「開拓使」は、明治2年(1869年)に、北海道やサハリンの北方開拓を重視する政府が作った中央官庁の一つです。
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《芝公園 4号地》「開拓使仮学校跡碑」…そして、北海道開拓の人材を育成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、設立されたのが「開拓使仮学校」で、現在の「北海道大学」の全身にあたります。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「開拓使仮学校跡碑」…年代を追って名称の変遷を見てみると「開拓使仮学校・札幌学校(1872年~)⇒札幌農学校(1876年~)⇒東北帝国大学農科大学(明治40年:1907年~)⇒北海道帝国大学(大正7年:1918年~)⇒北海道大学(昭和24年:1949年~)⇒国立大学法人北海道大学(平成16年2004年~)」でした。
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《芝公園 4号地》「芝公園4号地時計塔」…「開拓使仮学校跡」に隣接してある時計塔です。
芝公園 公園・植物園
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《芝公園 4号地》「芝公園4号地時計塔」…時計塔の後ろにはサクラの花が咲き誇っていました。
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《芝公園 4号地》東京タワーの見えるベストスポットの小道…「開拓使仮学校跡」から「こども平和塔」の方に進むと、その手前に「芝公園4号地プロムナード」があります。
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《芝公園 4号地》東京タワーの見えるベストスポットの小道…「児童遊園」と「運動広場」を結ぶ「プロムナード」の入口に立つと、「東京タワー」を正面から眺めることができ、インスタ映えする写真を撮ることができます。
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《芝公園 4号地》東京タワーの見えるベストスポットの小道…この周辺では、「東京タワー」を綺麗に眺められる場所は何箇所かありますが、その中でも「芝公園4号地」の「プロムナード」からの景色が、個人的にはベストアングルだと思います。
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《芝公園 4号地》東京タワーの見えるベストスポットの小道の植栽も東京タワー…「プロムナード」は、ドラマのロケ地にも使われることが多く、有名なところでは、「東京ラブストーリー2020」などが挙げられます。ちなみに、「東京ラブストーリー」は、「柴門ふみ」の漫画作品で、1988年から小学館「ビッグコミックスピリッツ」で連載されました。
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《芝公園 4号地》「こども平和塔」…「プロムナード」の隣には、高くそびえたった「こども平和塔」があります。
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《芝公園 4号地》「こども平和塔」…「こども平和塔」は、三人の息子を太平洋戦争で失った「田沢鐐二」の発願により、戦後の混乱の中で生きることの目標をもつことの大切さを考え、こどもたちの手によるこどもたちのための「こども平和塔」の建設が、昭和22年(1947年)から始まりました。
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《芝公園 4号地》「こども平和塔」…そして、7年間の歳月をかけて全国の児童生徒が、古新聞やお小遣いを出し合った費用を中心に、「こども平和塔」が、昭和29年(1954年)7月8日に完成しました。それ以来、毎年8月15日に「こども平和塔」の清掃と「こども平和まつり」を同時に行っています。
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《芝公園 4号地》「こども平和塔」…「こども平和塔」には、「戦争の痛手をきびしくうけた、わたくしたち日本の少年少女は、人類永遠の平和をねがうやむにやまれぬ心のしるしとして、ながいあいだかかつてこの塔をたてました」とこどもたちの言葉が「こども平和塔」のレリーフに刻まれ、塔の上部には平和のシンボルである3羽の鳩が大空に羽ばたいていました。
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《芝公園 4号地》「芝公園町舎碑」…「こども平和塔」の先に進むと「芝公園町舎碑」、「児童遊園」、「(多目的運動広場」がありました。また、「芝公園4号地」に隣接して「港区立みなと図書館」もありました。
芝公園 公園・植物園
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《お台場の石垣石》「芝公園4号地」の「多目的運動広場」の出入口から左方向に徒歩1分80mほど進むと、「港区立みなと図書館」の先に木の柵で綺麗に囲まれた「お台場の石垣石」があります。「港区立みなと図書館」正面入口の右手の方にあります。
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《お台場の石垣石》説明板…「お台場」というと「アクアシティお台場」、「フジテレビ本社」などがある今ではすっかりレジャースポットとして有名ですが、嘉永6年(1853年)の黒船来航により、幕府が急きょ築造した海上砲台です。「ペリー」来航後、再び来るであろう黒船を迎え撃つために、台場を築いて防衛拠点としました。
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《お台場の石垣石》未完を含め7基の台場のうち、国の史跡指定を受けた第3台場と第6台場の2基を残して、その他は解体され、埋め立てられました。この石垣石は、その時に、第5台場(現在の港南5丁目)から移されたといわれています。石垣石は、伊豆周辺から運ばれた安山岩で側面には、約100年の間、波に洗われた跡もあります。
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《御成門》道路の反対側から撮影…道路を挟んで「港区立みなと図書館」の反対側にあるのが「御成門」で、「お台場の石垣石」から徒歩2分120mほどのところにあります。
御成門は、増上寺の北方馬場にあった裏門の別称"だそうです。 by Lily-junjunさん御成門 名所・史跡
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《御成門》説明板…「御成門」は、「増上寺」の北方馬場にあった「裏門」の別称です。「御成門」の名前の由来は、「増上寺」は徳川家の菩提寺の一つで、将軍が参詣する際に、この裏門がもっぱら用いられましたので、「御成門」と呼ばれるようになりました。
御成門は、増上寺の北方馬場にあった裏門の別称"だそうです。 by Lily-junjunさん御成門 名所・史跡
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《御成門》正面から撮影…「御成門」は、当初は現在の御成門交差点にありましたが、明治25年(1892年)の東京市区改正計画で、内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際に、現在の位置に移築されました。関東大震災や太平洋戦争の戦火をくぐりぬけた貴重な建物です。
御成門は、増上寺の北方馬場にあった裏門の別称"だそうです。 by Lily-junjunさん御成門 名所・史跡
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《旧有章院霊廟二天門》正面から撮影…「御成門」の次は「有章院霊廟二天門」です。「御成門」から「有章院霊廟二天門」までは徒歩2分120mほどのところにあります。「芝公園三丁目」の信号まで戻り、右折すると90mほど先の右手に「有章院霊廟二天門」があります。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》正面から撮影…「有章院霊廟二天門」は、江戸幕府7代将軍「徳川家継」の霊廟の惣門だった建物で、昭和5年(1930年)5月23日に、国の重要文化財に指定されています。現在の「東京プリンスホテル」の周辺は、戦前は「増上寺」の「北廟」でした。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》正面から撮影…「北廟」には、6代将軍「徳川家宣」と7代将軍「徳川家継」の廟がありました。7代将軍「徳川家継」の廟は、享保2年(1717年)に8代将軍「徳川吉宗」が建立したものです。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》「日比谷通り」に架かる歩道橋から撮影…ちなみに、「有章院」とは7代将軍「徳川家継」の法号で、7代将軍「徳川家継」はわずか5歳で歴代最年少の将軍となり、その4年後には病気のため短い生涯を終えました。「有章院」を祀る霊廟には色とりどりで華やかな装飾があしらわれ、その豪華さは「日光東照宮に劣らない」と称されたほどでした。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》「日比谷通り」に架かる歩道橋から撮影…しかし、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失してしまいましたが、そのような戦禍の中で、「有章院霊廟二天門」だけが残っています。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》「日比谷通り」に架かる歩道橋から撮影しました。バックには東京タワーそして門の左手には桜の花が咲いています。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》「日比谷通り」の道路の反対側から撮影…「有章院霊廟二天門」には、仏教の護法神であり、向かって右が北方を守る「多聞天」と左が西方を守る「広目天」が祀られています。現存していませんが、6代将軍「徳川家宣」の「文昭院霊廟」の門には「持国天」と「増長天」が安置され、2門あわせて仏法を守護する「四天王」が祀られていました。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》案内板と説明板…昭和20年(1945年)の東京大空襲で霊廟が焼失した後、土葬されていた「徳川家継」の遺体は荼毘に付され、徳川将軍家霊廟に改葬されているそうです。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》説明板…「有章院霊廟二天門」をそばで見るのもいいのですが、「日比谷通り」に架かる歩道橋の上から別のアングルで見ると、建築物の素晴らしさがさらに分かります。是非、歩道橋の上から眺めてください。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》増長天像…「増長天」は、世界の南方を守護しています。五穀豊穣を司っています。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》広目天像…「広目天」は、浄天眼をもって観察し、世界の西方を守護しています。悪心をいさめ、仏心を起こさせるはたらきを司っています。筆と巻子を持っています。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《旧有章院霊廟二天門》ふんだんに葵の紋が装飾されている門の扉です。これだけでも徳川家の威厳が感じられます。
有章院霊廟二天門は、日比谷通りに架かる歩道橋の上から別のアングルで見るとその素晴らしさが分ります。 by Lily-junjunさん有章院霊廟二天門 寺・神社・教会
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《日本近代教育発祥の地》「有章院霊廟二天門」から「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」へ向かいます。「有章院霊廟二天門」から「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」までは徒歩4分270mほどの距離の移動です。
この辺りにあった源流院というお寺で、東京の近代教育がはじまりました。 by Lily-junjunさん日本近代初等教育発祥の地 名所・史跡
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《日本近代教育発祥の地》明治政府は教育の重要性に着目して、国民全員に教育を施す最初の近代教育制度である学制を明治5年(1872年)に制定しました。それに先立ち東京府では、明治3年(1870年)6月に6つの小学校を、「源流院」以下6ケ所の寺院に開校しました。その第一校がこの地に造られました。まさに、教育の出発点ですね。
この辺りにあった源流院というお寺で、東京の近代教育がはじまりました。 by Lily-junjunさん日本近代初等教育発祥の地 名所・史跡
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《日本近代教育発祥の地》「源流院」は江戸初期からの「増上寺」の子院で、境内北辺の御成門東側(現在の芝公園1丁目1番)にあり、「小学第一校」はこの「源流院内」に創設されたそうです。
この辺りにあった源流院というお寺で、東京の近代教育がはじまりました。 by Lily-junjunさん日本近代初等教育発祥の地 名所・史跡
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《日本近代教育発祥の地》他の5校は第二校が市ヶ谷「洞雲寺」に(現在の番町小学校)、第三校が牛込「万昌院」に(現在の愛日小学校)、第四校が本郷「本妙寺」に(現在の湯島小学校)、第五校が浅草「西福寺」に(現在の育英小学校)、第六校が深川「長慶寺」に(現在の深川小学校)です。平成2年(1990年)10月24日に港区の旧跡に指定されました。
この辺りにあった源流院というお寺で、東京の近代教育がはじまりました。 by Lily-junjunさん日本近代初等教育発祥の地 名所・史跡
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《伝染病研究所発祥の地》「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」の次は「伝染病研究所発祥の地」です。「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」からま「伝染病研究所発祥の地」までは徒歩50mほどの距離です。
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《伝染病研究所発祥の地》「日本近代教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)」から「増上寺」方向に進み、「芝剛園5号地」の一つ目の入口が左手にありますので、左折し奥に進むと、植え込みの中に「伝染病研究所発祥の地」の石碑と説明板があります。
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《伝染病研究所発祥の地》「北里柴三郎」は、「福沢諭吉」はじめ民間の援助を受け、明治25年(1892年)11月30日この地に開設された「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」において細菌学の研究を開始しました。
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《伝染病研究所発祥の地》「福沢諭吉」は、世界の「北里柴三郎」の才能が日本において埋もれるのを心配し、「福沢諭吉邸」の一角を提供しました。
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《伝染病研究所発祥の地》その後、国立となり白金台に移転しましたが、大隈内閣が研究所を内務省から文部省へ移管したのに反対し、所長の北里とともに仝所員が辞職しました。大正3年(1914年)11月に北里柴三郎」が私財を役じて創立した「北里研究所」がこの地に完成しました。恩師の「ローベルト・コッホ」の誕生日に合わせて、12月11日に開所しました。
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《伝染病研究所発祥の地》この伝染病の研究機関においては、数々の成果をあげました。「北里柴三郎」によるペスト菌の発見、「志賀潔」による「赤痢菌」の発見、「秦佐八郎」と「パウル・エールリッヒ」によるサルバルサンの創製などで、多くの伝染病の研究成果は世界を驚かせたそうです。
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《浄土宗近代教育発祥之地碑》垣根の向こう側にあり、分かりにくくなっているので、見逃さないように注意してください。
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《浄土宗近代教育発祥之地碑》「伝染病研究所発祥の地」の次は「浄土宗近代教育発祥之地」です。「伝染病研究所発祥の地」から「浄土宗近代教育発祥之地」までは徒歩1分100mほどの距離です。「伝染病研究所発祥の地」から「芝公園5号地」の側道を道なりに100mほど直進すると「天光院」の垣根の内側にあります。
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《浄土宗近代教育発祥之地碑》「天光院」は、「慈恵医大病院」が仮開業したお寺であるとともに「大正大学の発祥の地」の一つです。「浄土宗近代教育発祥之地」は、以前は「天光院」前にありましたが、いつのまにかひっそりとした通用口脇に移設されました。明治になって仏教宗派は宗派ごとの近代的学校造りを始めます。
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《浄土宗近代教育発祥之地碑》増上寺」の属する浄土宗は、「増上寺」の子院であった「天光院」内に「宗学本校」を設置します。「宗学本校」は明治24年(1891年)に現在の文京区小石川「伝通寺」裏に移転し明治37年(1904年)には「浄土宗大学」と改称します。さらに明治40年(1907年)に「宗教大学」と改称して、明治41年(1908年)に現校地のある巣鴨に移転します。
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《浄土宗近代教育発祥之地碑》天光院の敷地にあるので、境内に入り後ろ側から撮影しました。天台宗の「天台宗大学」、真言宗新義派の「豊山大学」が、大正15年(1926年)に合同して旧学制による「大正大学」ができました。「大正大学」は、宗派の垣根を取り外して造られた珍しい大学なのです。
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《天光院》外観…「浄土宗近代教育発祥之地」の次は「天光院」です。「浄土宗近代教育発祥之地」から「天光院」までは徒歩1分88mほどの距離です。垣根沿いに45mほど進み、突き当りを左折します。30mほど進むと左手に「天光院」があります。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》外観…「天光院」の歴史を紐解いてみる、「天光院」は、浄土宗の寺院です。「天光院」は天正12年(1584)年に、「増上寺」の「11世雲誉円也上人」が隠居寺として草創したといわれています。「円也上人」の出身地は筑後とも周防ともいわれ、そこから諸国修行の旅に出ましたたが、請われて伊勢白子の「悟真寺」の住職となります。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》外観…その後、関東に出て増上寺9世「貞把」のもとに学び、増上寺10世「存貞」の弟子となります。「円也上人」は「存貞」の住職した鎌倉岩瀬の「大長寺」の2世となり、「存貞」が4年後に「増上寺」を辞した後を受けて増上寺11世となりました。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》外観…「天光院」は、「慈恵医大病院」が仮開業したお寺であるとともに「大正大学の発祥の地」の一つです。学制が近代化の一歩を踏み出た時に、浄土宗でも、その学制として「浄土宗教校の本校」の所在地として「天光院」が明治22年(1889年)から明治23年(1890年)まで使用されました。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》外観…それらは、各地に発展し、「大正大学」、「仏教大学」、「芝学園」、「東山学園」、「上宮学園」、「東海学園」、「鎮西学園」などとなって、現在30校、約60000人が学び、巣立っていきました。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》「詮也不動」…正面には、「詮也不動」と大きな石灯籠があります。「詮也不動」は、「天光院」の9世住職「詮也上人」の墓碑として建立されたものです。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》境内風景…「詮也不動」の説明板です。「詮也不動像」の左下に設置されています。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》境内風景…アップにすると「詮也不動」の迫力が伝わってきます。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》「ジュエリーホール」…さらに奥に進むと多目的ホールの「シュリーホール」があります。主に「天光院」の檀信徒の葬祭・法事等に利用されていますが、地元住民の催しやNPO法人、各種団体の利用に広く開放しているそうです。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《天光院》境内風景…桜の花が咲き始めていました。「客殿」と「寺務所」入口がその前にあります。
慈恵医大病院が仮開業したお寺であるとともに大正大学の発祥の地の一つです。 by Lily-junjunさん天光院 寺・神社・教会
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》…「天光院」の次は「潮騒の記憶」関根伸夫作です。「天光院」から「潮騒の記憶」関根伸夫作までは徒歩2分150mほどの距離です。「天光院」の右前方に「日比谷通り」と平行に走る道路があります。そこを130mほど進むと左手に「芝区役所」がありその敷地の歩道沿いに「潮騒の記憶」のパブリックアートがあります。
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》…「潮騒の記憶」は、彫刻家の「関根伸夫」の制作よるものです。私には、両腕をあげて力こぶを作っているように見えます。
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》台座のプレートには「かつてこの地は海の近くで、海鳥が訪れ、潮騒がたえず響く港であった。遠ざかる思い出と港区の未来を記念してこれを「潮騒の記憶」となす」と刻まれていました。この「潮騒の記憶」は、昭和51年(1987年)にここに設置されました。
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》「関根伸夫」は、昭和17年(1942年)に埼玉県に生まれ、「多摩美術大学院油画研究科」を卒業しました。そして、戦後の現代美術の運動である「もの派」をリードする作品を次々に制作し、発表しました。「関根伸夫」は、そのうちの「もの派」について、誕生のきっかけを生んだ有名なアーティストです。
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》港区役所側に回ってみると、まるで右上腕に「東京タワー」そして右上腕には、現時点で日本一の高さ誇る「麻布台ヒルズ森JPタワー」を左上腕に乗せているように見えます。
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》「東京タワー」を背景に、くっきりとした造形を形作っています。
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《「潮騒の記憶」関根伸夫作》作品のプレートですが、朝方に雨が降ったらしく、写真にすると文字がよく見えませんでした。
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《浅岡飯炊きの井》「潮騒の記憶」関根伸夫作の次は「浅岡飯炊きの井」です。「潮騒の記憶」関根伸夫作から「潮騒の記憶」関根伸夫作までは徒歩1分30mほどの距離です。同じ「芝区役所」の敷地の南西の角の歩道沿いに「浅岡飯炊きの井」があります。
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《浅岡飯炊きの井》「港区役所」の敷地には、現在はありませんが江戸時代には、「増上寺」の子院である「良源院」という寺院がありました。「良源院」は、伊達家藩主などが「増上寺」を参詣する際に使った仙台藩伊達家の支度所があったとされます。その中にあったのが「浅岡飯炊きの井」です。
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《浅岡飯炊きの井》説明板…この井戸がなぜこれほどまでに有名かというと、それは「伊達騒動」に起因しています。それは、万治3年(1660年)に仙台藩で起きた有名な「伊達騒動」の際に、2歳の「亀千代」(のちの「伊達綱村」)を毒殺から守るため、母の「三沢初子」(側室である「浅岡の局」)が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられているからです。
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《浅岡飯炊きの井》ちなみに、「伊達騒動」は、「伊達亀千代」(後の「伊達綱村」)の後見人になった「伊達兵部」が、藩政を専権したため、「伊達安芸」が、幕府に訴えでて、幕府の裁定により、「伊達兵部」が土佐藩山内家に預けられて結着しました。
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《浅岡飯炊きの井》これが、歌舞伎に取り上げられて「伽羅千代萩」では、幼君「鶴喜代」の乳母「政岡」が、幼君を敵から守るためわが子「千松」を犠牲にする場面は大変有名な場面となっています。
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《「平和の女神」北村西望作》「浅岡飯炊きの井」の次はすぐ隣にある「平和の女神」北村西望作を鑑賞します。「浅岡飯炊きの井」の5m先には、平和を願い天に向かって手を差し伸べた「平和の女神」北村西望作がやさしく迎えてくれます。
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《「平和の女神」北村西望作》「平和の女神像」は、長崎市「平和記念像」の作者として有名な北村西望氏の作品で、人類の理想である平和と幸福を願って、昭和43年(1968年)にここに建立されたものです。
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《「平和の女神」北村西望作》ちなみに、彫刻家「北村西望」は、明治17年(1884年)に長崎県生まれました。大正元年(1912年)に「東京美術学校」(現在の「東京芸術大学」)彫刻科を首席で卒業後し、北区西ヶ原のアトリエで数々の名作を製作しました。
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《「平和の女神」北村西望作》「北村西望」は、昭和33年(1958年)に文化勲章を受章、東京都名誉都民でもありました。
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《「平和の女神」北村西望作》説明文プレート…港区が昭和60年(1985年)に
「港区平和都市宣言」を記念して建立されたと書かれています。 -
《「平和の女神」北村西望作》なお、「北村西望」の作品は、武蔵野市の井の頭公園の彫刻園、北区の飛鳥山公園周辺、板橋区役所等にもあります。
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《共立女子薬学専門学校発祥之地の碑》「平和の女神」北村西望作から「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」へは、徒歩2分160mの距離です。「平和の女神」のすぐ先の角を左折し、「港区役所」を回り込むように150mほど進むと、「慶応義塾大学芝共立キャンパス」が左手にあり、その敷地内にあります。
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《共立女子薬学専門学校発祥之地の碑》「慶應義塾大学薬学・薬学研究科」は、「共立薬科大学」との合併によって、平成20年(2008年)に誕生しました。
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《共立女子薬学専門学校発祥之地の碑》「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」は、「共立薬科大学」の校名がなくなってしまう年に設置されています。やはり校名は残しておきたいものですよね。
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《共立女子薬学専門学校発祥之地の碑…「共立薬科大学」の歴史を紐解いてみると、「共立女子薬学専門学」校は昭和5年(1930年)に、この地で「芝・麻布共立幼稚園」を運営していた「小島つな」と息子の「小島昇」が設立しました。「志賀直哉」もこの幼稚園の卒業生です。
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《共立女子薬学専門学校発祥之地の碑》「共立女子薬学専門学校発祥之地の碑」の隣にある石碑(道路側)は、設立者の「小島昇の顕彰碑」です。
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《芝大神宮》石鳥居付近…「芝大神宮」の参道を進むと目の前に立派な「鳥居」が現れます。「芝大神宮」の「鳥居」は、高さ12.5mある「神明鳥居」です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居付近…「神明鳥居」の特徴は、上部の横柱が一直線になっていて歴史的にもっとも古いタイプの鳥居です。「鳥居」の真下には賽銭箱が設置され、階段を上らなくても参拝できるようになっています。後ほど「拝殿」で参拝することにして、「鳥居」の両側に記念碑等があるので、そちらから見ていくことにします。まずは、「鳥居」の両側にある「銅燈籠」です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の右側にある「銅燈篭」…参道から「鳥居」に向かうと階段下の「鳥居」の両側に「銅燈籠」があります。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の左側にある「社号標」と「銅燈篭」…左側には、「銅燈籠」と並んで立派な「社号碑」があります。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の右側にある「銅燈篭」と「貯金塚」です。見逃さないようにしてください。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の左側にある「銅燈篭」…「銅燈籠」は、港区の有形文化財に平成9年(1997年)3月11日に指定されています。次は、「貯金塚」です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の右側にある「貯金塚」…「鳥居」の右手にある植栽の植え込みの中に「貯金塚」とその説明の石碑があります。
芝大神宮 生姜塚 名所・史跡
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《芝大神宮》石鳥居の右側にある「貯金塚」…説明の石碑には、大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京で、「不動貯金銀行」(現在の「りそな銀行」)だけが貯金の全額払い戻しを行ったことが刻まれています。
芝大神宮 貯金塚 名所・史跡
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《芝大神宮》石鳥居の右側にある「貯金塚」…貯金塚の碑文は、「武者小路実篤」の筆です。「貯金塚 根気 根気 何事も根気 篤」と刻まれていました。そして、碑文の最後にある「倉は焼けても貯金は焼けぬ」という言葉が印象的です。次は、反対側にある「生姜塚」です。
芝大神宮 貯金塚 名所・史跡
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《芝大神宮》石鳥居の左側にある「生姜塚」…「鳥居」の左手の植栽の植え込みに「生姜塚」が建っています。碑の上部には、金色に輝く生姜が描かれています。江戸時代には、この付近には生姜畑が広がっていたそうです。
芝大神宮 生姜塚 名所・史跡
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《芝大神宮》石鳥居の左側にある「銅燈篭」と「生姜塚」…ここの生姜は「神明生姜」という名で、食べれば風邪知らずとのことです。生姜には体を温める効果があることは有名ですが、実は邪気を払う効果もあるといわれているそうです。祭礼には、生姜市が立ち、土生姜が売られていたそうです。次は、階段を上るとある「狛犬」です。
芝大神宮 生姜塚 名所・史跡
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内にある「狛犬」(左側:吽像)…「鳥居」をくぐると階段上の左右に「狛犬」があります。「狛犬」の台座には「め組」とあります。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内にある「狛犬」(左側:吽像)…左側の「狛犬」は吽形像で、興味深いのは山のような太い円錐形の角があることです。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内にある「狛犬」(右側:吽像)…右側の「狛犬」は阿形像で、宝珠の形をあしらったたんこぶのような頭の形をしています。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内にある「狛犬」」(右側:吽像)…この「狛犬」の台座の上段には正面に「奉献」と「昭和六年九月 芝石民刻」、台座の中断には正面に「め組」、「芝大神宮 高麗犬修覆 台石奉納 昭和四十年九月吉日」と刻まれていました。文字通りに受け取ると、昭和6年(1931年)に寄進されたものを昭和40年(1965年)に修復したということになりますね。次は、「手水舎」です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》境内風景…「手水舎」…「手水舎」は、「拝殿」に向かって左手の木々に隠れるようにしてあります。
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《芝大神宮》境内風景「手水舎」…ちょっと分かりにくい場所かもしれません。「手水舎」の近辺には色々な石碑等があります。まずは、「百度石」です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》境内風景…「手水舎」説明板ですが、字がかすれて見えません。メンテナンスが必要ですね。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》境内風景「百度石」…「百度石」は、手水舎の手前にあります。「百度石」は、神社仏閣の境内で一定の距離を100回往復して参拝し、願いの成就を祈願するために使用される石柱のことですよね。「百度石」は、お百度参りの起点となるもので、ここから「芝大神宮」の「拝殿」まで15mほどあります。つまり走行距離は、3kmほどということになりますね。次は、歌舞伎の演目にもなっている「神明恵和合取組碑」です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》「神明恵和合取組碑」…「手水舎」の奥のスペースは庭園のようになっていて、「神明恵和合取組碑」があります。文化2年(1805年)の相撲興業の際に鳶頭と力士の間で起こった乱闘騒ぎは「め組の喧嘩」として知られ、歌舞伎や講談の演目ともなりました。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》「神明恵和合取組碑」…「神明恵和合取組碑」は、平成22年(2010)に建立されました。この「め組の喧嘩」には、喧嘩両成敗でなく、おもしろいというか粋な裁定が下されました。この当時、「芝大神宮」の境内には相撲や芝居小屋や見世物小屋などがあり賑わっていました。境内で開催中だった相撲のことで、町火消の「め組」と相撲力士とで乱闘事件になりました。
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《芝大神宮》「神明恵和合取組碑」…後日、寺社奉行や町奉行と勘定奉行が裁きを出しました。その喧嘩の時にならされた「め組」の半鐘が、島流しの刑という珍しいものでした。それが講談や芝居の題材にされて、「芝大神宮」の名が世間に広く知れ渡ることになったそうです。次は、約190kg近い港区の有形民俗文化財に指定されている「力石」です。
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内左手にある「力石」とその説明板…「力石」は、境内左手の「手水舎」の奥にあります。「力石」には、「五拾貫余」とともに「川口町 金杉藤吉」の名前が刻まれています。「五拾貫余」はキログラムに換算すると1貫が3.75kgですからなんと187.5kgもあることになります。力持ちとしか言いようがありませんよね、
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内左手にある「力石」…「力石」は、重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石です。石に対する信仰は古くからあり、神の依代である重い石を持ち上げて力を競い、その年の吉凶や稲作の豊凶を占う行事もその一つでした。
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると境内左手にある「力石」…「力石」は、平成7年(1995年)9月26日に港区の有形民俗文化財に指定されています。
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると拝殿の左側にある「星野立子 椿 高士 三代俳句碑」…「力石」のさらに奥の方でこれ以上先に進めないところに、「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」があります。この句碑は、「高浜虚子」の娘、孫、曾孫の三代の句碑になります。「星野立子・椿・高士 三代俳句碑」は、平成15年(2003年) 9月に建立されました。句碑には次のように刻まれていました。
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《芝大神宮》石鳥居の階段を上ると拝殿の左側にある「星野立子 椿 高士 三代俳句碑」…①「そよりとも 風はなけれど 夜涼かな」…立子②「千年の 神燈絶えず 去年今年」…椿③「界隈の たらだら祭 なる人出」…高士
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》拝殿付近…「芝大神宮」は、「伊勢神宮」の御祭神である「天照大御神」(内宮)と「豊受大神」(外宮)の二柱を主祭神として祀っています。創建は、寛弘2年(1005年)に「一条天皇」のときに創建された約1000年の歴史をもつ由緒ある神社です。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》拝殿付近…「社務所」…鎌倉時代には、「源頼朝」の篤い信仰のもと「飯倉神明宮」、「芝神明宮」といわれ、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に境内や門前には、茶屋、芝居小屋等が並び、相撲や富くじの興業も行われ、賑わいをみせました。関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」ともいわれ、「歌川広重」の錦絵にも描かれました。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》拝殿付近…「芝大神宮」の祭礼は期間が長いため「芝神明だらだら祭り」として知られています。祭礼には、生姜市が立ち、土生姜が売られたこと、生姜を神前にお供えしていたこと、生姜は古くから邪気を払う縁起の良い食べ物とされてきたことにより別名「生姜祭」とも呼ばれました。授与品には「千木筥」があり、東京の郷土玩具としても知られています。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》拝殿付近…、江戸時代に境内でおきた「め組鳶」と「角力」とのいさかいは「め組の喧嘩」として再三歌舞伎で上演せられ、その半鐘は今でも宝物として「芝大神宮」に保存されています。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》拝殿付近…御祭神の説明板…現在は縁結びの御利益がとくに有名で、女性には大人気なパワースポットです。女優の北川景子が歌手のDAIGOとの入籍前に参拝したということが話題になりました。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《芝大神宮》拝殿付近…「芝大神宮」には「千木筥(ちぎばこ)」といわれるお守りがあります。千木は千着と考えられ、「着るものに困らない」ということから「衣裳が増える」「良縁に恵まれる」と考えられるようになり、それが縁結びに繋がったそうです。
関東のお伊勢さまと呼ばれ、め組の喧嘩で一躍名を馳せた芝大神宮を訪れました。お守りやお御籤が独創的です。 by Lily-junjunさん芝大神宮 寺・神社・教会
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《東京佛願寺》外観…「芝大神宮」の次は、すぐそばにある「東京佛願寺」です。徒歩1分50mほどのところにあります。「芝大神宮」の参道を進むと右手に角があります。そこを右折し、15mほど進むと左手に「東京佛願寺」があります。
各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。 by Lily-junjunさん佛願寺 寺・神社・教会
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《東京佛願寺》外観…「東京佛願寺」は、「往生宗舎利山佛願寺」が正式名称です。
各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。 by Lily-junjunさん佛願寺 寺・神社・教会
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《東京佛願寺》外観…以前は、「舎利山佛願寺」と言う宗教法人でしたが、平成28年(2016年)に現在の名称に改めました。全国にも何箇所か別院があり本部は札幌にあります。
各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。 by Lily-junjunさん佛願寺 寺・神社・教会
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《東京佛願寺》入口付近…開祖は「弘善大師」ということですが、詳細は不詳です。
各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。 by Lily-junjunさん佛願寺 寺・神社・教会
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《東京佛願寺》福ちゃん地蔵…入口左手にあります。愛くるしい表情をしています。
各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。 by Lily-junjunさん佛願寺 寺・神社・教会
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《東京佛願寺》今月の御朱印…「佛願寺」では、厄除け、開運、良縁、子宝祈願などの各種祈願を行っているお寺だそうです。外観から見ると一般的な寺院に見えません。
各種祈願を行っているお寺だそうですが、外観からお寺とは認識できません。 by Lily-junjunさん佛願寺 寺・神社・教会
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