2024/06/13 - 2024/06/13
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montsaintmichelさん
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車折神社は、パワースポットとしてメディアや雑誌にも度々取り上げられ、当方には芸能神社を代表とするミーハー感覚の神社と刷り込まれていました。また、高校生の時に読んだ 坂口安吾著『日本文化私感』(昭和17年刊)には「非常に露骨な金儲けの神様」、「社殿の前に柵をめぐらした場所があって、この中に円みを帯びた数万の小石が山を成している。自分の欲しい金額と姓名生年月日などを小石に書いて、ここへ納め、願をかける」と記されており、正直な所、参拝を躊躇っていた神社でした。
しかし「百聞は一見に如かず」で、何事も自らの目で確かめなければ真実を見極められないのも事実であり、神社の由緒などを調べるうちに「芸能神社」・「金儲け」が全てではないと悟りました。
もうひとつ背中を押してくれたのが、「清少納言社」にスポットを当てた「いとをかし嵐電1日フリー切符」でした。彼女に因んだ特製の御朱印と才色兼備お守りが特典だったのですが、車折神社に清少納言社があることすら知らなかったのです。
参拝を終えて安吾の心情を読み解くと、往時の時代背景が過分に影響し、「一本のペンに一生を託し、ともすれば崩れそうな自信と日夜闘う物書きの身には、小石に書かれた俗悪な欲望に嫌悪感を抱いたのは必然」との結論に至りました。時代は変わり、祭神 清原頼業の人となりを理解した上で、学業成就のお礼の言葉が多かったことに安堵しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
「いとをかし嵐電1日フリー切符」
「紫式部」と同じ時代を生きた清少納言を祀る「清少納言社」(車折神社)にスポットを当てた2024年限定のお得なきっぷです。
様々な特典が付いており、そのひとつとして引換券を車折神社社務所に渡すと「才色兼備お守り」と「限定御朱印」が授与されます。 -
京福電鉄 嵐山本線(嵐電) 嵐山駅 はんなり・ほっこりスクエア
2013年にリニューアルした嵐電 嵐山駅は、「電停のある小さなまち」のコンセプトのもと、改札口を廃止したことにより、駅の敷地が自由に出入りできる広場として開放されました。
GLOMOROU Co. LTD代表 森田恭通氏の監修による「京友禅」を用いたポール600本を林に見立てた「キモノ・フォレスト(友禅の光林)」には、駅空間の中に柔らかく、はんなりとした美しい光に包まれた風景がデザインされています。
尚、「キモノ・フォレスト」はイタリアの世界的なデザイン賞「A’Design Award and Competition」の2013年度プラチナ賞にも選ばれています。 -
嵐電 嵐山駅 はんなり・ほっこりスクエア
「キモノ・フォレスト」は、京友禅の生地をアクリルで包み、高さ約2mのポール状にしたものを駅構内や線路脇に設置し、京友禅の林に見立てたもので、絵柄は32種類あります。ポールにはLEDが組み込まれており、夜には優しい光に包まれた幻想的な「光の森」に変身します。
使用されている京友禅は、大正時代から続く老舗「亀田富染工場」が製造しました。「亀田富染工場」はブランド名「Pagong(パゴン)」で京友禅とアロハシャツをミックスした伝統の上に新たな付加価値を見出した老舗染物屋でもあります。 -
嵐電「車折神社駅」
嵐電「嵐山駅」から2駅の距離にあります。
ホームの真ん前に裏参道の石鳥居が立ち、「神社参拝順路」の正面入口にもなります。こうして見るとホームのデザインも鳥居を意識しており、神社と同化しているように窺えます。
1910(明治43)年に開業した嵐山電車軌道に社地を無償提供して駅が誘致され、当初は「車折神社裏駅」と呼ばれていました。
その後、嵐山電車軌道は1918(大正7)年に京都電燈に吸収合併され、1922(大正11)年に「車折駅」に改称されました。1942(昭和17)年に京福電気鉄道に譲渡され、2007年に「車折神社駅」に改称されました。 -
社号柱(裏参道:嵐電側)
車折神社では「社号標」と言わず、「社号柱」と呼んでいます。何故「社号柱」と呼ぶのかは不詳ですが、神様を1柱、2柱と数える関係でしょうか?
社号は宮司として車折神社復興を遂げさせた近代文人画の巨匠 富岡鉄斎の筆になります。味のあるやわらかい書体です。
車折神社は京都市右京区嵯峨朝日町の有栖川の西側に佇む神社本庁に属さない単立神社で、旧社格は村社です。祭神は、平安時代後期に和漢の学識と実務の手腕は当代無比と称され、高倉天皇に仕えた漢学者・儒学者 清原頼業(よりなり)を祀ります。
1190年頃、頼業の御廟に車折神社の前身となる宝寿院が創建されたと伝えます。頼業は、朝廷組織の最高機関である大外記の職を長年務め、動乱期に政策を上奏しました。また晩年には九条兼実より政治の諮問を受け、兼実から「その才、神といふべく尊ぶべし」と評されました。その学徳から、学業成就や試験合格はもとより、金運・恋愛・芸能などのご利益があります。 -
石鳥居(裏参道)
扁額には「開運招福」とあります。
清原頼業が生前桜の木を愛でたことに因んで境内には多数の桜木が植えられており、春には桜が咲き乱れることから建立当初は「桜の宮」と称され、江戸時代には「桜大明神」とも呼ばれました。
一方、江戸時代の正徳元年に刊行された『山州名跡志』には五道冥官社(ごどうみょうかんしゃ)とあり、頼業が死後に冥官になったとの伝承があり、地獄で閻魔大王の臣として五道の衆生の善悪を裁く役人だったとされます。どことなく小野篁を彷彿とさせる話です。 -
狛犬
狛犬は左右両方とも阿型が安置され、1916(大正5)年に個人が寄進されたものです。四角い顎をして前足を伸ばして反り返ったポーズが超キュートです。こうした阿吽型ではない阿阿型の狛犬は京都では清水寺でも見られます。
国内最古の石造の狛犬は、奈良 東大寺南大門の狛犬とされ、宋人鋳物師 「陳和卿」の作品です。その狛犬は阿吽型ではなく、左右共に角張った顎を持ち、口を大きく開けています。その狛犬を模範とした狛犬のひとつがこれになります 。
車折神社のはじまりは平安時代末期と伝わります。祭神 清原頼業は1189(文治5)年に逝去し、明経道を家学とした清原家の領地であった現在地に御廟が設けられたことが始まりです。やがてそこに頼業の法名「宝寿院殿」に因んだ「宝寿院」が創建されました。その後、宝寿院は清原家の菩提寺となり、その境内に頼業を祀る社が建てられ、それが当社の起源です。
室町時代に足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、宝寿院はその末寺となりました。頼業を祀る社の一般信仰が広まったのは、儒学が盛んになった江戸時代以降のようです。その後、明治時代の神仏分離により宝寿院から独立しましたが、やげて荒廃の憂き目に遭いました。そこに、文人画家・儒学者 富岡鉄斎が宮司として入り、復興させました。 -
境内マップです。
祭神 清原頼業は「車折明神」とも呼ばれ、生涯約束を違えなかったことから、「約束を違えないこと」をお守り下さる霊験あらたかな神様として篤い信仰があります。頼業の名から、お金が「寄り」、商いが「成る」に掛けて商売繁盛、会社繁盛、金運・財運向上、学業成就、合格祈願、厄除、交通安全、安産などの信仰があります。坂口安吾が『日本文化私感』に「非常に露骨な金儲けの神様」と記した時代は、「お金が寄る」の信仰がクローズアップされていたのかもしれません。
例えば、商人においては、約束事や契約が守られることにより、集金(売掛回収)が滞りなく進み、経営が良好に運ぶご加護(商売繁昌・会社隆昌)が頂けます。
家庭においても、家計のやり繰りがうまく運び、生活が豊かになり、お金に不自由しないご加護(金運・財運向上)が頂けます。
更には恋愛・結婚においても、約束事や誓いが守られ、順調に成就・進行するご加護(良縁成就・恋愛成就)が頂けます。
その他、厄除けや交通安全など、全ての願い事に対しても車折大神様は皆様との約束を違えずにご利益をお授け下さるそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
「掲載許可承諾済」
https://www.kurumazakijinja.or.jp/keidaiannai.html -
手水舎
お洒落なと形容していいものか悩みますが、神社の手水舎としては他に類を見ないユニークなデザインです。
ここで身も心も清めた後、拝殿で参拝したいところですが、車折神社には独自の参拝手順があります。正式な参拝手順は、HPによると次の通りです。
1.手水舎で手と口を清める。
2.「祈念神石(きねんしんせき)お守り」を社務所にて授かる。
3.「清めの社」を参拝し、悪い運気・因縁を浄化し、心身を清める。
4.拝殿にて「二礼 二拍手 一礼」の後、授かった「祈念神石お守り」を両手で挟み、心の中で「願い事」を強く念じる。
5.後日、願い事が叶ったら「自宅や海・川・山」などで石を拾い、「お礼の言葉」をサインペンなどで記して拝殿前に奉納する。 -
手水舎
社名「車折神社」は、後嵯峨天皇が嵐山 大堰川へ行幸した折、社前で牛車を引かせる轅(ながえ(長柄)=牛車の前方に長く突き出した2本の棒)が折れて動けなくなり、調べてみると清原頼業を祀った小祠があった場所と判り、そのご神威を畏れ、門前右側にあった石を「車前石」と称し、神号「車折大明神」と最高神階である「正一位」を贈られたことに由来します。これ以降、「車折神社」と称することになりました。
また、別の逸話では、鎌倉時代、亀山天皇が嵐山への行幸の折、牛車が社の前に差し掛かると停車してしまった。車を牽いていた牛も地に伏して動かない。このため、「御くるまよりおりさせたまひぬ」として、門前にあった石を「車前の石」と称したとも伝えます。
更に江戸時代の観光ガイドブック『都名所図会』は、「車折社は下嵯峨材木町にあり…むかしこの所を車に乗りて行くものあり、忽ち牛倒れ車を折きしとぞ」と記しています。
こうした背景からこの神社では「石の霊験」に対する信仰が篤く、石をモチーフにした円錐形の立砂がある「清めの社」や神主がお祓いを行った小石が入った「祈念神石お守り」は古来より信仰を集めました。現在、清めの社は「悪運を浄化するパワースポット」、祈念神石は「願い事を叶えるパワーストーン」として信仰されています。 -
社務所
参拝手順に従い、手水舎で清めた後、社務所にて「祈念神石お守り」ではなく、「清少納言 才色兼備お守り」を授かります。
「御朱印」と「お守り 」は「いとをかし嵐電1日フリー切符」の特典です。 -
清めの社
石がご縁で後嵯峨天皇より「車折」の名を賜った故事に因み、様々な「石」が信仰の対象になっています。その代表格が石をモチーフにした円錐形の立砂を安置した「清めの社」です。家相・地相・方位の守護神を祀り、参拝するとあらゆる悪運・因縁が浄化され、心身を清められます。つまり、拝殿でお願いをする前に、ネガティブな要素を全て排除するということのようです。
「悪運を浄化する境内随一のパワースポット」としても有名で、立砂を携帯の待ち受け画像にすると運気が良くなるそうです。島田秀平さんもテレビで紹介されていました。 -
清めの社
円錐形の立砂は、上賀茂神社の立砂と同じ起源「神の依り代」と思われます。本来立砂は、神様が降臨する依り代であり、砂を盛って円錐形状にしたものが通例です。しかし、こちらは石でできています。
そもそも「立砂」には「山」と共に「水」という意味もあるそうです。石と砂で自然を表現する禅寺の「枯山水」においては、「立砂」は水を表します。「水源」は主に山中にあるため、山を築くことは「水源」を造ることでもあります。それ故、神を招き降ろす「依り代」であり、また穢れを洗い流す「水」の源ともなります。
因みにこの立砂は、触れるとご利益がなくなるそうです。 -
清めの社
社殿は、祭神 祓戸大神を祀り、三間社流造、銅板葺、正面に階段を置かない見世棚造です。
伊邪那岐命は、死んだ伊邪那美命を連れ戻すために黄泉の国へ行きましたが、あまりの惨たらしさに畏れをなして逃げ帰って来ました。そして、阿波岐原で身に付いた穢れを洗い流した時、伊邪那岐命の衣服や体から13柱の神々が出現しました。これらの神々を総称して「祓戸の大神」と呼びます。また、大祓詞に登場する瀬織津比売神や速開都比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神の4神を祓戸四神と称し、これらを指して「祓戸大神」とも言います。 -
拝殿・本殿へは大鳥居のある真正面から入ることはできないため、手水舎の手前にある東面する石鳥居から入ります。
毎年6月中はこの石鳥居に茅の輪が取り付けられています。「夏越の祓(なごしのはらえ)」と言い、6月末に半年分の穢れを祓い、後半の無病息災を祈る神事です。別名「夏越大祓」「茅の輪くぐり」と呼ばれる夏の風物詩です。「茅の輪くぐり」の作法は神社によって異なりますが、ここでは植木が邪魔して8の字に潜れません。一礼してから潜羅らせて貰いました。と言うことで、今回は手水舎、清めの社、茅の輪くぐりの3ヶ所で徹底的に穢れを拭って参拝することになります。
因みに茅の輪くぐりの起源は、『日本神話』に遡ります。旅の途中に宿を求めた素戔嗚尊を、貧しいながらも厚くもてなした蘇民将来が、その後素戔嗚尊の教えの通り、茅の輪を腰に付けて疫病を免れ、子孫が繁栄したという故事に由来します。 -
拝殿
樹木が生い茂り、拝殿前の広場からでは拝殿の全体像を見ることは叶いません。
正面の玉垣には魔除けの三つ巴文様や剣の頭を模った下向き剣頭文様が描かれています。春日大社などでも見かける文様です。流石にここの玉垣には名前の書かれた奉納玉垣は用いられていません。 -
拝殿
祭神 清原頼業を祀る、車折神社において最も重要な社殿です。
現在の拝殿は1988(昭和63)年に再建されたもので、銅板葺、総檜造の建築物です。
中備えは蟇股、頭貫には拳鼻、柱上は大斗と花肘木を組んでいます。また、軒裏は二軒まばら垂木です。 -
拝殿
高倉天皇に仕えた清原頼業は、天武天皇の皇子であり『日本書紀』編纂を指揮した舎人親王の血族に当たり、『春秋左氏伝』を講義し、明経道家(日本律令制の大学寮での儒学の研究・教授)や清原家中興の祖と称されました。また、九条兼実も「国の大器、道の大棟なり」と『玉葉』に綴るほどでした。
また清原家は、三十六歌仙のひとりである清原元輔(もとすけ)やその娘 清少納言などを輩出し、学問や文芸の分野に多大な功績を残した一族です。頼業自身も大変な博学であり、学問の神様として信仰されています。
因みに高倉天皇は後白河上皇の子で、母は平清盛の義妹 平滋子(建春門院)。天皇は上皇(父)と清盛(義父)の板挟みで苦労されたと伝えます。20歳で実子 安徳帝(2歳)へ譲位後、間もなく清盛と同じく1181年に亡くなっています。その4年後には平氏が滅亡しており、頼業はまさに激動する日本史の節目に立ち会った学者だったと言えます。 -
拝殿
金幣(御幣)3本立腰付丸に神紋の一部である「一つ引き紋」が輝いています。
神前の金幣は、神様の依り代という意味合いではなく、供えられた幣(ぬさ=布)の側面があるそうです。そもそも御幣は神様への捧げ物を指し、その意味は貴重な品を示す「幣」に尊称の「御」を付けたものです。そのルーツは古墳時代に遡るそうですが、室町~江戸時代にかけて、榊(玉串・真榊)の他、神前に御幣を捧げる今日のような形が定着したそうです。 -
拝殿 天井画『花卉図』
拝殿はご祈祷や神事を執り行う建物ですが、格子天井に描かれた『花卉図』は隠れた見所です。
花や鳥、虫、魚など36枚の絵が描かれています。作者は文化勲章を受章した画家 山口華楊氏の実兄であり、大正~昭和時代にかけて活躍された京都出身の山口玲熙(れいき)氏です。京都 小御所再建に際しては襖絵を揮毫しています。
左下方には西瓜も描かれています。 -
拝殿 賽銭箱
神紋は珍しい組み合わせ紋で、左側は「唐花紋」、右側が「丸に一つ引き紋」です。漢数字の「一」は清原頼業の家紋を表し、花模様は「唐花」という実在しない花です。面白いのは「一」の文字の書体が物によりまちまちであることです。時代による変遷でしょうか? -
祈念神石
拝殿の手前、賽銭箱のある拝所の背後に「神石」が盛られています。恐らく、中央に屹立するのが大元の「祈念神石」と窺えます。
祈念神石とは、神主がご祈祷された小石が入ったお守りのことです。「願い事を叶えるパワーストーン」として注目を浴びています。昔から、商人がこの神社の小石を持帰って家に納め、満願の際に石の数を倍にして神社に奉納して商取引に偉約のないよう祈る慣わしがあります。
その効能は、金運招来や商売繁盛、学業成就、恋愛成就まで様々です。お守りは毎日肌身離さず持ち歩き、願いが叶ったら、身近な場所で拾った石を洗い清め、お礼の言葉を記して本殿前に奉納します。これらの石は、後日、本殿や末社の建て替えの際に使用され、お礼の思いが社を守ることにリンクしていくというコンセプトです。 -
祈念神石
何とも変わった形をした「祈念神石」です。
蛇がとぐろを巻き鎌首をもたげている姿にも窺えます。伊勢神宮でも同様の「石神」を拝んできましたが、祈念神石には「龍神」が絡んでいる可能性があります。
その根拠は、「清めの社」で祀られている祓戸四神の1柱である瀬織津比売神は、大祓詞で水と関連付けられていることから、龍神(白龍)の化身ともされるからです。『大祓詞』では次のように世の中から罪や穢れが消え去っていく過程を解説していますが、瀬織津比売神は水との縁が切り離せません。
1.川の瀬にいる瀬織津比売神が、様々な禍事や穢れを川に流して海まで持ち出します。
2.持ち込まれた罪を、潮流渦巻く海にいる速開都比売神が呑み込んでくれます。
3.呑み込んだ罪は、風を起こす気吹戸主神が地底の国に吹き払ってくれます。
4.地底の国にいる速佐須良比売神が、その罪を持ち去って封印してくれます。 -
拝殿横の狛犬
拝殿の両側に通路が設けられており、本殿とその背後を巡ることができます。
この狛犬は1618(大正7)年に個人が寄進されたものです。裏参道入口に安置されていた狛犬と形はほぼ同じの阿阿型で、シーサーを彷彿とさせる異国情緒を湛えた狛犬です。
「丸に一つ引き紋」の「一」の文字の書体が賽銭箱のものとは異なります。 -
拝殿横の狛犬
四角い顎をして前足を伸ばして反り返っています。
こうして正面から見ると、何とも憎めないお顔をなされています。 -
拝殿 吊燈籠
6角吊燈籠には扇をあしらったような透かし模様が見られます。 -
本殿
向拝の母屋柱は角柱とし、海老虹梁で向拝と繋げています。
天皇でもない一個人が祭神となる例としては、菅原道真など怨霊鎮魂が主だった理由です。しかし清原頼業は怨霊ではなく、神社の表向きの由緒にはない真相がありそうです。
キーパーソンは怨霊と化した崇徳上皇にあるように窺えます。武家社会に遷移する契機となった保元の乱は、後白河天皇側の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇側の源為義・源為朝・平忠正塔らを征した戦いでした。崇徳上皇は、讃岐に流され、帰京が叶わずに舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込んで夜叉のような容貌になって亡くなり、怨霊となりました。それまでは「讃岐院」との院号でしたが、怨霊鎮魂のため後白河院の命で諡号「崇徳院」を奉ったのが清原頼業でした。
その後、鎌倉時代に入って間もなく、後嵯峨天皇の嵐山への行幸の折、清原頼業の御廟の前で牛車の轅が折れ、「車折大明神」の称号を与えられています。これは、崇徳院の怨霊が諡号を奉った清原頼業の御廟の扱いを丁重にするよう伝えるべく、意図的に轅を折ったということかもしれません。この考えに至ったのは「車折神社碑」にある碑文がヒントでした。 -
本殿
1752(宝暦2)年に建立され、入母屋造(妻入)、向拝1間、銅板葺、総檜造の建築物です。2014年に全面改修工事が終わりましたが、細かな金具などは宝暦2年に造営されたものをリサイクルしているそうです。大棟には3本の鰹木と外削ぎの千木が見られます。 -
本殿 狛犬
本殿を守護するのはゴージャスな陶製の狛犬です。
尻尾の付根に「九谷」と銘が入っており、「九谷焼」と窺えます。 -
本殿 狛犬
コントラストを強調した配色が斬新な狛犬ですが、こちらは「角」が生えてないので正式には「獅子」になります。
狛犬は平安時代の調度品が起源です。仏教伝来に伴い「獅子」を左右一対に置く文化も伝わり、宮中に安置して天皇をお守りする魔除けの役目を果たしました。その後、左右非対称とするのがブームとなり、片方の「獅子」を日本オリジナルの一角を生やした霊獣「狛犬」に置き換えました。宮中の置物であるため、「角」だけでなく、その姿形にも次のような厳しいルールがあったそうです。
「獅子」は金箔を押し、毛髪は緑青を塗り、金の毛描を施す。
「狛犬」は銀箔を押し、毛髪に群青を塗り、銀の毛描を施す。 -
本殿 狛犬
角の先端がくるりとカールしており、キュートな狛犬です。
江戸時代になると石造の狛犬が全盛期を迎えた一方、「獅子・狛犬」の正統派スタイルは廃れ、「角」はなくなりました。その理由は、庶民までもが石造の狛犬を神社に奉納するようになったものの、石工は狛犬を見たこともなく、伝聞に基づいて自由奔放にバラエティに富んだ狛犬を彫ったためです。しかも「角」のないものの方が数が多かったため、次第にメジャーになっていったそうです。 -
本殿 扁額「車折大神」
宮司として車折神社復興を遂げさせた近代文人画の巨匠 富岡鉄斎の筆になります。
鉄斎が小男だったとは思えないほどの力強さが漲っていますが、やわらかさも窺える文字です。
鉄斎は、帝室技芸員や帝国美術院会員でもあり、往時の画壇の最上位の画家でした。山本梅逸らに師事して中国風の南画などを学びましたが、鉄斎の絵画の真骨頂は、南画に留まらず、大和絵も琳派も描くという自由奔放さにあります。
実際、鉄斎の力点は絵よりも学問にあり、絵はあくまで「余技」と割り切っていたようです。座右の銘は明代の文人 董其昌(とうきしょう)の「万巻の書を読み、万里の道をゆく」。それ故、「わしはもとが儒生で、画をかくというのが変体じゃ」「南画の根本は学問にあるのじゃ」という言葉は本心かと思われます。 -
八百万神社
本殿の背後という意外な場所に「八百万神社」が佇みます。
社殿は流造、銅板葺です。屋根は反りが小さく、向拝部分の軒が異様に長く造られているのが特徴です。
あらあゆる神々を祀るとは気宇壮大な社です。案内板には興味深いフレーズがあります。「八百万の神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、『人脈拡大』のご利益を授かりましょう」と言う訳で、ご利益はずばり「人脈拡大」です。 -
八百万神社
社殿の左脇には「とほかみ えみため はらいたまへ きよめたまへ」の祝詞が書かれています。これを唱えながら本殿を回るそうです。
因みに「とほかみ えみためは」は、神道において最重要とされる祓い清めの言霊のひとつで、大和言葉では「遠津御祖神笑み給へ」と書きます。
一方、「とほかみ」には「遠津御祖神」と「十神」の二重の意味もあります。つまり、「とほかみ」には、「と」「ほ」「か」「み」各々の音の神様を含め、天之御中主神という神界の最高神や遠津御祖神など、主要な神々を指すそうです。
また「えみため」には、「笑み給へ」の意味があり、「微笑んでください」という意味です。
「とほかみえみため」と続けると、「遠津御祖神、十神の全ての神様、微笑んでください」という意味になります。 -
拝殿
拝殿まで戻ると、目にも鮮やかな青紅葉が待ち受けていました。
拝殿前のこの楓は秋の紅葉で有名な大木です。 -
拝殿前広場
拝殿の手前に奉納される「神石」がオーバーフローすると、こちらへ順次移されるようです。
江戸時代の『都名所図会』には、次のようなフレーズで流布されてました。
「今は遠近の商家売買の価の約を違変なきやうこの社に祈り、小石をとりかへり、家にをさめ、満願のとき件の石に倍してこの所に返す」。
なんと、倍返しの発想は江戸時代に既にあったようです。 -
車前石(くるまざきいし)
社殿参拝後の参拝順序はありません。それぞれ思い入れの深い社から参拝されるのがよいかもしれません。
社名のルーツともなる「車前石」は手水舎の南側に祀られています。
鎌倉時代、後嵯峨天皇が神威を畏れ、門前右側にあったこの石を「車前石」と呼び、神号「車折大明神」を賜ったとされる由緒ある石です。何故、「右側の石」かと言えば、昔は右側にいる人の方が位が高かったからです。これは京都の雛壇でも見られます。 -
車前石
『京羽二重織留』には「亀山帝、あらし山へ行幸の時、清原真人頼業の社の前にて御車とゞまり、牛も地にふしてゆかず、供奉の人あやしみ、始て此社此所にある事をしりぬと、主上則御くるまよりをりさせたまひぬと、是より此石を車前の石と号せり」と記されています。 -
ご献水
拝殿の東側にある滄海神社(弁財天社)専用のご献水です。
ご献水を柄杓で掬って右手にある緑色の水桶に汲み、拝所にある木枠に献水して祈願します。
滄海神社までは20m程の距離があり、何故ここにあるのかは不明です。考えられるのは、ここにしか適切な場所がなかったのでは? -
滄海神社(そうかいじんじゃ=弁天神社)
芸能神社と比肩する程の人気を集めている社です。
現在は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)を祀っていますが、元々は絶世の美女と謳われた弁財天を祀る神社でした。とは言え、神仏習合により市杵嶋命と弁財天は同じとされていますので、こだわる必要はないように思います。
金運・財運に美貌を兼ね備えた華麗なる人生に向け、「金満美麗」を授けてくれる神様です。なるほど、女性に人気があるのも頷けます。 -
滄海神社
「滄海」とは大海原の意味であり、渡来した「水の神 弁財天」の象徴とされます。
滄海神社は天龍寺の末寺の守護神として室町時代の1473(文明5)年に創建されましたが、末寺が廃寺となったことから現在地に遷座されました。そして明治時代の神仏分離令により祭神が弁財天から市杵嶋姫命に改められました。 -
滄海神社
金運・財宝に美貌が授かると言われるだけあり豪華な造りですが、拝所から小鳥居のある小社まで少し距離が取られ、置石は海原の中に浮かぶ島々を彷彿とさせます。
かつては小社の周りに水が張り巡らされていたそうです。 -
滄海神社
そして小社の先に、塀で囲まれた鰹木と内削ぎの千木を設えた本殿が佇みます。 -
境内社 地主神社
嵐電側の裏参道から入ると最初に遭遇する社になります。
通常は「地主」と書いて「じしゅ」と読みますが、こちらは「じぬし」と読み、祭神には嵯峨天皇を祀ります。 -
境内社 地主神社
その昔、この一帯は嵯峨野と呼ばれ、草木が生い茂って大宮人や風雅を好む都人たちが狩猟や摘草、あるいは虫の音に心を澄すなどして愉しんだ場所でした。
元々は柳鶯寺(りゅうおうじ)の鎮守社でしたが、柳鶯寺が廃寺となり、車折神社の境内に遷座され、地主の神様として祀られたものです。柳鶯寺で嵯峨天皇が遊幸の際に休息を取られた故事に因み、土地の人々が社を建立して嵯峨天皇を祀ったようです。
因みに、平安時代前期に嵯峨天皇の離宮を寺に改めたのが大本山大覚寺の起源です。 -
境内社 地主神社
経緯は不詳ですが、現在「芸能神社」で祀られている天宇受売命も元々はこの社に合祀されていたようです。
裏参道は比較的朱色が少なく、目に優しくホッとします。ここの参道は『半七捕物帳』やNHK朝ドラ『オードリ』のロケ地にもなりました。ヒロインの育ての母役の大竹しのぶさんの営む宿屋がこの近くという設定でした。
この続きは、問柳尋花 京都嵯峨野逍遙④車折神社(後編)エピローグでお届けいたします。
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