相馬旅行記(ブログ) 一覧に戻る
前の晩は思いがけずに福島市の花火大会まで見ることが出来ました。翌朝は4時過ぎには目が覚めてしまい、きれいな朝焼けまで見ることが出来ました。朝食は午前6時30分からで、出発が8時なので時間をずらすことも出来ずに2階のレストランに降りるとものすごい人の数です。小学生の野球チームの団体と父兄の姿が見えます。出発前に1階のコンビニで氷を買って氷嚢を作ろうとしたらすべて売り切れになっています。ホテルのロビーには野球チームのクーラーボックスが並んでいたので、全部買われてしまったのであろうことが想像できます。ネットで近隣のコンビニを調べるとかなり離れてはいましたが、野馬追の会場での暑さが分からないので急いで買いに走ります。バスは予定時間に出発し、バスの中で指定席のチケットが配られます。午前10時前に南相馬市に到着しますが、交通規制もあって近隣はかなりの渋滞になっています。ここへ来るまで「お行列」を見ることが出来るのだと思っていましたが、どこのツアーも「雲雀ヶ原祭場地」で「お行列」の入場と「甲冑競馬」と「神旗争奪戦」を見学するだけのようです。1キロほど離れた建設会社の駐車場に大型バスは停められ、そこからシャトルバスで「雲雀ヶ原祭場地」まで移動します。少し歩くと入場券のチェックがあり、その先は広い運動場のようなスペースがあります。ここが「雲雀ヶ原祭場地」で、観覧席は段々畑の1枡が5人用の座席になります。その段に座って観覧することになります。完全な炎天下で日影は全くありません。段々が離れているので日傘は周囲に気兼ねなく差すことが出来ますが、日傘が無ければ絶対に熱中症になると思います。この日の気温は35℃を越えていましたが、体感は40℃近く感じました。ファン付きの空調ベストを着て氷嚢を首筋に当てますが、これが一番効果がありました。妻はさらに手持ちの扇風機を日傘のシャフトに取り付けます。これで準備万端です。真正面の浪江鹿嶋線の道路から騎馬武者が入場してきます。これが延々と続き、観覧席の前で左右に分かれていきます。ここまで3キロの「お行列」は観たかった気もしますが、あまりの暑さに動く気にもなりません。初めて見る「相馬野馬追」の迫力に最初から圧倒されました。メイン会場の「雲雀ケ原祭場地」に約28,000人、沿道に約38,000人の計66,000人の観客が訪れたようです。

トラピックス 相馬野馬追・会津鶴ヶ城公園と大内宿の旅(4)雲雀ヶ原祭場で相馬野馬追で361騎の騎馬武者に圧倒される。

3いいね!

2023/07/30 - 2023/07/30

61位(同エリア81件中)

0

71

kojikoji

kojikojiさん

前の晩は思いがけずに福島市の花火大会まで見ることが出来ました。翌朝は4時過ぎには目が覚めてしまい、きれいな朝焼けまで見ることが出来ました。朝食は午前6時30分からで、出発が8時なので時間をずらすことも出来ずに2階のレストランに降りるとものすごい人の数です。小学生の野球チームの団体と父兄の姿が見えます。出発前に1階のコンビニで氷を買って氷嚢を作ろうとしたらすべて売り切れになっています。ホテルのロビーには野球チームのクーラーボックスが並んでいたので、全部買われてしまったのであろうことが想像できます。ネットで近隣のコンビニを調べるとかなり離れてはいましたが、野馬追の会場での暑さが分からないので急いで買いに走ります。バスは予定時間に出発し、バスの中で指定席のチケットが配られます。午前10時前に南相馬市に到着しますが、交通規制もあって近隣はかなりの渋滞になっています。ここへ来るまで「お行列」を見ることが出来るのだと思っていましたが、どこのツアーも「雲雀ヶ原祭場地」で「お行列」の入場と「甲冑競馬」と「神旗争奪戦」を見学するだけのようです。1キロほど離れた建設会社の駐車場に大型バスは停められ、そこからシャトルバスで「雲雀ヶ原祭場地」まで移動します。少し歩くと入場券のチェックがあり、その先は広い運動場のようなスペースがあります。ここが「雲雀ヶ原祭場地」で、観覧席は段々畑の1枡が5人用の座席になります。その段に座って観覧することになります。完全な炎天下で日影は全くありません。段々が離れているので日傘は周囲に気兼ねなく差すことが出来ますが、日傘が無ければ絶対に熱中症になると思います。この日の気温は35℃を越えていましたが、体感は40℃近く感じました。ファン付きの空調ベストを着て氷嚢を首筋に当てますが、これが一番効果がありました。妻はさらに手持ちの扇風機を日傘のシャフトに取り付けます。これで準備万端です。真正面の浪江鹿嶋線の道路から騎馬武者が入場してきます。これが延々と続き、観覧席の前で左右に分かれていきます。ここまで3キロの「お行列」は観たかった気もしますが、あまりの暑さに動く気にもなりません。初めて見る「相馬野馬追」の迫力に最初から圧倒されました。メイン会場の「雲雀ケ原祭場地」に約28,000人、沿道に約38,000人の計66,000人の観客が訪れたようです。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

PR

  • 2日目の朝です。前の晩は早く寝たので午前4時過ぎには目が覚めてしまいました。ちょうど東の空から太陽が登るところで得した気分になります。

    2日目の朝です。前の晩は早く寝たので午前4時過ぎには目が覚めてしまいました。ちょうど東の空から太陽が登るところで得した気分になります。

  • ホテルの朝食は2階のレストランで、午前6時30分からです。実際にその時間に行くとすでに宿泊客でいっぱいで、脇にあるバンケットルームで食べることにします。小学生の野球チームの遠征があるようで、小学生とその父兄でごった返しています。

    ホテルの朝食は2階のレストランで、午前6時30分からです。実際にその時間に行くとすでに宿泊客でいっぱいで、脇にあるバンケットルームで食べることにします。小学生の野球チームの遠征があるようで、小学生とその父兄でごった返しています。

  • 得に朝食を期待していたわけではないのですが、ホテルのホームページとはちょっと違うような内容です。

    得に朝食を期待していたわけではないのですが、ホテルのホームページとはちょっと違うような内容です。

  • この日のお昼は「相馬野馬追」の会場でお弁当が配られるのですが、どんなものかもわからないのでしっかり食べておくことにします。

    この日のお昼は「相馬野馬追」の会場でお弁当が配られるのですが、どんなものかもわからないのでしっかり食べておくことにします。

  • 出発は午前8時でしたが、少し前に1階のコンビニへロックアイスを買いに行きました。持ってきた氷嚢に入れてクーラーボックスで祭りの会場に持っていこうと思っていましたが1個もありませんでした。ホテルのロビーには野球チームのクーラーボックスがいくつも並んでいたので、全部買い占められてしまったようです。

    出発は午前8時でしたが、少し前に1階のコンビニへロックアイスを買いに行きました。持ってきた氷嚢に入れてクーラーボックスで祭りの会場に持っていこうと思っていましたが1個もありませんでした。ホテルのロビーには野球チームのクーラーボックスがいくつも並んでいたので、全部買い占められてしまったようです。

  • 仕方ないのでグーグルマップでコンビニの位置を確認すると駅の方向へ5分ほど行ったところにあったので急いで買い求めます。ホテルの部屋で氷嚢に詰めて出発です。

    仕方ないのでグーグルマップでコンビニの位置を確認すると駅の方向へ5分ほど行ったところにあったので急いで買い求めます。ホテルの部屋で氷嚢に詰めて出発です。

  • 福島市から相馬へ向かう車窓からは桃の木がたくさん見えましたが、もう収穫は終わっているようでした。福島の桃は美味しいですからね。

    福島市から相馬へ向かう車窓からは桃の木がたくさん見えましたが、もう収穫は終わっているようでした。福島の桃は美味しいですからね。

  • 車内で野馬追の会場の座席券が配られました。同じチケットぴあの観覧券はこの数カ月大変な思いをして手に入れました。8月4日から出発するダイヤモンド・プリンセスの夏祭りのツアーでは高いオプショナルツアーではなくて個人で観覧することにしていました。すでに青森ねぶたの海上運行と花火大会、秋田の竿灯まつり、高知のよさこい祭り、徳島の阿波踊りは劇場と屋外の2つのチケットを発売当日の朝10時前にパソコンの前にスタンバイして手に入れました。

    車内で野馬追の会場の座席券が配られました。同じチケットぴあの観覧券はこの数カ月大変な思いをして手に入れました。8月4日から出発するダイヤモンド・プリンセスの夏祭りのツアーでは高いオプショナルツアーではなくて個人で観覧することにしていました。すでに青森ねぶたの海上運行と花火大会、秋田の竿灯まつり、高知のよさこい祭り、徳島の阿波踊りは劇場と屋外の2つのチケットを発売当日の朝10時前にパソコンの前にスタンバイして手に入れました。

  • バスは1時間30分ほどで南相馬市に到着しますが、祭りの影響で交通規制もあり周囲は渋滞していました。ツアーバスは会場から1キロほど離れた建設会社の臨時駐車場に留め置きされます。

    バスは1時間30分ほどで南相馬市に到着しますが、祭りの影響で交通規制もあり周囲は渋滞していました。ツアーバスは会場から1キロほど離れた建設会社の臨時駐車場に留め置きされます。

  • 駐車場からは海上の近くまでシャトルバスが随時運航しているのでそれに盛り込みます。これは無料で運行されています。帰るときは「日立パワーデバイス・旧東北アクセス駐車場経由南相馬市博物館」と書かれたものに乗らないとなりません。帰りはルートが少し違います。

    駐車場からは海上の近くまでシャトルバスが随時運航しているのでそれに盛り込みます。これは無料で運行されています。帰るときは「日立パワーデバイス・旧東北アクセス駐車場経由南相馬市博物館」と書かれたものに乗らないとなりません。帰りはルートが少し違います。

  • ここへ来るまで「お行列」から見学できるのだと思っていましたが、「雲雀ケ丘祭場地」でも行列の入場からの見学になります。これはどこの旅行会社も同じようで、同じタイミングでクラブツーリズム社もJTB社もトラピックス社も会場入りしていました。

    ここへ来るまで「お行列」から見学できるのだと思っていましたが、「雲雀ケ丘祭場地」でも行列の入場からの見学になります。これはどこの旅行会社も同じようで、同じタイミングでクラブツーリズム社もJTB社もトラピックス社も会場入りしていました。

  • バスを降りた後も少し歩くのですが、仮設の馬留めがたくさんありました。この日は361頭の騎馬武者が参加するそうです。一体全体どこから集まってくるのでしょうか?バスで周囲を走っているときに注意していましたが、馬屋のある家などは見掛けませんでした。

    バスを降りた後も少し歩くのですが、仮設の馬留めがたくさんありました。この日は361頭の騎馬武者が参加するそうです。一体全体どこから集まってくるのでしょうか?バスで周囲を走っているときに注意していましたが、馬屋のある家などは見掛けませんでした。

  • 鑑賞券は当日でも買えるようでした。ここでチケットのチェックがあり先に進みます。

    鑑賞券は当日でも買えるようでした。ここでチケットのチェックがあり先に進みます。

  • テントが張られていて、飲み物やかき氷や南相馬の食べ物が売られているようです。

    テントが張られていて、飲み物やかき氷や南相馬の食べ物が売られているようです。

  • 消防関係の車両もスタンバイしています。朝から35℃を超えるような日でしたから熱中症の症状が出た人は観客と騎馬武者で83人もいて、11人が緊急搬送されたようです。

    消防関係の車両もスタンバイしています。朝から35℃を超えるような日でしたから熱中症の症状が出た人は観客と騎馬武者で83人もいて、11人が緊急搬送されたようです。

  • さらに111頭の馬が日射病にあり、そのうち2頭が死んでしまったと後日のニュースで知りました。すぐに来年からは5月ごろに開催するように決まったそうです。

    さらに111頭の馬が日射病にあり、そのうち2頭が死んでしまったと後日のニュースで知りました。すぐに来年からは5月ごろに開催するように決まったそうです。

  • これが観覧席で、目の前にはこうだいな「雲雀ケ丘祭場地」が広がっています。段々畑のような5メートル角のスペースが5人分の座席になっていました。

    これが観覧席で、目の前にはこうだいな「雲雀ケ丘祭場地」が広がっています。段々畑のような5メートル角のスペースが5人分の座席になっていました。

  • パンフレットなどによると「野馬追」の始まりは、平安時代中期に平将門(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金ヶ原、現在の千葉県松戸市流山付近の牧で野馬を捕らえて、御神馬として神前に奉納したことが由来とされているようです。

    パンフレットなどによると「野馬追」の始まりは、平安時代中期に平将門(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金ヶ原、現在の千葉県松戸市流山付近の牧で野馬を捕らえて、御神馬として神前に奉納したことが由来とされているようです。

  • 平将門公の子孫である陸奥相馬氏の『相家故事秘要集』によると、「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備えの次第、駆引の自由、馬上の達者、機変自在の動きを試む」と記されています。

    平将門公の子孫である陸奥相馬氏の『相家故事秘要集』によると、「将門、関八州を領してより、下総国葛飾郡小金ヶ原(現在の千葉県北西部)に馬を放ち、年々春夏秋二度も三度も、八カ国の兵を集め、甲冑を帯し、大群を学び、野馬を敵となして、軍法備えの次第、駆引の自由、馬上の達者、機変自在の動きを試む」と記されています。

  • 元亨3年の1323年に相馬重胤が陸奥国行方郡太田村、現在の福島県南相馬市原町区中太田に下向しました。この土地は文治5年の1189年の奥州合戦の褒美として千葉常胤が源頼朝より与えられた土地で、相馬家に相続されていました。野馬追の故事に倣い太田村近くの原野に馬を放ち、以降断続的に馬を放ち続けてとされています。

    元亨3年の1323年に相馬重胤が陸奥国行方郡太田村、現在の福島県南相馬市原町区中太田に下向しました。この土地は文治5年の1189年の奥州合戦の褒美として千葉常胤が源頼朝より与えられた土地で、相馬家に相続されていました。野馬追の故事に倣い太田村近くの原野に馬を放ち、以降断続的に馬を放ち続けてとされています。

  • 江戸時代になると居城を現在の相馬中村神社にあった「中村城」に移し、明治時代になるまで相馬氏の居城となりました。この頃から現在行われている「相馬野馬追」の面影が見えてきます。第19代当主の相馬忠胤は下向してきて以来断続的に馬を放ってきた原野に牧を整備し、そこで野馬追を行うことにしました。現在の「雲雀ヶ原祭場地」もその一部です。

    江戸時代になると居城を現在の相馬中村神社にあった「中村城」に移し、明治時代になるまで相馬氏の居城となりました。この頃から現在行われている「相馬野馬追」の面影が見えてきます。第19代当主の相馬忠胤は下向してきて以来断続的に馬を放ってきた原野に牧を整備し、そこで野馬追を行うことにしました。現在の「雲雀ヶ原祭場地」もその一部です。

  • 午前9時30分に夏空に轟く花火を合図に、三番螺と陣太鼓が鳴り響き出発を告げます。相馬太田神社に供奉(ぐぶ)する中ノ郷勢を先頭に、相馬小高神社(小高・標葉(しねは)郷)、相馬中村神社(北郷・宇田郷勢)の順に、総大将、軍師、郷大将、侍大将、軍者、組頭、螺役長などの役付騎馬が整然と駒を進めます。

    午前9時30分に夏空に轟く花火を合図に、三番螺と陣太鼓が鳴り響き出発を告げます。相馬太田神社に供奉(ぐぶ)する中ノ郷勢を先頭に、相馬小高神社(小高・標葉(しねは)郷)、相馬中村神社(北郷・宇田郷勢)の順に、総大将、軍師、郷大将、侍大将、軍者、組頭、螺役長などの役付騎馬が整然と駒を進めます。

  • 約3キロ先の雲雀ヶ原(ひばりがはら)祭場地へ着くには1時間近くかかるようです。うだるような暑さの中に甲冑を着こんで、兜まで被るのですから甲冑武者は大変だと思います。

    約3キロ先の雲雀ヶ原(ひばりがはら)祭場地へ着くには1時間近くかかるようです。うだるような暑さの中に甲冑を着こんで、兜まで被るのですから甲冑武者は大変だと思います。

  • 入場の終わった騎馬武者は思い思いに草地の中を闊歩しています。

    入場の終わった騎馬武者は思い思いに草地の中を闊歩しています。

  • 現在使用している甲冑は時代物で、代々伝わる江戸時代のものが多いそうです。本物の甲冑は現在の複製品よりはるかに軽いと聞いたことがあります。

    現在使用している甲冑は時代物で、代々伝わる江戸時代のものが多いそうです。本物の甲冑は現在の複製品よりはるかに軽いと聞いたことがあります。

  • 甲冑武者だけではなく陣羽織を羽織った代官のような人の姿も見えます。放送も流れているのですが、広い「雲雀ヶ原祭場地」のどの人たちの説明をしているのか分かりません。

    甲冑武者だけではなく陣羽織を羽織った代官のような人の姿も見えます。放送も流れているのですが、広い「雲雀ヶ原祭場地」のどの人たちの説明をしているのか分かりません。

  • 背中に背負った旗のことを「旗印(はたじるし」とか「旗紋(はたもん)」といいますが、江戸時代には2600種類もの旗の種類がありました。江戸時代の野馬追は、現在の祭場地雲雀ヶ原の100倍ほどのとても広大な「野馬追原」という牧の中で騎馬武者たちが野馬を追う行事でした。

    背中に背負った旗のことを「旗印(はたじるし」とか「旗紋(はたもん)」といいますが、江戸時代には2600種類もの旗の種類がありました。江戸時代の野馬追は、現在の祭場地雲雀ヶ原の100倍ほどのとても広大な「野馬追原」という牧の中で騎馬武者たちが野馬を追う行事でした。

  • 行事を取り仕切る領主は小高い丘の上に設けられた本陣から騎馬武者たちの活躍を検分しますが、一人ひとりの武者たちの顔を見分けることは出来ないことから頼りなったのが、武者たちが背負う「旗」でした。

    行事を取り仕切る領主は小高い丘の上に設けられた本陣から騎馬武者たちの活躍を検分しますが、一人ひとりの武者たちの顔を見分けることは出来ないことから頼りなったのが、武者たちが背負う「旗」でした。

  • 江戸時代は誰がどんな旗を使うのかが分かるように「旗帳(はたちょう)」という旗印の台帳がありました。そこには武士の旗印と禄高と居住地が載っていて、旗を見ただけ誰というのが識別できるようになっていました。

    江戸時代は誰がどんな旗を使うのかが分かるように「旗帳(はたちょう)」という旗印の台帳がありました。そこには武士の旗印と禄高と居住地が載っていて、旗を見ただけ誰というのが識別できるようになっていました。

  • 旗の模様はさまざまで、信仰対象になっていた星や神仏、強さを備えた動物(イノシシ、ムカデなど)・霊獣(龍など)、武威を高めたり、戦勝を祈願する文言など、多くの種類があります。これは兜の前立てにも言えることです。

    旗の模様はさまざまで、信仰対象になっていた星や神仏、強さを備えた動物(イノシシ、ムカデなど)・霊獣(龍など)、武威を高めたり、戦勝を祈願する文言など、多くの種類があります。これは兜の前立てにも言えることです。

  • 相馬氏の家紋である九曜紋をいただいた神輿が入場してきます。これを担いで3キロ歩いてくるのも大変だったと思います。この神輿より高い場所から「お行列」を眺めてはいけないそうで、沿道の家でも2階や3階から行列を見てはいけないそうです。

    相馬氏の家紋である九曜紋をいただいた神輿が入場してきます。これを担いで3キロ歩いてくるのも大変だったと思います。この神輿より高い場所から「お行列」を眺めてはいけないそうで、沿道の家でも2階や3階から行列を見てはいけないそうです。

  • 最後に本陣山に登るところも気の毒になってきます。烏帽子を被った白丁衣装も重ね着しているので暑いでしょう。

    最後に本陣山に登るところも気の毒になってきます。烏帽子を被った白丁衣装も重ね着しているので暑いでしょう。

  • 後ろを馬に乗って進む神職は楽そうにも見えますが、同じような重ね着なので暑いと思います。

    後ろを馬に乗って進む神職は楽そうにも見えますが、同じような重ね着なので暑いと思います。

  •  家のしるしとして使われる旗のほか、武者たちの役職をしめす「役旗(やくばた)」というものがあります。役旗を背負っている武者は、行列などの際にそれぞれの役目にしたがった動きを見せます。

    家のしるしとして使われる旗のほか、武者たちの役職をしめす「役旗(やくばた)」というものがあります。役旗を背負っている武者は、行列などの際にそれぞれの役目にしたがった動きを見せます。

  • 「軍師」は総大将の命令で侍大将以下の武者を指揮する総参謀役で、旗は朽葉地に上り蜈蚣(むかで)です。「侍大将」は組頭以下を統率する役で、旗は白地に相馬氏の家紋の九曜紋が染め抜かれています。

    「軍師」は総大将の命令で侍大将以下の武者を指揮する総参謀役で、旗は朽葉地に上り蜈蚣(むかで)です。「侍大将」は組頭以下を統率する役で、旗は白地に相馬氏の家紋の九曜紋が染め抜かれています。

  • 「組頭」は上司の命を受け、組をまとめる役で、地色が青・赤・黄・白・黒のいずれかの下り駒の旗を差します。<br />「中頭」は組頭の補佐役で、旗は白地に下り駒です。下部12センチほどを組頭の旗と同じ五色に染め分けています。

    「組頭」は上司の命を受け、組をまとめる役で、地色が青・赤・黄・白・黒のいずれかの下り駒の旗を差します。
    「中頭」は組頭の補佐役で、旗は白地に下り駒です。下部12センチほどを組頭の旗と同じ五色に染め分けています。

  • 「御使番」は上司の命を受け、指示の伝達をする役で旗は黒地に白一文字です。これらの旗を差した人は何人もいました。

    「御使番」は上司の命を受け、指示の伝達をする役で旗は黒地に白一文字です。これらの旗を差した人は何人もいました。

  • 旗以外にも兜の前立ても見どころの1つです。トンボは後退はせずに前にしか進まないことから、「勝ち虫」として武将にとても好まれました。古代日本では本州を「秋津島(あきつしま)」と呼んでいましたが、「秋津」とはトンボのことです。本州の形がトンボが連なった形に似ていると神武天皇が言ったためとされます。

    旗以外にも兜の前立ても見どころの1つです。トンボは後退はせずに前にしか進まないことから、「勝ち虫」として武将にとても好まれました。古代日本では本州を「秋津島(あきつしま)」と呼んでいましたが、「秋津」とはトンボのことです。本州の形がトンボが連なった形に似ていると神武天皇が言ったためとされます。

  • 陣笠を被った子供武者の姿もありました。

    陣笠を被った子供武者の姿もありました。

  • 数は少ないですが女性の参加もありました。野馬追に女性の参加が認められたのは昭和22年の1947年からで、騎馬会に「未成年の未婚者で化粧をしてはならない」との条文ができたそうです。

    数は少ないですが女性の参加もありました。野馬追に女性の参加が認められたのは昭和22年の1947年からで、騎馬会に「未成年の未婚者で化粧をしてはならない」との条文ができたそうです。

  • 参加騎馬武者の減少にも直面しているようで、ピークは1995年の614人で、東日本大震災と原発事故以降は400人前後で推移しているようです。

    参加騎馬武者の減少にも直面しているようで、ピークは1995年の614人で、東日本大震災と原発事故以降は400人前後で推移しているようです。

  • 参加者には出場奨励金が支給されますがその額は10万円から12万円ほどだそうです。馬を乗馬クラブから借りる人は20万円から40万円が必要で、自分の馬の場合は飼育に40万円から50万円がかかり、甲冑の修理や保持にも費用がかかるようで、新たに始めようと考えると100万円くらいは必要だそうです。

    参加者には出場奨励金が支給されますがその額は10万円から12万円ほどだそうです。馬を乗馬クラブから借りる人は20万円から40万円が必要で、自分の馬の場合は飼育に40万円から50万円がかかり、甲冑の修理や保持にも費用がかかるようで、新たに始めようと考えると100万円くらいは必要だそうです。

  • この日のメイン会場の福「雲雀ケ原祭場地」には約2万8000人の観客が訪れたそうです。入場する騎馬の数よりも写真を撮っている人の数が多いのはどうかと思います。

    この日のメイン会場の福「雲雀ケ原祭場地」には約2万8000人の観客が訪れたそうです。入場する騎馬の数よりも写真を撮っている人の数が多いのはどうかと思います。

  • 徳川頼宣の家臣に矢部虎之助という者がいました。虎之助は冬の陣が起こると目立つために派手な装備で出陣したといいます。3.6メートルの指物と1メートルの大太刀を持ち、兜の前立てには位牌をかたどったものを使用しました。位牌には「咲く頃は花の数にも足らざれど、散るには濡れぬ矢部虎之助」という歌が書いてあったという話を思い出しました。

    徳川頼宣の家臣に矢部虎之助という者がいました。虎之助は冬の陣が起こると目立つために派手な装備で出陣したといいます。3.6メートルの指物と1メートルの大太刀を持ち、兜の前立てには位牌をかたどったものを使用しました。位牌には「咲く頃は花の数にも足らざれど、散るには濡れぬ矢部虎之助」という歌が書いてあったという話を思い出しました。

  • 「黒地に日の丸」の旗が進んできました。この旗は領主(総大将)の相馬家の旗で、「この世の闇を照らす太陽」をあらわすという故事があります。「御家第一の旗」として、昔から合戦のときに立てられ、行列や殿様のいる本陣にも立てられました。

    「黒地に日の丸」の旗が進んできました。この旗は領主(総大将)の相馬家の旗で、「この世の闇を照らす太陽」をあらわすという故事があります。「御家第一の旗」として、昔から合戦のときに立てられ、行列や殿様のいる本陣にも立てられました。

  • 武田信玄の諏訪法性兜のような前立ちにヤクの黒毛が付けられています。これでは暑いでしょうね。「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」という言葉は、敵であった武田信玄の近習の小杉左近の落書だそうですが、唐の頭は中国から取り寄せたヤクの毛で飾った高価な兜のことです。

    武田信玄の諏訪法性兜のような前立ちにヤクの黒毛が付けられています。これでは暑いでしょうね。「家康に過ぎたるものは二つあり、唐(から)の頭(かしら)に本多平八」という言葉は、敵であった武田信玄の近習の小杉左近の落書だそうですが、唐の頭は中国から取り寄せたヤクの毛で飾った高価な兜のことです。

  • 背中の黄色い袋は「母衣(ほろ)」といいます。合戦の最中に放たれた矢や投石から身を守るもので、鯨のヒゲなどでできた骨組みに布を張って風船のように張ることで、矢が刺さらず体を守ります。この母衣は誰でも着用できるわけでは無く、戦国時代は「母衣衆」と呼ばれる名誉ある役割でした。

    背中の黄色い袋は「母衣(ほろ)」といいます。合戦の最中に放たれた矢や投石から身を守るもので、鯨のヒゲなどでできた骨組みに布を張って風船のように張ることで、矢が刺さらず体を守ります。この母衣は誰でも着用できるわけでは無く、戦国時代は「母衣衆」と呼ばれる名誉ある役割でした。

  • 有名なのは織田信長の黒母衣衆と赤母衣衆で、馬周りから選りすぐった親衛隊を配備しました。黒母衣衆は10人で佐々成政、赤母衣衆は9人で前田利家などがいました。豊臣秀吉は黄母衣衆という馬廻から選り抜いた親衛隊を擁してました。前に立てられた「だし(山車)」は熊手のような形をしています

    有名なのは織田信長の黒母衣衆と赤母衣衆で、馬周りから選りすぐった親衛隊を配備しました。黒母衣衆は10人で佐々成政、赤母衣衆は9人で前田利家などがいました。豊臣秀吉は黄母衣衆という馬廻から選り抜いた親衛隊を擁してました。前に立てられた「だし(山車)」は熊手のような形をしています

  • 不動明王や飛龍の前立てなど1騎づつ見ていても飽きることはありません。

    不動明王や飛龍の前立てなど1騎づつ見ていても飽きることはありません。

  • 写真を撮っているときは全く気が付きませんでしたが、女性の甲冑騎馬の姿は凛々しいです。

    写真を撮っているときは全く気が付きませんでしたが、女性の甲冑騎馬の姿は凛々しいです。

  • 南蛮兜がカッコいいと思ったら女性の騎馬武者でした。近年の刀剣ブームの影響もあるのでしょうか。

    南蛮兜がカッコいいと思ったら女性の騎馬武者でした。近年の刀剣ブームの影響もあるのでしょうか。

  • 本陣山への坂道の途中に立っていると駆けあがってくる騎馬武者の姿を間近で見ることが出来ます。

    本陣山への坂道の途中に立っていると駆けあがってくる騎馬武者の姿を間近で見ることが出来ます。

  • 位牌型の前立てには「正一位 箭弓(やきゅう)稲荷大明神」とありました。

    位牌型の前立てには「正一位 箭弓(やきゅう)稲荷大明神」とありました。

  • 続いてムカデの前立ての武者が駆け上がってきます。地表や土中に住む百足は陰陽五行説において土気の動物とされます。

    続いてムカデの前立ての武者が駆け上がってきます。地表や土中に住む百足は陰陽五行説において土気の動物とされます。

  • 前立の素材は一般に金属や鍍金や金箔押などを施しますが、鉱物や金属類の多くは土の中に蔵されています。また五行説の木火土金水の五気のうち金気がもっとも強く、兵器武具や戦の象徴とされます。佐渡の金山でも金の鉱床が百足のように見えることから祀られていました。

    前立の素材は一般に金属や鍍金や金箔押などを施しますが、鉱物や金属類の多くは土の中に蔵されています。また五行説の木火土金水の五気のうち金気がもっとも強く、兵器武具や戦の象徴とされます。佐渡の金山でも金の鉱床が百足のように見えることから祀られていました。

  • 「中頭」の白地に下り駒が続いて入ってきます。下部12センチほどを組頭の旗と同じ五色に染め分けています。

    「中頭」の白地に下り駒が続いて入ってきます。下部12センチほどを組頭の旗と同じ五色に染め分けています。

  • 赤母衣衆が1騎入ってきます。兜の前立てには金の瓢箪、背中の山車には金の御幣が見えます。

    赤母衣衆が1騎入ってきます。兜の前立てには金の瓢箪、背中の山車には金の御幣が見えます。

  • 祭りでは神輿の担ぎ手が50人、旗持ちや準備をする人などが50人必要なようです。例年は地元企業の若手社員や中学や高校生、専門学校生に手伝ってもらっていますが、子どもたちは夏休みだから参加できるようです。開催日が変わると人員の確保も懸念されるようです。

    祭りでは神輿の担ぎ手が50人、旗持ちや準備をする人などが50人必要なようです。例年は地元企業の若手社員や中学や高校生、専門学校生に手伝ってもらっていますが、子どもたちは夏休みだから参加できるようです。開催日が変わると人員の確保も懸念されるようです。

  • 本陣山に赤母衣の騎馬武者が上がってきました。

    本陣山に赤母衣の騎馬武者が上がってきました。

  • 「黒地に日の丸」の扇が青空に映えていました。

    「黒地に日の丸」の扇が青空に映えていました。

  • 相馬中林神社の一行がやってきます。野馬追では3つの地域に分かれた騎馬武者が参加しており、中ノ郷の相馬太田神社、小高郷と標葉郷の相馬小高神社、そして北郷と宇多郷の相馬中林神社の神輿を騎馬武者が守護しています。

    相馬中林神社の一行がやってきます。野馬追では3つの地域に分かれた騎馬武者が参加しており、中ノ郷の相馬太田神社、小高郷と標葉郷の相馬小高神社、そして北郷と宇多郷の相馬中林神社の神輿を騎馬武者が守護しています。

  • 神輿は本陣山の上に上がっていきますが、この上に何があるかは観に行っていないので分かりません。この後の「甲冑競馬」や「神旗争奪戦」でも勝者はこの坂を登ってお札を貰ってきますが…。

    神輿は本陣山の上に上がっていきますが、この上に何があるかは観に行っていないので分かりません。この後の「甲冑競馬」や「神旗争奪戦」でも勝者はこの坂を登ってお札を貰ってきますが…。

  • 今年の総大将は相馬中村藩主家第33代当主の相馬和胤氏の孫の相馬言胤氏が2年連続で務めると場内放送がありました。

    今年の総大将は相馬中村藩主家第33代当主の相馬和胤氏の孫の相馬言胤氏が2年連続で務めると場内放送がありました。

  • 五輪塔の旗印も陰陽五行に基づくものでしょう。唐の頭を思わせる兜も暑そうです。

    五輪塔の旗印も陰陽五行に基づくものでしょう。唐の頭を思わせる兜も暑そうです。

  • 唐の頭の白い毛はこのような白いヤクの毛です。江戸時代までは中国からの輸入品だったのでとても高価だったのでしょう。九塞溝へ行く途中で乗る機会がありました。

    唐の頭の白い毛はこのような白いヤクの毛です。江戸時代までは中国からの輸入品だったのでとても高価だったのでしょう。九塞溝へ行く途中で乗る機会がありました。

  • 迫力ある大きな角脇立が特徴の黒田長政の大水牛兜のような兜です。次に来ることがあれば兜の形状や旗印などについて勉強しておかなければと思います。前立ての赤い円の中には阿弥陀如来を表す梵字が金色で施されています。

    迫力ある大きな角脇立が特徴の黒田長政の大水牛兜のような兜です。次に来ることがあれば兜の形状や旗印などについて勉強しておかなければと思います。前立ての赤い円の中には阿弥陀如来を表す梵字が金色で施されています。

  • 軍者の振旗を合図に螺役(かいやく)が高らかに螺を吹き、いざ出陣といった雰囲気です。

    軍者の振旗を合図に螺役(かいやく)が高らかに螺を吹き、いざ出陣といった雰囲気です。

  • 「黒地に日の丸」の旗が進んできました。想像するに3つの神社の守護の騎馬武者は同じ組が3つあるのだと思いました。ただそれぞれの騎馬武者のかっちゅなどはそれぞれ違うようです。

    「黒地に日の丸」の旗が進んできました。想像するに3つの神社の守護の騎馬武者は同じ組が3つあるのだと思いました。ただそれぞれの騎馬武者のかっちゅなどはそれぞれ違うようです。

  • 最後の神輿が入場してきました。

    最後の神輿が入場してきました。

  • 「組頭」の黒地に白抜きの下がり駒の旗印が青芝に映えます。10月下旬から行くモンゴルの草原でも同じような馬が見られるでしょうか。

    「組頭」の黒地に白抜きの下がり駒の旗印が青芝に映えます。10月下旬から行くモンゴルの草原でも同じような馬が見られるでしょうか。

  • 全ての参加者が場内に入場し終わると螺役(かいやく)の原外の音が響き渡り、「甲冑競馬」へと移っていきます。<br />https://www.youtube.com/watch?v=ybKdVKIL2rA&amp;t=5s

    全ての参加者が場内に入場し終わると螺役(かいやく)の原外の音が響き渡り、「甲冑競馬」へと移っていきます。
    https://www.youtube.com/watch?v=ybKdVKIL2rA&t=5s

この旅行記のタグ

3いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP