
2024/06/13 - 2024/06/13
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montsaintmichelさん
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車折神社(後編)は、祭神に清原頼業を祀る社殿以上に人気の朱塗りの玉垣で有名な芸能神社や「才色兼備」のご利益が頂ける清少納言社を中心に、15ある末社の主だったもの、画聖 富岡鉄斎にまつわるものなどをレポします。
芸能神社では芸能人やアーティストの名前が入った玉垣に目が奪われがちですが、拝殿に奉納された「嵯峨面」や「お賽銭箱」、本殿の「脇障子」や「妻飾り」など見所が満載です。また、天宇受売命を祭神に祀る神社は他にも多数あるのに、何故ここだけが多くの芸能人に崇敬されているのか、その謎に迫ってみました。
生没年や墓所などが不詳な清少納言は、清原家の一族として境内にある清少納言社に祀られています。清少納言の父 清原元輔は、車折神社の祭神 清原頼業と同じく天武天皇の第6皇子 舎人親王の後胤という縁によります。尚、清少納言社の正面に当たる朱塗りの玉垣に、NHK大河ドラマ『光る君へ』で「ききょう」役で清少納言を好演されているファーストサマーウイカさんの名前があります。お宝探しのような感覚で、別の角度から愉しむことができます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
境内マップです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://www.kurumazakijinja.or.jp/keidaiannai.html -
社号柱(表参道:三条通り側)
ここからは位置関係を明確にするため、三条通り側の表参道へワープしてから進めます。
社号は宮司として車折神社復興を遂げさせた近代文人画の巨匠 富岡鉄斎の筆になります。境内には他にも鉄斎にまつわるものがあり、鉄斎を身近に感じながら参拝することができます。尚、社号は故事に因んで「車裂」「車前」とも表記されますが、読み方はどれも「くるまざき」です。 -
表参道入口
ここが神域と俗界との結界になります。 -
表参道 社号柱
旧第二鳥居の部材(希少な岡山県産の「北木石(御影石)」)をリサイクルしたものです。ここにはかつて1908年建立の第二鳥居が立てられていました。
2007年に大型観光バスが第二鳥居を潜り抜けようとして、高さ約3.4mにある横柱「貫」と接触し、石材の一部が損壊するという痛ましい事故が発生しました。「貫」が引き千切られるようにして崩落したそうです。
ただし、この事故には謎があります。事故は境内にある駐車場から三条通りへ出ようとして発生したと言うのです。つまり、駐車場へ入る際には支障なく鳥居を潜り抜けられていたのです。バスの高さも「貫」の高さとほぼ同じだったそうです。観光バスなので乗客数が減ってタイヤの変形量が減って車高が高くなったとも考えられません。
警察が捻出した結論は「段差などを乗り越えた際、僅かに車体が跳ね上がった」だそうです。 -
水神社(龍神様)
鳥居には「昇龍」の扁額を掲げており、祭神には罔象女神(みずはのめのかみ)を祀ります。
水神様(龍神)の強大な神力により、「昇龍」の如く運気が上昇すると信仰を集めています。ご利益は「運気」「才智」の向上です。 -
水神社
昔、大堰川(桂川)の流れが現在の境内の付近まで流れていた頃、氾濫を鎮めるために水神様(龍神様)に祈願していたことに由来する神社です。
この地は清原氏の領地でしたが、洪水が起きると官吏である清原氏は、復旧工事のために氏人を選び、工事の監督を命じました。松尾大社付近にある桂川の堤罧原堤は、清原氏により築かれ、清原氏分家・伏原家の家領に分譲されたものです。毎年5月14日の例祭では、三船祭斎行の奉告、水上行事の安全が祈願されます。 -
水神社
水神社は、室町時代後期の1473年まで境内に祀られていましたが、その後、境内にある末社 滄海神社に合祀されました。そして、1962年に現在地に社殿が建立されました。
かつては、毎朝、祠の下にある浄水井から水を汲み、宝寿院殿(車折大神)に供えていたそうです。 -
水神社
躍動感に溢れた2頭の金色の龍が彫られています。 -
愛宕神社
こじんまりとした社です。
水神社の向かい側にあり、祭神には火を司る神である加具土命(かぐつちのみこと)を愛宕大神として祀ります。
ここから遥か遠く北西方向に聳える愛宕山山頂に鎮座するのが愛宕神社の総本社で、防伏・防火の神様として知られています。
ご利益は、防火・火伏せ。
愛宕神社と水神社は、表参道を挟んで守るように鎮座していることから、祓戸社的な役割をするものと窺えます。 -
神門
笠木は円柱状、柱と笠木の接続部から腕木を出し、屋根の軒裏を受けています。台輪こそありませんが、稚児柱を設けた両部鳥居の形式と窺えます。
この朱塗りの玉垣の内側が神域、外側が俗界と分かつ結界でもあり、玉垣に触ったりしないようにしてください。 -
表参道
参道の両脇に朱塗りの玉垣が整然と並ぶ姿は壮観でもあります。 -
清少納言社
清少納言は清原家の一族として境内に祀られています。清少納言は、その生没年や墓所などが不詳のため、清原氏ゆかりのこの地に祠を築き、御霊を祀ることになったそうです。
文学の才能だけでなく、容姿も端麗であった清少納言にあやかり、ここでは「才色兼備お守り」が授与されています。また、社務所には車折神社コラボの「キットカット」がありますが、その中でも一際目立つのが「清少納言キットカット」です。
2024年のNHK大河ドラマは、ライバルとされる紫式部が主人公ということもあり、こちらの社にも注目が集まるかもしれません。ご利益は「才色兼備」です。
因みに清少納言の父 清原元輔は、車折神社の祭神 清原頼業と同じく天武天皇の第6皇子 舎人親王の後胤です。 -
清少納言社
社は意外に小振りですが、玉石垣の上に建てられています。2基の春日灯籠がよいアクセントになっています。以前見た写真では名前が書かれた朱塗りの玉垣で囲まれていましたが、現在は落ち着いた竹玉垣となり、質素な雰囲気を醸しています。
清原頼業の祖先である舎人親王は『日本書紀』の編纂を主宰した人物で、ひ孫の清原夏野は『令義解』や『日本後記』の編纂を手掛けたことでも知られています。その4世孫の清原広澄が明経博士となって以降、子孫は明経道を教授し、朝廷においては長い間「大外記」を世襲しました。頼業は、夏野の9世孫に当たり、父親は祐隆です。
系譜図によれば、夏野のひ孫の代から分かれて、その3世孫として清少納言が生まれています。清少納言は平安時代中期の人物ですので、没後100年ほど経った頃に頼業が生まれています。 -
清少納言社
清少納言の父親は清原元輔、曽祖父は清原深養父であり、3人とも百人一首の歌人に挙げられています。62首目が清少納言の歌で「夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも よに逢坂の 関は許さじ」と詠んでいます。
ある夜、清少納言の所へやってきた大納言 藤原行成は、暫く話をした後、「宮中に物忌みがあるから」と早々に帰ってしまいました。翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文をよこした行成に、清少納言は「嘘おっしゃい。中国の函谷関の故事のような、鶏の空鳴きでしょ」とやり込めています。
「函谷関の故事」とは『史記』にある孟嘗君の逸話です。秦国で捕まった孟嘗君が逃げる際、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせました。
清少納言の「どうせ言い訳でしょ」との言葉に、行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と弁解します。そこで詠んだのがこの歌です。「鶏の鳴き真似でごまかそうとも、この逢坂の関は絶対開きませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ)」という意味です。即座にこれ程の教養を盛り込んだ歌を返すとは流石です。 -
芸能神社
清少納言社の正面に当たる朱塗りの玉垣に、NHK大河ドラマ『光る君へ』にて「ききょう」役で清少納言を好演されているファーストサマーウイカさんの名前があります。
ファーストサマーウイカさんのInstagramにも掲載されています。
https://www.instagram.com/p/C6DWW_Pywq9/?img_index=1
そもそも清少納言という名前は、「女房名」と言い、身分の高い人に使える女性の呼称です。清原家は清家とも言い、少納言は官位名です。つまり清家の娘で、父親や夫などの身近な親族の官職から、清・少納言と名乗っていたようです。 -
芸能神社
入口には1986(昭和61)年建立の石造 明神鳥居が立っています。
車折神社には15の末社がありますが、特に有名なのが芸能人ご用達の芸能神社です。1957(昭和32)年に境内社 地主神社から芸能・芸術の祖神として崇敬される天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祭神として分祀したのを起源とした、比較的新しい社です。
天宇受売命は天岩戸に隠れた天照大御神を誘い出すために舞を踊った女神で、芸能の神様とされています。それ故、芸能・芸術のご利益があるとされ、毎年多くの芸能人やアーティストが参拝されます。 -
芸能神社 拝殿
拝殿の正面上方には、鶴亀 高垣幸次郎氏が奉納された嵯峨面が掲げられています。
嵯峨面とは、嵯峨嵐山ゆかりの伝説や干支をモチーフに、和紙を貼り重ねた張り子のお面です。江戸時代中期に土産物や厄除け・魔除けのお守りとして制作が始まり、嵯峨にある社寺の門前で授与されていました。太平洋戦争によりいつしか姿を消しましたが、柳宗悦氏の民芸復興の意を受け近年復活されています。
実は嵯峨面は、嵯峨 清涼寺で行われる「嵯峨大念佛狂言」の狂言面を模したものだそうです。コミカルな表情をしているのも、狂言面に由来するためです。 -
芸能神社 拝殿・本殿
天宇受売命を祭神に祀る神社は多数ありますが、ここだけが殊更多くの芸能人に崇敬されているのにはそれなりの理由があります。
あくまでも俗説ですが、江戸時代に旅回りの歌舞伎役者が、土地の者から車折神社の前を通りがかった天皇の牛車が動かなくなり、天皇を本殿に招き入れたという故事を聞いた事に端を発します。
その役者は、天皇の足を留めるほどの霊験ある社なら、芝居小屋の前を通り過ぎる人の足も留めてもらえるに違いないと考えました。そして車折神社に興業の成功を祈願したところ、連日大入り満員の大成功を収めました。その噂は旅回りの歌舞伎役者に瞬く間に広がり、京で芝居を打つ時には必ず車折神社に参拝するのが慣わしになったそうです。
やがて奉納の証として玉垣に名が書かれるようになり、有名な役者たちの名が並ぶに連れ、「ここに名の無い役者は一流じゃない」と囁かれるようになりました。そして歌舞伎役者→花街→芸妓→唄のお師匠→踊りの家元へと広まっていきました。昭和時代に入ると、歌舞伎俳優であり映画俳優でもあった阪東妻三郎さんが、この太秦の地に阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所(現 東映京都撮影所)を設立するに至り、益々賑わうことになりました。 -
芸能神社 拝殿
賽銭箱は2021年に芸能活動40周年を迎えられた観月ありささんが奉納されたものです。観月さんの名前と「芸能活動40周年記念」の文字が記されたプレートが付けられています。1957(昭和32)年から使われてきた旧賽銭箱は塗装が剥がれるなど老朽化が目立っていたそうです。因みに、車折神社「芸能文化振興会」の総裁を観月ありさが務められています。
観月ありささんのInstagramです。
https://www.instagram.com/alisa_mizuki/p/CqhwielvFmK/?img_index=1 -
芸能神社 本殿
本殿は江戸時代の建立とされ、一間社春日造、銅板葺です。向拝の虹梁中備えは蟇股とし、「五三の桐」紋が鮮やかに彩色されています。向拝柱は角面取り、側面には拳鼻、柱上の組物は平三斗です。
本殿や拝殿は2020年12月に修復が完了していますが、社殿装飾は社寺建築の各分野の若手職人らが2007年に制作したものを流用しているそうです。漆や丹の塗装、欄干の金具、極彩色の壁画など、伝統技術の粋を集めた繊細な仕上がりにも注目です。 -
芸能神社 本殿
切目縁が3面に回され、背面側を塞ぐ脇障子には「唐獅子と牡丹」が描かれています。
無敵の獅子ですが、苦手なのが「獅子身中の虫」です。肌から食い込み、血肉を貪られます。しかし、この虫は牡丹の露がかかると死んでしまいますので、牡丹の陰にいる限り安全なため、獅子の安住の場所とされます。
縁の下の桁には、魔除けの三つ巴紋、剣頭紋、連珠紋が描かれています。 -
芸能神社 本殿
全国から「推し」の玉垣を見るために訪れるファンの方も少なくありません。「アクスタを持って、推し活」という、知らない方には呪文のように聞こえるキャッチフレーズは、お気に入りの芸能人の「アクリル・スタンド」という写真をアクリル板に挟んだものを持参し、その芸能人の玉垣の前で写真を撮るという行為です。実際、車折神社の社殿よりもこちらの方が賑わっています。
芸能神社を参拝する際に留意したいのが、「芸能神社は車折神社の末社」との認識です。いわば親(車折神社)と子(芸能神社)のような関係であり、まず車折神社から先にお参りするのがマナーとなっています。 -
芸能神社 本殿
車折神社はお守りもバラエティに富んでいますが、「推し活」をサポートしてくれる「推し活お守り」なるものもあります。
これは車折神社とタワーレコードがコラボして生まれたお守りで、アーティストなど推しのライブの神席が当たる、舞台のチケットに当選するなどのご利益があるそうです。因みに、タワーレコードでも授与されているそうです。 -
芸能神社 拝殿・本殿
社の周囲には所狭しと朱塗りの「玉垣」が並び、芸能神社でお祈りされた方々の名が書かれています。その数は境内全体で4500~5000枚にも及ぶとされ、年間2000枚ほどの奉納があるそうです。尚、一般の方でも玉垣奉納は可能で、受付から2年間玉垣として奉納されます。
玉垣の美しい文字は字体を統一するためにひとりの方が書かれており、現在担当されている方は10年以上の大ベテランさんだそうです。 -
大鳥居
1910(明治43)年建立の大鳥居です。以前はここに中門がありました。
真正面からご神前に進む事は「神様に対し敬う気持ちに欠ける行為」になるため、普段は通り抜け禁止になっています。 -
大鳥居 浪花狛犬
1858(安政5)年寄進の阿吽型の浪花狛犬です。浪花狛犬の特徴は、前髪はほとんどなく、代わりに太い眉があり、唇が二重に縁取りされていることです。基本形は住吉型狛犬を継いだものです。
実はこの浪花狛犬こそ関西で主流をなす狛犬です。江戸時代には大阪西横堀と堺に石工の集団があり、一大産地を築いていました。そこから京都を含め各地へ船便で運んだようです。鄙びた色合いですので、和泉砂岩製でしょうか?
口が大きく、大笑いしているようにも窺えます。 -
大鳥居 浪花狛犬
吽形の狛犬は頭の天辺に小さな角を持ちます。
浪花狛犬は寛政年間から大阪市内での奉納が増え、文政年間にピークを迎えました。北前船の帰り荷として九州や日本海沿岸各地、北海道まで運ばれています。
幕末~明治時代初期にかけてモデルチェンジがなされ、滋賀県や愛知県西部に浪速型狛犬を受け継いだ職人が現れて大正時代末まで盛んに彫られましたが、原石の供給が止まると同時に生産も終了したようです。 -
日本画家の冨田渓仙が奉納した、しだれ桜「渓仙桜」の近くにあります。
「三船祭」における管弦の船遊びに使われる「鷁首(げきす)」と「龍頭」のレプリカをガラス越しに拝めます。
1928(昭和3)年に昭和御大典を祈念して始められた「三船祭」は車折神社の例祭です。祭神 清原頼業が活躍した平安時代の典雅な水上の王朝絵巻が再現されます。御船座・龍頭船、鷁首船をはじめとする舟の上で詩歌、管弦、舞楽などの伝統芸能が披露されます。また選考により選ばれた女性が『枕草子』を著した清少納言に扮し、新緑の嵐山に華を添えます。流扇船からは芸能の上達を願って扇子が流され、この扇子を受け取ろうと川岸では大勢の人々で賑わいます。
因みに「三船」の名称は、白河天皇が漢詩・和歌・奏楽に長けたものを3隻の舟に分乗させたことに由来します。 -
こちらが「鷁」という鵜に似た想像上の水鳥です。
NHK大河ドラマ『光る君へ』に登場する藤原公任も「三船」に因んだエピソードを『大鏡』に登場する「三舟の才」に残しています。
口語訳すると次のようになります。
ある年、入道殿(藤原道長)が大井川で舟遊びをなさった時、漢文を作る舟、管絃をする舟、和歌を詠む舟に分け、その道に優れる人々を乗船させた時、大納言(藤原公任)が来られたので、入道殿が「大納言はどの舟に乗るのですかと?」と尋ねられ、大納言は「和歌の舟に乗ります」と答えて歌を詠まれました。
「小倉山 嵐の風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」
小倉山や嵐山から吹いてくる風が寒いので、紅葉が散って人々にかかり、錦の着物を着ていないものはいないことだよ。(紅葉がかかって、誰もが皆、錦の着物を着ているように見える。)
自ら進んで和歌の舟に乗っただけあり、見事に詠まれました。 -
こちらが「龍頭」です。
大納言が仰ったと聞いたのですが、「漢文を作る舟に乗ればよかった。そして今詠んだ歌と同レベルの漢詩を作ったならば、名声の上がることもよりあっただろうに、残念なことです。それにしても、入道殿が『どの舟に乗るのか?』と尋ねられたことは、私には漢詩の才能も、管絃の才能も、和歌の才能もあると見越しての発言であり、それを聞いて得意気になったものです」と仰られたそうです。一つの事に優れることさえ稀であるのに、いずれの分野でも優れておられるということは、遠い昔の例にもないことでございます。 -
辰巳稲荷神社
祭神には宇迦之御魂神を祀ります。『記紀』には性別が明確に判るような記述はありませんが、古くから女神とされてきました。
古来宇迦之御魂神は「五穀豊穣 」「生業繁栄」の神様として親しまれ、神号は本殿から辰巳(南東)の方角に位置することに由来します。つまり、辰巳の方角を守護しています。 -
辰巳稲荷神社
社殿は流造、銅板葺です。
出会い(縁)にも金運(円)にも恵まれる「縁(円)結び」のご利益で知られています。お守りのネーミングは「恋貨繚乱」です。 -
辰巳稲荷神社
狛狐は「こけし」を彷彿とさせる体形をしており、自然と頬が緩みます。
「縁結び」に引っ掛けているのか、台座にはハート型をした「猪の目」文様が施されています。 -
辰巳稲荷神社
左右の狛狐はどちらも木造の吽吽型ですが、瞳の色が違えてあります。
ひとつ前の画像は世界でここだけの「青い瞳」の狛狐。
こちらは「茶色い瞳」です。
おみ足の上に金のプレートを掲げ、背後にニョキっと突き出しているのが尻尾ですが定番の稲穂にはなっていません。 -
筆塚
境内にある駐車場の近くにあり、近代文人画の巨匠 富岡鉄斎が生前使用していた約2千本の筆が納められているそうです。鉄斎は89歳の生涯で1万点を超える作品を遺し、国際的にも高く評価された画聖です。一方、儒学者としての一面もあり、画家でありながら「絵よりもまず讚を読んで欲しい」と言うほど、絵に添えた詩文に強い思いを込められています。
珪質頁岩に「言の葉を 千とせの後に 伝へゆく 筆のいさをは つきしともおもふ」と書かれた文字は鉄斎筆と伝わります。奉納された筆は絵を描いたものかと思っていましたが、思い入れがあったのでしょうか文字を書いた筆でした。 -
筆塚
何故ここに鉄斎の筆塚が存在するかと言えば、若かりし頃の鉄斎は、1888(明治21)年から5年間車折神社の宮司を務め、一時荒廃していた神社を再興させたからです。
そんな経緯で神社には約百余点の鉄斎作品が残されていますが、残念ながら通常は非公開です。しかし鉄斎の痕跡は、本殿に掲げられた扁額や表・裏参道脇の社号柱、車折神社碑に刻まれた文字に見られます。
鉄斎は、1836(天保7)年、三条新町東で法衣商 十一屋伝兵衛を営む富岡維叙の次男に生まれました。幼少時から勉学に励み、富岡家の家学である石門心学や、国学、勤王思想などを学びました。更に、漢学や陽明学、詩文などを学ぶと、1855(安政2)年には女流歌人 大田垣蓮月尼に預けられ、人格形成に多大な影響を受けました。翌年に南画や大和絵を学び、画業で生計を立て始めました。
その後、明治維新後の30歳から10年余り、石上神宮や大鳥大社などの宮司を務めました。車折神社の宮司を退いた後、10年程は京都市美術学校の教員を務めましたが、1909(明治42)年に病を患い、1924(大正13)年に没しました。享年89。 -
車折神社碑
1909(明治42)年に富岡鉄斎が立てた、祭神 清原頼業の業績を顕彰するための碑です。高さ2m程、横幅1m程ある石碑です。
碑文には「頼業が死後に冥官と云われることを不審とし、また後嵯峨天皇御召の牛車の轅が毀損したのは祭神の怒りによる」との旨を記しています。
全て漢文なので読み取れないのですが、従一位勲一等侯爵 西園寺公望篆額の他、末尾に前車折神社社司正七位 富岡百錬書と認めています。
因みに碑文は、内藤湖南の代作とも囁かれています。 -
車折神社碑
上部の「篆額(てんがく)」を書いた西園寺公望は、1909年当時は正二位勲一等侯爵で、従一位は1940年没時の追贈です。
富岡鉄斎の実家は京都の裕福な法衣商でしたが、赤ん坊の頃に病で耳が遠くなり、それ故、幸運にも学問の道に進むことが許されたそうです。
明治新政府の下では神官として大和石上神宮など古社に任官しましたが、格式は高いものの相当衰退していたようです。そこで、パトロンたちに絵を売り、そのお金を復興に宛てたというのが鉄斎の絵心だったようです。
「わしの絵を見るなら、まず賛を読んでくれ」。これが鉄斎の口癖だったと言われます。 -
葵忠社(きちゅうしゃ)
嵯峨村の総年寄りとして村人から信頼を集め、材木問屋を営み、幕末京都の勤皇商人として活躍した福田理兵衛を祀る社です。明治維新の功績により従五位が贈られ、福田邸内に祀られた後、現在地に遷座されました。この遷座を機に翁を偲ぶための『嵯峨の遺光』の発刊に当り、清浦奎吾伯爵から題字「一片葵忠」が贈られたことから「葵忠社」と称されるようになりました。
車折神社は、富岡鉄斎が一時、宮司に就いたこともあり、勤王志士たちを支援していました。理兵衛の旧宅地がこの近隣だった縁でこの地に祀られており、毎年桜の花咲く4月には子孫の方々が一堂に会して理兵衛を偲ぶ「葵忠祭」が行われます。昭和50年代までの三条通りには材木問屋が点在していたそうです。 -
葵忠社
福田理兵衛が営む材木問屋は天龍寺の御用達だった関係もあり、理兵衛は、長州藩から依頼されて天龍寺と交渉に当たり、天龍寺を長州藩の宿舎とする契約を結ぶなど、長州藩に財産や自らの命、家族までも捧げた勤皇商人でした。国を憂い、ゆるぎない信念を持って地位も財産も投げ捨て、新たな時代の幕開けを目指す生き方を全うした人物です。それ故、ここは幕末マニアには欠かせない巡礼スポットとなっています。
1864(元治元)年の禁門の変の際、理兵衛父子は、長州藩と共に戦って敗れて妻子を残して長州へと逃れましたが、幕府軍であった薩摩藩兵により福田家は没収され、屋敷には火が放たれました。この時に失った財産は概算で1万5千両とされます。明治維新後に京都への転居が許可され、理兵衛は京に還って家を再興しようとしましたが、出発の前夜、兇刃の手に倒れました。時に1872(明治5)年、享年59。理兵衛のお墓は浄土宗 正定院にあります。 -
天満天神社(そらみつあまつかみのやしろ)
「清めの社」の向かい側にあり、天満大神が祀られています。
「天満」は菅原道真の死後、道真の怨霊が雷神となり、天に満ちたことに由来し、仏教の大自在天と習合し、道真の神号は「天満大自在天神」と称されました。
ご利益は、雷除けや農業・園芸など植物の生長促進です。
では何故、雷神が農作物の成長を促す神なのでしょうか?
「雷の多い年は豊作」と言われますが、これは単なる迷信ではありません。雷の放電により、空気中の窒素が水に溶け込み、それが植物の成長を促すそうです。また、放電した種はそうでない種より大きく成長するという調査結果もあるそうです。昔の人はこうしたことを経験値として知っていたのでしょう。 -
嵐電「車折神社駅」まで戻ってきました。
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嵐電 モボ101形106号
嵐電「車折神社駅」から東へ30mほど行った所に紫陽花が咲き誇っていました。
丁度、紫陽花と同系色の京紫色の嵐電が通りがかり、鎌倉の「江ノ電」を彷彿とさせる画像になりました。
京福電気鉄道 嵐山線 レトロタイプのモボ101形106号です。
1929(昭和4)年の嵐山本線 四条大宮 - 嵐山間の全線複線化に伴う輸送力増強と、新京阪鉄道による桂駅 - 嵐山駅間開業の対抗馬として登場した車両です。1929年に101~106号が藤永田造船所(現 三井造船)で製造されました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。 -
おまけ1
近所で見かけた「八重咲のドクダミ」です。
かっては万能薬だったことから「十薬」と呼ばれ重宝されていたドクダミですが、「八重咲き」の種類もあります。 -
おまけ2
白い花びらに見えるのは「総包片」で、花に付随した葉が変形したものです。
本当の花びらは白い総包片の間にある黄色い粒々のようなものが小さな花の集合体であり、雄しべと雌しべだけの構成です。 -
おまけ3
一般的なドクダミの総包片は4枚ですが、何故「八重咲き」があるのでしょうか?
多田多恵子著『したたかな植物たち』によると「ドクダミ科はガクも持たない原始的な被子植物なのだが、このような八重咲きの出現は『花びら』が進化する過程を示すモデルとして注目されている」とあります。
つまり、白い総包片は葉が突然変異したものだそうです。 -
おまけ4
白い総包片が幾重にも重なり、とても華やかです。
華麗なドレスを着込んでダンスを踊る姿を彷彿とさせます。
花言葉は「白い追憶」。
案外、貴方の近くで秘かに咲いているかもしれませんよ! -
おまけ5
ハグロトンボ(羽黒蜻蛉)
トンボ目カワトンボ科アオハダトンボ属です。
川の近くで群がっているのを見かけました。羽化して間もないのかもしれません。
黒色の羽と光沢のある黒色の体(♀)が美しいトンボです。細長い体付きをしており、見た目はイトトンボを大きくした感じです。飛び方はチョウトンボと同様に蝶のようにヒラヒラと飛びます。
留まっている時、羽を閉じたり開いたりする姿が人が合掌して神様に祈る姿に似ることから「神様トンボ」「極楽トンボ」「仏トンボ」と言った別名もあります。 -
おまけ6
ハグロトンボ(羽黒蜻蛉)
手持ちのスマホで最大限ズームアップしての撮影ですので、ノイズが目立ちます。
全身が黒いトンボ は「神様の使い」とされ、縁起が良いそうです。
また、トンボは飛び方が前進あるのみで、後ろ向きには飛ばないため、勝利のシンボルとされます。戦国時代は、戦の前にトンボに遭遇することで「勝利の予兆」「縁起が良い」と考えられていました。特に黒いトンボは、見た目が力強いパワーを感じさせることと、武将に付いたアブを捕まえたと伝わることから、「勝ち虫」として勝利を呼び込む存在として重宝されていたそうです。
更にトンボは、田畑の害虫を食べることから「豊作を助ける」といった意味合いもありました。豊作ということは、豊かな生活が約束されることです。つまり、トンボを見ると「お金に困らない恵まれた生活ができる」とも言われていました。 -
おまけ7
2024年7月7日
ウォーキングルートにある建速神社ではニイニイゼミが遠慮がちにソロ演習をしていました。梅雨明けも間近のようですが、連日の猛暑日には閉口です。どうぞご自愛くださいませ。
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