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最澄が建立した神社とは?

  • 5.0
  • 旅行時期:2023/11(約7ヶ月前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

湖東三山・多賀・東近江 クチコミ:17件

瓦屋禅寺への道程の途中にある太郎坊宮。正式には阿賀神社というが、駅名にもなっている太郎坊宮の通称名で知られている。聖徳太子が四天王寺建立の際に木や瓦に用いる土を得るために創建した瓦屋寺、それとほぼ同時期に箕作山の一峯である赤神山に正哉吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る社を建立、赤神山の名前から阿賀神社と称したという伝承が創建の由来と阿なっている。

平安時代に天台宗の祖である最澄が、阿賀神社の神徳に感じ入って薬師如来を本尊とする成願寺を阿賀神社の神宮寺として麓に建立した。その際に修験道の大成者である役行者の兄弟子であり、ここ赤神山に住んでいた天狗の太郎坊が山上に現れて、この地に一宇を建立するように最澄に告げ、山の守護神としてその建立を手助けしたというのが太郎坊宮と呼ばれるきっかけとなっている。阿賀神社と天台宗の成願寺はやがて神仏習合し、多くの社殿・僧坊が建立されると、薬師如来の縁日であった8日に市を開いていた八日市の町も発展していき、隆盛を極めるようになる。成願寺は阿賀神社境内の最高所に奥之院を作り、そこに太郎坊大権現像を祀るようになると、阿賀神社は成願寺の管理下に置かれることとなり、名称も両者を合わせて太郎坊宮と呼ばれ修験道の霊場になっていった。

戦国時代には瓦屋寺同様織田・六角の戦いに巻き込まれて炎上。阿賀神社は程なくして再建されたが、成願寺は遅れて江戸時代の寛永17(1640)年に宝寿院行承と弟子の祐盛が本堂と鐘楼を建立してようやく復興した。しかし以前程の繁栄は戻らなかった上に赤神山一帯の入会地を巡って村民と対立し、幕府が介入する事態となる。その結果阿賀神社の神主は村人・氏子が一年ごとに新しく任命し派遣する当番神主制が採用されることとなり、阿賀神社は成願寺の管理下から離れることとなった。その後江戸時代中期には成願寺が奥之院にあった太郎坊大権現像の他にいくつかの仏教関係の宝物を麓の成願寺本堂に移して太郎坊大権現と称することにした。対して阿賀神社は成願寺の元奥之院を新たに阿賀神社の本殿に改め〝太郎坊宮〟と称するようになった。ここに、いまだ神仏習合の形態ではあるが阿賀神社と成願寺は分かれる事となる。

明治維新の神仏分離によって阿賀神社と成願寺は完全に分離する。明治5(1872)年には修験道が廃止され、明治9(1876)年になって太郎坊宮という名称は規制を受けることとなり、正式名称を阿賀神社とする。しかし使い慣れた名称が使われるまでさほど時間はかからず、数年後には通称としての〝太郎坊宮〟が使われるようになり現在に至っている。

場所が場所だけに聖徳太子所縁の場所ということは理解できるが、いくら神仏習合の下とは言え最澄の名前が出てくることはびっくりした。太郎坊宮の参道は山の麓から石段で上って来るしかなかったのだが、昭和32(1962)年に〝太郎坊産業道路〟なる車で走れる道路が陸上自衛隊によって作られ、手軽に参拝できるようになっている。なおこの道路は、後に瓦屋禅寺まで延長され、聖徳太子所縁のふたつの神社仏閣が繋がることとなった。

訪れた時間が夜だったこともあり、あまり奥にも入れず足元が確認できるエリアに留まった。だが駐車場から眺めることが出来る東近江の夜景は素晴らしいの一言に尽きるものであり、それだけでも訪れる価値があると思われる。昨年は太郎坊宮でもライトアップが行われたと記載されてはいたが今年は行われなかった。もし来年開催されるならば、昼間も含め再訪したいと思った私であった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
瓦屋禅寺から車で5分。
人混みの少なさ:
5.0
訪れた時には誰にも会わなかった。
バリアフリー:
4.0
足元はあまり良くはない。
見ごたえ:
5.0
昼間ならば…でも夜景は素晴らしい。

クチコミ投稿日:2023/12/16

いいね!:9

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