2024/03/13 - 2024/03/13
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たびたびさん
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春日祭は、春日大社の例祭。始まりは、嘉祥3年(850年)。藤原氏の祀りとして発展してきました。そもそも、春日大社は、藤原氏の守護神、武甕槌命(タケミカヅチノオ)を祀る神社。武甕槌命は、神話の出雲の国譲りで登場する神様。大国主神に対し、国譲りの談判を行った際、服従しない息子のひとり、建御名方神(タケミナカタ)と力比べをして、これを圧倒。最終的には国引きと宮殿を建てることを条件に国譲りは成就します。武甕槌命は常陸国鹿島の神様ですが、鹿島から奈良まで白鹿にやってきたというのが奈良の鹿の起源でもあります。
春日大社は、奈良時代の神護景雲2年(768年)、称徳天皇の勅命により創建されたとされていますが、武甕槌命が藤原氏の氏神であることを考えると平城京遷都の際に藤原不比等が三笠山に武甕槌命を祀ったのが始まりという説の方が納得感がありますね。ちなみに、藤原氏との関係が一番濃いのは興福寺。天智天皇8年(669年)、藤原鎌足の妻、鏡王女が鎌足の病気平癒を願い山背国に創建した山階寺。藤原京を経て、平城京に移された際に、興福寺と名付けられました。ということで春日大社が藤原氏の氏寺、興福寺と一体となっていったのは自然な流れ。春日祭が藤原氏の祭りとして発展していく過程でも興福寺の関与は必然であり、摂関政治の繁栄とともにその規模を拡大させてきたというのも、やっぱり藤原氏との関係があってのものでしょう。
一方で、春日祭が石清水祭、葵祭と並ぶ三大勅祭の一つとなったのは、明治になってから。天皇の勅使が派遣される公的な性格になったのですが、藤原氏自体が大化の改新に功のあった中臣鎌足を祖としていて、私的な一族とはちょっと違いますからね。大きな変更というほどではないでしょう。
なお、春日祭の神事は境内で行われますのですが、立ち入りは禁止なので、拝見できるのは、境内に向かう勅使の行列をちょこっとだけ。江戸時代以前の慣例による束帯を着た勅使や古い故実に則った随行の官人。正使と副使、それぞれを護衛する人たちや捧げものの長持ち等。一行が通り過ぎていくのを見守りましたが、せいぜい10~15分くらいかな。あっという間に終了です。事前に観光案内所で情報を得ようと思っても、具体的な情報がほとんどなくて不思議でしたが、確かにこれでは、観光案内する対象にはならないかもしれませんね。ただ、なんとなくでも集まってくる観光客はそれなりにいて、周囲はいつのまにか大勢の見物人で埋まっていました。奈良は、一番大きな祭りの春日若宮おん祭でもそんなに宣伝はしていませんし。。神事や行事はそのままの位置づけでお祭り化していないのも、京都と違う奈良らしさということかもしれません。
春日大社や春日祭のことが長くなってしまいましたが、今回描きたかったのは、むしろ、奈良時代や平城京の時代の風景。もう少し我慢してお付き合いいただきたいと思います。
奈良時代の象徴は聖武天皇、光明皇后と東大寺の大仏。華厳経を信奉し、鎮護国家を願う姿は、南都六宗、南都七大寺の陣容や正倉院の御物からも想像できるように壮大で煌びやかな印象。推古天皇や聖徳太子の飛鳥時代からすると何段階もバージョンアップしていることは間違いないのですが、しかし、どこがどう変わったのかと考えると意外に難しいのが正直なところ。というのも、中国(隋・唐)や朝鮮半島(百済・新羅・高句麗)との濃厚な国際関係は飛鳥時代から変わっていないし、条坊制の都、藤原京から平城京は天武天皇の強い思いから。大宝律令も文武天皇の下で制定されますが、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇の存在があるからこそ。律令国家が樹立されたのは奈良時代としても、その道筋は大化の改新や壬申の乱などで彩られた飛鳥時代の後期にあったと見る方が素直に納得できるような。。春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山。持統天皇の思いはそのまま聖武天皇に引き継がれたのだと思います。ただ、聖武天皇は、天武天皇と持統天皇の息子、文武天皇の子。天智天皇から考えても、実質、たった三世代で、夢が形になっていったのですから、そこも軽視してはならないことですけどね。
そういった中で、私が敢えて思うのは次の三つのことです。
①ラッキーな国際情勢の安定化と鉄の自給
聖徳太子は、小野妹子を遣隋使として派遣。隋との対等な外交関係を築く姿勢を示します。邪馬台国の卑弥呼や倭の五王が朝貢外交をしていたのと比べると隔世の感はありますが、ただ、実態として国力の差は明らかだし、中国から学びたいという思いは切実なものだったと思います。その中国から学べの姿勢は以降も一貫していて、白村江の戦いの大敗を挟んでも遣唐使はほどなく復活するなど変わることはありませんでした。律令国家の樹立は最終目標。天智天皇の大化の改新、天武天皇の壬申の乱以降の諸施策もすべてはそこに行きつきます。この間、中国に出現した大帝国、唐は繁栄を謳歌し、戦いはもう求めないという動き。それは大帝国の出現で緊張感が走った日本の懸念とは異なるものでした。そして、白村江の戦いの大敗。防人の動員や各地の古代城の建設など一定の混乱はありましたが、これも予想に反し、朝鮮半島に郡を置こうとした唐と新羅は戦いとなり、新羅はいわば防波堤の役割を果たすことに。また、滅亡した百済に高句麗からも大勢の避難民が日本に流れてくることになって。古代城はほとんどが朝鮮式の城だったことを考えても、多かれ少なかれ日本に先進的な技術をもたらしたことは想像に難くありません。そして、もう一つの側面ですが、鉄のこと。日本が朝鮮半島にこだわりを持っていたのは、朝鮮半島が鉄器の入手先だったから。鉄器は先進的な稲作と不可分だったし、たぶん、ヤマト政権の軍事力の強化には欠かせないものだったはず。そうであれば、朝鮮半島にこだわるのは当然です。しかし、鉄の国内生産は古墳時代の中期頃から自給自足ができるようになっていました。白村江の戦いの大敗で朝鮮半島の足掛かりが亡くなっても、致命的なことにはならなかった要因の一つではないかと思います。つまり、日本が国力を蓄えるための局面でいくつもの幸運が重なって奈良時代を迎えたということ。天平時代やシルクロードの終着点というワードはそういうことをやや感傷的に表現したものだと思いますが、その中身はもっと冷静に評価する必要があると思います。
②奈良の文化はけっこうな完コピだったこと
条坊制の都や大寺は象徴的で分かりやすいのですが、例えば南都六宗。三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗は、仏教の範疇に止まらず、インド哲学の系譜、唯識派や唯名派の流れを汲むものであり、龍樹の中観派や密教の一部まで忠実に写し取ろうとした執念さえ感じます。聖武天皇が信奉した華厳経は縁起がキーワードですが、縁起は真の世界と現実の世界の関係を説明するもので、縁はあるが互いに邪魔をしないという主張です。これは、唯識派の考え方であって、為政者である聖武天皇にとっては好ましい考え方だったとも言われています。仏の世界は仏の世界、現実の世界は現実の世界ですから、極端な話、鎮護国家を祈ってその通りにならなくても聖武天皇に責任が生じることはありませんからね。(唯名派は諸法実相。関係がなくはないと説きます。平安期以降の主流は唯名。中国も同じです)ただ、当時の仏教はこの世を理解するための学問。現世利益の考え方が普通になるのはもっと後の時代です。それに、重要なのはそうした俗なことではなく、仏教の考え方を理解することもすべては世界帝国、唐に学ぶという目的のためだったこと。そのことが強い国家を作るための道と考えていたことが真に凄いことなのだと思います。都や寺を作るだけではない。それを支えた宗教、文化、思想までコピーして、唐に学ぶんだという執念。これは、もしかしたら聖徳太子くらいからの伝統方針かも。「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の三経義疏は、聖徳太子が天台宗の摩訶止観の一端くらい理解していたのではないかと思わせるものだし、その辺りから派生した聖徳太子信仰というのも当然かなという気がしますが、なによりも中国の力の根源まで学んでやろうという強い意志があったというのが見落としてはならないことではないかと思います。また、明治維新の際に、科学技術だけではなく、法律や政治体制などの社会制度まで含めて学ぼうとした日本人の姿勢にも通じるもの。そこのところを大いに評価すべきではないかと思います。
③長きにわたる律令国家の呪縛
藤原不比等らの尽力によって制定された大宝律令。律令国家の体制が出来上がりますが、これは土地や人民は国家のものという考え方。租庸調はそこから生じる義務ですね。そして、この律令国家の体制をいかに維持するかがその後の政治の中心となったと言っても過言でないでしょう。次々とほころびは出るのですが、この考え方を否定する新たな規範はもしかしたら明治維新までなかったといってもいいかもしれません。平安時代の荘園制度は、有力な公家や寺社に土地や人員を寄付することによって、律令制度の特別区を作るようなものだったし、鎌倉幕府を作る原動力も自分の開墾した田畑くらい自分のものにしたいという武士たちの願いであり、いかに律令制度の呪縛に苦しめられていたかの理解が必要です。幕府を率いる征夷大将軍も戦時体制に置かれる役職ですから、律令制度を否定まではせず、臨時的な対応として幕府が政治を行うという立場ですね。実質的な土地の私有制は平安時代にもあったにせよ、公の考え方ではない。天智天皇、大化の改新、天武天皇、持統天皇、文武天皇、藤原不比等、大宝律令とか遥か昔の出来事のような気がしますが、実はそうでもないのです。日本の歴史の中で長く長く続いた呪縛。本音と建前の最たるものだと思いますが、そこに思いを馳せるのも悪くないことだと思います。
ここからは蛇足ですが、もしかすると日本人は全く新しい思想や考え方を創出する能力は少し弱いのかも。いろんな思想の本質を理解して自分のものとはするのですが、それ以上にはなかなかならない。儒教や道教は明らかですが、仏教で言っても華厳宗や天台宗だと智顗とか中国に開祖がいて、十分にパイオニアのレベル。日本では最澄がこれに次ぐくらいで、ほかには見当たらないような。鎌倉仏教も最澄の膨大な論理展開を相当部分拝借しているのが実情で、それはまるで旧約聖書と新約聖書の関係のようなもの。キリストももし「神は確かにいるのです」くらいから説く必要があったら、何もできていないかもしれませんからね。脱線しましたが、宗教家、思想家の分野で言っても中国はさすが。日本の及ぶところではないような気がします。
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春日祭は9時からなので、例によって、その前に奈良市内の散策です。
常徳寺は、享保年間(1716-1737年)に、柳生藩家老、小山田主鈴が奉納した朝日妙見大菩薩を祀る日蓮宗の寺。 -
貞享3年(1686年)建立で奈良県指定文化財となっている本堂が見どころの一つ。寄棟造りの二重屋根。正面吹き放しの縁を外陣、その後方に内陣と脇陣を設けるのが日蓮宗の本堂の型というものです。
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奈良もちいどのセンター街の入り口に用途不明の石があり、調べたら奈良縣里程元標の台石と分かったというもの。その後、今は20mほど動かして”御高札場”の前に復元されています。京都、大阪、伊勢への起点を示すものです
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采女祭は、毎年仲秋の名月の日に猿沢池で行われる采女神社の例祭。猿沢の池のほとりにライオンズクラブの建てた説明板があって、時の帝の籠愛が衰えたのを苦にこの池に身を投げた采女の霊を慰めるお祭りとありました。悲しいお話です。
実際の祭りはまた見る機会があるかなあ。時期もあって、ちょっと微妙なところです。 -
率川地蔵尊は、猿沢の池の西側に架かる石橋の上から下をのぞき込むと見えるのですが、赤い布でくるまれた石の地蔵がぎっしり。護岸工事が行われる度にお地蔵様の数は増えるというのですが、つまり、廃仏毀釈で川に捨てられていた地蔵ですよね。形を変えた再生なのかもしれません。
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そろそろ、春日大社の方へ。
春日神社まで続く参道脇にはたくさんの石灯籠。 -
約2千基もあるそうで、日本一の石灯籠参道。室町時代は主に大和の衆徒、江戸時代には商人や大名が現世安穏や息災延命、所願成就などを願って建てたようです。
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まだ、スペースには余裕があるので、しばらくは増えても大丈夫ですね
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ここが春日祭の見物場所。
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もう一度、時間を聞いたら9時半くらいだということなので、出直すことにしました。
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もう少し、近場をうろうろ。
荒池は、浮御堂のある鷺池から西の方に水が下ってもう一段低い場所にある池。荒池ごしに奈良ホテルが見えましたが、荒池は周辺にゴロゴロ小石があるしあんまりきれいでもないので、そんなに映える眺めではないですね。ただ、これくらいが奈良と言えば奈良かなとも思います。 -
浮御堂も拝見して、また戻りましょう。
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一応ここがベストポジションかな。
しばらくすると人影が。。 -
白い装束は春日神社の方でしょう。
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その後ろに正使の一行かな。
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黒装束に
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薄紫と濃紺の装束。
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三人の一団はここでUターンして、春日大社に向かいます。
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続いては
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イチオシ
赤い装束と
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その後に一人おいて
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濃紺の装束。
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前後を守る白装束は春日神社の人だと思います。
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今度は警備員を先頭にした集団。
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これが本隊ということでしょうね。
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イチオシ
ピンク色の装束二人の後には
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長持ちを担いだ従者。
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勅使が持ってきた捧げものだと思いますが、
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ちょっと重そう。
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大事に運ばれていきます。
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イチオシ
濃紺の装束は副使かな。
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その後は、
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神馬でしょうか。
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イチオシ
二頭続きます。
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いよいよ大集団。
弓矢を持った家人といったところ。 -
何人かが
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続いて
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重々しいですね。
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濃紺の副使が来て
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中央の黒装束が正使でしょう。
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イチオシ
今日の祭りの主役ですね。
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その後にはまた武人と
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従者。
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また、副使かな。
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従者が続いて
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これで終了。
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あっという間ですけど、これだけ間近で見れましたから、無事任務完了です。
メインの神事はあの鳥居の向こう。これから始まるんでしょうが、これ以上我々は見ることはできません。
なるほど、なるほど。これを見るためだけに奈良に来るというのはないですね。同じ勅祭でも葵祭とはえらい違いです。 -
まあ、それなりに予想していたので、全然がっかりではないですよ。ここからは改めて奈良市内の散策です。
春日東西塔跡は、奈良公園の一角。国立博物館から近い南側の場所。柵で囲った中に大きな礎石が見えていますが、何の説明もないので、これを見ただけでは何のことか分からないですね。
ちなみに、西塔は永久4年(1116年)に関白の藤原忠実によって、東塔は保延6年(1140年)に鳥羽上皇によって建立されたもの。神社である春日神社に塔があったというのは、ちょっと違和感もなくはないですけどね。 -
近鉄奈良駅まで戻ってきて。ここからは、ナコーレンタサイクルのレンタサイクル。ネットで予約をしておきましたからね。
初めて利用しましたが、スタッフが何人かいて、対応もとてもしっかりしています。電動自転車なら、もしかしたら西ノ京くらいまで行けるかも。それくらい行ける範囲が広いです。 -
まずは、久しぶりに元興寺へ。
本堂(極楽堂)は、入り口入ってすぐの正面に建つ国宝建築。正面、等間隔に並んだ7本の柱と内陣の間には意外に広い縁があって、大勢の人が利用する際とかには余裕があるように感じます。 -
イチオシ
ただ、それは少し斜めから見たり
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横から見た方が分かりやすいかもしれませんね。
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ただ、「智光法師の住坊と伝える東室南階大坊の一部を中心として、鎌倉時代の寛元2年(1244年)に奈良時代の僧坊から切り離されて単独の寄棟造の堂に改築されたもの」と説明がありまして、
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始めからのお堂ではありません。
それに、そもそも現在の元興寺は元興寺の一部だった極楽坊。前身が蘇我氏建立の飛鳥寺(法興寺)で東大寺や興福寺と並ぶほどだった大伽藍は火災や大風で失われてしまい、再建もされず。浄土信仰の高まりで、曼荼羅を奉安する極楽坊だけが生き延びたという流れです。ちなみに、南都七大寺でも大安寺、西大寺はもっと存在感が薄れているし、東大寺、興福寺、薬師寺、法隆寺と比べても仕方ないことだと思います。 -
本堂から、今度は二つ目の国宝、五重小塔を拝見します。
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五重小塔は、本堂横の法輪館という建物の中。これは光明皇后の発願により建立された元興寺西小塔堂に安置されていたといわれるもの。小さな塔ですが、奈良時代の五重塔としては唯一のものという貴重さ。当時の建築技術を伝えるということで、細かな説明がありましたが、部位の名前とそれを組み合わせる組み方の名前の両方があって、どれがどれだか分からないと理解が難しい。係りの人にいろいろ教えてもらいながら、そこの辺りのことがまず分かったのが収穫だったかなと思います。
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三つ目の国宝は元興寺禅室。本堂の裏手の長屋のような建物。切妻造、本瓦葺四間四面の大きな建物で、かつてここで僧侶が起居し、学修したという官大寺僧坊の遺構。空海が毎日ここにあった禅室の経蔵で勉強をしていたとも伝わります。なお、僧坊というのも同じ建物。禅室と言ったり、かつての僧坊と言ったりのようですね。
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特に説明板もないので、知っていないとちょっと得体のしれない建物かもしれません。
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法輪館と禅室の間にあるのは、浮図田(ふとでん)。墓所に関連して祀られた供養石造物を保存したもの。1500基もあるようです。
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本堂の北側には、蛙石供養の蛙石も。大阪城内にあった石のようですが、亡くなった淀君の遺骸をこの蛙石の下に埋めたという話もあって、その後も、大阪城のお堀で身を投げる人はこの石に関わることが続いたとか。今はここに置かれて、諸霊の供養等によって逆に縁起物の石になっているようです。
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では、元興寺から元興寺塔跡へ。元興寺の境内から飛び地になった場所ですが、かつての大伽藍はここも含んだ広さです。門前には、史跡 元興寺塔址の石柱が建っていまして、塔は江戸時代末期に焼失して、現在は基壇と礎石を残すのみのよう。しかし、礎石からは興福寺の五重塔をしのぐ高い塔だったとも。平時は門が締まっていて、中を覗くことはできません。
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では、昼飯は旬彩ひよりで。
大和野菜のランチメニュー”野菜ひより”をいただきました。 -
ショウガを効かせたレタススープから始まって、
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いろんな野菜を使った野菜のアラカルトが
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ミニコースのように出てきて、
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なかなか楽しめますね。
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イチオシ
予約をしていたお客さんがほとんど。
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店内はそれなりに広いのですが満席で、
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人気のほどがよく分かりました。
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ここから先は、自転車の利点を活かして遠くまで足を延ばします。
知足院で知られるのは、天然記念物のナラノヤエザクラ。 -
強風で倒壊し、枯れてしまったのですが、その後、同じ遺伝子を持つ苗木が山の上の方に植えられていました。下から見上げるように見る山の上。まだまだ小さい木ですが、どんどん成長してくれるといいなと思います。
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五劫院は、重源が開基の華厳宗の寺。重源が宋から持ち帰ったという木造五劫思惟阿弥陀如来坐像が本尊。長い時間を表す髪の毛が長く伸びた姿が珍しい。公開は8月頃。
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イチオシ
元和10年(1624年)に建てられた本堂も見どころ。寄棟造り本瓦葺の奈良らしい建物です。
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北山十八間戸は、鎌倉時代、僧忍性が不治患者の保護のために作った宿舎。けっこう大きな建物ですが、崖の上のような場所に建っていて、国の史跡。当初は般若寺の辺りに建てられたようですが焼失し、こちらに移転したようです。
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旧奈良監獄は、千葉監獄、金沢監獄、長崎監獄、鹿児島監獄と並ぶ明治の五大監獄の一つ。山下啓次郎設計による明治41年竣工の建築物が残っていて、特にロマネスク調様式の正門が見事です。その後、奈良少年刑務所となったようですが、周囲は高い塀が巡っていて、こんなところに入れられたら、更生よりもけっこうへこむのではないかと思いますけどね。
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少し行って、これは奈良豆比古神社。
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光仁天皇の父、春日宮天皇が病気療養のために隠居していた奈良山春日離宮の地に、宝亀2年(771年)、春日宮天皇を祀ったのが始まり。ちなみに、春日宮天皇は天智天皇の第7皇子。天皇ではなく、春日宮天皇は追尊。光仁天皇は天智系で本来は天皇にはなれなかったのですが、天武系に男子がおらず、聖武天皇の娘、井上内親王を妃にすることで天皇になったという経緯。さらに、井上内親王は光仁天皇を呪詛したとされ、皇太子であった井上内親王の産んだ他戸親王も廃太子。桓武天皇が皇太子となって、天智系の天皇が完全復活。平安時代へとつながるという流れです。
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けっこう古びていますが、青銅の灯籠がずらりと下がっていて、ちょっと壮観でした。
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元明天皇陵・元正天皇陵は、25歳の若さで崩御した文武天皇から、まだ7歳だった文武天皇の息子、聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に即いた母娘の女帝の陵墓。元明天皇は、天智天皇第四皇女子で、文武天皇の母。元正天皇は、元明天皇の娘で、文武天皇の姉。文武天皇は天武天皇の孫であり、祖母である持統天皇からの譲位を受けた天皇。ちょっときわどい承継です。
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狭岡神社は、こんもりとした小さな山に参道の石段が続いた先の方。
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古事記や日本書紀にある狭穂姫の伝承が残る神社。
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ちなみに、狭穂姫は第11代天皇、垂仁天皇の后。兄の狭穂毘古から天皇の殺害を命じられたが果たせず、兄の謀反が露見。
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最終的には天皇に討たれる兄に殉じて死ぬという悲劇の女性です。
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称徳天皇陵は、佐紀盾列古墳群の佐紀高塚古墳がそれと治定されているもの。拝所の位置が分かりにくかったのですが、車の道路の方からよく見える側でした。ちなみに、称徳天皇は、聖武天皇の娘。皇子のいない聖武天皇の元で、史上唯一の女性皇太子に。天武系の最後の天皇であり、後継者は先ほど奈良豆比古神社で触れた天智系の光仁天皇となりました。
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イチオシ
そして、奈良の街歩きの最後は国営平城京跡歴史公園。近鉄奈良線からもよく見える広大な公園です。
第一次大極殿から朱雀門という南北のラインが中心ですが、その東西には平城宮跡復原事業情報館、平城宮いざない館ほかいろんな角度から平城京を紹介する施設が複数あって、それらも回るとけっこうな時間がかかります。これまでも何度かは来ているのですが、今日は自転車。もう少しじっくりと回ろうと思います。 -
第一次大極殿の内部へ。
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あ~
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なんかこんな感じでしたよね。
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確かこれは天皇の即位の時に使ったものだったと思います。
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周囲の絵は干支かな。
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今度は第一次大極殿を南から。このアングルも美しいです。
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第一次大極殿の南西側にある平城宮跡復原事業情報館。
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平城宮最大の宮殿である第一次大極殿の復原は、恭仁宮の大極殿、法隆寺金堂、薬師寺東塔などを参考にして行われたようです。
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当時の建築技術である、大斗、肘木、方斗、巻斗を組み合わせた組木の説明など分かりやすい説明もありました。
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第一次大極殿院 南門もチェックして、
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イチオシ
線路を渡った南側のエリアに入ると朱雀門。平城宮の正門です。
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現在の朱雀門は平成10年に復原されたもの。間口25m、高さ20mの巨大な入母屋二重構造の建物です。朱雀門の左右には、高さ6mの築地塀。この塀が1km四方の平城宮を囲んでいました。
ちなみに、平城宮の入口の羅城門は朱雀門のさらに南。道幅約75mもの朱雀大路で結ばれていたということですが、そこまでの整備はできていないようです。 -
平城宮いざない館は、朱雀門の南東側。奈良時代の平城宮を体感しながら平城宮跡全体の歴史を知るというコンセプト。
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国営平城京跡歴史公園の中には平城京を紹介する施設がいくつかありますが、ここが一番充実していて分かりやすいと思います。
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広いスペースを
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十分に使った展示は平城宮の一日絵巻など。
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奈良時代の雅な文化や人々の暮らしが実感できて、けっこう楽しいですね。
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全体として、ちょっと脚色もあるのかもしれませんが、十分にリアルな展示だと思います。
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建築技術の
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精巧さは目を見張るものだし、
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官僚組織も中国に倣ったものでしょう。
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当寺の記録文書とかもかなり綿密。改ざんができないようにべたべたハンコが押してある書類も見たことがありますが、今の財務省にも見せたいものですね。
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都造りに関わった多くの職人や
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これは料理の役人ではないかと思います。
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復原遣唐使船は、朱雀門広場の南側。野外展示してあります。今は修復作業中で、細かいところは分かりにくいかもしれませんが、いずれにしても遣唐使船がこんなに大きかったことを知るだけでも意味はあるでしょう。船上の構造物もちょっと優雅な雰囲気です。
日が暮れてきて、今日はここまでですね。 -
自転車を返して、
晩飯は、近鉄奈良駅近くのグリル・チェンバーへ。こちらは、酒場詩人の吉田類がNHKの番組で訪れたというお店です。 -
カウンター席が中心で喫茶店のような雰囲気ですが、内容的には居酒屋かな。
チェンバーライスというのをいただきましたが、変わった香辛料の酒飲みが好きそうな感じの味。大将は気さくでしたが、料理の趣向は私にはあっていないかなと思いました。 -
明日からはいよいよ十津川村。それに備えて、大和八木駅近くの大和八木ゲストハウス 笑顔を宿にしました。
駅からは割と分かりやすいしさほど距離も感じませんでした。古民家を改造したゆったりした建物なので、シャワーしかないとかはありますが、ゲストハウスにあるキツキツのイメージはないですね。確かに名前のように笑顔のご主人がいて、ちょっと癒された感じもありました。朝飯はバナナをもらえたのもなんか暖かい感じですね。
宿泊客は私一人。ゆっくりできました。
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