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能登半島周遊(後編)は、最初に「道の駅 すず塩田村」での「揚げ浜式製塩法」体験をレポします。世界最古の製塩技術とされ、平安時代末期に始まったそうです。加賀藩3代藩主 前田利常は、農民救済のために製塩を奨励して重要産業として手厚い庇護をし、田畑の少ない農民に対し米を貸し、その代わりに塩を納めさせたそうです。<br />塩田村を後にして向かったのは「見附島」。見附島は海岸線から約200m沖合に位置する無人の小島であり、その姿形から「軍艦島」とも称されます。近年の地震などで刻々と痩せ細ってきており、健在なうちに訪れたいと思っていました。波打ち際まで近づくと、まさに軍艦が迫ってくるようで圧巻でした。<br />「禄剛埼灯台」は2015年のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに登場した灯台ですので、見覚えのある方も多いと思います。「日本の灯台50選」にも選ばれた英国ブラントン式の灯台ですが、日本人により設計・施工された初めての灯台とされます。それを裏付けるかのように「記念額」には「菊の御紋章」が躍っています。これは日本人の設計・施工で洋式灯台を竣工したことの矜持のように思えます。<br />金沢への帰路では、のと里山海道の別所岳サービスエリアにある「能登ゆめてらす」を訪ねました。スカイデッキからは能登島をはじめ風光明媚な七尾湾が見渡せました。また、立山連峰とりわけ剣岳がくっきりと見えたのには感激しました。<br /><br />

松風水月 加賀紀行⑧能登半島周遊(後編)

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2023/05/23 - 2023/05/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

能登半島周遊(後編)は、最初に「道の駅 すず塩田村」での「揚げ浜式製塩法」体験をレポします。世界最古の製塩技術とされ、平安時代末期に始まったそうです。加賀藩3代藩主 前田利常は、農民救済のために製塩を奨励して重要産業として手厚い庇護をし、田畑の少ない農民に対し米を貸し、その代わりに塩を納めさせたそうです。
塩田村を後にして向かったのは「見附島」。見附島は海岸線から約200m沖合に位置する無人の小島であり、その姿形から「軍艦島」とも称されます。近年の地震などで刻々と痩せ細ってきており、健在なうちに訪れたいと思っていました。波打ち際まで近づくと、まさに軍艦が迫ってくるようで圧巻でした。
「禄剛埼灯台」は2015年のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに登場した灯台ですので、見覚えのある方も多いと思います。「日本の灯台50選」にも選ばれた英国ブラントン式の灯台ですが、日本人により設計・施工された初めての灯台とされます。それを裏付けるかのように「記念額」には「菊の御紋章」が躍っています。これは日本人の設計・施工で洋式灯台を竣工したことの矜持のように思えます。
金沢への帰路では、のと里山海道の別所岳サービスエリアにある「能登ゆめてらす」を訪ねました。スカイデッキからは能登島をはじめ風光明媚な七尾湾が見渡せました。また、立山連峰とりわけ剣岳がくっきりと見えたのには感激しました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通手段
観光バス JR特急

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  • 道の駅 すず塩田村<br />珠洲市奥能登塩田村の海岸では、かつての伝統的かつ日本唯一の「揚げ浜式製塩法」による塩づくりが再現されています。揚げ浜式製塩は、入浜式製塩に対応する呼称で、世界最古の製塩技術とされ、平安時代末期から江戸時代にかけて行われてきました。<br />揚げ浜式製塩法とは、約1200年前の文献に登場する製塩法で、粘土板の上に砂を敷いた塩田に汲み上げた海水をまき、天日で乾かした後に塩の結晶をかき集め、再び海水を注いで塩分濃度の高いかん水を作り、それを平釜で夜を徹して煮詰める製塩法です。海のミネラルを豊富に含んだ海塩は仄かに甘みのあるまろやかさが特徴です。

    道の駅 すず塩田村
    珠洲市奥能登塩田村の海岸では、かつての伝統的かつ日本唯一の「揚げ浜式製塩法」による塩づくりが再現されています。揚げ浜式製塩は、入浜式製塩に対応する呼称で、世界最古の製塩技術とされ、平安時代末期から江戸時代にかけて行われてきました。
    揚げ浜式製塩法とは、約1200年前の文献に登場する製塩法で、粘土板の上に砂を敷いた塩田に汲み上げた海水をまき、天日で乾かした後に塩の結晶をかき集め、再び海水を注いで塩分濃度の高いかん水を作り、それを平釜で夜を徹して煮詰める製塩法です。海のミネラルを豊富に含んだ海塩は仄かに甘みのあるまろやかさが特徴です。

  • 道の駅 すず塩田村<br />この地での揚げ浜式製塩は1596(慶長元)年に清水町仁江地内の谷内浜にて営まれたのがはじまりです。藩政期には加賀藩3代藩主 前田利常が農民救済のために塩平米の制度を策定して製塩を奨励し、重要産業として手厚い庇護を行いました。因みに塩平米の制度とは、田畑の少ない農民に対し米を貸し、その代わりに塩を納めさせるもので、玄米一石につき塩九俵(四石五斗)の割合でした。<br />明治時代以降、安価な瀬戸内産の塩が広く流通した影響で衰退し、一時は清水町の角花家だけで伝承されていましたが、近年は製塩業者が増え、知名度が上がっています。2008年には国指定重要無形民俗文化財となり、製塩の労働歌として伝わる「砂取節(すなとりぶし)」は県無形民俗文化財に指定されています。<br />左端の屋根が煤でくすんでいる建屋が平釜で煮詰める場所です。

    道の駅 すず塩田村
    この地での揚げ浜式製塩は1596(慶長元)年に清水町仁江地内の谷内浜にて営まれたのがはじまりです。藩政期には加賀藩3代藩主 前田利常が農民救済のために塩平米の制度を策定して製塩を奨励し、重要産業として手厚い庇護を行いました。因みに塩平米の制度とは、田畑の少ない農民に対し米を貸し、その代わりに塩を納めさせるもので、玄米一石につき塩九俵(四石五斗)の割合でした。
    明治時代以降、安価な瀬戸内産の塩が広く流通した影響で衰退し、一時は清水町の角花家だけで伝承されていましたが、近年は製塩業者が増え、知名度が上がっています。2008年には国指定重要無形民俗文化財となり、製塩の労働歌として伝わる「砂取節(すなとりぶし)」は県無形民俗文化財に指定されています。
    左端の屋根が煤でくすんでいる建屋が平釜で煮詰める場所です。

  • 道の駅 すず塩田村<br />塩田に汲み上げた海水をまいているところです。<br />「揚げ浜式製塩法」による塩づくりの歴史が学べる塩の総合資料館「揚浜館」と、実際に塩づくりが体験できる体験塩田があります。また、お土産品として塩の他に、珠洲焼や珪藻土コンロ等の珠洲の特産品の販売も行っています。<br />加賀藩が珠洲の塩に力を入れ、盛んになった要因としては以下が挙げられます。<br />1.釜を炊くための燃料が入手し易かった。<br />2.内浦の海岸は、砂浜が多く、塩田をつくり易かった。<br />3.外浦の海岸は、磯浜で塩田をつくるのは難儀だが、日照時間が長い利点があった。<br />4.大河がなく、海水の塩分が濃かった。<br />5.水田が少ないため米の生産が十分ではなかったが、米に代わる他の生産品がなかった。

    道の駅 すず塩田村
    塩田に汲み上げた海水をまいているところです。
    「揚げ浜式製塩法」による塩づくりの歴史が学べる塩の総合資料館「揚浜館」と、実際に塩づくりが体験できる体験塩田があります。また、お土産品として塩の他に、珠洲焼や珪藻土コンロ等の珠洲の特産品の販売も行っています。
    加賀藩が珠洲の塩に力を入れ、盛んになった要因としては以下が挙げられます。
    1.釜を炊くための燃料が入手し易かった。
    2.内浦の海岸は、砂浜が多く、塩田をつくり易かった。
    3.外浦の海岸は、磯浜で塩田をつくるのは難儀だが、日照時間が長い利点があった。
    4.大河がなく、海水の塩分が濃かった。
    5.水田が少ないため米の生産が十分ではなかったが、米に代わる他の生産品がなかった。

  • 見附島(石川県天然記念物)<br />順路としては「すず塩田村」から奥能登絶景海道を北上して禄剛崎を目指すのが一般的ですが、先日の地震で通行止めとなった関係で、国道249号線で能登半島東海岸に出て見附島を先に見学することになりました。観光にも少なからず地震の影響が出ている模様です。<br />見附島は、能登半島北東域の飯田湾に臨む海岸線から約200m沖合に位置する無人の小島であり、北西方向に長軸を有する菱形をしており、頂上部には平坦部を持ちます。尚、島の外形が軍艦に似ることから「軍艦島」とも別称されています。<br />島の周辺に所在した断層や堆積構造を主とする地質構造及び長年による風化・浸食作用により形成されたと考えられています。また、周辺に分布する岩層も深く関わっており、能登半島北東域における地形の形成過程を知る上で貴重な地質学資料でもあります。

    見附島(石川県天然記念物)
    順路としては「すず塩田村」から奥能登絶景海道を北上して禄剛崎を目指すのが一般的ですが、先日の地震で通行止めとなった関係で、国道249号線で能登半島東海岸に出て見附島を先に見学することになりました。観光にも少なからず地震の影響が出ている模様です。
    見附島は、能登半島北東域の飯田湾に臨む海岸線から約200m沖合に位置する無人の小島であり、北西方向に長軸を有する菱形をしており、頂上部には平坦部を持ちます。尚、島の外形が軍艦に似ることから「軍艦島」とも別称されています。
    島の周辺に所在した断層や堆積構造を主とする地質構造及び長年による風化・浸食作用により形成されたと考えられています。また、周辺に分布する岩層も深く関わっており、能登半島北東域における地形の形成過程を知る上で貴重な地質学資料でもあります。

  • 見附島<br />名の由来は、空海(弘法大師)が布教のため佐渡島から能登へ向かう際、最初に発見した時の「見~付つけた!」に因むとの伝承があります。また、当地に降臨した加志波良比古神が最初に発見した島との伝承もあります。更には、月の名所でも知られており「見月島」と記す文献もあります。<br />いずれにせよ、平安時代初期である約1200年前、空海が生きた頃から伝承が残る景勝地であることは間違いありません。

    見附島
    名の由来は、空海(弘法大師)が布教のため佐渡島から能登へ向かう際、最初に発見した時の「見~付つけた!」に因むとの伝承があります。また、当地に降臨した加志波良比古神が最初に発見した島との伝承もあります。更には、月の名所でも知られており「見月島」と記す文献もあります。
    いずれにせよ、平安時代初期である約1200年前、空海が生きた頃から伝承が残る景勝地であることは間違いありません。

  • 見附<br />別名「軍艦島」と呼ばれますが、全国には「軍艦島」と称される場所が多々あります。代表格は長崎の沖に浮かぶ端嶋です。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産のひとつでもあります。他にも、契島(広島県)、神集島(佐賀県)、日出島(岩手県)などがあります。この内、人工物として「軍艦」と称されるのが端島と契島。神集島、日出島は島の姿そのものが「軍艦」に模される、言わば「天然系軍艦島」です。

    見附
    別名「軍艦島」と呼ばれますが、全国には「軍艦島」と称される場所が多々あります。代表格は長崎の沖に浮かぶ端嶋です。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産のひとつでもあります。他にも、契島(広島県)、神集島(佐賀県)、日出島(岩手県)などがあります。この内、人工物として「軍艦」と称されるのが端島と契島。神集島、日出島は島の姿そのものが「軍艦」に模される、言わば「天然系軍艦島」です。

  • 見附島<br />頂上部の植物群落は照葉樹林であり、タブノキ、ヤブツバキ、モチノキなどの照葉樹が茂ります。このように北緯37度を越える緯度にあって、なお照葉樹林が自生している点において、植生地理学上貴重な植物群落とされます。<br />日本海の荒波に孤高して季節を問わず緑の植物を冠して浮かぶ景観は、逞しくもあり、江戸時代中期に記された太田道兼著『能登名跡志』に「風景たぐひなき地なり」と謳われています。<br />島の先端上部は茶色っぽい部分が露出していることから、先日の石川県能登地方地震で崩れているように思われます。

    見附島
    頂上部の植物群落は照葉樹林であり、タブノキ、ヤブツバキ、モチノキなどの照葉樹が茂ります。このように北緯37度を越える緯度にあって、なお照葉樹林が自生している点において、植生地理学上貴重な植物群落とされます。
    日本海の荒波に孤高して季節を問わず緑の植物を冠して浮かぶ景観は、逞しくもあり、江戸時代中期に記された太田道兼著『能登名跡志』に「風景たぐひなき地なり」と謳われています。
    島の先端上部は茶色っぽい部分が露出していることから、先日の石川県能登地方地震で崩れているように思われます。

  • 見附島<br />最近まで、見附島と海上鳥居の間には「名もなき小島」が浮かんでいたそうです。その小島は高さ・幅ともに約10mの島だったそうですが、年月と共に浸食して高さ・幅ともに約2mまで縮小していたそうです。そして2019年に襲来した台風15号と19号により完全消滅したそうです。<br />珠洲市観光交流課によると、消えた小島は珪藻土でできた大きな岩だったそうです。台風による高波などにより削り取られたとみられています。いつの日か、この見附島もこのように忽然とその勇姿を消す時が来るのかもしれません。

    見附島
    最近まで、見附島と海上鳥居の間には「名もなき小島」が浮かんでいたそうです。その小島は高さ・幅ともに約10mの島だったそうですが、年月と共に浸食して高さ・幅ともに約2mまで縮小していたそうです。そして2019年に襲来した台風15号と19号により完全消滅したそうです。
    珠洲市観光交流課によると、消えた小島は珪藻土でできた大きな岩だったそうです。台風による高波などにより削り取られたとみられています。いつの日か、この見附島もこのように忽然とその勇姿を消す時が来るのかもしれません。

  • 見附島<br />海岸線から200m沖合にある見附島ですが、行けそうで行けません。砂浜からは石を並べた「海道」が造られており、20mほど手前までは行けますが、その先は無理のようです。もし直下まで行けたとしても断崖絶壁を登ることは困難です。<br />この石道は、1948(昭和23)年頃に地元民が見附島から崩落し海中に沈んでいた岩石を集め、砂浜から見附島まで踏み石として並べたものだそうです。見附島を形成する珪藻泥岩はとても脆く、台風の大雨や地震の度に崩落し、年々見附島は瘦せ細っていると言われています。<br />2023年5月5日にも珠洲市を震源とする震度6強の地震に見舞われましたが、その際も10m程に亘って崩落しています。

    見附島
    海岸線から200m沖合にある見附島ですが、行けそうで行けません。砂浜からは石を並べた「海道」が造られており、20mほど手前までは行けますが、その先は無理のようです。もし直下まで行けたとしても断崖絶壁を登ることは困難です。
    この石道は、1948(昭和23)年頃に地元民が見附島から崩落し海中に沈んでいた岩石を集め、砂浜から見附島まで踏み石として並べたものだそうです。見附島を形成する珪藻泥岩はとても脆く、台風の大雨や地震の度に崩落し、年々見附島は瘦せ細っていると言われています。
    2023年5月5日にも珠洲市を震源とする震度6強の地震に見舞われましたが、その際も10m程に亘って崩落しています。

  • 見附島<br />波打ち際まで近づくと軍艦島が迫ってくるような錯覚に陥ります。<br />因みに戦艦大和は艦底から上甲板までの高さが約19mありました。見附島は水面からの高さが28mありますから、大和よりも高いことになります。空母 加賀は艦底から飛行甲板までの高さが約30mですから、見附島は加賀並みの高さだということになります。

    見附島
    波打ち際まで近づくと軍艦島が迫ってくるような錯覚に陥ります。
    因みに戦艦大和は艦底から上甲板までの高さが約19mありました。見附島は水面からの高さが28mありますから、大和よりも高いことになります。空母 加賀は艦底から飛行甲板までの高さが約30mですから、見附島は加賀並みの高さだということになります。

  • 見附島「えんむすび~ち」<br />見附海岸から南方へ続く恋路海岸までの3.5kmのビーチは「えんむすび~ち」と呼ばれ、浜辺には縁結びの鐘があります。また、鐘の下にはピンク色のハートマークもあり、縁結びを演出してくれます。<br />空気の澄んだ晴れた日には、遥か遠くの北アルプス立山連峰が望め、夜にはライトアップもされるロマンチックスポットです。<br />2017年及び2018年にはトリップアドバイザーの「エクセレンス認証」に認定されています。

    見附島「えんむすび~ち」
    見附海岸から南方へ続く恋路海岸までの3.5kmのビーチは「えんむすび~ち」と呼ばれ、浜辺には縁結びの鐘があります。また、鐘の下にはピンク色のハートマークもあり、縁結びを演出してくれます。
    空気の澄んだ晴れた日には、遥か遠くの北アルプス立山連峰が望め、夜にはライトアップもされるロマンチックスポットです。
    2017年及び2018年にはトリップアドバイザーの「エクセレンス認証」に認定されています。

  • 見附島<br />北アルプス立山連峰です。<br />立山の頂上は雲を纏っていますが、バスの運転手さんによると、ここまでくっきり見えるのは珍しいそうです。<br />そんなビーチには悲恋伝説が語り継がれています。<br />『恋路海岸の悲恋伝説』<br />海の近くにあった多田の里の乙女「鍋乃」が、木郎の里の青年「助三郎」と恋に落ちるところから言い伝えは始まります。<br />木郎の里から多田の里へと通じる道は険しく、とりわけ夜道は危険だったため、助三郎は磯伝いに浅瀬を辿りながら恋路海岸へ辿り着き、鍋乃は目印の篝火を焚いて助三郎を毎晩待っていました。しかし、源次が鍋乃に横恋慕し、源次は鍋乃と助三郎の仲を妬みました。<br />助三郎さえいえなければと思い込んだ源次は、ある夜、助三郎が海の深みに嵌るような場所に篝火を焚きました。何も知らずにやってきた助三郎は篝火の方向へ進みました。そして源次の企て通り、深瀬に嵌って溺死。それを知った鍋乃は絶望して悲嘆に暮れ、助三郎の後を追って自らの命を絶ちました。<br />毎年7月に開催される「恋路火祭り」は、この悲しい恋人たちの霊を慰めるために村人が浜辺に篝火を焚いたのが始まりと伝わります。<br />大小2本のキリコ(巨大な御神灯)が威勢よく海の中を練り回り、油物と呼ばれるこの土地独特の仕掛け火も披露されると歓声が起こります。弁天島に設けられた大松明が燃えて海を赤く染めると、若者たちは竹棹に付けた松明を揺らしながら美しい火の輪を描き、夜空を幻想的に彩るそうです。

    見附島
    北アルプス立山連峰です。
    立山の頂上は雲を纏っていますが、バスの運転手さんによると、ここまでくっきり見えるのは珍しいそうです。
    そんなビーチには悲恋伝説が語り継がれています。
    『恋路海岸の悲恋伝説』
    海の近くにあった多田の里の乙女「鍋乃」が、木郎の里の青年「助三郎」と恋に落ちるところから言い伝えは始まります。
    木郎の里から多田の里へと通じる道は険しく、とりわけ夜道は危険だったため、助三郎は磯伝いに浅瀬を辿りながら恋路海岸へ辿り着き、鍋乃は目印の篝火を焚いて助三郎を毎晩待っていました。しかし、源次が鍋乃に横恋慕し、源次は鍋乃と助三郎の仲を妬みました。
    助三郎さえいえなければと思い込んだ源次は、ある夜、助三郎が海の深みに嵌るような場所に篝火を焚きました。何も知らずにやってきた助三郎は篝火の方向へ進みました。そして源次の企て通り、深瀬に嵌って溺死。それを知った鍋乃は絶望して悲嘆に暮れ、助三郎の後を追って自らの命を絶ちました。
    毎年7月に開催される「恋路火祭り」は、この悲しい恋人たちの霊を慰めるために村人が浜辺に篝火を焚いたのが始まりと伝わります。
    大小2本のキリコ(巨大な御神灯)が威勢よく海の中を練り回り、油物と呼ばれるこの土地独特の仕掛け火も披露されると歓声が起こります。弁天島に設けられた大松明が燃えて海を赤く染めると、若者たちは竹棹に付けた松明を揺らしながら美しい火の輪を描き、夜空を幻想的に彩るそうです。

  • 見附の社<br />見附島の上には元々見附神社(見附弁財天社)という社がありましたが、1993年の能登沖地震で社殿が倒壊し、島の脇に建つ海上の鳥居だけになりました。しかし近年、見附海岸に新たな「見附の社」が造営され遷座しています。因みに見附神社は、かつては見附村鵜飼の氏神で住吉神社(近江道住吉社)の摂社だったそうです。<br />見附島と空海に関しては、別の伝承もあります。<br />空海は唐の恵果阿闍梨から密教伝来の三杵(3種の金剛杵)を授かりました。しかし唐の僧達はその三杵を奪い返そうと帰国する空海を追い詰めました。その時空海は東方を望み、「密教有縁の所に行きて我を待つべし」と三杵を空高く投げました。帰国後、空海は三杵を捜し求めて能登半島沖を通りかかりました。すると波音に混じって法華経の読誦の声が聞こえてきました。島に上陸して探すと、三杵の一つの五鈷杵が光り輝き白夜法華経を唱えていました。空海はここに一宇を創建し「吼木山(ほえぎざん)法住寺」と名付けました。そして三杵を見付けることができた島という意味で、「見附島」と名付けたと伝えます。<br />三鈷杵は高野山に、五鈷杵は見附島に、「独鈷杵」は佐渡の小比叡山に飛来していたそうです。<br />因みに四国八十八ヶ所霊場にも類似の由緒が存在します。「独鈷杵」は第36番札所 青龍寺 奥の院に、「五鈷杵」は第38番札所 金剛福寺(足摺岬)に、そして特別に「宝珠」は第42番札所 仏木寺に飛来していたと伝えます。<br />まさか能登にも金剛杵投げ伝説があったとは…。しかし、これはあくまでも伝説であり、空海がこの地を訪れたという史実はないようです。ただし、佐渡が京の鬼門の方角に当たることから、空海が佐渡に蓮華峰寺を開いたとの伝承はあります。

    見附の社
    見附島の上には元々見附神社(見附弁財天社)という社がありましたが、1993年の能登沖地震で社殿が倒壊し、島の脇に建つ海上の鳥居だけになりました。しかし近年、見附海岸に新たな「見附の社」が造営され遷座しています。因みに見附神社は、かつては見附村鵜飼の氏神で住吉神社(近江道住吉社)の摂社だったそうです。
    見附島と空海に関しては、別の伝承もあります。
    空海は唐の恵果阿闍梨から密教伝来の三杵(3種の金剛杵)を授かりました。しかし唐の僧達はその三杵を奪い返そうと帰国する空海を追い詰めました。その時空海は東方を望み、「密教有縁の所に行きて我を待つべし」と三杵を空高く投げました。帰国後、空海は三杵を捜し求めて能登半島沖を通りかかりました。すると波音に混じって法華経の読誦の声が聞こえてきました。島に上陸して探すと、三杵の一つの五鈷杵が光り輝き白夜法華経を唱えていました。空海はここに一宇を創建し「吼木山(ほえぎざん)法住寺」と名付けました。そして三杵を見付けることができた島という意味で、「見附島」と名付けたと伝えます。
    三鈷杵は高野山に、五鈷杵は見附島に、「独鈷杵」は佐渡の小比叡山に飛来していたそうです。
    因みに四国八十八ヶ所霊場にも類似の由緒が存在します。「独鈷杵」は第36番札所 青龍寺 奥の院に、「五鈷杵」は第38番札所 金剛福寺(足摺岬)に、そして特別に「宝珠」は第42番札所 仏木寺に飛来していたと伝えます。
    まさか能登にも金剛杵投げ伝説があったとは…。しかし、これはあくまでも伝説であり、空海がこの地を訪れたという史実はないようです。ただし、佐渡が京の鬼門の方角に当たることから、空海が佐渡に蓮華峰寺を開いたとの伝承はあります。

  • 禄剛崎(ろっこうさき) モニュメント「石川国体採火式記念碑(海風の灯)」<br />禄剛埼灯台はとても美しい景色が見られる場所ですが、灯台までは道の駅 狼煙(のろし)から400m程の坂道を登る必要があります。比較的なだらかな坂道ですが、一部に急勾配な所があり、10分程の苦行を覚悟することになります。しかし苦難の先には眼を瞠るような絶景が待っています。<br />坂道を登り切りると平坦な草原にでます。右手に「海風の灯り」として1991年に創立されたモニュメントが見えてくると、灯台はもうすぐです。<br />「海風の灯」の趣旨については次のように刻まれています。<br />中央部の石塔は石川県の大地を表し四方から塔上へ集中するように配置された自然石は、日本海から吹き上げる風を象徴しています。最上部の火焔透し彫りは、石川国体の炬火のために海風によって採火された「能登の火」を意味します。当地「狼煙」は、むかし火急の際の合図に煙をあげたという伝説の地であり、今隣接する灯台は航海の安全を守って灯をともし続けています。このように神聖な「火」にちなむ台地のモニュメントであることから正面より真北の海を拝した際ここが自然への敬虔な祈りの場となるように考慮しました。<br />尚、制作者は、珠洲市教育委員会事務局に確認したところ、 山瀬晋吾氏と考えられるとのことです。30年以上も前のことで資料も残されていないようですが、作品に記されたサインから特定していただきました。<br />山瀬氏は1935(昭和10)年に珠洲郡内浦町に生まれ、金沢大学教育学部美術専攻を卒業後、富山大学教育学部教授や日展評議員、日本彫刻会会員を歴任された方です。また、尾山神社にある前田利家 騎馬像の制作にも米林勝二氏、湊真佐大氏と共に関わられています。金沢城公園 白鳥路にある徳田秋聲像も山瀬氏の作品です。

    禄剛崎(ろっこうさき) モニュメント「石川国体採火式記念碑(海風の灯)」
    禄剛埼灯台はとても美しい景色が見られる場所ですが、灯台までは道の駅 狼煙(のろし)から400m程の坂道を登る必要があります。比較的なだらかな坂道ですが、一部に急勾配な所があり、10分程の苦行を覚悟することになります。しかし苦難の先には眼を瞠るような絶景が待っています。
    坂道を登り切りると平坦な草原にでます。右手に「海風の灯り」として1991年に創立されたモニュメントが見えてくると、灯台はもうすぐです。
    「海風の灯」の趣旨については次のように刻まれています。
    中央部の石塔は石川県の大地を表し四方から塔上へ集中するように配置された自然石は、日本海から吹き上げる風を象徴しています。最上部の火焔透し彫りは、石川国体の炬火のために海風によって採火された「能登の火」を意味します。当地「狼煙」は、むかし火急の際の合図に煙をあげたという伝説の地であり、今隣接する灯台は航海の安全を守って灯をともし続けています。このように神聖な「火」にちなむ台地のモニュメントであることから正面より真北の海を拝した際ここが自然への敬虔な祈りの場となるように考慮しました。
    尚、制作者は、珠洲市教育委員会事務局に確認したところ、 山瀬晋吾氏と考えられるとのことです。30年以上も前のことで資料も残されていないようですが、作品に記されたサインから特定していただきました。
    山瀬氏は1935(昭和10)年に珠洲郡内浦町に生まれ、金沢大学教育学部美術専攻を卒業後、富山大学教育学部教授や日展評議員、日本彫刻会会員を歴任された方です。また、尾山神社にある前田利家 騎馬像の制作にも米林勝二氏、湊真佐大氏と共に関わられています。金沢城公園 白鳥路にある徳田秋聲像も山瀬氏の作品です。

  • 禄剛埼灯台<br />珠洲市狼煙町に佇む明治時代に日本人の手で設計・施工された秀逸なデザインを誇る凛とした白亜の石造灯台です。能登半島には数多の灯台がありますが、この灯台は能登半島最古の灯台でもあります。地元では設置されている町の名前から「狼煙(のろし)の灯台」とも呼ばれます。因みに、2015年のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに登場した灯台としても知られています。<br />歴史的にも文化財的にも価値があるとして、海上保安庁が選んだ「保存灯台」の中で最も価値の高いAランクに格付けされています。また、1998年に「日本の灯台50選」に選ばれ、2009年には「近代化産業遺産」、2017年には日本ロマンチスト協会の「恋する灯台」にも認定されました。<br />無人のため内部見学はできませんが、年に数回一般公開されます。

    禄剛埼灯台
    珠洲市狼煙町に佇む明治時代に日本人の手で設計・施工された秀逸なデザインを誇る凛とした白亜の石造灯台です。能登半島には数多の灯台がありますが、この灯台は能登半島最古の灯台でもあります。地元では設置されている町の名前から「狼煙(のろし)の灯台」とも呼ばれます。因みに、2015年のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに登場した灯台としても知られています。
    歴史的にも文化財的にも価値があるとして、海上保安庁が選んだ「保存灯台」の中で最も価値の高いAランクに格付けされています。また、1998年に「日本の灯台50選」に選ばれ、2009年には「近代化産業遺産」、2017年には日本ロマンチスト協会の「恋する灯台」にも認定されました。
    無人のため内部見学はできませんが、年に数回一般公開されます。

  • 禄剛埼灯台<br />日本人の設計と思われるのですが「ブラントン式」と称されています。それは、灯台の形状が「日本の灯台の父」と称された英国人技師リチャード・ブラントンが設計した灯塔の周りに半円形の付属舎が付いた形と同型だからです。<br />ネット情報ではブラントンの設計と記されたものも多々ありますが、それは時系列的に鑑みて無理があると思います。と言うのも、ブラントンは1868(明治元)年~1876(明治9)年まで、後任のジェームス・マクリッチは1872(明治5)年~1879(明治12)年まで日本に滞在して多くの灯台建設に携わりました。しかし、灯台の建設時期がブラントンが帰国してから数年経過していることや、灯台設計の基本となる現地調査をブラントンが実施した記録がないからです。本件については、後ほどもう少し深堀したいと思います。

    禄剛埼灯台
    日本人の設計と思われるのですが「ブラントン式」と称されています。それは、灯台の形状が「日本の灯台の父」と称された英国人技師リチャード・ブラントンが設計した灯塔の周りに半円形の付属舎が付いた形と同型だからです。
    ネット情報ではブラントンの設計と記されたものも多々ありますが、それは時系列的に鑑みて無理があると思います。と言うのも、ブラントンは1868(明治元)年~1876(明治9)年まで、後任のジェームス・マクリッチは1872(明治5)年~1879(明治12)年まで日本に滞在して多くの灯台建設に携わりました。しかし、灯台の建設時期がブラントンが帰国してから数年経過していることや、灯台設計の基本となる現地調査をブラントンが実施した記録がないからです。本件については、後ほどもう少し深堀したいと思います。

  • 禄剛埼灯台<br />灯台の高さは12m、海面からの高さは48mあります。最大の特徴は付属舎(塔の下部にある部屋のような部分)が半円形になっていることです。建築当初、ここは燃料油貯蔵室として使われていました。<br />竣工当初から白色塔形(円形)石造ですが、石材は海路約60km離れた七尾湾に面した穴水町から小船で運ばれ、岬に索道を掛けて標高36mの台地の上まで人力で引き揚げるという難工事の連続で、完成まで約2年を要しました。

    禄剛埼灯台
    灯台の高さは12m、海面からの高さは48mあります。最大の特徴は付属舎(塔の下部にある部屋のような部分)が半円形になっていることです。建築当初、ここは燃料油貯蔵室として使われていました。
    竣工当初から白色塔形(円形)石造ですが、石材は海路約60km離れた七尾湾に面した穴水町から小船で運ばれ、岬に索道を掛けて標高36mの台地の上まで人力で引き揚げるという難工事の連続で、完成まで約2年を要しました。

  • 禄剛埼灯台<br />禄剛埼灯台に殊更興味を持ったのは設計者が特定できていないからです。<br />ネット情報では「日本人の設計」と「英国人技師リチャード・ブラントンの設計」が拮抗しています。例えば前者の例は、珠洲市HPなどにある一方、後者の例は観光系WEBサイトが中心になり、その根拠はいずれも記載されていません。<br />因みに1870~76(明治3~9)年に竣工した石造灯台は、全て円筒形の灯塔に半円形の付属舎を付けた形状のため、「ブラントン式灯台」と呼ばれ、その意味では禄剛埼灯台も例外ではありません。<br />調べていくと、公益社団法人 燈光会の会誌「燈光」の平成27年9月号「明治の灯台の話(52)禄剛埼灯台」という記事に辿り着きました。<br />禄剛埼灯台のひとつ前に造られた立石岬灯台(初点灯は1881年7月)と比較して見解を述べられています。どちらも石造りで、円形か半円形かの違いはあるものの「ブラントン式」付属舎があり、見た目は類似しています。しかし「記念額」に着目し、その相違点などから設計者を推察されています。<br />立石岬灯台の「記念額」には初点灯の年月日が英語と日本語の両方で書かれており、英語の年月日が刻まれているのは立石岬灯台が最後のようです。<br />また、これら以外にも菊の御紋章などの考察も含めて導かれた結論は以下のようなものとなっています。<br />「禄剛埼灯台の設計は外国人が関与していないことが強く考えられます。外国人技術者がすべて去った後ブラントン型灯台が復活した理由は、彼らの援助なしに日本人技術者だけで建設できる石造の洋式灯台は、彼らと最も多く携わったブラントン型灯台が1番だったからではないでしょうか。」<br />参考のため「明治の灯台の話(52)禄剛埼灯台」のWEBサイトを記しておきます。<br />https://tokokai.org/kaishi/touko_2015-9.pdf

    禄剛埼灯台
    禄剛埼灯台に殊更興味を持ったのは設計者が特定できていないからです。
    ネット情報では「日本人の設計」と「英国人技師リチャード・ブラントンの設計」が拮抗しています。例えば前者の例は、珠洲市HPなどにある一方、後者の例は観光系WEBサイトが中心になり、その根拠はいずれも記載されていません。
    因みに1870~76(明治3~9)年に竣工した石造灯台は、全て円筒形の灯塔に半円形の付属舎を付けた形状のため、「ブラントン式灯台」と呼ばれ、その意味では禄剛埼灯台も例外ではありません。
    調べていくと、公益社団法人 燈光会の会誌「燈光」の平成27年9月号「明治の灯台の話(52)禄剛埼灯台」という記事に辿り着きました。
    禄剛埼灯台のひとつ前に造られた立石岬灯台(初点灯は1881年7月)と比較して見解を述べられています。どちらも石造りで、円形か半円形かの違いはあるものの「ブラントン式」付属舎があり、見た目は類似しています。しかし「記念額」に着目し、その相違点などから設計者を推察されています。
    立石岬灯台の「記念額」には初点灯の年月日が英語と日本語の両方で書かれており、英語の年月日が刻まれているのは立石岬灯台が最後のようです。
    また、これら以外にも菊の御紋章などの考察も含めて導かれた結論は以下のようなものとなっています。
    「禄剛埼灯台の設計は外国人が関与していないことが強く考えられます。外国人技術者がすべて去った後ブラントン型灯台が復活した理由は、彼らの援助なしに日本人技術者だけで建設できる石造の洋式灯台は、彼らと最も多く携わったブラントン型灯台が1番だったからではないでしょうか。」
    参考のため「明治の灯台の話(52)禄剛埼灯台」のWEBサイトを記しておきます。
    https://tokokai.org/kaishi/touko_2015-9.pdf

  • 禄剛埼灯台<br />灯塔への入口上部にある「記念額」には2字詰め縦書きの篆書体で「明治十六年七月十日初點燈」と記されています。また、その上方には「菊の御紋章」が躍っています。更には、灯台の踊り場の支え金具や内部の天井にも菊の模様らしきものが見られます。これらの明治時代の面影を留めるパーツからは、歴史の重みと風格が伝わってきます。<br />菊の御紋章は全国の灯台の中で唯一この禄剛埼灯台だけに見られるものです。往時は使用が規制されていた「菊の御紋章」を敢えて付けた理由は何か?何故他の灯台には見られないのか?その経緯を記した資料は残されていないそうです。私見ではありますが、これこそ日本人の手によって設計・施工された最初の洋式灯台であることの矜持の証ではないかと思われます。

    禄剛埼灯台
    灯塔への入口上部にある「記念額」には2字詰め縦書きの篆書体で「明治十六年七月十日初點燈」と記されています。また、その上方には「菊の御紋章」が躍っています。更には、灯台の踊り場の支え金具や内部の天井にも菊の模様らしきものが見られます。これらの明治時代の面影を留めるパーツからは、歴史の重みと風格が伝わってきます。
    菊の御紋章は全国の灯台の中で唯一この禄剛埼灯台だけに見られるものです。往時は使用が規制されていた「菊の御紋章」を敢えて付けた理由は何か?何故他の灯台には見られないのか?その経緯を記した資料は残されていないそうです。私見ではありますが、これこそ日本人の手によって設計・施工された最初の洋式灯台であることの矜持の証ではないかと思われます。

  • 禄剛埼灯台<br />踊り場の支え金具の中央には、このように菊の紋章らしきものがあります。<br />通常、このような補強部にこうした装飾性の高い意匠を使うのはとても不自然なことです。こうした考察から、敢えて何かを訴える手段として意図的に用いたとしか思えません。

    禄剛埼灯台
    踊り場の支え金具の中央には、このように菊の紋章らしきものがあります。
    通常、このような補強部にこうした装飾性の高い意匠を使うのはとても不自然なことです。こうした考察から、敢えて何かを訴える手段として意図的に用いたとしか思えません。

  • 禄剛埼灯台<br />後日譚になりますが、「明治の灯台の話(52)禄剛埼灯台」の推論に当方の見解を含め、公益社団法人 燈光会へ問い合わせてみました。その回答が次のものです。<br />「日頃より当会事業にご理解賜り感謝申し上げます。<br />ご質問の禄剛埼灯台の設計者について、当会の見解をお答えいたします。同灯台の設計に関する一次資料の調査、分析が完全に行われておりませんので断定的には申し上げられませんが、○○様の見解にありますように、ブラントンがこの灯台の建設に関与したというのはほぼ無いと思われます。同灯台の建設時期がブラントンが帰国してから数年経過していることや、彼が滞在中にこの場所を調査したという記録もありません。またブラントンの後を継いだマクリッチについても、同灯台に関わった記録はありませんし、彼の造った灯台には禄剛埼のような形のものはありません。従って、日本人による設計・施工であると推察されます。当会に保存されている禄剛埼灯台の敷地図には、七等技手 相澤宇三郎、御用係 羽根与之助、二等守燈方 橋本義恭の名前が記されており、同人たちが建設に関わったものと思われます。同灯台に絡んでブラントンの名前が出てくるのは、灯台の形状がブラントンが設計した灯塔の周りに半円形の付属舎が付いた形と同型であることからではないかと思われます。日本人が灯台を建てるに当たり、ブラントンの設計した灯台を手本にしたものと思われます。因みに、明治31年に造られた美保関灯台(島根県松江市)も禄剛埼灯台と類似の形状になっています。<br />以上、お答えになっていれば幸いに存じます。<br />燈光会事務局」

    禄剛埼灯台
    後日譚になりますが、「明治の灯台の話(52)禄剛埼灯台」の推論に当方の見解を含め、公益社団法人 燈光会へ問い合わせてみました。その回答が次のものです。
    「日頃より当会事業にご理解賜り感謝申し上げます。
    ご質問の禄剛埼灯台の設計者について、当会の見解をお答えいたします。同灯台の設計に関する一次資料の調査、分析が完全に行われておりませんので断定的には申し上げられませんが、○○様の見解にありますように、ブラントンがこの灯台の建設に関与したというのはほぼ無いと思われます。同灯台の建設時期がブラントンが帰国してから数年経過していることや、彼が滞在中にこの場所を調査したという記録もありません。またブラントンの後を継いだマクリッチについても、同灯台に関わった記録はありませんし、彼の造った灯台には禄剛埼のような形のものはありません。従って、日本人による設計・施工であると推察されます。当会に保存されている禄剛埼灯台の敷地図には、七等技手 相澤宇三郎、御用係 羽根与之助、二等守燈方 橋本義恭の名前が記されており、同人たちが建設に関わったものと思われます。同灯台に絡んでブラントンの名前が出てくるのは、灯台の形状がブラントンが設計した灯塔の周りに半円形の付属舎が付いた形と同型であることからではないかと思われます。日本人が灯台を建てるに当たり、ブラントンの設計した灯台を手本にしたものと思われます。因みに、明治31年に造られた美保関灯台(島根県松江市)も禄剛埼灯台と類似の形状になっています。
    以上、お答えになっていれば幸いに存じます。
    燈光会事務局」

  • 禄剛埼灯台<br />能登半島の最果ての地、禄剛埼周辺海域は古くから海難事故が多く、北回り廻船の要衝を占める地として1756(宝暦6)年に焚き火常夜灯(狼煙場)設置の要望がなされ、背後の山伏山の山腹に九尺四方の行燈を設け、火皿に油を浸して火を灯して海難防止を図っていたと伝わります。また、1836(天保7)年には海上整備のため、現在の灯台付近に砲台が築かれていたそうです。<br />因みに狼煙町という町名は、海難防止のための常夜灯の狼煙が由来だそうです。<br />現在もこの地には狼煙港や狼煙海岸などの地名が残っています。

    禄剛埼灯台
    能登半島の最果ての地、禄剛埼周辺海域は古くから海難事故が多く、北回り廻船の要衝を占める地として1756(宝暦6)年に焚き火常夜灯(狼煙場)設置の要望がなされ、背後の山伏山の山腹に九尺四方の行燈を設け、火皿に油を浸して火を灯して海難防止を図っていたと伝わります。また、1836(天保7)年には海上整備のため、現在の灯台付近に砲台が築かれていたそうです。
    因みに狼煙町という町名は、海難防止のための常夜灯の狼煙が由来だそうです。
    現在もこの地には狼煙港や狼煙海岸などの地名が残っています。

  • 禄剛埼灯台<br />岬の名は「禄剛崎」ですが、灯台は「禄剛埼」です。紛らわしいから「崎」と「埼」は統一してもよさそうに思うのですが、使い分けているのにはそれなりの理由があるようです。<br />すなわち、「崎」は、平野の中に突出した山地の鼻等を意味し、地図を作成している国土地理院は主に「崎」を使用します。  <br />一方、「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを意味し、海図を作成している海上保安庁海洋情報部は主に「埼」を使用します。<br />つまり、国土地理院管轄なのか、海上保安庁管轄なのかで使い分けられているそうです。

    禄剛埼灯台
    岬の名は「禄剛崎」ですが、灯台は「禄剛埼」です。紛らわしいから「崎」と「埼」は統一してもよさそうに思うのですが、使い分けているのにはそれなりの理由があるようです。
    すなわち、「崎」は、平野の中に突出した山地の鼻等を意味し、地図を作成している国土地理院は主に「崎」を使用します。  
    一方、「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを意味し、海図を作成している海上保安庁海洋情報部は主に「埼」を使用します。
    つまり、国土地理院管轄なのか、海上保安庁管轄なのかで使い分けられているそうです。

  • 禄剛埼灯台<br />1883(明治16)年7月10日に初点灯して以来、現在も近海を照らし続け、海の安全に寄与しています。1940(昭和15)年には発光を灯油から電化し、1963(昭和38)年には機器の自動化により無人化されました。<br />尚、レンズにも特徴があります。通常はレンズを回転させることにより光を点滅させますが、この灯台はレンズを固定し灯火の遮蔽板を回転させることにで点滅させています。レンズはフランス製の第2等不動フレネル式(電動遮蔽式回転機械)で、5万5千カンデラの光は海上約33kmまで達するそうです。

    禄剛埼灯台
    1883(明治16)年7月10日に初点灯して以来、現在も近海を照らし続け、海の安全に寄与しています。1940(昭和15)年には発光を灯油から電化し、1963(昭和38)年には機器の自動化により無人化されました。
    尚、レンズにも特徴があります。通常はレンズを回転させることにより光を点滅させますが、この灯台はレンズを固定し灯火の遮蔽板を回転させることにで点滅させています。レンズはフランス製の第2等不動フレネル式(電動遮蔽式回転機械)で、5万5千カンデラの光は海上約33kmまで達するそうです。

  • 禄剛崎 <br />日本海に突き出した能登半島の北東の先端、三角形に突き出た所が禄剛崎と呼ばれる岬です。この禄剛崎は外浦と内浦との境目にも当たり、左側が外浦になります。また、この岬は「海から昇る朝日と、海に沈む夕陽」が同じ場所で見られることでも知られています。<br />周辺は能登半島国定公園に指定されている風光明媚な地で、海抜50mほどある断崖絶壁が続き、干潮時には崖下に「千畳敷」と呼ばれるほぼ平坦な海食棚が広がります。海水の透明度が高く、洗濯板を彷彿とさせる自然の造形がはっきりと見られます。

    禄剛崎
    日本海に突き出した能登半島の北東の先端、三角形に突き出た所が禄剛崎と呼ばれる岬です。この禄剛崎は外浦と内浦との境目にも当たり、左側が外浦になります。また、この岬は「海から昇る朝日と、海に沈む夕陽」が同じ場所で見られることでも知られています。
    周辺は能登半島国定公園に指定されている風光明媚な地で、海抜50mほどある断崖絶壁が続き、干潮時には崖下に「千畳敷」と呼ばれるほぼ平坦な海食棚が広がります。海水の透明度が高く、洗濯板を彷彿とさせる自然の造形がはっきりと見られます。

  • 禄剛崎 山口誓子の句碑<br />1979(昭和54)年3月建立。<br />「ひぐらしが 鳴く奥能登の ゆきどまり」 103番目の誓子句碑です。<br />1961(昭和36)年、旅情を誘う俳人 山口誓子が禄剛埼灯台を訪ねた際、台地に立って最果ての岬の感傷を詠んだ句です。<br />山口誓子は京都市生まれ。14歳にして俳句を詠み始めたそうですが、三高文化乙類に入学後「京大三高俳句会」で日野草城の指導の下に本格的な作句活動に入り「ホトトギス」に投句。1922(大正11)年、東京帝国大学法学部に入り、水原秋桜子・富安風生・山口青邨らと「東大俳句会」を結成。近代俳句の新時代を切り開いたのは水原秋桜子と山口誓子であったと言っても過言ではありません。1994(平成6)年、92歳にて逝去。

    禄剛崎 山口誓子の句碑
    1979(昭和54)年3月建立。
    「ひぐらしが 鳴く奥能登の ゆきどまり」 103番目の誓子句碑です。
    1961(昭和36)年、旅情を誘う俳人 山口誓子が禄剛埼灯台を訪ねた際、台地に立って最果ての岬の感傷を詠んだ句です。
    山口誓子は京都市生まれ。14歳にして俳句を詠み始めたそうですが、三高文化乙類に入学後「京大三高俳句会」で日野草城の指導の下に本格的な作句活動に入り「ホトトギス」に投句。1922(大正11)年、東京帝国大学法学部に入り、水原秋桜子・富安風生・山口青邨らと「東大俳句会」を結成。近代俳句の新時代を切り開いたのは水原秋桜子と山口誓子であったと言っても過言ではありません。1994(平成6)年、92歳にて逝去。

  • 禄剛崎 標識<br />日本海を望む展望台には日本海沿岸の主要都市への方向と距離を示した標識があります。釜山まで783km、ウラジオストクまで772km、東京まで302km、上海まで1598kmとあります。<br />人の性でしょうか、思わず標識の指し示す方向に目をやってしまうのですが、当然ながら視線の先には水平線が申し訳なさそうに横たわるばかりです。

    禄剛崎 標識
    日本海を望む展望台には日本海沿岸の主要都市への方向と距離を示した標識があります。釜山まで783km、ウラジオストクまで772km、東京まで302km、上海まで1598kmとあります。
    人の性でしょうか、思わず標識の指し示す方向に目をやってしまうのですが、当然ながら視線の先には水平線が申し訳なさそうに横たわるばかりです。

  • 禄剛崎 モニュメント「日本の中心」<br />「日本列島ここが中心」と書かれています。「日本のへそ」を自称するのは兵庫県西脇市ですが、日本の中心が複数あるのは奇妙です。<br />調べみると、「日本の中心」ではなく「日本の重心」とのことです。国土地理院が平面としての「日本の重心」を計算し、日本の東西と南北端点を基に東経137度42分33秒、北緯37度31分03秒を算定したようです。ところが、この地点は日本海上にあるため、その地点から最も近いこの地に記念碑を建立したということです。<br />なんと人騒がせな碑ですこと!

    禄剛崎 モニュメント「日本の中心」
    「日本列島ここが中心」と書かれています。「日本のへそ」を自称するのは兵庫県西脇市ですが、日本の中心が複数あるのは奇妙です。
    調べみると、「日本の中心」ではなく「日本の重心」とのことです。国土地理院が平面としての「日本の重心」を計算し、日本の東西と南北端点を基に東経137度42分33秒、北緯37度31分03秒を算定したようです。ところが、この地点は日本海上にあるため、その地点から最も近いこの地に記念碑を建立したということです。
    なんと人騒がせな碑ですこと!

  • 禄剛崎 点灯百周年記念碑<br />この灯台が建つ前は、山伏山の山腹で火を灯したり狼煙を上げて航行の目印としていました。<br />碑文には次のように刻んでいます。<br />「禄剛崎沖一帯は、岩礁地帯、江戸時代、山伏山の山 腹に、毎晩タネ油を燃やし日本海航行の目印とした。灯台初点灯百周年にあたり、昭和58年7月10日に記念碑を建 立した。」

    禄剛崎 点灯百周年記念碑
    この灯台が建つ前は、山伏山の山腹で火を灯したり狼煙を上げて航行の目印としていました。
    碑文には次のように刻んでいます。
    「禄剛崎沖一帯は、岩礁地帯、江戸時代、山伏山の山 腹に、毎晩タネ油を燃やし日本海航行の目印とした。灯台初点灯百周年にあたり、昭和58年7月10日に記念碑を建 立した。」

  • 禄剛崎 方位盤<br />禄剛崎を中心とした方位盤です。半球の手前側が能登半島、裏側が佐渡島と日本海になっています。<br />珠洲ロータリークラブが創立5周年記念式典で記念事業として方位盤を制作し、珠洲市へ寄贈したものです。

    禄剛崎 方位盤
    禄剛崎を中心とした方位盤です。半球の手前側が能登半島、裏側が佐渡島と日本海になっています。
    珠洲ロータリークラブが創立5周年記念式典で記念事業として方位盤を制作し、珠洲市へ寄贈したものです。

  • 禄剛崎 <br />ヤマボウシです。<br />ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木です。初夏を代表する花木で、花びらのように白く見える総苞片を付けてその中心に小さな花を咲かせます。<br />和名「ヤマボウシ」の由来は、中心に多数の花が集まる頭状の花序を法師(僧兵)の坊主頭に、花びらに見える白い総苞片を白い頭巾に見立てたもので、「山に咲く法師」(山法師)を意味すると言われています。<br />花言葉は「友情」です。

    禄剛崎
    ヤマボウシです。
    ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木です。初夏を代表する花木で、花びらのように白く見える総苞片を付けてその中心に小さな花を咲かせます。
    和名「ヤマボウシ」の由来は、中心に多数の花が集まる頭状の花序を法師(僧兵)の坊主頭に、花びらに見える白い総苞片を白い頭巾に見立てたもので、「山に咲く法師」(山法師)を意味すると言われています。
    花言葉は「友情」です。

  • 能登ゆめてらす<br />2010年に建設された「能登ゆめてらす」は、のと里山海道の別所岳サービスエリアにある七尾湾を一望できるスカイデッキです。別所岳サービスエリアは七尾市と穴水町との境付近にあります。<br />金沢市から能登半島を繋ぐ大動脈が「のと里山海道」です。1982(昭和57)年に能登有料道路として全線開通しましたが、2013年3月31日から無料で通れるようになりました。その時から「のと里山海道」と改名して利用されています。

    能登ゆめてらす
    2010年に建設された「能登ゆめてらす」は、のと里山海道の別所岳サービスエリアにある七尾湾を一望できるスカイデッキです。別所岳サービスエリアは七尾市と穴水町との境付近にあります。
    金沢市から能登半島を繋ぐ大動脈が「のと里山海道」です。1982(昭和57)年に能登有料道路として全線開通しましたが、2013年3月31日から無料で通れるようになりました。その時から「のと里山海道」と改名して利用されています。

  • 能登ゆめてらす<br />2007年に能登半島地震が発生しました。この震災からの復興や能登の発展が「夢」のように大きく膨らむようにとの願いを込め、一般公募により「能登ゆめてらす」と命名されました。<br />「ゆめ」は「夢」だと思いますが、「てらす」は英語の「terrace」と「(夢を)照らす」とのダブルネーミングと勘繰るのは早計でしょうか?

    能登ゆめてらす
    2007年に能登半島地震が発生しました。この震災からの復興や能登の発展が「夢」のように大きく膨らむようにとの願いを込め、一般公募により「能登ゆめてらす」と命名されました。
    「ゆめ」は「夢」だと思いますが、「てらす」は英語の「terrace」と「(夢を)照らす」とのダブルネーミングと勘繰るのは早計でしょうか?

  • 能登ゆめてらす<br />「スカイウオーク」はスロープと階段で構成されています。スロープの勾配は緩やかですが、途中には階段もあり、階段の上り下りが大変な方はスカイデッキ真下から乗れるエレベータの利用がお勧めです。スカイデッキは、高さ13mの場所にあり、下部はガラスで囲まれており開放感があります。

    能登ゆめてらす
    「スカイウオーク」はスロープと階段で構成されています。スロープの勾配は緩やかですが、途中には階段もあり、階段の上り下りが大変な方はスカイデッキ真下から乗れるエレベータの利用がお勧めです。スカイデッキは、高さ13mの場所にあり、下部はガラスで囲まれており開放感があります。

  • 能登ゆめてらす<br />スカイデッキを含めたモニュメント広場のデザインはコンペで選ばれました。石川県が県内の空間デザイン系の大学・専門学校に呼びかけ、能登半島地震からの復興のモニュメントとなる広場の基本計画デ ザインを募りました。<br />審査の結果、金沢美術工芸大学チーム案が最優秀案に選ばれました。大学院デザイン科環境デザインコー スに学ぶ学生と鍔隆弘教授が共同提案したものです。尚、鍔教授は実施設計の監修と施工の監修をなされています。因みに施工は、株式会社 日本海コンサルタントが請け負いました。<br />設計コンセプトは、掘削により裸地化された跡地を震災復興メモリアル園地として復旧することでした。震災の記憶をランドスケープで表現し、かつての景観に思いを馳せられることを主眼にしました。<br />何故、別所岳サービスエリアが掘削により裸地化されたのかは次に示す経緯によります。能登半島地震により能登有料道路では数ヶ所に亘り道路の崩落が生じました。その復旧に際し、別所岳サービスエリアは復旧工事の基地となり、サービスエリア背後の山林は復旧用の土採取場となりました。その結果、七尾湾を望めた山は元の地形を想像し難いほどに造成され尽くされたのでした。

    能登ゆめてらす
    スカイデッキを含めたモニュメント広場のデザインはコンペで選ばれました。石川県が県内の空間デザイン系の大学・専門学校に呼びかけ、能登半島地震からの復興のモニュメントとなる広場の基本計画デ ザインを募りました。
    審査の結果、金沢美術工芸大学チーム案が最優秀案に選ばれました。大学院デザイン科環境デザインコー スに学ぶ学生と鍔隆弘教授が共同提案したものです。尚、鍔教授は実施設計の監修と施工の監修をなされています。因みに施工は、株式会社 日本海コンサルタントが請け負いました。
    設計コンセプトは、掘削により裸地化された跡地を震災復興メモリアル園地として復旧することでした。震災の記憶をランドスケープで表現し、かつての景観に思いを馳せられることを主眼にしました。
    何故、別所岳サービスエリアが掘削により裸地化されたのかは次に示す経緯によります。能登半島地震により能登有料道路では数ヶ所に亘り道路の崩落が生じました。その復旧に際し、別所岳サービスエリアは復旧工事の基地となり、サービスエリア背後の山林は復旧用の土採取場となりました。その結果、七尾湾を望めた山は元の地形を想像し難いほどに造成され尽くされたのでした。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />眺望もさることながら「映え写真が撮れる!」としてインスタグラマーから人気を集めています。リフレクション写真はスカイデッキにある天然石のベンチの上にカメラを置いて撮ると、誰でも簡単に写せます。この状態ですので諦めましたが…。<br />少し引いて眺めると、スカイデッキの床や壁、天井によって四角く切り取られた複雑な汀線を持つ七尾湾の絶景が、あたかも額縁の中の絵画を彷彿とさせます。ポツンと置かれた天然石のベンチもひとつのオブジェとして存在感を放ち、美術館を思わせる佇まいを魅せています。

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    眺望もさることながら「映え写真が撮れる!」としてインスタグラマーから人気を集めています。リフレクション写真はスカイデッキにある天然石のベンチの上にカメラを置いて撮ると、誰でも簡単に写せます。この状態ですので諦めましたが…。
    少し引いて眺めると、スカイデッキの床や壁、天井によって四角く切り取られた複雑な汀線を持つ七尾湾の絶景が、あたかも額縁の中の絵画を彷彿とさせます。ポツンと置かれた天然石のベンチもひとつのオブジェとして存在感を放ち、美術館を思わせる佇まいを魅せています。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />正面に位置する島が「能登島」、左側の海面が「七尾北湾」、右側の海面が「七尾西湾」です。北湾は湾の入口が広いことから「大口」、七尾港のある南湾は入口が狭いことから「小口」と呼ばれています。<br />『万葉集』にも詠まれた能登島は良質の舟材が沢山伐り出されたそうです。<br />「鳥総立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びぞ」 <br />大伴家持が能登国巡行の折、香島津(七尾港)から熊来村(中島町)へ向かう途中、船上で詠んだ歌です。(鳥総(とぶさ=木の梢や枝葉)を立てて船材を伐り出す能登の島山よ。今日見ると木立が茂り、幾代を経てこうも神々しくなったのか。)能登の島山が造船のための木を伐採する場所であったことを家持が知っており、それを自分の目で確かめるために立ち寄ったそうです。

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    正面に位置する島が「能登島」、左側の海面が「七尾北湾」、右側の海面が「七尾西湾」です。北湾は湾の入口が広いことから「大口」、七尾港のある南湾は入口が狭いことから「小口」と呼ばれています。
    『万葉集』にも詠まれた能登島は良質の舟材が沢山伐り出されたそうです。
    「鳥総立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びぞ」 
    大伴家持が能登国巡行の折、香島津(七尾港)から熊来村(中島町)へ向かう途中、船上で詠んだ歌です。(鳥総(とぶさ=木の梢や枝葉)を立てて船材を伐り出す能登の島山よ。今日見ると木立が茂り、幾代を経てこうも神々しくなったのか。)能登の島山が造船のための木を伐採する場所であったことを家持が知っており、それを自分の目で確かめるために立ち寄ったそうです。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />和倉温泉側の七尾西湾と七尾港側の七尾南湾が合わせて望めます。能登島と結ぶ手前の橋が「ツインブブリッジのと」、奥に架かるのが「能登島大橋」です。<br /><br />

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    和倉温泉側の七尾西湾と七尾港側の七尾南湾が合わせて望めます。能登島と結ぶ手前の橋が「ツインブブリッジのと」、奥に架かるのが「能登島大橋」です。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />「能登島大橋」は和倉温泉と能登島を結ぶ全長1050mの石川県で一番長い連続有鉸ラーメン箱桁橋です。<br />橋の形は「かもめが翼を広げた姿」を表しています。<br />

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    「能登島大橋」は和倉温泉と能登島を結ぶ全長1050mの石川県で一番長い連続有鉸ラーメン箱桁橋です。
    橋の形は「かもめが翼を広げた姿」を表しています。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />能登島大橋に次いで、能登島への第2のアクセス方法として設置された斜張橋が「ツインブリッジのと」です。<br />七尾市中島町と能登島を結ぶ全長620mのハープ橋です。正式名称は「中能登農道橋」と言います。

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    能登島大橋に次いで、能登島への第2のアクセス方法として設置された斜張橋が「ツインブリッジのと」です。
    七尾市中島町と能登島を結ぶ全長620mのハープ橋です。正式名称は「中能登農道橋」と言います。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />和倉温泉卿もはっきりと見られます。<br />奈良時代の歌人 大伴家持の「香島より 熊來をさして 榜ぐ船の 楫取る間なく 都し思ほゆ」を踏まえ、和倉温泉にある弁天崎公園には高浜虚子の「家持 妻恋い舟か 春の海」の句碑があります。虚子が戦後まもない1949(昭和24)年4月に和倉温泉を訪れた時に詠んだ句です。<br />大伴家持は歌を詠むために能登を訪れた訳ではありません。往時、役人でもあった家持は、仕事のために能登へ来なければならなかったのです。往時の律令社会では、都の貴族たちが国司として各地に派遣されており、家持は越中国府に国司として着任しました。国司とは、現在の県知事に裁判長と警察署長、消防署長を兼ね合わせた最高権力者のようなポジションでした。<br />748(天平20)年の春、国司の務めである出挙(すいこ)のために、能登を訪れました。出挙とは、一定の利息を取り、稲もしくは銭を貸し付けることです。その利息が国家財政の重要な財源でした。

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    和倉温泉卿もはっきりと見られます。
    奈良時代の歌人 大伴家持の「香島より 熊來をさして 榜ぐ船の 楫取る間なく 都し思ほゆ」を踏まえ、和倉温泉にある弁天崎公園には高浜虚子の「家持 妻恋い舟か 春の海」の句碑があります。虚子が戦後まもない1949(昭和24)年4月に和倉温泉を訪れた時に詠んだ句です。
    大伴家持は歌を詠むために能登を訪れた訳ではありません。往時、役人でもあった家持は、仕事のために能登へ来なければならなかったのです。往時の律令社会では、都の貴族たちが国司として各地に派遣されており、家持は越中国府に国司として着任しました。国司とは、現在の県知事に裁判長と警察署長、消防署長を兼ね合わせた最高権力者のようなポジションでした。
    748(天平20)年の春、国司の務めである出挙(すいこ)のために、能登を訪れました。出挙とは、一定の利息を取り、稲もしくは銭を貸し付けることです。その利息が国家財政の重要な財源でした。

  • 能登ゆめてらす スカイデッキ<br />晴れた日には立山連峰まで見渡せます。立山に連なる剣岳の雄姿もはっきりと捉えることができたのは感激でした。<br />このスカイデッキは「あえの風」を取り込み吹き流すかのように洞門に似せています。春に吹く梅の便りの風は「東風(こち)」ですが、4~8月にかけて日本海沿海に吹く荒々しい風は「東風(あえのかぜ)」と読みます。「東風」は海から吹き、豊漁や豊作、幸福をもたらすと言われ、能登では「あえの風」と呼ばれます。あえの風に乗って祭りの日には神様がやってくるとされ、おめでたい風とも言われます。<br />因みに「あえの風」の由来は、大伴家持が詠んだ「東風」です。<br />「東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」の歌です。<br />(あゆの風が激しく吹いているらしい。奈呉の海人たちの釣りをする小さな舟が漕ぎ進むのが、高波のあいだから見え隠れしている。)<br />東風を富山では「あいの風」と呼んでいます。

    能登ゆめてらす スカイデッキ
    晴れた日には立山連峰まで見渡せます。立山に連なる剣岳の雄姿もはっきりと捉えることができたのは感激でした。
    このスカイデッキは「あえの風」を取り込み吹き流すかのように洞門に似せています。春に吹く梅の便りの風は「東風(こち)」ですが、4~8月にかけて日本海沿海に吹く荒々しい風は「東風(あえのかぜ)」と読みます。「東風」は海から吹き、豊漁や豊作、幸福をもたらすと言われ、能登では「あえの風」と呼ばれます。あえの風に乗って祭りの日には神様がやってくるとされ、おめでたい風とも言われます。
    因みに「あえの風」の由来は、大伴家持が詠んだ「東風」です。
    「東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」の歌です。
    (あゆの風が激しく吹いているらしい。奈呉の海人たちの釣りをする小さな舟が漕ぎ進むのが、高波のあいだから見え隠れしている。)
    東風を富山では「あいの風」と呼んでいます。

  • 能登ゆめてらす<br />エレベータを降りた先にヤギ小屋があります。<br />子ヤギがお母さんと戯れている様子に思わず頬が緩みます。

    能登ゆめてらす
    エレベータを降りた先にヤギ小屋があります。
    子ヤギがお母さんと戯れている様子に思わず頬が緩みます。

  • 香林坊大和8F 旬彩グリル 香林<br />香林坊周辺は水曜日が定休日の店舗が多いようです。香林坊大和も例外ではありませんが、ネットで確認した所、5月中は休日返上で営業されていました。<br />せっかくですので、夕食には前回訪問時もここでいただいたローカルフード「ハントンライス」をいただきます。<br />マヨネーズとケチャップで彩られたオムライスの上に、海老フライとヒレカツがトッピングされています。エビフライは、タルタルソースを身に纏っています。

    香林坊大和8F 旬彩グリル 香林
    香林坊周辺は水曜日が定休日の店舗が多いようです。香林坊大和も例外ではありませんが、ネットで確認した所、5月中は休日返上で営業されていました。
    せっかくですので、夕食には前回訪問時もここでいただいたローカルフード「ハントンライス」をいただきます。
    マヨネーズとケチャップで彩られたオムライスの上に、海老フライとヒレカツがトッピングされています。エビフライは、タルタルソースを身に纏っています。

  • 香林坊大和8F 旬彩グリル 香林<br />こちらは期間限定のレトロタイプのハントンライスです。<br />ハントンライス本来のスタイルである白身魚のフライが4つオムライスの上に載っています。<br />どちらも美味しかったです。ごちそうさまでした!

    香林坊大和8F 旬彩グリル 香林
    こちらは期間限定のレトロタイプのハントンライスです。
    ハントンライス本来のスタイルである白身魚のフライが4つオムライスの上に載っています。
    どちらも美味しかったです。ごちそうさまでした!

  • 尾山神社 神門<br />尾山神社は2度目の訪問となり、今回は夜景撮影を主眼に訪れました。神門の上に上弦の月と星が並び幻想的な構図となりました。<br />尾山神社の名物と言えば、異国情緒溢れる神門です。異色の門として全国に知られています。前田家の威光を象徴する建造物を造りたいという人々の熱意の表れと言われ、金沢製糸場を建造した工匠 津田吉之助が設計及び造営工長を担った類例のない建物です。2代金沢市長 長谷川準也とその弟 大塚志良などが1874(明治7)年に計画し、津田吉之助が翌年建立したものです。<br />次のサイトは2017年の尾山神社 旅行記です。<br />https://4travel.jp/travelogue/11252989

    尾山神社 神門
    尾山神社は2度目の訪問となり、今回は夜景撮影を主眼に訪れました。神門の上に上弦の月と星が並び幻想的な構図となりました。
    尾山神社の名物と言えば、異国情緒溢れる神門です。異色の門として全国に知られています。前田家の威光を象徴する建造物を造りたいという人々の熱意の表れと言われ、金沢製糸場を建造した工匠 津田吉之助が設計及び造営工長を担った類例のない建物です。2代金沢市長 長谷川準也とその弟 大塚志良などが1874(明治7)年に計画し、津田吉之助が翌年建立したものです。
    次のサイトは2017年の尾山神社 旅行記です。
    https://4travel.jp/travelogue/11252989

  • 尾山神社 神門<br />3層目は4面を5色のハイカラな上質ギヤマンで張り、更に窓以外を銅板で覆っています。往時はその中に御神灯が点灯され、その光が金沢の町を照らし、また遠く日本海を航行する船の目印となる灯台の役目も果たしていたそうです。

    尾山神社 神門
    3層目は4面を5色のハイカラな上質ギヤマンで張り、更に窓以外を銅板で覆っています。往時はその中に御神灯が点灯され、その光が金沢の町を照らし、また遠く日本海を航行する船の目印となる灯台の役目も果たしていたそうです。

  • 尾山神社 拝殿<br />本殿では加賀藩祖 前田利家と妻 まつをご祭神として祀っています。<br />夜の拝殿は厳かな雰囲気に包まれています。

    尾山神社 拝殿
    本殿では加賀藩祖 前田利家と妻 まつをご祭神として祀っています。
    夜の拝殿は厳かな雰囲気に包まれています。

  • 尾山神社 拝殿 御鳳輦(ごほうれん)<br />金沢百万石まつりでは、加賀藩初代藩主 前田利家の分霊を載せて神輿渡御されます。白装束の担ぎ手の他に宮司などが行列に加わり、高下駄を履いた天狗面の猿田彦などが随行します。

    尾山神社 拝殿 御鳳輦(ごほうれん)
    金沢百万石まつりでは、加賀藩初代藩主 前田利家の分霊を載せて神輿渡御されます。白装束の担ぎ手の他に宮司などが行列に加わり、高下駄を履いた天狗面の猿田彦などが随行します。

  • 尾山神社 拝殿 御鳳輦<br />これほど間近で見られる機会はめったにありません。<br />鳳輦の起源は神輿より古く、中国の風俗文化の移入により伝わった天子や高僧などの乗り物とされてきました。貴族や大名など高貴な人の乗り物ということもあり、屋形の上には鳳凰が羽ばたいています。

    尾山神社 拝殿 御鳳輦
    これほど間近で見られる機会はめったにありません。
    鳳輦の起源は神輿より古く、中国の風俗文化の移入により伝わった天子や高僧などの乗り物とされてきました。貴族や大名など高貴な人の乗り物ということもあり、屋形の上には鳳凰が羽ばたいています。

  • 金沢城 鼠多門<br />黒い海鼠漆喰が特徴の「鼠多門」と城内最大規模の木橋「鼠多門橋」が約140年ぶりに復元されました。<br />鼠多門は、金沢城西郭の玉泉院丸にあり、鼠多門橋により接続される金谷出丸(現 尾山神社)からの出入口でした。また、城内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う鉛瓦、外壁は白漆喰塗りで腰壁は海鼠壁が用いられますが、海鼠壁の目地が黒漆喰であることが他には見られない特徴です。<br />大扉の上に櫓が造られる櫓門形式の城門で、創建年代は不詳ですが、江戸時代前期には存在していたことが絵図等から判明しており、城内の多くの建物が焼失した1759(宝暦9)年の大火でも焼失を免れ、修理等を経て明治期まで存在していました。<br />その後、1877(明治10)年に鼠多門橋が老朽化のため撤去され、1884(明治17)年には鼠多門も火災により焼失、周囲の水堀も埋め立てられ面影は失われていました。<br />この続きは松風水月 加賀紀行⑨金沢 石浦神社でお届けいたします。

    金沢城 鼠多門
    黒い海鼠漆喰が特徴の「鼠多門」と城内最大規模の木橋「鼠多門橋」が約140年ぶりに復元されました。
    鼠多門は、金沢城西郭の玉泉院丸にあり、鼠多門橋により接続される金谷出丸(現 尾山神社)からの出入口でした。また、城内の他の門と同じく、屋根は木型を鉛板で覆う鉛瓦、外壁は白漆喰塗りで腰壁は海鼠壁が用いられますが、海鼠壁の目地が黒漆喰であることが他には見られない特徴です。
    大扉の上に櫓が造られる櫓門形式の城門で、創建年代は不詳ですが、江戸時代前期には存在していたことが絵図等から判明しており、城内の多くの建物が焼失した1759(宝暦9)年の大火でも焼失を免れ、修理等を経て明治期まで存在していました。
    その後、1877(明治10)年に鼠多門橋が老朽化のため撤去され、1884(明治17)年には鼠多門も火災により焼失、周囲の水堀も埋め立てられ面影は失われていました。
    この続きは松風水月 加賀紀行⑨金沢 石浦神社でお届けいたします。

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