2024/06/13 - 2024/06/13
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montsaintmichelさん
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インバウンドやオーバーツーリズムといった言葉が常態化している京都。新型コロナウイルス流行以前から京都訪問には二の足を踏んでいましたが、嵯峨野に本来の京都らしさが堪能できる魅力的な寺院があることを知り、梅雨入り前に尋ねてみました。
因みに今回利用したのは、京福電鉄「いとをかし 嵐電1日フリー切符」です。清少納言を祀る「清少納言社」にスポットを当てた2024年限定のお得な切符です。https://www.keifuku.co.jp/itowokashi/
「鹿王院」は京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系寺院です。山号「覚雄山」、開基は足利義満、開山は天龍寺などを建立した夢窓疎石の甥であり後継者でもあった春屋妙葩(しゅんおくみょうは=普明国師)です。また仏牙寺( ぶつげじ)とも名乗り、舎利殿に「釈迦の歯」を納めています。
もう一つの魅力は、嵐山を借景とした日本最古と伝わる平庭式枯山水苔庭の美しさです。通常の枯山水庭園は石組や樹木、築山、砂などで構成されますが、ここの庭園は舎利殿や唐門も庭の一部と化しているのが特徴です。また、一般禅寺の枯山水のように禅問答を強いられることもなく、静寂さと景観の美しさを素直に愛でる醍醐味があります。頭の中を空っぽにし、揺蕩う時空と戯れられる至高の贅沢がこの庭にはあるような気がします。
https://rokuouin.com/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
嵐電「四条大宮駅」
鹿王院への鹿王院へのアクセスは阪急電鉄を利用する場合は2通りあります。
1.阪急「嵐山駅」から京福電鉄嵐山線(嵐電)「嵐山駅」まで歩き、嵐電「鹿王院駅」で下車する方法。
2.阪急「大宮駅」で嵐電(四条大宮駅)に乗り換え、嵐電「鹿王院駅」で下車する方法。
今回はアクセス時間の節約を鑑みて#2を利用しました。
9階建の日本生命 四条大宮ビルの1階に嵐電「四条大宮駅」の駅舎があります。 因みに、四条大宮駅の西寄りの広いエリアが新選組 壬生屯所や壬生寺でお馴染みの壬生になります。
嵐電 四条大宮駅は阪急と京都市営地下鉄東西線以外の接続路線がなく、さほど便利な路線ではありません。しかし、かつて路面電車王国だった京都に唯一残る路面電車の残照でもあり、レトロな雰囲気に浸ろうとするインバウンドの利用が活発です。
この画像は、帰路に撮影したものですが、平日と言うこともあり、混み合う車内は8割がインバウンドでした。改札口の前はこのようにインバウンドでごった返していました。 -
嵐電「四条大宮駅」
嵐電 嵐山本線は四条大宮駅から嵐山駅までの7.2kmを結ぶ路線です。
1910(明治43)年3月25日に 嵐山電車軌道株式会社の京都駅として開業した歴史ある駅ですが、正式には現在も鉄道ではなく、路面電車と同じ軌道の扱いです。
嵐山電車軌道は、神戸の川崎財閥によって設立された鉄道会社で、 四条大宮に京都駅が開業する頃は葛野郡朱雀野村(すじゃくのむら)という地名でした。1942(昭和17)年に京福電鉄に譲渡され現在に至ります。 -
嵐電「四条大宮駅」モボ621形「モボ623」
現在の嵐電の主力車両はモボ621形「モボ623」です。1990~1996年に武庫川車両工業(現 阪神車両メンテナンス)で製造されました。台車やモータは在来車輌(モボ122号車)の部品を再利用し、制御器や車体などその他部品は新調されました。現在の車体色は「京紫」色です。
因みに、「モボ」の「モ」は電動車(モータ車)を、「ボ」はボギー車をそれぞれ意味します。 -
嵐電「四条大宮駅」
フロント・エンブレムには「京都を知らねば、映画は語れぬ」とあります。京都の映画遺産を後世に伝えるために企画されている「ニッポン シネマレトロ キョウト」のPRのようです。
四条大宮駅を出発すると、西大路三条交差点までは専用軌道ですが、そこから西へ葛野大路三条までは併用軌道となります。 -
嵐電「四条大宮駅」
車体は窓を広く取ったワイド・ビュー&軽快なデザインとし、座席の色も紫でコーディネートされています。座席はロングシートで1車両当たり定員90名(座席定員36名)です。
優先席のシートには絵柄が付されて容易に区別できるようになっており、また優先席前の吊革はオレンジ色になっています。 -
嵐電「鹿王院駅」
四条大宮駅を出発して30分程で鹿王院駅に到着します。
路線開通当時は存在しなかった停留場ですが、1956(昭和31)年に近隣にある公団住宅の建設を契機に開設されました。
線路と鹿王院の敷地は隣接しているのですが、入口となる総門は南へ徒歩3分程隔てた立地にあります。 -
総門
京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系の単立寺院です。正式名称を「大福田宝幢寺(ほうどうじ)鹿王院」と言う禅刹であり、山号「覚雄山」、開基は足利義満、開山は天龍寺などを建立した夢窓疎石の甥であり後継者でもあった春屋妙葩(しゅんおくみょうは=普明国師)です。
また仏牙寺( ぶつげじ)とも名乗っており、それは釈迦の歯を舎利殿に納めているからです。かの「一休禅師」も少年の頃、1405(応永12)年にこの寺で維摩教の提唱を聴いたと伝わる由緒ある寺院でもあります。
1380(康暦2)年に3代将軍 足利義満が自身の長寿を願って建立した大福田宝幢寺の境内に春屋妙葩の塔所として1387(嘉慶元)年に創建されました。宝幢寺は隆盛を極め、京都五山十刹の中で禅林十刹の第5位に列せられ、寺領を加賀や但馬、土佐、摂津など各地に保有しました。しかし応仁・文明の乱(1467~77年)の兵火により焼失して宝幢寺は廃絶し、その後鹿王院のみが春屋一門により再建されました。やがて寛文年間(1661~73年)に第12世 虎岑玄竹(こしんげんちく)和尚により中興されました。当初は天龍寺の外塔頭でしたが、その後に臨済宗系の単立寺院となり現在に至ります。 -
総門
南北朝時代の建立とされ、境内で最古の建物です。鹿王院の前身となる宝幢寺時代の総門とされ、その建立年代は宝幢寺建立の1380(康暦2)年まで遡る可能性があるそうです。
かつて、この地で幼い頃の一休和尚も学んだとの由緒があり、一休さんが通った門を同じように通れるのは感動ものです。 -
総門
棟門式(棟門式=本柱が棟まで立ち上がる禅寺門形式)四脚門、屋根は切妻造、本瓦葺で、門の前後に控柱がありますが、前方控柱は後補だそうです。
棟門式禅寺門は、京都では慶長年間(1596~1615年)を境に建造されなくなったことから中世様式と考えられており、禅寺総門としては京都では建仁寺総門に継ぐ古い遺構です。 -
総門
扁額の山号「覚雄山」は開基 足利義満24歳の時の筆と伝わります。
角ばった丁寧な文字が義満の特徴です。
因みに覚雄とは、「悟りに至りし威大力の英雄」の意で「釈迦=仏陀」を指します。 -
総門 土塀
総門の土塀は天龍寺や大徳寺の塔頭寺院でも見られる「練塀(ねりべい)」で、廃棄瓦と土を交互に重ねてその上に瓦屋根を載せた補強塀です。廃材活用に、強度向上、そして意匠を併せ持ち、禅の教えのひとつ「一切の無駄をしない」、今風に言えば「SDG's」を具現化しています。 -
総門
『覺雄山大福田宝幢寺鹿王院記』には塔所「鹿王院」の名の由来が記されています。
昭堂(禅宗寺院の祖師の像・位牌を安置する堂)を建立するために藪を切り開いた時、そこに野鹿(白鹿)が群れをなして現れ、付近を彷徨したことに因んで「鹿王院」と称するようになったと伝えます。
一方、釈迦が最初に説法(初転法輪)を行ったインドのサルナートにある鹿が多く棲む林「鹿野苑」の鹿王の故事に由来するとの説もあります。
因みに足利義満の法名は「鹿苑院殿」であり、義満の御所であった北山殿は、その後「鹿苑寺」(金閣寺)となりました。 -
参道
総門を潜ると手入れの行き届いた長い参道が中門まで続きます。両脇に楓や椿、天台烏薬(テンダイウヤク)の青葉が茂り、静寂感に包まれた別世界です。
また、楓の間に数多くの椿が植えられており、通称「椿ロード」とも呼ばれています。椿の木は2~3m程の樹高の者が多く、年代物というわけではなさそうですが、紅葉狩り後、冬~春までは椿の花が主役の座に就くのでしょう。 -
参道
鹿王院の代名詞ともなる目にも鮮やかな青紅葉のトンネルが、遥か先まで続く光景には息を?みます。
参道中央に設けられた石畳は、中央に長方形の切り石を配し、その両側に自然石などの曲線目地を並べた「行の延段」です。 -
参道
重森三玲氏が作庭した東福寺「北庭」にある市松模様を彷彿とさせる意匠です。
灰色の敷石と、緑色の苔が織りなすコントラストが目を引きます。 -
参道
市松模様にも多様なアレンジが施され、飽きることがありません。
鹿王院の名の由来となった「鹿王の故事」とは次のような話です。
昔々、インドのハラナイ国に鹿王が率いる鹿の群れが平和に暮らしていました。ところがある時、国王の命令で鹿狩りが始まりました。鹿王は、このままでは群れが全滅すると考え、国王に哀れみを請うため会いに行きました。しかし聞き入れられず、やむなく毎日一頭づつ鹿を献上すると約束しました。それからというもの、鹿たちは悲しみながらも毎日クジ引きで城に向かう者を決めました。そしてある日、身ごもった雌鹿が選ばれ、その雌鹿は子どもが産まれるまで延期して欲しいと鹿王に懇願しました。そこで鹿王は自らスケープゴートとなって城へ向かいました。
その経緯を聞いた国王は、自らの行いを大いに恥じ、「なんと素晴らしい心なのか。私は人間の王と称しながら、心は畜生そのものだった。あなたは身こそ畜生と呼ばれながら、その心には真実がある」と鹿王を讃えました。こうして国王は、鹿王に心から感謝し、二度と鹿狩りをしないと約束したのです。
その後、この場所では鹿が殺されず繁殖したため、「鹿野苑」と呼ばれるようになりました。「身を殺して仁を為す」ことを慈悲と言いますが、「己を捨てて人の命を救おうという心」は慈悲の極みです。因みに「鹿王」は釈迦の前世の姿とされます。 -
参道
巨大な柳です。
宝幢寺の開創については『普明國師行業實録』に次のような記述があります。
1379(康歴元)年のある夜、24歳となった足利義満はある夢を見ます。夢に異人が現れ、「そなたは今年必ず大病を患う。しかし寺を建てて大福田(福田=福徳を生み出す田畑)と名付け、宝幢菩薩、観音大士、多聞天を奉安すれば延命でき、福が増すだろう」と語った。
この夢枕のお告げに従い義満は、祖父 尊氏が帰依していた夢窓疎石の法灯を継ぐ春屋妙葩を開山として城西に当たる嵯峨の地に寺院を建立し、興聖寺と名付け、後に覺雄山大福田宝幢寺と改称しました。1387(嘉慶元)年には、開山 春屋妙葩の寿塔(生前に建てておく墓)を守る塔所「鹿王院」が創建されたと伝えます。 -
参道
参道を進むとやがて二手に分岐し、左側には鎮守二社が佇み、直進すると中門を経て庫裡の玄関へ到達します。
長い参道ですが、こうした廃材で趣向を凝らしたオブジェが随所に配され、目を愉しませてくれます。
往時は、このような夢告が天皇や将軍の行動の動機として認められ、また正当化する手法でもありました。宝幢寺が造立されると、京都五山十刹に列せられ、これに伴い多くの寺領が与えられました。春屋妙葩は、69歳の高齢ながらも未だ塔所さえ未定だったことから、加えて以後の活動の拠点と位置付け、宝幢寺の一角に自己の塔所を建立したものと窺えます。
同様の話は『大福田宝幢寺鹿王院記』にも記されており、ここでは夢の中の異人は多聞天王と地蔵菩薩として登場します。「時の将軍は福も官位も意のままに十分満ち足りているが、一寺を建立すれば寿命を延ばすことは間違いない」と語り合っていたと伝えます。
夢告により建立された寺は、当初「興聖寺」と呼ばれましたが、後に「覚雄山大福田宝幢寺」と改名されました。 -
参道 天台烏薬(テンダイウヤク)
天台烏薬は「徐福伝説」にも登場する薬草です。
秦の始皇帝の命を受けて約2200年前に東方海上の三神山にあるという不老不死の仙薬を探すために3千人程の童男童女を連れて日本に渡来したと伝えます。
一方、長寿薬の伝説にも諸説あり、熊野市泊では「あしたば」が霊薬とされ、新宮では「天台烏薬」と言われています。
薬草関係の書物によると、天台烏薬の木は江戸時代中期の享保年間に伝来したもので、中国浙江省の天台山に産するものが最良品であることから、日本の本草学者が「天台烏薬」と命名しました。根は、健胃、整腸作用があり、漢方薬として利用されています。
残念ながら、徐福の時代とは年代が乖離しています。徐福が探し求めた仙薬は何であったかは、諸説あって今も検討され続けています。 -
参道
天台烏薬の根元にも注目です!
古瓦をリサイクルした花壇だけでなく、その奥に潜む「謎の顔」の正体は…。 -
中門
中門の手前にある堀に石橋が架けられ、ここが聖と俗を分かつ結界です。
手前にある松はかなりの年代物のように窺えます。 -
中門の手前左側、石垣の下でガクアジサイが咲き誇っています。
-
中門
中門の先は参道とは雰囲気を違え、「草の延段」が庫裡玄関までナビゲートします。 -
『拾遺都名所図絵』巻之三より抜粋
境内マップがないため、参考用に『拾遺都名所図絵』(抜粋)を載せておきます。この絵図は鹿王院で頂いたリーフレットの表紙に載せられていますが、伽藍の配置は現在とほぼ同じです。
『拾遺都名所図会』は『都名所図会』の後編として1787(天明7)年秋に刊行されたもので、本文は京都の俳諧師 秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師 竹原春朝斎が描いています。 -
庫裡 前庭
広々とした大らかな前庭であり、まさに禅寺ならではの趣を湛えます。
こうした侘びた佇まいにはどこか心惹かれるものがあります。 -
庫裡
一般寺院では庫裡は台所を指しますが、禅宗寺院では玄関の役割を担います。
屋根は切妻造、桟瓦葺で、建造は1660年代(寛文年間)の再建とされますが、江戸時代後期に改造されています。 -
式台
庫裡の左隣、入母屋造の屋根が式台です。 -
庫裡 前庭 オカトラノオ(丘虎尾)
前庭を見渡すと草陰で白い尻尾が数本揺らいでいます。
サクラソウ科オカトラノオ属の多年草です。初夏に白色の小さな花を茎の先に総状に付け、下方から開花していきます。花穂の先端が垂れ下がるのが特徴であり、「虎の尾」とは言い得て妙です。
属名「Lysimachia」はマケドニア王「Lysimachion(リュシマコス)」の名を称えたものです。猛り狂った雄牛に襲われてあわやという時、この植物の房を振ったら、虎と勘違いして牛が鎮まったと言う故事に因みます。
花言葉 は「忠実」「貞操」「優しい風情」「清純な恋」「騎士道」。 -
庫裡 前庭
この松の木は、地盤が固く根が地下深く入り難いのか、このように根を地表面に沿って放射状に張り出しています。
生命力を感じさせる松木です。 -
庫裡 前庭
式台からの前庭の眺めです。
式台へはこのように「飛び石」がナビゲートします。 -
庫裡
玄関先の右手に小鐘が吊るされており、御用向きがある時はこの鐘を撞木で3回叩きます。
これを鳴らすと職員の方が現われ、拝観受付をしていただけます。 -
庫裡 韋駄天像
玄関正面には禅寺特有の「韋駄天像」を安置しています。作年・作者は未詳ですが、腰を捻った彫像の技法などから江戸時代初期の作品と考えられています。
韋駄天とは、バラモン教の軍神ですが、仏教に取り入れられた伽藍の守護神であり、玄関や厨房などに祀られます。仏舎利を盗んだ鬼神を追いかけて取り戻したという俗説から、俊足の代名詞となっています。
残念ながら庫裡をはじめ堂内での写真等の撮影は禁じられています。(HPのQ&A参照)この先は、随時、鹿王院HPに開催されている画像を引用して説明していきます。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
https://rokuouin.com/grounds/ -
客殿
庫裡から順路に従って廊下を進むと客殿正面の縁側に出ます。
現在の建物は1890(明治23)年に再中興に尽力した第24世 峨山昌禎(橋本峨山)和尚が再建した、単層入母屋造、棧瓦葺の建物です。
因みに峨山昌禎は、京都出身の明治時代を代表する臨済宗の僧侶であり、臨済宗天龍寺派管長を務めて天竜寺再興の功労者と称されました。1859(安政6)年に鹿王院に入り、義堂昌碩に師事し昌禎の名をもらってその後出家しました。 -
客殿
三字扁額「鹿王院」は准三后 足利義満の自筆で、元々は宝幢寺の開山塔である鹿王院の山門に掲げられていたものです。 -
客殿
漆塗りの立派な扁額で、陽刻というよりも文字が打ち付けてあるように見えます。
「印」に「天山」とあるのは天皇になろうとした将軍 足利義満の道号であり、「准三后」は皇后・皇太后・太皇太后らに准じる待遇の尊称として皇族・摂関家・天皇の外戚以外に付与されたものです。因みに、義満の正式な法号は「鹿王院 天山 道義」です。
義満は1383(永徳3)年に26歳でこの法号を授かりました。 -
客殿
昭堂の先から客殿を眺めた様子です。
このように縁側に腰かけ、じっくり庭園を堪能できるのが鹿王院の魅力です。
右手に見えるのが庫裡、左手が回廊になります。 -
客殿
客殿は女性限定の宿坊にもなっています。
朝食に精進料理をいただき、朝のお勤めと法話を聞き、坐禅や写経を体験するというのも、心癒される時間になると思います。
宿坊が始まったのは1970年開催の「大阪万博」の数年前だそうです。京都市から「京都に来た観光客に坐禅体験と宿泊体験をさせて欲しい」と頼まれたのがきっかけだそうです。当初は男女の区別なく受け入れたそうですが、見知らぬ男女が襖1枚隔てて寝泊まりするのも如何なものかと心配になり、男性用の宿坊は他にもあることから女性限定にされたそうです。 -
客殿
なだらかな稜線を描いた嵐山を背景にして広がる平庭式枯山水苔庭の眺めが見所です。
客殿内部には2020年に完成した「オーク(ヨーロッパナラ)の枯れ落葉」をテーマとした襖絵が56面あります。縦横に無数の葉脈を走らせ、襖一面に描かれてた1枚のオークの枯葉の拡大図です。ひとつとして同じ形のものはないそうです。
襖絵を手がけたのは、京都とドイツのデュッセルドルフを拠点に活動する現代美術作家 藤井隆也氏です。藤井氏は、1枚1枚の落葉に「人の生涯」を見ると語ります。つまり落葉にはメメント・モリ(「自分がいつか死ぬことを忘れるな」との警句)の意味もあり、藤井氏の作風に合致した作品となっています。 -
客殿 鹿王院庭園(本庭)
縁側からは京都市の名勝にも指定されている本庭と舎利殿が一望できます。
虎岑和尚の再興時、室町幕府8代将軍 足利義教の命により、僧 任庵主が作庭した池泉式庭園は全面的に改修され、新しく造園されています。そして、現在のような舎利殿越しに嵐山を借景とし、築山を築かず、池を掘らずに、青苔の上に庭石や樹木を配した平庭式枯山水苔庭となったのは、1763(宝暦13)年に舎利殿が現在地に移築・再建された時とされます。1786(天明6)年刊の『拾遺都名所図会』の鳥瞰図には、ほぼ現在と変わらない配石が描かれています。
室町時代の庭園は客殿から眺めるだけの構成だったそうですが、客殿から舎利殿まで廊下が渡されたことにより、本堂や舎利殿からも庭園を眺めるられるようになりました。また、通常の枯山水庭園は石組や樹木、築山、砂などで構成されていますが、この庭園は舎利殿や唐門も庭の一部として同化しているのが特徴です。 -
客殿 鹿王院庭園
客殿前から舎利殿の奥まで雄大な平庭式枯山水苔庭が広がっています。
舎利殿の基壇北東隅には「三尊石(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)」が配され、その手前に「礼拝石(坐禅石)」が据えられています。また、禅宗寺院ではお決まりの砂紋を描く白砂が縁側の先に申し訳程度にしか敷かれていないのも特徴です。通常の禅寺の庭ならば、砂紋や石で意匠を凝らして「秘められた謎」の答えを求められます。その意匠にどんな意味があるのかと、禅問答のように謎解きを愉しむのが禅寺の枯山水です。その典型が龍安寺の石庭ですが、それに反してここの庭園は悠然としており、静寂さと嵐山へと広がる景観の美しさを素直に愛でる醍醐味があります。頭の中を空っぽにし、揺蕩う時空と戯れられる至高の贅沢がこの庭にはあるような気がします。 -
客殿
客殿前に沓脱石と思しき平石が置かれている様子が「古絵図」に描かれており、客殿から庭園を眺めるだけでなく、庭に降りて回遊しながら間近で鑑賞もできたように窺えます。
現在はこのように萩に隠れてしまて判り難いのですが、手前の黒っぽい石が沓脱石です。 -
客殿 鹿王院庭園 沙羅双樹
青苔と儚く散る純白の沙羅双樹の花のコントラストに目を奪われます。
『平家物語』の冒頭の一節に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」とあるように、沙羅双樹は仏教の真理である諸行無常を象徴する花として知られています。
釈迦は入滅の場所として沙羅双樹のある場所を選びました。その時、沙羅の木は真っ白に変色し、8本のうちの4本は瞬く間に枯れ、残る4本の沙羅は栄えるように花を咲かせたと伝えます。これを「四枯四栄」と言い、釈迦の肉体は滅びても仏法は栄えるという意に当てられます。
因みに沙羅双樹と称しますが、沙羅の木が相対する一対のことを「双樹」と表現します。またインドの「沙羅の木」は大木で黄色を帯びた花を咲かせますが、日本では「夏椿」で代用されています。それは、沙羅の木は耐寒性が弱く、日本の気候には不向きなためです。 -
客殿 鹿王院庭園
十数年前に鹿王院を訪れられた天皇陛下は、半日かけて過ごされたそうです。
古い書物を紐解かれていたそうですが、よほど居心地が良かったのでしょうか、予定時間を押してのご滞在だったようです。 -
客殿 鹿王院庭園 モッコク(木斛)
推定樹齢400年超というツバキ科の常緑樹であるモッコクの他、松や楓、ヒバ、榊、ツツジ、沙羅双樹(夏椿)、槙などの植栽があります。
客殿から眺めると、遠方の嵐山を背景に、舎利殿や昭堂などの伽藍の屋根とモッコクなどの樹形が重畳し、遠近法に似た奥行きを強調する景観を創っています。
モッコクは江戸時代には「江戸五木」として親しまれたそうですが、モチノキやモクセイと共に「三大庭木」のひとつでもあり、「庭木の王様」と称されて重宝された造園樹です。
モッコクの名の由来は、ランの1種であるセッコクに花の様子が似ているところから、モッコウバラの中国名「木香」の誤用など、諸説あり確かなことは不明です。 -
客殿 鹿王院庭園 モッコク
花は淡いクリーム色をしており、初夏にセッコクという洋ランに似た香りの花をうつむきかげんに咲かせます。近くに寄ると、クチナシの香りを薄めたような甘い香りが漂います。
花言葉は「人情家」。この花言葉の由来は、モッコクを当て字で表すと「持つ」+「濃く」と書くことができます。このことから「良縁に恵まれるように」という願いを込めて名付けられました。 -
舎利殿
禅宗様式を基調として江戸時代初期に再建された建物ですが、1763(宝暦13)年に現在地に移築されました。2023年10月に修復工事が完了しています。
「駄都殿」とも呼ばれ、方三間、四周裳階付とし、屋根は宝形造、桟瓦葺となっています。「駄都(だつ)」とは仏語で「舎利」の意です。また、足利義満は鹿苑寺(金閣寺)を建立する前にこちらを建立したことから、秘かに「元金閣」とも呼ばれます。金閣寺は鹿王院舎利殿を模したものとされ、金閣寺の正式名称が「鹿王院」から「鹿」の文字を採って「鹿苑寺」としたのもその証左のひとつとされます。そう言われてみると金閣寺に若干形が似ているような気もしないでは…。 -
舎利殿
通常、舎利は「釈迦が荼毘に付された時の遺骨や遺灰」を指しますが、鹿王院に納められているのは「釈迦の歯」で、佛牙舎利(ぶつげしゃり)と称されます。佛牙舎利は鎌倉幕府3代将軍 源実朝が1216(建保4)年に宋の都臨安(現杭))にある能仁寺より請来し、元々は鎌倉にある円覚寺に納められていたものです。後光厳天皇が円覚寺に佛牙舎利の一部を献上するよう求めた折、縁あって普明国師のもとへ下賜されました。佛牙舎利は後奈良天皇や正親町天皇、後水尾天皇らも礼拝供養した由緒正しい霊仏であり、その神秘性は多くの人々を魅了してやみません。 -
舎利殿
嵐山界隈の喧騒もここ鹿王院までは届かず、南インドの聖者ラマナ・マハルシが語った「静寂こそ最高のディークシャである」の言葉の意味を嚙み締めることができます。
この続きは、問柳尋花 京都嵯峨野逍遙②仏牙寺鹿王院(後編)でお届けいたします。
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