2024/03/12 - 2024/03/12
643位(同エリア913件中)
旅四郎さん
この日の天気予報は雨模様。ホテルを出て駅に向かうと小雨だったので、仁川でが雨が降っていないことを願いながら地下鉄に乗る。仁川では雨が降っていなかったので一安心。旧日本租界やチャイナタウンを巡る。旧日本租界には日本の銀行が残っていて、博物館などとして利用されている。ソウルではかつての京城帝国大学を中心に市内を散策。途中で雨が降ってきた。
3月12日(火)地下鉄1号線でソウル駅から仁川駅に向かう。駅前の中華街正門を潜って、少し歩いてから仁川開港博物館に行く。旧日本租界のある戦前の建物を見学し、中華街を回って昼食をとる。地下鉄でソウル駅に戻る途中、永登浦駅で下車して旧京城紡績事務所を見学。ソウルでは旧京城帝国大学跡の建物を中心に雲峴宮など市内の観光スポットを巡る。鍾路駅の地下街のレストランで夕食。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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3月12日(火)ホテレッテ・ソウル・ステーションを出てソウル駅に向かう。地下鉄1号線の午前8時10分発の電車で仁川に向かう。
ホテレット ホテル
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仁川駅は韓国鉄道公社の地下鉄1号線の駅。1899年に韓国国鉄京仁線の終着駅として開業。現在の仁川駅は1960年に竣工した。午前9時25分に仁川駅に到着。大韓民国仁川広域市中区にあり、チャイナタウンという副駅名がある。1974年首都圏電鉄1号線の運行を開始し、京仁線全線がこれに組み込まれ、2005年韓国国鉄が韓国鉄道公社に改称した。
仁川駅 駅
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駅前の中華街正門を潜って坂道を上ると、「仁川チャイナタウン」と呼ばれ中華街がある。1883年仁川港開港後、1884年にこの地域が清国の専管租界に指定されたことによって形成された。かつては中国から輸入された品物を販売する商店が大部分だったが、現在はほとんどが中国料理店になっている。時間が早かったので、開いている店が少ないので開港博物館の方に行った。
仁川チャイナタウン 散歩・街歩き
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しばらく歩くと、中華街の第2の入口である仁華門があり、書聖王義之の像がある。西側に中華街、東側に旧日本租界がある。仁川開港博物館、仁川開港場近代建築展示館、韓中文化館、中区生活史展示館、チャジャンミヨン博物館の5館共通入場券を3400ウォンで販売しており、65歳以上は無料になっている。景福宮などの有名観光地も無料で入場できる。
仁華門 現代・近代建築
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旧日本租界へ向かう途中に旧日本郵船株式会社仁川支店がある。日本統治時代の建物で1888年に竣工した。事業者は変遷したものの近年まで海運業関連の施設として使われていた。正面は左右対称で、入り口の上部を切妻屋根風の三角形にデザインして洋風らしく見せている。現在は仁川アートプラットフォームの倉庫として使われている。
仁川アートプラットフォーム 現代・近代建築
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旧日本第一銀行仁川支店の建物がある。日本第一銀行釜山支店の出張所として開設され、1899年に仁川支店に昇格した。新家孝正の設計で日本から建材を持ってきて建てられた建物は左右対象のルネッサンス様式で、軒の上には丸い穴が開けられたパラペット欄干が設置されている。1909年に韓国銀行仁川支店、1911年に朝鮮銀行仁川支店となった。現在は仁川開港博物館として利用されている。
仁川開港博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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館内は天井が高く、内装も美しい。仁川の開港と韓国初の鉄道である京仁鉄道の博物館。灯台の模型や精巧な蒸気機関車のミニチュアも展示され、当時の仁川の港湾施設や鉄道の歴史、スクリーンに旧日本街を再現している。仁川で韓国初の郵便事業が行われ、郵便に関する資料とともに、当時の郵便配達人の服装を人形で再現して「逓伝夫」と説明されていた。タイプライターや電話なども展示されていた。
仁川開港博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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同じ通りに旧日本十八銀行仁川支店がある。1890年に開業し、長崎に本店があった。1936年には朝鮮殖産銀行仁川支店となった。外観は重厚な石造だが、中に入ると壁はレンガ造りで天井は木造になっていた。館内には開港場のジオラマや仁川にある代表的な建物の模型が展示されている。現在は仁川開港場近代建築展示館として使われている。
仁川開港場近代建築展示館 博物館・美術館・ギャラリー
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少し東に歩くと旧日本五十八銀行仁川支店がある。大阪に本店を置く銀行で、朝鮮の政府の貨幣制度改革のために招聘されたのをきっかけに1892年に仁川支店が建てられ、貿易金融界で活躍した。五十八銀行は戦後は朝興銀行仁川支店、赤十字事務所を経て、現在は中区飲食業組合の事務所となった。2階に優雅で美しいバルコニーがある。中に入ったが、残念ながら内部の見学はできない。
旧日本第58銀行 仁川支店 史跡・遺跡
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韓中文化館は中国にある11の友好都市の文物を紹介する展示館。3階は友好都市広報館で、各地域の寄贈資料を展示している。2階は韓中文化展示館で、中国の歴史・文化・経済・社会・生活の様子を紹介し、韓中文化交流関連の遺物を展示している。中国衣装の展示コーナーや体験コーナーもある。隣の華僑歴史館とは2階で繋がっている。
韓中文化館 博物館・美術館・ギャラリー
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北に少し歩くと旧大仏ホテルがある。1889年に建てられた韓国初の西洋式ホテル。ドアを開けると、かつてのホテルのカウンターがチケット売り場になっている。1階展示ホールではホテルの歴史や関連資料が展示され、ガラス張りの床からコンクリートの基礎部分を見ることができる。2011年にホテルの跡地に建て直され、中区生活史展示館の大仏ホテル展示館になっている。
デブル ホテル エキシビジョン ホール 博物館・美術館・ギャラリー
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2階に上がると、ホテルの客室のシングルルームとダブルルームが再現されている。美しい木製家具、優雅な蓄音機、壁にはスーツケースが置かれ、当時の客室の雰囲気を感じさせる。3階は、宴会場が再現されている。当時の写真や食器、手回し電話、カメラ、眼鏡などが展示されている。
デブル ホテル エキシビジョン ホール 博物館・美術館・ギャラリー
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大仏ホテル1階の裏門から生活史展示館に入ることができる。仁川中区の歴史が始まった1968年を基準に、1960年代から1970年代の仁川市民の暮らしの様子を銭湯や理髪店など町の一角を再現したコーナーや絵画作品などからも当時の雰囲気を味わえるように展示している。
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大仏ホテルから北に少し行くと日・清租界地境界階段がある。1883年に設定された日本租界と、1884年に作られた清国の租界を分ける境界線の役割をした階段である。階段の下から見て左側に中国式、右側に日本式の石灯篭が並んでいる。この階段の途中に孔子の石像があり、さらに上ると自由公園に到着する。
清日租界地境界階段 旧市街・古い町並み
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1888年にできた自由公園は日本統治時代は「西公園」と呼ばれていた。写真は米韓修好100周年記念塔だが、ここにはイギリスの商人ジョンストンの別荘があり、1936年からは仁川閣という名前の日本の料亭になった。戦後は米軍将校寄宿舎になり、仁川上陸作戦の際に破壊された。
仁川自由公園 広場・公園
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公園をさらに東に進むとマッカーサー像がある。1957年に仁川上陸作戦7周年を記念して市民の寄付で設置された。仁川上陸作戦55周年を迎えた2005年に銅像撤去を巡って意見の対立が続いている。この場所にはドイツ系貿易会社世昌洋行の社員宿舎があった。1884年の甲申事変で郵便事業が閉鎖され、印刷されたが発行できなかった大韓帝国の切手を買い取り、ヨーロッパのコレクターに売ったそうだ。
マッカーサー将軍銅像 モニュメント・記念碑
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旧日本租界はきれいに整地された日本家屋街がある。仁川が開港した際に設けられた日本租界を元にした伝統的建造物群があり「開港場近代歴史文化タウン」と名づけられ、当時の店舗や民家が再現されている。かつての日本の領事館や銀行、海運関連の建物が保存整備され、一部は博物館になっている。石造りや木造の趣のある建物が韓国を始めとして日本や中国などの外国人観光客の関心を呼んでいる。
仁川旧日本人街 旧市街・古い町並み
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旧日本租界の東側に旧仁川府庁舎の建物がある。1882年に建てられた日本領事館の跡地に1933年に建設された。1985年に市庁が移転するまで仁川府庁舎として使用されていた。現在は仁川中区庁となっている。建設当時は2階建てだったが、1964年に3階が増築された。蒸気暖房と共に水洗式トイレなど最新設備を備えていて、注目されたモダニズム様式の建築物だった。
仁川中区庁 現代・近代建築
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西に進んで中華街に入るとチャジャンミョン博物館がある。老舗中華料理店共和春の店舗を補修して2012年にオープンした。入口は色鮮やかなタイルの壁画で装飾されている。韓国の人々が愛するチャジャンミョンの歴史と文化的価値に注視した展示施設。仁川港の埠頭で働く労働者たちは中華料理店に頻繁に訪れるようになり、安くて手軽に食べられるチャジャンミョンが開発された。
ジャージャー麺博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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館内入ると、20世紀の店内の様子が再現されている。チャジャンミョンの始まりから移り変わりと韓国の近代食文化も紹介している。チャジャンミョンはジャージャー麺と違って、韓国人の好みに合わせて、甘い味付けになっている。爆発的に人気を集めたチャジャンミョンは代表的な韓国料理として定着するようになった。
ジャージャー麺博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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共和春は仁川港へやって来た中国人が料理店を開くため、善隣洞に1908年頃に建てた中庭型の中国式建物。花崗岩の石積みの上に2階建てレンガ造りの建物は、華僑の生活の様子がわかる近代文化遺産である。共和春はジャージャー麺を開発・販売で中華料理店として繁盛したが、華僑の財産権行使を制限した政府の華僑政策で1983年に廃業した。
ジャージャー麺博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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せっかく仁川まで来たので昼食は中華街で食べることにした。共和春を出て、坂道を上って萬多福で食べることにした。
萬多福 地元の料理
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店に入って、メニューを見て蟹肉炒飯を注文した。料金は9000ウォンだった。後で分かったことだが、「百年白老醤麺」という白いチャジャンミョンが有名な店だった。化学調味料がなかった100年前のチャジャンミョンを再現したもので、仁川中華街で流行している。
萬多福 地元の料理
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地下鉄1号線の仁川駅を午後1時13分発の地下鉄に乗って、永登浦駅で午後2時15分に到着。下車して駅から北に少し歩くとタイムズスクエアというショッピングモールがあり、敷地内に旧京城紡織事務棟がある。日本統治時代の1936年に韓国人資本によって建てられ、原型がよく保存されている。近代工業史的な資料として価値のある建物で、 再開発工事で2009年に移転・復元された。
タイムズスクエア ショッピングセンター
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永登浦駅を午後2時32分発の地下鉄で乙支路3街駅に午後2時54分に到着。旧大韓医院に行く。大韓帝国時代の1907年に議政府直轄で設立された。中央にドーム様式の屋根を載せたネオバロック風の時計塔とルネサンス様式の壁面など、様々な様式が交ざった建物。日本統治時代の1910年に総督府病院、1926年に京城帝国大学病院に編入された。現在はソウル大学校病院医学博物館になっている。
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ソウル大学校病院医学博物館の敷地内には大韓医院の初代校長の松村池錫永先生像が建っている。「外国人医師を訪ね歩き、種痘法を学び、韓国に初めて導入、普及させた。その成功は西洋医学の社会的浸透に貢献した」と韓国の小学校の教科書に書かれている。この頃から雨が降り出したのでソウル大学病院で雨宿り。
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少し歩くと旧京城帝国大学医学部の建物がある。1924年に公布・施行された京城帝国大学官制によって設立された朝鮮唯一の官立総合大学。総長には朝鮮総督府政務総監が就任し、2年制の予科を開校した。26年に3年制の法文学部と4年制の医学部を設置した。京城帝国大学は日本人と朝鮮人の共学であったが、教員も学生も常に日本人が多数を占めた。現在はソウル国立大学校医科大学の校舎になっている。
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ソウル国立大学校医科大学の東側にマロニエ公園がある。公園の南側に1928年に建てられたロマネスク風の赤い石造りの旧京城帝国大学本館の建物がある。戦後、京城帝国大学は京城大学と改称され、1946年に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が京城大学と9つの専門学校を統廃合してソウル大学校を開校した。現在はアーティストの家として使われている。
マロニエ公園 広場・公園
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アーティストの家を南に行くと梨花荘がある。大韓民国政府樹立の礎となった李承晩前大統領が身を寄せた場所。現在、李前大統領の記念館として使われている。梨花荘は、李承晩大統領記念館と史跡館、彫刻堂、生活館から成り、彫刻堂は李前大統領が大韓民国初の内閣を発足し発表した場所。現在は公開されていない。
梨花荘 建造物
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安国駅の方向に歩くと雲峴宮がある。朝鮮時代末期、改革派の政治家として多大な影響をもたらした興宣大院君の私邸。息子である第26代王・高宗が即位するまでの時代を過ごした場所で、盛んな議論が交わされる革新政治の中心地でもあった。写真の老楽堂では高宗と明成皇后の結婚式「嘉礼」や興宣大院君一家の様々な祝い事が行われた。毎年春と秋に「嘉礼」を再現した行事が行われる。
雲峴宮 建造物
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雲峴宮を少し南に行くと天道教中央大教堂がある。第3代教主孫秉熙によって1918年に建築工事を開始した。1919年の3・1運動の中心団体として活動した。建築費の一部を独立運動資金として使用したという。基礎は御影石、壁は赤レンガの古風な4階建ての建物。建物の設計は日本人の中村與資平が行った。
天道教中央大教堂 寺院・教会
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さらに南に朴泳孝の旧宅があった場所がある。彼は朝鮮第25代王・哲宗の婿で、金玉均とともに独立党を結成し、韓国の国旗である太極旗を考案したとされる。1997年にソウル市民俗資料18号に指定され、韓国伝統家屋の展示館となった。ソウルの8大家の一つとしても有名だったが、これらは南山コル韓屋村に移転した。現在は1983年に開館した耕仁美術館になっている。
耕仁美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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タプコル公園の西に太和ビルがある。1919年3月1日午後、京城中心部のパゴダ公園に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には近くの泰和館に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした。「独立宣言書」には民族代表33人が著名した。太和ビルは旧泰和館のあった場所で、ここに「三一独立宣言遺跡地」と書かれた石碑が置かれている。
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石碑の横には泰和館で民族代表が朗読した「己未独立宣言文」が壁に刻まれている。1919年2月28日夜、孫秉熙の家で民族代表事前会が開かれ、場所は泰和館に変更になった。タプコル公園で独立宣言文を発表する予定だったが、ここに学生が多数集って、興奮して暴動が起こることを心配して場所を変更したという。
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地下鉄の鐘閣駅に向かうと、1395年に建築された普信閣がある。大きな鐘が吊るされた鐘楼である。朝鮮時代の都である漢城は城郭で囲まれていた。城郭の東西南北4カ所に四大門と呼ばれる城門が設けられていた。毎日朝と晩の開閉の合図と、火災などの非常事態に鐘を突いた。かつては3・1独立運動の中心地だった。現在の普信閣は、1979年にソウル市によって復元された。
普信閣 寺院・教会
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雨が降ってきたので散策はやめて食事をすることにした。鍾路駅の地下街でレストランを探すことにした。いろいろ迷った末に「ヤナンシッタン・ゴレカムジャタン」という店に入った。日本語で「沿岸食堂・クジラジャガイモ」という意味のようだ。
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メニューを見て蟹肉ビビンパフを注文。一番手前の皿の下にご飯があって、いろいろな具と混ぜて食べる。食事の後、向かいにあったGS25というコンビニで明日の朝食用にサンドイッチと缶コーヒーを買って、地下鉄一号線でソウル駅まで行き、ホテルへ戻る。この日の歩数は29905歩だった。
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