2023/04/30 - 2023/04/30
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gianiさん
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長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は12パーツで構成され、その一つが旧外海町の出津集落です。
潜伏キリシタンが何を拝みながら信仰を実践したかを示す4つのパーツの一つに位置付けられます。ここでは、キリスト教由来の聖画像を拝むことによって信仰を実践しました。
一日数本しか走っていない路線バスでチャレンジしました。集落内は厳しいマイカー規制があり、自家用車利用でも隣接する大野集落まで足を延ばすのは相当な覚悟が必要かと。
※上記の世界遺産としての価値は、Ⅰ宣教師不在とキリシタン潜伏のきっかけ、Ⅱ潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み、Ⅲ潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み、Ⅳ宣教師との接触による転機と潜伏の終わり。という4つの時代で構成されます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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出津へは、長崎バスの本拠地、長崎新地ターミナルから出発します。
長崎新地ターミナル 乗り物
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さいかい交通ですが、色合いといい長崎バス系列と思われます。
1時間ほどの移動です。 -
出津(しつ)バス停付近の光景
外海町は、2005年に長崎市に編入されました。 -
坂道には、遠藤周作の『沈黙』の碑が(後述)。
沈黙の碑 名所・史跡
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バス停からスロープを上がって、歴史資料館へ。
館内は、撮影禁止です。外海歴史民俗資料館 美術館・博物館
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マルク・マリー・ド・ロ神父(1840-1914)
現在の出津地区の景観は、彼による部分が大きいです。
1868年に宣教師として来日し、建築の技術を活かして1874-75年に羅典神学校を建設し、1879年に外海地区の司祭として赴任します。 -
出津教会(1882-)
ド・ロ神父(1840-1914)が設計-建設した教会。
※ドロ神父の外海赴任時に、3000名ほどの信徒がいたそうです。1893年には、4kmほど離れた大野集落に巡回教会が建てられました。 -
1891年に、奥の祭壇部を増築しています。1909年には、手前の玄関とその上の鐘塔および祭壇部の尖塔を増築しています。
出津教会 寺・神社・教会
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世界遺産を構成する資産です。明治初期の建築で、設計建設増築すべてを同一人物が行い、均整の取れた作品です。
国の重文指定。 -
玄関部分は石造り、外壁はレンガ造りで、外壁と内天井は漆喰塗り。屋根は桟瓦葺きです。教会にしてはフラットな構造は、風の強い立地条件を考慮しています。140年経っても、現役です。
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側面
彼の故郷ノルマンディ地方も、海沿いで風が強い地域。強風を考えて、屋根も塔も、高さを抑えています。
28歳で来日した際は、禁教下での布教が使命のため、死を覚悟して臨みました。
ドロ神父関連のスポットは、出津文化村と呼ばれます。出津文化村 美術館・博物館
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出津救助院(1883-)
写真左が授産所、右が製粉工場、右枠外にはマカロニ工場が建ちます。ド・ロ神父が開設し、現在はミュージアムになっています。お告げのマリア修道会の所有で、旧薬局の建物でシスターからチケットを買います。内部は撮影禁止です。旧出津救助院 名所・史跡
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教会を建設したので任務終了、あとは教区民が納めた什一で神父は悠々自適の暮らし。というカトリック世界の常識と違い、ドロ神父は信者をいたわる人物でした。教会も授産所も、自腹で建てました。(ド.ロは貴族の次男)
「外海の人々を貧しい生活から救いたい」
農地が少なく、地域でもとりわけ貧しい集落でした。
「女性に働く場所を」
人々は海で生計を立てますが、海難事故で夫を失う家庭が多く、残された妻娘は貧困に苦しみました。
こうした問題に取り組むべく、救助院を建設しました。 -
ドロ神父が目指したのは、女性の自立でした。欧米基準でも、かなり進んだ思想です。マカロニ工場などは、長崎の外人居留地で重宝される付加価値の高い商品でした。農業にも通じていたので、出津の風土に適した小麦を栽培しました。授産所1階では、通年で素麵/マカロニ/醤油、春夏は茶、秋冬はカンコロ(サツマイモ粉)が製造されました。2階では製糸/機織/仕立が行われました。
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栽培法
根菜類は種類ごとに植えるのではなく、芋・かぼちゃ・大根等がごちゃ混ぜに栽培されました。大根一つをとっても、10品種が植えられました。かなり先進的で、農耕機械を導入しにくい土地特性に順応しています。 -
鰯網工場跡
向かいには、市営ド・ロ神父記念館があります。こちらも撮影禁止です。元々は鰯網工場として、1885年にドロ神父が私財を投じて開設しました。翌86年以降は、保育所として使用されました。教会関係、土木、授産所関係の史料や遺物が展示されています。
ドロ神父の地位は司祭止まりだったこともあり、外海に留まります。70歳を超えて老齢のために大浦教会へ転勤しますが、一度もフランスへ戻ることはありませんでした。ド ロ神父記念館 美術館・博物館
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ド・ロ塀
当時石積みの接合剤として使用されていたアマカワは、雨に打たれるのに弱い弱点がありました。ド・ロは代わりに、赤土を水に溶かして石灰と砂を捏ねたもので接合しました。石積みも、地元の自然石を不規則に重ね合わせて強度を増しました。
以上が世界遺産(潜伏キリシタン関連遺産)の、Ⅳ宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり という最終パートでした。超ハードな撮影制限でした。 -
Ⅰ宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ
1549年に伝来したキリスト教(=カトリック)は、1571年に外海地区にも伝わり、1592年には宣教師の駐在所が神浦に置かれました。
江戸幕府はキリシタンを厳しく取り締まり、1637年の島原天草一揆、1644年以降の宣教師不在の影響を受けます。
出津は、出津代官所(写真)の管轄下になります。現在は救助院跡になっています。島原天草一揆の翌年に、幕府は住民全員が仏教寺の檀家(信徒)になることを義務付け、キリシタンを取り締まります。こうした檀家制度を管理したのが庄屋で、庄屋の屋敷は代官所に隣接しました。 -
外海地域は大村藩領でしたが、出津だけは佐賀藩深堀領の飛び地でした。現在の佐賀市を政庁とする藩で、現在の長崎市南部深堀に6000石ほどの領土(飛び地)を持っていました。深堀領からさらに40km北方に出津は位置します。飛び地の飛び地、かつ陸路海路でもアクセスが困難という条件も相まって、キリシタン追及が困難な土地でした。
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Ⅱ潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み
潜伏キリシタン共同体は、禁教初期に宣教師から伝えられた教会暦を所有する「組」単位で運営されました。各組の指導者の下で、洗礼、葬儀、暦に基づいた儀式(クリスマス等)を行いました。禁教前に編纂された教理書に基づいて、信仰を実践しました。 -
出津教会の向かいにある修道院の敷地は、かつて十五玄義図(写真 聖母子の生涯を描く)を所有していた組の指導者の屋敷跡です。
※取り締まる側の庄屋も、実は代々の潜伏キリシタンで、中国製の仙人像を聖人に見立てて(外海歴史民俗資料館に展示)いました。 -
キリシタン墓地
出津では4つの共同墓地が指定されていますが、いずれも私有地内で、案内があるのは野中墓地だけです。外見は仏教徒の墓と区別がつきません。 -
入り口は、こんな感じ。私有地なので、立入禁止です。
仏教徒は座った状態で埋葬しますが、潜伏キリシタンの埋葬は「頭を南に向け、膝を曲げて寝かせた」状態にすると言い伝えられています。実際の発掘調査で、キリシタン式の埋葬(膝を立てて寝た状態)が確認されたスポットです。 -
Ⅲ潜伏キリシタンが共同体を維持する試み
農地が乏しく貧しいのに、人口が多い。解決策は移民です。1770年代から、五島列島への移住が始まりました。正式に大村/五島両藩で協定が結ばれたのは1797年で、1822年まで続きました。五島藩は台風や疫病で人不足、大村藩は厳しいキリシタン取り締まりの費用が重くのしかかっていました。五島では、仏教集落と隔離された土地に暮らし、ひそかに信仰を実践しました。 -
Ⅳ宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり
信徒発見(1865)
鎖国体制が終焉し、1865年に献堂された大浦天主堂に、浦上村の信徒が信仰告白に訪れます。プチジャン神父がその場に居合わせ、日本のキリスト教徒は絶滅していなかったことを知ります。出津の指導者も大浦を訪れ、宣教師と接触を持ち始めます。 -
宣教師到来(1865)
信徒発見と同じ年、プチジャン神父が秘密裏に(禁教令が続いているので)出津を訪れます。彼が船で上陸したのが、写真の小浜ヶ浦です。 -
野中騒動(1867)
宣教師と接触し、無事カトリックへ復帰と順調に事は運びませんでした。出津で一番の野中集落で、指導者と信徒が集まり、進路を話し合いました。主題はカトリックへの復帰でしたが、代々所有した聖画の所有を巡って紛糾。先ほどの十五玄義図と写真の聖ミカエル図は、長年の潜伏期の信仰のシンボルで、特別なものでした。 -
浦上四番崩れ(1867-)
浦上村で68名のキリシタンが逮捕された事件です。翌年に発足した明治政府は禁教を継続するだけでなく、最終的に信徒2300名ほどを流刑にします。
出津代官所でもキリシタンの確認が行われます。信仰している者には、年貢を滞りなく納めれば信仰を見逃すというキリスト教信仰の黙認が行われました。 -
高札撤去と仮聖堂(1873)
明治政府が出した禁令を記した高札は、撤去されます。それに伴い、ペリュー神父が出津に仮聖堂(教会)を建てます。土地は、先述の聖ミカエル図を所有していた指導者の敷地です。 -
ちょうど出津橋の下にあたります。
禁令が解除された1873年の時点で8000人の潜伏キリシタンが出津で生活していましたが、カトリックに復帰したのは3000人でした。残りの人たちも徐々に復帰し、ほとんどカトリックに戻ります。 -
仮聖堂の向かいは、小浜ヶ浦です。
カトリックに復帰せずに禁教期の信仰形態を守った人たちは「かくれキリシタン」と呼ばれます。昭和が終わるころには、ほぼ絶滅します。 -
海岸をのんびりと歩きます。
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丘の上の、遠藤周作文学館へ向かいます。
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12歳で洗礼を受け、カトリックを信仰した作家です。
ただ、キリストの「奇跡」を否定するなど、自由な立場を貫きました。
正式な宗教教育は受けていません。
「西洋と日本」が大きなテーマです。遠藤周作文学館 美術館・博物館
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外海を舞台にした『沈黙(1965)』は、厳しい禁教下の日本に潜入を試みた宣教師が、長崎奉行の懐柔と拷問を受けて棄教する話です。史実をベースにし、褒められた人間でないヤジロー、人徳の高いフェレイラ神父、主人公のロドリゴ神父(いずれも棄教)といった様々な人物が描かれたキリスト教文学です。
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ポートレート
身長183㎝。1923年3月生まれなので、当時としては大男です。
さくらももこさんのエッセイでは、イタズラ好きのお茶目な一面が垣間見られます。
展示室は撮影禁止で、生涯を追って史料や遺品などが展示されています。
プロフィールは知っていましたが、正直、訪問後に初めて作品を読みました。
そんな素人でも楽しめる展示内容でした。 -
ステンドグラス
半分以上を占める青の部分は外海の海、白は波の泡を表しています。西日が当たって輝きます。 -
角度を変えて光をカットすると、こんな感じ。
半円は、ロマネスク様式の教会のアーチを意識しています。 -
暗くすると、深い色に。
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海の真上の丘に建ち、標高は100m超。
絶景です。風も強いです。
建物は西向きで、角力灘・五島列島を向いています。
建設コンセプトによると、ポルトガル・西洋を向いていると説明されています。 -
渡り廊下
床は、ポルトガル産のテラコッタタイル。
視線を移すと、格子の杉板天井。渡り廊下は吹きさらしなので、風の強いロケーションを考慮し、グラバー邸などの古い洋館から学んでいます。
石壁は、地元産の温石です。 -
思索空間アンシャンテ
渡り廊下で展示館と結ばれたスペース。
ガラス張りのオーシャンビューで、本棚には遠藤作品等が。
贅沢で静かで快適なスペースです。 -
沈黙の碑(1982設置)
順番は逆行しますが、最初に出津バス停で降りて、外海歴史民俗資料館へ上がるスロープに建つ自筆の石碑。
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに 碧いのです」の一節が。 -
こちらは石碑からの眺め
遠藤は、この場所が選ばれたことを「ベターではなくベストの場所だ」と大いに喜んでいます。石材は、同年の長崎大水害で神浦川に流れ込んだ岩を使用しています。 -
再び、文学館からの眺め。
遠くにアーチ状の岩(オラビ瀬)が見えます。 -
角力灘を船が横断します。
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出津集落を望みます。
沈黙を執筆するにあたり、遠藤は出津界隈を歩き回ってイメージを練っています。
文学館には、見覚えのある景色を背景に写る遠藤の写真が幾つも展示されていました。 -
文学館前のバス停
文学館の庭園は、花いっぱいです。 -
歩いて道の駅へ。
お土産買うなら、ここです。食事もできます。道の駅 夕陽が丘そとめ 道の駅
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一日数本の運行なので、大野集落へは行けませんでした。
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おまけ
文学館横の大岩 -
バスチャン屋敷跡
宣教師追放後、洗礼名バスチャンという指導者が厳しい迫害を逃れて、匿われた場所とされます。稜線に位置します。「沈黙」では、ロドリゴらが密入国した際に匿われた場所(フィクション)として登場します。
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