2023/12/03 - 2023/12/03
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たびたびさん
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紅葉巡りの二日目は、山科の毘沙門堂と比叡山坂本の西教寺をメインとして、例によってその周辺もちょこちょこと加えます。
昨日の箕面公園は奇跡の紅葉でしたが、それと同じくらいの出会いがあるかどうか。結果として、なかなかそこまでの出会いはありませんでしたが、それはそれ。もともとの紅葉狩りの目的から、また余裕を持った別の視点で新たな発見があったというもので、どうということはない。山科も比叡山坂本もエリアとしてはまだまだ情報が手薄なレベルでしたからね。そこを少し補うことができたのは悪いことではないでしょう
。
そういう視点で、始めに少しコメントしておくと。。
まずは、山科のこと。山科は京都と大津の中間点。京都からすると滋賀県との境です。JRで京都から滋賀方面に向かうと山科駅で東海道線と湖西線が分かれます。東海道線は、大津から草津、近江八幡、彦根、米原へと向かうびわ湖の東側の線。湖西線は、大津京、叡山坂本、雄琴温泉、堅田、高島、今津を通って、最後は敦賀の方に抜けて行くびわ湖の西側の線です。湖東と湖西が山科で分かれますから、なんとなくここが交通の要衝みたいな感じがしなくもないですが、東海道五十三次で考えると大津宿の次はもう京都。山科に大きな宿場はありませんでしたし、びわ湖の西側の街道である北国街道(西近江路)への追分は大津宿でした。やっぱり山科はせいぜい峠といったイメージかな。大雑把に言えば京都の郊外のひとつということで、長岡京や大山崎、京田辺や木津辺りとほぼ同格くらいに感じます。ただ、そういう場所には京都中心部の戦禍を逃れた意外な古刹があったりしますから、観光の対象としてはそれらがメインですね。
即ち、山科の代表格は毘沙門堂に勧修寺、随身院。東西線で結ばれていますから同じエリアという感覚の醍醐寺と、ちょっとマニアックですが、足利義政の正妻で応仁の乱の黒幕だったとされる日野富子や同じ日野一族の親鸞ゆかりの法界寺、日野誕生院も含まれるでしょうか。だいたいこれで山科は9割。あとは、忠臣蔵の大石蔵之助とか石山本願寺の前の時代、山科御坊の関係や大津とのつながりで天智天皇陵くらいかな。いずれにしても、山科は山科区とはなっていますが、塊りとしての積極的な地域性はあんまりないような気がします。
対して比叡山坂本は、比叡山のお膝元。延暦寺の里坊のまちであり、比叡山との関係は切っても切れない関係です。ほか、日吉神社や西教寺の門前町でもあるし、大津からもけっこう近くて湖西の要衝の一つ。近くにあった明智光秀の坂本城もたぶんそれらを背景にしていて、人・モノの流れが活発で、文化や経済面でも豊かだった土地柄が窺えます。
今回は、西教寺から旧竹林院、滋賀院門跡、公人屋敷や坂本城址公園、唐崎神社といったところまで回ってみましたが、改めて、文化や歴史の遺産が豊富。湖西と湖東を比べると湖東の方が人口の多い街が多くて表通りといった感が強いのですが、湖西にも湖東とはまた違うリッチな雰囲気があるように感じました。ただ、その雰囲気は比叡山坂本だからなのか。大津から湖西全体としてそうなのかは今までの経験ではまだよく見極めがつかないですね。そういう意味では、比叡山坂本の再認識から湖西というテーマがまだよく分かっていなかったことに気が付かされたということも大きかったような気がします。まだまだ滋賀はフロンティアが多すぎる。そんなところかもしれません。次回以降、またチャレンジを続けたいと思います。
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山科駅から散策を開始します。
まずは、冒頭触れた山科御坊の関係をいくつか。
東本願寺山科別院長福寺は、悠々とした敷地ですが、敷地の形がいびつなのでマップを見ても入り口がどこか分かりにくい。ちょっと迷いました。 -
始まりは、江戸中期の1732年(享保17)。東本願寺17世真如が東本願寺の境内にあった長福寺を現在地に移築したというもの。山科は山科御坊があった地であり、そばに蓮如の廟所もあるので、当然、それとの関係があるでしょう。
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山科中央公園は、小山を中心に周辺にグラウンドとかを整備した公園。観光的には、この小山がポイントで、山科本願寺の土塁跡があります。ブラタモリでも紹介されたことがあるということでしたが、この土塁は本願寺8世蓮如が、文明10年(1478年)、越前吉崎御坊から移って、山科で本願寺の再建が始まってからのもの。寺内町を外敵から守るためのものでした。
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しかし、天文元年(1532年)、法華一揆と手を組んだ細川晴元の攻撃で焼け落ちます。この細川晴元というのは細川京兆家17代当主。室町幕府の重鎮。三好長慶に失脚させられるまでは都を牛耳っていた人物です。
なお、蓮如が亡くなったのは明応8年(1499年)ですから、その時、山科本願寺はまだ健在です。山科本願寺は焼け落ちますが、今度は石山本願寺が本山となって、さらに教線は拡大。信長と争った顕如の時代に移っていくことになります。そしてさらに言えば、顕如とその子、教如の路線対立から東西の本願寺に分裂するのはまた次の段階。慶長8年(1603年)のことになります。 -
イチオシ
蓮如上人廟所は、山科中央公園の東の住宅街の中にあって立派な構え。
改めてですが、蓮如は山科で本願寺を再建。周囲を土塁で囲んだ寺内町が形成され、そこで晩年まで過ごしています。細川晴元や法華衆との争いや顕如に率いられた本願寺が信長と争う石山合戦もまだこの後のこと。土塁は物々しいですが、まだまだ勃興期。平和な時代だったかもしれません。 -
本願寺山科別院は、蓮如が建立した山科本願寺の跡地に建つお寺。
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そういう意味では由緒が正しくて、入り口の構えなんかも立派なのですが、境内は意外に殺伐とした雰囲気が否めない。ひと気もあまり感じませんでした。
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ここからは、本願寺と離れて。。
徳林庵は、かつての街道沿いにひょっこり建つ六角堂。山科廻地蔵を安置していて、これは小野篁が作った京六地蔵尊のひとつ。後白河天皇が平清盛に命じて、京への街道の入口六ヵ所に六角堂をつくり一体ずつ置かせたとか。
ただ、現在安置されている地蔵は江戸時代の作です。 -
続いては、諸羽神社。こちらは、清和天皇の貞観4年(862年)創建ともされる古社。山科では第四の宮であることから、通称は四の宮。
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天孫降臨のニニギノミコトの左右に従った天児屋命(あめのこやねのみこと)、天太玉命(あめふとたまのみこと)を祀るというも面白いですね。山裾にある境内は、ちょっと山奥の雰囲気もあると思います。
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諸羽神社から毘沙門堂に向かいますと、ちょうど中間辺りに見えて来るのが山科疏水。ここまで来るのにもちょっと坂を上がった感じはしますね。疎水はゆったりと静かな流れ。疎水に沿っては遊歩道も続いていて、田舎の長閑な眺め。インパクトはありませんが、それで十分いいと思います。
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さらに進んで、瑞光院。臨済宗大徳寺派の寺のようですが、あまり古そうでもないなと思ったら、現在の場所に移転したのは昭和37年だとか。
もともとは堀川鞍馬口にあった浅野長政の下屋敷の跡地に創建されたもの。その後、忠臣蔵ゆかりの寺となったのは、切腹した浅野長矩の衣冠を境内に埋め、供養塔を作ったとか。義士の遺書と遺髪を集めて遺髪塔を建てたとかの出来事が重なってから。門前に詳しい説明の駒札が立っています。 -
さて、毘沙門堂に到着。
入り口の極楽橋を入ってからすぐの石段は仁王門へ続きます。
紅葉は進んでいますが、日が差していないので、景色としてはイマイチですねえ。 -
さらに奥の勅使門へ続く石段。毘沙門堂の紅葉ではここが一番のスポットなんですが、これではテンションは上がりませんよ~
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振り返ってもこんな感じ。
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まあ、仕方ないですね。
ちょっと時間を置くために双林院に向かいます。 -
双林院は、勅使門の先から川の方へ下っていきます。谷あいにこじんまりとあって、
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ここも紅葉が濃いですね。
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創建は、寛文5年(1665年)。
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毘沙門堂に祀られていた阿弥陀如来像を譲り受けたのが始まりとか。
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ただ、今の本尊は大聖歓喜天。境内にはその歓喜天を祀る聖天堂と屋根の最上部が煙突になっている不動堂が並んで建っています。
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ほか、限られた境内にはあれこれあって、これは不動の滝とお瀧不動さんです。
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再び勅使門への石段に帰ってきました。
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イチオシ
少し日は差してきましたが、やっぱり色付きはよくないですね。
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では、反対側から。
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さっきよりはましかな。
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まあまあというところでしょうか。
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では、薬医門の方から境内へ。
これは枝垂れ桜。春にはこれが主役となります。 -
続いては、これが唐門と本殿。
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イチオシ
徳川氏からの寄進によるもので、
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日光東照宮の建築様式なんだそうです。
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そこから上がって、
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宸殿裏の庭園晩翠園へ。
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奥の観音堂がポイントなんですが、それをくっきり撮るのは至難の業です。
なお、宸殿の内部にある動く襖絵もウリの一つ。
狩野探幽の養子で駿河台派の始祖、狩野益信の作。見る角度によって、机が伸びたり縮んだり。逆遠近法の手法が用いられているというのですが、なるほどインパクトはあると思います。 -
最後は紅葉に埋もれた姿が美しい弁天堂。
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イチオシ
建物の鮮やかな朱色も映えています。
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では、仁王門から
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下りて
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最初の極楽橋まで。
天気が良くなってきましたが、まだ先がありますからね~ -
続いては、これも山科を代表する寺のひとつ。安祥寺の創建は、嘉祥元年(848年)。文徳天皇の母、藤原順子の発願によって創建された真言宗の寺です。
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門は固く閉まっていたので、遠くから拝見。本堂である観音堂は、十一面観音立像を安置し文化14年(1817年)の再建。
傍らのモミジの紅葉がきれいです。 -
では、山科駅から比叡山坂本駅に移動して、ここからが後半戦です。
比叡山坂本駅から西教寺は歩けなくはないですが、やっぱりちょっと遠い。バスで向かうことにして、待ち合わせの時間に昼飯です。
ラーメン 一徹は、JR比叡山坂本駅の真ん前。 -
いただいたのは、味噌ラーメン。これは札幌ラーメンの味なのかな。店内には札幌ラーメンはおいしい風のアピールがあちこちに。こちらのラーメンもコクのあるスープに縮れ麺がよく合っていました。
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比叡山坂本駅から西教寺へは江若交通バス。
距離もありますけど、けっこうな上り道。バスにして正解だったと思います。 -
西教寺に到着。
ここは初めてだし、紅葉の評判もすごいですからね。今回の比叡山坂本では一番楽しみにしていたお寺です。
ところで、西教寺は、室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖である真盛がその名を高めるという歴史。真盛が唱えた天台真盛宗は、”戒称二門”。天台宗の僧侶や信者が守るべき戒律と念仏の両方を重視するというのが基本。延暦寺、三井寺が密教色が強いのに対し、浄土教的色彩が濃いのが特徴です。
ちなみに、真言宗でも覚鑁が起こした新義真言宗は念仏の要素を取り入れたもの。念仏は比叡山ではもともとあったものだし、そこまで革命的なことではないと思います。 -
イチオシ
総門からまっすぐに続く参道は真っ赤な紅葉。
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色付きもいいような気がします。
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突き当りは、勅使門です。
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そこから左に折れると宗祖大師殿の方ですが、
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途中からの琵琶湖の眺めもなかなかですね。
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唐門から入ると
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これが宗祖大師殿。でんと構える建物です。
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もう一度、勅使門の方に戻って
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この辺りの紅葉がいい感じ。
毘沙門堂のマイナスをちょっと取り返した感じです。 -
では、本堂の方に上がります。
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本堂はこの石段の上です。
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上がってすぐに手水舎があって、
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その先が本堂。
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さらに先が大本坊です。
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では、ここから上がって拝観です。
こちらには、作庭の時代が異なる四つの庭園があって、それが見どころです。 -
本坊から本堂を抜けて
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その先が
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客殿。
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イチオシ
これが小堀遠州によって江戸初期に作庭された客殿庭園。琵琶湖を象った池を中心に、小堀遠州の作庭にしては繊細な石組。ただ、大石はないですが、穴太の石垣みたいなのも取り入れて、面白い着想だと思います。
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ほか、石灯籠がやたらと多いですが、それは後世のもののような気がします。
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続いては、明治初期に作庭された書院庭園。
穴太式庭園ということのようですが、比較的シンプルな枯山水庭園だと思います。 -
そして、平成元年に作庭された裏書院庭園。州浜のある池から奥には枯滝石組。きちんとコンパクトにまとまった庭園です。
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イチオシ
最後は、客殿庭園と同じ時期に作られたという枯山水庭園。作庭者は不明のようですが、客殿庭園より大きな石を使って、豪快な意匠。大胆さがシンプルに伝わってきて最初のインパクトはこちらの方が大きいような気がします。
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続いては、旧竹林院です。
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こちらは、江戸時代初期に築造された里坊の書院前庭園。竹林院自体は廃仏毀釈のため衰退しましたが、庭園の方は以降さらに改修されて、今では面積3,300㎡、回遊式の近代庭園として国の名勝に指定されています。
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玄関から上がって、そのまま奥の大広間へ。
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庭は曲水が巡り、
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なだらかな築山には
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イチオシ
松や馬酔木。
全体としては自然に任せたような趣もありますが、木々の剪定はしっかりできている感じ。 -
その加減に慣れるのは少し時間が必要な気もしますけどね。
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二階の方の大広間へ。
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一階から見ても二階から見ても
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それぞれに趣があって、
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甲乙つけがたいのも面白いと思います。
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では、お庭の方に下りてみましょう。
木戸から中へ。 -
築山の中央へ進む小径です。
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その途中から
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さっきの大広間の建物。
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そのまま進んで
ここが頂上かな。 -
ぐるりと回って、正面に出てきます。
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この頃になって目線が合ってきたような感じ。
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自然に任せた姿と手の入れ具合。変な話、京都だともう少し手を入れるところなんですが、それは観光客が大勢いる京都だから。そこまでいかない滋賀流がほどほどなのかな。あんまり京都基準に慣れすぎるのもよくないかもしれません。
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早尾地蔵は、旧竹林院の隣り。
六角形、二重屋根のひょろっとした印象の建物が面白いですね。
本尊は、伝教大師最澄上人の自作と伝わる石地蔵尊。地蔵尊は、変じて西教寺開山の真盛上人として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復したとも。坂本にゆかりの深い地蔵です。 -
穴太衆積みの石垣は、穴太衆と呼ばれる石工集団が加工しない自然石を巧みに組み合わせる穴太衆積みという手法で作った石垣。戦国時代の城壁でも採用された技法です。坂本の街では至る所にこの石垣があって、当たり前のような景色となっています。
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ここから、
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メインストリートを下って
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今度は滋賀院門跡を訪ねます。
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坂本は、比叡山で修行をした僧侶が年を取って、山の暮らしがきつくなると山を降りて隠居生活をした里坊の街。
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滋賀院門跡は、その里坊を代表する寺院。
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江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立。
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玄関を入ってすぐの
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この雰囲気だけでもちょっと特別な感じがプンプン匂います。
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そして、二階に続く階段を上った先が
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徳川家光が命じて造らせたという小堀遠州作の池泉鑑賞式庭園。
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国指定の名勝庭園で、
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南北に長い廊下の
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どこから眺めてもいい池泉鑑賞式。
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鯉の泳ぐ放生池は豊かな水をたたえているし、
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イチオシ
亀島をはじめ正面の築山も
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おびただしい数の立石を使って豪快かつ豪華な印象。
力がみなぎっているような庭園だと思います。 -
建物の方では、
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涅槃図。
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天明6年(1786年)、市川君啓作。
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赤鬼や
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象の嘆き悲しむ姿を分かりやすく描いています。
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イチオシ
こちらは、天台座主総見の間。
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鮮やかな赤が基調の掛け軸は
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ちょっと独特の美的感覚です。
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また表の大通りに出て、
生源寺は、伝教大師御誕生地とあって、ここが最澄が生まれた場所なんですね。 -
創建は、延暦年間(782-806年)。最澄によって建立。現在の本堂は、文禄4年(1595年)に再建、宝永7年(1710年)に改築されたものということ。ちょっとシンプル過ぎるくらいの佇まいです。
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これは、坂本の道標。「右盛門本山西教寺道」「横川元三大師道」と書かれた石柱です。ちなみに、坂本は、室町時代には人口1万人を超えていたとか。この石造りの道標も往時の賑わいの記憶を留めるもののひとつです。
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もう少し下って、坂本観光案内所。駅舎併設ではなくて、大津市消防団坂本分団の施設と併設された建物の観光案内所です。敷地は余裕があるし、通りに向かって腰かけるところもあるし、休憩がてらの利用でも全然OKです。
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せっかくなので、久しぶりに鶴喜そばへも行ってみましょう。
享保の初年の創業という坂本を代表する老舗のお蕎麦屋さん。司馬遼太郎もここでそばを食べています。 -
あんまりお腹も空いていなかったので、きつねそば。
前回食べた時はそばがもっちり弾力があったという記憶だったんですが、今回は、普通。一方で、出汁がとってもおいしくて、最後まで飲み干してしまいました。 -
日吉茶園は、坂本比叡山口駅からすぐ。赤い柵で囲われている一角は、延暦24年(805年)、最澄が中国浙江省天台山から持ち帰った茶種を植えたという茶園。毎年、茶摘祭が行われるようで、今でも大事にされているのが素晴らしいと思います。
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これもすぐそばの公人屋敷。公人というのは、延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を認められた人々。
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大年寄という役人の下にあった年寄として、
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延暦寺の治安維持や年貢、諸役を収納する寺務を取り仕切るのが役割だったとか。
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屋敷は上品な町家といった佇まい。経済的にもそれなりに余裕があったように感じます。
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あとは神輿が置いてあったり
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ちょっとした展示室もありました。
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ここからは、坂本の中心部を離れて、坂本城址公園に向かいます。
途中の酒井神社は、下阪本の地区。創建は、弘安2年(810年)。酒の神様、大山昨命を祀ります。通りを挟んで向かいは両社神社。現在の本殿はどちらも、かつての坂本城主、浅井長政の孫、長晟が建てたものだということです。 -
向かいの両社神社の創建は、酒井神社よりかなり時代は下る元仁年間(1224-1225年)。イザナギノミコト、イザナミノミコトをを祀ります。本殿の感じは、確かに酒井神社と似ているように思います。
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しばらく歩いて、これは坂本城址碑。東南寺そばの道筋に立っています。
坂本城は、明智光秀が築城した城で、琵琶湖の水を引き入れた水城。大天守、小天守も備えていたほどの城だったようですが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、焼失。山崎の合戦後は丹羽長秀が城主となったようですが、それは一時。豊臣秀吉の命により浅野長政が大津城を築城すると、その役割は終わります。
ついでに、大津城のことですが、関ヶ原の戦いの際の城主は東軍に付いた京極高次。3千の手勢で1万5千の西軍に対する籠城戦となりました。最終的には降伏したのですが、開城したのは関ケ原の戦いの当日。1万5千の西軍を大津城に引き付けた功績は大きいとして京極高次には若狭国8万5千石を与えられています。
その大津城もその翌年、廃城。代わりに膳所城が築城されました。 -
そこから少し行くと坂本城址公園。
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琵琶湖畔のさほど大きくない公園ですが、
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公園の一角には「われならで 誰かは植ゑむ ひとつ松 こゝろして吹け 志賀の浦かぜ」の光秀の歌碑と光秀像が並んで建っています。
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坂本城址公園から、もうひと頑張りして、唐崎神社へ。
琵琶湖の湖畔にある日吉大社の摂社の一つですが、古来有名なのは、唐崎の松。近江八景のひとつであり、古くから和歌や俳句で謡われてきました。
鳥居から -
拝殿の先に
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ありまして、現在の松は三代目。両翼を延ばした姿はそれらしい姿ですが、ほとんど枯れ木のような姿でちょっと悲惨なことになっていました。なかなか現実は厳しいですね。
さて、以上で二日間の旅は終了。お疲れさまでした。
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