2023/12/11 - 2023/12/11
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hijunoさん
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和田岬は神戸市兵庫区にある岬です。このあたりは古くから平清盛時代の
大輪田の泊、その後の兵庫湊、さらにその後の神戸港へと発展していきます。
その和田岬には幕末、勝海舟の設計で砲台が建設されました。
現在は三菱重工の敷地内にあり、見学には予約が必要でした。
そして、軍備品などの製造もあるために、砲台は中のみが撮影可能、外側もほかの建物が映り入ってしまうために禁止という厳しさです。
その砲台は完成後、使用されることなく、そのまま残っており、その後修理を経て現在もその姿を残しています。
兵庫県には西宮にも砲台がありますが、そちらの建物は見学ができません。
中が焼失し、外側の石槨のみが残っています。そのほか、港川や今津の砲台は取り壊され、ありませんので、こちらは大変貴重な砲台です。
工事期間中には江戸幕府14代将軍徳川家茂や一橋慶喜も見学に訪れています。
この和田岬付近には多くの神社もあり、古代から、また幕末には西郷隆盛やアーネストサトウといった人物も立ち寄り、話し合いも行われた場所でもあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 自家用車 徒歩
-
和田砲台の見学には予約が必要でした。
毎月一回、第二木曜日のみで、時間は午前中に二回実施されています。 -
三菱重工神戸造船所内です。
時間がきましたら、案内をしてくれる女性が二人、バスにて砲台に向かいます。見学者は10人くらいでした。
バスの移動中も、造船所内は撮影が厳禁です。
潜水艦などの軍関係のものの製造があるため、、、とか。
砲台も外側の撮影はできません。
他の建物が映りこんでしまうため、、、とか。
なんだか厳しいです。 -
こちらはパンフレットにあった写真です。
海の防備のために、幕末1863年に勝海舟の設計で着工、翌年に完成しています。この当時、徳川幕府は数カ所に砲台を建設しましたが、現存しているのはこの和田岬砲台と西宮砲台の二つですが、西宮砲台は内部が焼失しており、外側の石槨が残るのみで、見学はできません。
こちらの砲台は完成後は使用されることなく残されました。
使用された石材は3000トンの花崗岩で、木造の二階建て。1階には土間と火薬室があり、木で床が造られています。二階も床は木造、周囲の石造部分には窓1か所と大砲を打つための穴 包眼が11か所あります。
外側も築造時は厚さ9センチの西洋式漆喰でできたようで、目立たないように
すすなども混ぜたようです。
もともと砲台は中央の円形石堡塔と周りにはそれを囲む星形の土塁がありましたが、東西60m、南北70mの土塁葉失われています。
写真にあるのは石堡塔のみ。
直径は12.12m、高さ10.6mの大きさです。
大正時代にも、また平成になっても大がかりな修復の工事が複数回行われています。 -
中に入ります。
古い木材と新しい木材が見えます。
入ってすぐに目に入るのは井戸です。 -
砲身冷却用の井戸です。
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井戸の上には内務省と書かれた、注意書きがあります。
字が薄れて良く読めません。 -
頑丈な造り。
修理でさらに堅固に造られています。
二階の床は大砲を支えるために、1階にはおよそ48㎝の大きなけやきの柱とおよそ55㎝の梁や大小さまざまな梁でめぐらされ、とても頑丈な造りです。 -
二階の重さを支えるためにも、こんな大きな柱があります。
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固定した金具も大きく立派です。
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奥には火薬庫があります。
砲弾の置き場など。 -
銅の樋。
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二階には上がることはできません。
階段が新しく造られていました。 -
二階部分が修復された様子。
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下から観た二階の部分。
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大変な修復作業だったようです。
平成19年には国や兵庫県、神戸市の補助を受けて、三菱重工業株式会社が調査工事と修理の工事を行っています。
その後も平成21年から26年、4年もの月日を費やし、調査や修理を行っています。
金具なども全て寸法を測り、使えるものは全て再利用し、創建当時の様子をできるだけ残すように工夫されているとのことでした。 -
修理前の破損した状態の写真。
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解体前と、写真にあります。
幕末の海防の必要性に迫られ、急きょ造られた砲台。
大変貴重な遺蹟となっています。
この見学、1時間くらいだったと思います。
とても丁寧な説明の見学でした。
そして、この和田岬という場所、古代から平清盛の大輪田の泊、兵庫湊、そして神戸港へと発展していった場所です。
この付近には古代からの神社や伝承、また幕末には西郷隆盛やアーネストサトウが会談した場所など、歴史的な場所が沢山あります。 -
和田岬近くの神社、和田神社。
由緒ある神社。
古来から「蛭子の森」といわれたこの地、蛭子大神をお祀りした西摂最古の場所といわれています。
1173年には平清盛が大輪田の泊の工事のために、経島を築き、
厳島神社の大神 市杵嶋姫大神を和田岬のほかにも6カ所勧請。
これが兵庫七弁天といわれます。 -
すぐ近くに美しい灯籠があります。
なんだかおしゃれです。 -
尾州廻船が奉納した燈籠でしたが、阪神・淡路大震災で倒壊し、その後修復されています。
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顕彰碑があります。
三浦清太郎氏。
漁業の発展に尽力を尽くした人物。 -
右の顕彰碑は神田兵右衛門氏は初代神戸市会議長などを務めた人物。
学校の建設や兵庫運河の築造などにも貢献しています。 -
写真には写っていませんが、現在の社務所に当たる場所には、隣松院といわれる建物があったようです。
1662年の社殿の建設と同時に建てられたようですが、
その後1863年に徳川家茂が海防の視察に訪れた際に、ここで勝海舟と昼食をとり、また同じ年に一橋慶喜も砲台築造の見学の際に訪れたそうです。
与謝蕪村も俳諧の会を二回開いています。
その建物も、造船所の建設のために移転、美しい松林も消失してしまったそうです。
どんな建物があったのか、見てみたいです。。 -
与謝蕪村の句碑。
隣松院にて俳句の会を二回行っています。 -
赤い鳥居が美しい。
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高倉稲荷神社。
伏見稲荷神社より勧請。 -
白蛇を神の使いとして祀った巳塚。
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白蛇をお祀りしてます。
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影向松。
神の使いの白蛇が初めて現れた場所と伝わるところ。 -
本殿。
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御祭神。
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由緒が書いてありました。
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和田神社は海の守り神として信仰されてきました。
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小さなお社があります。
こちらは秋葉神社。
火を祀る神を祀っています。 -
説明板にもありますが、兵庫津は高田屋嘉兵衛、工楽松右衛門や北風家といった大きな廻船問屋もあり、火事は恐れられていました。
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こちらは猿田彦社。
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道開きの神様。
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こんな説明もありました。
宮比神社。
むかしは、それぞれの家や個人の崇拝する神を祀る習慣もあったのですね。 -
こちらにお社がありました。
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こちらは多くの石灯籠があります。
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これらも寄進されたものでしょうか。
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裏のほうの入り口にも鳥居。
菱垣廻船問屋から寄進されたものです。 -
説明板。
当時の兵庫津の賑わい、繁栄が伝わってくるようです。 -
更に歩いて、三石神社へ。
入口に神功皇后が上陸したとの石碑があります。 -
由緒ある神社。
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それほど大きくない境内。
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説明板がありました。
神功皇后は応神天皇のご懐妊の時に、三韓の遠征に行っていますが、三つの石を身に着けて出産を遅らせ、安産を祈願、じ、神社の名前にも由来したそうです。
また、この地に暫くとどまった神功皇后が三つの石を立てて、占いを行ったという言い伝えも。
廣田神社、生田神社、長田神社、住吉神社の神々を祀ったとも。
602年には推古天皇も訪れたという言い伝えもあります。
御祭神は神功皇后、天照大御神、素戔嗚大御神。 -
このあたりは神功皇后の伝承が沢山残っています。
三韓遠征の帰りの際に神功皇后の船が進まなくなり、この地に暫くとどまったそうです。
本殿の前の像。
神功皇后と子供の応身天皇をだく、武内宿祢。
安産の神として信仰を集めている神社です。 -
様々な伝承を持つ、三石の遺蹟もありました。
神功皇后が占いに用いたともいわれる三つの石。 -
三石の遺蹟についての説明がありました。
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境内には、いくつかの石碑や石の遺蹟。
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安産の神様としての信仰は古くから。
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説明板です。
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そしてこちらも石の遺蹟。
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説明。
盃状穴。
人為的に石に凹凸をつけたようです。
再生、不滅の象徴として、その後は、何事にもくじけない強い意志、希望を祈念したものだそうです。
神社の敷石として用いられていたそう。 -
手水鉢と水除け、枠も古いもののようです。
江戸時代のもの。 -
説明板。
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安永と文字が見えます。
他にも、江戸時代の年号が。 -
元々は、井戸を手水鉢として使っていたようです。
その後、井戸を埋めて、外枠のみを残しています。 -
安産の神として信仰が厚い神社。
このような説明板がありました。 -
小さなお社と、
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喜多造船所が奉納したもの。
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入口にはこのような説明板も。
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焼夷弾で焼けた痕跡が黒く残っています。
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この鳥居にも戦争の痕跡が残っているそうです。
このあたりは戦争の傷跡があちこちに残っています。 -
そして、ネットで見つけた、浜本陣 小豆屋さんというお店。
ネットで調べてみると、お店のHPがありました。
幕末、浜本陣にはお米などを藩と取引し、宿泊などにも宿が提供されたそうですが、その中の小豆屋は西郷隆盛や五大友厚なども常宿としていたようです。
とくに、
西郷隆盛はアーネストサトウとも会談を行った場所だそうです。
探した場所がこちらだと思うのですが、カフェだと思っていましたら、
事前の予約のお店だったようで、お香などを販売されているようでした。
最後までお読みいただいて、ありがとうございます。(^^♪
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この旅行記へのコメント (2)
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- hiroshi_kakogawaさん 2024/01/15 10:52:57
- 懐かしいです
- 旅行記を懐かしく拝見させて頂きました。私は16年前まで三菱重工神戸に37年勤めていました。23歳の時、電算機専門学校を卒業しプログラマーとして入社しました。
私が在職時や退職当時は、潜水艦部門以外の工場内の写真撮影は全く厳しくありませんでしたが現在、相当厳しくなっている事に驚きました。
- hijunoさん からの返信 2024/01/15 20:26:43
- お便りをありがとございます。
hiroshi_kakogawaさん
はじめまして。
旅行記を読んでいただき、ありがとうございます。また、いいね、もありがとうございます。
そうだったのですね。
あの、三菱重工神戸に長い間お勤めだったのですね。
とても大きな敷地ですね、びっくりしました。
写真撮影はとても厳しくて、あの砲台の周りのものがちょっとでも映り込む可能性があるので、砲台外での写真は厳禁でした。
潜水艦関係の製造も関係していると聞きましたが、そのほかにも建物や一切の
敷地内の写真撮影禁止が徹底していました。
あの場所の和田岬砲台は本当に大切に保護されていて、貴重な遺構として非常に
重要な文化遺産だと思いました。
三菱重工さんの尽力がとても大きいと感じました。(修復の際の費用もかなり負担しておられます)
西宮にも砲台がありますが、中は煤だらけで見学はできないそうです。
外側だけを外から眺めるだけでしたので、この和田岬砲台の見学は興味深く
詳しい説明も聞くことができて、心に残りました。
後世にこの貴重な遺蹟が残っていくことを心から願いました。
Reise
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