2023/10/02 - 2023/12/12
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今回は想像以上の速さで復元が進む、首里城の『今』を紹介します。
沖縄ひとり旅の時は良く首里城に足を運んでいた私ですので、「来年は年間パスポートを買おう!」と考えていたのが2019年。
更にその年は全エリアがOPENしたという事もあり、ワクワクしながら有料エリアを歩いていたのを思い出します。
ところが、その年の10月に火災発生。
ニュースを見ながら大泣き、そして年末の焼け跡を見て再び大泣きした私でした。
あれから4年。
急ピッチで復元が進む首里城の様子と、今回はその地下に拡がる沖縄戦の跡も見に行ってきましたので、良かったらご覧ください。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- レンタカー
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はいたい!
この旅行記は復元が進む首里城の今と、その地下に眠るもう一つの首里城を紹介しようと思います。 -
県営首里城公園駐車場(P1)からそのまま首里杜館に入り、いよいよ首里城公園の散策開始。
首里城 名所・史跡
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首里杜館を出ればすぐ守礼門ですが、門の説明は以前にも紹介していますので、詳細は過去の旅行記をご覧ください。
また読者の皆さんには以前の首里城と現在の首里城を比較してもらうために、過去の画像(※付き)も交えながら紹介していきます。
長い旅行記になりますが、お付き合いいただければ幸いです。
まずは首里城の顔とも言える、鮮やかな門からスタートしましょう。
守礼門※守礼の門 名所・史跡
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守礼門を潜るとすぐ左手に見えてくるのが園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。
あまりにも対照的な2つの門ですが、こちらは世界文化遺産に登録された『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の構成資産のひとつです。
国王が場外へ出掛ける際に祈願した場所(御嶽/うたき)で、神さまのために設けられた門。
後方の森も含めて神聖な場所です。園比屋武御嶽石門 名所・史跡
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正門にあたる歓会門(かんかいもん)※。
ここから階段を上り、瑞泉門(ずいせんもん)、漏刻門(ろうこくもん)、広福門(こうふくもn)、そして下之御庭(しちゃぬうなー)を目指しましょう。 -
もしベビーカーや車椅子を利用されるのであれば、歓会門ではなく木曳門(こびきもん)方面に進んでください。
守礼門を潜るとすぐ右手に、このスロープが見えてきます※。 -
歓会門と瑞泉門の間にあるのが冊封七碑と龍碑。
画像は冊封七碑※。 -
そして龍樋※。
首里城の飲料水に利用された沸水ですが、歓会門を過ぎ冊封七碑を見ながら歩いていくと右側にありますので、そこにある階段を下りて龍樋を見に行ってみましょう。
実はこの彫刻は当時のまま!
沖縄戦で一部破壊されましたが、修復され元の場所に戻されました。
泡盛酒造の名前でもお馴染みの『瑞泉』。
冊封使来琉の際は、毎日この湧き水を汲んでもてなしていたようです。
ここにある碑は、冊封使たちがこの素晴らしい泉を称えて詠んだもの(または題字)。
来場者が少ない早朝や夕方は、水が湧き出す音がとても心地良く響き渡っています。 -
更に上ると瑞泉門※。
今も清らかな水が湧き出している龍樋に因んで、その名が付けられています。
先程紹介した歓会門と比べると門の色や形状が異なりますので、その辺りも良かったらご覧になってください。 -
瑞泉門と非常に良く似ている漏刻門※。
間違い探しをするように見比べると、扁額が縦と横。
また石壁の造りも違うことに気付くでしょう。
この櫓の中に水時計があった事から漏刻門という名前が付いていますが、またの名はかご居せ御門(かごよせうじょう)。
国王に敬意を表し、高官でも駕籠や馬で上れるのは此処までとなっていました。
漏刻門から先は、歩いて登城。 -
漏刻門と広福門の間にある日影台(日時計)※。
琉球王朝に使えた役人 蔡温(さいおん)によって設置されたものですが、こちらは水時計の補助的なものとして使われていたようです。 -
更に真っすぐ進むと、供屋※。
此処には国指定の文化財『万国津梁の鐘/ばんこくしんりょうのかね』がありますよ。 -
そして供屋の奥にある大きな建物が、復元作業が行われている場所。
作業場というよりも、完全に工場です。
こちらを見学するには有料エリアに入らないと行けませんが、今しか見られないものが色々ありますので是非見ておきましょう。 -
供屋があるエリアから広福門※を抜けると、下之御庭(しちゃぬうなー)。
奉神門からは有料エリアになりますので、その前にこちらの広福門でチケットを購入。
これは火災前も同じでした。 -
有料エリアから見た広福門
(手前は奉神門) -
現在広福門では塗り直し作業が行われているため、建物がネットで覆われています。
次の奉神門に進む前に、下之御庭(しちゃぬうなー)の見どころを紹介しましょう。
参考までに、焼失した正殿の奥側にあるのは後之御庭(くしぬうなー)と言いますよ。 -
首里森御嶽(すいむいうたき)は、首里城の中でも最も格式の高い御嶽。
首里城はここを中心に建てられたと言われています。 -
首里城茶屋になっている、系図座・用物座※。
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そして奉神門※。
これは火災発生から1ケ月後くらいに撮影したものですが、燃えた屋根は湾曲し、階段や手摺りの下も煤で(?!)かなり黒くなっていました。 -
現在の奉神門。
手前にあるのは首里森御嶽。
屋根は映っていませんが、奉神門の見た目は火災前と変わりません。 -
下之御庭のもう一つの見どころを紹介する前に、まずはこちらの画像をご覧ください。
南殿と正殿の間から見た龍柱※。 -
火災1ヶ月後※。
人工物と分かっていても、ポツンと残されたこの姿に涙が止まりませんでした。 -
龍柱の復元作業場になっているのが、下之御庭にあるこちらの仮設。
真っ黒焦げになっていた龍柱でしたが、もうここまで蘇っていましたよ。 -
下之御庭を見学した後は、いよいよ有料エリア。
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奉神門を抜けると、正面に現れるのがこちらの絵。
もう完成したのかという驚きの「え?!」と、まさかの「絵!」が混ざり合いました。
作業場(工場)の窓枠を見てこれが絵である事に気付きましたが、実際の絵は画像以上にインパクトがあります。 -
少し角度は違いますが、これが焼失前の正殿※。
本当にソックリ。 -
工事フェンスに描かれている絵。
首里城復元に携わる人たちの様子を描いたものですが、モノトーンと赤の使い方が、とてもクールです。
これも今しか見られないものですよ。 -
下之御庭側から見る奉神門は火災前と変わらないのですが、反対側に周るとここが巨大な空調機械室に変わったことに気付きます。
復元作業が行われている建物を冷やしたり温めたりしているのが、今の奉神門。 -
室外機も巨大。
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正殿復元工事スケジュールはこちらで確認出来ますが、想像以上のスピードで復元作業が進んでいるようですので、もしかしたら完成が早まるかも…と期待したくなりますね。
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原寸場。
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先程は首里城完成までのスケジュールを紹介しましたが、こちらのボードに書かれているのはその日の作業。
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規矩術の勉強会。
建築ド素人の私は初めて聞く言葉でしたが、私と同じような来場者に配慮してかこの様に言葉の意味や図面を用いた解説もあります。
なるほど! -
建物はガラス張り。
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原寸場では縮尺された図面を実際の寸法(原寸)で床に描き、木造りを行っているようです。
床に敷かれたボードには色々な線が書き込んでありましたが、『二次元のものを三次元にするのが原寸場』いう理解で合っているかしら…。 -
今度は、復元の現場を見てみましょう。
「え!」と「絵!」の次は、まさかの「はっ?」
防火対策のため鉄骨などを入れるのかと思いきや、『オール木』。
進行の速さにも驚きましたが、それ以上に驚いたのが全てを木で復元する事に対してでした。
勿論防火対策は最優先事項だと思いますが、以前の建物を★忠実に★再現する所に拘りを感じます。
しかし『木』=『火が使えない』という事ですから、解体作業も大変そうですよ。 -
最上階。
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クレーンは比較的小さめ。
重い鉄骨などは使わないので、この大きさで十分なのでしょう。 -
今度は屋外の見学。
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龍頭棟飾(りゅうとうむなかざり)と赤瓦。
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パネル真ん中の写真が、こちらの龍頭棟飾※。
(焼失前) -
屋根の左右にあった龍頭棟飾※。
(こちらも焼失前の画像) -
そして火災後…(溜息)。
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焼け跡から集められた赤瓦などは、トレイで陳列。
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ふと下を見ると、ケーブルがそのままの状態で置かれていました。
復元が終わったら素早く撤去できるように、地中に埋めることはしなかったようです。 -
今もまだ焼けて変色した遺構部分が見られるのかと思ったら、「とんでもハップン歩いて10分」。
(あっ、年齢がバレそう!) -
おじさん&おばさんギャクになってしまいましたが、首里城の世界遺産は既にこの中にありますので、パネルでの紹介でした。
左が火災前の遺構部分。
右は火災後の様子。 -
焼失前は、強化ガラス越しに見ていた遺構部分(正殿)※
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拡大したもの※
綺麗だったベージュ(!?)クリーム(!?)色が、熱を浴びて赤く変色しています。 -
正殿が有った時は、御庭(うなー)側から見えなかった後之御庭(くしぬうなー)。
そこにあるのが女官居室(火災前)※
こちらの建物は正殿に隣接していなかったため、類焼を免れました。 -
現在はミュージアムショップ。
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世誇殿(よほこりでん)※。
こちらも後之御庭にある建物で、焼失を免れたもの。 -
以前は世誇殿で琉球舞踊が披露されていましたが、私たちが訪れたこの時は首里城完成までのイメージがスクリーンに映し出されていました。
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寄満(ゆいんち)。
正殿と繋がっていたため、この建物は焼失。 -
現在は、首里城復興展示室が置かれています。
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焼け跡から拾い集めた獅子瓦。
元は何処にあったのかが分かるようになっていますので、昔の写真と照らし合わせながら見学していました。 -
東のアザナ方面から見た後之御庭※。
今はこの中心部分(正殿の所)に工場のような建物が建っていますが、2026年には再び華やかな世界(正殿)が戻ってきますよ。 -
首里城復元の様子を見学したら、今度はもう一つの首里城を見に行ってみましょう。
下りながら首里城散策。
淑順門(しゅくじゅんもん)※。
国王の家族や女官たちの生活の場だった御内原(おうちばら)に行く際の正門として使われていた門。 -
右掖門(うえきもん)は、左掖門(さえきもん/黄金御殿の一階にあった)と対に置かれていた門。
歓会門や久慶門(きゅうけいもん)からこの右掖門を通ると、そのまま御内原(おうちばら)に行くことが出来ます。
現在は、有料エリアからの帰りのルート。 -
右掖門を出た所にある石垣。
石の形状が明らかに違うというのが分かると思いますが、プレートを良く見ると復元石積/遺構石積と書いてあります。
首里城にも石垣にも刻印が残っているようですから、時間があれば探してみましょう。 -
右掖門から更に進むと、行きに通った瑞泉門が見えてきます。
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そして正面にあるのが歓会門。
しかし久慶門の所にフェンスが置いてあり真っ直ぐは進めないので、帰りは久慶門から外に出ます。 -
かつては通用口として使われていた久慶門。
御内原に近いということもあり、主に女性達が利用していたようです。
帰りはこの門から歓会門・園比屋武御嶽石門方面に歩き、沖縄戦の歴史に触れられる場所を見に行きましょう。 -
地上は華やかな世界でも、地下に眠るのは負の遺産。
広島や長崎は世界各国から注目を浴びていますが、実はこの首里城にも戦争の歴史が残っているのです。 -
旧日本陸軍第32軍司令部壕。
以前沖縄の某新聞社が壕の様子を映像にしていましたが、本当に同じ首里城なのかと疑ってしまうくらい地上と地下では全く違う世界が広がっています。 -
奥から守礼門、歓会門、そして画像右下にあるのが久慶門※。
地上からでは地下の様子は全く分かりませんが、パンフレットには「守礼門地下には牛島司令官や長勇参謀長がいた司令官諸室、木曳門地下には司令中枢部の各室、その他の坑道には役1000人の兵隊がいた」(★)と書かれていました。
★2023.06 第32軍司令部壕の保存・公開を求める会のパンフレット
「首里城地下 第32軍司令部壕 保存・公開を求める」より引用 -
こちらが、そのパンフレット。
地図と先程の画像を見比べながら司令部壕をイメージしましたが、フォントのせいかそれとも私の視力の問題か、文字が読み辛くて目をパチクリさせていました。
取り敢えず頑張って隅から隅まで目を通しましたが、書かれている文章は「です・ます調」(敬体)ではなく「である調」(常体)。
訴えかけるために敢えて常体にしたのかもしれませんが、観光スポットで入手するパンフレットとしてはかなり威圧感があります。
(レポート的とも言えますが…。)
またこの地図には星型の吹き出しマークが描かれているのですが、何も注釈がないので「沖縄戦って何?」というレベルの人にも分かるように、復元作業現場で見たような配慮(優しい解説)があると良いかもしれませんね。 -
それにしても那覇は10.10大空襲(じゅうじゅうだいくうしゅう)で建物など9割近くを失っていますから、このようなものが残っていること自体が奇跡と言っても過言ではないでしょう。
「何故この首里城に司令部壕を築いたのか?」
「人々はどのような状況下で耐えていたのか?」
先程少し触れた新聞社の映像でもこの辺りを解説していますが、首里城の華やかな世界の下に眠る負の遺産も含めて私は首里城の歴史ではないかと考えます。 -
こちらは沖縄県立芸術大学の敷地の一角に置かれている碑。
沖縄県師範学校の生徒の多くが戦争に動員され、若い命が奪われました。
この門柱には弾痕も残っていますので、龍潭池周辺を歩きながら見に行ってみませんか?沖縄県立芸術大学 名所・史跡
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こちらも芸大の敷地内にあった、沖縄県師範学校附属小学校跡の碑。
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今度は金城町石畳道入口近くにある戦争跡を紹介します。
赤い印は、私たちが利用した県営首里城公園駐車場P1のすぐ傍に残っているトーチカ跡。
もっと近くで撮影した写真を以前旅行記でアップしたはずですが、スマホ不調で画像が残っていませんでした。
こちらは見つかり次第更新します。
先程も記載した通り、横断歩道を渡れば金城町石畳道に続く入口。
そのような場所にトーチカ跡があります。
コンクリートのベンチにしては不格好というような高さのものですが、パンフレットの地図と照らし合わせてみると恐らくこのトーチカ跡も第1坑道に繋がっていたのではないかと思います。
こちらにも弾痕のようなものが残っていますので、良かったら探してみてください。 -
地上の世界も、地下の世界も甦って欲しい首里城。
私も戦争を知らない世代ではありますが、日本の歴史の一部として是非残して欲しいと願っています。 -
首里城前交差点から歩いて2~3分の所にある玉陵(たまうどぅん)※。
歴代国王を祀る墓で、世界遺産にも登録されていますよ。
こちらは過去の旅行記で紹介していますので、説明はそちらを確認ください。 -
玉陵から更に進むとこのような案内の碑が目に入りますが、『一中健児之塔』は鉄血勤皇隊に動員された沖縄県立第一中学の教員と生徒を祀る塔のこと。
第一中学校の通称は一中。
そのため、一中健児という名前が付いています。
磨文仁の丘には沖縄師範健児之塔があり、そちらには沖縄師範学校の生徒たちが祀られていますよ。 -
更に安国寺・観音堂方面に進むと右手に紅型の店が見えてきますが、当時此処には下の綾門(しむぬあいじょー)と呼ばれた中山門(ちゅうざんもん)がありました※。
この門から首里城に続く大通りのことを綾門大道(あいじょううふみち)と言いますが、綾門大道の西端が中山門なら東端に置かれた上の綾門(うぃーぬあいじょー)は守礼門。
中山門の造りや大きさは、守礼門と同じだったと言われています。
そう聞くと此処に門があったら良いのにと期待したくなりますよね。
城下町は活気がなくっちゃ!
いつの日かこの中山門も復元して欲しいなー。
首里の今後の発展に期待しましょう。
さて今回は華やかな世界の首里城復元と負の遺産としての別の顔を紹介しましたが、どちらも首里城の歴史ですから、地上も地下も同時に見られる日が来ることを願っています。
では皆さま、良い旅を…。
またやーたい!中山門跡 名所・史跡
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この旅行記へのコメント (2)
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- マプトさん 2024/01/01 11:35:57
- 首里城
- 新年、おめでとうございます。そしてはじめまして。
首里城、読みました。復元されて間もない時、首里城に行っただけに、焼けたって話はショックでした。今、復元に向かっているんですね。
沖縄は遠すぎてなかなか行けませんが、好きで、今まで4回行きました。一時期、沖縄で社会人になることも考えたくらいです。今後とも、よろしくお願いします。
- ST&G-旅に恋するウミガメさん からの返信 2024/01/01 13:05:52
- 初めまして…そして宜しくお願いします
- 明けましておめでとうございます
マプトさんにとって今年も旅行が楽しめる年になると良いですね
それにしてもマプトさんの63ヶ国訪問というのは驚きました。
今年はどちらへ行かれるのか、また旅行記を楽しみにしています。
私もそろそろ札幌の友人に会いに行こうかなー。
フォローしていただき有難うございました。
今後とも宜しくお願い致します。
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