2023/07/30 - 2023/07/30
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kojikojiさん
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午後2時にはバスへ戻っていましたが、添乗員さんが正確な集合時間を伝えていないので、全員が集まったのは午後2時30分でした。この2日間利用した観光バスは暑さのせいでエアコンの効きが悪く、すべてのカーテンを閉めていましたが、窓枠は焼けるような暑さになっています。祭りの終わった相馬を後にして、まずは「道の駅なみえ」に立ち寄りました。ここは2020年に出来たばかりの新しい施設ですが、東日本大震災と続く福島第一原子力発電所事故によって全ての町民が避難を余儀なくされ、一度失われかけた町でしたが復興への新しい道のりを歩み出していると感じました。おいしそうな桃が売られていて、1箱買い求めて前に並んで精算していた女性がPayPayで支払っていたので何気なく同じように支払うと、30%割引になっているうえに本人確認済みの割引などで、信じられない安さになりました。ということでもう1箱買うために並びました。1箱11個入りが3,980円でしたが、割引後は2,600円くらいになりました。これは地元の友人たちへのお土産になりました。その後バスは国道6号線を南下しますが、双葉町から富岡町に入ると車窓の風景が一変します。震災当時のまま放置されたロードサイドの店舗があの日を思い出させます。海側への道は国道6号線から向かうことも出来ない場所がたくさんありました。12年経っても何も変わっていないことにショックを受けました。東京に住んでいてテレビのニュースや新聞を読んでいても何も分かっていなかったことに気が付きます。そして次に立ち寄ったのが「とみおかアーカイブミュージアム」です。最初は富岡町の有史以前からの展示が並ぶ博物館ですが、その半分は震災の遺構と呼べるものでした。潰れたパトカーは避難を呼びかける警察官の方が2名殉職されたと知ると胸が傷みます。こういうところもちゃんと見ておかなければいけないなと思い友人たちにもLINEで写真を送りました。修学旅行の高校生や外国人の団体バスが立ち寄っているのを見ると感情を共感できるのではないかと思いました。最後の1部屋は「ふくしまの張り子」の企画展示で、興味深く学ぶことが出来ました。最後に長文の感想をアンケート箱に入れて出発します。午後7時にバスは新白河駅に戻って、1時間ほど列車を待つことになります。同じツアーのはずの2号車は2本くらい前の列車で東京へ戻ったようです。駅で待ち時間がありましたが、JR構内の売店はすでに閉まっています。まずは用意しておいた着替えを持って多目的トイレに向かいます。全身着替えるとさっぱりしたので、かなり駅から離れたコンビニまで歩いて氷と檸檬堂を買い求め、新幹線の中で乾杯しながら東京駅へ戻りました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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南相馬を出発してバスは新白河駅に向かって南下しますが、メインの「相馬野馬追」の見学が終わっても観光は続きます。
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まずは「道の駅なみえ」に立ち寄りました。ここは2020年に出来たばかりの新しい施設ですが、東日本大震災と続く福島第一原子力発電所事故によって全ての町民が避難を余儀なくされ、一度失われかけた町でしたが復興への新しい道のりを歩み出していると感じました。おいしそうな桃が売られていて、1箱買い求めて前に並んで精算していた女性がPayPayで支払っていたので何気なく同じように支払うと、30%割引になっているうえに本人確認済みの割引などで、信じられない安さになりました。ということでもう1箱買うために並びました。1箱11個入りが3,980円でしたが、割引後は2,600円くらいになりました。これは地元の友人たちへのお土産になりました。
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国道6号線を南下していくと車窓の景色が途中から変わっていくのに気が付きます。国道6号線の西側は人の毛は緒がありますが、東側への道路の多くが閉鎖されています。
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さらに進むと廃墟になったロードサイドの店が見えてきます。
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「ケーズデンキ」や「しまむら」など地方のロードサイドによくある店がボロボロの姿です。これは2011年3月11日のまま時間が止まっているのだと分かります。
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あの日のことはよく覚えていて、池袋西武の事務所で地震を感じて避難階段を下りながら妻に電話したら通じず、表に出たら無印良品に買い物に来ていた妻と偶然にも出会い、店の点検を終えて帰ろうとすると電車は止まっていて、自宅まで歩いて帰りました。その頃ダイエットを兼ねて毎日歩いていたので日常と変わりありませんでしたが、途中で方向を失っている人を何人も助けました。
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「コナカ」は再建が始まっているようです。東京に住んでいると東日本大震災のことを忘れているわけではありませんが、現在もこのような姿で手つかずになっている場所がたくさんあるのを実感しました。昨年旅した宮城や岩手の海岸線の工事はかなり進んでいましたが、福島はまだまだだと実感します。
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次は「とみおかアーカイブミュージアム」の見学です。富岡町の震災遺構を残すことは必要だし、東京に住んでいる我々も見に行くことは必要だと思いますが、ずいぶん立派な施設だなという印象も受けます。有史以前の展示もありますが、ここで見るべきは震災遺構なので、そのコーナーに向かいます。
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東日本大震災の地震における富岡町内の被害状況は、原子力災害による警戒区域指定されたため、震災直後に被害調査ができず詳細な把握が不可能だったようです。行方不明者の捜索活動や一時帰宅の際に確認された範囲では、全壊した家屋は一部でしたが、多数の屋根の損壊やブロック塀の倒壊がありました。道路は陥没や寸断があり、下水道マンホールは液状化現象により浮き上がるなど多数の被害がありました。
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富岡町の津波の被害は仏浜、毛萱、小浜、富岡駅前地区が最大21.1メートルの津波を受け、多くの生命と財産が失われました。JR富岡駅や線路、下水道の処理場、漁港や完成したばかりの「海の駅」の駐車場、道路など重要な都市施設に大きな被害が発生しました。農地は冠水し用排水路の流出や損壊がありました。
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一昨年の旅で名古屋港から乗った太平洋フェリーで仙台に向かいながら、福島第1原末と第2原発の沖合を通過した時のことを思い出しました。
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現在いる場所がその時に見た原子力発電所の近くなのだと思うと怖さも感じます。実際にここへ来る途中にも発電所の煙突なども見えました。
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富岡駅は東日本大震災の地震とその津波で全壊したため、JR東日本は津波対策などを施した上で駅を震災前の位置より北に100メートルほど移設し、交通広場とともに整備して復旧させています。
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富岡町仏浜地区の河川敷で1台のパトカーが発見されました。震災当時に住民の避難誘導に当たった2人の警察官が乗っていた車両です。1人は変わり果てた姿で見つかりましたが、もう1人の警察官は行方不明のままだったそうです。
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パトカーのあった一帯が除染廃棄物の仮置き場となり、車両が処分される予定になったそうですが、被災したパトカーは津波の力の強さ、そして大事なものを放置せざるを得なかった原子力災害の教訓を伝えるものだとして町と県警が協議し、パトカーを保存するための処理を施した上で保管が決まりました。
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針を止めた時計はいろいろなことを語ってくれるようで、電気で動いていたものは転電になった地震直後の時間を差し、その後の津波で海水を被って止まった時間などが分かるそうです。
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避難場所で実際に使われたメモなどはリアルで、その時の臨場感までが伝わってきます。
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当地で苦労された方々の気持ちが痛いように伝わってきます。あの時政権を担っていた民主党の総理や官房長官のテレビ画面越しの言動はいまだに忘れることが出来ません。原発の事故よりもこの人たちに危機管理する能力は無いなと感じられました。自民党に政権が戻ってからはまるで他人事のように党名は変えるは自民党を批判したり、特にTrust Meの元総理もひどかった。自民党の支持者ではないけれど、日本の政治はもう少しどうにかならないかと思います。
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配達されなかった福島民友の新聞は3月12日の日付のようです。3月12日から2週間の全国紙の新聞は長官だけですが全部取ってあります。いつか何か使える場面があるかと思っていますが、とくには無さそうです。
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個人線量計もニュースでは聞いたことがありましたが、実際に現物を見ることになるとは思いませんでした。
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防護服(タイベックスーツ」もリアルです。作業員の方だけでなく、住民の方も一時帰宅で使われたのだと知りました。国産のものではないことに、有事の場合にはどうなるのだろうかという一抹の心配が感じられます。
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小学生の避難日記も展示してありました。淡々と記録を残すことは必要だと感心しました。子供の頃に父に日々の日記をつけるように言われましたが、ほとんど守りませんでした。60歳を過ぎるとちゃんと日記を残しておけば良かったと思います。現在は旅先での日記と、両親宛ての絵葉書は必ず1枚書いています。
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歩道橋に掲げてあった横断幕が残されていました。我々のツアーバスの後には社会科見学の子供たち、海外からの研修で来られている外国人の方が見学に来ていました。入り口でいただいたアンケート用紙に長々と感想を書いて係りの方にお渡ししました。
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最後の展示室では「ふくしまの張り子」という展示会が開催されていました。コロナ禍になったこの3年で日本各地を旅してまわりましたが、その先々で張り子を見ることが多く、地方ごとのデザインに魅了されていました。
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昭和30年代から40年代にかけて郷土玩具は全国的なブームがあったようです。その中でも福島県は郷土玩具の宝庫とされていたようです。我が家にも40年代には大きなガラスケースがあり、旅先で買ってきた郷土玩具が数多く並べてありました。
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いつしかガラスケースは無くなり、入っていた郷土玩具も仕舞われていました。母が亡くなってから実家の物置を整理すると茶箱の中からその当時の人形や置物がたくさん出てきました。その中には赤べこや起き上がり小法師がありました。ほぼ1年近くかけているものといらないものに分けて、毎晩のように整理し続けていたので、その多くは捨てててしまったり遺品整理の業者に引き取ってもらいました。
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今回の旅でも「大内宿」で赤べこや起き上がり小法師を見掛けると欲しいなと思う反面、両親んが買い求めたものを手放してしまった心苦しさから買い求めることは出来ませんでした。
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この展示室に並ぶのは三春人形で三春張子とも呼ばれ、京都の伏見人形がルーツといわれます。江戸時代に日本海海運として活躍した「北前船」で京都の文化が山形の酒田港に持ち込まれ、最上川を遡って米沢へ流れ相良人形が生まれます。さらに米沢から隣の仙台に文化が流れて堤人形が生まれることとなります。仙台藩藩主である伊達政宗公の正室は三春藩のめご姫だったことから、 仙台に流れていた京都の文化が三春地方に流れてきたとされます。
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明治時代にると藩の援助がなくなり、人形に使用される染料に制限が加えられたことなどから生産量が激減しましたが、昭和初期に三春駒を始め人形づくりが復活されます。各種のお面やダルマ、恵比寿大黒、干支の動物などの縁起物、雛人形や歌舞伎、浮世絵を題材にした人形など、様々なものが作られています。
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人形づくりを復活させたのは「橋本広司民芸」と「彦治民芸」の2軒のみで、他ではだるま製作が主流だったようです。福島県で最初に12支シリーズを完成させたのは「彦治民芸」で、平成10年には「腰高とら」が年賀切手に採用されています。
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「三番叟」
三番叟の舞は揉ノ段と鈴ノ段に分かれ、前半の揉ノ段は面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快で活発に舞います。後半の鈴ノ段は黒式尉を付け、鈴を振りながら荘重かつ飄逸に舞います。三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固め、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえます。2月に八戸で観た「えんぶり」を思い出させます。 -
「毘沙門天面」
毘沙門天は七福神の一柱として人々に福をもたらす神であり、商売繁盛や金運財運などのご利益でも信仰されることから作られたのでしょう。通常は中国風の吹き返しのある兜ですが、ここでは純日本風の前立のある兜に変わっています。 -
「めぎつね面、おぎつめ面」
狐が稲荷神の使いであると考えられていたことから、豊穣をもたらす神楽などにも使用されて来ました。神楽では「狐の舞」があり、福を授けるとされる男狐と女狐が舞います。女の狐が畑を耕し、男の狐が種子蒔きをする農作業の動作を模した舞の次には稲荷様が稲刈りをする舞をします。 -
「火男(ひょっとこ)面」
左右の目の大きさが違うことや、頬被りをしている場合もあります。女性の「おかめ」(おたふく)と対にあつかわれることもあり、ひょっとこは田楽や祭礼における舞いや踊りの中での道化役としてしばしば登場します。 -
「般若面」
般若は鬼女の面であり、額には金泥を塗った2本の長い角が生えています。額には作り眉(本来の眉よりも上の方に眉墨で描いた眉)が描かれ、ひそめた眉の下にある眼は金色で、瞳孔の部分のみ穴が開いています。口は大きく開かれ歯と二対の牙があらわになっています。 -
「子供馬乗り」
会津張り子人形の歴史は古く、豊臣秀吉の時代まで遡ります。豊臣秀吉に仕えていた蒲生氏郷が会津の領主として国替を命じられた際に下級武士たちの糧になるようにと京都から人形師を招き、殖産復興を図ったのが会津張り子の由来と言われています。以来400年もの間作り続けられてきた歴史は東北最古とされます。 -
「起き上がり小法師」「赤べこ」
まさに実家にあって手放してしまったのと同じようなものが展示されていました。さすがに「起き上がり小法師」はここまで古くは無く、出来たばかりのように真っ白でした。 -
昭和36年の丑年の生まれなので「赤べこ」を買ってくれたのかもしれませんが、もう確認のしようもありません。ただ、生まれてすぐの写真の枕元に赤べこが置かれてありました。なんで実家の片付けで出てきた「赤べこ」を残しておかなかったのだろうと後悔しても戻ってきません。
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展示室には「赤べこ」の由来も紹介されていました。平安時代の大地震で壊れた福萬虚空蔵尊円蔵寺の再建のために牛に木材を運ばせたところ、最後まで働き通した赤毛の牛が堂の完成の日に石の守り神になったという故事に由来し、赤い牛にあやかろうと「赤べこ」が作られるようになります。会津地方で天然痘が流行した際に「赤べこ」を持っていた家族だけが病気にかからなかったという伝承から厄除けや子供の健康を願うお守りとして親しまれています。
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「恵比寿像」「大福像」
これも縁起物で家々に飾られたのでしょう。八戸の「えんぶり」の恵比寿舞に魅了された旅のことを思い出します。 -
江戸時代からのいわき張子の流れを汲む久之浜張り子は幕末にいわきの城下町、平で創始されました。明治末に二代目が久ノ浜に移り、三代目が彩色に工夫を凝らし、久之浜張子として完成されますが、3代目草野源吉氏が昭和51年に亡くなったため廃絶されます。久之浜張り子の動物ものの多くは首振り式で、動感があるのが特徴です。
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「浦島亀乗り」
長寿を願って作られたのでしょうか -
「熊乗り金太郎」
子供の健康を祈って作られたのでしょう。 -
「天神」
「大内宿」の茅葺の店では「会津天神」と呼ばれる菅原道真の像がたくさん売られていました。秋田では「牛乗り天神」を数多く見かけました。どれも天神信仰に起因するもので、長男が誕生するとそれ以後の正月に床の間に天神像の木彫や掛軸を飾る風習が生まれます。 -
「猿の三番叟」
能の前身が「猿楽」だったことから日本ではニホンザルを「神の使い」と捉えられています。「猿」は「去る」にも通じられ「難が去る」と信じられています。 -
東北各地の天神像の種類の多さには驚きます。
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富岡張り子はこの建物のある富岡町にかつてあった郷土玩具です。昭和40年代に制作者である渡辺俊造氏が亡き後は廃絶してしまい現在は制作されていないようです。
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1.ぬれ和紙(合わせ紙)
種類、大きさによりあらかじめ和紙を重ねておき、水で柔軟性をもたせた、ぬれ和紙(合わせ紙)を用意して作成に取りかかります。
2.紙貼り
油雑巾をかけた木型に、ぬれ和紙(合わせ紙)をちぎりながら強く押しつけて張り重ねます。のち全体を糊で塗り込めて乾かします。
3.型抜き
乾燥した紙張りの木型に、切り出しで切り目を入れ、中の木型を取り出したのちに膠で切れ目を閉じます。 -
4.取り組み
複数の木型を用いた袖、乗物などの部品や持ち物や飾り物などの小道具を膠で取り付けて原型を作り上げて進めます。
5.胡粉塗り
絵付けの下地として全体を膠で溶いた胡粉(貝からを焼いて作る白い粉)で刷毛塗りします。表面が滑らかになるよう何度も塗り重ねます。
6.絵付けと仕上げ
慎重に1つ1つ個性に応じた表情を、顔料(絵の具)や染料で絵付けして仕上げます。 -
「会津だるま」
会津若松を中心にかつては伝統的に「会津だるま」が作られていました。体が少し細長く、胴には宝珠を抱いた意匠が特徴です。目入りのだるまで、悪いものが寄り付かないように睨みをきかせています。かつては会津も県内のだるま生産地の1つとして知られ、会津では正月の初市で多くこのだるまが売られました。 -
「三春だるま」
だるま市で売られる「三春だるま」は小さいもので5センチから大きいもので1メートルにもなります。 最初から目が入っていて頭が平ら、横幅に対し背の高い東北型で、顔一面に淡い色を施し、眉は長めでヒゲが濃く、顔の縁取りは鮮やかな藍がかった青色で、赤みを帯びた彫りの深い顔つきが特徴です。 -
三春だるま市は1月第3日曜日に開催され、だるまを売る店や露天が軒を連ねるそうです。だるまのほかに縁起物も販売され、福まさる(「去年に勝る」・「魔去る」に通じる土鈴を弓につけた縁起物)や干支の張子人形も購入することができます。
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「三春古代だるま」
顔の色が濃く、袈裟を纏ったような古代だるまは別名「雪村だるま」と呼ばれます。かなりリアルなので達磨大師の面影を感じます。 -
「いわきだるま」
特徴は丸みのある形と顔の周りを群青色でかこみ、襟の部分に白い模様が入ります。群青色は「いわき七浜」の海の色、白い模様は波しぶきを表すと言われています。 -
「富岡だるま」
富岡町では昭和60年ごろまでだるまが制作されていました。富岡張り子は三春張り子の職人から技術を学んだと言われ、だるまの形状は三春だるまに酷似しています。 -
だるまの顔は彫が深くにらみを利かせた目や口元には肌色と灰色の2色が淡く差され、立体感があります。縁取りは三春だるまに酷似しながら青色の顔料を用いる点はいわきだるまと共通しています。
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「とみおかアーカイブミュージアム」の見学を終えて、アンケートに長々と感想を書いてバスに戻ります。これで今回の1泊2日の「相馬野馬追」のツアーの行程は終わりました。
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バスが常磐自動車道に戻る手前で白い煙突が2本見えました。これは福島第二原子力発電所の煙突だということはすぐに分かりました。
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常磐自動車道に乗ってしまうと周囲の景色は山の中で、近くに原子力発電所があることすら感じさせません。夏の日の夕方の空が見えるだけです。
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サルバトール・ダリの描くような雲の色です。山の向こうから足の長い宇宙象が洗われそうな景色です。
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久し振りにじっくりと空を眺めたような気がします。
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最後の休憩は磐越自動車道の差塩パーキングでトイレ休憩です。グーグルマップを見るとかなり遠回りして、いわき市の近くまで南下してから新白河駅に向かっているのが分かりました。
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ここにはトイレだけで売店も何もありませんでした。最後のお土産は新白河駅と思っていたのですが。
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日が暮れるころに新白河駅に到着しました。
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階段の蹴上げにはラーメンどんぶりに福島の名物が盛り込んであるイラストがありました。
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①矢吹町「大池公園」
②泉崎村「力士像はにわ」
③棚倉町「花園しだれ桜」
④鮫川村「鹿角平観光牧場キャンプ場」
⑤中島村「川田神社の狛犬」
⑥塙町「ダリア園」
⑦白河市「小峰城」
⑧矢祭町「水郡線」
⑨西郷村「雪割橋」 -
2階の改札前で1時間弱の自由時間になります。これは帰りの新幹線を待つための時間ですが、同じツアーの2号車はすでに新幹線で帰ったということです。駅の土産物店はすぐに閉店し、コンビニはすでに閉まっていました。多目的トイレで服を全部着替えたら気持ち良かったです。
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グーグルマップで近隣を調べてみると10分弱離れたところにセブンイレブンがあるので檸檬堂堂と氷を買いに走りました。
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帰る段になって「白河の関」が近いことに気が付きました。今年の夏の甲子園の優勝旗は江戸に留まり、白河の関を超えることはありませんでした。
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新白河駅から東京駅までは水分補給をしながら帰りました。日曜日の夜だったので大宮駅で降りずに東京駅まで行って、丸の内線で帰った方が空いていたようです。「相馬野馬追」で夏祭りの暑さを体感して、次は東北と四国の夏祭り巡りの旅が始まります。
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