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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に滑り込みで見に行ってきました。<br />ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。<br /><br />今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。<br />しかし、その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、何より歴史を再認識する旅となりました。

中欧4都市15日間の美術館巡り(Day3-3)ベルリン 新博物館(Neues Museum)

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2023/10/09 - 2023/10/24

112位(同エリア2403件中)

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22

kawausoimoko

kawausoimokoさん

ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。

今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
しかし、その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、何より歴史を再認識する旅となりました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 徒歩
航空会社
LOTポーランド航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 2023年10月11日(水)(Day3-3)<br /><br />新博物館(Neues Museum)で、お気に入りのアマルナ美術を中心に見学します。

    2023年10月11日(水)(Day3-3)

    新博物館(Neues Museum)で、お気に入りのアマルナ美術を中心に見学します。

  • 新博物館(Neues Museum)<br /><br />1859年に開館したこの建物は、第二次世界大戦の空襲によって博物館島の中でも最も甚大な被害を受け、大戦以後は休館していました。<br /><br />修復が完了したのは東西ドイツ統一後の2009年で、エジプトコレクションと先史時代のコレクションが収容されて再スタートしました。<br /><br />収容されている内、最も有名な展示品は「王妃ネフェルティティ」の胸像です。

    新博物館(Neues Museum)

    1859年に開館したこの建物は、第二次世界大戦の空襲によって博物館島の中でも最も甚大な被害を受け、大戦以後は休館していました。

    修復が完了したのは東西ドイツ統一後の2009年で、エジプトコレクションと先史時代のコレクションが収容されて再スタートしました。

    収容されている内、最も有名な展示品は「王妃ネフェルティティ」の胸像です。

  • 新博物館(Neues Museum)の主階段<br /><br />先ずは、楽しみにしていたアマルナ時代の展示物を見ることにします。<br />2008年にカイロのエジプト考古学博物館で初めて見て以来、アマルナ美術はお気に入りとなりました。

    新博物館(Neues Museum)の主階段

    先ずは、楽しみにしていたアマルナ時代の展示物を見ることにします。
    2008年にカイロのエジプト考古学博物館で初めて見て以来、アマルナ美術はお気に入りとなりました。

  • ネフェルティティの胸像:新王国時代 第18王朝 紀元前1351年~1334年頃 アマルナ<br /><br />残念ながら、今はネフェルティティの胸像だけは写真撮影が許されておらず、隣の部屋から撮影したものです。<br />確かに美しいです。3000年以上前に作られたとはとても思えません。<br /><br />ネフェルティティの胸像は、1912年にアマルナ遺跡でルートヴィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ東洋協会チームによって、彫刻家トトメスの工房から発見されました。<br />そして、胸像はこの発掘プロジェクトの唯一のスポンサーであったジェームス・サイモンの所有物となり、1920年にベルリンのエジプト博物館へ寄贈されました。

    ネフェルティティの胸像:新王国時代 第18王朝 紀元前1351年~1334年頃 アマルナ

    残念ながら、今はネフェルティティの胸像だけは写真撮影が許されておらず、隣の部屋から撮影したものです。
    確かに美しいです。3000年以上前に作られたとはとても思えません。

    ネフェルティティの胸像は、1912年にアマルナ遺跡でルートヴィヒ・ボルヒャルト率いるドイツ東洋協会チームによって、彫刻家トトメスの工房から発見されました。
    そして、胸像はこの発掘プロジェクトの唯一のスポンサーであったジェームス・サイモンの所有物となり、1920年にベルリンのエジプト博物館へ寄贈されました。

  • アクエンアテンの胸像:新王国時代 第18王朝 紀元前1340年頃 アマルナ<br /><br />アメンホテプ4世(後にアクエンアテンと改名)は、新王国時代第18王朝のファラオ(在位:紀元前1353年~ 紀元前1336年頃)で、父はアメンホテプ3世、母はティイとされています。<br /><br />紀元前1550年以降の新王国時代に入ると、ファラオは「アメン神の息子」として神格化され、歴代のファラオたちはテーベのアメン神を祀るカルナック神殿に莫大な寄進を行い、アメン神官団が強い権力を有するようになりました。<br /><br />アメンホテプ4世の父であるアメンホテプ3世は、テーベにルクソール神殿を建設して多額の寄進を行いましたが、テーベの神官団は次第にファラオと対立するほどの強い権力を有するようになります。<br /><br />これに対して、次のファラオであるアメンホテプ4世は、宗教的権力と王権の一本化を目的として、主神をアメン神からアテン神へ変更する宗教改革を行い、自らの名前をアメンホテプ(アメン神に満足する)からアクエンアテン(アテン神に有益な者)へと改名しました。<br />更に、テーベから新都アケトアテン(現在のテル・エル・アマルナ)へ遷都してアテン神殿を建設し、テーベのアメン神官団が新都アケトアテンへ入場することを許さず、地方にもアテン神殿を次々と造りました。<br /><br />しかし、アクエンアテンは改革半ばで亡くなり、共同統治者であったスメンクカーラー(一説ではネフェルティティ)もほぼ同時期に亡くなったとみられています。<br /><br />後継者である若輩のツタンカーメンの治世では、アテン神信仰は廃されて従来のアメン神信仰が復活し、アケトアテンは放棄されてメンフィスへ遷都されました。<br /><br />その後、アケトアテンは破壊され、異端の王とされたアクエンアテンの名前とその像は破壊されました。<br />発見されているアクエンアテンとみられる像の多くが破壊されているのは、このためだそうです。

    アクエンアテンの胸像:新王国時代 第18王朝 紀元前1340年頃 アマルナ

    アメンホテプ4世(後にアクエンアテンと改名)は、新王国時代第18王朝のファラオ(在位:紀元前1353年~ 紀元前1336年頃)で、父はアメンホテプ3世、母はティイとされています。

    紀元前1550年以降の新王国時代に入ると、ファラオは「アメン神の息子」として神格化され、歴代のファラオたちはテーベのアメン神を祀るカルナック神殿に莫大な寄進を行い、アメン神官団が強い権力を有するようになりました。

    アメンホテプ4世の父であるアメンホテプ3世は、テーベにルクソール神殿を建設して多額の寄進を行いましたが、テーベの神官団は次第にファラオと対立するほどの強い権力を有するようになります。

    これに対して、次のファラオであるアメンホテプ4世は、宗教的権力と王権の一本化を目的として、主神をアメン神からアテン神へ変更する宗教改革を行い、自らの名前をアメンホテプ(アメン神に満足する)からアクエンアテン(アテン神に有益な者)へと改名しました。
    更に、テーベから新都アケトアテン(現在のテル・エル・アマルナ)へ遷都してアテン神殿を建設し、テーベのアメン神官団が新都アケトアテンへ入場することを許さず、地方にもアテン神殿を次々と造りました。

    しかし、アクエンアテンは改革半ばで亡くなり、共同統治者であったスメンクカーラー(一説ではネフェルティティ)もほぼ同時期に亡くなったとみられています。

    後継者である若輩のツタンカーメンの治世では、アテン神信仰は廃されて従来のアメン神信仰が復活し、アケトアテンは放棄されてメンフィスへ遷都されました。

    その後、アケトアテンは破壊され、異端の王とされたアクエンアテンの名前とその像は破壊されました。
    発見されているアクエンアテンとみられる像の多くが破壊されているのは、このためだそうです。

  • アテン神の下のアクエンアテンの家族の祭壇:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ<br /><br />アテン神信仰は、太陽神アテンが唯一の神で創造主であり、無限のエネルギーと創造力を持つとされ、アテン神は「太陽の円盤」で象徴されました。<br />ファラオは、アテン神の神聖な代理者であり、ファラオとアテン神は一体化された存在とされます。<br /><br />このレリーフは、「太陽の円盤」で象徴されるアテン神の光に守られたアクエンアテン、ネフェルティティ、そして、3人の王女が表わされており、テーベからアケトアテンへの遷都直後に作られたと考えられています。<br /><br />アクエンアテンとネフェルティティは同じ縮尺で描かれており、ネフェルティティが座る椅子には、それまでファラオだけに許されていた「上エジプトと下エジプトの統一」を表すシンボルが装飾されていることから、ネフェルティティがファラオと同等の高い地位を持っていたと想像されています。

    アテン神の下のアクエンアテンの家族の祭壇:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

    アテン神信仰は、太陽神アテンが唯一の神で創造主であり、無限のエネルギーと創造力を持つとされ、アテン神は「太陽の円盤」で象徴されました。
    ファラオは、アテン神の神聖な代理者であり、ファラオとアテン神は一体化された存在とされます。

    このレリーフは、「太陽の円盤」で象徴されるアテン神の光に守られたアクエンアテン、ネフェルティティ、そして、3人の王女が表わされており、テーベからアケトアテンへの遷都直後に作られたと考えられています。

    アクエンアテンとネフェルティティは同じ縮尺で描かれており、ネフェルティティが座る椅子には、それまでファラオだけに許されていた「上エジプトと下エジプトの統一」を表すシンボルが装飾されていることから、ネフェルティティがファラオと同等の高い地位を持っていたと想像されています。

  • 国王夫妻(恐らくアクエンアテンとネフェルティティ)の庭園の散歩のレリーフ<br />新王国時代 第18王朝 紀元前1335年頃 アマルナ<br /><br />アクエンアテンが治世した時代はアマルナ時代と呼ばれ、アテン神信仰に基づいた独自のアマルナ美術が開花しました。<br />アマルナ美術では、従来の形式的で直線的に理想化されたスタイルから離れ、太陽神アテンの光に照らし出された写実的で自然な表現となり、人物の表情や身体の曲線が詳細に描かれました。<br /><br />このレリーフはアマルナ様式が顕著に表れており、特にふっくらと描かれた腹部は、国王夫妻が太陽神アテンの生命の源としての創造性と太陽のエネルギーを体現するためだとされています。

    イチオシ

    国王夫妻(恐らくアクエンアテンとネフェルティティ)の庭園の散歩のレリーフ
    新王国時代 第18王朝 紀元前1335年頃 アマルナ

    アクエンアテンが治世した時代はアマルナ時代と呼ばれ、アテン神信仰に基づいた独自のアマルナ美術が開花しました。
    アマルナ美術では、従来の形式的で直線的に理想化されたスタイルから離れ、太陽神アテンの光に照らし出された写実的で自然な表現となり、人物の表情や身体の曲線が詳細に描かれました。

    このレリーフはアマルナ様式が顕著に表れており、特にふっくらと描かれた腹部は、国王夫妻が太陽神アテンの生命の源としての創造性と太陽のエネルギーを体現するためだとされています。

  • ネフェルティティの立像:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ<br /><br />ふっくらと女性らしくリアルに表現されたこのネフェルティティの立像に魅了されます。<br /><br />ネフェルティティに関する歴史的事実を示す文書記録は殆ど見つかっていないため、生涯については多くの憶測や諸説があります。<br /><br />アクエンアテンとネフェルティティの間には6人の娘が生まれ、三女のアンケセンパーテンは異母兄弟のツタンカーメンの妃となり、アンケセナーメンと改名しました。<br /><br />ネフェルティティがツタンカーメンの母親であった可能性は低く、現在ではツタンカーメンの母親は王家の谷のKV 35の墓から出土した「若い女性」とみられているそうです。

    イチオシ

    ネフェルティティの立像:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

    ふっくらと女性らしくリアルに表現されたこのネフェルティティの立像に魅了されます。

    ネフェルティティに関する歴史的事実を示す文書記録は殆ど見つかっていないため、生涯については多くの憶測や諸説があります。

    アクエンアテンとネフェルティティの間には6人の娘が生まれ、三女のアンケセンパーテンは異母兄弟のツタンカーメンの妃となり、アンケセナーメンと改名しました。

    ネフェルティティがツタンカーメンの母親であった可能性は低く、現在ではツタンカーメンの母親は王家の谷のKV 35の墓から出土した「若い女性」とみられているそうです。

  • アクエンアテンまたはツタンカーメンの立像:新王国時代 第18王朝 紀元前1340年~1330年頃 アマルナ<br /><br />エジプトにおける謂わばルネサンスとも言えるアマルナ美術様式は、後継者ツタンカーメンの副葬品にも受け継がれており、ツタンカーメンの黄金のマスクや黄金の玉座等の遺品にはその影響が色濃く見られます。<br /><br />その後アマルナ美術様式は廃れましたが、以降のエジプトの伝統的な芸術スタイルに少なからず影響を及ぼしました。

    アクエンアテンまたはツタンカーメンの立像:新王国時代 第18王朝 紀元前1340年~1330年頃 アマルナ

    エジプトにおける謂わばルネサンスとも言えるアマルナ美術様式は、後継者ツタンカーメンの副葬品にも受け継がれており、ツタンカーメンの黄金のマスクや黄金の玉座等の遺品にはその影響が色濃く見られます。

    その後アマルナ美術様式は廃れましたが、以降のエジプトの伝統的な芸術スタイルに少なからず影響を及ぼしました。

  • アクエンアテン王のレリーフ<br />新王国時代 第18王朝 紀元前1340年頃 アマルナ<br /><br />アクエンアテンの顎が尖り、下唇が大きい等の不自然とも見える表現は、遺伝的特性や病気等、諸説あります。<br />王家の血筋ではない王妃ネフェルティティや家臣たちも同様の形式で描かれていることから、これはアマルナ美術特有の高貴な人々の表現形態のひとつであったと見るのが妥当とされ始めています。

    アクエンアテン王のレリーフ
    新王国時代 第18王朝 紀元前1340年頃 アマルナ

    アクエンアテンの顎が尖り、下唇が大きい等の不自然とも見える表現は、遺伝的特性や病気等、諸説あります。
    王家の血筋ではない王妃ネフェルティティや家臣たちも同様の形式で描かれていることから、これはアマルナ美術特有の高貴な人々の表現形態のひとつであったと見るのが妥当とされ始めています。

  • アクエンアテンの頭部像:新王国時代 第18王朝 紀元前1345頃 アマルナ<br /><br />新都アケトアテンがあったアマルナ遺跡で、彫刻家トトメスの工房から、ネフェルティティの胸像と共に発見されたものです。<br />

    アクエンアテンの頭部像:新王国時代 第18王朝 紀元前1345頃 アマルナ

    新都アケトアテンがあったアマルナ遺跡で、彫刻家トトメスの工房から、ネフェルティティの胸像と共に発見されたものです。

  • 彫刻家のブラシストロークが残っている未完成のネフェルティティ頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1340年頃 アマルナ<br /><br />こちらも、新都アケトアテンがあったアマルナ遺跡で、彫刻家トトメスの工房から、ネフェルティティの胸像と共に発見されたものです。<br /><br />

    彫刻家のブラシストロークが残っている未完成のネフェルティティ頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1340年頃 アマルナ

    こちらも、新都アケトアテンがあったアマルナ遺跡で、彫刻家トトメスの工房から、ネフェルティティの胸像と共に発見されたものです。

  • ネフェルティティの像:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ<br />

    ネフェルティティの像:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

  • 王女の頭像(象嵌なし):新王国時代 第18王朝 紀元前1345頃 アマルナ<br /><br />目が大きくデフォルメされています。

    王女の頭像(象嵌なし):新王国時代 第18王朝 紀元前1345頃 アマルナ

    目が大きくデフォルメされています。

  • 王女の頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1351年~1344年頃 アマルナ<br /><br />口が大きくデフォルメされています。

    王女の頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1351年~1344年頃 アマルナ

    口が大きくデフォルメされています。

  • 王女の頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1351年~1344年頃 アマルナ<br /><br />後頭部が後方にせり出しています。

    王女の頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1351年~1344年頃 アマルナ

    後頭部が後方にせり出しています。

  • 女王の頭像(ネフェルティティまたはメリット・アテン):新王国時代 第18王朝 紀元前1335年~1340年頃 アマルナ

    女王の頭像(ネフェルティティまたはメリット・アテン):新王国時代 第18王朝 紀元前1335年~1340年頃 アマルナ

  • ツタンカーメン(?)の胸像:新王国時代 第18王朝 紀元前1335年頃 アマルナ<br /><br />

    ツタンカーメン(?)の胸像:新王国時代 第18王朝 紀元前1335年頃 アマルナ

  • 神殿のレリーフ アクエンアテンとオリーブの枝:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

    神殿のレリーフ アクエンアテンとオリーブの枝:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

  • アケナトン神殿のレリーフ:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

    アケナトン神殿のレリーフ:新王国時代 第18王朝 紀元前1345年頃 アマルナ

  • チェムハトの墓のレリーフ:アメンホテプ3世王治世 新王国時代 第18王朝 紀元前1360年頃 西テーベ<br /><br />アマルナ時代直前の美しいレリーフです。<br />アマルナ美術との違いが良く判ります。

    チェムハトの墓のレリーフ:アメンホテプ3世王治世 新王国時代 第18王朝 紀元前1360年頃 西テーベ

    アマルナ時代直前の美しいレリーフです。
    アマルナ美術との違いが良く判ります。

  • ダブルフェザークラウンのティイの頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1388~1351年頃 メディネット・エル・グロブ遺跡<br /><br />ティイはアメンホテプ3世の第一王妃で、アメンホテプ4世(アクエンアテン)の母です。<br /><br />アメンホテプ3世には、同盟国ミタンニから嫁いできた妃を始めとし複数の妃がいましたが、その中でもティイは別格の扱いを受けていたようです。<br />アメンホテプ3世はティイとの結婚をスカラベに刻み、それを諸外国に送って広く知らしめ、また、ティイのために長さ2km、幅460mの巨大人工池を造って船を浮かべたそうです。<br /><br /><br />カイロ考古学博物館、大英博物館、ルーブル美術館、メトロポリタン美術館、トリノのエジプト博物館と並ぶこの博物館には、勿論、ミイラから巨大な石碑まで充実したエジプトコレクションがありますが、今回はここまでといたします。

    イチオシ

    ダブルフェザークラウンのティイの頭像:新王国時代 第18王朝 紀元前1388~1351年頃 メディネット・エル・グロブ遺跡

    ティイはアメンホテプ3世の第一王妃で、アメンホテプ4世(アクエンアテン)の母です。

    アメンホテプ3世には、同盟国ミタンニから嫁いできた妃を始めとし複数の妃がいましたが、その中でもティイは別格の扱いを受けていたようです。
    アメンホテプ3世はティイとの結婚をスカラベに刻み、それを諸外国に送って広く知らしめ、また、ティイのために長さ2km、幅460mの巨大人工池を造って船を浮かべたそうです。


    カイロ考古学博物館、大英博物館、ルーブル美術館、メトロポリタン美術館、トリノのエジプト博物館と並ぶこの博物館には、勿論、ミイラから巨大な石碑まで充実したエジプトコレクションがありますが、今回はここまでといたします。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • danteさん 2024/01/14 18:53:03
    ご返信ありがとうございます。
    大エジプト博物館、そうなんですよね。私も3月に正式オープンするという記事を見ましたけれど、毎度の事ながら・どうせまた延期だろう…と思っております。

    そうでしたか、毎年ラスベガスに(#^.^#) 
    しかし、金曜日の夜から月曜日の朝までに…というのは、かなりの強行突破でしたね。
    私はこの旅の最終日、自由行動日でしたので、やはりドライブをしたのですが、滅茶苦茶疲れました(-_-;) 実はこの日の写真整理が未だに出来ておりません。

    アメリカ・グランドサークルは殆ど風景なので、大した言葉が出ないのですが(まして今回のは、ほぼ愚痴) お付き合い下さると嬉しいです。

    ありがとうございます。 



    kawausoimoko

    kawausoimokoさん からの返信 2024/01/14 20:34:53
    Re: ご返信ありがとうございます。
    dante 様

    ご返事ありがとうございます。

    言葉足らずで誤解を招くことを書いてしまったので、ごめんなさい。
    1回のドライブでグランドサークルを回ってしまったわけではなく、たぶん、7~8回に分けてドライブしたのです。
    その中でも、私的にはグランドキャニオンが一番お気に入りでした。
    月曜日の朝帰りは、いつもしていたわけではなく、ザイオンからだったと思います。
    ご存じのように、ザイオンからラスベガスは車で2時間チョット位なので、月曜日の朝7時頃にザイオンを出ても、ラスベガスでの朝10時のミーティングには十分合いました。

    私が、ラスベガスを最後に訪れたのは確か2009年だと思います。
    ラスベガスも随分変わったことでしょうね。
    danteさんも旅の最終日にドライブされたとのことなので、今の様子を楽しみにお待ちしております。

    kawausoimoko 拝

  • danteさん 2024/01/14 12:23:29
    こんにちは
    段々と写真撮影不可が多くなってきましたね。
    ですが、何かのタイミングで入館者が減ると、途端に撮影可能になったり(:_;)

    来月エジプト行きを予約していましたが、諸事情によりキャンセルしました。&
    ネフェルタリの墓など写真撮影可能ですが、今は旅行記動画も蔓延っており、現地に行かなくても見られるですから(^^;) 旅行代金も高騰してますし(-_-;)

    しかしkawausoimokoさんの御投稿は、読み応えありますね。
    私は語彙力無く、ホントに日記・感想だけでして(^^;)

    kawausoimoko

    kawausoimokoさん からの返信 2024/01/14 16:00:22
    Re: こんにちは
    dante 様

    こんにちは。

    お読みいただき、ありがとうございます。
    ボケ防止のために、訪れた各地で買い求めたままの積読書をようやく開き、楽しみながら書いている内容なので、勘違いや誤り等があるかも知れませんが、どうかご了承下さい。

    確か、ネフェルティティの胸像がAltes Museumに展示されていた時には写真撮影できたと思うのですが、出張の合間に訪れており、当時は写真撮影すること等は全く考えもしなかったので、残念ながら写真はありません。

    私も、ギザの大エジプト博物館が中々正式オープンしないのにシビレを切らして、もうプレオープンでもいいやと思い(更に中東情勢と自身の体調を考慮するとなるべく早いほうが良いかなとも思い)、一度は今年1月のホテルを予約したのですが、Dr.ザヒ・ハワーズが2024年3月に正式オープンするとコメントした記事を読んでキャンセルしました。
    今の状況では今年3月の正式オープンも危ぶまれるように思いますが、一刻も早くガザ地区の戦闘が止むことを願うばかりです。

    danteさんの昨年冬のグランドサークル巡りの旅行記を読ませていただいております。
    今から25年以上前、毎年11月頃にラスベガスで展示会とカンファレスがあり出張していました。
    仕事の合間に金曜日の夜にベガスをレンタカーで出発し、グランドキャニオンを始め、セドナ、ザイオン、ブライスキャニオン、アーチーズ、モニュメントバレーなどにドライブして、月曜日の朝までにベガスに戻ったことを懐かしく思い出しております。
    (あの頃は、まだ若かく元気でした)

    旅行記の続きを楽しみにしております。

    kawaausoimoko 拝

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