2023/05/03 - 2023/05/03
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gianiさん
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朝ドラで久々の大ヒット作「らんまん」のモデル、牧野富太郎が生まれ育った佐川町を訪れます。
4トラベル未登録スポットばかりですが、
居心地の良い静かな町でした。
日本史と関係ない部分は、和暦で表示します。
佐川は交通の要所で、筆頭家老深尾家が支配しました。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
旅のスタートはJR佐川駅
高知駅から鈍行で1時間の旅です。
特急なら+500円で僅か30分に短縮、かつ快適です。JR土讃線 乗り物
-
駅には、とてもエコな無人案内スペースが。
朝ドラで熱いスポット。
というか、これを見て初めて気づきました。
神木クンと松坂慶子さんの演技が素晴らしく、ちょくちょく視聴していたのに、、、
(舞台は高知市内だと勝手に思い込んでいました) -
佐川とは
土佐藩筆頭家老深尾家の知行地(⇔藩領)の中心地です。
ここの領主は藩主ではなく、深尾家でした。
これが訪問の動機です。 -
牧野富太郎ふるさと館
生家跡に建物を復元しています。
ドラマでは峰屋が屋号ですが、岸屋です。
内部は、彼の生涯を追う展示があります。 -
実物写真
実家は造り酒屋の峰屋、および雑貨店を営み、富太郎は跡取り息子でした。町の上流階級です。 -
牧野富太郎(1862-1957)
6歳までに両親を亡くし、祖母に育てられます。
自宅の裏山(金峰神社の境内)は、格好の遊び場でした。 -
植物に憑り付かれる
境内で植物採集を始めた幼少期。
石段に咲くバイカオウレン(梅花黄連)が、植物研究のきっかけになったとのことです。写真は、境内の自筆スケッチ。 -
この頃を回想した原稿
天才学者は、近所の仲間と野山を駆け回るごくごく当たり前の生活を送っていました。その中で、偶然”出逢った”のが植物です。私見ですが、幼少時の英才/情操教育よりも、友達と野山で遊ぶ方が、打ち込むものを発見(⇔与えられる)し、才能が開花(伸びしろ)し易いのでは?と思います。 -
伊藤蘭林塾
儒学者として深尾家に仕えた伊藤蘭林が、自宅で開いた寺子屋へ牧野少年も通いました。 -
伊藤蘭林(写真)は、佐川名教館の教授で、深尾家の家臣(武士/士族)が通いました。一方の寺子屋は身分や年齢を問わなかったので、(町人/平民の)牧野も通えました。慣例に沿って10歳で入門します。
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主な教え子
旅行記で扱う人物は、広井勇、牧野富太郎、田中光顕、土方寧の4名です。 -
内部は、こんな感じ。
19世紀の建築ですが、地域の公民館として現役です。
平成に現在地へ移築されました。
10歳の牧野少年にとって印象的だったテキストを、自叙伝で列挙しています。 -
『世界国尽』福沢諭吉著(M5,全3巻)
世界の地理歴史を網羅。著者は壱萬円札の不変の顔として、前代未聞の年数を死守する福沢先生。 -
『気海観瀾広義(きかいかんらんこうぎ)』(川本幸民著 嘉永3年)
1850年に出版された日本初の物理学書。文章が読みやすく、牧野お気に入りの1冊。 -
『官版 輿(与)地誌略』(内田正雄著M4-13)
10年かけて、全4編12巻(13冊)が刊行された世界地誌書。著者は1863-67年までオランダ留学し、新政府では文部省の役人として執筆。明治9年に死去し、同僚の西村茂樹が草稿を元に完成。官製教科書として、ベストセラーを誇りました。 -
上:『訓豪窮理図解』(福沢諭吉 M1)
下:『天変地異』(小幡篤次郎著 M1)
共に、科学を啓蒙する入門書。自然現象を科学的に説明し、迷信を払拭した。
※窮理=物理 -
英語教育
明治8-10年頃に、高知から長持3つ分の英書が佐川に持ち込まれました(借り物)。その後、2名の英語教師(長尾長、矢野矢という珍名だったとのこと)が赴任します。佐川は、早くから英語教育が伝来しました。
テキストは、左より『ウェブスター英語辞典』(米国で最も権威ある国語辞典)、『格賢渤斯(カッケンボス)英文典』(明治初期の英文法書)、『ピネオ英文典直訳』(慶應義塾で使用されたテキスト)等でした。
※ウェブスター辞典を最初に日本へ持ち帰ったのは、福沢諭吉です。 -
名教館
1772年に深尾家の家塾として誕生。ファサード部分は1830年築、平成に現在地へ移築されました。
学制施行と地方への浸透に伴い、①寺子屋制度は終了し、②名教館は佐川小学校として再出発。12歳の牧野は、佐川小学校へ通うことになります。 -
博物図(文部省 M6)
理科室に貼ってある図の類で、全国の小学校へ配布。特筆すべきはカラー刷りだということ。牧野が心を奪われた一枚。 -
退学
わずか2年で学校が嫌になり自主退学。佐川小学校下等科中退、これが最終学歴になります。寺子屋で高レベルの教育を受けていたので、小学生での学習内容は幼稚に感じ、退屈したのでしょう。翌年には、中退した佐川小学校で臨時教員に就任します。 -
そんな中、19歳で運命的な書籍に出会います。
『本草綱目(ほんぞうこうもく)啓蒙』(小野蘭山 1803-05)
現代でいう植物図鑑のようなもので、牧野を植物分類学へいざなった著作。際立つ特徴としては、植物の正式名だけでなく、各地の呼び方(方言)も記載されている点です。最初は近所の医者から借りていましたが、膨大なボリュームゆえに手写しは困難と悟り、自ら購入しています。 -
東風菜の項目に、しらやまぎくという呼び名があり、画を元に裏山で採取?同定したのが、学術的アプローチのはじまりです。通信の発達しなかった時代に、各地の方言が記載されていたのは、かなり実用的だったみたいですね。
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地図
4トラベルに登録されているスポットが一つもないので掲載します。
①生家②裏山の金峰神社③-B伊藤蘭林塾(移築)③c-2名教館(初代佐川小学校校舎 移設)⑧青山文庫(後述)
19歳の牧野は、顕微鏡を手に入れるべく初上京。高知城下に加え、中央の学者とも接触を取ります。土佐植物目録を作成すべく自宅に温室を設けるなど、家業そっちのけで湯水のように金を使います。「岸屋は、若の財布じゃない!」by竹雄 -
学歴/職歴
22歳で再上京、東大の助手に。49~77歳まで東大講師。小学校中退では、当時でも異例のキャリアです。
業績
26歳で『日本植物志図編』を自費出版、独学で学んだ植物画の才能も大きく貢献し、精巧な図版のために、石版印刷の工房に弟子入りしています。
27歳で新種を発見-命名(以降1500種以上に及ぶ)、78歳(1940年)で『牧野日本植物図鑑』を刊行、現在に至るまでバイブル的存在です。
学歴重視の東大では冷遇されましたが、国際学会では実力を高く評価され、同じ植物学者の昭和天皇のお気に入りの一人でした。
助手にして個人研究室を持つ(本来は教室(教授)毎に与えられる)のは前例がありません。東大小石川植物園名誉館長の邑田氏曰く、図書室や標本室のコレクションを勝手に持ち出す植物学教室の厄介者だったために、研究室を与えてそこに閉じ込めておくのがベストだったのでは?と憶測しています。 -
ごく普通の駐車場。
実は、岸屋の敷地の一部で、牧野蔵と呼ばれました。 -
酒蔵が建っていて、その一角を勉強部屋として使用していました。
余談
旅行後に自叙伝を読むと、驚くほど詳細な記憶に驚かされます。一方で、自分の興味のない分野では、恐ろしく記憶が抜け落ちています(文面で、記憶にございませんを連発)。エネルギーやキャパの配分(コントロール)能力に、大変優れた人だと痛感しました。 -
その後(私生活)
22歳で許嫁と結婚するも単身上京、25歳で寿衛と同棲し、最終的に13人の子供を設けます。東京への送金が原因で31歳の時に実家を破綻させ、妻とも離婚し番頭と結婚させるも、彼女らに債務整理を丸投げ。正式に結婚した寿衛も、牧野の作った借金の返済に長年奔走します。
トレードマークの屈託のない笑顔と比類ない業績には、当主/夫/父としての責任放棄の対価であることも事実です。一種のKYです。
※自由恋愛で結ばれた寿衛は、牧野の生き方を肯定し、父の素行ゆえにいじめに遭った子供たちのメンタルケアにも抜かりがありませんでした。
民法で重婚が禁止されたのは1898(M31)年です。 -
うえまち駅
市街地の観光拠点です。
牧野以外の佐川の偉人を取り上げたコーナーもあります。 -
広井勇(1862-1928)
牧野と同い年にして、伊藤蘭林の下で共に学んだ仲です。札幌農学校二期生として、新渡戸稲造などと共に学び、工学を専攻します。東大工学部教授に就任し、近代土木を発展させます。
著作は、1907年の小樽築港。海水に強く安価なコンクリートを、世界で初めて実用化しました。広井公式と呼ばれる波圧の算出法は、現在も活用されています。 -
モルタルブリケット
50年に渉る長期間の実験を通して、耐久性をチェックしました。空中、淡水中、海水中の3条件で行いました。
らんまんドラマでは、中村蒼さんが演じています。 -
ロ481客車
伊藤蘭林門下の田中光顕(1843-1939)は倒幕運動に参加し、10年以上宮内大臣を務めた功績により贈られた車両です。1906年製造で、かなりの希少価値があります。 -
車内
今でいうグリーン車に相当します。
ケヤキなどの高級木材が使用されています。 -
一番のこだわりは、台車。乗り心地に直結します。
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隣には、佐川文庫庫舎。
1886年に須崎警察署佐川分署として建設されました。
2009年に現在地へ移設。佐川文庫庫舎 名所・史跡
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その後、私設文庫(図書館)として使用されます。1925年に、田中光顕が多くの書物を寄贈しました。先述のロ481客車が敷地内に安置され、閲覧室となっていました。
現在は、警察署時代の1892年の事件に関する展示があります。 -
土佐は、自由民権運動のメッカ。板垣退助が自由党を結成した頃は、牧野少年も首を突っ込んでいた時期がありました。
第2回衆議院選挙(1892年)で、政府野党は選挙の大干渉を行い、自由党の当選を阻止しようとします。分署が国民党(政府勢力)の指令所となり、両者の間で抗争が続きました。1月29日に斗賀野地区で起きた衝突は、400名以上が負傷する大惨事でした。 -
その様子を描いた図です。発表九日後には、治安に悪影響を与える旨で、内務大臣の名前で発禁処分になりました。
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同じ場面を描いた絵馬
同地区の白倉神社に奉納されたもので、国民党に加勢した警官が抜刀する様子が描かれています。数名の死者が出ました。 -
2代目青山文庫
青山は、先述の田中光顕の雅号。大量の書籍を寄贈した故の名称です。鉄筋コンクリート造りで、現在は幕末の土佐の3大スター(竜馬/中岡/武市)にまつわる史料が展示されています。佐川町立青山文庫 美術館・博物館
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田中は18歳で武市半平太を盟主とする土佐勤王党に入党し、21歳で脱藩して長州で活動します。坂本龍馬や中岡慎太郎と共に、薩長同盟の実現に尽力します。中岡が暗殺された後は、陸援隊隊長を務めます。
維新後は軍や公安畑を経て、宮内大臣を12年務めます。武市を始めとする命を落とした同志の名誉回復と、遺族の支援に奔走し、その一環で青山文庫の貴重な史料を寄贈/展示しています。 -
佐川城(1573-1616)跡
人物編から歴史編へ移ります。
だいぶ寄り道しましたが、歴史探訪が本来の訪問目的でした。
1571年に(後に四国を統一する)長宗我部元親の配下になり、久武内蔵助が松尾城の向かいに築いたのが佐川城です。 -
標高200mの頂上には、物見岩が健在。
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物見岩からの眺望
手前に佐川の城下町、谷間をL字状に仁淀川とJR土讃本線が走ります。 -
本丸跡
奥に井戸が残ります。松尾城は水を得にくかったので、籠城できる佐川へ城を移しました。 -
現地の案内看板
いわゆる山城です。 -
竪堀の跡も残っています。
関ケ原の戦いで西軍に付いた長曾我部氏は領地没収、代わりに掛川城主の山内一豊が土佐入りしました。佐川には譜代の重臣深尾氏を配置しました。 -
城の山腹は、牧野公園として整備されています。
1616年の一国一城令に伴い、佐川城は破棄され、城の東側の土居と呼ばれる屋敷に移りました。牧野公園 花見
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園内には、牧野富太郎の墓もあります。
※彼は東京で亡くなり谷中墓地に眠るので、分骨したものです。 -
伊藤蘭林宅の斜め向かいには、地場産センターがあり、2階は展示室になっています。室内のカフェのソフトドリンクも、手軽です。
梅花黄連 グルメ・レストラン
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山内一豊の土佐藩24万石は、関ケ原後に敵地(長曾我部家 残党も多く生存)へ乗り込んだ都合で、防衛/治安に細心の注意を払う必要がありました。
中村を実弟、宿毛/窪川/佐川/本山/安芸を譜代の5家老に守らせて、領内支配の拠点にしました。譜代の筆頭が深尾氏です。本家に1万石、分家を含めると領地の一割に迫る22,330石を知行地(⇔藩領)として託されました。次席安東家(宿毛)の3倍以上です。
※深尾氏は重臣ゆえに、政庁のある高知城で勤務する不在領主でした。 -
佐川土居図(1672)
図の上が北になるよう、向きを補正しています。
豊臣氏滅亡に伴う一国一城令で、拠点は城から「土居」と呼ばれる濠を巡らせた屋敷(標準語では陣屋に相当)に変わります。1672年の絵図では、佐川城址の東側に深尾氏屋敷(土居)が実際よりも大きく描かれています。土居の周りは、深尾氏の家臣たちの武家屋敷群で囲まれ、土居廊中という要害を構成しました。
※牧野富太郎生家を含む城下町は、左上に実際よりもかなり小さく描かれています。 -
先述の青山文庫は、深尾家家臣土方氏の屋敷跡で、いわゆる土居廊中の一角でした。土居の搦手(裏側)に位置し、重要なポジションです。現在は、屋敷の庭園(九如園)が保存されています。
牧野より3つ年上の土方寧(やすし)は現在の東大法学部長を務め、東大のトラブルメーカー牧野を度々サポートしました。佐川町立青山文庫 美術館・博物館
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上町地区
いわゆる城下町の部分で、専ら商人エリア。
酒蔵が並ぶ伝統的な街並みです。
1601年に深尾氏は、お抱えの酒造り職人を連れて佐川入りしました。佐川町上町地区 名所・史跡
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壁の途中に庇的なものが走るのが、いかにも土佐的景観。
この蔵は全長85m、出荷前の酒が眠ります。
仁淀川の伏流水を使用した酒造りは、大いに栄えます。 -
旧浜口家住宅
酒造商家の一つで、浜口駒次郎は第一次世界大戦の海運業活況に乗じて、船成金と呼ばれました。
深尾氏は領内での市場開設を佐川に限定したために、内外の商人が一斉に移住し、目論見通り商業が栄えました。 -
内部は、観光案内所として使用されています。
高知城下の才谷屋(坂本龍馬の家筋の屋号)から酒屋の株を買って開業しました。 -
野菊というブランドで有名でした。
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竹村家住宅(1780 国重文指定)
佐川入りした深尾氏に付いてきたお抱え酒造職人とは、竹村家の事です。深尾家の財政立て直しにも協力し、1770年に黒金屋の屋号を賜ります。 -
旧竹村呉服店
東隣の竹村家から1777年に分家しました。当初は質屋で、後に呉服/雑貨を扱うようになります。当時は、土佐西部で唯一絹織物を取り扱う店でした。現在の建物は幕末頃の建築。 -
司牡丹酒造
竹村本家と分家2つ、浜口家の4つの蔵を統合して1918年に誕生。上町唯一の酒蔵です。銘柄を巡って神戸の酒蔵などと裁判が絶えず、防衛策として元老の田中光顕から「司牡丹」の名称を賜ります。司牡丹酒造(株) 名所・史跡
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こちらでは、製造直売もしています。試飲もできます。社長は竹村本家の家系で、屋号は黒金屋です。漫画家黒鉄ヒロシとは、従弟の関係です。彼も佐川出身です。
司牡丹 酒ギャラリーほてい 美術館・博物館
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1854年頃の佐川
図上が北向きになるように表示しています。
土居周辺の武家町が小さく描かれ、商人町が大きく描かれます。
左上の緑色の部分が牧野家の建物です。
戊辰戦争で、11代目当主深尾重愛は高松城平定、深尾北家の成質は松山城平定を果たします。 -
拡大図
赤い矢印が向いているのが生家。北東方向の枠で囲われている部分が牧野蔵です。 -
名教(めいこう)館跡
現在の佐川駅付近、武家町と商人町の境目に建てられました。
1772年に深尾一族の家塾として開校し、1802年には家臣の子弟を教える郷校に拡張されます。名教館跡 名所・史跡
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1772年に高知から山本日下が招聘され、代々山本家が塾長教授を務めました。
各藩に開設された藩校と同じく、主従関係や忠義を重んじる朱子学(儒教の一派)が主要科目でした。荻生徂徠の学派を教え、尊王攘夷運動の下地になったことは特筆すべき点です。 -
早くも1843年(黒船来航の10年前)には西洋の進んだ学問が教授され、倒幕運動に貢献しました。小さい町の割に、偉人を多く輩出している背景は、ここにあります。
学制改革で、明治7年に佐川小学校となります。 -
最後に寺社編
青源寺
深尾家の菩提寺として、1603年に開山。土佐三庭園の一つがあります。 -
深尾氏墓地は立入禁止、庭園も然りです。
牧野少年にとっては自宅の裏山の一部という認識で、勝手にヤマモモや椎の実を採って住職のお目玉を食らうこともありました。ごく普通の幼児体験です。 -
隣には、牧野少年が梅花黄連を見つけた金峰(きんぷ)神社の石段。
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乗台寺
南北朝時代から佐川に息付く古刹。上町の西方にあります。
寺自体は平安時代に開基し、土佐国守護の要請で佐川へ移動しました。
そんな歴史を背負って、現住職は56代目。
佐川城主久武内蔵助の菩提寺で、江戸時代には深尾家の祈願寺になります。 -
庭園
2代目当主深尾重昌の奥方が病気の時に平癒祈願をしたところ効験があり、全快の御礼に築かれました。土佐三庭園の一つです。 -
深尾重昌(1598-1672)
実は初代藩主山内康豊(一豊の弟)の三男で、男子欠乏症の深尾家へ養子入りしました。というわけで深尾家は、血縁上も山内一族に取り込まれました。藩の筆頭家老として野中兼山を更迭するなど、歴史に名を残します。 -
ベタな構図
昭和11年に国の名勝に指定されました。
寺務所に声掛けすると、(法事等のスケジュールが入っていない限り)快く見させてもらえます。縁側には、座布団が準備されています。
佐川イチオシのスポットです。 -
大イチョウ
300年前の享保の大火で、寺宝を焼失から守った古木です。
画像だけではわかりませんが、カエルの気まぐれな鳴き声がBGMです。 -
水際に生える水ニラ、水面を覆うジュンサイ、今まで単に食材として認識していたものが春を感じさせます。
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ランチは駅近のお店で。
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とんかつラーメン
常連客は見向きもしないメニューです。
ライスとセットにすると、一見客には理想的なメニューです。 -
昼間は空白地帯なので、特急を利用。
値段は2倍、でも時間は半分に短縮。
ラグジュアリー感と合わせて、コスパ高いです。
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https://4travel.jp/travelogue/11838216特急 南風 乗り物
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