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石川県立図書館を後にして金沢神社へ向かいました。加賀藩11代藩主 前田治脩が創立した藩校「明倫堂」の鎮守社として学問の神であると共に前田家の先祖でもある菅原道真を祀る神社を創建したのが始まりです。相殿に商売繁盛の神様の白阿紫稲荷大明神(はくあしいなりみょうじん)と金運や災難除けの神様であり愛称「白蛇さん」で親しまれる白蛇竜神を合祀しています。<br />神社もさることながら、ランドマークとなっているのが「金沢」という地名のルーツとなった金城霊澤です。龍神が棲むとされる聖地の湧き水は神秘的な透明感を湛えています。<br />しいのき迎賓館はかつて県庁舎だった県下最古のコンクリート造の建物を新旧合体させた形でリノベーションしたものです。大理石張りの「中央階段」は県庁時代からのものがほぼ現存する形で引き継がれています。また、その踊り場に掲げられた輪島塗の蒔絵の上に沈金という金箔の伝統的な技法を用いて制作された「漆の石川県地図」も見所です。

松風水月 加賀紀行⑤金沢神社・しいのき迎賓館

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2023/05/23 - 2023/05/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

石川県立図書館を後にして金沢神社へ向かいました。加賀藩11代藩主 前田治脩が創立した藩校「明倫堂」の鎮守社として学問の神であると共に前田家の先祖でもある菅原道真を祀る神社を創建したのが始まりです。相殿に商売繁盛の神様の白阿紫稲荷大明神(はくあしいなりみょうじん)と金運や災難除けの神様であり愛称「白蛇さん」で親しまれる白蛇竜神を合祀しています。
神社もさることながら、ランドマークとなっているのが「金沢」という地名のルーツとなった金城霊澤です。龍神が棲むとされる聖地の湧き水は神秘的な透明感を湛えています。
しいのき迎賓館はかつて県庁舎だった県下最古のコンクリート造の建物を新旧合体させた形でリノベーションしたものです。大理石張りの「中央階段」は県庁時代からのものがほぼ現存する形で引き継がれています。また、その踊り場に掲げられた輪島塗の蒔絵の上に沈金という金箔の伝統的な技法を用いて制作された「漆の石川県地図」も見所です。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JR特急

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  • 旧津田玄蕃邸玄関<br />石浦神社の横手から金沢神社へ向かう道中に佇みます。<br />金沢市大手町にあった禄高1万石の加賀藩家老 津田玄蕃邸の遺構です。宝暦の金沢大火以降に建てられたものと伝えます。入母屋造、大破風、妻入の母屋正面に突出する玄関は、殿舎車寄形式の唐破風造で、正面に飛貫を用いて荒い菱格子欄間を入れ、天井は格天井とする威風堂々としたものです。現在県内に残る1万石以上の高禄武家邸宅の玄関遺構としては唯一のものです。<br />この建物は、1870(明治3)年に加賀藩が津田邸に医学館を創立して以来、石川県金沢病院、金沢医学校、第四高等中学校医学部、金沢医学専門学校附属病院の一部として使用され、1912(明治45)年以後は「乃木会堂」として維持されてきました。1923(大正12)年に現在地に移築された後に「兼六会館」となり、現在は兼六園事務所となっています。

    旧津田玄蕃邸玄関
    石浦神社の横手から金沢神社へ向かう道中に佇みます。
    金沢市大手町にあった禄高1万石の加賀藩家老 津田玄蕃邸の遺構です。宝暦の金沢大火以降に建てられたものと伝えます。入母屋造、大破風、妻入の母屋正面に突出する玄関は、殿舎車寄形式の唐破風造で、正面に飛貫を用いて荒い菱格子欄間を入れ、天井は格天井とする威風堂々としたものです。現在県内に残る1万石以上の高禄武家邸宅の玄関遺構としては唯一のものです。
    この建物は、1870(明治3)年に加賀藩が津田邸に医学館を創立して以来、石川県金沢病院、金沢医学校、第四高等中学校医学部、金沢医学専門学校附属病院の一部として使用され、1912(明治45)年以後は「乃木会堂」として維持されてきました。1923(大正12)年に現在地に移築された後に「兼六会館」となり、現在は兼六園事務所となっています。

  • 旧津田玄蕃邸玄関<br />玄関破風の蟇股には睨みを利かせる「龍」が彫られています。<br />龍は水を呼ぶ霊獣とされ、火難除けの守り神として寺社などの拝殿彫刻に使われていますが、武家屋敷の玄関にあるのは珍しいのでは!?

    旧津田玄蕃邸玄関
    玄関破風の蟇股には睨みを利かせる「龍」が彫られています。
    龍は水を呼ぶ霊獣とされ、火難除けの守り神として寺社などの拝殿彫刻に使われていますが、武家屋敷の玄関にあるのは珍しいのでは!?

  • 旧津田玄蕃邸玄関<br />庭の一画に保存展示されている「辰巳用水の石管」です。<br />立札には「寛永9年(1632)に約11km上流の犀川から取水し、ここから城内へ本管により通水された。その後天保15年(1844)にこの石管に取り換えられた。石管の継ぎ手は松脂、桧皮などを用いて漏水を防止していた。」と記されています。

    旧津田玄蕃邸玄関
    庭の一画に保存展示されている「辰巳用水の石管」です。
    立札には「寛永9年(1632)に約11km上流の犀川から取水し、ここから城内へ本管により通水された。その後天保15年(1844)にこの石管に取り換えられた。石管の継ぎ手は松脂、桧皮などを用いて漏水を防止していた。」と記されています。

  • 金沢神社 一の鳥居<br />1794(寛政6)年、加賀藩11代藩主 前田治脩(はるなが)が兼六園にある現 梅林の地に藩校「明倫堂」を創立した際、その鎮守社として金城霊澤の畔に学問の神であると共に前田家の先祖でもある菅原道真を祀る神社を創建しました。その後、兼六園の整備に当たり藩校は移転するも、神社は12代藩主 斉広が建立した竹沢御殿の鎮守社として藩主の祈願所となり、相殿に商売繁盛の神様の白阿紫稲荷大明神(はくあしいなりみょうじん)、金運や災難除けの神様であり愛称「白蛇さん」で親しまれる白蛇竜神を合祀し、朝夕に兼六園を散策された藩主が領内の平和と繁栄を祈願しました。

    金沢神社 一の鳥居
    1794(寛政6)年、加賀藩11代藩主 前田治脩(はるなが)が兼六園にある現 梅林の地に藩校「明倫堂」を創立した際、その鎮守社として金城霊澤の畔に学問の神であると共に前田家の先祖でもある菅原道真を祀る神社を創建しました。その後、兼六園の整備に当たり藩校は移転するも、神社は12代藩主 斉広が建立した竹沢御殿の鎮守社として藩主の祈願所となり、相殿に商売繁盛の神様の白阿紫稲荷大明神(はくあしいなりみょうじん)、金運や災難除けの神様であり愛称「白蛇さん」で親しまれる白蛇竜神を合祀し、朝夕に兼六園を散策された藩主が領内の平和と繁栄を祈願しました。

  • 金沢神社 二の鳥居<br />一の鳥居を潜り、方生池を右手に見て進むと、二の鳥居が見えてきます。<br />こちらは石造で一の鳥居に比べて大きく、威厳を感じさせます。<br />

    金沢神社 二の鳥居
    一の鳥居を潜り、方生池を右手に見て進むと、二の鳥居が見えてきます。
    こちらは石造で一の鳥居に比べて大きく、威厳を感じさせます。

  • 金沢神社 方生池<br />方生池には黄菖蒲が咲いています。<br />災難除けの神様である白蛇竜神のご神体の1体は神社に、もう1体は江戸屋敷に奉斉されていましたが、昭和21年に金沢神社に移されました。その後、毎年10月1日に白蛇竜神の姿を描いた神札を百体のみ奉製し、藩公から藩士や城下の有力町民に配ったと伝えます。<br />元々は藩主のプライベートな祈願所だったこともあり、神社への参拝は明治時代以前は4月25日と9月25日の春秋の例祭のみ、城下の婦女子のみが参拝を許されて藩公から紋菓をいただいたと伝わります。一般の人々が自由参拝できるようになったのは1872(明治7)年に兼六園が一般開放されてからのことです。<br />現在では、交通安全の神様である琴平大神や12代藩主 前田斉広(なりなが)、13代 藩主 前田斉泰(なりやす)を合祀しています。そぢて1874(明治9)年に金沢神社に改称しています。

    金沢神社 方生池
    方生池には黄菖蒲が咲いています。
    災難除けの神様である白蛇竜神のご神体の1体は神社に、もう1体は江戸屋敷に奉斉されていましたが、昭和21年に金沢神社に移されました。その後、毎年10月1日に白蛇竜神の姿を描いた神札を百体のみ奉製し、藩公から藩士や城下の有力町民に配ったと伝えます。
    元々は藩主のプライベートな祈願所だったこともあり、神社への参拝は明治時代以前は4月25日と9月25日の春秋の例祭のみ、城下の婦女子のみが参拝を許されて藩公から紋菓をいただいたと伝わります。一般の人々が自由参拝できるようになったのは1872(明治7)年に兼六園が一般開放されてからのことです。
    現在では、交通安全の神様である琴平大神や12代藩主 前田斉広(なりなが)、13代 藩主 前田斉泰(なりやす)を合祀しています。そぢて1874(明治9)年に金沢神社に改称しています。

  • 金沢神社 方生池<br />水連が楚々とした花を咲かせています。<br />境内にある金城霊澤は「金沢」の地名の由来となった場所です。芋掘藤五郎がこの地で芋を掘っていたところ、砂金が見つかりました。掘っていた芋などに付着していた砂金を洗い出していたことから、「金洗いの沢」と呼ばれるようになったそうです。そして1592(天正20)年に加賀藩主 前田利家がその名に因み町の名前を「金沢」と命名しました。

    金沢神社 方生池
    水連が楚々とした花を咲かせています。
    境内にある金城霊澤は「金沢」の地名の由来となった場所です。芋掘藤五郎がこの地で芋を掘っていたところ、砂金が見つかりました。掘っていた芋などに付着していた砂金を洗い出していたことから、「金洗いの沢」と呼ばれるようになったそうです。そして1592(天正20)年に加賀藩主 前田利家がその名に因み町の名前を「金沢」と命名しました。

  • 金沢神社 いぼとり石<br />イボをこすると取れると信仰されている不思議な石で、現在では「目に見えないイボ(悩みや不安)」も取ってくれると言われています。<br />楕円形の石で、横約80cm、幅約50cm、高さ約25cmの表面が滑らかな御神石で、12代藩主 斉広の夫人 真龍院が能登鹿島郡町屋村から兼六園の梅林近くに取り寄せ、更に現地へ移したものです。町屋村(現 七尾市町屋町)には「いぼ池」があり、この池にある石でこするとイボが取れるとの言い伝えがあり、神格化されて伊保池社のご神体として祀られていたものだそうです。<br />確かに表面は滑らかになっており、イボを取るためにこすり続けられてきたようにも思えてくるから不思議です。伝承を裏付けるエピソードが『金沢市街独案内』(明治27年刊)に記されています。<br />「北廊某楼の娼妓の陰部にイボができて業ができなくなった。困り果て、噂に聞いた神苑にある『いぼとり石』で一両回こすってみると、イボは跡形なく取れてしまった。」

    金沢神社 いぼとり石
    イボをこすると取れると信仰されている不思議な石で、現在では「目に見えないイボ(悩みや不安)」も取ってくれると言われています。
    楕円形の石で、横約80cm、幅約50cm、高さ約25cmの表面が滑らかな御神石で、12代藩主 斉広の夫人 真龍院が能登鹿島郡町屋村から兼六園の梅林近くに取り寄せ、更に現地へ移したものです。町屋村(現 七尾市町屋町)には「いぼ池」があり、この池にある石でこするとイボが取れるとの言い伝えがあり、神格化されて伊保池社のご神体として祀られていたものだそうです。
    確かに表面は滑らかになっており、イボを取るためにこすり続けられてきたようにも思えてくるから不思議です。伝承を裏付けるエピソードが『金沢市街独案内』(明治27年刊)に記されています。
    「北廊某楼の娼妓の陰部にイボができて業ができなくなった。困り果て、噂に聞いた神苑にある『いぼとり石』で一両回こすってみると、イボは跡形なく取れてしまった。」

  • 金沢神社 木村杏園(きょうえん)誌碑<br />杏園は、1885(明治18)年に金沢に生まれ、大正14年に京都に転居して日本画家 橋本関雪に師事した著名な画家です。その後、中国に遊学して南画の研鑽に努め、水墨や淡彩による山水花鳥を得意としました。日本名勝絵百図を制作発表し、黄檗山万福寺方丈広間の襖絵「瀟湘八景」等の大作もあります。また、1957(昭和32)年に真宗大谷派 金沢別院の山門再建に際し、楼上天井に「瑞竜」を描いています。<br />因みに、加賀友禅の染色家で人間国宝の木村雨山は弟に当たります。

    金沢神社 木村杏園(きょうえん)誌碑
    杏園は、1885(明治18)年に金沢に生まれ、大正14年に京都に転居して日本画家 橋本関雪に師事した著名な画家です。その後、中国に遊学して南画の研鑽に努め、水墨や淡彩による山水花鳥を得意としました。日本名勝絵百図を制作発表し、黄檗山万福寺方丈広間の襖絵「瀟湘八景」等の大作もあります。また、1957(昭和32)年に真宗大谷派 金沢別院の山門再建に際し、楼上天井に「瑞竜」を描いています。
    因みに、加賀友禅の染色家で人間国宝の木村雨山は弟に当たります。

  • 金沢神社 田中智学の碑<br />近代仏教会の代表的な人物で、強烈な日蓮主義を唱えました。<br />1861(文久元)年に江戸に生まれ、日蓮宗の僧となりますが、1879(明治12)年に脱宗。近代仏教会の代表的な人物とされ、1914(大正3)年に国柱会という日蓮宗の在家教団を組織して強烈な日蓮主義を唱えました。日清戦争から日露戦争の狭間でナショナリズムが沸騰していた1901(明治34)年、『宗門之維新』を出版し、天皇の大詔と帝国議会の議決によって日蓮の教えが国教化されるという未来予測を語っています。<br />更には、日本をはじめ全世界の人々が法華経に帰依した時、静岡県三保辺りに「本門戒壇」が建立されるとし、これを「国立戒壇」と命名しました。日蓮仏法を国家主義の文脈で独自に解釈し、中世の制度をそのまま20世紀に持ち込み、天皇の大詔と国会議決による「国立戒壇」の建立を宗教的ナショナリズムの到達点に据えました。<br />智学の主張は国粋主義者の軍人や宮沢賢治、北原白秋、与謝野晶子・鉄幹、高浜虚子、坪内逍遥、横山大観らにも支持され、1945(昭和20)年の敗戦まで広く流布していたそうです。しかし政教分離を定めた日本国憲法の下では成立しない主張となりました。<br />碑は1924(大正13)年の夏、金沢で布教講演の折に来園し兼六園の美を賞し作ったものだそうです。

    金沢神社 田中智学の碑
    近代仏教会の代表的な人物で、強烈な日蓮主義を唱えました。
    1861(文久元)年に江戸に生まれ、日蓮宗の僧となりますが、1879(明治12)年に脱宗。近代仏教会の代表的な人物とされ、1914(大正3)年に国柱会という日蓮宗の在家教団を組織して強烈な日蓮主義を唱えました。日清戦争から日露戦争の狭間でナショナリズムが沸騰していた1901(明治34)年、『宗門之維新』を出版し、天皇の大詔と帝国議会の議決によって日蓮の教えが国教化されるという未来予測を語っています。
    更には、日本をはじめ全世界の人々が法華経に帰依した時、静岡県三保辺りに「本門戒壇」が建立されるとし、これを「国立戒壇」と命名しました。日蓮仏法を国家主義の文脈で独自に解釈し、中世の制度をそのまま20世紀に持ち込み、天皇の大詔と国会議決による「国立戒壇」の建立を宗教的ナショナリズムの到達点に据えました。
    智学の主張は国粋主義者の軍人や宮沢賢治、北原白秋、与謝野晶子・鉄幹、高浜虚子、坪内逍遥、横山大観らにも支持され、1945(昭和20)年の敗戦まで広く流布していたそうです。しかし政教分離を定めた日本国憲法の下では成立しない主張となりました。
    碑は1924(大正13)年の夏、金沢で布教講演の折に来園し兼六園の美を賞し作ったものだそうです。

  • 金沢神社 板屋神社遥拝所<br />今から400年程前に画期的な技術で金沢城へ用水を引き入れ、城下町「金澤」の発展に貢献した「板屋兵四郎」を祀る板屋神社を境内から参拝するための建物です。<br />尚、板屋神社は辰巳用水取水口近くの上辰巳町にあります。

    金沢神社 板屋神社遥拝所
    今から400年程前に画期的な技術で金沢城へ用水を引き入れ、城下町「金澤」の発展に貢献した「板屋兵四郎」を祀る板屋神社を境内から参拝するための建物です。
    尚、板屋神社は辰巳用水取水口近くの上辰巳町にあります。

  • 金沢神社 板屋神社遥拝所<br />金沢の街は至る所に用水が流れる水の街です。その用水のうち、1632(寛永9)年に加賀藩の3代藩主 前田利常が命じて造らせたのが辰巳用水です。犀川上流から水路を開き、小立野を経て、国内初の逆サイフォンの原理を駆使して金沢城に揚水しました。全長10km余り、このうち1/3が隧道という難工事でしたが、僅か1年足らずで完成させています。その掘削事業は加賀藩の秘事とされています。この難工事を成し遂げたのが小松の町人 板屋兵四郎でした。<br />板屋兵四郎は石川県では土木工事の神様として崇拝されています。

    金沢神社 板屋神社遥拝所
    金沢の街は至る所に用水が流れる水の街です。その用水のうち、1632(寛永9)年に加賀藩の3代藩主 前田利常が命じて造らせたのが辰巳用水です。犀川上流から水路を開き、小立野を経て、国内初の逆サイフォンの原理を駆使して金沢城に揚水しました。全長10km余り、このうち1/3が隧道という難工事でしたが、僅か1年足らずで完成させています。その掘削事業は加賀藩の秘事とされています。この難工事を成し遂げたのが小松の町人 板屋兵四郎でした。
    板屋兵四郎は石川県では土木工事の神様として崇拝されています。

  • 金沢神社 板屋神社遥拝所<br />遥拝所の左横には、辰巳用水の石管(当時の水道管)が置かれています。<br /><br />

    金沢神社 板屋神社遥拝所
    遥拝所の左横には、辰巳用水の石管(当時の水道管)が置かれています。

  • 金沢神社 神門<br />1990年に老朽化により取り壊され、1993年に復刻が落慶しました。隋身様と呼ばれる神像が門の両脇に祀られていることから、隋身門とも呼ばれます。これに因んで二の鳥居前の坂道が隋神坂と名付けられています。<br />因みに、神門は寺院の山門、随身門は仁王門に相当します。

    金沢神社 神門
    1990年に老朽化により取り壊され、1993年に復刻が落慶しました。隋身様と呼ばれる神像が門の両脇に祀られていることから、隋身門とも呼ばれます。これに因んで二の鳥居前の坂道が隋神坂と名付けられています。
    因みに、神門は寺院の山門、随身門は仁王門に相当します。

  • 金沢神社 神門<br />神像は神社を守護する門守(かどもり)の神とも呼ばれ、右大臣と左大臣が安置されています。随身とは貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人を指します。その随身が転じて主神に従い守護するという意味で随神となったそうです。随神像は、向かって左に豊磐間戸命、右に櫛磐間戸命が安置される例が多いそうです。<br />神像の背面に「文政四年辛巳 献上 菅原直時 春正月吉祥日」と記されていることから、神門は加賀藩八家で重役を務めた前田土佐守家7代 前田直時の奉納とされています。

    金沢神社 神門
    神像は神社を守護する門守(かどもり)の神とも呼ばれ、右大臣と左大臣が安置されています。随身とは貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人を指します。その随身が転じて主神に従い守護するという意味で随神となったそうです。随神像は、向かって左に豊磐間戸命、右に櫛磐間戸命が安置される例が多いそうです。
    神像の背面に「文政四年辛巳 献上 菅原直時 春正月吉祥日」と記されていることから、神門は加賀藩八家で重役を務めた前田土佐守家7代 前田直時の奉納とされています。

  • 金沢神社 神門<br />朱塗りが鮮やかで、社紋でもある前田家の家紋「加賀梅鉢」が目を引きます。<br />

    金沢神社 神門
    朱塗りが鮮やかで、社紋でもある前田家の家紋「加賀梅鉢」が目を引きます。

  • 金沢神社 白阿紫稲荷大明神(はくあしいなりだいみょうじん)<br />神門を潜って直ぐ左手に佇みます。鈴なりの絵馬に信仰の篤さを実感できます。<br />由緒書きによると、領内の繁栄を祈願して13代藩主 前田斉泰が奉斎したと言います。春秋の例祭には一般の婦女子の参拝も許されていたようです。<br />廃藩置県で加賀藩が取り潰された際、前田家が東京に移住することになり、一度はその邸内に移されましたが、旧藩士の懇願により再び神社に戻されています。<br />「阿紫」とは聞き慣れない名称ですが、中国 東晋(317~420年)の時代に書かれた干宝による志怪小説『捜神記』には「艶めかしい女性に化けた狐の妖怪」として登場します。この類いの狐は淫婦であった頃の名前が「阿紫」なんだそうです。<br />余談ですが、兵庫県尼崎市に伝わる艶話にも妖狐「阿紫」が登場する『蓬川の狐』という話があります。<br />蓬川の堤は魚の行商人の通り道でした。その蓬川の堤に色っぽい女に化けた狐が現れ、そこを通る人に悪さをしていました。魚屋仲間の中には、荷物を盗まれる者、川に飛び込んだ者、フラフラにされた者などが出て噂となりました。<br />ある男が化け狐を成敗するといい、手頃な陽物石(男根石)を持って蓬川堤に行き、現れた狐の秘所にその石を突き入れて帰りました。それからというもの化け狐は姿を現さなくなりましたが、蓬川堤を通るとかすかに「石マラ」「石マラ」とつぶやく声が聞こえたそうです。<br />昭和10年頃になるとその場所の傍を電車が通るようになり、やがてその声もお年寄りの耳に残るだけとなりました。<br />出典:尼崎郷土資料研究会『みちしるべ』

    金沢神社 白阿紫稲荷大明神(はくあしいなりだいみょうじん)
    神門を潜って直ぐ左手に佇みます。鈴なりの絵馬に信仰の篤さを実感できます。
    由緒書きによると、領内の繁栄を祈願して13代藩主 前田斉泰が奉斎したと言います。春秋の例祭には一般の婦女子の参拝も許されていたようです。
    廃藩置県で加賀藩が取り潰された際、前田家が東京に移住することになり、一度はその邸内に移されましたが、旧藩士の懇願により再び神社に戻されています。
    「阿紫」とは聞き慣れない名称ですが、中国 東晋(317~420年)の時代に書かれた干宝による志怪小説『捜神記』には「艶めかしい女性に化けた狐の妖怪」として登場します。この類いの狐は淫婦であった頃の名前が「阿紫」なんだそうです。
    余談ですが、兵庫県尼崎市に伝わる艶話にも妖狐「阿紫」が登場する『蓬川の狐』という話があります。
    蓬川の堤は魚の行商人の通り道でした。その蓬川の堤に色っぽい女に化けた狐が現れ、そこを通る人に悪さをしていました。魚屋仲間の中には、荷物を盗まれる者、川に飛び込んだ者、フラフラにされた者などが出て噂となりました。
    ある男が化け狐を成敗するといい、手頃な陽物石(男根石)を持って蓬川堤に行き、現れた狐の秘所にその石を突き入れて帰りました。それからというもの化け狐は姿を現さなくなりましたが、蓬川堤を通るとかすかに「石マラ」「石マラ」とつぶやく声が聞こえたそうです。
    昭和10年頃になるとその場所の傍を電車が通るようになり、やがてその声もお年寄りの耳に残るだけとなりました。
    出典:尼崎郷土資料研究会『みちしるべ』

  • 金沢神社 白阿紫稲荷大明神<br />商売繁盛の神さまで、ご神体は「隕石」と伝えられています。普段は木箱に入った状態で本殿に納められており、中身は誰も知らないそうです。ただ、社の改修時に木箱を持ち上げた時、ボーリング球くらいの重さがあったそうです。何故、隕石をご神体にしたのかについては定かではないそうです。

    金沢神社 白阿紫稲荷大明神
    商売繁盛の神さまで、ご神体は「隕石」と伝えられています。普段は木箱に入った状態で本殿に納められており、中身は誰も知らないそうです。ただ、社の改修時に木箱を持ち上げた時、ボーリング球くらいの重さがあったそうです。何故、隕石をご神体にしたのかについては定かではないそうです。

  • 金沢神社 手水舎<br />ここの水は境内の井戸から24時間休みなしで汲み上げられています。水源は「金城霊澤」の地下水源と同じであり、「金城霊澤の水」として地元の方や県外からの参拝者に広く親しまれています。<br />毎年6月に開催される県内最大規模の「百万石祭り百万石茶会」や2月に行われる石川県文化財保存協会による大寒の糊作りや和菓子作りに使用され、戦没者慰霊式典にもこの水が供えられています。<br />水質を蛍光X線分析法で分析した結果、カルシウムや鉄分を多く含み、日本百名水として知られる富山県上市町の「穴の谷の霊水」と近似した成分パターンを示したそうです。「鉄分が多いので心臓にはいい」と江戸時代末期の医師でオランダ人のホルトマンが分析をした内容が立札に書かれてあります。<br />また、毎年飲用に適するかどうかの「水質試験」を行なっており、安心して飲用できます。因みに水質は、兼六園の「お茶の井」と同系であり、「お茶の井」は3代藩主 利常以来、城中のお茶の湯に用いられていたそうです。

    金沢神社 手水舎
    ここの水は境内の井戸から24時間休みなしで汲み上げられています。水源は「金城霊澤」の地下水源と同じであり、「金城霊澤の水」として地元の方や県外からの参拝者に広く親しまれています。
    毎年6月に開催される県内最大規模の「百万石祭り百万石茶会」や2月に行われる石川県文化財保存協会による大寒の糊作りや和菓子作りに使用され、戦没者慰霊式典にもこの水が供えられています。
    水質を蛍光X線分析法で分析した結果、カルシウムや鉄分を多く含み、日本百名水として知られる富山県上市町の「穴の谷の霊水」と近似した成分パターンを示したそうです。「鉄分が多いので心臓にはいい」と江戸時代末期の医師でオランダ人のホルトマンが分析をした内容が立札に書かれてあります。
    また、毎年飲用に適するかどうかの「水質試験」を行なっており、安心して飲用できます。因みに水質は、兼六園の「お茶の井」と同系であり、「お茶の井」は3代藩主 利常以来、城中のお茶の湯に用いられていたそうです。

  • 金沢神社 清め砂所<br />手水舎の右横には「清め砂」が置かれ、ここでは「お砂取り」といって清め砂で自由に身を清めることができます。<br />神社で清められた「砂土」であり、持ち帰って「お清め」に使えま。自家の周囲に撒くことで清浄な地になり、田畑に撒けば五穀がよく稔って害虫が付かないといった素朴な信仰が昔からあったそうです。<br />清め砂を撒く場合は、先ず神棚に上げて神様に礼拝し、「祓えたまえ清めたまえ」と称えながら、時計回りに家の周囲に撒きます。

    金沢神社 清め砂所
    手水舎の右横には「清め砂」が置かれ、ここでは「お砂取り」といって清め砂で自由に身を清めることができます。
    神社で清められた「砂土」であり、持ち帰って「お清め」に使えま。自家の周囲に撒くことで清浄な地になり、田畑に撒けば五穀がよく稔って害虫が付かないといった素朴な信仰が昔からあったそうです。
    清め砂を撒く場合は、先ず神棚に上げて神様に礼拝し、「祓えたまえ清めたまえ」と称えながら、時計回りに家の周囲に撒きます。

  • 金沢神社 拝殿<br />現在の拝殿は、江戸時代末期(1794年)に加賀藩11代藩主 前田治脩が建立したもので、2004年に国の登録有形文化財に登録されました。<br />本殿の北前方に佇み、入母屋造、桟瓦葺、妻入の三間社とし、側面に刎高欄付切目縁、正面に向拝を付けています。軒は三斗組、一軒半繁垂木、妻は虹梁豕叉首です。

    金沢神社 拝殿
    現在の拝殿は、江戸時代末期(1794年)に加賀藩11代藩主 前田治脩が建立したもので、2004年に国の登録有形文化財に登録されました。
    本殿の北前方に佇み、入母屋造、桟瓦葺、妻入の三間社とし、側面に刎高欄付切目縁、正面に向拝を付けています。軒は三斗組、一軒半繁垂木、妻は虹梁豕叉首です。

  • 金沢神社 拝殿<br />ここの御朱印には「金」の文字の上に金箔が添えられています。この金箔は境内にある金城霊沢にまつわる「芋掘り藤五郎」の長者伝説に因み、御朱印を受けられた方の開運を祈念してのものだそうです。<br />御朱印は拝殿右横にある社務所にて授与できます。

    金沢神社 拝殿
    ここの御朱印には「金」の文字の上に金箔が添えられています。この金箔は境内にある金城霊沢にまつわる「芋掘り藤五郎」の長者伝説に因み、御朱印を受けられた方の開運を祈念してのものだそうです。
    御朱印は拝殿右横にある社務所にて授与できます。

  • 金沢神社 拝殿<br />内部は主体部を格天井、本殿側は両下屋根の釣殿形式とし、釣殿部分に高欄付の反り橋を設けるなどの特徴があります。中央上部には「菅原大神」の文字を認めた扁額があります。<br />その右側は、竹沢御殿を建立してここを鎮守神とした12代藩主 斉広が描いた書の扁額です。その奥に佇む「獅子・狛犬」は、斉広が竹沢御殿の竣工を祝って奉納したものと伝わり、2008年に修復されました。<br />また、ここからでは見ることは叶いませんが、天井絵には兎や狸、鹿、龍などの動物の他、空想上の動物などが36枚描かれています。制作者は江戸時代後期から末期に活躍した狩野派の絵師 佐々木泉景です。

    金沢神社 拝殿
    内部は主体部を格天井、本殿側は両下屋根の釣殿形式とし、釣殿部分に高欄付の反り橋を設けるなどの特徴があります。中央上部には「菅原大神」の文字を認めた扁額があります。
    その右側は、竹沢御殿を建立してここを鎮守神とした12代藩主 斉広が描いた書の扁額です。その奥に佇む「獅子・狛犬」は、斉広が竹沢御殿の竣工を祝って奉納したものと伝わり、2008年に修復されました。
    また、ここからでは見ることは叶いませんが、天井絵には兎や狸、鹿、龍などの動物の他、空想上の動物などが36枚描かれています。制作者は江戸時代後期から末期に活躍した狩野派の絵師 佐々木泉景です。

  • 金沢神社 拝殿<br />12畳もある「白蛇天井画」の制作者は金沢市在住の日本画家 山田俊一氏です。<br />2年半もの歳月をかけて描かれた大作で、2012年10月に奉納された現代アート作品です。水神であり、大地の神であり、天地変の神でもある白蛇龍神と対話する赤児の姿を描いています。

    金沢神社 拝殿
    12畳もある「白蛇天井画」の制作者は金沢市在住の日本画家 山田俊一氏です。
    2年半もの歳月をかけて描かれた大作で、2012年10月に奉納された現代アート作品です。水神であり、大地の神であり、天地変の神でもある白蛇龍神と対話する赤児の姿を描いています。

  • 金沢神社 拝殿<br />画面右下に裸んぼうの赤ちゃんが浮いているのが判りますでしょうか?<br />西洋画の天使を彷彿とさせますが、「赤児」です。貴賤に関係なく、神の前では人は皆同等ということを表現したのがこの赤児だそうです。赤児は龍神とどんな対話をしているのでしょうか?<br />当方にはライオンにロックオンされ、運命に抗えない赤児にしか見えないのですが…。

    金沢神社 拝殿
    画面右下に裸んぼうの赤ちゃんが浮いているのが判りますでしょうか?
    西洋画の天使を彷彿とさせますが、「赤児」です。貴賤に関係なく、神の前では人は皆同等ということを表現したのがこの赤児だそうです。赤児は龍神とどんな対話をしているのでしょうか?
    当方にはライオンにロックオンされ、運命に抗えない赤児にしか見えないのですが…。

  • 金沢神社 拝殿 白蛇龍神(しろへびりゅうじん)<br />この扁額は飲食や染物業など14業種の関係者により奉納されたものです。<br />白蛇龍神は通称「白蛇さん」や「巳さん」とも呼ばれる神様で、近年では火災除けや火伏せの神に留まらず、龍蛇信仰と金城霊澤の砂金伝説とが結び付き、水の神・金運の神としても仰がれて水商売関係者の信仰を集め、また商売繁盛の神として広く商売を営む方々の信仰を集めています。<br />白火蛇の神様であり、白火蛇は千年に1度現れて吉凶を占うとされます。前田家が大切にしていた白蛇のご神体2体と、金城霊澤に棲む龍神をこちらで融合し、「白蛇龍神」という総称で前田家所縁の神社を護っています。<br />『特別名勝兼六園(その歴史と文化)』には、「白蛇龍神」の信仰に関する記述があり、白蛇龍神は金沢神社において特別な信仰を受けてきたことが記されています。また、2体の白蛇のご神体のひとつは「前田家15代 利嗣夫人 朗子が生前奉斎していたのを逝去後に前田家より金沢神社に納めたもので、前田家の奥向きに古くから祀られてきたもの」と記されています。<br />毎月1日を白蛇さんの日と定め、ご神体を開帳し開運厄除けの祈願を行なっています。

    金沢神社 拝殿 白蛇龍神(しろへびりゅうじん)
    この扁額は飲食や染物業など14業種の関係者により奉納されたものです。
    白蛇龍神は通称「白蛇さん」や「巳さん」とも呼ばれる神様で、近年では火災除けや火伏せの神に留まらず、龍蛇信仰と金城霊澤の砂金伝説とが結び付き、水の神・金運の神としても仰がれて水商売関係者の信仰を集め、また商売繁盛の神として広く商売を営む方々の信仰を集めています。
    白火蛇の神様であり、白火蛇は千年に1度現れて吉凶を占うとされます。前田家が大切にしていた白蛇のご神体2体と、金城霊澤に棲む龍神をこちらで融合し、「白蛇龍神」という総称で前田家所縁の神社を護っています。
    『特別名勝兼六園(その歴史と文化)』には、「白蛇龍神」の信仰に関する記述があり、白蛇龍神は金沢神社において特別な信仰を受けてきたことが記されています。また、2体の白蛇のご神体のひとつは「前田家15代 利嗣夫人 朗子が生前奉斎していたのを逝去後に前田家より金沢神社に納めたもので、前田家の奥向きに古くから祀られてきたもの」と記されています。
    毎月1日を白蛇さんの日と定め、ご神体を開帳し開運厄除けの祈願を行なっています。

  • 金沢神社 拝殿<br />拝殿の鬼瓦には美しい10尾の鳳凰が羽を広げており、何とも神聖な気持ちになれます。<br />宮司さんの説明では畳1条ほどもある大きさだそうです。<br />確かに尻尾を含めるとそれくらいありそうです。

    金沢神社 拝殿
    拝殿の鬼瓦には美しい10尾の鳳凰が羽を広げており、何とも神聖な気持ちになれます。
    宮司さんの説明では畳1条ほどもある大きさだそうです。
    確かに尻尾を含めるとそれくらいありそうです。

  • 金沢神社 拝殿<br />中段にも小ぶりの鳳凰が佇みます。<br />明治時代初期の廃藩置県のために前田家が東京に移ったことで融資者がいなくなり、神社の維持は大変だったそうです。しかし、昭和40年代になり「学問の神様」として学業成就を祈願する受験参拝がブームとなったことで息を吹き返したそうです。

    金沢神社 拝殿
    中段にも小ぶりの鳳凰が佇みます。
    明治時代初期の廃藩置県のために前田家が東京に移ったことで融資者がいなくなり、神社の維持は大変だったそうです。しかし、昭和40年代になり「学問の神様」として学業成就を祈願する受験参拝がブームとなったことで息を吹き返したそうです。

  • 金沢神社 拝殿<br />軒に吊るされた燈籠もよい雰囲気を醸しています。ここにも鳳凰がいます。<br />太平洋戦争中には18代当主 前田利祐(としやす:往時10歳くらい)や15代 利嗣(としつぐ)の奥さん(往時80歳くらい)たちが金沢神社へ疎開されていたそうです。

    金沢神社 拝殿
    軒に吊るされた燈籠もよい雰囲気を醸しています。ここにも鳳凰がいます。
    太平洋戦争中には18代当主 前田利祐(としやす:往時10歳くらい)や15代 利嗣(としつぐ)の奥さん(往時80歳くらい)たちが金沢神社へ疎開されていたそうです。

  • 金沢神社 夢牛<br />拝殿の左手にあります。寝そべっている牛のフォルムが何とも言えません。<br />旧帝展作家の都賀田勇馬(つがたゆうま)氏が戦前に奉納された作品です。<br />天神様のお使いとされるのが牛ですが、北國新聞社出版局編『金沢めぐりとっておき話のネタ帖』によれば、こちらは願い事を思い浮かべながら頭を撫でると叶う「夢を叶える」牛だそうです。<br />全国の天満宮にも撫でると願いが叶うとされる撫で牛像は多々ありますが、夢牛は「形がかわいい」と評判になり、県内外からファンが訪れるそうです。背中は苔生していますが、頭はツルツルです。<br />勇馬氏は金沢に生まれ、30歳の時に「親子牛」が帝展初入選し、これを機に朝倉文夫先生に師事。47歳の時、石川県工芸指導所窯業課長として石川県に赴任。以後、八幡窯九谷焼置物の原型作成・指導を行う。49歳の時、安宅関跡設置の弁慶・富樫の像を制作。50歳で勇退後、59歳で日展審査員となっています。終戦後の昭和26年(60歳の時)に小松のハニベ岩窟院を創設しています。他に金石の銭屋五兵衛の像や台湾の烏山頭ダムの畔にある土木技師八田與一の像が有名です。

    金沢神社 夢牛
    拝殿の左手にあります。寝そべっている牛のフォルムが何とも言えません。
    旧帝展作家の都賀田勇馬(つがたゆうま)氏が戦前に奉納された作品です。
    天神様のお使いとされるのが牛ですが、北國新聞社出版局編『金沢めぐりとっておき話のネタ帖』によれば、こちらは願い事を思い浮かべながら頭を撫でると叶う「夢を叶える」牛だそうです。
    全国の天満宮にも撫でると願いが叶うとされる撫で牛像は多々ありますが、夢牛は「形がかわいい」と評判になり、県内外からファンが訪れるそうです。背中は苔生していますが、頭はツルツルです。
    勇馬氏は金沢に生まれ、30歳の時に「親子牛」が帝展初入選し、これを機に朝倉文夫先生に師事。47歳の時、石川県工芸指導所窯業課長として石川県に赴任。以後、八幡窯九谷焼置物の原型作成・指導を行う。49歳の時、安宅関跡設置の弁慶・富樫の像を制作。50歳で勇退後、59歳で日展審査員となっています。終戦後の昭和26年(60歳の時)に小松のハニベ岩窟院を創設しています。他に金石の銭屋五兵衛の像や台湾の烏山頭ダムの畔にある土木技師八田與一の像が有名です。

  • 金沢神社 神輿堂<br />拝殿の左手奥に鎮まります。<br />毎年9月下旬の「御山まつり」に小立野台一帯の厄年の人々によって担がれる神輿が納められています。<br />「御山まつり」創設の目的は、金沢市議会議員 宇野邦夫氏が地元住民のふるさと意識を呼び起こすと共に市議として認識してもらうことだったそうです。<br />名称の由来は、一向一揆が成したる共和国「百姓の持チタル国」の政庁として、1546年秋、小立野台地の突端に金沢御堂が建立され、門徒たちがこれを尊んで「御山」と呼んだことに因み、金沢の発展を願って付けられたそうです。

    金沢神社 神輿堂
    拝殿の左手奥に鎮まります。
    毎年9月下旬の「御山まつり」に小立野台一帯の厄年の人々によって担がれる神輿が納められています。
    「御山まつり」創設の目的は、金沢市議会議員 宇野邦夫氏が地元住民のふるさと意識を呼び起こすと共に市議として認識してもらうことだったそうです。
    名称の由来は、一向一揆が成したる共和国「百姓の持チタル国」の政庁として、1546年秋、小立野台地の突端に金沢御堂が建立され、門徒たちがこれを尊んで「御山」と呼んだことに因み、金沢の発展を願って付けられたそうです。

  • 金沢神社 <br />受験シーズンになると地元のテレビニュースで必ず紹介される神社です。<br />絵馬奉納所には、合格祈願の絵馬が二重、三重どころか五重にも六重にもなって掛けられるそうです。<br />現在はシーズンオフということもあり、道真絵馬の数は少な目です。

    金沢神社
    受験シーズンになると地元のテレビニュースで必ず紹介される神社です。
    絵馬奉納所には、合格祈願の絵馬が二重、三重どころか五重にも六重にもなって掛けられるそうです。
    現在はシーズンオフということもあり、道真絵馬の数は少な目です。

  • 金沢神社 奉納稲荷鳥居<br />拝殿から金城霊沢に向かう途中には、朱塗りが鮮やかな奉納稲荷鳥居があります。<br />2008年に前田家鎌倉邸より、稲荷社御分霊と共に移築奉納された鳥居です。<br />8つの小さな朱鳥居が連なる様は厳かな雰囲気を醸しています。前田家に慶事がある毎に奉納された、縁起の良い鳥居です。<br />鳥居の他にも御神鏡・掛け軸・稲荷石像・御神像・観音石像・手水鉢・絵馬など縁の品々21品が奉納されたそうです。

    金沢神社 奉納稲荷鳥居
    拝殿から金城霊沢に向かう途中には、朱塗りが鮮やかな奉納稲荷鳥居があります。
    2008年に前田家鎌倉邸より、稲荷社御分霊と共に移築奉納された鳥居です。
    8つの小さな朱鳥居が連なる様は厳かな雰囲気を醸しています。前田家に慶事がある毎に奉納された、縁起の良い鳥居です。
    鳥居の他にも御神鏡・掛け軸・稲荷石像・御神像・観音石像・手水鉢・絵馬など縁の品々21品が奉納されたそうです。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />覆屋の外観は小さな屋根が付けられた四阿(休憩所)のような佇まいです。<br />1819(文政2)年、12代藩主 斉泰が、泉の周囲に丸い石の井戸胴を造り、瓦屋根の宝形造の覆屋を設けて現在の形に整備しました。<br />この泉は地名「金沢」のルーツと言われるのですが、その物語は次のようなものです。<br />その昔、山科の里に芋堀藤五郎という貧しくも善良な農夫が住んでいた。その後、長谷観音のお告げに導かれて嫁にきた長者の娘「和子」と結婚。藤五郎が山から掘ってきた芋をこの泉水で洗うと洗い落とした土の中から沢山の砂金が出てきた。藤五郎はこれをひとりじめしないで貧しい人々に分け与えて仲良く暮らした。この伝説から、この泉は「金洗いの沢」「金の沢」と呼ばれ、そこから「金沢」という地名に至ったと伝わります。<br />因みに金城霊沢の覆屋の周りを息を止めて3周すると願い事が叶うと言われていますが、金沢にある四高の学生が言い出したことが伝説として受け継がれているようです。

    金沢神社 金城霊澤
    覆屋の外観は小さな屋根が付けられた四阿(休憩所)のような佇まいです。
    1819(文政2)年、12代藩主 斉泰が、泉の周囲に丸い石の井戸胴を造り、瓦屋根の宝形造の覆屋を設けて現在の形に整備しました。
    この泉は地名「金沢」のルーツと言われるのですが、その物語は次のようなものです。
    その昔、山科の里に芋堀藤五郎という貧しくも善良な農夫が住んでいた。その後、長谷観音のお告げに導かれて嫁にきた長者の娘「和子」と結婚。藤五郎が山から掘ってきた芋をこの泉水で洗うと洗い落とした土の中から沢山の砂金が出てきた。藤五郎はこれをひとりじめしないで貧しい人々に分け与えて仲良く暮らした。この伝説から、この泉は「金洗いの沢」「金の沢」と呼ばれ、そこから「金沢」という地名に至ったと伝わります。
    因みに金城霊沢の覆屋の周りを息を止めて3周すると願い事が叶うと言われていますが、金沢にある四高の学生が言い出したことが伝説として受け継がれているようです。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />欄間に掲げられた扁額「金城霊澤」は幕末の三筆と称された市河米庵の筆になり、彫師は武田友月と伝わります。<br />余談ですが、金沢神社は、加賀藩の学問所「明倫堂」の創設の際、その鎮守社として創建されたというのが表向きの由緒でが、異聞もあります。当初、兼六園の梅林付近に「孔子廟」を創建する計画でしたが、途中で頓挫し、学問の神様であると共に前田家の祖先でもある菅原道真を祀る神社に変更されたと言うのです。<br />更に、この計画も再び変更されました。その肝となったのが「金城霊澤」でした。明倫堂の鎮守社だけでなく、金城霊澤の鎮守社でもあるべきとの考え方から、梅林付近にではなく、金城霊澤の脇に神社を創建することになったそうです。これは「金城霊澤」の存在意義を改めて考えさせられるエピソードです。<br />この説を裏付けたのが1975(昭和50)年に発見された神社の棟札でした。そこには「金城霊澤の傍らに鎮護するためにこの神社を建てた」という一文が記されています。

    金沢神社 金城霊澤
    欄間に掲げられた扁額「金城霊澤」は幕末の三筆と称された市河米庵の筆になり、彫師は武田友月と伝わります。
    余談ですが、金沢神社は、加賀藩の学問所「明倫堂」の創設の際、その鎮守社として創建されたというのが表向きの由緒でが、異聞もあります。当初、兼六園の梅林付近に「孔子廟」を創建する計画でしたが、途中で頓挫し、学問の神様であると共に前田家の祖先でもある菅原道真を祀る神社に変更されたと言うのです。
    更に、この計画も再び変更されました。その肝となったのが「金城霊澤」でした。明倫堂の鎮守社だけでなく、金城霊澤の鎮守社でもあるべきとの考え方から、梅林付近にではなく、金城霊澤の脇に神社を創建することになったそうです。これは「金城霊澤」の存在意義を改めて考えさせられるエピソードです。
    この説を裏付けたのが1975(昭和50)年に発見された神社の棟札でした。そこには「金城霊澤の傍らに鎮護するためにこの神社を建てた」という一文が記されています。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />井戸胴は、外径1.75m、厚さ15cm、深さ約180cmあります。敷石は金沢城の石垣にも用いられている金沢産の戸室石で、加賀藩で特別の所に用いられた四半模様になっています。四半模様は、碁盤目見ようと対比され、菱形を並べたような模様を言います。<br />因みに加賀藩が四半模様を用いた理由については、初代藩主 前田利家と妻 まつがキリシタンだったという都市伝説から、「加賀藩主は代々キリシタンのため、藩主が碁盤目模様で出来る十字を踏まないように」という配慮からとも言われています。<br />尚、井戸胴の底は石積みになっており、石の間から霊泉がポコポコと湧き上がっています。この穴が龍宮城に繋がっているという伝説もあるのですが…。<br />因みに斉広は、龍神が大好きなお殿様だったそうです。例えば、法名が「金龍院」であり、正妻の法名も「真龍院」だったそうです。

    金沢神社 金城霊澤
    井戸胴は、外径1.75m、厚さ15cm、深さ約180cmあります。敷石は金沢城の石垣にも用いられている金沢産の戸室石で、加賀藩で特別の所に用いられた四半模様になっています。四半模様は、碁盤目見ようと対比され、菱形を並べたような模様を言います。
    因みに加賀藩が四半模様を用いた理由については、初代藩主 前田利家と妻 まつがキリシタンだったという都市伝説から、「加賀藩主は代々キリシタンのため、藩主が碁盤目模様で出来る十字を踏まないように」という配慮からとも言われています。
    尚、井戸胴の底は石積みになっており、石の間から霊泉がポコポコと湧き上がっています。この穴が龍宮城に繋がっているという伝説もあるのですが…。
    因みに斉広は、龍神が大好きなお殿様だったそうです。例えば、法名が「金龍院」であり、正妻の法名も「真龍院」だったそうです。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />龍神が棲むと伝わる聖地の湧き水は、写真では表現できないほど神秘的な透明感を湛えています。このように斜めから陽が差す時間帯が最も美しく見えます。<br />湧き水の中にキラキラと輝くものが浮遊していますが、実は「雲母」だそうです。これが砂金が浮かんでいるように見えたことから「金洗い沢」と呼ばれるようになりました。それと日本全国に40~50ヶ所あるとされる「芋掘藤五郎伝説」とが合体し、「金沢」の地名が起こったということです。<br />パワースポットと称されるだけあり、トレビの泉のようにコインが投げ込まれています。管理事務所によれば、年間3万円ほどになるそうですが、実は好ましいことではないそうです。その理由は金城霊澤は龍神が棲む聖地だからです。そもそもお金というのは飲料にもなる泉にとっては汚物であると共に、金属に反応して龍神が暴れ出て来るという伝説もあるそうです。<br />過去に様々な策が打たれたそうですが、結果的に効果はなかったようです。例えば、投げ込み禁止の看板もあったそうですが、写真に写り込むため外されそうです。また、熱心な参拝客が賽銭箱を備え付けようとしましたが、それも却下されたと言います。

    金沢神社 金城霊澤
    龍神が棲むと伝わる聖地の湧き水は、写真では表現できないほど神秘的な透明感を湛えています。このように斜めから陽が差す時間帯が最も美しく見えます。
    湧き水の中にキラキラと輝くものが浮遊していますが、実は「雲母」だそうです。これが砂金が浮かんでいるように見えたことから「金洗い沢」と呼ばれるようになりました。それと日本全国に40~50ヶ所あるとされる「芋掘藤五郎伝説」とが合体し、「金沢」の地名が起こったということです。
    パワースポットと称されるだけあり、トレビの泉のようにコインが投げ込まれています。管理事務所によれば、年間3万円ほどになるそうですが、実は好ましいことではないそうです。その理由は金城霊澤は龍神が棲む聖地だからです。そもそもお金というのは飲料にもなる泉にとっては汚物であると共に、金属に反応して龍神が暴れ出て来るという伝説もあるそうです。
    過去に様々な策が打たれたそうですが、結果的に効果はなかったようです。例えば、投げ込み禁止の看板もあったそうですが、写真に写り込むため外されそうです。また、熱心な参拝客が賽銭箱を備え付けようとしましたが、それも却下されたと言います。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />天井絵「龍之図」は広田百豊(ひゃくほう)の筆になります。元々は狩野探幽が描いた絵が掛けられており、網を外すと龍神が暴れて出て来ると言われていたようですが、傷みが激しかったため書き直されたようです。<br />「金沢百万石まつり」の始まりを告げる「お水とりの儀式」はこの金城霊沢で行われます。金沢神社の宮司により金城霊沢の霊水が柄杓でくみ上げられ、桶に入れ、それを木箱に納めて神社に奉納の後、茶席へと運ばれます。

    金沢神社 金城霊澤
    天井絵「龍之図」は広田百豊(ひゃくほう)の筆になります。元々は狩野探幽が描いた絵が掛けられており、網を外すと龍神が暴れて出て来ると言われていたようですが、傷みが激しかったため書き直されたようです。
    「金沢百万石まつり」の始まりを告げる「お水とりの儀式」はこの金城霊沢で行われます。金沢神社の宮司により金城霊沢の霊水が柄杓でくみ上げられ、桶に入れ、それを木箱に納めて神社に奉納の後、茶席へと運ばれます。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />百豊は1876(明治9)年に石川県江沼郡山中村に生まれました。石川県師範学校を卒業し、江沼郡内の小学校に勤務。30歳頃に動橋小学校校長となるが、画業に専念するため京都の小学校に転勤。1911(明治44)年に教職を辞して竹内栖鳳に師事。同年第5回文展に「廏」で文部大臣褒状、宮内省買い上げとなりました。大正5年まで連続入選するが、1918(大正7)年の文展改組に際して同志と文展を離脱し、井口華秋、庄田鶴友、西井敬岳らと日本自由画壇を設立して女性像を中心に自由な表現を試みました。大正11年にヨーロッパ遊学。金城画壇の特別会員であり、1936(昭和11)年に金城霊澤の覆屋の天井に「龍之図」を描く。1955(昭和30)年に80歳で兵庫県西宮市にて死去。

    金沢神社 金城霊澤
    百豊は1876(明治9)年に石川県江沼郡山中村に生まれました。石川県師範学校を卒業し、江沼郡内の小学校に勤務。30歳頃に動橋小学校校長となるが、画業に専念するため京都の小学校に転勤。1911(明治44)年に教職を辞して竹内栖鳳に師事。同年第5回文展に「廏」で文部大臣褒状、宮内省買い上げとなりました。大正5年まで連続入選するが、1918(大正7)年の文展改組に際して同志と文展を離脱し、井口華秋、庄田鶴友、西井敬岳らと日本自由画壇を設立して女性像を中心に自由な表現を試みました。大正11年にヨーロッパ遊学。金城画壇の特別会員であり、1936(昭和11)年に金城霊澤の覆屋の天井に「龍之図」を描く。1955(昭和30)年に80歳で兵庫県西宮市にて死去。

  • 金沢神社 鳳凰山<br />金城霊澤の背後には奇妙な洞窟があります。丘の上に多くの奇石や珍しい石を集めて鳳凰の姿に造り上げられた築山の麓に掘られた洞穴ですが、時代の流れと共に今日の姿になったそうです。<br />まず「金城霊澤」があり、そこに金城霊澤の守護社を創建し、その後多様な奇石を収集して築山を造営するなど、風水に見合った聖域を作り上げたものです。つまり金沢神社も鳳凰山も「金城霊澤」を中心とした「聖地」のパーツという考え方です。<br />洞窟内にある「金城霊澤碑」は1844(天保15年)に13代藩主 斉泰が建てました。金城霊澤の歴史と前田家の関りを碑文にして伊豆産の「ねぶ川石」に刻み、碑の題字「金城霊澤碑」は斉泰が自ら隷書で書き、撰文は津田鳳卿、銘は渡辺栗、書は市河三亥、江戸谷中の名工 田中文学が刻んだと伝わります。<br />碑文では湧水量の豊富なこの泉が永く庶民に親しまれてきたことの他、「芋掘藤五郎伝説」について通説とは異なる記述がなされています。

    金沢神社 鳳凰山
    金城霊澤の背後には奇妙な洞窟があります。丘の上に多くの奇石や珍しい石を集めて鳳凰の姿に造り上げられた築山の麓に掘られた洞穴ですが、時代の流れと共に今日の姿になったそうです。
    まず「金城霊澤」があり、そこに金城霊澤の守護社を創建し、その後多様な奇石を収集して築山を造営するなど、風水に見合った聖域を作り上げたものです。つまり金沢神社も鳳凰山も「金城霊澤」を中心とした「聖地」のパーツという考え方です。
    洞窟内にある「金城霊澤碑」は1844(天保15年)に13代藩主 斉泰が建てました。金城霊澤の歴史と前田家の関りを碑文にして伊豆産の「ねぶ川石」に刻み、碑の題字「金城霊澤碑」は斉泰が自ら隷書で書き、撰文は津田鳳卿、銘は渡辺栗、書は市河三亥、江戸谷中の名工 田中文学が刻んだと伝わります。
    碑文では湧水量の豊富なこの泉が永く庶民に親しまれてきたことの他、「芋掘藤五郎伝説」について通説とは異なる記述がなされています。

  • 金沢神社 鳳凰山 金城霊澤碑<br />「北陸の鎮を白山という。雪はその嶺を封じて四時尽きず。その峻、霄に逼る。称して本邦三嶽の一と為す。古よりわが藩の管内に属す。その麓五州に跨る。山脈蜿蜒として北に向かって来り、山埼荘に至りて止む。(中略)<br />昔、逸人あり。称して藤五という。あらがねを山に採り、この水に淘汰す。故に金沢と称す。藤五、人と為り寡欲にして、施を好みておしまず。けだし藤氏の第五郎、京洛の汾華を避けて、来たりてここに棲遅す。褐を衣て玉を懐き、名を遁れ、あとを晦うし、人の知るを求めず。故に前史の徴するに足る者なし。(中略)<br />府城の南、檻泉洋溢す。ここにめぐりて沢をなし、よく万物を育す。滋潤膏沃にして涵養竭くる無し。(以下略)」(『金城霊澤碑文の解説』(津田鉄外喜 昭和39年刊)より抜粋)<br />「あらがね」を漢和辞典で引くと「鏷」「銑」がヒットします。金城霊澤碑文にあるのはこの文字で、「ボク」と読み、採掘したばかりの鉱石を意味します。一方、「銑」は「セン」と読み、精練した(洗った)金属を意味します。つまり、「金を洗う」とは「金属を精練する」と解釈するのが腑に落ちます。因みに碑文には「黄金」の文字は無く、黄金伝説が明確に書かれている訳でありません。<br />それ故、「金洗いの沢とは、金属を精練していた場所」との説もあります。小立野台地は精練に必要な炭の原料となる木材資源が豊富であり、台地の突端に位置し湧き水に恵まれたこの地こそ、金属(おそらく鉄)の精練には最適の場所だったと言うのです。<br />因みに「芋掘り」とは、鉱山師が使う隠語でもあります。貴金属に関する通俗書では、良質な鉱脈を掘り当てることを「いもを掘る」と説明しています。「いもヅル」とか「金ヅル」という言葉は鉱山師が使い始めたそうです。

    金沢神社 鳳凰山 金城霊澤碑
    「北陸の鎮を白山という。雪はその嶺を封じて四時尽きず。その峻、霄に逼る。称して本邦三嶽の一と為す。古よりわが藩の管内に属す。その麓五州に跨る。山脈蜿蜒として北に向かって来り、山埼荘に至りて止む。(中略)
    昔、逸人あり。称して藤五という。あらがねを山に採り、この水に淘汰す。故に金沢と称す。藤五、人と為り寡欲にして、施を好みておしまず。けだし藤氏の第五郎、京洛の汾華を避けて、来たりてここに棲遅す。褐を衣て玉を懐き、名を遁れ、あとを晦うし、人の知るを求めず。故に前史の徴するに足る者なし。(中略)
    府城の南、檻泉洋溢す。ここにめぐりて沢をなし、よく万物を育す。滋潤膏沃にして涵養竭くる無し。(以下略)」(『金城霊澤碑文の解説』(津田鉄外喜 昭和39年刊)より抜粋)
    「あらがね」を漢和辞典で引くと「鏷」「銑」がヒットします。金城霊澤碑文にあるのはこの文字で、「ボク」と読み、採掘したばかりの鉱石を意味します。一方、「銑」は「セン」と読み、精練した(洗った)金属を意味します。つまり、「金を洗う」とは「金属を精練する」と解釈するのが腑に落ちます。因みに碑文には「黄金」の文字は無く、黄金伝説が明確に書かれている訳でありません。
    それ故、「金洗いの沢とは、金属を精練していた場所」との説もあります。小立野台地は精練に必要な炭の原料となる木材資源が豊富であり、台地の突端に位置し湧き水に恵まれたこの地こそ、金属(おそらく鉄)の精練には最適の場所だったと言うのです。
    因みに「芋掘り」とは、鉱山師が使う隠語でもあります。貴金属に関する通俗書では、良質な鉱脈を掘り当てることを「いもを掘る」と説明しています。「いもヅル」とか「金ヅル」という言葉は鉱山師が使い始めたそうです。

  • 金沢神社 鳳凰山 金城霊澤碑の添碑<br />斉泰の指示により制作されたもので、金城霊澤碑の傍らに置かれた扇状の碑です。<br />霊澤碑と同じ伊豆産の石で、書は市河米庵が手がけています。<br />1878(明治10)年に金城霊澤碑に付属し鳳凰山洞窟に附設されました。<br />

    金沢神社 鳳凰山 金城霊澤碑の添碑
    斉泰の指示により制作されたもので、金城霊澤碑の傍らに置かれた扇状の碑です。
    霊澤碑と同じ伊豆産の石で、書は市河米庵が手がけています。
    1878(明治10)年に金城霊澤碑に付属し鳳凰山洞窟に附設されました。

  • 金沢神社 金城霊澤<br />冬至の日には金城霊澤の真後ろに落陽するそうです。それ故、日没直前には斜陽が後方から差し込み、霊澤が黄金色に輝く瞬間があるそうです。<br />風水だけでなく黄道さえも考慮して配置されていることが判ります。<br />先人たちの知恵には頭が下がります。

    金沢神社 金城霊澤
    冬至の日には金城霊澤の真後ろに落陽するそうです。それ故、日没直前には斜陽が後方から差し込み、霊澤が黄金色に輝く瞬間があるそうです。
    風水だけでなく黄道さえも考慮して配置されていることが判ります。
    先人たちの知恵には頭が下がります。

  • 金沢神社 庭園<br />境内は市指定保存樹林になっています。スギやモミ、クロマツ等で構成されており、隣接する兼六園と一体化したような庭園が整備されています。<br />ところで、芋掘藤五郎のモデルは誰なのでしょうか?<br />力持ちと言えば「弁慶」、頓智と言えば「一休さん」のように、各地に散在した伝説を一身に集約するキャラクターであろうと言うのが通説です。 <br />しかし特筆すべきは、987(永延元)年に加賀の介(介:官職の名称)に任ぜられた富樫忠頼が善政をしき、庶民の敬愛を受けたことから、地元では忠頼が藤五郎のモデルとの説が根強いことです。富樫氏は鎮守府将軍を勤めた藤原利仁(芥川龍之介著『芋粥』の主人公)の末裔でもあり、藤原氏の血筋を継ぐという設定の藤五郎のモデルとしては申し分ないのですが…。

    金沢神社 庭園
    境内は市指定保存樹林になっています。スギやモミ、クロマツ等で構成されており、隣接する兼六園と一体化したような庭園が整備されています。
    ところで、芋掘藤五郎のモデルは誰なのでしょうか?
    力持ちと言えば「弁慶」、頓智と言えば「一休さん」のように、各地に散在した伝説を一身に集約するキャラクターであろうと言うのが通説です。
    しかし特筆すべきは、987(永延元)年に加賀の介(介:官職の名称)に任ぜられた富樫忠頼が善政をしき、庶民の敬愛を受けたことから、地元では忠頼が藤五郎のモデルとの説が根強いことです。富樫氏は鎮守府将軍を勤めた藤原利仁(芥川龍之介著『芋粥』の主人公)の末裔でもあり、藤原氏の血筋を継ぐという設定の藤五郎のモデルとしては申し分ないのですが…。

  • 金沢神社 庭園 大屋愷あつ(よしあつ)翁之碑<br />加賀藩の洋学者です。長崎に留学し、英・米・蘭語、数 学・地理・天文・鉄砲学を学び、1865(慶応元)年に藩校壮猶館の翻訳方となりました。明治維新後には石川県の教育係として学校教育方針を作成するなど、初等教育に尽力しました。県独自の教科書『星学初歩』(1871(明治4) )も著しています。明治政府は学制を発布して全国の教育の統一を図りますが、石川県では独自の教科書を出版。その教科書を編纂し、近代教育を担ったのは旧加賀藩士たちで、実学を重んじたとも言われます。加賀藩の教育の伝統がこうした形で開花したとも言えます。<br />因みに、金沢でランプや蝙蝠傘を最初に使い、チョンマゲを最初に切った「ハイカラさん」としても知られています。長町武家屋敷跡に屋敷が現存しています。

    金沢神社 庭園 大屋愷あつ(よしあつ)翁之碑
    加賀藩の洋学者です。長崎に留学し、英・米・蘭語、数 学・地理・天文・鉄砲学を学び、1865(慶応元)年に藩校壮猶館の翻訳方となりました。明治維新後には石川県の教育係として学校教育方針を作成するなど、初等教育に尽力しました。県独自の教科書『星学初歩』(1871(明治4) )も著しています。明治政府は学制を発布して全国の教育の統一を図りますが、石川県では独自の教科書を出版。その教科書を編纂し、近代教育を担ったのは旧加賀藩士たちで、実学を重んじたとも言われます。加賀藩の教育の伝統がこうした形で開花したとも言えます。
    因みに、金沢でランプや蝙蝠傘を最初に使い、チョンマゲを最初に切った「ハイカラさん」としても知られています。長町武家屋敷跡に屋敷が現存しています。

  • 金沢神社 庭園 大屋愷あつ(よしあつ)翁之碑<br />碑の頭上では、地球儀を大屋の干支である2頭の猪が支えています。<br />意匠デザインは「景州」と号した島田佳矣(よしなり)です。1894(明冶27)年に東京高等工業学校(現 東工大)の助教授に任官。1902(明冶35)年には、東京美術学校図案科教授に任官し図案学を講じ、国内の博覧会、展覧会の審査員や地方工芸の開発、宮内省御用の大作品の意匠監督など、日本の図案工芸界の先駆者として活躍しました。

    金沢神社 庭園 大屋愷あつ(よしあつ)翁之碑
    碑の頭上では、地球儀を大屋の干支である2頭の猪が支えています。
    意匠デザインは「景州」と号した島田佳矣(よしなり)です。1894(明冶27)年に東京高等工業学校(現 東工大)の助教授に任官。1902(明冶35)年には、東京美術学校図案科教授に任官し図案学を講じ、国内の博覧会、展覧会の審査員や地方工芸の開発、宮内省御用の大作品の意匠監督など、日本の図案工芸界の先駆者として活躍しました。

  • 金沢神社 本殿<br />江戸時代末期(1794年)に加賀藩11代藩主 前田治脩が建立したもので、2004年に国の登録有形文化財に登録されました。<br />大型の流造社殿で、身舎円柱上に連三斗、妻は虹梁大瓶束で、虹梁 で繋ぐ向拝は水引虹梁、連三斗を備えています。 間口の広い平面で、身舎正面にも虹梁型頭貫を通し、中備蟇股を置き、胡麻殻決りの幣軸を付けて特徴ある構えです。<br />ご祭神が菅原道真ですので千木は男千木です。

    金沢神社 本殿
    江戸時代末期(1794年)に加賀藩11代藩主 前田治脩が建立したもので、2004年に国の登録有形文化財に登録されました。
    大型の流造社殿で、身舎円柱上に連三斗、妻は虹梁大瓶束で、虹梁 で繋ぐ向拝は水引虹梁、連三斗を備えています。 間口の広い平面で、身舎正面にも虹梁型頭貫を通し、中備蟇股を置き、胡麻殻決りの幣軸を付けて特徴ある構えです。
    ご祭神が菅原道真ですので千木は男千木です。

  • 金沢神社 北条時敬(ときゆき)頌徳碑<br />金沢が産んだ偉大な教育家で四高の校長を務めた北条時敬の顕彰碑です。<br />北条時敬(号 廓堂)は、1865(安政5)年に金沢に生まれました。明治時代~大正時代にかけての教育者で、東大卒業後に第四高校の教師となり、鈴木大拙や西田幾多郎、藤岡作太郎らを輩出しました。その後、第四高校校長等を経て、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任しました<br />四高の校長に就任した際は、酒で荒廃した学校を立て直すため、学生に禁酒を命じています。まさに教育者の鑑のような人物だったようです。<br />一方、東北帝国大学総長の時、1913(大正2)年の入学試験で3人の女子に入学を許可したことで知られ、3人は日本初の女子大学生となりました。官報に入学許可が掲載された8月21日は「女子大生の日」とされています。更には、四高校長時代に首相 伊藤博文が金沢滞在の折、金沢には学徒が多いから絃歌飲食しないよう手紙を送り「金沢に北条なるものあり畏るべし」と言わしめたとの逸話があります。因みに「絃歌」とは、「三味線や琴などの弦楽器を演奏しながら歌を歌うこと」です。

    金沢神社 北条時敬(ときゆき)頌徳碑
    金沢が産んだ偉大な教育家で四高の校長を務めた北条時敬の顕彰碑です。
    北条時敬(号 廓堂)は、1865(安政5)年に金沢に生まれました。明治時代~大正時代にかけての教育者で、東大卒業後に第四高校の教師となり、鈴木大拙や西田幾多郎、藤岡作太郎らを輩出しました。その後、第四高校校長等を経て、東北帝国大学総長、学習院長、貴族院議員を歴任しました
    四高の校長に就任した際は、酒で荒廃した学校を立て直すため、学生に禁酒を命じています。まさに教育者の鑑のような人物だったようです。
    一方、東北帝国大学総長の時、1913(大正2)年の入学試験で3人の女子に入学を許可したことで知られ、3人は日本初の女子大学生となりました。官報に入学許可が掲載された8月21日は「女子大生の日」とされています。更には、四高校長時代に首相 伊藤博文が金沢滞在の折、金沢には学徒が多いから絃歌飲食しないよう手紙を送り「金沢に北条なるものあり畏るべし」と言わしめたとの逸話があります。因みに「絃歌」とは、「三味線や琴などの弦楽器を演奏しながら歌を歌うこと」です。

  • 国立工芸館<br />日本海側初の国立美術館として2020年にオープンしました。<br />東京都千代田区にあった従前の東京国立近代美術館工芸館から、収蔵されている美術工芸作品のうち1900点以上が移転しています。金沢市への移転は、政府が掲げる地方創生政策にある政府関係機関の地方移転の一環として行われました。<br />尚、対外的な情報発信を担う名誉館長職には元サッカー日本代表の中田英寿氏が就任し、注目されました。<br />建物は登録有形文化財の旧陸軍金沢偕行社(北西側)と旧陸軍第九師団司令部庁舎(南東側)を移築して再利用しています。

    国立工芸館
    日本海側初の国立美術館として2020年にオープンしました。
    東京都千代田区にあった従前の東京国立近代美術館工芸館から、収蔵されている美術工芸作品のうち1900点以上が移転しています。金沢市への移転は、政府が掲げる地方創生政策にある政府関係機関の地方移転の一環として行われました。
    尚、対外的な情報発信を担う名誉館長職には元サッカー日本代表の中田英寿氏が就任し、注目されました。
    建物は登録有形文化財の旧陸軍金沢偕行社(北西側)と旧陸軍第九師団司令部庁舎(南東側)を移築して再利用しています。

  • 国立工芸館 旧陸軍金沢偕行社<br />1909(明治42)年建設<br />旧陸軍の将校クラブ(社交場)として金沢市大手町に建てられた、木造2階建、下方の勾配が緩くなるマンサード風の瓦屋根(2つの異なる勾配を持つ屋根)とバロック風(曲線を多用した動的な雰囲気のあるデザイン)の外観を持つ洋館建築です。外部にはギリシア神殿風の柱など細かな装飾があり、その優美さは明治ロマンを彷彿とさせる建物です。戦後は国税局が使用していました。

    国立工芸館 旧陸軍金沢偕行社
    1909(明治42)年建設
    旧陸軍の将校クラブ(社交場)として金沢市大手町に建てられた、木造2階建、下方の勾配が緩くなるマンサード風の瓦屋根(2つの異なる勾配を持つ屋根)とバロック風(曲線を多用した動的な雰囲気のあるデザイン)の外観を持つ洋館建築です。外部にはギリシア神殿風の柱など細かな装飾があり、その優美さは明治ロマンを彷彿とさせる建物です。戦後は国税局が使用していました。

  • 国立工芸館 旧陸軍第九師団司令部庁舎<br />1898(明治31)年建設<br />木造2階建、寄棟、桟瓦葺のいかにも司令部といった感じの重厚な建物で、設計は陸軍経理部が手掛けています。<br />シンメトリーのフォルムが美しく、正面玄関のペディメント(破風)やピラスタ-(壁面より浮き出した装飾用の付け柱)、上げ下げ窓の下に付けられたバルコニー風手摺の装飾、基礎の通気口など簡素なルネッサンス風初期洋風建築の意匠を纏った外観です。日露戦争以前の数少ない遺構として貴重なものです。<br />お隣の旧陸軍金沢偕行社は、陸軍将校の社交場や迎賓館の意味合いが高い事から外観も凝った意匠ですが、それに比べこちらは庁舎建築のため、華美な意匠を廃したシンプルな印象です。

    国立工芸館 旧陸軍第九師団司令部庁舎
    1898(明治31)年建設
    木造2階建、寄棟、桟瓦葺のいかにも司令部といった感じの重厚な建物で、設計は陸軍経理部が手掛けています。
    シンメトリーのフォルムが美しく、正面玄関のペディメント(破風)やピラスタ-(壁面より浮き出した装飾用の付け柱)、上げ下げ窓の下に付けられたバルコニー風手摺の装飾、基礎の通気口など簡素なルネッサンス風初期洋風建築の意匠を纏った外観です。日露戦争以前の数少ない遺構として貴重なものです。
    お隣の旧陸軍金沢偕行社は、陸軍将校の社交場や迎賓館の意味合いが高い事から外観も凝った意匠ですが、それに比べこちらは庁舎建築のため、華美な意匠を廃したシンプルな印象です。

  • 石川県立歴史博物館(重文)<br />旧石器時代~近現代までの石川県の歴史や繊維産業など石川県に関わりの深い近世・近代の科学技術の解説、伝統工芸品などに関する展示がなされています。<br />圧倒されるのが遥か彼方まで続くかのような壮大な赤煉瓦造の外観です。<br />道路側に位置する手前の第1棟と中間の第2棟は共に長さ90.9m、幅14.5mのスケールを誇り、ウナギの寝床を彷彿とさせます。第3棟のみ長さ85.4mと他棟に比べて若干短くなっています。

    石川県立歴史博物館(重文)
    旧石器時代~近現代までの石川県の歴史や繊維産業など石川県に関わりの深い近世・近代の科学技術の解説、伝統工芸品などに関する展示がなされています。
    圧倒されるのが遥か彼方まで続くかのような壮大な赤煉瓦造の外観です。
    道路側に位置する手前の第1棟と中間の第2棟は共に長さ90.9m、幅14.5mのスケールを誇り、ウナギの寝床を彷彿とさせます。第3棟のみ長さ85.4mと他棟に比べて若干短くなっています。

  • 石川県立歴史博物館<br />建物は、1909(明治42)年~1914(大正3)年に建てられた金澤陸軍兵器支廠の兵器庫(旧陸軍九師団)で、煉瓦造、2階建、シンメトリーを基調とした端正な意匠でまとめられています。<br />戦後は金沢美術工芸大学として使用されていました。<br />

    石川県立歴史博物館
    建物は、1909(明治42)年~1914(大正3)年に建てられた金澤陸軍兵器支廠の兵器庫(旧陸軍九師団)で、煉瓦造、2階建、シンメトリーを基調とした端正な意匠でまとめられています。
    戦後は金沢美術工芸大学として使用されていました。

  • 石川県立歴史博物館<br />現在は3棟しか残されていませんが、これらは5~7号です。つまり、元々は7棟あったとことになります。<br />もし7棟並んでいれば、更に壮観な景色だったことでしょう。<br />

    石川県立歴史博物館
    現在は3棟しか残されていませんが、これらは5~7号です。つまり、元々は7棟あったとことになります。
    もし7棟並んでいれば、更に壮観な景色だったことでしょう。

  • しいのき迎賓館<br />2002年まではこの「しいのき迎賓館」が石川県県庁舎として利用されていました。石川県で最古の鉄筋コンクリート造建築物のひとつです。<br />建物の手前にある「堂形しいのき」の樹高は建物に向かって右側の木が約12m、左側が約13mあります。常緑樹ですので冬場でも枝先に葉が生い茂り、堂々たる姿を魅せます。幹は根元から幾つも枝分かれし、どれが主軸か判らないほどです。<br />「堂形しいのき」の「堂形」は、加賀藩の祖 前田利家が1592(天正20)年にこの辺りに京都の三十三間堂を模したお堂のような形の弓矢の的場を設置したことに因む地名です。金沢城からほど近いこの場所には、江戸時代には藩の米蔵が置かれ、その名も「堂形米蔵」でした。<br />その後、馬場となり老樹が邪魔になって多くの椎の木が伐採されましたが、それを免れたのがこれら2本だとの説があります。<br />1880(明治13)年に初代の県庁舎を造る際にも残され、2代目のこの建物を建造する時にも残されました。更には、建物の色味も椎の木に合わせて選ばれています。<br />「椎ノ老樹等ヲ残シ若干の樹木ヲ新植シテ老樹ノ色彩ト相俟テ建物ノ調和ヲ計レリ」(『石川縣廳舎建築要覧』)<br />椎の木自体の出自についても、この地に建てられた加賀藩書院の庭木だったなど、諸説が取り沙汰されてきましたが確たる証拠はないようです。

    しいのき迎賓館
    2002年まではこの「しいのき迎賓館」が石川県県庁舎として利用されていました。石川県で最古の鉄筋コンクリート造建築物のひとつです。
    建物の手前にある「堂形しいのき」の樹高は建物に向かって右側の木が約12m、左側が約13mあります。常緑樹ですので冬場でも枝先に葉が生い茂り、堂々たる姿を魅せます。幹は根元から幾つも枝分かれし、どれが主軸か判らないほどです。
    「堂形しいのき」の「堂形」は、加賀藩の祖 前田利家が1592(天正20)年にこの辺りに京都の三十三間堂を模したお堂のような形の弓矢の的場を設置したことに因む地名です。金沢城からほど近いこの場所には、江戸時代には藩の米蔵が置かれ、その名も「堂形米蔵」でした。
    その後、馬場となり老樹が邪魔になって多くの椎の木が伐採されましたが、それを免れたのがこれら2本だとの説があります。
    1880(明治13)年に初代の県庁舎を造る際にも残され、2代目のこの建物を建造する時にも残されました。更には、建物の色味も椎の木に合わせて選ばれています。
    「椎ノ老樹等ヲ残シ若干の樹木ヲ新植シテ老樹ノ色彩ト相俟テ建物ノ調和ヲ計レリ」(『石川縣廳舎建築要覧』)
    椎の木自体の出自についても、この地に建てられた加賀藩書院の庭木だったなど、諸説が取り沙汰されてきましたが確たる証拠はないようです。

  • しいのき迎賓館<br />本格的鉄筋コンクリート造建築としては北陸地方初、非様式的な近代建築としては金沢初のものでした。ベージュとグレーのツートーンカラーが斬新です。<br />遠目に見ると外壁は煉瓦造にも見えますが、近づいて見るとスクラッチタイル製です。フランク・ロイド・ライトが1923(大正12)年建造の旧帝国ホテル本館で日本で初めて使用した愛知県武豊産の茶褐色スクラッチタイルと同じです。この建物は1924年竣工ですから、時代の最先端の建物だったと言えます。また、幾何学的装飾を要所に配した端正で落ち着きのある意匠も魅力的です。<br />現在は正面の塔屋と両翼を残すのみですが、かつては背後にも建物が連なっており、上から見ると横倒しの「日」の字型になっている特徴的な庁舎でした。この構造は国会議事堂平面と同じです。

    しいのき迎賓館
    本格的鉄筋コンクリート造建築としては北陸地方初、非様式的な近代建築としては金沢初のものでした。ベージュとグレーのツートーンカラーが斬新です。
    遠目に見ると外壁は煉瓦造にも見えますが、近づいて見るとスクラッチタイル製です。フランク・ロイド・ライトが1923(大正12)年建造の旧帝国ホテル本館で日本で初めて使用した愛知県武豊産の茶褐色スクラッチタイルと同じです。この建物は1924年竣工ですから、時代の最先端の建物だったと言えます。また、幾何学的装飾を要所に配した端正で落ち着きのある意匠も魅力的です。
    現在は正面の塔屋と両翼を残すのみですが、かつては背後にも建物が連なっており、上から見ると横倒しの「日」の字型になっている特徴的な庁舎でした。この構造は国会議事堂平面と同じです。

  • しいのき迎賓館<br />「しいのき迎賓館」の名の由来は、旧県庁舎の前に国の天然記念物に指定されている樹齢約300年とされる堂形の椎の木が2本仲良く並ぶ姿に因みます。椎の木の色彩と建物の調和を図る設計趣旨はリニューアル後も健在です。<br />杖を突くその姿が300年の星霜の重みを感じさせます。

    しいのき迎賓館
    「しいのき迎賓館」の名の由来は、旧県庁舎の前に国の天然記念物に指定されている樹齢約300年とされる堂形の椎の木が2本仲良く並ぶ姿に因みます。椎の木の色彩と建物の調和を図る設計趣旨はリニューアル後も健在です。
    杖を突くその姿が300年の星霜の重みを感じさせます。

  • しいのき迎賓館<br />旧石川県庁舎本館は、1924(大正13)年に竣工した、鉄筋コンクリート造の建物で、設計は辰野金吾らの薫陶を受けて国会議事堂などの設計に携わった大蔵省大臣官房臨時建築部 技師 矢橋賢吉氏が行い、設計実務は大正後期に内務省都市計画局や早稲田大学講師、東京市の復興建築部長を務めた笠原敏郎が行い、施工は日本土木株式会社(現:大成建設株式会社)により建設されました。昭和時代初期に流行したアール・デコ小式のはしりとも言われています。新県庁舎(金沢市鞍月)への移転に伴い、2002年12月27日の閉庁までの約78年間県庁舎として使用されました。<br />矢橋氏は国会議事堂の設計をまとめた中心人物として知られ、他にも旧山口県庁舎や旧岐阜県庁舎といった庁舎・官庁施設を多く手がけています。

    しいのき迎賓館
    旧石川県庁舎本館は、1924(大正13)年に竣工した、鉄筋コンクリート造の建物で、設計は辰野金吾らの薫陶を受けて国会議事堂などの設計に携わった大蔵省大臣官房臨時建築部 技師 矢橋賢吉氏が行い、設計実務は大正後期に内務省都市計画局や早稲田大学講師、東京市の復興建築部長を務めた笠原敏郎が行い、施工は日本土木株式会社(現:大成建設株式会社)により建設されました。昭和時代初期に流行したアール・デコ小式のはしりとも言われています。新県庁舎(金沢市鞍月)への移転に伴い、2002年12月27日の閉庁までの約78年間県庁舎として使用されました。
    矢橋氏は国会議事堂の設計をまとめた中心人物として知られ、他にも旧山口県庁舎や旧岐阜県庁舎といった庁舎・官庁施設を多く手がけています。

  • しいのき迎賓館<br />旧朝香宮鳩彦邸(昭和8年築、現 東京都庭園美術館)以前の日本国内におけるアール・デコ建築の一例として、この旧石川県庁が挙げられます。藤森照信著『アール・デコの館』にある通り、小刻みになった幾何学的な細部意匠が印象的です。全般的にはルネッサンスなどの西洋の歴史的な建築様式をベースにしていますが、簡略化された細部の意匠やスクラッチタイルの扱いなどに大正時代後期の建築らしさを感じさせます。<br />大正時代初期に国内で大流行したセセッションの名残を感じさせつつも、全体的な意匠はアール・デコへの変貌を遂げたかのような出来栄えです。尚、ステンドグラスを始めとした室内意匠の大部分はアール・デコと呼べる力強い仕上がりになっています。

    しいのき迎賓館
    旧朝香宮鳩彦邸(昭和8年築、現 東京都庭園美術館)以前の日本国内におけるアール・デコ建築の一例として、この旧石川県庁が挙げられます。藤森照信著『アール・デコの館』にある通り、小刻みになった幾何学的な細部意匠が印象的です。全般的にはルネッサンスなどの西洋の歴史的な建築様式をベースにしていますが、簡略化された細部の意匠やスクラッチタイルの扱いなどに大正時代後期の建築らしさを感じさせます。
    大正時代初期に国内で大流行したセセッションの名残を感じさせつつも、全体的な意匠はアール・デコへの変貌を遂げたかのような出来栄えです。尚、ステンドグラスを始めとした室内意匠の大部分はアール・デコと呼べる力強い仕上がりになっています。

  • しいのき迎賓館<br />総工費20億円をかけてリニューアルした建物で、百万石通り沿いは大正モダニズムを極めた旧い県庁舎のクラシックな外観をそのまま残し、建物の背面には金沢城の石垣を眺める全面ガラス張りのカーテンウォールの現代的意匠の空間を融合させた建物です。<br />東京 丸の内では、歴史のあるビルを高層ビルに建て替える際、低層階は旧い外観のままにして中層階以上を最新の外観にする工法がトレンドですが、しいのき迎賓館は表が昔、裏が現代というタイム・ギャップを強調したデザインです。横から見ると、レトロ&amp;モダンのハーフ&amp;ハーフになっています。<br />国の登録有形文化財指定されており、「2011年度グッドデザイン賞」も受賞しています。

    しいのき迎賓館
    総工費20億円をかけてリニューアルした建物で、百万石通り沿いは大正モダニズムを極めた旧い県庁舎のクラシックな外観をそのまま残し、建物の背面には金沢城の石垣を眺める全面ガラス張りのカーテンウォールの現代的意匠の空間を融合させた建物です。
    東京 丸の内では、歴史のあるビルを高層ビルに建て替える際、低層階は旧い外観のままにして中層階以上を最新の外観にする工法がトレンドですが、しいのき迎賓館は表が昔、裏が現代というタイム・ギャップを強調したデザインです。横から見ると、レトロ&モダンのハーフ&ハーフになっています。
    国の登録有形文化財指定されており、「2011年度グッドデザイン賞」も受賞しています。

  • しいのき迎賓館 エントランスホール<br />大正ロマンを感じさせる重厚な落ち着きのあるエントランスホールです。<br />内装は、贅を尽くした漆喰仕上げの天井や正面玄関の漆塗りの扉など、往時のモダニズムの粋を極めています。

    しいのき迎賓館 エントランスホール
    大正ロマンを感じさせる重厚な落ち着きのあるエントランスホールです。
    内装は、贅を尽くした漆喰仕上げの天井や正面玄関の漆塗りの扉など、往時のモダニズムの粋を極めています。

  • しいのき迎賓館 エントランスホール<br />大理石を潤沢に用いた柱や手摺、踊り場の窓にステンドグラスが埋め込まれた階段は重厚感に溢れています。また、幾何学模様が施された柱頭飾りやアーチ状の玄関ポーチなど、建築好きならずとも見所満載です。<br />更には、電気暖房や 電気湯沸かし装置、水洗式トイレといった往時の最新設備を導入した近代建築でもありました。

    しいのき迎賓館 エントランスホール
    大理石を潤沢に用いた柱や手摺、踊り場の窓にステンドグラスが埋め込まれた階段は重厚感に溢れています。また、幾何学模様が施された柱頭飾りやアーチ状の玄関ポーチなど、建築好きならずとも見所満載です。
    更には、電気暖房や 電気湯沸かし装置、水洗式トイレといった往時の最新設備を導入した近代建築でもありました。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />大理石張りの「中央階段」は県庁時代からのものがほぼ現存する形で引き継がれています。中央から両側へ分岐する折れ方は県庁の階段に相応しい重厚感を帯びています。<br />また、赤絨毯も県庁時代の名残りを今に留めています。

    しいのき迎賓館 中央階段
    大理石張りの「中央階段」は県庁時代からのものがほぼ現存する形で引き継がれています。中央から両側へ分岐する折れ方は県庁の階段に相応しい重厚感を帯びています。
    また、赤絨毯も県庁時代の名残りを今に留めています。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />1階~2階へ階段室の壁には南北約200kmと細長い形が特徴の「漆の石川県地図」が掲げられています。この地図は輪島塗の蒔絵の上に石川県が誇る沈金という金箔の伝統的な技法を用いて制作されています。<br />1987年に衛星写真を基に制作され、高さ3.3m、横幅2.3mもの大迫力で来館者を圧倒します。また、金箔で描かれた山河の精細さには眼を瞠るものがあります。

    しいのき迎賓館 中央階段
    1階~2階へ階段室の壁には南北約200kmと細長い形が特徴の「漆の石川県地図」が掲げられています。この地図は輪島塗の蒔絵の上に石川県が誇る沈金という金箔の伝統的な技法を用いて制作されています。
    1987年に衛星写真を基に制作され、高さ3.3m、横幅2.3mもの大迫力で来館者を圧倒します。また、金箔で描かれた山河の精細さには眼を瞠るものがあります。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />特筆すべきは、輪島市の沖合50kmにある舳倉島(へぐらじま)も別図で用意されていることです。<br />これは感涙ものです!<br />

    しいのき迎賓館 中央階段
    特筆すべきは、輪島市の沖合50kmにある舳倉島(へぐらじま)も別図で用意されていることです。
    これは感涙ものです!

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />県庁舎としては2代目となりましたが、「明治13年(1880年)、現在地に庁舎が建ち、40年余り経って増築を繰り返してきたが間に合わない」として、1921(大正10)年に庁舎新築案が提出されたところ即決されたそうです。

    しいのき迎賓館 中央階段
    県庁舎としては2代目となりましたが、「明治13年(1880年)、現在地に庁舎が建ち、40年余り経って増築を繰り返してきたが間に合わない」として、1921(大正10)年に庁舎新築案が提出されたところ即決されたそうです。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />玄関ポーチや照明など、随所にアール・デコ様式が散らされているのを探すのも愉しみのひとつです。<br />また、正面と背面ファサードだけではなく、外観と内装も愉しめる金沢観光にうってつけの建物です。<br />

    しいのき迎賓館 中央階段
    玄関ポーチや照明など、随所にアール・デコ様式が散らされているのを探すのも愉しみのひとつです。
    また、正面と背面ファサードだけではなく、外観と内装も愉しめる金沢観光にうってつけの建物です。

  • しいのき迎賓館 2階 ジャルダン ポール・ボキューズ<br />フランス「ポール・ボキューズ」と「ひらまつ」が共同でプロデュースするレストラン「ジャルダン ポール・ボキューズ」の粋な照明です。<br />大正ロマン薫る旧知事室を改装したレストランであり、本場ミシュランで50年以上3ツ星を取り続けたフレンチの巨匠のコース料理が堪能できます。<br />2階はイベントホールと会議室、レストラン「ジャルダン ポール・ボキューズ」で構成されています。

    しいのき迎賓館 2階 ジャルダン ポール・ボキューズ
    フランス「ポール・ボキューズ」と「ひらまつ」が共同でプロデュースするレストラン「ジャルダン ポール・ボキューズ」の粋な照明です。
    大正ロマン薫る旧知事室を改装したレストランであり、本場ミシュランで50年以上3ツ星を取り続けたフレンチの巨匠のコース料理が堪能できます。
    2階はイベントホールと会議室、レストラン「ジャルダン ポール・ボキューズ」で構成されています。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />大理石張りの重厚な手摺が見事な階段室。

    しいのき迎賓館 中央階段
    大理石張りの重厚な手摺が見事な階段室。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />2階~3階への階段室と3階に上り切った廊下の正面の部屋にステンドグラスが保存されています。<br />いずれもシンプルなデザインで落ち着いた色調で抑えていますが、それが建物の雰囲気と調和しており気持ちが和みます。

    しいのき迎賓館 中央階段
    2階~3階への階段室と3階に上り切った廊下の正面の部屋にステンドグラスが保存されています。
    いずれもシンプルなデザインで落ち着いた色調で抑えていますが、それが建物の雰囲気と調和しており気持ちが和みます。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />涼しげな淡いブルーを用い、幾何学模様がよいアクセントになっています。<br />ステンドグラスは大正期に国内でも生産されるようになり、往時の公共建築に積極的に用いられました。<br />

    しいのき迎賓館 中央階段
    涼しげな淡いブルーを用い、幾何学模様がよいアクセントになっています。
    ステンドグラスは大正期に国内でも生産されるようになり、往時の公共建築に積極的に用いられました。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />ステンドグラスの間に配された装飾彫刻にも注目です!

    しいのき迎賓館 中央階段
    ステンドグラスの間に配された装飾彫刻にも注目です!

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />中央階段の周りは1階から3階まで吹き抜けとなっており、開放感溢れる空間です。

    しいのき迎賓館 中央階段
    中央階段の周りは1階から3階まで吹き抜けとなっており、開放感溢れる空間です。

  • しいのき迎賓館 3階 交流サロン<br />交流サロンの廊下側にはシックなステンドグラスがあしらわれています。<br />

    しいのき迎賓館 3階 交流サロン
    交流サロンの廊下側にはシックなステンドグラスがあしらわれています。

  • しいのき迎賓館 3階 交流サロン<br />ステンドグラスの光が織りなす華やかな世界へと誘います。

    しいのき迎賓館 3階 交流サロン
    ステンドグラスの光が織りなす華やかな世界へと誘います。

  • しいのき迎賓館 3階 交流サロン<br />3階は交流サロンとセミナールームなどになっています。

    しいのき迎賓館 3階 交流サロン
    3階は交流サロンとセミナールームなどになっています。

  • しいのき迎賓館 3階 交流サロン<br />内部の部屋のほとんどは一般公開されていませんが、唯一3階中央の部屋は休憩所として開放されています。<br />かつては食堂だった部屋ですが、今は交流サロンになっています。<br />

    しいのき迎賓館 3階 交流サロン
    内部の部屋のほとんどは一般公開されていませんが、唯一3階中央の部屋は休憩所として開放されています。
    かつては食堂だった部屋ですが、今は交流サロンになっています。

  • しいのき迎賓館 3階 交流サロン<br />よく見ると3階だけ窓が縦開き式になっています。<br />明治時代の建築(ここは大正時代ですが)では、基本がこの縦開き式の窓です。<br />

    しいのき迎賓館 3階 交流サロン
    よく見ると3階だけ窓が縦開き式になっています。
    明治時代の建築(ここは大正時代ですが)では、基本がこの縦開き式の窓です。

  • しいのき迎賓館 3階 交流サロン<br />往時の照明ではないと思われますが、雰囲気にベストマッチするようにアール・デコ調のものを採用されているのは心憎いおもてなしです。

    しいのき迎賓館 3階 交流サロン
    往時の照明ではないと思われますが、雰囲気にベストマッチするようにアール・デコ調のものを採用されているのは心憎いおもてなしです。

  • しいのき迎賓館 3階 眺望の回廊<br />大きなガラス窓からの眺めが自慢です。<br />金沢城側には「石の広場」と名付けられた広々としたスペースが目の前に広がり、辰巳櫓跡の石垣が間近に眺められます。

    しいのき迎賓館 3階 眺望の回廊
    大きなガラス窓からの眺めが自慢です。
    金沢城側には「石の広場」と名付けられた広々としたスペースが目の前に広がり、辰巳櫓跡の石垣が間近に眺められます。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />階段の造形美はいつまで見ていても飽きることがないから不思議です。

    しいのき迎賓館 中央階段
    階段の造形美はいつまで見ていても飽きることがないから不思議です。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />見る方向で表情を変えてくれます。

    しいのき迎賓館 中央階段
    見る方向で表情を変えてくれます。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />階段フェチの定番アングルです。

    しいのき迎賓館 中央階段
    階段フェチの定番アングルです。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />気品に満ちた中央階段は県庁時代の趣を最も色濃く残す部分です。

    しいのき迎賓館 中央階段
    気品に満ちた中央階段は県庁時代の趣を最も色濃く残す部分です。

  • しいのき迎賓館 中央階段<br />柱頭飾りもギリシア神殿を彷彿とさせる意匠が施され、その周りにも漆喰細工の装飾が復元されています。<br />

    しいのき迎賓館 中央階段
    柱頭飾りもギリシア神殿を彷彿とさせる意匠が施され、その周りにも漆喰細工の装飾が復元されています。

  • しいのき迎賓館<br />近年、金沢市は夜間ライトアップにも力を入れており、毎日22:00まで行われています。<br />玄関前のシイノキがシルエットのように浮かび上がり、妖艶な雰囲気を醸します。

    しいのき迎賓館
    近年、金沢市は夜間ライトアップにも力を入れており、毎日22:00まで行われています。
    玄関前のシイノキがシルエットのように浮かび上がり、妖艶な雰囲気を醸します。

  • しいのき迎賓館<br />外構照明の計画・監修は㈱近田玲子デザイン事務所が担いました。<br />この続きは松風水月 加賀紀行⑥金沢 石川四高記念文化交流館・JR金沢駅・くろ屋でお届けいたします。

    しいのき迎賓館
    外構照明の計画・監修は㈱近田玲子デザイン事務所が担いました。
    この続きは松風水月 加賀紀行⑥金沢 石川四高記念文化交流館・JR金沢駅・くろ屋でお届けいたします。

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