2023/05/23 - 2023/05/25
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montsaintmichelさん
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- 旅行記389冊
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- フォロワー169人
にし茶屋街を堪能した後、人呼んで「忍者寺」と称される妙立寺(みょうりゅうじ)を拝観しました。TV番組で度々紹介されていたのでカラクリの凡その見当はついていましたが、実際に見て体験してみると、堂内の雰囲気や歴史的背景にある緊張感とが相俟って、TV番組などでは味わえない凄みが直に伝わってきました。まだ戦国時代の息遣いが残る江戸時代初期のピリついた世相と緊張感を肌で感じさせてくれ、単なるアトラクションとは一線を画する、一見の価値あるカラクリ寺です。
その後は犀川大橋や寺町寺院群を金沢文学に思いを馳せながらのんびりと散策いたしました。
今回のレポは、金沢文学と絡ませたこともあり、撮影日時の異なる写真を順不同で載せていることをお断りしておきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス JR特急
-
にし茶屋街にある西検番事務所の十字路を左に折れ、国道157号線を横断するとこんな細い路地が現われます。目指す妙立寺(忍者寺)はこの路地の奥に潜んでいます。西検番事務所から徒歩5分程の近距離です。
『おくの細道』では松尾芭蕉がこの付近を歩いて願念寺に赴いたようですが、右手の石垣や寺院群は幕末に整備されたものですから、芭蕉の時代とは景色が違うことでしょう。 -
願念寺
妙立寺の手前に立ちはだかるのが願念寺です。
こうした石垣は江戸時代後期に見られる亀甲積石垣です。重力を分散させるための形状ですが、加工が難しく背丈の低い石垣に用いられたようです。城郭では佐賀城の一部、「石垣の博物館」と称する金沢城でも土橋門の一部に限られる貴重な石垣です。丈夫ですが、手間暇のかかる石垣であり、裕福な屋敷や寺社でないと見られない代物です。カラフルなのは戸室石を採用しているからでしょうか?
鐘楼の写真を撮るのを失念したため、この画像で代用させていただきます。
願念寺の梵鐘は金沢市内に3口しかない朝鮮鐘です。因みに朝鮮鐘は名の通り朝鮮で製造された梵鐘であり、特に統一新羅~高麗時代に製造されたものを指します。その梵鐘には有栖川宮織仁親王(15代将軍 徳川慶喜の外祖父)の銘が入っており、戦時中の供出を免れた貴重なものです。 -
願念寺 山門
山門は平唐門、一間一戸、銅本瓦棒葺の四脚門です。
因みに平唐門とは、正面に向かって左右両側面に唐破風があるものを言います。
「木一山」を号する真宗大谷派の寺院であり、松尾芭蕉の弟子 小林一笑の菩提寺でもあります。 -
願念寺 芭蕉の句碑
門前には松尾芭蕉の「つか(塚)もうこけ(動け) 我泣聲は 秋の風」の句碑があります。1967(昭和42)年に小林一笑の子孫が建立したもので、一笑は金沢における蕉風の先駆をなした俳人です。
碑の文字は、一笑追悼会で芭蕉が書き残した文字を賛画として小杉家が伝えてきたものを写し取ったそうです。
左側にある石碑は「木一山願念寺」の門柱です。 -
願念寺 山門
『おくの細道』で松尾芭蕉が金沢を訪れたのは1689(元禄2)年のことでした。金沢で弟子 小杉一笑に会うことを楽しみにしていましたが、実は前年に享年36歳で他界していたことを知らされ慟哭しました。そこで芭蕉の来訪を機会に一笑の追悼会を開く運びとなりました。この句会で芭蕉と弟子 曽良はそれぞれ追悼句を詠みました。
「玉よそふ 墓のかざしや 竹の露」曽良
芭蕉の金沢滞在は10日間あり、滞在中は多彩な句会が催されたそうですが、『おくの細道』に記載されたのは一笑の追悼会のみでした。 -
願念寺 山門
門扉にも見事な彫刻が施されています。
東本願寺の寺紋「本願寺抱き牡丹紋」とモチーフが似ているような気がします。
同じ大谷派だからでしょうか? -
願念寺 本堂
現在の本堂は1808(文化5)年に再建されたものです。木造平屋建、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行7間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、内陣には本尊 阿弥陀如来像を祀ります。狭い敷地に本堂と庫裏が共存するため少し手狭に感じます。
開基は16世紀中後期とされ、越前足羽郡石場村(現 福井市石新保町)から織田軍に押され、一族郎党が松任の宮丸を経て白山市西新町に願念寺を建立しました。この松任願念寺から長男分家し、慶長年間に現在の片町付近に金沢願念寺を建てたとされます。1659(万治2)年に加賀藩の寺院集約政策で現在地に移りました。 -
願念寺 本堂
板戸は、木の年輪を巧みに活用し、それぞれ趣きを異にしたパーツとしており、パッチワークを彷彿とさせます。 -
願念寺 本堂
桟板にも彫刻が施されています。
こちらは菊の花をあしらった「蟹菊」のようです。 -
願念寺 一笑塚
門を潜って左手には一笑の辞世の句「心から 雪うつくしや 西の雲」の句碑が建っています。1956(昭和31)年に建立されたもので、揮毫は金石の俳諧師 蔵月明です。
1965(昭和40)年、山口誓子はこの「一笑塚」を訪ねています。
一笑は芭蕉が最もその才能を認めていた俳人だったそうです。一度も対面をなさぬまま、互いに心を通じ合わせていた師匠と弟子…。
一笑塚をぼんやりと眺めていると様々な思いが駆け巡ります。 -
妙立寺(みょうりゅうじ)
妙立寺の拝観を12:00に予約していたため、その10分前までに集合する必要があります。
こちらが妙立寺への入口です。
意外に小さい!と思ったら、お城で言う「搦手門」する裏門でした。。 -
妙立寺
本堂の裏手(右側)と無骨で窓ひとつない庫裏の裏面です。
庫裏はこの背丈で2階建と称するのは少々無理があるような気がしますが、この反対面に当たる本堂正面から見るとこの庫裏は隠れてしまい、2階建にしか見えませんから不思議です。
これもひとつのトリックなのかもしれません。 -
妙立寺
鈴なりの絵馬は柴犬をモチーフにした「犬型絵馬」です。
犬をこよなく愛する住職さんが考案されたそうです。「大切な家族の健康と幸せを願ってぜひご奉納ください。」とありますので、特に「愛犬用」限定グッズということではないようです。尚、絵馬奉納金の一部は保護団体「石川ドッグレスキュー」に寄付されています。
また、数は少ないですが「梅鉢絵馬」も奉納されています。妙立寺の紋章は加賀藩と同じ「剣梅鉢」です。 -
妙立寺
山号「正久山」を冠する日蓮宗の寺院であり、日蓮の法孫 日像作の祖師像を祀り、本尊は十界大曼荼羅です。
1583(天正13)年に加賀藩藩祖 前田利家が金沢城内に建立した祈願所を、1643(寛永20)年に3代目 利常が運上町に移築した日蓮宗の寺院が始まりです 。この時代は徳川幕府が全国統一を目指して監視を強化しており、些事を理由に多くの諸大名が取り潰されました。加賀藩は百万石の外様大名で幕府の監視下にあり、2代目 利長の時代には加賀征伐が計画されて交戦寸前となるなど、一触即発の緊張状態にありました。そこで利常は敢えて鼻毛を伸ばしてバカ殿を演じたり、母(まつ)を人質に出したりしつつも、金沢城を挟む犀川と浅野川を自然の濠に見立てて両河川の外側に寺院を集約して出城としました。金沢城は平城ゆえ防御能力に乏しく、敵が川を渡る前に迎え撃つ戦略、つまり河川と寺院群を防衛線としました。特に福井方面からの松平家の攻撃に備えて寺院を寺町台に集約したのが現在の寺町寺院群であり、1659(万治2)年に妙立寺を現在地に移築して表向きは祈願所としつつも監視所の役割も持たせました。そのため、妙立寺には公儀隠密や外敵対策として随所に奇妙奇天烈な仕掛けや創意工夫が凝らされ、他に類を見ないユニークな寺院となりました。建物全体の複雑怪奇さ故、今日では「忍者寺」の別称を持つに至ります。 -
妙立寺
俗に「忍者寺」と言われますが、実は忍者とは無縁です。お賽銭箱が実は落とし穴だったり、本堂裏の床板を外すと地下道への入口があったりなど、迷路のように建物内が入り組み、随所にカラクリが仕掛けられていることから昭和時代に忍者寺と呼ばれるようになったそうです。
何故こうした複雑な建物にしたかと言えば、創建当時、幕府の命令で3階建て以上の建物を造ることが禁じられていたからです。妙立寺は、外観は2階建ですが、内部は4階建で7層(中2階段、中々2階)に分かれています。出城としての役割を備えるため、建物内には落とし穴や隠し階段などの仕掛けが施されており、建物全体を攻めてきた敵の目を欺く迷路としています。そして部屋数は23、階段数は29もあり、階段は堂内の動線を複雑化させ敵を混乱させる役目を担います。
しかし誰が設計したのかは謎とされます。寺院の成立ちを鑑みると機密扱いだったのは理解できますが、ここまで知略の粋を尽くした建物の設計者が不祥とは不思議です。「秘すれば花」なのかもしれませんが、一般的に城郭の設計者は完成後に口封じされたとも言いますから、ひょっとすると…。 -
妙立寺
日蓮宗の寺院ですから、扁額は「妙法弘布」を掲げています。
日蓮宗は鎌倉時代に日蓮が開いた宗派であり、「法華経」を絶対の教え(妙法)とし、永遠の真理として生き続ける久遠の釈迦を本仏とします。
この本仏・妙法に基づいて積極的な実践を行い、究極的にはそれに基づいた仏国土を現実に建設することを理想とします。そのため、国家が一丸となって「法華経」を信仰することを説きます。
また、日蓮は「法華経」を信じない者からは施しを受けず、施しもしないという「不受不施」の思想も説きました。これは「法華経」を取り入れない国家への対決姿勢として現れ、「不受不施」を厳格に守った宗派は江戸時代にキリシタンと共に激しい弾圧に遭いました。
日蓮の没後は、6人の本弟子を定めて日蓮の菩提を弔いつつ、その教えを継ぎました。その後、日蓮宗は様々な分派に分かれながら、現在に継承されてきました。 -
妙立寺 本堂
この木鼻は耳が垂れており、白っぽいので「白象」です。
日本で初めて「象」の存在を記した文献は『和名類聚抄』です。「似水牛、大耳長鼻、眼細牙長者也」と具体的に説明しています。おそらく経典や仏像などを通じて大陸から伝わったと思われます。
一方、日本に初めて象が渡来したのは、1728(享保13)年の「享保の象」として知られる徳川吉宗に献上された象です。清国から2頭の象が長崎に着きますが、雌は病のため亡くなり、雄だけが大坂まで船で渡り、その後江戸まで2ヶ月かけて歩いたそうです。
仏教では、釈迦の母 摩耶夫人が釈迦を身籠る際に六牙の「白象」が胎内に入る夢を見たとの説話があります。また普賢菩薩の乗り物も「白象」であり、「白象」は縁起の良いもの、仏法を守護するものと考えられていました。本物の象を見たことのない往時の日本人にとり、「白象」は麒麟や鳳凰と並ぶ霊獣のひとつとして認識されていたようです。 -
妙立寺 本堂
反対側の木鼻は「獅子」です。
通常は同じ動物の彫刻を配し、左右を阿吽の表情で分けるのがセオリーですが…。
調べてみると、木鼻の伝来当初は一本の横部材から両端の彫刻を彫っていたそうですが、江戸時代には「木鼻は木鼻、横材は横材」と分けて構成するようになったそうで、それを「掛鼻」と呼ぶようです。
そうした目線で見ると、「白象」は色目からも後に付け替えられたと考えるのが腑に落ちます。敢えて「白象」に付け替えたのはどんな意味があるのか興味深いところです。 -
妙立寺 本堂 望楼
本堂屋根のてっぺんにあるのは、天守閣を彷彿とさせる「金の鯱」を載せたガラス張りの望楼です。寺院建立の背景を勘案すれば、なるほどと頷かせるものがあります。
往時は「ギヤマン張り」と言うカラフルなガラス窓となっており、様々な色の光で合図を送っていたそうです。金沢城だけでなく加賀平野までを遠望できることから見張台の役割も兼ねており、金沢城と光による通信を行っていたというのも頷けます。
望楼へは、庫裏の3階にある茶室「霞の間」から梯子のような階段通路を経て上がります。本堂と庫裏が一体化した、アヴァンギャルド風 数寄屋建築として評価されています。 -
妙立寺 本堂
前田利常が妙立寺を現在地に移築したのは幕府から謀叛の嫌疑をかけられた「寛永の危機」の直後でした。利常は、故意に鼻毛を伸ばして「うつけ」を装い、「謀叛などとんでもない」と弁明して幕府の疑念をかわしつつ、家臣には「加州、能州、越中の三国を守り、家臣が安泰に暮らすための鼻毛」と諭す一方、幕府の攻撃に備えたのでしょう。慶長の危機、寛永の危機と改易の危機を2度も経験した利常は、何時の日か幕府軍が加賀に攻めてくると警戒していたに違いありません。なかなかの智慧者であり、「知略家」「賢君」と称すべき藩主とは言えないでしょうか?身分制度が厳格だった江戸時代に、ここまで実践した気骨あるお殿様が実際に居たとは吃驚です! -
妙立寺
庫裏の一部なのか、謎めいた建屋がアメーバーのようにL字形に軒を連ねます。 -
妙立寺 本堂
現在は観光名所で知られる妙立寺ですが、徳川幕府の改易を恐れ、加賀藩を必死で守ろうとした前田利常の本気度と緊張感が窺える建物です。
拝観は事前予約制(1週間前から受付)で、40分程かけてガイドさんに従って内部を見学します。尚、当日空きがあれば予約なしでも拝観が可能です。建物を保存するため、各時間に人数制限があり、定員になり次第締め切りとなります。
拝観時間の5分前になるとアナウンスがあり、本堂正面左脇から堂内へ入ります。そこで拝観料¥1200を支払い、定刻まで待ちます。
内装を損傷させないよう、大きな荷物は棚に預けなければなりません(鍵の掛かるロッカーはありません)。貴重品を持ち運べる小物入れを持参すると重宝します。
http://www.myouryuji.or.jp/origin/ -
妙立寺「仕掛け賽銭箱」
まず須弥壇を囲んで寺院の由緒などの説明を聞いた後、ガイドさんの案内で内部を巡ります。堂内は迷路になっており、ガイドさんの引導なしでは一度入ったら出られない部屋もあり注意が必要です。尚、ガイドは日本語のみで、外国人には申し出があれば専用ガイドブックが手渡されます。
堂内は全て撮影禁止です。ここに掲載している画像は、許可を得て撮影された観光協会系などのサイトを厳選し、そこから画像を引用しています。
始めに案内されるのが本堂正面入口です。その床には畳2畳分ほどのお賽銭箱が埋め込まれています。このお賽銭箱は、蓋を外せば深さが3m程ある落とし穴になります。正面から敵が攻めてきた時の最初のトラップです。
落とし穴にある階段の下は下男部屋に通じており、転げ落ちてきた敵を攻撃するだけでなく、身を隠すこともできます。
背後に見える障子入り腰窓のある中二階が、次に紹介する「藩主の隠し礼拝殿」です。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.viewtabi.jp/articles/22052401 -
妙立寺「藩主の隠し礼拝殿」
本堂を正面から見て右手前にある、斜め格子の入れられた怪しげな小部屋です。
戦乱の兵火を逃れた妙立寺は、開運の祖師として「常題目(常に日蓮宗の南無妙法蓮華経が唱えられている)の妙立寺」と称されて人々に愛され続けました。また、歴代藩主も妙立寺を崇め、藩主が庶民に気づかれずにお忍びで詣るための隠し礼拝殿が本堂内に中二階のような形で設けられています。 -
妙立寺「藩主の隠し礼拝殿」
藩主は障子入り腰窓を30cmほど開けた隙間から仏様を拝んだそうです。こうすることで、藩主が庶民と顔を合わせずに済んだという訳です。
藩主が安心して礼拝できたのも、幕府に攻撃されることを想定し、万が一に備えて忍者屋敷のようなトリッキーなカラクリを随所に施したおかげです。
表向きは前田家の祈願所でしたが、監視所の役割もあり、また歴代住職は藩主のブレーンでもあり、「金沢の第2の城」という側面もあったそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.nichiren.or.jp/oteratabi/vol05/ -
妙立寺「本堂裏隠し階段」
本堂須弥壇の裏手に移動します。
一見何の変哲もない物置の引き戸を開け放ち床板を外すと、そこに下りの階段が現れます。ここから外部へ通じており、いざという時に脱出することができます。
「外部へ通じているなら、逆に外部から侵入できるのでは?」と疑問に思うと、それを見越したかのように間髪を入れずにガイドさんが説明します。
床板には引き戸の溝が刻まれており、引き戸を閉めると引き戸自体がストッパーとなり、板が外せなくなるという自動ロック機能付の優れものです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.viewtabi.jp/articles/22052401 -
妙立寺「落とし穴階段」
本堂左脇には第2の落とし穴があります。
階段群の一箇所にある廊下の床板を外すと落とし穴になります。往時は明かりはなく、仄暗いこの場所は落とし穴として機能したようです。
本堂入口のお賽銭箱とここを含めて2ヶ所も落とし穴を設けることで、「容易には踏み込めない」という心理的効果を狙ったものだそうです。尚、この落とし穴は下男部屋に通じており、待ち伏せしている下男に槍などで攻撃される危険な穴です。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://tabiiro.jp/leisure/s/201162-kanazawa-myoryuji/ -
妙立寺「明かり採り階段」
外部から見るとこんな感じの階段です。蹴込み部分には障子が貼られ、「和モダン」な雰囲気を醸しています。
「二枚戸」
階段の上にある出入口には2枚の引き戸があり、堂内から一方を開けると外につながり、もう一方を開けると奥の部屋に続く廊下になっています。初めて侵入した外敵は、まさか一つの扉に出口が2つもあるとは思いもよらないため、暫くは本堂の中を彷徨うことになります。こうして藩主が逃げるための時間を稼ぐ仕組みです。 -
妙立寺「明かり採り階段」
内部から階段を見るとこうなります。
明かり採りの役割と、外部から忍び寄る敵の足影が映るため階段の裏側から槍などで突いて攻撃する役割も兼ねています。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.nichiren.or.jp/oteratabi/vol05/ -
妙立寺「頑丈な建物」
リーフレットの左上の画像です。
梁がぐにゃりと湾曲しているのは雪国である北陸ならではの特徴です。
北陸の冬は屋根に湿った雪が重く積もり、真っ直ぐな梁だと重さに耐えきれずに折れてしまいます。そのため、建物が崩壊しないようにこうした曲がった木で重みを分散させています。
因みにこうした造りは、五箇山や白川郷の合掌造でも見られます。 -
妙立寺「井戸」
庫裏はこの井戸を囲むかのように構成されており、井戸の深さは25m程あります。
この井戸水は風流な太鼓橋の上から汲み上げられ、茶水に利用されたそうです。まさに加賀百万石の風流な趣向です。
また、井戸には継ぎ目や切れ目がないため、巨大な戸室石をくり抜いたものと考えられています。 -
妙立寺「井戸」
井戸の途中には横穴が掘られており、金沢城へ続いているとの伝承があります。 敵に攻められた際の逃げ道と伝わり、その証拠に各部屋はこの井戸を中心に設計され、どの部屋からもロープを用いてこの井戸に逃げ込めます。
しかし妙立寺から金沢城までは約2kmあり、また、その間には犀川が流れ、往時の技術で川底にトンネルを掘るのは困難です。せいぜい犀川河畔に至る逃げ道かと思われます。実際、横穴の存在は判っていますが、それが何処まで続いているかを確認した人はいないそうです。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.hoshinoresorts.com/guide/area/chubu/ishikawa/kanazawa/kanazawa-kakurespot/ -
妙立寺「武者溜まりの間」
中2階にあり、12畳の広さの部屋に出入口が5つも設けられています。押入の奥には階段があり、掛け軸をめくるとそこに隠し小部屋があります。 また、窓からは坪庭に降りることができます。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://www.hoshinoresorts.com/guide/area/chubu/ishikawa/kanazawa/kanazawa-kakurespot/ -
妙立寺「茶室『霞の間』」
切腹の間の階段を上がり、3階にあるのが茶室です。
刀や槍が使えないよう、天井が低く造られているのが特徴です。また、天井が低い分、圧迫感を与えないように中央部分を吊り上げて高くする配慮も窺えます。そして、押入には4階へと続く階段があります。
飾り棚には形をくり抜いた富士山、その上の木棚はたなびく雲を、丸は満月を、上部の木の根は龍の姿を表しています。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://tabiiro.jp/leisure/s/201162-kanazawa-myoryuji/
この他にも「謁見の間」「藩主の茶室」「切腹の間」など盛り沢山です。
TV番組「あさイチ」や「世界の何だコレ!?ミステリーSP」などでもカラクリの一部が紹介されており、凡その見当はついていましたが、実際に見て体験してみると、建物自体の雰囲気や時代背景からの臨場感と相俟って、その凄さが肌で実感できます。あっという間の40分でした。
単なるアトラクションではなく、価値ある歴史体験をさせていただき感謝感激です! -
旧森紙店
後ろ髪を引かれる思いで妙立寺を後にし、国道157号線まで戻ります。
国道沿いに50mほど犀川方向へ進むと、国道の右側に鄙びた建屋が見えてきます。「森紙店」という看板を掲げた木造2階建の町屋です。
これは藩政末期に建てられた家屋で、昔ながらの木端葺き(こばぶき)石置き屋根(板材を石で固定する石置き屋根)が特徴になっており、市街地に唯一残る貴重な建物です。塩乾物の商家を明治時代中期に森家が購入し、紙販売を営んできたそうです。
1927(昭和2)年の彦三大火以降、市の奨励もあり徐々にトタン板葺や瓦葺屋根に変わっていきましたが、戦災に遭わなかった金沢では昭和30年代までこうした木端葺き屋根の家が沢山残されていたそうです。
1983年に市の指定保存建造物に指定されています。 -
旧森紙店
よく見ると、屋根にはかなりゴツイ石が沢山載せられています。見た目では5月5日の能登地方地震の影響はなかった模様です。
屋根の歴史を振り返ると、藩政初期には、城内の御殿(門や櫓は鉛葺きもある)や神社仏閣は瓦葺、人持組は柿葺、平士以下、御歩以上は板葺き石置き屋根、足軽や小者は藁葺と決まっていたそうです。町家は平士、御歩と同じく板葺き石置き屋根で、瓦葺は許されていなかったそうですが、武家屋敷も町家も時代と共に次第に決まりが崩れていったそうです。屋根瓦を制限したのは製造量が少なかったためと思いますが、土から作られた瓦を頭上に戴くことを嫌ったという説もあります。 -
旧森紙店
余談ですが、2022年に「旧森紙店」の再活用に向け、ニューヨークに拠点を置くワールド・モニュメント財団(WMF)などが、市の保全事業に対する支援を決めました。市は4年間で計約2千万円の援助を受けるようです。
WMFは世界各国の政府や民間団体などと協力し、文化遺産の保護活動に携わっています。旧森紙店の建造物としての歴史的価値や商家として地域に果たしてきた役割の大きさに関心を持ち、支援を決めました。米・フリーマン財団から資金援助を受けるようです。
こんなことまで海外から支援を受けなければならないほど、日本の国力は凋落したのでしょうか?税金をドブに捨てるような軍事費に費やしている場合ではないのでは!?報復攻撃すればその何十倍、いや何百倍もの報復を浴びることは自明なのに…。つまり、一発でも報復攻撃すれば日本は滅亡するかもしれないのです。抑止効果など対戦国に聞いてみないと判らないことですが、数で劣れば結果は自明です。 -
神明宮
神明宮は金沢五社と呼ばれる江戸時代から神官が守護する吉田神道の5つの神社の一社として天照大神と豊宇気毘売神を祀り、特殊な神事「あぶり餅神事」で知られます。歴代加賀藩主や庶民の信仰が篤く、5代藩主前田綱紀は氏神にしたくらいです。春秋の例大祭は「お日待祭」、「あぶりもち神事」と呼ばれ、3百年以上続く全国唯一の悪事災難厄除伝統特殊神事として有名です。
金沢の文豪 室生犀星は幼年期に近所にあった雨宝院の住職の養子となったこともあり、この境内を遊び場にしていたと伝えます。
因みに右隣にあるのは、明治時代中期に建てられた古民家をリノベーションした「懐石かめや」です。ミシュランガイド北陸 2021でミシュランプレートを獲得しています。 -
神明宮
江戸時代初期の1621(元和7)年頃には伊勢踊りが大流行し、人々は当宮と金沢城の間を練り歩いたと伝えます。その賑わいは江戸の神田祭や浅草の三社祭に匹敵するとまで言われたようです。
また当宮の左義長は金沢の左義長の元祖としても知られ、藩政時には毎年正月に城内の諸門や藩主の居間などに掛けられた注連縄を当宮に持参し、寺社奉行立会いの下に焼かれたと言います。
更には、磯田道史著『武士の家計簿』の主人公 猪山直之とも縁深く、当宮が加賀藩の財政に携わってきた猪山家の氏神でもあったため、子弟の初宮参りなどをはじめ度々参拝に訪れていたと伝えます。 -
神明宮
境内には樹齢千年を超える巨大な欅が聳えています。樹高約33m、幹周約7.8m、枝幅25mあり、金沢市指定保存樹第1号です。古来「神明の大欅」と語り継がれ、金沢屈指のパワースポットだそうです。
ダダイズムの詩人 中原中也は軍医だった父親に連れられて、幼少時にここの境内でサーカスを見たようです。その思い出を辿って
「幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました.
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました」
で始まる詩集『山羊の歌』の「サーカス」を書いたと伝えます。
「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と物悲しい響きを放った空中ブランコ…。その詩の舞台がこの神明宮です。
1912(大正元)年末~1914年春の間、中也が幼少期(5~7歳)を金沢で過ごしたことあまりは知られていないようです。 -
神明宮
1932(昭和7)年、中也は金沢を訪れて幼い日々の思い出を辿り、随筆『金沢の思ひ出』を書き上げました。近所の友達や軽業(サーカス)、幼稚園の思い出などが描写されています。詩集『山羊の歌』の出版を企画するも資金が足りず、ノイローゼに陥っていた時期と重なるため、思い入れのある金沢への感傷旅行だったのかもしれません。
多感な幼少期を送った金沢での思い出が詩に多大な影響を与えたことからも、金沢は「中原中也の原点」とも称されています。 -
雨宝院(うほういん)
犀川の西岸、寺町寺院群にある雨宝院は、奈良時代に白山を開山したと伝えられる泰澄を開祖とする密教寺院です。白山の妙理大菩薩に霊告を受けた泰澄が、大日如来を本尊としたと伝えます。山号は「千日山」、金毘羅尊を本尊とする高野山真言宗の古刹です。
1595(文禄4)年に大和国の雄勢(千日和尚)が伊勢神宮に千日参籠した後、再興。雨宝院の建つ町の名が千日町なのは、この千日和尚に由来します。
尚、門前に安置されている六地蔵は、六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返す)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものです。 -
雨宝院
門などに見られる「金」の文字は「金比羅さんを祀っています」という印です。
かつては神仏習合の影響でお寺でも金比羅さんを祀っていたそうです。こちらもその名残で金比羅大権現を祀っています。 -
雨宝院
室生犀星は1889(明治22)年に現在の室生犀星記念館の建つ場所で、加賀藩 元足軽組頭 小畠吉種と小間使 ハルの間に私生児として生誕。生後1週間ほどで雨宝院に預けられ、7歳で第22代 室生真乗の養子となり、20歳までここで過ごしました。こうした生い立ちの悲惨さから逃れようと文学を志し、美しい故郷への思いや命を慈しむ心、家族愛を描く犀星文学に多大なる影響を与えたとされます。そうした意味合いでは「犀星文学の原点」と言える場所かもしれません。
小松健一著『文学の風景をゆく』によると、雨宝院も犀川大橋が流された1922(大正11)年の大洪水で被害を受けたそうです。作家になっていた室生犀星が「貧乏物書きだから分割にしておくれ」と月々1万円を寺院の修繕費として送ってきたとのエピソードがあります。 -
雨宝院
ここには珍しい「迷子石」なる石碑があります。
表面には「まよひ子 ここへもて来るへし ここへたつぬへし」と刻んでいます。要約すれば「迷い子は、ここへ連れてきてください。迷い子を探しているのなら、ここを訪ねなさい」となります。
『石川県大百科事典』には「この石が建てられた背景には飢饉があった」と記されています。事実、石碑が置かれたのは1827(文政10)年頃であり、文政期の飢饉が関わっていそうです。流石に「加賀百万石」でも飢饉により捨て子が多発したようです。
1949(昭和24)年に発行された『雨宝院寺報』には、竪町の沖嘉吉氏の話として「沖家の祖先が飢饉のとき碑を建て、親に見捨てられた子供達を集めて食事を施した」と記されています。こうした背景があったから、母 ハルも安心して赤子を預けたのではないでしょうか? -
犀川大橋
金沢市の犀川中流に架かる、千日町と片町一丁目を結ぶ道路橋です。一見「厳つい北国武将」を彷彿とさせる面構えですが、現存する国道橋では北陸最古のものであり、国登録有形文化財になっています。
架橋されたのは1924(大正13)年3月、その3年前には架け替えられたばかりのコンクリート橋が大洪水で流失し、その後継として登場しました。当時は広い幅員の近代的道路橋が全国に建設される時代でした。その中で、この日本最古の「ワーレントラス形式」の道路橋は、三角形を組み合わせた鋼材の造形が男性的な力強さを湛え、「男川」と呼ばれる犀川に架橋されるに相応しいものです。
関東大震災の影響で鋼材が入手し難かったこともあり英国製の鋼材も使用し、橋門構や支材、鉛直材には異なるトラス材を使い分け、橋の軽量化を図っています。
形式:鋼製曲弦ワーレントラス橋、橋長:62m、幅員:21.7~23.7m
尚、両脇の歩道は1991~93年に追加されています。 -
犀川大橋
1994年の改修工事では「水の青と森の緑」をイメージした青緑色のグラデーションを加賀友禅のぼかし技法で施しています。グラデーションの鉄橋は珍しいそうです。
リベットだらけの無骨な鉄橋は無機質と思われるかもしれませんが、そこは金沢。竣工当時の県知事 長谷川久一の揮毛の橋名盤の縁には「金箔」を惜しげもなく、1枚約10cm四方の金箔役1000枚を貼り付けています。しかも鉄板への箔付けは技術を要し、銅器への箔押しに実績のある高岡市(富山県)の熟練職人に依頼したそうです。
一方、御影石で舗装された歩道には柔らかな曲線が取り入れられ、ベンチやバルコニー的空間、アール・ヌーボー風ガス灯をイメージした照明が設けられています。因みに金沢市のガス灯は、明治41年にはじめて灯されました。
高欄は金沢情緒を演出する紅殻格子がイメージされ、城下町のしっとりとした旧き佳き街並みとの調和が図られています。伝統を重んじながらも現代感覚を取り入れた橋は、金沢の街並みにしっくりと溶け込んでいます。 -
犀川大橋
1922(大正11)年8月3日の大洪水で、フランス・アンネビック式を採用し、鉄筋に一部米国製を使って堅牢さを売りにした初代永久橋が、竣工から僅か3年で落橋するのを目の当たりにした役人たちは二度と流されない橋を造る決意を新たにしました。そして設計者として召喚されたのが東京帝国大学卒で米国建設会社で学んだ当代一のエリートかつ日本橋梁技術の先駆者 関場茂樹氏でした。
先の水害では6本の橋脚が流木や土砂を堰き止めたことが崩落の原因でした。そこで関場氏は橋脚を廃して両岸から桁を支える構造を提案。設計したのが三角形の鉄骨を組み合わせたワーレントラス式の鉄橋でした。
関場氏は日本初の『標準橋梁仕様書』制作にも参画し、統一規格のなかった鋼材仕様について、その指針を明示するなど日本橋梁技術の黎明期をリードした功労者でもあります。
犀川大橋の竣工後、日本国内にはシンプルな構造のモダンなデザインの橋が続々と架けられていきましたが、その前時代の構造美を堪能できるのがこの橋ではないでしょうか? -
犀川
犀川大橋から犀川の下流(北側)を眺めます。
松尾芭蕉の句「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」はこの橋上で詠まれたとの説があります。
金沢の俳人 後川(こうせん)の3回忌に刊行された俳諧撰集『としのうち』(1802年刊)に掲載されたこの句には「犀川橋上の吟」と前書が付けられています。 -
犀川大橋
この橋の歴史を紐解くと、最初の犀川への架橋は1594(文禄3)年に加賀藩祖 前田利家が架けた木造大橋でした。木造ゆえ幾度も流され、その度に再建されましたが、江戸時代を通して犀川に唯一架けられた城下随一の大橋でした。藩政期には犀川に架かる唯一の橋として、「いさごの橋」や「中河原の大橋」、「一ノ橋」と呼ばれたそうです。明治維新後も洪水や氾濫により度々流失し、1898(明治32)年に木造橋最後の架け替えが行われました。 -
犀川大橋
「犀川」の名称は佐奇神社の近くを流れることに因み「佐奇川」となり、それが転訛して「さいがわ」になったとされます。
犀川を描いた作家の筆頭と言えば、金沢三文豪のひとりである室生犀星です。また、高橋治や井上靖なども男性的な犀川大橋を描いています。このように犀川は多くの文学作品に登場する川であり、金沢の人々と共に生き、その歴史を語る生き証人と言っても過言ではありません。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」で知られる犀星のペンネームも犀川に由来し、「犀川の西」に住んでいたことに因みます。実は「犀星」は北国俳壇で名を馳せていた同郷の漢詩人 国府犀東のような立派な詩人になろうと最初は「犀西」と名乗りましたが、その時代は星や菫の流行時代だったこともあり「西→星」と変えたのです。 -
犀川大橋
室生犀星はこの近くの出身であり、詩『橋』に次のように詠んでいます。
「橋は鐡にてつくられ てすりも鐡に青きものぬられたり。白き橋かたむき、馬の走れば搖れしを今は知らず。(以下略)」
慣れ親しんできた木造の犀川大橋が鉄橋となってしまったことへの、どうしようもない寂寥感がこの詩に滲んでいます。
また、『抒情小曲集』の「犀川」で「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ」など、度々犀川の情景を作品に登場させています。
この続きは松風水月 加賀紀行③金沢 寺町寺院群・文学逍遥(後編)でお届けいたします。
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