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《2023.November》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのLII湖南~栗東金勝寺・東近江瓦屋禅寺紅葉ライトアップ編~<br /><br />今年は何回紅葉ライトアップに行けるだろうワクワク…と感じたのは11月7日の二条城行きの時だったと記憶している。それから日々が過ぎること2週間、思えば色々なことがあり過ぎた。読み間違えの6連勤、その3日目には時間外にはるを病院に連れて行き、帰宅したのは3:30…。連休取るのだから仕方ないといつもは冷やかに対応される同僚からも、事情があるなら休んで良いでと言われる始末。まぁ体が言うことをきかなくなったらお言葉に甘えるのだが、元々寝る時間が遅いので若干の睡眠不足程度でクリア出来たようだ。しかし時間感覚はやはり麻痺してしまうようで、一日過ぎるのがとてつもなく早く感じた。もう若くない歳なので無理をしたら休まないと身体が保たない。故に休日は爆睡するため、仕事であろうが休みであろうが変わらない上に過ぎるのも早い。気が付けば11月も終盤を迎え、紅葉ではなくイルミネーションの時期を迎えようとしている。そんな日々が続く中迎えた祝日の休みである11月23日、起きるのは遅かったが、今日を逃すとまたイベントが終了してしまって不完全燃焼するという想いから、出掛けることを急遽決めた。行先として挙げたのは近場の栗東金勝寺と東近江瓦屋禅寺。あと行ければ百済寺や永源寺も…とは思いつつ欲張り過ぎても行けないだけなので、とにかく最初に挙げた二寺を目指して出発することにした。<br /><br />ライトアップなので開場時刻に合わせ17:00に自宅を出発する。先ずはローソン大津大平一丁目店に立ち寄っていつもの儀式を行う。いつもならば下道利用だが、少しでも時間を取れるようにするため高速を利用する。瀬田東ICから名神高速道路と新名神高速道路を利用し、何故かナビが案内する信楽ICまで突っ走る。何故信楽IC迄行ったのかわからないままにナビの示すルートを走るとまさかの山道の途中で“到着宣言”が発せられる。設定ミスか等と考えながらそのまま直進し、入口がわからず通過した道の駅こんぜの里りっとうにUターンをして到着し、一息ついてから地図上の目的地を見直すことにした。<br /><br />一服後にGoogle mapをひらくと走って来たルートであれば、鋭角に曲がって林道を走るようだ。しかしナビで表示されたのは、物理的な距離が最も近い場所であることが判明する。スマホナビで迷う理由のひとつであったことを改めて知り、mapの示す林道を走って行くことにする。鹿が出てきそうな道を走ること10分程で漸く目的地の金勝寺に到着する。祝日のため人出の多さを気にしてはいたが、駐車場の混み具合を見る限り構え過ぎたようだ。志納所で入山料500円を納めて中へと入る。出したのが千円札であったことを失念し、お釣り~と呼び止められたのは、我ながら心此処にあらずと反省する。<br /><br />この金勝寺の立地が少し変わっていて、林道沿いに駐車場と受付がある。そして順路を進むと下り階段があり、そこを下った場所が本堂へと向かう参道の起点となっている。本堂へは急ではないものの石段が続き、取り敢えず上り階段が苦手な私は少し躊躇するが、進まなければはじまらないと割り切って歩いて行く。途中篝火が焚いてあり、良い雰囲気だ~と思ったのも束の間、蝋燭が灯してあるだけに過ぎなかった(汗)。<br /><br />写真を見ればわかることだが、そこそこの距離はあるものの、階段というよりも〝坂〟と言った方が適当かと思う。故に然程疲れを感じずに仁王門に到着出来た。仁王門への参道脇には行灯が置かれていた。勿論火災防止のため電球が入っているものではあるが、多分無ければかなりの暗さになってしまうことを考えれば、実用を兼ねたモノと化している行灯が有り難いもののように思えるから不思議である。<br /><br />一足一足慎重に歩き、無事仁王門に到着する。そして最初に迎えて下さるは鎌倉時代の作とされる阿形吽形の仁王様。ただちょっと新しく見えてしまうのは光の加減であろうか。仁王門右側にある宝篋印塔も歴史を感じるものであり、カメラに収めて次の階段に挑むことにする。<br /><br />宝篋印塔の上の位置にある二月堂。こちらの御本尊である軍荼利明王立像は平安時代の作とされている。そして最後の階段を上るとやっと本堂にたどり着く。こちらの御本尊は釈迦牟尼如来坐像でやはり平安時代の作だそうだ。近江國の寺院の多くは、戦国時代に天台宗の本山比叡山延暦寺に味方し、織田信長と敵対したことから、焼き討ちにあっている。それ故現存する建物や仏像等はそれ以降に再建されたものが多い。金勝寺も平安時代に天台宗となった寺院のひとつではあるが、信長の侵攻以前に失火(とされる)により寺院全てが焼けてしまったと伝わっている。焼失後凡そ半世紀の後、慶長年間になって住職清賢法印が徳川家康に再建を請願したことで、保護されることとなり、寺領30石を与えたとされているが、いくつかの建造物は〝仮堂〟として建立されたものの以前の勢いを取り戻すには至らなかった。元禄年間に再興された本堂と二月堂は、往時の〝仮堂〟の姿のままで、また延宝年間は排水を考えた山型配石の参道や石垣が修復されて今日に至っている。しかしその後も以前のような勢いを取り戻すことは出来ず、古例となっていた小豆粥の清水を京都御所に献上していたことまでもが、明治期の〝献上物廃止令〟により途絶え、金勝寺は山科毘沙門堂門跡の兼帯となり廃寺の運命をたどることになる。加えて仏供田30石と境内山林は上地とされてしまい、全くの〝無録の寺〟となってしまった。その窮地を救ったのは〝治圓法印〟”であり幾多の考えの下で欺き、往時の法令に基づいた手続きを経て、寺領の一部を金勝村に譲与するという訴願の提起により下戻、再興の芽が兆し現在に至っている。<br /><br />建物の歴史はこの様な経歴ではあるが、仏像は殆ど近隣の廃寺となった元寺院から持ってきて安置したものだとされている。この辺りの話は定説がなく廃寺から仏様を持って来て御本尊とすることは、界隈の寺院でも同じようなことが言われており、特段驚くものでもないことである。奈良時代の創建にも関わらず苦難の連続であった金勝寺だが、今もやはり運用面では安泰というものではない様子。そのような背景もあり〝紅葉ライトアップ〟等のイベントで集客を募っていると言われれば疑う余地もないように思える。しかし神社仏閣とも左手団扇では済まないのが現実であろう。全国的な知名度があるところであれば、イベントを行うにも企業レベルでの協賛が入るのであろうが、湖南エリアの名刹とは言え〝知名度の低さ〟は否めない金勝寺故苦労して作り上げたライトアップであることは肌で感じることが出来たように思える。祝日でも〝穴場的〟な寺院であることも分かり、また来年も訪れてみたいと思った私であった。<br /><br />本堂に参った後は御香水館に向かう。お寺らしくない堂宇名であるが、ここで汲み上げた“御香水”を明治期迄京都御所に持参していた〝場所跡〟であることを知る。そのまま順路を進むと〝何もない広場〟に行き着く。大講堂跡は〝金勝寺遺跡〟とも呼ばれる金勝寺創建時代の遺構である。元々金勝山一帯に別院を構えていた歴史もあるため、この様な遺構があるのも頷けるのだが、あくまで置かれている〝礎石〟は復元に当たって配置されたものであり往時のものではない。この場所が〝大講堂跡〟とされた経緯も、奈良時代から平安時代初期の遺物が多数出土したという〝状況証拠〟しかないようにも由来書に書かれているようにも思えなくもない。真っ暗で照明も点いていない場所故、そんな場所なのだと真っ暗な中写真だけ撮影して順路へと戻ることにした。<br /><br />金勝寺遺跡が標高の最も高い位置にあり、後は下って歩いて行く。虚空蔵菩薩堂は昭和の建造物。しかし堂内には平安時代の作とされる〝虚空蔵堂半跏像〟〝毘沙門天立像〟〝地蔵菩薩坐像〟という三像が安置されている。やはりその御姿は〝荘厳そのもの〟だと思えるものであった。昼間だったらベストポジションを探そうかとウロウロするが、暗い場所故にひっくり返ったら大変であるためにゆっくり降りて行く。倉庫を兼ねた庫裏を横目に歩いて行くと仁王門下で行き参道と合流し、金勝寺を一周してきたこととなる。<br /><br />仁王門から志納所迄は下り坂となる。人が少なくなった関係で、参道をはじめ仁王門付近にも人影は見当らない。シャッターチャンスとばかりに改めて景色をカメラに収めながら歩いて行く。金勝寺最深部に辿り着くと、苦手なカメラヲタクが蘊蓄を振りまいている。機材が良くても腕がないと良い写真は撮れないよ~と心の中でボヤきながら最後の石段を上り志納所へと帰ってきた。<br /><br />多分金勝寺の紅葉ライトアップ巡りに掛かる所要時間は、私のようにのんびりと歩くタイプでも1時間強で充分であった。ライトアップアップイベントとしてはこれ位ではあるのだが、軽登山道にもなっている金勝山にはやはり奈良時代の作とされている〝狛坂磨崖仏〟もある。湖南地区にはかなりの数の磨崖仏があるとされてはいるが、その中でも〝有名処〟のひとつである。一度アプローチを試みたことがあったが、場所がわからず断念した。しかし今回の金勝寺参拝で林道の存在と行き着く先が分かったので、雪解けした頃に改めて訪れたいと思った私であった。<br /><br />車に戻り次の目的地を目指して出発することにした。距離にして45km離れている東近江市にある〝瓦屋禅寺〟が次の目的地である。こちらの紅葉ライトアップは21:00迄であり、ちょっと金勝寺でゆっくりし過ぎたかなと思いつつ走って行く。ただ〝コレ〟というルートがなく、再び高速利用のコースを辿ることにした。栗東IC迄国道1号線を走り、名神高速道路を走る。途中菩提寺PAで一休み入れた後、八日市ICで下りた後は国道421号線等を走り瓦屋禅寺に辿り着いたのは20:45。時間の関係で蘊蓄をたれる前に先に参拝ということで急ぎ気味に歩いて行った。<br /><br />ここ瓦屋禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。寺伝によると開基は聖徳太子とされている。ただ創建が平安時代中期とされており時間的なズレがあるが、聖徳太子が開基された後に亡くなった頃からは記録もなく、荒廃していたのではとされている。瓦屋寺の中興は源仁僧都の手に依るものとされており、その際に東大寺末寺として華厳宗となった。その際に伽藍を再建し〝瓦屋寺〟として再興、一山僧房二十四宇と宗徒十六口を数えたと〝東大寺三綱記〟には記されている。<br /><br />しかし戦国時代には天台宗寺院となっていたようで、近江の天台宗寺院の大多数が戦火によって消失したことに例外にはならなかった。織田信長の〝六角攻め〟の戦いのひとつである〝箕作城の戦い〟の折、織田方の羽柴秀吉の軍勢により火が放たれ寺院は焼失した。辛うじて千手観音像と四天王像は焼失を免れたものの、以降江戸時代文禄年間迄荒廃したままだったと言われている。二度目の中興の祖となったのは松島瑞巌寺中興開山雲居希膺禅師の高弟である香山祖桂禅師であった。禅師は荒廃した瓦屋寺の姿を嘆き再興を誓ったとされている。師である雲居禅師の篤志者であった福原茂右衛門を願主に彦根藩井伊家次席家老庵原朝真より内陣法器等を備え釣鐘堂を建立し臨済宗妙心寺派の一寺とし〝瓦屋禅寺〟として中興させ現在に至っている。なぜ松島瑞巌寺の禅師が関係するのかという理由は、瓦屋寺のある旧八日市に奥州伊達家の飛び地がある関係であったためである。瓦屋禅寺中興事業に携わった香山禅師はその後亡くなるまでの50年間をここ瓦屋禅寺で過ごされたそうだ。<br /><br />疫病にご利益がある千手観音像は、四方より修行僧が訪れその教えは広く伝わって行った。この千手観音像は聖徳太子が斧で一刀したものと伝わっているのだが、そもそも聖徳太子と瓦屋寺の繋がりは、四天王寺建立の際に用いる〝瓦〟に山中の土が適した粘土質であったためである。106,000枚という大量の瓦を作り、太子の観音像が置かれた場所故に〝瓦寺〟と名付けられた寺院が〝瓦屋禅寺〟となって、現在参詣することが出来るようになっているのである。その千手観音像は〝流行り病〟に大変霊験あらたかになることから、全国各地より参詣者が溢れている。その中のひとりであった越後の酒屋〝水野五右衛門〟がいる。娘が天然痘を患ったことを嘆き、瓦屋寺で祈祷を受けたところたちまち回復した。そのことがきっかけとなり水野家の篤志を受け、現在の本堂が江戸時代中期に再建されたと伝わっている。そんな時代に近江西国第18番霊場に指定され、その後も聖徳太子霊跡第30番、近江聖徳太子霊跡の札所に指定され、多くの参詣者が訪れ賑わっている。今は臨済宗妙心寺派の寺院となってはいるが、この界隈東近江市には〝聖徳太子ゆかりの寺院〟が沢山あることが知られており、現在太子人気で〝巡り旅〟が流行っているそうだ。<br /><br />取り敢えず時間がないので拝観を始める。駐車場にも紅葉等の紅葉している木々があり、そちらもしっかりとライトアップされている。やはりライトアップされている参道階段を歩き、寺院へと向かう。最初に出迎えてくれる宝篋印塔もライトアップの光を浴びて趣を醸し出している。そしてその隣には竹灯りがあった。竹筒の中に証明を入れて、刻まれた模様が浮き出るオーソドックスなものではあるが、周辺の紅葉がマルチカラーに照らされているために引き立てられている。ちなみにマルチカラーとは言っても写真が黄色い照明ばかりに見えてしまっているのは、フィルムを利用して長時間露光した故の結果であるために仕方がない。<br /><br />時間との争いとなっているために、手当たり次第にライトアップされている紅葉をカメラに収めながら本堂へと向かう。本堂参拝はライトアップ時間帯には拝観できない旨が記載されてはいたが、そのようなことを気にする時間もない。ただ本堂屋根に映し出されるプロジェクションマッピングが素晴らしい。同じ様なことをしている施設はあるのだが、ここ瓦屋禅寺は〝本堂〟というひとつの建物をスクリーンとして行っているため、堪能出来る場所が限られているために建物を取り巻くライトアップされた紅葉がアクセントを加えている様な趣があり、一体感を凄く感じる場所となっているようだった。尤も雰囲気を楽しめるような時間的な余裕もなく、人が写り込んでしまうような状況下でカメラに収めることしかできなかったのは少し残念であった。<br /><br />本来ならば入山料800円を納める必要があるのだが、どこで納めるのかわからず、取り敢えず行けるところまで行った結果が本堂であった〝だけ〟という理由だったのだが、本来ならば21:00迄がイベントタイムだったことを考えると、入山時刻そのものがタイムオーバーだったのかも知れない。ほぼ最後の参拝客であったであろう私ではあったが、これ以上滞在することも気が引けるので、後ろ髪引かれる思いで駐車場へと戻って来た。ここで既に21:00を過ぎていたのだが、車が停まっていることでライトアップを継続されており、短いながらも十分堪能できたように感じた私であった。勿論高速を利用してまで訪れた場所故に記録できるものはしっかりと記録した。頃合いを見計らって出発したのが21:21と記録しているために20分程長居をさせて頂けたことになる。今年はライトアップ期間中に再訪が叶わないために、来年もライトアップをされるのであれば是非訪れたいと思いながら車を出発させた。<br /><br />そこそこ標高のある瓦屋禅寺を出発し山道を下って行く。途中木々の隙間から東近江の夜景を見ることが出来る場所があるのだが、ライトを消してエンジンをかけたままのプリウスが停まっている。なにをしているのか気持ち悪く思え、そのまま下って行くことにした。多分行きとは違う道を進んで行ったようで、途中太郎坊宮に立ち寄った。近江鉄道の駅名にもなっているメジャーな場所ではあるが、正式には阿賀神社というらしい。こちらでは一部手水舎付近に照明がついているだけで静けさが漂っている場所であったが、駐車場からの東近江市の夜景を堪能できるものとなっている。そこから眺める夜景はまさに圧巻。とは言え東京のような〝街〟ではないので、ローカルな夜景のレベルではあるが、戦時中に陸軍の飛行場が作られた八日市の街、その滑走路らしき不自然な直線があることに気付く。以前八日市の戦跡として巡ったことはあるが、近場から眺めるだけでは良くわからなかったのが事実である。そういった意味ではここから眺めた景色でその遺構が確認できたように思う。少しの時間ではあったが太郎坊宮の参拝と夜景を眺めて帰路に着くことにした。<br /><br />帰りはいつも通り下道を走って行く。国道421号線〝八風街道〟を近江八幡友定町まで出た後に国道8・1号線を走ること1時間程で自宅に到着する。頭の中に描いていた距離感がだいぶ現実とは異なっており、時間的にキツかったことが反省点でもある。もしある程度の距離がある東近江界隈のイルミネーションやライトアップを楽しむのであれば、エリアの違う場所を選ばずに、同一市区町村で固めるべきだったなと反省した私であった。<br /><br />  《終わり》

《2023.November》あみんちゅぶらり淡海を歩く旅そのLII湖南~栗東金勝寺・東近江瓦屋禅寺紅葉ライトアップ編~

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今年は何回紅葉ライトアップに行けるだろうワクワク…と感じたのは11月7日の二条城行きの時だったと記憶している。それから日々が過ぎること2週間、思えば色々なことがあり過ぎた。読み間違えの6連勤、その3日目には時間外にはるを病院に連れて行き、帰宅したのは3:30…。連休取るのだから仕方ないといつもは冷やかに対応される同僚からも、事情があるなら休んで良いでと言われる始末。まぁ体が言うことをきかなくなったらお言葉に甘えるのだが、元々寝る時間が遅いので若干の睡眠不足程度でクリア出来たようだ。しかし時間感覚はやはり麻痺してしまうようで、一日過ぎるのがとてつもなく早く感じた。もう若くない歳なので無理をしたら休まないと身体が保たない。故に休日は爆睡するため、仕事であろうが休みであろうが変わらない上に過ぎるのも早い。気が付けば11月も終盤を迎え、紅葉ではなくイルミネーションの時期を迎えようとしている。そんな日々が続く中迎えた祝日の休みである11月23日、起きるのは遅かったが、今日を逃すとまたイベントが終了してしまって不完全燃焼するという想いから、出掛けることを急遽決めた。行先として挙げたのは近場の栗東金勝寺と東近江瓦屋禅寺。あと行ければ百済寺や永源寺も…とは思いつつ欲張り過ぎても行けないだけなので、とにかく最初に挙げた二寺を目指して出発することにした。

ライトアップなので開場時刻に合わせ17:00に自宅を出発する。先ずはローソン大津大平一丁目店に立ち寄っていつもの儀式を行う。いつもならば下道利用だが、少しでも時間を取れるようにするため高速を利用する。瀬田東ICから名神高速道路と新名神高速道路を利用し、何故かナビが案内する信楽ICまで突っ走る。何故信楽IC迄行ったのかわからないままにナビの示すルートを走るとまさかの山道の途中で“到着宣言”が発せられる。設定ミスか等と考えながらそのまま直進し、入口がわからず通過した道の駅こんぜの里りっとうにUターンをして到着し、一息ついてから地図上の目的地を見直すことにした。

一服後にGoogle mapをひらくと走って来たルートであれば、鋭角に曲がって林道を走るようだ。しかしナビで表示されたのは、物理的な距離が最も近い場所であることが判明する。スマホナビで迷う理由のひとつであったことを改めて知り、mapの示す林道を走って行くことにする。鹿が出てきそうな道を走ること10分程で漸く目的地の金勝寺に到着する。祝日のため人出の多さを気にしてはいたが、駐車場の混み具合を見る限り構え過ぎたようだ。志納所で入山料500円を納めて中へと入る。出したのが千円札であったことを失念し、お釣り~と呼び止められたのは、我ながら心此処にあらずと反省する。

この金勝寺の立地が少し変わっていて、林道沿いに駐車場と受付がある。そして順路を進むと下り階段があり、そこを下った場所が本堂へと向かう参道の起点となっている。本堂へは急ではないものの石段が続き、取り敢えず上り階段が苦手な私は少し躊躇するが、進まなければはじまらないと割り切って歩いて行く。途中篝火が焚いてあり、良い雰囲気だ~と思ったのも束の間、蝋燭が灯してあるだけに過ぎなかった(汗)。

写真を見ればわかることだが、そこそこの距離はあるものの、階段というよりも〝坂〟と言った方が適当かと思う。故に然程疲れを感じずに仁王門に到着出来た。仁王門への参道脇には行灯が置かれていた。勿論火災防止のため電球が入っているものではあるが、多分無ければかなりの暗さになってしまうことを考えれば、実用を兼ねたモノと化している行灯が有り難いもののように思えるから不思議である。

一足一足慎重に歩き、無事仁王門に到着する。そして最初に迎えて下さるは鎌倉時代の作とされる阿形吽形の仁王様。ただちょっと新しく見えてしまうのは光の加減であろうか。仁王門右側にある宝篋印塔も歴史を感じるものであり、カメラに収めて次の階段に挑むことにする。

宝篋印塔の上の位置にある二月堂。こちらの御本尊である軍荼利明王立像は平安時代の作とされている。そして最後の階段を上るとやっと本堂にたどり着く。こちらの御本尊は釈迦牟尼如来坐像でやはり平安時代の作だそうだ。近江國の寺院の多くは、戦国時代に天台宗の本山比叡山延暦寺に味方し、織田信長と敵対したことから、焼き討ちにあっている。それ故現存する建物や仏像等はそれ以降に再建されたものが多い。金勝寺も平安時代に天台宗となった寺院のひとつではあるが、信長の侵攻以前に失火(とされる)により寺院全てが焼けてしまったと伝わっている。焼失後凡そ半世紀の後、慶長年間になって住職清賢法印が徳川家康に再建を請願したことで、保護されることとなり、寺領30石を与えたとされているが、いくつかの建造物は〝仮堂〟として建立されたものの以前の勢いを取り戻すには至らなかった。元禄年間に再興された本堂と二月堂は、往時の〝仮堂〟の姿のままで、また延宝年間は排水を考えた山型配石の参道や石垣が修復されて今日に至っている。しかしその後も以前のような勢いを取り戻すことは出来ず、古例となっていた小豆粥の清水を京都御所に献上していたことまでもが、明治期の〝献上物廃止令〟により途絶え、金勝寺は山科毘沙門堂門跡の兼帯となり廃寺の運命をたどることになる。加えて仏供田30石と境内山林は上地とされてしまい、全くの〝無録の寺〟となってしまった。その窮地を救ったのは〝治圓法印〟”であり幾多の考えの下で欺き、往時の法令に基づいた手続きを経て、寺領の一部を金勝村に譲与するという訴願の提起により下戻、再興の芽が兆し現在に至っている。

建物の歴史はこの様な経歴ではあるが、仏像は殆ど近隣の廃寺となった元寺院から持ってきて安置したものだとされている。この辺りの話は定説がなく廃寺から仏様を持って来て御本尊とすることは、界隈の寺院でも同じようなことが言われており、特段驚くものでもないことである。奈良時代の創建にも関わらず苦難の連続であった金勝寺だが、今もやはり運用面では安泰というものではない様子。そのような背景もあり〝紅葉ライトアップ〟等のイベントで集客を募っていると言われれば疑う余地もないように思える。しかし神社仏閣とも左手団扇では済まないのが現実であろう。全国的な知名度があるところであれば、イベントを行うにも企業レベルでの協賛が入るのであろうが、湖南エリアの名刹とは言え〝知名度の低さ〟は否めない金勝寺故苦労して作り上げたライトアップであることは肌で感じることが出来たように思える。祝日でも〝穴場的〟な寺院であることも分かり、また来年も訪れてみたいと思った私であった。

本堂に参った後は御香水館に向かう。お寺らしくない堂宇名であるが、ここで汲み上げた“御香水”を明治期迄京都御所に持参していた〝場所跡〟であることを知る。そのまま順路を進むと〝何もない広場〟に行き着く。大講堂跡は〝金勝寺遺跡〟とも呼ばれる金勝寺創建時代の遺構である。元々金勝山一帯に別院を構えていた歴史もあるため、この様な遺構があるのも頷けるのだが、あくまで置かれている〝礎石〟は復元に当たって配置されたものであり往時のものではない。この場所が〝大講堂跡〟とされた経緯も、奈良時代から平安時代初期の遺物が多数出土したという〝状況証拠〟しかないようにも由来書に書かれているようにも思えなくもない。真っ暗で照明も点いていない場所故、そんな場所なのだと真っ暗な中写真だけ撮影して順路へと戻ることにした。

金勝寺遺跡が標高の最も高い位置にあり、後は下って歩いて行く。虚空蔵菩薩堂は昭和の建造物。しかし堂内には平安時代の作とされる〝虚空蔵堂半跏像〟〝毘沙門天立像〟〝地蔵菩薩坐像〟という三像が安置されている。やはりその御姿は〝荘厳そのもの〟だと思えるものであった。昼間だったらベストポジションを探そうかとウロウロするが、暗い場所故にひっくり返ったら大変であるためにゆっくり降りて行く。倉庫を兼ねた庫裏を横目に歩いて行くと仁王門下で行き参道と合流し、金勝寺を一周してきたこととなる。

仁王門から志納所迄は下り坂となる。人が少なくなった関係で、参道をはじめ仁王門付近にも人影は見当らない。シャッターチャンスとばかりに改めて景色をカメラに収めながら歩いて行く。金勝寺最深部に辿り着くと、苦手なカメラヲタクが蘊蓄を振りまいている。機材が良くても腕がないと良い写真は撮れないよ~と心の中でボヤきながら最後の石段を上り志納所へと帰ってきた。

多分金勝寺の紅葉ライトアップ巡りに掛かる所要時間は、私のようにのんびりと歩くタイプでも1時間強で充分であった。ライトアップアップイベントとしてはこれ位ではあるのだが、軽登山道にもなっている金勝山にはやはり奈良時代の作とされている〝狛坂磨崖仏〟もある。湖南地区にはかなりの数の磨崖仏があるとされてはいるが、その中でも〝有名処〟のひとつである。一度アプローチを試みたことがあったが、場所がわからず断念した。しかし今回の金勝寺参拝で林道の存在と行き着く先が分かったので、雪解けした頃に改めて訪れたいと思った私であった。

車に戻り次の目的地を目指して出発することにした。距離にして45km離れている東近江市にある〝瓦屋禅寺〟が次の目的地である。こちらの紅葉ライトアップは21:00迄であり、ちょっと金勝寺でゆっくりし過ぎたかなと思いつつ走って行く。ただ〝コレ〟というルートがなく、再び高速利用のコースを辿ることにした。栗東IC迄国道1号線を走り、名神高速道路を走る。途中菩提寺PAで一休み入れた後、八日市ICで下りた後は国道421号線等を走り瓦屋禅寺に辿り着いたのは20:45。時間の関係で蘊蓄をたれる前に先に参拝ということで急ぎ気味に歩いて行った。

ここ瓦屋禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。寺伝によると開基は聖徳太子とされている。ただ創建が平安時代中期とされており時間的なズレがあるが、聖徳太子が開基された後に亡くなった頃からは記録もなく、荒廃していたのではとされている。瓦屋寺の中興は源仁僧都の手に依るものとされており、その際に東大寺末寺として華厳宗となった。その際に伽藍を再建し〝瓦屋寺〟として再興、一山僧房二十四宇と宗徒十六口を数えたと〝東大寺三綱記〟には記されている。

しかし戦国時代には天台宗寺院となっていたようで、近江の天台宗寺院の大多数が戦火によって消失したことに例外にはならなかった。織田信長の〝六角攻め〟の戦いのひとつである〝箕作城の戦い〟の折、織田方の羽柴秀吉の軍勢により火が放たれ寺院は焼失した。辛うじて千手観音像と四天王像は焼失を免れたものの、以降江戸時代文禄年間迄荒廃したままだったと言われている。二度目の中興の祖となったのは松島瑞巌寺中興開山雲居希膺禅師の高弟である香山祖桂禅師であった。禅師は荒廃した瓦屋寺の姿を嘆き再興を誓ったとされている。師である雲居禅師の篤志者であった福原茂右衛門を願主に彦根藩井伊家次席家老庵原朝真より内陣法器等を備え釣鐘堂を建立し臨済宗妙心寺派の一寺とし〝瓦屋禅寺〟として中興させ現在に至っている。なぜ松島瑞巌寺の禅師が関係するのかという理由は、瓦屋寺のある旧八日市に奥州伊達家の飛び地がある関係であったためである。瓦屋禅寺中興事業に携わった香山禅師はその後亡くなるまでの50年間をここ瓦屋禅寺で過ごされたそうだ。

疫病にご利益がある千手観音像は、四方より修行僧が訪れその教えは広く伝わって行った。この千手観音像は聖徳太子が斧で一刀したものと伝わっているのだが、そもそも聖徳太子と瓦屋寺の繋がりは、四天王寺建立の際に用いる〝瓦〟に山中の土が適した粘土質であったためである。106,000枚という大量の瓦を作り、太子の観音像が置かれた場所故に〝瓦寺〟と名付けられた寺院が〝瓦屋禅寺〟となって、現在参詣することが出来るようになっているのである。その千手観音像は〝流行り病〟に大変霊験あらたかになることから、全国各地より参詣者が溢れている。その中のひとりであった越後の酒屋〝水野五右衛門〟がいる。娘が天然痘を患ったことを嘆き、瓦屋寺で祈祷を受けたところたちまち回復した。そのことがきっかけとなり水野家の篤志を受け、現在の本堂が江戸時代中期に再建されたと伝わっている。そんな時代に近江西国第18番霊場に指定され、その後も聖徳太子霊跡第30番、近江聖徳太子霊跡の札所に指定され、多くの参詣者が訪れ賑わっている。今は臨済宗妙心寺派の寺院となってはいるが、この界隈東近江市には〝聖徳太子ゆかりの寺院〟が沢山あることが知られており、現在太子人気で〝巡り旅〟が流行っているそうだ。

取り敢えず時間がないので拝観を始める。駐車場にも紅葉等の紅葉している木々があり、そちらもしっかりとライトアップされている。やはりライトアップされている参道階段を歩き、寺院へと向かう。最初に出迎えてくれる宝篋印塔もライトアップの光を浴びて趣を醸し出している。そしてその隣には竹灯りがあった。竹筒の中に証明を入れて、刻まれた模様が浮き出るオーソドックスなものではあるが、周辺の紅葉がマルチカラーに照らされているために引き立てられている。ちなみにマルチカラーとは言っても写真が黄色い照明ばかりに見えてしまっているのは、フィルムを利用して長時間露光した故の結果であるために仕方がない。

時間との争いとなっているために、手当たり次第にライトアップされている紅葉をカメラに収めながら本堂へと向かう。本堂参拝はライトアップ時間帯には拝観できない旨が記載されてはいたが、そのようなことを気にする時間もない。ただ本堂屋根に映し出されるプロジェクションマッピングが素晴らしい。同じ様なことをしている施設はあるのだが、ここ瓦屋禅寺は〝本堂〟というひとつの建物をスクリーンとして行っているため、堪能出来る場所が限られているために建物を取り巻くライトアップされた紅葉がアクセントを加えている様な趣があり、一体感を凄く感じる場所となっているようだった。尤も雰囲気を楽しめるような時間的な余裕もなく、人が写り込んでしまうような状況下でカメラに収めることしかできなかったのは少し残念であった。

本来ならば入山料800円を納める必要があるのだが、どこで納めるのかわからず、取り敢えず行けるところまで行った結果が本堂であった〝だけ〟という理由だったのだが、本来ならば21:00迄がイベントタイムだったことを考えると、入山時刻そのものがタイムオーバーだったのかも知れない。ほぼ最後の参拝客であったであろう私ではあったが、これ以上滞在することも気が引けるので、後ろ髪引かれる思いで駐車場へと戻って来た。ここで既に21:00を過ぎていたのだが、車が停まっていることでライトアップを継続されており、短いながらも十分堪能できたように感じた私であった。勿論高速を利用してまで訪れた場所故に記録できるものはしっかりと記録した。頃合いを見計らって出発したのが21:21と記録しているために20分程長居をさせて頂けたことになる。今年はライトアップ期間中に再訪が叶わないために、来年もライトアップをされるのであれば是非訪れたいと思いながら車を出発させた。

そこそこ標高のある瓦屋禅寺を出発し山道を下って行く。途中木々の隙間から東近江の夜景を見ることが出来る場所があるのだが、ライトを消してエンジンをかけたままのプリウスが停まっている。なにをしているのか気持ち悪く思え、そのまま下って行くことにした。多分行きとは違う道を進んで行ったようで、途中太郎坊宮に立ち寄った。近江鉄道の駅名にもなっているメジャーな場所ではあるが、正式には阿賀神社というらしい。こちらでは一部手水舎付近に照明がついているだけで静けさが漂っている場所であったが、駐車場からの東近江市の夜景を堪能できるものとなっている。そこから眺める夜景はまさに圧巻。とは言え東京のような〝街〟ではないので、ローカルな夜景のレベルではあるが、戦時中に陸軍の飛行場が作られた八日市の街、その滑走路らしき不自然な直線があることに気付く。以前八日市の戦跡として巡ったことはあるが、近場から眺めるだけでは良くわからなかったのが事実である。そういった意味ではここから眺めた景色でその遺構が確認できたように思う。少しの時間ではあったが太郎坊宮の参拝と夜景を眺めて帰路に着くことにした。

帰りはいつも通り下道を走って行く。国道421号線〝八風街道〟を近江八幡友定町まで出た後に国道8・1号線を走ること1時間程で自宅に到着する。頭の中に描いていた距離感がだいぶ現実とは異なっており、時間的にキツかったことが反省点でもある。もしある程度の距離がある東近江界隈のイルミネーションやライトアップを楽しむのであれば、エリアの違う場所を選ばずに、同一市区町村で固めるべきだったなと反省した私であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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