2023/10/09 - 2023/10/24
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kawausoimokoさん
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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
-
2023年10月13日(金)(Day5-4)
今回は「北方絵画」で、ゲメルデギャラリーでは「Netherlandish painting」と表記されています。
ヤン・ファン・エイクの作品は展示されていなかったのでガッカリしましたが、他にもお気に入りの作品が多いエリアなので、気を取り直してまとめてみたいと思います。
ネーデルラントは「低地の国々」を意味し、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3か国(ベネルクス)にまたがる地域を指します。
この地域は、12世紀にフランドル伯国となり、13世紀にはブルッヘにハンザ同盟の在外商館が置かれて、金融・貿易の中心地として繁栄しました。
14世紀にはブルゴーニュ公国の支配下に入りました。
15世紀に入るとネーデルラント17州はハプスブルク家の支配下に入り、その後、ハプスブルク家がオーストリア系とスペイン系に分裂した際には、スペイン・ハプスブルク家の支配下に置かれました。
16世紀に宗教改革が起こり、この地域のプロテスタント勢力はカトリックであるスペイン・ハプスブルク家の支配に反発して八十年戦争が勃発し、1581年にはネーデルラントの北部7州が独立を宣言してネーデルラント連邦共和国となりました。一方、南のネーデルラント地域はカトリック勢力が強く、スペイン・ハプスブルク家の支配下にとどまりました。
ネーデルラント美術は、14世紀にフランスのヴァロワ家の初代ブルゴーニュ公フィリップ2世(通称フィリップ豪胆公)がディジョンに城を置いたことから始まり、華やかな国際ゴシック様式の宮廷文化が花開きました。
15世紀のフィリップ3世(通称フィリップ善良公)の時代になると、ブルゴーニュ公国の首都はブリュッセルに移され、毛織物と金融業で繁栄したフランドル地方の都市が美術の中心となりました。
その中で特筆すべきは、フランス王宮で伝統的に発展してきた聖書や祈祷書の装飾写本(ミニアチュール)です。
当初、装飾写本は貴族のために修道院で作られていましたが、一般市民が時祷書と呼ばれる個人用の祈祷書を購入するようになると、フランドル地方の装飾写本職人の工房で作られるようになりました。
装飾写本工房で修行した職人たちは、やがて新たに改良された油彩技法で板絵を描くようになり、ゴシック様式に写実性と遠近法を取り入れて、装飾写本で培った細部への徹底したこだわりが追及された作品が生まれました。 -
太った男性の肖像:フレマールの巨匠、もしくはロヒール・ファン・デル・ウェイデン、あるいは作者不詳 , 1430年-1440年頃
ゲメルデギャラリーでは、以前はこの作品の作者をロベルト・カンピンとしていましたが、現在では「フレマールの巨匠」、もしくはロヒール・ファン・デル・ウェイデン、あるいは作者不詳としています。
(この写真は、ゲメルデギャラリーのパブリックドメインからダウンロードしました。)
従来「フレマールの巨匠」と呼ばれるネーデルラント・ルネサンスの先駆者はロベルト・カンピンであるとされてきましたが、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンではないかという説もあり、未だに確定されていません。
そのため、最近ではネーデルラント・ルネサンスの先駆者は、「フレマールの巨匠」、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、そして、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンであると表現されるようになりました。 -
ミラフロレスの祭壇画:ロヒール・ファン・デル・ウェイデン,1442-1445年頃
ファン・デル・ウェイデンは1400年頃にブルゴーニュ公国のトゥルネーで生まれ、ロジェ・ド・ラ・パステュールと同一人物であるとみなされています。
ロジェは、トゥルネーでロベルト・カンピンの弟子となり、5年間修行しました。
1432年、ロジェはブルッヘに移り、ヤン・ファン・エイクの「ヘントの祭壇画」を始めとする作品を目にして多大な影響を受けたとされます。
1435年、ロジェはブルゴーニュ公国の中心地であるブリュッセルへ移り、フランス語の名前である「ロジェ・ド・ラ・パステュール」からオランダ語の「ロヒール・ファン・デル・ウェイデン」に改名し、1436年にはブリュッセル市の公式画家となりました。
この祭壇画は、カスティーリャ王フアン2世の依頼によってファン・デル・ウェイデンが制作し、完成後の1455年にフアン2世がミラフロレス修道院に寄進したものとされています。
フアン2世は、当初ヤン・ファン・エイクに制作を依頼をしようとしていましたが、ヤン・ファン・エイクが亡くなってしまったため、ファン・デル・ウェイデンに依頼しました。 -
ヨハネの祭壇:ロヒール・ファン・デル・ウェイデン,1455年頃
1450年、ファン・デル・ウェイデンはローマを訪れ、文化人やメディチ家などの貴族と交流し、イタリアでの評価が高まりました。
後に、ミケランジェロは「フランドルの祭壇画は、敬虔で善良な人々、特に女と修道士、そして、若干の貴族たちを喜ばせて涙を流させる。イタリアの絵画を見て涙を流すものはいない。しかし、フランドルの絵画は見たままを正確無比に描いているだけで、そこには理性も均整も芸術もない」と批判したと伝えられています。
イタリア・ルネサンス絵画が理想美を追求したのに対し、フランドル絵画がプリミティブに写実と色彩を追求したという、両者のスタイルの違いを象徴する言葉だと思います。 -
白い頭飾りをした若い女性の肖像:ロヒール・ファン・デル・ウェイデン,1445年
ファン・デル・ウェイデンの妻であるエリザベト・ホッファールを描いたものとされ、大きな青い目でこちらをじっと見ています。
「肖像画に描かれている人の視線が肖像画を見る人に向けられる」というモチーフは、ネーデルラントでは、ヤン・ファン・エイクとロヒール・ファン・デル・ウェイデンが最初に用いたとされています。 -
シャロレー伯としてのブルゴーニュ公シャルル:ロヒール・ファン・デル・ウェイデン,1461-1462年頃
シャルル突進公の若い頃に描かれたものです。
シャルル突進公は、フランスと戦ったブルゴーニュ戦争で1477年に戦死し、ブルゴーニュ公家の男系は断絶しました。
シャルル突進公の一人娘であるマリーはマクシミリアン1世と結婚しましたが、1482年にマリーは亡くなり、以降ネーデルラントはマクシミリアン1世が統治するハプスブルク家領となりました。 -
若い女の肖像 :ペトルス・クリストゥス , 1455年頃
この作品には一度見たら忘れられない不思議な魅力があります。
陶器のような青白い顔に黒い瞳と 細く華奢な体つき、気品を保ちながらも、この世のものではない儚さを感じます。
およそ50年後のルーカス・クラーナハに通じる、クールビューティでしょうか?
クリストゥスは1410年にバールレ=ヘルトフ(現在のベルギー)で生まれ、1441年にヤン・ファン・エイクの弟子となり、ヤン・ファン・エイクの死後、彼の工房を引き継ぎました。
ヤン・ファン・エイク兄弟が1410年頃に確立したとされる油彩技法が、イタリアへ導入された経緯については、諸説あります。
その一つが、ペトルス・クリストゥスからアントネロ・ダ・メッシーナが油彩技法を学んだというものでしたが、最近では、ジョヴァンニ・ベッリーニやアントニオ・ポッライオーロが最も早くイタリアで油彩画を導入したという説が有力となっているようです。 -
モンフォルテ祭壇画:フーゴ・ファン・デル・ゴス ,1470年頃
フーゴは1440年頃にヘント周辺で生まれ、後にブルゴーニュ シャルル突進公の宮廷画家になりました。
1474年頃にはヘントの画家組合長となり、祭壇画と肖像画で高い名声を得ていましたが、突然、助修士となって修道院に入り、最後には自殺しました。
フーゴは「ヘントの祭壇画」を見てヤン・ファン・エイクへの劣等感に苛まれ、それが原因で精神を病んだと伝えられています。 -
荒野の洗礼者ヨハネ:ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス , 1484年頃
シント・ヤンスは1465年頃にライデンで生まれ、聖ヨハネ騎士団のために聖書を題材とした作品を多く描きました。
この作品は聖ヨハネ騎士団の守護聖人である洗礼者聖ヨハネが描かれており、ハールレムに住んでいた騎士団所属の騎士が個人的に礼拝するために制作されました。
油絵具で幾層にも重ね塗りをするグレーズ技法で自然の風景がリアルに描かれており、ヨーロッパにおける風景画の最初期のものとされているそうです。 -
即位のマリア:ハンス・メムリンク , 1480-1490年
メムリンクは1430年頃にマインツ近郊で生まれ、ケルンで修行した後、1460年頃にロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房に入ったと考えられています。
柔和で色彩豊かなこの画風は、まさに、後にミケランジェロが言ったとされる「フランドルの祭壇画は、敬虔で善良な人々、特に女と修道士、そして、若干の貴族たちを喜ばせて涙を流させる。」ものだと感じます。 -
即位のマリア:ハンス・メムリンク , 1485年頃
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聖母マリアと幼子イエス:ハンス・メムリンク , 1487年
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ネプトゥヌスとアンフィトリテ:ヤン・ホッサールト,1516年
ヤン・ホッサールトは1478年頃にフランドルで生まれ、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンから多くの影響受けたとされ、建造物を背景とした宗教画を多く描いていました。
1508年にローマを旅してイタリア ルネサンス絵画の影響を受け、「神話や歴史的寓意を題材とした裸婦像」をフランドルで描いた最初の画家の一人と言われています。 -
人間の堕落(アダムとイブ):ヤン・ホッサールト,1520-1525年頃
ホッサールトの時代から、フランドルの画家たちはイタリアを訪れてルネサンス様式を取り入れるようになり、イタリア風の絵画を描く「ロマニスト」と呼ばれていました。
それにしても、楽園を追われたはずのお二人はルンルンですね。(*_*; -
即位した聖母子:クエンティン・マサイス , 1525年
クエンティン・マサイスは、1465年頃にネーデルランドのルーヴェンで生まれ、1491年にはアントウェルペンで工房を持ち、宗教画と風俗画で名声を確立しました。
マサイスは、レオナルド・ダ・ヴィンチと交流して互いの作品に影響を及ぼしあったとされ、マサイスの画風は次第にイタリア風とフランドル風を融合させたものになりました。
この作品は特にレオナルド・ダ・ヴィンチの影響が色濃いとされていますが、マリアと幼子イエスの表情がなんとも独特です。 -
悲しみのマグダラのマリア:クエンティン・マサイス , 1525年
オタワのカナダ国立美術館が所持する絵画の一部とされています。 -
題名不明:クエンティン・マサイスの追随者 ,作成年度不明
クエンティン・マサイスは、道徳的な教訓を描いた「寓意画」で人気を博し、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子であったフランチェスコ・メルツィを始め、多くの画家が模写しました。
この作品もそのような模写の一つですが、詳細は不明です。
16世紀に入ると、北部ネーデルランド地方では中産階級の経済的発展に伴い、市民生活を描いた風俗画の需要が高まりました。
マサイスは、ダ・ヴィンチやアルブレヒト・デューラー、ハンス・ホルベイン、エラスムスなどの当時の一流の画家や知識人と親交があり、彼らから多くのインスピレーションを受けて、寓意を込めた風俗画を描いたとされます。
私見ですが、マサイスのカリカチュア化された人物の表情は、「十字架を担うキリスト」を始めとするヒエロニムス・ボスの作品にも影響されているのではないかと思っています。 -
ネーデルランドの諺:ピーター・ブリューゲル(父),1559年
ピーター・ブリューゲル(父)(以下、ブリューゲル)は、1525年から1530年の間にブレダから遠くないブリューゲル村で生まれ、1551年にアントウェルペンで聖ルカ組合に画家として登録されました。
(彼の前半生については不明な点が多く、諸説あるようです。)
1552年から1554年にかけてイタリアを旅行し、スイスやイタリアの風景に感銘を受けて、多くの素描を描きました。
しかし、同時期のロマニストと呼ばれる画家たちとは異なり、イタリア風の絵画に関心を示すことはなかったようです。
ブリューゲルは1555年から数年間、アントウェルペンで最大規模の版画出版店であったヒエロニムス・コックの下で版画作家として働き、当時も人気が高かったヒエロニムス・ボスの複製版画や模倣版画を制作しました。
1556年には、コックの求めに応じてブリューゲルが下絵を描いた版画「大きな魚は小さな魚を食う」は、ボスの作品と偽って販売され、極めてボス風の「七つの大罪」も制作されました。
ブリューゲルがボス風の幻想版画を制作したのは、コックの下で働いていた1555年から数年間とみられ、後に描く油彩画でもボスの影響が色濃いとされています。
1557年前後から、ブリューゲルは友人ハンス・フランケルトと共に農村の祭りや婚礼をしばしば見物し、また、アントウェルペンやブリュッセルの貴族や知識人たちと交流しました。
16世紀のヨーロッパでは、「諺・格言」集や「寓意」を題材とした文学作品がラテン語を始め各国語で印刷されて販売され、貴族や知識人、教養がある裕福な市民達に人気がありました。
例えば、1500年に初版が発刊されたデジデリウス・エラスムスの「アダギア」では、初版で818の諺・格言が収録され、版を重ねた1536年版では4,251が収録されていました。
ネーデルラントにおいても、1550年にはアントウェルペンのシモン・アンドリースゾーンが300以上の諺を収録した「オランダ語の格言・諺」を発刊しました。
また、1494年にゼバスティアン・ブラントの「阿呆船」、1532-1552年にフランソワ・ラブレーの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」などの文学作品が出版され、これらにインスピレーションを得た版画や絵画が各国で盛んに制作されていました。
特に、エラスムスの「痴愚神礼讃」は、1511年に初版が出版されて以来、各国で翻訳されて数十万部が印刷され、海賊版が出回るほど当時としては破格のベストセラーとなっていました。
「痴愚神礼讃」は、痴愚の女神モリアーが、人間社会の愚行を聖書伝説や古典から多くを引用しながら饒舌に風刺し、「人間の営為の根底には痴愚の力が働いている」と軽妙洒脱な語り口で演説するもので、当時の王侯貴族や聖職者・学者らの権威者を徹底的に批判したものでした。
ブリューゲルも人文主義者で地理学者のアブラハム・オルテリウスから紹介されて、エラスムスを研究するカトリックサークルに入会しており、これらの書物や文学から影響を受けたものと想像できます。
このような状況下で、ブリューゲルは1558年に「12の諺」を制作し、1559年に初めて油彩画で、この「ネーデルランドの諺」を描きました。
当時のネーデルラントの教育水準と識字率はイタリアやフランスに比べて高く、この作品に描かれた118の諺や慣用表現が織りなす「逆さまの世界」の諧謔的な面白さは高く評価されました。
この作品の制作経緯や依頼主は不明ですが、17世紀にはピーター・パウル・ルーベンスの弟のフィリップス・ヴィレム・ルーベンスが所有していた事が判っています。 -
鎖につながれた二匹の猿:ピーター・ブリューゲル(父),1562年
アントウェルペンの港を背景にして、鎖につながれた2匹の猿とハシバミの実の殻が描かれています。
猿は「愚鈍、背徳、うぬぼれ、貪欲」を象徴し、ハシバミの殻は「ハシバミの実のために裁判にかけられる」という諺を暗示していると解釈されるのが一般的だそうです。
この2匹の猿は誰を暗示しているのでしょうか?
当時のアントウェルペンは金融・貿易で大繁栄しており、印刷業もネーデルラントで出版される書物の半数以上がアントウェルペンで行われていた程、繁栄していました。
1560年には、アントウェルペンの人口約9万人に対して画家が360人以上いたとされ、版画・絵画に携わる人々の数は多く、画家達の間での競争も熾烈でした。
ブリューゲルはこの作品を描いた翌年の1563年に、画家ピーテル・コッケ・ファン・アールストと同じく画家のマエケン・ヴェルフルストの娘と結婚し、ブリュッセルへ移りました。 -
十字架を担うキリスト:ピーター・ブリューゲル(子),1606年
ブリューゲルの長男であるピーター・ブリューゲル(子)(以下、ピーター)は1564年に生まれ、5歳の時に父ブリューゲルを亡くし、その9年後には母親を亡くしました。
父ブリューゲルの3人の子供たち、ピーターとヤン、そしてマリーは、母方の祖母で画家であったマエケン・ヴェルフルストに引き取られ、おそらく二人の兄弟はマエケンから絵の手ほどきを受けました。
ピーターは1580年頃、風景画家のギリス・ファン・コニンクスルーの徒弟となって修行した後、1584年頃アントウェルペンの聖ルカ組合に親方として登録されました。
工房を開いたピーターは、父ブリューゲルの作品のコピーを大量(約700点前後)に制作して安価で販売し、人気が高かった「鳥罠のある風景」は、100点以上もコピーを制作しました。
父ブリューゲルのコピー作品の需要は高く、ピーターがフランドルだけでなく各国へ販売したおかげで、父ブリューゲルの作品は国際的にも有名になったとされます。
ピーターは一時期「地獄のブリューゲル(Höllen Bruegel)」と呼ばれましたが、現在では「田園のブリューゲル(Bauer Bruegel)と呼ばれています。 -
花束:ヤン・ブリューゲル,1625年
ブリューゲルの次男であるヤン・ブリューゲル(以下、ヤン)は1568年に生まれ、1歳の時に父ブリューゲルを亡くし、その9年後には母親を亡くしました。
兄のピーテルと姉妹のマリアと共に母方の祖母で画家であったマエケン・ヴェルフルストに引き取られ、おそらく二人の兄弟はマエケンから絵の手ほどきを受けました。
1580年代にヤンは兄ピーターと同じく、風景画家のギリス・ファン・コニンクスルーの徒弟となって修行した後、1589年から7年間イタリアに滞在し、ミラノでは後に彼のパトロンとなるミラノ大司教フェデリコ・ポロメオのために働きました。
1601年に兄ピーターと同じくアントウェルペンの聖ルカ組合に登録され、1610年には南部ネーデルラント総督であったアルブレヒト・フォン・エスターライヒとイサベル・クララ・エウヘニアの宮廷画家になりました。
ヤンは、父ブリューゲルの模倣だけでなく、花や果物、風景画で独自のスタイルを築き、後に「花のブリューゲル、または、ビロードのブリューゲル」と呼ばれるようになりました。
ヤンは他の画家との共同制作も行い、特に友人でもあったピーテル・パウル・ルーベンスとの共同作品が知られています。 -
楽園のアダムとイブ : ヤン・ブリューゲル&ペーテル・パウル・ルーベンス, 1615年
(2022年11月にマウリッツハイス美術館で撮影)
こちらはヤンとピーテル・パウル・ルーベンスが共同制作した作品です。
全体構図はヤンが担当し、ルーベンスがアダムとイブ、木、馬、蛇、そして、ヤンが残りの動植物を描いたとされています。
17世紀前半になるとネーデルラントでは絵画市場が空前のブームとなり、画題の細分化、専門化が進み、画家はそれぞれ得意分野を持つようになりました。
需要に合わせて1枚の作品を複数の画家が得意分野で共作することは珍しいことではなく、「最高のものを組み合わせた作品」とされて高値が付いたそうです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pippo77さん 2024/04/12 08:32:25
- 勉強になりました
- 絵の解説、大変勉強になりました。
今回様々な美術館を巡ったのですが、ブリューゲルはパッと見てすぐ分かるので、「あっブリューゲルだ!」と思ったら違っていた・・・といった作品が幾つかありました。
あの広い画角に沢山の人たちがいる感じは、ブリューゲルが元祖なのか、ブリューゲルも当時の流行にのったのか、どちらなのでしょうね。
- kawausoimokoさん からの返信 2024/04/12 16:00:57
- RE: 勉強になりました
- pippo77 様
旅行記をお読みいただき、ありがとうございます。
ボケ防止(いや既にボケを感じておりますので進行抑止)のために、現役時代に各地で買い求めた積読本を読みながら楽しんで書いておりますので、もし勘違いや誤りがございましたらご容赦ください。
記載した内容の出典元を文末に記すことも考えましたが、これ以上冗長にするのも如何なものかと思い、控えております。
> あの広い画角に沢山の人たちがいる感じは、ブリューゲルが元祖なのか、ブリューゲルも当時の流行にのったのか、どちらなのでしょうね。
↓
画面内に様々な人々の様子を描き込んだ群衆構図は、イタリア・ルネサンスではフランチェスコ・デル・コッサやピエロ・ディ・コジモなどが思い浮かびますが、やはり北方絵画で一番近いのは、ヒエロニムス・ボスの三連祭壇画「『快楽の園」ではないでしょうか。
ピーター・ブリューゲルがヒエロニムス・ボスから受けたとみられる影響については様々な解説情報がありますが、その中から「群衆構図」を題材にして勉強してみるのも面白そうですね。
ボスとブリューゲルは謎の多い画家なので、一度沼にハマると中々這い上がれなくなります。
何かお判りになりましたら、是非教えてください。よろしくお願いします。
kawausoimoko 拝
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