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この日は天気が良いので、ソウル市内にある日本統治時代の建物と宮殿を巡った。宿を出て明洞の方向に向かう。日本統治時代の建物としては旧朝鮮銀行本店、旧京城府庁、旧京城府民館、聖公会ソウル主教座大聖堂、旧東亜日報社屋を巡る。李氏朝鮮時代の景福宮、徳寿宮、慶熙宮、昌慶宮、昌徳宮の五大王宮と宗廟、圜丘壇、社稷壇と2つの獏物館を見学した。今日行った王宮の入場料は65歳以上は無料、日本では高い料金を取る博物館は韓国では誰でも入場無料だった。<br />3月13日(水)ホテルを出てセジョンデロを通って旧朝鮮銀行本店の建物を見る。ここから北に向かうと巨大なホテルの裏に圜丘壇があり、少し歩くと旧京城府庁、徳寿宮と続く。近くには旧京城府民館と聖公会ソウル主教座大堂がある。北に進むと旧東亜日報社屋があり、西に進むとソウル歴史博物館、慶熙宮がある。さらに北に社稷壇があり、西に進むと景福宮、国立民族学博物館があり、ここで昼食。さらに西に昌徳宮と昌慶宮がある。南に行くと宗廟があり、見学はガイドツアーのみだった。地下鉄鐘閣駅の近くに里門ソルロンタンで夕食。

2024年早春、まだ肌寒いソウル、仁川で日本統治時代の建物を巡る 3.日本統治時代の建物と五大王宮

4いいね!

2024/03/13 - 2024/03/13

18908位(同エリア25733件中)

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旅四郎さん

この日は天気が良いので、ソウル市内にある日本統治時代の建物と宮殿を巡った。宿を出て明洞の方向に向かう。日本統治時代の建物としては旧朝鮮銀行本店、旧京城府庁、旧京城府民館、聖公会ソウル主教座大聖堂、旧東亜日報社屋を巡る。李氏朝鮮時代の景福宮、徳寿宮、慶熙宮、昌慶宮、昌徳宮の五大王宮と宗廟、圜丘壇、社稷壇と2つの獏物館を見学した。今日行った王宮の入場料は65歳以上は無料、日本では高い料金を取る博物館は韓国では誰でも入場無料だった。
3月13日(水)ホテルを出てセジョンデロを通って旧朝鮮銀行本店の建物を見る。ここから北に向かうと巨大なホテルの裏に圜丘壇があり、少し歩くと旧京城府庁、徳寿宮と続く。近くには旧京城府民館と聖公会ソウル主教座大堂がある。北に進むと旧東亜日報社屋があり、西に進むとソウル歴史博物館、慶熙宮がある。さらに北に社稷壇があり、西に進むと景福宮、国立民族学博物館があり、ここで昼食。さらに西に昌徳宮と昌慶宮がある。南に行くと宗廟があり、見学はガイドツアーのみだった。地下鉄鐘閣駅の近くに里門ソルロンタンで夕食。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
ホテル
4.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
鉄道 徒歩 飛行機
航空会社
ピーチ航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 3月13日(水)ホテルで朝食を済ませて散策に出かける。延世財団セブランスビル前の広場に来ると玄鳳學博士の銅像があった。彼の母校の延世大学医学部があった場所で、1950年の朝鮮戦争で中国人民軍の攻勢で戦況が不利になり、興南撤収作戦で避難民を北朝鮮の興南港から撤退させるのに重要な役割を果たし「韓国のシンドラー」と呼ばれ、この場に銅像を建立して追悼している。

    3月13日(水)ホテルで朝食を済ませて散策に出かける。延世財団セブランスビル前の広場に来ると玄鳳學博士の銅像があった。彼の母校の延世大学医学部があった場所で、1950年の朝鮮戦争で中国人民軍の攻勢で戦況が不利になり、興南撤収作戦で避難民を北朝鮮の興南港から撤退させるのに重要な役割を果たし「韓国のシンドラー」と呼ばれ、この場に銅像を建立して追悼している。

  • 明洞の方向に歩いて行くと、旧朝鮮銀行本店がある。設計は辰野金吾の指導のもとで中村與資平が行い1907年に着工し、1912年に完成した。戦後、朝鮮銀行は解散し、1950年に建物を引き継いで韓国銀行が設立され中央銀行本店として使用された。現在は韓国銀行貨幤金融博物館として2001年に開館した。

    明洞の方向に歩いて行くと、旧朝鮮銀行本店がある。設計は辰野金吾の指導のもとで中村與資平が行い1907年に着工し、1912年に完成した。戦後、朝鮮銀行は解散し、1950年に建物を引き継いで韓国銀行が設立され中央銀行本店として使用された。現在は韓国銀行貨幤金融博物館として2001年に開館した。

    韓国銀行 貨幣金融博物館 文化・芸術・歴史

  • 韓国銀行貨幤金融博物館の近くに「3・1独立運動紀念址」と書かれた石碑が置かれている。「3・1独立万歳 デモ隊が日本の憲兵警察と激突して200人以上の負傷者を出した場所」と書かれている。ソウル市内には3・1独立運動に関連す石碑がいろいろな場所に建てられている。

    韓国銀行貨幤金融博物館の近くに「3・1独立運動紀念址」と書かれた石碑が置かれている。「3・1独立万歳 デモ隊が日本の憲兵警察と激突して200人以上の負傷者を出した場所」と書かれている。ソウル市内には3・1独立運動に関連す石碑がいろいろな場所に建てられている。

  • 北に歩くと圜丘壇がある。皇帝が天に祭祀を捧げる場所。花崗岩の基壇の上に美しい三層八角形の皇穹宇は天の神を祀る。本来、中国皇帝のみが祭祀を許されていたが、下関条約で中国からの独立が認められ対等と考え、中国の天壇を真似て1897年に圜丘壇をつくり、ここで朝鮮王朝第26代高宗は大韓帝国初代皇帝に即位した。改修工事を終了して2017年に一般公開を再開した。

    北に歩くと圜丘壇がある。皇帝が天に祭祀を捧げる場所。花崗岩の基壇の上に美しい三層八角形の皇穹宇は天の神を祀る。本来、中国皇帝のみが祭祀を許されていたが、下関条約で中国からの独立が認められ対等と考え、中国の天壇を真似て1897年に圜丘壇をつくり、ここで朝鮮王朝第26代高宗は大韓帝国初代皇帝に即位した。改修工事を終了して2017年に一般公開を再開した。

    円丘壇 (ウォングダン) 史跡・遺跡

  • 近くには石鼓があり、祭天のための楽器を象徴した石像。石鼓の胴部は躍動感あふれる竜の絵が浮き彫りにされ、蓮の葉の形の台座の上に置かれている。この石鼓は朝鮮王朝末期の最も優れた彫刻の中の一つといわれている。日本統治時代の1913年に円形祭壇は撤去され、朝鮮京城鉄道ホテルを建てた。皇穹宇や石鼓、石彫大門は撤去されずに当時の姿で残っている。圜丘壇はウェスティン朝鮮ホテルの裏手にある。

    近くには石鼓があり、祭天のための楽器を象徴した石像。石鼓の胴部は躍動感あふれる竜の絵が浮き彫りにされ、蓮の葉の形の台座の上に置かれている。この石鼓は朝鮮王朝末期の最も優れた彫刻の中の一つといわれている。日本統治時代の1913年に円形祭壇は撤去され、朝鮮京城鉄道ホテルを建てた。皇穹宇や石鼓、石彫大門は撤去されずに当時の姿で残っている。圜丘壇はウェスティン朝鮮ホテルの裏手にある。

    円丘壇 (ウォングダン) 史跡・遺跡

  • 圜丘壇の近くに旧京城府庁がある。日本統治時代の1926 年に朝鮮総督によって建設され、当初は朝鮮総督府として使用されていた。1945年以降はソウル市庁舎として使われた。1986年、すぐ後ろに新庁舎が建てられるのに伴い、4年間のリニューアル工事を経て2012年にソウル図書館として再オープン。

    圜丘壇の近くに旧京城府庁がある。日本統治時代の1926 年に朝鮮総督によって建設され、当初は朝鮮総督府として使用されていた。1945年以降はソウル市庁舎として使われた。1986年、すぐ後ろに新庁舎が建てられるのに伴い、4年間のリニューアル工事を経て2012年にソウル図書館として再オープン。

    ソウル図書館 (旧ソウル市庁舎) 博物館・美術館・ギャラリー

  • ソウル図書館の西側に大漢門がある。「本来の名前は大安門だったが、1906年に今の名前に変えられた。もともと宮廷の正門は南側の仁化門であったが、圜丘壇建設などにより慶運宮の東側が新しい都心になるに連れ、東門の大安門が正門となった」と案内板に記されている。高宗が亡くなり、3月3日の葬儀の直前に門前に人々が集まって独立デモが始まり、3・1独立運動の引き金になった場所でもある。

    ソウル図書館の西側に大漢門がある。「本来の名前は大安門だったが、1906年に今の名前に変えられた。もともと宮廷の正門は南側の仁化門であったが、圜丘壇建設などにより慶運宮の東側が新しい都心になるに連れ、東門の大安門が正門となった」と案内板に記されている。高宗が亡くなり、3月3日の葬儀の直前に門前に人々が集まって独立デモが始まり、3・1独立運動の引き金になった場所でもある。

    大漢門 史跡・遺跡

  • 中に入ると中和殿がある。中和殿は慶運宮の正殿として王の即位式、臣下たちの祝賀会、外国使臣の接見など重要な国家的儀式を行った所。高宗が慶運宮に移った後、約5年間は即祚堂を正殿としたが、1902年に重層の中和殿を新たに正殿として建設した。1904年に火災で消失し、1906年に単層の建物として再建した。中和門から中和殿に至る道の両側に品階石という参席者の位階を示す石が立っている。

    中に入ると中和殿がある。中和殿は慶運宮の正殿として王の即位式、臣下たちの祝賀会、外国使臣の接見など重要な国家的儀式を行った所。高宗が慶運宮に移った後、約5年間は即祚堂を正殿としたが、1902年に重層の中和殿を新たに正殿として建設した。1904年に火災で消失し、1906年に単層の建物として再建した。中和門から中和殿に至る道の両側に品階石という参席者の位階を示す石が立っている。

    中和殿 史跡・遺跡

  • 正殿の御座の真上の天蓋には龍二匹が描かれている。中和殿に上がる階段の踏道には朝鮮宮殿の正殿中唯一の二匹の龍が刻まれている。他の宮殿の正殿にはみな鳳凰が刻まれており、徳寿宮が大韓帝国皇帝の皇宮であり、皇帝を象徴する龍を装飾した。近代国家建設を進めた高宗は退位させられ、1907年に純宗が皇帝に即位して王宮を昌徳宮に移した。慶運宮に残った高宗の長寿を願う意味で徳寿宮と命名された。

    正殿の御座の真上の天蓋には龍二匹が描かれている。中和殿に上がる階段の踏道には朝鮮宮殿の正殿中唯一の二匹の龍が刻まれている。他の宮殿の正殿にはみな鳳凰が刻まれており、徳寿宮が大韓帝国皇帝の皇宮であり、皇帝を象徴する龍を装飾した。近代国家建設を進めた高宗は退位させられ、1907年に純宗が皇帝に即位して王宮を昌徳宮に移した。慶運宮に残った高宗の長寿を願う意味で徳寿宮と命名された。

    中和殿 史跡・遺跡

  • 「静観軒は、1900年頃に高宗の寝殿である咸寧殿の後苑に建てられた。東洋と西洋の建築様式が混じりあった個性的な建物である。建物の東・西・南の3面には屋根が突き出ているポーチがあり、木製の柱や金属製の欄干が建っている。柱の上部や欄干には、牡丹、コウモリ、松の木、鹿など韓国の伝統的な紋様が刻まれている」と説明されている。歴代王の肖像画が祀られているようだが見られなかった。

    「静観軒は、1900年頃に高宗の寝殿である咸寧殿の後苑に建てられた。東洋と西洋の建築様式が混じりあった個性的な建物である。建物の東・西・南の3面には屋根が突き出ているポーチがあり、木製の柱や金属製の欄干が建っている。柱の上部や欄干には、牡丹、コウモリ、松の木、鹿など韓国の伝統的な紋様が刻まれている」と説明されている。歴代王の肖像画が祀られているようだが見られなかった。

    静観軒 史跡・遺跡

  • 「石造殿は高宗が寝殿兼便殿として使用するために建てた洋式の石造建物で、イギリスの建築家ハーディングが設計し、1910年に完成した。基壇の上にイオニア式の柱を立て、中央に三角形に切妻屋根をのせた。19世紀の新古典主義の様式で建てられ、建物の前面と東西両面にベランダを設けているのが特徴である。後に美術館として使用された」と記されている。内部見学はツアーのみ可能。

    「石造殿は高宗が寝殿兼便殿として使用するために建てた洋式の石造建物で、イギリスの建築家ハーディングが設計し、1910年に完成した。基壇の上にイオニア式の柱を立て、中央に三角形に切妻屋根をのせた。19世紀の新古典主義の様式で建てられ、建物の前面と東西両面にベランダを設けているのが特徴である。後に美術館として使用された」と記されている。内部見学はツアーのみ可能。

    石造殿 史跡・遺跡

  • 徳寿宮を北に少し歩くと旧京城府民館がある。日本統治時代の1935年に建設され、府民館の大講堂は1800席の座席を備え、数々の公演が行われた。セジョンデロをはさんでソウル市庁舎の向かいにたつ建物。1945年から1975年までは国会議事堂として使用され、その後は再びソウル市民会館となり、さらに1991年からはソウル特別市議会議事堂となった。

    徳寿宮を北に少し歩くと旧京城府民館がある。日本統治時代の1935年に建設され、府民館の大講堂は1800席の座席を備え、数々の公演が行われた。セジョンデロをはさんでソウル市庁舎の向かいにたつ建物。1945年から1975年までは国会議事堂として使用され、その後は再びソウル市民会館となり、さらに1991年からはソウル特別市議会議事堂となった。

  • 近くに聖公会ソウル主教座大聖堂がある。イギリス国教会の聖公会のソウル教区の総本山。ソウル都市建築展示館の屋上にある市民広場からよく見える。日本統治時代の1926年に建設され、韓国初でかつ唯一のロマネスク様式の建物。聖公会は韓国への土着化を進め、瓦屋根には韓国の様式が取り入れられている。1987年の6月民主化運動の拠点になるなど、現代史の中でも重要な場所だった。

    近くに聖公会ソウル主教座大聖堂がある。イギリス国教会の聖公会のソウル教区の総本山。ソウル都市建築展示館の屋上にある市民広場からよく見える。日本統治時代の1926年に建設され、韓国初でかつ唯一のロマネスク様式の建物。聖公会は韓国への土着化を進め、瓦屋根には韓国の様式が取り入れられている。1987年の6月民主化運動の拠点になるなど、現代史の中でも重要な場所だった。

    聖公会ソウル聖堂 寺院・教会

  • さらに北に進むと旧東亜日報社屋がある。光化門十字路の角にある歴史的な建物で、1926年に竣工した。東亜日報は1920年に創刊した日刊新聞で、韓国では長い歴史を持つ新聞のひとつ。建物は長い間現役の新聞社屋として使われてきたが、2000年にガラス張りの新社屋が横に建設され、現在はイルミン美術館として利用されている。

    さらに北に進むと旧東亜日報社屋がある。光化門十字路の角にある歴史的な建物で、1926年に竣工した。東亜日報は1920年に創刊した日刊新聞で、韓国では長い歴史を持つ新聞のひとつ。建物は長い間現役の新聞社屋として使われてきたが、2000年にガラス張りの新社屋が横に建設され、現在はイルミン美術館として利用されている。

    イルミン美術館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 光化門十字路を西に歩くと陸軍武官学校址の碑がある。碑には「大韓帝国陸軍武官学校が下級将校の準備と訓練を目的として1896年に設立された場所です」と記されている。1894年から甲午改革により旧態依然とした朝鮮軍の近代化に取りかかった。1907年に結ばれた第三次日韓協約に伴う秘密協定に軍隊解散の規定があり、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は朝鮮人将校たちに解散を命じた。

    光化門十字路を西に歩くと陸軍武官学校址の碑がある。碑には「大韓帝国陸軍武官学校が下級将校の準備と訓練を目的として1896年に設立された場所です」と記されている。1894年から甲午改革により旧態依然とした朝鮮軍の近代化に取りかかった。1907年に結ばれた第三次日韓協約に伴う秘密協定に軍隊解散の規定があり、韓国駐剳軍司令官長谷川好道は朝鮮人将校たちに解散を命じた。

  • さらに西に進むとソウル歴史博物館がある。入場料は無料。3階の「常設展示室」は「朝鮮時代のソウル」、「開港と大韓帝国期のソウル」、「日帝強占期のソウル」、「大韓民国の首都ソウル」というその変遷をたどって4つのゾーンに分け、歴史や文化を時代ごとに紹介している。1階の市民の寄贈品による「寄贈遺物展示室」、特定のテーマに沿って編集される「企画展示室」と「屋外展示場」がある。

    さらに西に進むとソウル歴史博物館がある。入場料は無料。3階の「常設展示室」は「朝鮮時代のソウル」、「開港と大韓帝国期のソウル」、「日帝強占期のソウル」、「大韓民国の首都ソウル」というその変遷をたどって4つのゾーンに分け、歴史や文化を時代ごとに紹介している。1階の市民の寄贈品による「寄贈遺物展示室」、特定のテーマに沿って編集される「企画展示室」と「屋外展示場」がある。

    ソウル歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 「大韓帝国期のソウル」の展示には開化の街として鍾路が映像で再現されている。1896年に政府はソウルの中央通りの鍾路と南大門路の街路景観を改善に取り組み、大通りには電柱が並び、街灯が夜の街を明るく照らす。西洋建築が増え、路面電車が走る街中を当時の人々と一緒に歩いているような感じにしている。関連遺物やジオラマ、映像などが多彩に展示され、展示内容に関する日本語での解説もある。

    「大韓帝国期のソウル」の展示には開化の街として鍾路が映像で再現されている。1896年に政府はソウルの中央通りの鍾路と南大門路の街路景観を改善に取り組み、大通りには電柱が並び、街灯が夜の街を明るく照らす。西洋建築が増え、路面電車が走る街中を当時の人々と一緒に歩いているような感じにしている。関連遺物やジオラマ、映像などが多彩に展示され、展示内容に関する日本語での解説もある。

    ソウル歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 「日帝強占期のソウル」の展示では抗日民族運動の中心地だった京城を紹介している。写真は1919年にタプコル公園で万歳をする民衆の姿を映像で再現している。京城は3・1独立運動の出発点であり、日本からの独立を目指す義烈団員をはじめとする抗日義士らが義挙を断行した場所でもある。日本の中国本土からアジア全土に侵略が広がる中で京城の住民の困窮と略奪、強制動員など苦しい生活を紹介している。

    「日帝強占期のソウル」の展示では抗日民族運動の中心地だった京城を紹介している。写真は1919年にタプコル公園で万歳をする民衆の姿を映像で再現している。京城は3・1独立運動の出発点であり、日本からの独立を目指す義烈団員をはじめとする抗日義士らが義挙を断行した場所でもある。日本の中国本土からアジア全土に侵略が広がる中で京城の住民の困窮と略奪、強制動員など苦しい生活を紹介している。

    ソウル歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • ソウル歴史博物館のすぐ隣に興化門がある。慶熙宮の正門である。斎藤実総督時代の1932年に伊藤博文の雅号の「春畝」をとって「春畝山博文寺」が菩提寺として建てられた。興化門は移築され、博文寺の春慶門という名称で総門として使われた。戦後になって、その場所に新羅ホテルが建てられ、興化門はソウル整備事業の一環として1988年に現在の場所に戻された。

    ソウル歴史博物館のすぐ隣に興化門がある。慶熙宮の正門である。斎藤実総督時代の1932年に伊藤博文の雅号の「春畝」をとって「春畝山博文寺」が菩提寺として建てられた。興化門は移築され、博文寺の春慶門という名称で総門として使われた。戦後になって、その場所に新羅ホテルが建てられ、興化門はソウル整備事業の一環として1988年に現在の場所に戻された。

    興化門 史跡・遺跡

  • 興化門の参道を進んで行くと1610年に創建された慶熙宮があり、階段を上がると正殿の崇政殿がある。慶熙宮は1910年に京城中学校建設のため総督府によって破壊され、京城師範学校の附属小学校も建てられた。興化門だけが残され、京城中学校の裏門として利用され、博文寺の総門を経て、現在の場所に当時の姿を伝えている。

    興化門の参道を進んで行くと1610年に創建された慶熙宮があり、階段を上がると正殿の崇政殿がある。慶熙宮は1910年に京城中学校建設のため総督府によって破壊され、京城師範学校の附属小学校も建てられた。興化門だけが残され、京城中学校の裏門として利用され、博文寺の総門を経て、現在の場所に当時の姿を伝えている。

    慶熙宮 城・宮殿

  • 慶熙宮を北に歩くと社稷壇がある。1395年、李氏朝鮮王朝の始祖である李成桂が漢陽に都を置き、宮殿や宗廟を建てる時に、土地の神である「社」と、穀食の神である「稷」に対して祭祀をおこなう場所とした。社稷壇は二重の柵に囲まれ、柵の四方には桟がついている赤い門の紅箭門が設けられている。毎年9月か10月に、国土の平安と豊作を祈願する祭祀を再現した社稷大祭が行われる。

    慶熙宮を北に歩くと社稷壇がある。1395年、李氏朝鮮王朝の始祖である李成桂が漢陽に都を置き、宮殿や宗廟を建てる時に、土地の神である「社」と、穀食の神である「稷」に対して祭祀をおこなう場所とした。社稷壇は二重の柵に囲まれ、柵の四方には桟がついている赤い門の紅箭門が設けられている。毎年9月か10月に、国土の平安と豊作を祈願する祭祀を再現した社稷大祭が行われる。

    社稷壇 (社稷公園) 史跡・遺跡

  • 社稷壇を東に少し歩くと光化門が見えてくる。景福宮の南門であり、宮城の正門である。景福宮が朝鮮の王が住む宮廷であったため他の宮殿の正門に比べて規模と格式の面でもとても雄大で華麗だった。朝鮮戦争の時に爆撃で破壊され、1968年に鉄筋コンクリートで再建され、もとの場所よりも14.5mほど後方に建てられた。原型を失った光化門を2006年に撤去し、2010年に修復工事は完了した。

    社稷壇を東に少し歩くと光化門が見えてくる。景福宮の南門であり、宮城の正門である。景福宮が朝鮮の王が住む宮廷であったため他の宮殿の正門に比べて規模と格式の面でもとても雄大で華麗だった。朝鮮戦争の時に爆撃で破壊され、1968年に鉄筋コンクリートで再建され、もとの場所よりも14.5mほど後方に建てられた。原型を失った光化門を2006年に撤去し、2010年に修復工事は完了した。

    光化門 史跡・遺跡

  • 光化門の周りや宮殿の中はチマチョゴリなど民族服を着た人で溢れている。チマチョゴリを着ていると入場料が無料になる。少し歩くと勤政殿がある。景福宮の正殿で、朝鮮時代初期から歴代の国王の即位式や朝賀を行った。現在残っている木造建物のうちで韓国最大。勤政とは「世の中の事柄は勤しむとうまくできる」という意味。景福宮の中心部にあり、宮殿建築の神髄と評される。

    光化門の周りや宮殿の中はチマチョゴリなど民族服を着た人で溢れている。チマチョゴリを着ていると入場料が無料になる。少し歩くと勤政殿がある。景福宮の正殿で、朝鮮時代初期から歴代の国王の即位式や朝賀を行った。現在残っている木造建物のうちで韓国最大。勤政とは「世の中の事柄は勤しむとうまくできる」という意味。景福宮の中心部にあり、宮殿建築の神髄と評される。

    勤政殿 城・宮殿

  • 勤政殿は1395年に建立されたが文禄の役で焼失し、1867年に興宣大院君によって再建された。勤政殿の中に入ると、北側中央には、写真の王が座る席を意味する「御座」がある。その後ろには、日と月と5つの峰を描いた「日月五峰図」がある。天井を見上げると、丁度御座の前辺りの位置に如意宝珠を弄ぶ一対の黄龍の彫刻で飾られている。

    勤政殿は1395年に建立されたが文禄の役で焼失し、1867年に興宣大院君によって再建された。勤政殿の中に入ると、北側中央には、写真の王が座る席を意味する「御座」がある。その後ろには、日と月と5つの峰を描いた「日月五峰図」がある。天井を見上げると、丁度御座の前辺りの位置に如意宝珠を弄ぶ一対の黄龍の彫刻で飾られている。

    勤政殿 城・宮殿

  • 勤政殿から北に進むと香遠池の中に香遠亭がある。香遠池の「香遠」は、「香りが遠くまで届く」という意味で、王や王族が休憩を取っていた空間。池の中に建つ香遠亭は景福宮後苑の美しい風景の中に抱かれれ、繊細な美しさが感じられる六角堂である。乾清宮から香遠亭に渡れるように酔香橋が架けられている。この辺りまで来るとコスプレの人は少なくなる。

    勤政殿から北に進むと香遠池の中に香遠亭がある。香遠池の「香遠」は、「香りが遠くまで届く」という意味で、王や王族が休憩を取っていた空間。池の中に建つ香遠亭は景福宮後苑の美しい風景の中に抱かれれ、繊細な美しさが感じられる六角堂である。乾清宮から香遠亭に渡れるように酔香橋が架けられている。この辺りまで来るとコスプレの人は少なくなる。

    香遠亭 史跡・遺跡

  • 香遠池の北に乾清宮がある。高宗は1873年に実父である興宣大院君の政治的干渉から脱して親政体制を構築して、政治的自立のために乾清宮を建てたそうだ。乾清宮は王妃の居所である写真の坤寧閤、王の居所である長安堂、洋館である観文閣などで構成され、1895年に明成皇后が殺害された乙未事変の現場となった。日本統治時代の1909年に解体され、2007年に観文閣を除いて復元された。

    香遠池の北に乾清宮がある。高宗は1873年に実父である興宣大院君の政治的干渉から脱して親政体制を構築して、政治的自立のために乾清宮を建てたそうだ。乾清宮は王妃の居所である写真の坤寧閤、王の居所である長安堂、洋館である観文閣などで構成され、1895年に明成皇后が殺害された乙未事変の現場となった。日本統治時代の1909年に解体され、2007年に観文閣を除いて復元された。

    乾清宮 城・宮殿

  • 景福宮に隣接して国立民俗博物館がある。伝統社会から現在に至るまで韓国人の生活文化を直接見て体験できる博物館。韓国人の一日をはじめとして、韓国人の一年、韓国人の一生など3つの常設展示室と野外展示場を運営している。これと共に、企画・特別展を開催して韓民族の生活文化を紹介している。

    景福宮に隣接して国立民俗博物館がある。伝統社会から現在に至るまで韓国人の生活文化を直接見て体験できる博物館。韓国人の一日をはじめとして、韓国人の一年、韓国人の一生など3つの常設展示室と野外展示場を運営している。これと共に、企画・特別展を開催して韓民族の生活文化を紹介している。

    国立民俗博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 博物館を見学する前に腹ごしらえ。館内のカフェでハムチーズサンドイッチ5500ウォンとアメリカンコーヒー3000ウォンを注文。くつろぎながら食事が出来る

    博物館を見学する前に腹ごしらえ。館内のカフェでハムチーズサンドイッチ5500ウォンとアメリカンコーヒー3000ウォンを注文。くつろぎながら食事が出来る

    国立民俗博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 国立民俗博物館を出ると「十二支の場」がある。12方位を象徴するもので、動物の顔と人間の体をしている十二支神像が円形の広場の置かれている。自分の干支の前で写真を撮るようだ。

    国立民俗博物館を出ると「十二支の場」がある。12方位を象徴するもので、動物の顔と人間の体をしている十二支神像が円形の広場の置かれている。自分の干支の前で写真を撮るようだ。

    12支神像 史跡・遺跡

  • 国立民俗博物館を東に歩くと昌徳宮がある。仁政門をくぐると昌徳宮の正殿である仁政殿が現れてくる。王の即位式・朝礼・外国使臣の接見などの重要行事が行なわれ、臣下は前の広場にて位階に応じた位置についた。建物は高い天井をもつ1層構造で、他の宮殿と同様、中心に王の座席の「御座」を置き、「日月五峰図」が飾られている。1900年代に導入されたシャンデリアなども見られる。

    国立民俗博物館を東に歩くと昌徳宮がある。仁政門をくぐると昌徳宮の正殿である仁政殿が現れてくる。王の即位式・朝礼・外国使臣の接見などの重要行事が行なわれ、臣下は前の広場にて位階に応じた位置についた。建物は高い天井をもつ1層構造で、他の宮殿と同様、中心に王の座席の「御座」を置き、「日月五峰図」が飾られている。1900年代に導入されたシャンデリアなども見られる。

    仁政殿 城・宮殿

  • 宮殿内を少し歩くと大造殿がある。高宗の退位により、1907年に純宗が皇帝に即位した。大造殿では王妃との生活と王室の大きな行事が行われた。1910年に大造殿の付属建物の興福軒で朝鮮王朝最後の御前会議を開いて庚戌国恥と呼ばれる韓国併合が決定された悲運の場所でもある。純宗は最後の大韓帝国皇帝となった。昌徳宮は正宮の景福宮に対する離宮として建てられた。

    宮殿内を少し歩くと大造殿がある。高宗の退位により、1907年に純宗が皇帝に即位した。大造殿では王妃との生活と王室の大きな行事が行われた。1910年に大造殿の付属建物の興福軒で朝鮮王朝最後の御前会議を開いて庚戌国恥と呼ばれる韓国併合が決定された悲運の場所でもある。純宗は最後の大韓帝国皇帝となった。昌徳宮は正宮の景福宮に対する離宮として建てられた。

    大造殿 史跡・遺跡

  • 昌徳宮の東に繋がる形で昌慶宮がある。李朝第4代世宗が父親の太宗のために1428年に建てた寿慶宮が前身。1592年の文禄の役で大部分が破壊された。第9代成宗が当時の3人の皇后ために宮殿を建て、昌慶宮と呼ばれた。1616年に再建された明政殿は正殿で、前の「朝庭」には薄石が敷かれ、中央には王が通る「御道」が造られている。普通正殿は南を正面に造られるが、昌慶宮は東に面するのが特徴。

    昌徳宮の東に繋がる形で昌慶宮がある。李朝第4代世宗が父親の太宗のために1428年に建てた寿慶宮が前身。1592年の文禄の役で大部分が破壊された。第9代成宗が当時の3人の皇后ために宮殿を建て、昌慶宮と呼ばれた。1616年に再建された明政殿は正殿で、前の「朝庭」には薄石が敷かれ、中央には王が通る「御道」が造られている。普通正殿は南を正面に造られるが、昌慶宮は東に面するのが特徴。

    明政殿 史跡・遺跡

  • 昌徳宮の南に宗廟がある。宗廟は李成桂が漢陽に遷都した1394年に着工し、翌年に完成した。朝鮮王室の歴代の王・王妃を祀った霊廟で儒教の思想に基づいて建てられた。見学は言語別ツアーのみで、午後3時40分の日本語のツアーに参加した。宗廟に入るとすぐに香大庁があり、宗廟で使用する香祝幣と祭祀を行うときの供え物を保管し、祭祀に出る祭官が待機している場所。

    昌徳宮の南に宗廟がある。宗廟は李成桂が漢陽に遷都した1394年に着工し、翌年に完成した。朝鮮王室の歴代の王・王妃を祀った霊廟で儒教の思想に基づいて建てられた。見学は言語別ツアーのみで、午後3時40分の日本語のツアーに参加した。宗廟に入るとすぐに香大庁があり、宗廟で使用する香祝幣と祭祀を行うときの供え物を保管し、祭祀に出る祭官が待機している場所。

    宗廟 寺院・教会

  • 宗廟の正門の外大門をくぐると「三道」と呼ばれる石を敷いた道が続く。祭祀の際に利用される道で、中央の道は左右の道に比べて若干高くなっていて、神のための道で「神路」と呼ばれ正殿に続いている。右側は王が通る道で「御路」、左側は皇太子が通る道から「世子路」とされている。王と皇太子が利用した御路と世子路は、祭祀の準備を行なう場所である「斎宮」へ続いている。

    宗廟の正門の外大門をくぐると「三道」と呼ばれる石を敷いた道が続く。祭祀の際に利用される道で、中央の道は左右の道に比べて若干高くなっていて、神のための道で「神路」と呼ばれ正殿に続いている。右側は王が通る道で「御路」、左側は皇太子が通る道から「世子路」とされている。王と皇太子が利用した御路と世子路は、祭祀の準備を行なう場所である「斎宮」へ続いている。

    宗廟 寺院・教会

  • 十数人のツアー参加者とともにぞろぞろ歩いて見学。宗廟の正殿に行ったが残念ながら工事中だった。宗廟の中心の建物で、朝鮮を建国した太祖、当時の在位中の王の4代祖、歴代王のなかでも特に功績のある王と王妃の位牌を祀った。位牌の数が増加するに従って三回にわたって東側に増築した。正殿は西側が最も上で、第1室1番目の太祖の位牌をはじめ、最後の皇帝純宗まで19室に49位の位牌に祀られている。

    十数人のツアー参加者とともにぞろぞろ歩いて見学。宗廟の正殿に行ったが残念ながら工事中だった。宗廟の中心の建物で、朝鮮を建国した太祖、当時の在位中の王の4代祖、歴代王のなかでも特に功績のある王と王妃の位牌を祀った。位牌の数が増加するに従って三回にわたって東側に増築した。正殿は西側が最も上で、第1室1番目の太祖の位牌をはじめ、最後の皇帝純宗まで19室に49位の位牌に祀られている。

    宗廟 寺院・教会

  • さらに奥に行くと永寧殿がある。永寧殿は正殿に祀られていなかった王と王妃の位牌を移動し、祭祀を行った別廟である。1421年に第4代世宗は第2代定宗の位牌を正殿に祀る時、神室が足りなくなって、正殿に祀っていた位牌を移して祀るために新たに建てた。永寧は「国王の先祖と子孫が共に永く平安であるように」という意味である。正殿より建物と廟庭の規模が小さいが、同様の建築様式で建てられた。

    さらに奥に行くと永寧殿がある。永寧殿は正殿に祀られていなかった王と王妃の位牌を移動し、祭祀を行った別廟である。1421年に第4代世宗は第2代定宗の位牌を正殿に祀る時、神室が足りなくなって、正殿に祀っていた位牌を移して祀るために新たに建てた。永寧は「国王の先祖と子孫が共に永く平安であるように」という意味である。正殿より建物と廟庭の規模が小さいが、同様の建築様式で建てられた。

    永寧殿 史跡・遺跡

  • 宗廟のツアーは約1時間で終わった。地下鉄鐘閣駅の近くにある里門ソルロンタンで食事。開業は1902年や1907年など本やネット情報ではいろいろあるが、ソウルの飲食店許可番号第1号ということで、韓国で最も古い食堂として知られている。ソルロンタンはソウル名物の1つで市内のいろいろな所に専門店がある。

    宗廟のツアーは約1時間で終わった。地下鉄鐘閣駅の近くにある里門ソルロンタンで食事。開業は1902年や1907年など本やネット情報ではいろいろあるが、ソウルの飲食店許可番号第1号ということで、韓国で最も古い食堂として知られている。ソルロンタンはソウル名物の1つで市内のいろいろな所に専門店がある。

    里門ソルロンタン 地元の料理

  • ソルロンタンは白い牛のスープで、牛骨、牛の膝蓋骨、頭骨、脚の骨などと、牛の胸肉、膝肉、タン、脾臓などを入れて一日ほど煮込んだスープで、さっぱりとした味。スープの中にはご飯とソーメンが入っている。お代わりも自由のカットゥギ、キムチと共に食べると美味しい。料金は10%の消費税込みで14000ウォンだった。この日の歩数は36972歩だった。

    ソルロンタンは白い牛のスープで、牛骨、牛の膝蓋骨、頭骨、脚の骨などと、牛の胸肉、膝肉、タン、脾臓などを入れて一日ほど煮込んだスープで、さっぱりとした味。スープの中にはご飯とソーメンが入っている。お代わりも自由のカットゥギ、キムチと共に食べると美味しい。料金は10%の消費税込みで14000ウォンだった。この日の歩数は36972歩だった。

    里門ソルロンタン 地元の料理

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