2023/10/09 - 2023/10/24
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kawausoimokoさん
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ベルリンのペルガモン博物館が4年間の完全休館に入る前に滑り込みで行ってきました。
ついでにドレスデン、プラハ、ウィーンの美術館も巡ってきました。
今回の旅でも、各美術館の展示内容について事前の調査が不十分だったため、観られなかった作品がいくつかありました。
その代わりに予期せぬ企画展に出くわしたり、思わぬところでお気に入りの作品に出会ったりし、何より歴史を再認識する旅となりました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- LOTポーランド航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
2023年10月11日(水)(Day3-1)
今日は博物館島(Museumsinsel)を訪れ、先ずはペルガモン博物館を見学します。
ベルリン中央駅から地下鉄U5に乗って4駅、6分で到着しました。
博物館島の駅はスタイリッシュで、ホームもお洒落です。 -
U5「Museumsinsel」から地上へ
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地上に出るとシュプレー川の川岸でベルリン大聖堂が見えます。
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Museumsinsel 模型(北が下になっています)
19世紀当時、シュプレー川の中州にはプロイセン王国のベルリン王宮があり、周辺にはベルリン大聖堂、ベルリン市庁舎などがあるベルリンの中心地でした。
この中州の北半分(この模型では下の部分)は元々住宅地でしたが、1830年、当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の命により、この地に旧博物館(Altes Museum)が建設されました。 -
Museumsinselの案内板(北が下になっています)
1841年、後継者のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、この中州を含む地域一帯を「芸術と科学」に関する地域と定めました。
その後の100年のあいだに、
新博物館(Neues Museum)
旧国立美術館(Alte Nationalgalerie)
ボーデ博物館(Bode Museum)
ペルガモン博物館(Pergamonmuseum)
が開館しました。
第二次世界大戦中の度重なるベルリン空襲で、博物館島は甚大な被害を受け、コレクションの一部はソビエトとアメリカによって持ち去られました。
戦後、コレクションは東西ベルリンにそれぞれ返還されて別々に管理されていましたが、1990年の東西ドイツ統合後、博物館島を含むベルリン美術館の組織とコレクションは統合整理され、現在もリノベーションが行われています、 -
旧博物館(Altes Museum)
1830年に19世紀ドイツを代表する建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルの設計によって建築されました。
第二次世界大戦では甚大な被害を受け、修復後、1966年に再開館しました。
1階に主に古代ギリシャコレクションが展示されており、現在行われている博物館島の再編工事が完了するまで、2階は臨時の展示室になっています。
残念ながら、今回は時間が足りなくなってしまい見学しませんでした。
ウクライナの旗が翻っています。 -
旧国立美術館(Alte Nationalgalerie)
銀行家で美術品収集家であったヨハン・ハインリヒ・ヴァーゲナーのコレクションの遺贈を受け、1876年に開館しました。
第二次世界大戦による被害の修復後、1950年に再開され、東西ベルリン統一後の1992年よりリニューアル工事のため再度休館、2001年から19世紀絵画の展示館として再スタートしました。
ウクライナの旗が翻っています。 -
新博物館(Neues Museum)
1859年に開館し、第二次世界大戦の空襲によって博物館島の中でも最も甚大な被害を受け、戦後長らく廃墟となっていました。
修復工事完了後、2009年に再スタートし、エジプト部門と先史・初期歴史博物館部門の展示が行われています。
ここにもウクライナの旗が翻っています。 -
ボーデ博物館(Bode Museum)
博物館島の北端に位置するドームのある建物で、1904年に開館し、リニューアル工事後、2006年に彫刻コレクション、古代ローマ末期・ビザンティン部門、貨幣部門の美術館として再スタートしました。
この博物館は、当初カイザー・フリードリヒ博物館と称していましたが、1956年にヴィルヘルム・フォン・ボーデの功績を記念してボーデ博物館と改称されました。 -
Hektor Köpf の像 : Markus Lüpertz
ボーデ博物館前のモンビジュー橋の突出部にある面白い像です。
この像はマルクス・リューペルツ作の「ヘクター・ケープフ」で、2014 年に建てられたそうです。
自転車に乗った通勤途中の博物館の工事関係者から声をかけられ、少しお話をして写真を撮っていただきました。 -
ジェームズ・サイモン・ギャラリー(James-Simon-Galerie)
ジェームズ・サイモン・ギャラリーは、2018年に完成した博物館島のビジター センターです。
建物名の由来となったジェームス・サイモンは、1851 年にベルリンで生まれた裕福なユダヤ系の実業家で、ドイツにおける考古学と芸術を支援した最大のパトロンでした。
なかでもドイツ人調査隊によるメソポタミアとエジプトの発掘作業を支援し、1920年にネフェルティティの胸像をベルリン博物館に寄贈したことで知られています。 -
ジェームズ・サイモン・ギャラリーのエントランス
ペルガモン博物館(Pergamonmuseum)へは、ここから入場します。
ペルガモン博物館は、1904年に「ペルガモンの大祭壇」を含む巨大な展示品を収納するために建設が計画され、第一次世界大戦を挟んで1930年に開館しました。
2013年から博物館島基本計画の一環として改修工事を行っており、コの字形をしているペルガモン博物館で現在公開されているのは南棟だけで、2023年10月23日に全館が閉鎖されます。
「ペルガモンの大祭壇」を含み北棟の再開は 2027 年、更に全館が再オープンするのは2037年になる見込みだそうです。
完全閉館を前に、先のことは分からないので「Carpe Diem」で見学に来ました。 -
テル・ハラフ遺跡グザーナ ヒラニ宮殿跡から出土したレリーフ : 紀元前9世紀頃
紀元前10世紀頃、アラム人の小王国ビト・バヒアニの王たちはテル・ハラフに、アッカド語でグザーナと呼ばれる都市を築き、紀元前9世紀頃にカパラ王がヒラニ宮殿を建設しました。
このレリーフはヒラニ宮殿の下部を覆う石製の腰羽目板で、神々や動物が表されています。 -
テル・ハラフ遺跡グザーナ ヒラニ宮殿から出土した猛禽類の像: 紀元前9世紀頃
1899年、ドイツの外交官であり考古学者であるマックス・フォン・オッペンハイム男爵は、当時オスマン帝国の支配下にあったアラース・アル・アインの街の近くで、バグダード鉄道の敷設予定地の調査中に遺跡を発見し、1911年から1913年にかけて発掘を行いました。
第一次世界大戦で発掘は一時中断されましたが、1929年にフランス委任統治領シリアの一部となった同地で再開されました。
遺跡で発見された多くの遺物はベルリンに持ち帰られ、それらを展示収蔵するために、マックス・フォン・オッペンハイム男爵によってテル・ハラフ博物館が設立されました。
しかし、第二次世界大戦のベルリン大空襲でテル・ハラフ博物館は破壊され、収蔵されていた遺物のほとんどが損傷しましたが、後に、80平方メートル分の遺物の破片が廃墟から見つかり、ペルガモン博物館に収容されました。
2001年から損傷した遺物の修復が始まり、その一部がこうして展示されています。 -
ハットゥシャ ヤズルカヤの岩石のレリーフ: 紀元前9世紀頃
ハットゥシャは、現在のトルコのボアズカレ近郊にあり、紀元前17~13世紀頃に繁栄したヒッタイト帝国の都でした。
ヤズルカヤはハットゥシャの門から歩いて行ける距離に位置していた神聖な場所で、岩石の露頭群の中に2つの儀式用の建物跡とレリーフ群が発見されました。 -
ハットゥシャ チャトゥスキリ王のレリーフ : 紀元前9世紀頃
1882年、ドイツのカール・ヒューマンがレリーフの石膏型を取ってベルリンに持ち帰り、ここに展示されています。 -
サムアル城門のライオン像 : ゲルシン 紀元前10~8世紀
サムアルは、ヒッタイト滅亡後にアラム人が興した都市国家で、現在のトルコのジンシルリ郊外のゲルシンにあります。
サムアル城門の入口の両側にあったこのライオン像は、ドイツ東洋委員会が1888年~1902年に行った調査発掘で発見されました。 -
天候神ハダドの巨大像 : ゲルシン 紀元前775年
天候・嵐・雷の神で、1895年~1896年にドイツ東洋委員会がサムアルで調査発掘した際に、発見されました。 -
アッシュールの建国碑文 : アッシュール 紀元前13世紀
トゥクルティ・ニヌルタ1世は中アッシリア王国時代のアッシリアの王で、紀元前1235年頃バビロニアを征服し、更に、ヒッタイトを制圧しました。
その後、アッシュール近郊に新都カール・トゥクルティ・ニヌルタを造営し、女神イシュタル神殿に建国碑文を収めました。
建国碑文には、バビロニア征服を始めとするトゥクルティ・ニヌルタ1世の英雄叙事詩が刻まれており、碑文の最後には「私の碑文と名前を消し去るものは、イシュタル神に罰せられる」と記されているそうです。 -
アッシュールの法律表 : アッシュール 紀元前12世紀
中アッシリア時代に中アッシリア法典と呼ばれる法律文書が作成されており、これは発見されている中ではアッシリア最古の成文法による法律表だそうです。
女性に関する規定が多く、男性が女性に対する際に取るべき作法や取ってはならない行動が規定されているほか、女性の衣服やヴェールについて細かく規定されています。
女性の衣服はその女性が属する階級によって細かく規定されており、既婚、未婚の女性や上流階級の女性はヴェールを着用しなくてはならず、逆に女奴隷や娼婦はヴェールの着用を禁止されていました。
これらは女性が男性の保護下にあるか否かの判別を目的としており、婚姻に際しては男性が女性にヴェールを被せるという儀式が行われたそうです。 -
アッシュールナツィパル宮殿の展示室の入口
宮殿を再現した展示室の入口には、人頭有翼獣(ラマッス)のレプリカが置かれています。
ニムルド遺跡の最初の発掘は、1845年から1851年にかけてイギリスのオースティン・ヘンリー・レヤードによって行われ、アッシュールナツィルパル宮殿跡とアラバスターや石灰岩の石碑、また、宮殿の入口に二体一組で置かれた巨大な人頭有翼獣(ラマッス)が発見されました。
その後、レヤードの助手であったアッシリア人ホルムズド・ラッサムを始めとして多くの考古学者、地質学者によってニムルド遺跡の発掘が行われ、楔形文字が刻まれたレリーフ、石像、象牙の彫刻などが数多く発見されました。 -
アッシュールナツィパル宮殿の門のラマッス像 (レプリカ): ニムルド 紀元前9世紀
ラマッス像の多くは、雄牛やライオンの体と鳥の翼を持ち、邪悪な存在を追い払って都市や宮殿を守ると考えられていました。
ラマッス像は合計10体が発掘され、最初に発掘したオースティン・ヘンリー・レヤードによって1847年にロンドンへ持ち帰られたものが大英博物館に展示されています。
このラマッス像は大英博物館に展示されているもののレプリカです。
ラマッス像はルーブル美術館、メトロポリタン美術館等にも展示されています。 -
アッシュールナツィパル宮殿の宮殿レリーフ : ニムルド 紀元前9世紀
王の権力を表す重要な儀式であったライオン狩りをするシーンです。
アッシュル・ナツィルパル2世は紀元前9世紀頃の新アッシリア帝国の王で、大規模遠征行って小アジアからユーフラテス川の間までを征服しました。
遠征の様子と征服した地域で反乱がおきると残酷に対処したことが記された楔形文字のレリーフが多数出土しているそうです。 -
アッシュールナツィパル宮殿の宮殿レリーフ : ニムルド 紀元前9世紀
王の特権であるライオン狩りは、王がライオンや外敵から人民や家畜を守る儀式として行われ、王の権力を象徴しています。 -
アッシュールナツィパル宮殿の宮殿レリーフ : ニムルド 紀元前9世紀
ライオン狩りを記したレリーフには、「ニヌルタ神とネルガル神が野獣を放って余に狩りを命じたので、30頭の象を罠にかけ、257頭の野牛を戦車から攻撃し、そして、370頭のライオンを槍でしとめた」と楔形文字で記されています。
大英博物館の有名な「アッシュルバニパル王のライオン狩り」はアッシュールナツィパル王の約200年後になります。 -
アッシュールナツィパル宮殿の壁面レリーフ : ニムルド 紀元前9世紀
有翼人面の善霊が王を祝福しています。 -
アッシュールナツィパル宮殿の壁面レリーフ : ニムルド 紀元前9世紀
有翼鷲頭の精霊が王を祝福しています。 -
センナケリブ王の水槽 : ニネヴェ 紀元前7世紀頃
新アッシリア帝国のセンナケリブ王から奉納された、玄武岩をくり抜いて作られた儀式用の水槽です。
紀元前8~7世紀、新アッシリア帝国センナケリブ王はバビロニアやエラムを征服し、首都をニネヴェに遷して多数の神殿と巨大な王宮を建設しました。
また、センナケリブ王はユダ王国を侵略し、この時の戦いではエルサレムは陥落しませんでしたが、このアッシリア軍によるエルサレムの包囲戦は旧約聖書にも記されているそうです。
センナケリブ王は年下の息子エサルハドンを後継者に指名したことことから、それを恨んだ年上の息子アルダ・ムリッシに暗殺されました。 -
エサルハドンの戦勝記念碑 : ジンシルリ 紀元前671年
エサルハドン(在位 紀元前680年~ 669年)は、新アッシリア帝国の第3代の王で、紀元前671年にエジプトを征服し、父であるセンナケリブ王が破壊したバビロンを再建しました。
これはエサルハドン王のエジプト征服を讃える石碑で、大きく堂々としたエサルハドン王と、捕虜となったエジプトのタハルカ王とシドンのアブディ・ミルクティ王が縄をかけられて跪く姿が小さく彫られています。
側面には、エサルハドンの二人の息子が彫られており、エサルハドン王の後継が、大英博物館に展示されている「ライオン狩り」で有名なアッシュルバニパル王です。 -
紀元前6世紀頃のバビロンの模型
バビロンは、バビロニア帝国の首都であり、バビロニア帝国は時代を隔てて二度にわたり、この地域を支配しました。
最初の支配は紀元前19世紀から紀元前15世紀にかけてで、ハンムラビ法典で知られるハンムラビ王が紀元前1757年頃アッシリアを征服してメソポタミア地方を統一し、バビロニア帝国の黄金時代を築きました。
二度目の支配は紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけてで、新アッシリア帝国の支配下にあったバビロニアは近隣の諸民族と連合して戦い、アッシュルバニパル王の死後に起った内戦で弱体化していた新アッシリア帝国を滅ぼしました。
新バビロニア帝国の王ネブカドネザル2世(紀元前604~紀元前561年)は、ユダ王国(南王国)の首都エルサレムとその他の都市を征服しました。
ユダ王国はその後しばらくは独立国としての存在が許されていましたが、最終的にはエジプトと結んでバビロニアと対抗しようという企てが露見し、紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは首都バビロニアへ連行され、その他の人々は新バビロニア帝国各地の再建事業に従事させられました。
古代オリエント社会では、反乱の防止や職人・労働力の確保を目的として、被征服民の強制移住は頻繁に行われており、紀元前587年頃から紀元前578年までに4回にわたって行われたユダヤの人々の強制移住は、「バビロン捕囚」と呼ばれています。
ネブカドネザル2世は、帝国全体を再建し、バビロンにマルドゥク神殿を始めとする巨大建造物を建設し、バビロンの8つの門の中で最も有名なイシュタル門を建設しました。
バベルの塔の物語は、移住先のバビロンの多層式建築物(ジッグラト)を見たユダヤの人々の記憶に由来するという説があります。
ユダヤ民族は紀元前586年にユダ王国が滅ぶと、その後、わずかな期間を除いて、1948年のイスラエル国として独立宣言するまで、独立国を持つことありませんでした。 -
アッシリアに関連した都市と国の位置関係
(From Wikimedia Commons, the free media repository) -
バビロンのイシュタル門
紀元前575年、新バビロニア帝国のネブカドネザル2世によって、バビロンの中央北入口に、愛と戦争の女神であり王朝と軍隊の守護者でもある女神イシュタルに捧げるためにこの門が建設されました。
バビロンでは年に一度、農耕年の始まりを告げる宗教的な祭典の一環として、神々の像を運ぶ行列がユーフラテス川から寺院地区と宮殿を通ってイシュタル門へと続く小道を練り歩き、12日間の儀式が行われました。
イシュタル門には、女神イシュタルの象徴であるライオン、神々の主マルドゥク神のムシュシュ(竜)、嵐の神アダドのオーロックス(雄牛)などのレリーフがデザインされ、古代に崇拝されていたラピスラズリを表す青い釉薬レンガで覆われていました。 -
バビロンのイシュタル門
1899年から1917年まで、ロバート・コルデウェイ率いるドイツ東洋協会のチームは、バビロンのイシュタル門周辺の発掘調査を実施し、イシュタル門の破片と数百の粘土板を回収してドイツに運びました。
コルデウェイの同僚であるウォルター・アンドレーは、回収された破片と粘土板を再構築し、1930年にモザイクで彩られたイシュタル門を復元しました。
19世紀以降、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアなどの国々は、競ってバビロンの発掘調査を行って発掘した遺物をそれぞれの国に持ち帰り、中には途中で行方不明になったものも少なくありませんでした。
イシュタル門のモザイクが、現在ヨーロッパ諸国を含む世界中の多くの美術館で所蔵されているのは、こうした経緯があるからだそうです。 -
イシュタル門と王の間のファサード
イシュタル門には神々の主マルドゥク神のムシュシュ(竜)、嵐の神アダドのオーロックス(雄牛)のレリーフがあります。
イシュタル門の両側には、バビロンの南宮殿にあった王の間の正面を飾った長さ56mのファサードが再現されています。 -
王の間の外壁ファサード
両側の外壁ファサードはシンメトリーになっています -
マルドゥク神の霊獣ムシュフシュのレプリカ
マルドゥク神の霊獣ムシュフシュ(Mushhushshu)は、胴体が鱗に覆われ、ライオンの前足、ヘビの舌、鷹の脚、頭には角があります。 -
行列通り
イシュタル門から続く通りは「行列通り」と呼ばれ、通りの両側には女神イシュタルを象徴する約120頭のライオンと、雄牛、竜、花が描かれた壁が並んでいたそうです。 -
行列通り
女神イシュタルの象徴であるライオンは、東側は左足が前で、西側は右足が前になっていました。 -
行列通り
女神イシュタルの象徴であるライオンは、東側は左足が前で、西側は右足が前になっていました。 -
行列通り
各ライオンは、11列に配置された46個の成型レンガで作られていました。 -
イシュタル門の破片が入れられていた木箱
バビロンからベルリンへと、イシュタール門の破片は536の木箱で運ばれ、この木箱はその内の1つだそうです。
サダム・フセイン時代にイラクのバビロン遺跡に復元されていたイシュタル門のレプリカは、イラク戦争時に米軍とポーランド軍、多国籍軍が駐留した結果、激しく損傷し、現在、イラク政府はイシュタル門の返還をドイツに繰り返し要請しています。
文化的遺産は、本来どこにあるべきなのか?
どこにあればより安全なのか?
という問題を象徴する木箱です。 -
ミレトスの市場門
西暦2世紀のローマ帝国ハドリアヌス皇帝の治世中に、ミレトス南部の市場(アゴラ)への入り口の門(市場門)として建設され、幅約30メートル、高さ16メートル、深さ5メートルの大理石の2階建て構造で、3つの出入り口があります。
門は地震による被害を受けて3世紀に修復され、538年の改修の際には城壁内へ組み込まれましたが、10世紀または11世紀頃の地震によって破壊されました。 -
ミレトスの市場門
1903年、ドイツの考古学者テオドール・ウィーガンドがミレトスの市場門を発掘し、門の破片はベルリンへ運ばれました。
カイザーヴィルヘルム2世の命により、1925年からペルガモン博物館で門は再建されました。
この門の再建では、一部を非オリジナルの資料を基に再構成したにもかかわらず、それらをオリジナルとしたことが途中で発覚し、一時物議を醸したそうです。
この門もまた、大戦中のベルリン大空襲で破損しましたが、1954年に修復されたそうです。 -
ペルガモンのトラヤヌス神殿の列柱廊
ペルガモンのアクロポリスの丘には、紀元2世紀半ばにローマ皇帝ハドリアノスが前皇帝トラヤヌスを讃えて建造したトラヤヌス神殿がありました。
神殿は周囲をコリント式の列柱に囲まれた建築物で、3方を回廊が囲んでおり、これはその回廊の一部を再現したものだそうです。 -
ペルガモンのトラヤヌス神殿の列柱廊
欄干には「トラヤヌスとハドリアヌスの頭部像」が置かれています。
右はローマ皇帝トラヤヌス、左はトラヤヌスの後継者ハドリアヌスです。 -
ミレトスのモザイクの床
市場門と列柱廊の間には、2世紀頃のギリシア神話の吟遊詩人「オルペウス」のモザイク画があります。 -
ミレトスの模型
ミレトスはエーゲ海をはさんでギリシア本土の対岸に位置するアナトリア半島西海岸(今のトルコ)にあり、紀元前6世紀頃からギリシア・イオニア系のポリスの中でも最も栄えた都市のひとつでした。
紀元前494年にペルシャに征服されましたが、紀元前334年頃にマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征でミレトスはペルシャから解放され、自治を許されました。
ローマ時代になるとローマ帝国の属州となり、港湾都市として栄えました。
しかし、その後、土砂堆積により海岸線の後退が進んで港湾機能は徐々に失われてゆき、東ローマ帝国の時代になると港湾機能は完全に失われて衰退しました。 -
ムシャッタの宮殿ファサード : 743 ~ 744 年頃
このファサードは、初代イスラム王朝であるウマイヤ朝、カリフ アル ワリド 2 世 (743 ~ 744 年) の時代のムシャッタ宮殿の一部で、冬の住居や倉庫として使われていたと考えられています。
ウマイヤ朝が滅亡した750年時点でムシャッタ宮殿は未完成だったとされ、宮殿はその後の地震より倒壊し放棄されました。
1840 年、現在のヨルダンの首都アンマンの南約 230km で発掘されたムシャッタ宮殿のファサードは、オスマン帝国からドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世へ贈られました。
1932 年に2 つの塔と中央ポータルの一部を備えた長さ 33 メートル、高さ 5 メートルのファサードとしてペルガモン博物館に再建されました。
見学した時点ではリニューアル工事に合わせて既に移転修復作業に入っていました。 -
ムシャッタの宮殿ファサードの移転修復計画
ムシャッタの宮殿ファサードは425個のオリジナルの石と102個のレプリカで構成されており、これらは洗浄された後に、現在とは反対側の南棟に復元されるそうです。 -
アレッポの部屋 : 1601年頃
1601 年頃に当時有数の商業都市だったアレッポのイーサー・ブン・ブトルスはキリスト教を信仰する裕福な商人で、彼の自宅の応接間の壁が再現されています。
化粧張りの壁には、「聖母マリアとその子」「最後の晩餐」「ヘロデの前で踊るサロメ」といったキリスト教のモチーフがイスラム写本芸術の様式で描かれており、友人や親戚だけでなく、異なる宗教を信仰する商人仲間や知人をこの部屋に招き入れたそうです。 -
コンヤのミフラーブ
現在のトルコのコンヤのモスクにあったミフラーブです。
ミフラーブはメッカのカアバ神殿の方向を示す窪みを言うそうで、ミフラーブがあれば、それはモスクなのだそうです。 -
カシャーンのミフラーブ
現在のイランのエスファハーン州にある古都カシャーンのモスクのミフラーブです。 -
ジェームス・サイモン・ギャラリーのカフェ
ペルガモン博物館を出て、ジェームス・サイモン・ギャラリーに併設されたカフェのテラスで一息入れます。
肥沃な三日月地帯の遺物と歴史を一気に見学してしまった疲れで、頭がぼーっとします。
文明が興こり、都市が築かれ、文化が花開き、争いが起こり、破壊され、そしてまた、都市が築かれて・・・これらは幾度となく繰り返されて今に至り・・・争いが続いている。
バビロンのイシュタール門を始めとする遺物を見ると、現在のガザ地区の戦火の火種は、元々は2600年前のこの時代に遡ることに思い至ります。
遥か昔の遠い国に起こったことだと思っていたことが、今生きている自分たちに関わっていることを実感します。
ベルリン大聖堂を眺めながら、ドイツが辿った歴史、博物館島の変遷、そして、遺跡・遺物・芸術に対して向けられた人間の情熱(或いは欲望)に思いを馳せます。
過去と現在が交錯するこの場所で、歴史の重みを感じます。
この先、世界はどうなってゆくのだろうか?
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この旅行記へのコメント (1)
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- 唐辛子婆さん 2024/01/10 16:04:10
- この先、世界はどうなってゆくのだろうか?
- kawausoimokoさん
>ベルリン大聖堂を眺めながら、ドイツが辿った歴史、博物館島の変遷、そして、
>遺跡・遺物・芸術に対して向けられた人間の情熱(或いは欲望)に思いを馳せます。
>過去と現在が交錯するこの場所で、歴史の重みを感じます。
世界各地で起こる争いが増えて、ほんとうにこの先どうなっていくんだらうと思います。
個人個人はみな安寧を求めているだけなのに。
唐辛子婆
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