2023/10/08 - 2023/10/08
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たびたびさん
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幸先よく始まったはずの長崎くんちの旅でしたが、二日目は雨で祭りは中断となって。。残念ですが、そうした懸念もなかったわけではないので、次善のプランとして、前回回りきれずでおいていた原爆関係の施設をいくつか訪ねることにしました。
長崎は、ポルトガルとの南蛮貿易から隠れキリシタンまでのキリスト教との関り、鎖国時代のオランダや中国との出島貿易、幕末の開港地としての顔や日本の近代化を支えた歴史といった多様なテーマがありますが、原爆の関係も大きなテーマのひとつですからね。もちろん、これまで何度も機会を設けてあちこち回ってきたつもりなんですが、それでも改めて調べてみるといくつか気にかかるところが残っていました。浦上天主堂旧鐘楼、山里小学校原爆資料室、城山小学校平和祈念館といったところは、今回初めて訪ねましたが、やっぱりそれぞれがそれぞれ。伝えようとするものは、「ノーモア原爆」だったり、「原爆の非人間性」だったり。大きく言えば同じなのかもしれませんが、その印象は違っていて、結果として、それぞれが角度を変えていろんなところの五感に響いたような感覚でした。
ちなみに、黙っていても平和は守れない。言葉に出して、行動して。やっとそれでも守れるかどうかということ。それとちょっと似たようなことかもしれませんが、原爆のことを知るということも、いろんな視点から新たな知識や情報を得て、また考える。そうした繰り返しの努力が必要なのかもしれませんね。もう分っているとか。もう知っているとか。もちろん、まったく知らないということよりはましにしても、そういうことに陥ってしまうのはあまりよくないことだなと素直に感じられたような気がしました。
そして、その中でも、特に触れておきたいと思うのは、浦上天主堂旧鐘楼にあったアンジェラスの鐘、「長崎の鐘」のこと。原子爆弾の投下により鐘楼ごと吹き飛ばされてしまった大小2つのフランス製の鐘。そのうちの大きい鐘の方が奇跡的に地中から掘り出され、早くも昭和20年のクリスマスイブには仮の支柱で再び打ち鳴らされるのですが、その後、その鐘が長崎の平和への思いの象徴となっていったというストーリーですね。始まりは、長崎医科大学の助教授だった永井隆が執筆した随筆「長崎の鐘」。被爆し重傷を負った身でありながら被爆者の救護活動を行った経験を通じて被爆直後の惨状を克明に記録した内容で、昭和24年1月に出版されると空前のベストセラーとなりました。これに続き、同年7月、永井博士の思いを歌謡曲にしたという”なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る”の歌詞「長崎の鐘」が発表されると、瞬く間に全ての戦争受難者に対する鎮魂歌として広く受け入れられることになったのは、皆さんもご案内の通りのことかと思います。永井博士は被爆で妻を亡くし、ご自身もその後、如己堂での闘病生活を経て、昭和26年に亡くなっていますが、「長崎の鐘」はカトリック教徒でもあった永井博士の思想が色濃くて、「怒りの広島 祈りの長崎」という見方もたぶんそういう面を捉えたもの。「長崎の鐘」が広く世の中に受け入れられた所以でもあると思います。
一方で、広島だと原爆の子の像、折鶴の佐々木貞子さんは祈りに近いような気もしますが、「怒りの広島」の象徴はなんと言ってもあの廃墟のような原爆ドームであり、中沢啓治の「はだしのゲン」や峠三吉の「人間をかえせ」でしょう。原爆に対する怒りというだけではなく、戦争という理不尽なものに対する怒りでもあって、それは恨みや憎しみとは違って人類にとって普遍的な価値を持つもの。悲惨な原爆体験からの反戦・平和へのアプローチという重いテーマを前にして広島・長崎は戦後それぞれに悩み苦しみながらの歩みだったと思いますが、いつの間にかその歩みは普遍的な価値を探る貴重な人類の歴史ともなっていったということかな。これからもその歩みはけっして止めてはいけないし、広島・長崎を通じた平和への思いは我々も忘れてはいけない視点なのだと思います。
たまたま出来た長崎くんちを離れる一日でしたが、また長崎の理解を深めるための一日になったと思います。
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今日は時間に余裕もあるし、こういう時は行きにくいところでもOKですよね。
ということで、やってきたのはブレッドアーエスプレッソ。朝6時半からやっているパン屋さん。8時前に行きましたが、もう何組もお客さんが並んでいて、やっぱり大人気のお店ですね。 -
ハード系のパンが多いのかな。クルミ、アールグレイのパンをいただきました。確かにハード系のパンなんですが、独特の酸味とあわせてもっちり感もあったりして、そこは単純ではないですね。なかなか味わい深いパンだと思いました。
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まずは、浦上天主堂です。
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明治12年(1879年)、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたという旧浦上天主堂は、原爆によって原形を留めないほどの被害を受けますが、これは再建された建物。赤レンガ造りの外観も蘇り、
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内部のステンドグラスも美しいです。
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冒頭に紹介した長崎の鐘は現在の浦上三天主堂の右塔に設置されているのですが、
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倒壊した浦上天主堂の鐘楼は、天主堂の敷地を少し下りて行った場所。
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イチオシ
吹き飛ばされた状態で残されていて、今でも原爆のすさまじさを伝えています。
いずれにしても、「長崎の鐘」で知られる浦上天主堂のアンジェラスの鐘が長崎の原爆で倒壊した浦上天主堂の瓦礫の中からほぼ無傷の状態で発見されたというのはここ。それが被爆者はじめ多くの人々の希望となった物語へとつながっていくということですから、やっぱりここは長崎の平和運動の原点のひとつなのだと思います。
ところで、この一角だけでなく、被害を受けた旧天主堂全体をそのまま原爆遺構として保存すべきという声は当時でも強かったよう。今は長崎原爆資料館の中で廃墟と化した旧天主堂のモニュメント展示が見られますが、確かに残されていたらどうだったでしょうか。再建か遺構保存か。また、この地は隠れキリシタンがその信仰を守り抜いた特別な場所でもあって、教会の移転も難しかったのだとか。最終的な再建の判断にはいろんな背景があったようです。 -
続いては、長崎市立山里小学校原爆資料室へ。浦上天主堂からは歩いて10分くらいです。
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資料室は、爆心地の北約700mにあった山里小学校の一角。敷地内には防空壕が被爆遺構として保存されてもいるようです。
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展示室はひと部屋で、
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被害を受けた
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長崎市街の資料や
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山里小学校の被爆後の写真、
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永井隆氏の関連など。
原爆資料館のような網羅的なものではないですが、はっきりと被害者目線に立っていて、シンプルに原爆の悲惨さが伝わってきます。
例えば、日本の平和は米国の核の傘に守られているという事実もなくはないのでしょうが、やっぱり日本は被爆国として、被害者の視点から原爆の悲惨さを伝えていく。それが原点なんだなと改めて感じさせられる施設です。 -
長崎市立山里小学校原爆資料室から、今度は城山小学校平和祈念館へ。歩いて15分くらいです。
長崎県営野球場は、その途中、平和公園の一角です。平成9年にスコアボードぐ全面電光式といった新式の最新式の球場としてオープンし、たまにプロ野球の公式戦も行われているようです。外観のデザインも特徴的。私には教会の大聖堂をイメージしたような風にも見えました。 -
小高い場所に建つ建物が旧城山国民学校校舎です。
ところで、国指定史跡「長崎原爆遺跡」は5つあって、爆心地、崖下の小川に滑落した浦上天主堂旧鐘楼、爆風により傾いた旧長崎医科大学門柱、爆風で一本柱となった山王神社二の鳥居とこの被爆校舎である旧城山国民学校校舎。 -
旧城山国民学校校舎は、爆心地の西約500m。原爆により校舎の大部分は破壊され、その後、解体もされましたが、
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北側校舎のうち階段棟の部分が残っていて、
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そこが城山小学校平和祈念館となっていました。
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建物は
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イチオシ
被害の傷跡が残っているし、
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被爆直後の街の様子から
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被害を受けた学校関係者の紹介とか
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手作りの資料も
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たくさん展示されています。
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原爆は人間の命とともに、地域の暮らしや歴史・文化まで根こそぎ破壊してしまうのが他の兵器との大きな違い。
絵本のような語り調で -
被爆前後の様子が
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描かれているシリーズも
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じっと見ているとこんなに多くの幸せが奪われたんだなあと胸が痛くなりました。
なお、ここでは紹介できない撮影不可のジオラマなんかもありますので、是非現地でご確認いただければと思います。 -
爆心地の浦上地区から戻ってきて、ここからは普通の観光。これまで見落としていたスポットとかを訪ねます。
まずは、赤い山門の崇福寺。 -
石段を上がって、見えてきたのは
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崇福寺の二の門にあたる第一峰門。
元禄8年(1695)、中国寧波から唐船数隻に分載して材を運び再建された門で、実は国宝。軒下の構造組物は、四手先三葉栱という精緻なもので、華南地方でも稀だとか。ただ、正直言えば、精緻なだけであまり美しさを感じるものではないかな。 -
精緻さから貴重なものであるというのは分からないでもないというくらいです。
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境内に入ってすぐの大雄宝殿は、釈迦(大雄)を祀る本堂に相当する建物で、
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これも国宝。正保3年(1646)、中国から部材を運び建てられました。当初は単層屋根だったものを後に二重屋根に改築。下層部分の中国建築様式に対して、新たに加えられた上層部は和様という折衷様式というのが面白いところなのですが、一見した感じでは違和感はないですね。
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しっかりした石の渡り廊下から
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内部を覗くと奥に釈迦像。
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周囲には羅漢像が並んでいて、雰囲気は中国風のお寺そのものです。
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大雄宝殿と向かいあって建つのは護法堂。
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こちらも中を覗くと
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中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天が祀られています。
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崇福寺からは、大浦天主堂、グラバー邸のエリアに移動しまして。
日栄湯は、孔子廟の隣りにある銭湯。原爆に耐えた100年銭湯ということですが、まあこの辺りは爆心地からはそれなりに遠いですからね。外観はモルタルにタイル貼り。木製の窓枠も含めて、レトロ感がムンムンですね。二階もありますけど、そこはどうなんでしょうね。住居部分なのかもしれません。 -
その通りの並びにある日本キリスト教団長崎教会は、幕末、宣教師として日本を訪れたフルベッキゆかりの教会。フルベッキが明治政府に招かれて東京に移った後も後任が英語を教えたりしていたようです。建物は被爆も経た古いもの。木造建築ですが、ちょっと威厳も感じる外観です。
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ここまで来たならせっかくなので久しぶりに四海樓の長崎ちゃんぽんをいただいてみますかね。こちらのお店は長崎ちゃんぽん発祥の店として有名。巨大で堂々としたビルの構えも素晴らしいです。
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5階からの眺めも抜群だし、店内は相変わらず大変な活気ですね。
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イチオシ
すごくおいしいというほどではないのですが、少し香ばしいところや魚介の濃厚なスープの味わいなどはやっぱり発祥のお店という格調の高さが窺えます。
やっぱり長崎に来たら一度は行くべき定番のお店かなと思います。 -
では、ここからまた街歩き。
大浦国際墓地は、文久元年(1861年)、江戸幕府がイギリス領事の求めに応じ開設した墓地。 -
長崎港で停泊中に死亡した艦船の乗組員ほか長崎で生活し、功績を残した外国人も埋葬されているよう。港町には付きものみたいなところでしょうか。
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その後、明治21年に閉鎖。現在は長崎市の管理となっていて、そこまで荒れた感じはありません。
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ここから鍋冠山公園を目指します。
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これまで気にはなっていたのですが、なかなか訪ねる決断がつかなかった場所。
今回は、ちょうどいい機会になったでしょう。 -
しかし、これがなかなかハードな行程。
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マップだと坂道があまり分からないので、もう少し楽かと思っていましたが、延々と上り道が続いてこれは相当なものですね。
途中で何度か心が折れそうになりました。 -
うーん、やっとの思いでたどり着きましたよ~
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少し古びてはいますが、
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大きな展望台があって、けっこうすごいじゃないですか。
アクセスは悪いですが、メジャー感はそれなりにありますね。 -
イチオシ
ちなみに、鍋冠山公園は、長崎湾をはさんで稲佐山の対岸。
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標高169mの鍋冠山に回廊形式の展望台が設置されていて、長崎港と長崎市街の景色を一望できるというのがウリなんですが、
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稲佐山の半分の高さなので、稲佐山よりもう少し近いところから眺めている感じがして、けっこう新鮮な感覚がありますね。
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風頭公園からの眺めと比べるとこちらの方が外洋に近い分視界が広いですしね。
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展望台を歩きながら、その眺めのよさを確認しましたが、
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確かにこれはネットの評判通りかな。
稲佐山や風頭公園に負けない魅力があって、お勧めですね。
気が付くと隣りには駐車スペースがありまして。ということは車でも来れるのかな。歩いてくるのはやめた方がいいと思いますが、タクシーで来てもそれに見合う価値はあると思います。 -
帰りは、どんどん坂の方に下りていきます。
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降りて行った辺りは、南山手地区。
長崎市には伝統的建造物群保存地区が二つあって、東山手地区とこの南山手地区。グラバー園も南山手地区に含まれるようですが、グラバー園からグラバー通りをさらに南に進んだ辺りまでのエリアです。 -
イチオシ
さて、これがどんどん坂。あんまりメジャーではないと思いますが、それでもたまに耳にする長崎市内の名所の一つ。南山手伝統的建造物群保存地区の広い石畳の通りから、海の方に向かって真っすぐ降りていく細い坂道です。細くてもちゃんと石畳になっているのがすごいところ。なかなか風情もあって確かにフォトジェニックなので、見つけた時にはちょっとしたインパクトがあると思います。
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折り返して、大浦天主堂の方に戻ります。
この南山手十六番館は、グラバー園を出てすぐのグラバー通り沿い。外から覗った感じだともう廃屋一歩手前みたいな様子ですけどね。 -
もともとは万延元年(1860)に建てられた初代アメリカ領事館員の宿泊所。玄関の円形屋根がおしゃれなデザインです。
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今日の最後は大浦天主堂から、敷地内にある大浦天主堂キリシタン博物館を拝見します。
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大浦天主堂の完成は、元治元年(1864)。日仏修好通商条約に基づき、フランス人の礼拝堂として建設されたもの。当時はフランス寺と呼ばれたようですが、この大きさと美しさは、まさに驚愕の存在だったのではないかと思います。
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そして、翌年、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に名乗り出るという信徒発見。
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これが信徒発見記念の碑です。
当時の教皇は、これを東洋の奇蹟と呼んだということですが、ただ、事はまだまだ簡単ではない。浦上四番崩れという江戸幕府、明治政府による厳しいキリシタン弾圧が続き、弾圧が解けたのは明治6年になってから。 -
イチオシ
ちなみに、明治政府になってからのキリシタン弾圧も激しいもので、浦上から津和野への流罪は今でも津和野の記憶にしっかり残っていますが、尊王攘夷の流れからくる神道統一の背景もあったもので、明治政府の混乱ぶりを示すものではないかとも思います。
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天主堂から裏手に回って
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奥に進むと
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旧羅典神学校と旧長崎大司教館の建物を活用した博物館です。
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イチオシ
入り口は旧羅典神学校の方。明治8年、大浦天主堂に隣接して建てられた洋館は、日本人司祭育成を目的とした長崎公教神学校の校舎兼宿舎だったもの。
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神学校は移転したようですが、今でもこうして活用さていて、傷んだ雰囲気はないですね。ベランダの華奢な柱もちょっと印象的です。
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日本キリスト教史を解説する展示は、いくつもの展示室が続いていて、延々とかなりのボリューム。この日は「シドッティ神父との出会い」展でしたが、相当に興味がある人じゃないと飽きてきますね。
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大浦天主堂の内部を拝見した後は、この博物館を見るのがコースになっているし、まあ仕方ないかなという感じです。
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そんなこんなで、今日も終了。
中華街で晩飯にします。 -
老李は、長崎中華街中心部の賑やかな通りではないですね。それに、階段を二階に上がっていく小規模な構え。ゆったりと中華を楽しみたいニーズには合わないかもしれません。
いただいたのは、チャーハンとラーメンと名物の水餃子がセットになった老李セット。それぞれがそれぞれにくっきりメリハリが付いた味わいで、なるほどこれは人気のはずですね。ただ、看板メニューの水餃子はショウガの香りが少しするくらい。これだけ特別おいしいというほどではないと思います。
さて、明日は再び、長崎くんち。諏訪神社での見物です。
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