2023/10/09 - 2023/10/24
151位(同エリア2403件中)
kawausoimokoさん
- kawausoimokoさんTOP
- 旅行記50冊
- クチコミ5件
- Q&A回答2件
- 28,640アクセス
- フォロワー52人
ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に、滑り込みで見に行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
その代わりに予期せぬ企画展に出くわし、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりして、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2023年10月13日(金)(Day5-1)
ゲメルデガレリーの開館前にカイザー・ヴィルヘルム記念教会へやって来ました。
大戦中のベルリン爆撃で崩壊した旧教会堂は、平和を祈るモニュメントとして当時のまま残されたそうです。 -
カイザー・ヴィルヘルム記念教会 新教会堂
残念ながら開館前で、入場できませんでした。 -
ゲメルデギャラリーを今日はじっくり見学したいと思います。
先ずは、延長開催されているアルブレヒト・デューラーの企画展から。
アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)は1471年にドイツ南部の都市ニュルンベルグに金細工師の息子として生まれ、イタリア ルネサンス盛期のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)、ミケランジェロ(1475‐1564)、ラファエロ(1483-1520)とほぼ同時代人でした。
デューラーは先ず版画作家として有名になり、約350点の木版画、約100点の銅版画のほか、1200枚以上の素描が残っているそうです。 -
「マリアの生涯」タイトルページ 三日月のマリア:アルブレヒト・デューラー , 1498年
この作品は、マリアの生涯を描いた17枚のセット集のタイトルページだそうです。 -
(左)マリアの生涯:アルブレヒト・デューラー ,1503-1504年
(右)マリアの生涯:マルカントニオ・ライモンディ,1506-1508年
デューラーの版画作品はドイツのみならずイタリアでも人気があったので、模倣版画が広く流通していました。
当時は著作権という概念は存在しておらず、デューラー自身も1490年頃に制作されたマンテーニャの銅版画「シレノスのいるバッカス祭り」の模倣版画を1494年に制作しています。
そんなデューラーが、1506年にヴェネツィアでイタリア人の版画家ライモンディを裁判所に訴え、史上初と言われる著作権侵害裁判が行われました。
ライモンディだけでなく、他にもデューラーの版画を模倣したイタリア人版画家は複数いましたが、ライモンディは、Albrecht DürerのAとDを組み合わせたサイン(モノグラム)まで模倣していたので、デューラーは我慢ならなかったようです。
裁判の結果、作品自体の模倣は問題無しとされてしまいましたが、サイン(モノグラム)の模倣は違法とされました。
その後もライモンディは、デューラーのサイン(モノグラム)の代わりに何も描かれていない白い板を描いた模倣版画を制作し続けました。
裁判後、ライモンディの模倣品はデューラーに訴えられるほど高品質であると評判になり、全部で80点制作された模倣版画は売れ続けたそうです。
ライモンディは1510年からローマで活動し、ラファエロが描いた絵画作品を複製版画にする仕事を請け負っています。 -
デューラー自身が考案した、Albrecht DürerのAとDを組み合わせたサイン(モノグラム)
今風に「インフルエンサー アルブレヒト・デューラー 、イタリア のフォロワーとリーチ」と紹介されています。 -
マドンナとベルベットモンキー:アルブレヒト・デューラー , 1511年
-
聖三位一体(慈悲の座):アルブレヒト・デューラー ,1511年
-
犀:アルブレヒト・デューラー ,1515年
デューラーがリスボン港でサイを見た友人から聞いた話を元に想像で描いたもので、デューラー自身は実際にはサイを目にしていないので、背中に本来存在しない2本目の角があるなどの間違いがあるそうです。
デューラーの想像によって描かれたこの「犀」は、1660年に発刊されたオランダの「動物図鑑」に登場して以来有名になり、1741年にオランダ人がインドサイを見世物にしてヨーロッパ各地を巡業し、実際のサイの姿が広く一般に知られるまでの間、様々な媒体に実際のサイの姿として繰り返し登場したそうです。 -
三つ編みの髪を持つ女性フェルレガーの肖像:アルブレヒト・デューラー , 1497年
当時のドイツでは、版画は実用品であり、デューラーは版画職人として扱われていたのに対して、デューラーを偉大な芸術家として最初に認めたのはイタリア人でした。
デューラーは1494年から二度にわたってヴェネツィアを訪れ、これを契機にしてイタリアで板絵作家とてしの名声を獲得しました。
その名声は遅れてドイツ国内にも広がってゆき、やがて神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世やゲーテ、エラスムスからも賞賛されるようになりました。
デューラーの絵画は約110点が残っているそうですが、絵画は版画に比べて労力を要する割には収入が多くないと言って、晩年にはあまり制作しなかったそうです。 -
ザクセン選帝侯:アルブレヒト・デューラー , 1500年頃
-
ベネチアの若い女性の肖像:アルブレヒト・デューラー , 1506年
-
シスキン(ヒワ)の聖母:アルブレヒト・デューラー , 1506年
1506年にデューラーが二度目のヴェネチア訪問中にイタリア人からの依頼で描いたもので、幼子イエスが右手にケシの実が入ったおしゃぶりを持ち、左腕に「イエスの磔刑」を暗示するヒワが留まっています。
テーブルの上に置かれた紙には、ラテン語で「1506年にイタリアで絵画を見たアルブレヒト・デューラーは、ドイツ人であることを誇りに思っている」と書かれているそうです。
果たして、その意味は・・・? -
ヒワの聖母:ラファエロ・サンティ , 1505年-1506年頃
(2018年にウフィツィ美術館で撮影)
同時代人であったデューラーとラファエロは実際に親交があったそうで、ラファエロの「ヒワの聖母」が同じく1506年頃にフィレンツェで描かれているのは、偶然にしても大変興味深いです。 -
赤いベレー帽をかぶった女の子肖像:アルブレヒト・デューラー , 1507年
-
祈るマリア:アルブレヒト・デューラー , 1518年
-
ヒエロニムス・ホルツシューアーの肖像:アルブレヒト・デューラー , 1526年
ヒエロニムス・ホルツシューアー (1469-1529年) はデューラーの地元ニュルンベルクの貴族で、市長を務めたこともある有力者でした。 -
ヒエロニムス・ホルツシューアーの肖像画用のスライド式の蓋:アルブレヒト・デューラー , 1526年
ホルツシューアー家とミュンツァー家の紋章、そして、年号MDXXvI(1526年)が刻まれており、ヒエロニムスはミュンツァー家のドロテアと結婚していました。 -
ジェイコブ・ムッフェルの肖像:アルブレヒト・デューラー , 1526年
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
kawausoimokoさんの関連旅行記
ベルリン(ドイツ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
19