2023/03/18 - 2023/03/22
152位(同エリア4378件中)
Noraさん
この旅行記のスケジュール
2023/03/18
この旅行記スケジュールを元に
3/18~4/3にかけてまだ寒いシカゴを抜け出し、大西洋を越えてポルトガル~スペインに行って来ました。スペインの表玄関は何といってもマドリード。ただしUAのアワードマイルを使ってシカゴからマドリード間を単純往復というのも芸がないので、エクスカーショニスト・パークの特典を活用してワンストップ=イスタンブール経由でマドリードに行きます。マドリードからはイベリア航空でリスボン。何故にイスタンブール?12年前にイスタンブールに行った時、どう頑張っても時間がなくて諦めたエフェスの遺跡(割と古いものに惹かれるタチで)それと旅行者を疲労困憊させる新スタンブール空港も見ておいていいかな。。と、割と単純な理由です。
蛇足ですが今度の旅で空路、陸路合わせると14000マイルくらいで、今までで一番の長旅、しかも一人旅と。。。家人はアンダルシアの高原で行き倒れになった時のこと等余計な心配をしてくれるのですが、深く考えずに出発することにしました。
4日目はイスタンブール観光定番のトプカピ宮殿、アヤソフィア、地下宮殿に向かいます。そのあと,明日はマドリッド経由でリスボンに向かうので今夜の宿、新イスタンブール空港近くのホテルへ移動という予定です。。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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セブンヒルズホテルの朝食!!!質と量に圧倒されてしまった。美味ではあったが、トルコの人は皆こんなビッグブレックファストを毎朝とるのだろうか?いやこれはトルコスタンダードではなくツーリストスタンダードに違いない。
セブン ヒルズ ホテル ホテル
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2日前にオンラインでGetYour Guiideのサイトから購入したトプカピ宮殿とハレムツアー。12:00スタート。
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今日朝イチにすることは集合場所のTopkapi Cafeの確認。カーペット美術館の近くと書いてあるので多分ここだろう。11:45に集合とある。ホテルから10分、アヤソフィアから徒歩5分くらいのようだ。
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アヤソフィアを通り過ぎしばらくするとこのアフメット3世の泉亭が見える。トルコ・ロココ建築. Topkapi Cafeはこの斜め前、皇帝の門の横に何気なくあった。
トプカプ宮殿 城・宮殿
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ツアー参加者が集合するとすぐにこの宮殿の正門「皇帝の門」から入場。トプカプ宮殿の二重の城壁のうち、ブルーモスク側にある総門でトプカプ宮殿で最初にくぐる門。入場券なし、セキュリティチェックだけで通過できる。ここから第1庭園に入っていく。。この門はメフメット2世によって1478年に建てられ、30代サルタンのマフムト2世とその子アブドゥルアズィスの時代に再建されたものである。馬蹄形アーチの下にマフムト2世のクーフィー体で書かれた花押がある。
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第1庭園に入りしばらく歩くと儀礼の門(送迎の門?)がでてくる。トプカプ宮殿のイメージというとこの門の画像がよく使われる。この門の手前にミュージアムショップがありその近くにチケット売り場がある。我々はGetyourguideのグループツアーなので、ガイドさんがスマホにツアーの人数分用のパスを持っていてスキャナーにかざして入場する。トンガリ帽子の塔が両脇に建っていて何となくほほえましいデイズニーランド風の門だ。かつてこの門を馬にまたがって通過できたのは歴代のスルタンだけだったという。
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儀礼の門の天井部分(中間部)
この門を抜けると第2庭園(外廷)である。外廷は宮殿の構造的外郭であるとともに、国政の場でもあった。 -
トプカプ宮殿3Dモデル-Wikimedia commons+日本語追加 by Nora
トプカプ宮殿の本体部分は、外壁内の宮殿敷地の内側にある第二の城壁で囲まれた縦横200m×400mほどの長方形の空間である。
その内部は、行政と公式行事の行われる場である外廷(ビルン)と君主の私生活の場である内廷(エンデルン)、そして女性たちの住む後宮(ハレム)の3つの部分からなるーWikipediaより。
最初にこのトプカプ宮殿の建設に着手したのは、コンスタンチノープルを攻め落としたことで有名なスルタン・メフット2世、1460年代であった。宮殿のある丘は半島の先端に位置し、古代ビュザンティオンのアクロポリスがあった場所にあたる。ここからはボスポラス海峡はもちろん、金角湾、そして南のマルマラ海が見渡せる。つまりイスタンブールのすべての海路を見渡せる戦略的に最も望ましい場所であった。
今から560年以上前に建設が始まったトプカプ宮殿は、その後のスルタン達が増設を繰り返し現在残されている形になった、いわば複合建築物である。 -
第2の中庭は公式行事に使われた広場である。ここを歩いていくとディバン(会議の間・政庁の意味)の塔、別名「正義の塔」が見える。この塔はかつて宮殿の監視塔として外敵を監視するために使われていた。なのでトプカプ宮殿の建物の中では一番高い。
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ディバンの塔(正義の塔)の下には御前会議の間(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)がある。ドームの間(クッベ・アルトゥ)とも呼ばれる。オスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議が行われた場所である。週に4日、スルタンや高官、将軍などが集まり、政治、経済の重要議案が議論された。
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御前会議の間。燦然と輝く建物の入口。
スルタンは、ディバンにいつも出るわけではなかった。好きなときにハレムからディバンに通じる地下道を通って、誰にも気付かれずに会議を覗くことができたからである。ディバンで大臣たちが激論の末、口論になったりすると、スルタンは咳払いをして窘めたそうである。 -
御前会議の間のドーム部分。圧倒的な迫力。
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幸福の門。ここから第3中庭(内廷)部分になる。内廷とハレムは、ともにスルタンの私的生活の場であり、内廷は男性の居所であるのに対し、ハレムは女性の居所であった。内廷には小姓と宦官しか入ることができなった。
*小姓:「デヴシルメ」とよばれる強制徴用で集められたイェニチェリ候補生のうち、とりわけ健康、容姿、頭脳ともに優れた男子が選ばれ、小姓として宮殿に送り込まれた。彼らの多くがキリスト教徒であり、徴用後、強制的にイスラム教に改宗させられ、「内廷」で白人宦官の監督のもと、将来のオスマン帝国を担うエリート官僚として育てられた。武術・イスラム諸学・文学・書道、科学、外国語などの教育を通して洗練された軍人官僚が養成されるのである。この養育期間が終わると、外廷に出廷した。小姓は、「スルタンの奴隷」と呼ばれたが、この中から有能な軍人官僚や特殊技能者(建築家など)が出ている。大宰相を含む要職の多くは内廷出身者で占められた。 -
幸福の門、天井部分。眩しいくらいに輝いているところを見ると最近修復されたばかりのようだ。
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幸福の門にすぐ隣接しているのがこの謁見の間。その入り口。
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政府の高官たちや諸外国の大使たちはこの広間でスルタンに謁見した。謁見の際には、大使たちは、玉座に座したスルタンの前にひれ伏し、その服の裾に接吻したという。-asahi.comより。
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そして割礼の間入口。
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割礼の間。麻酔などはどうしたのだろう?最も麻酔の原初的なものは古代エジプト時代からあったといわれているが。。。
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そしてこの後ハーレム入場。
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ハーレム入口。御前会議の間(ドームの間) の西隣にある’車の門’(Carriage Gate) で、ハレムの女性が外界に出入りする殆ど唯一の門だった。名の由来は、出入りする女性が、ここで車を乗降したことによる。我々が実際に入場するのはこの左手にある入口。入場券のQRコードをスキャナーにかざし回転バーを動かして入る。
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’車の門’の左手の入口。サインボード。
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まず目にするのはズリュフリュ警備隊の詰所の説明版。ズリュフリュとはトルコ語で「毛の番人」の意味を持ち、長い毛のついた頭飾り、長い襟の制服であったことからこの名前がついたのだとか。彼らはサルタン直属の警備隊で宮廷内の警備の他に、いったん戦争になった場合、進軍を容易にするため道の開拓や兵站の役目も帯びていたという。
英語表示ではThe Ward of Tressed Halberdiers となっている。 -
ズリュフリュ(Zülüflü Baltaci)と呼ばれた警備兵(真ん中のダークグリーンのコスチューム)のいでたち。巻き毛、編み毛は高位の兵士のシンボルでありその長さはランクの高さと比例した。彼らの中には身長2mを超える者もおり、戦時にはイエニチェリ軍団をサポートし勇猛な働きをしたことでも知られる。図はhttps://picryl.com/media/icoglan-cavuslari-ve-baltacilar-19ee98より。
下記リンクにあるようにPublic Domain(No copyright)。
https://creativecommons.org/publicdomain/mark/1.0/ -
地下に降りていく階段。迷路のようなハレムの空間に大小300部屋近くあるようだが、現在公開されているのはその10%程度らしい。
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地下に降りるとすぐにズリュフリュ警備隊のセクションがある。これは彼らのドミトリー(宿舎)。2段ベッド式。中央のボールはヒートボール。この写真の反対側の壁に暖炉もある。
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上段は年長者や高位ランク者に優先的に与えられた。ヒートランプに近いからである。これは一例であるがオスマントルコの軍紀や訓練では目上の者に対する絶対服従や年功序列が徹底されていたようである。
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ズリュフリュ警備兵の蝋人形。彼らの制服の色は目立たない濃紺であった。布地は定期的に支給され、ハレム内の女性奴隷が縫製や仕立てをした。
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ドミトリー(宿舎)の向かい側の建物は小さなモスク。これは2階のモスクへ上る階段。
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彼らの名札と壁面をカバーするイズニックタイル。
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パイプルーム。パイプ煙草を吸うズリュフリュ警備兵の蝋人形。カリブ海の島々で栽培され、ヨーロッパ諸国に紹介されタバコは、重要な貿易品目となりオスマン帝国にも16世紀に紹介された。当初は薬用効果があると吹聴宣伝されていた。
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パイプルームの向かいに彼らのハマムが位置する。これは明り取りのある天井部分。床はローマ風呂のようにスティームで温められていた。
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水浴場。入浴の日は週1回ときめられていた。それぞれのグループごと(例えばズリュフリュ警備兵、黒人宦官、女奴隷ごとに)に曜日が決められ窯焚人が特定のハマムに火をつける。燃料は木が使われ、それらを外部からハマムに運ぶのはズリュフリュ警備兵の仕事であった。
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ズリュフリュ警備隊の棟を過ぎるとHead Slave of the Door(門番警備長)の詰め所がある。現代風に言うとチーフセキュリティーガードの詰め所。ここは下の写真にあるホースランプ(馬用傾斜路)が見える位置にあり、サルタンの出入りを警護したり外部侵入者を監視する場所だった。
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内側から外を見たところ。
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この詰め所のすぐ横に傾斜路がある。この部分は2年前に初公開されたサルタン専用の秘密の通路でホースランプ(馬用傾斜路)と呼ばれている。サルタンがお忍びで馬に乗り、変装(商人の服等)して市井を視察するのである。もちろん護衛(シークレットサービス)付きであるが彼らはサルタンと一定の距離を保って随行する。一般庶民に接したり市場の生の声を耳にすることはサルタンにとって非常にエキサイティングなことであったという。参考:
https://www.hurriyetdailynews.com/secret-road-of-sultans-in-topkapi-palace-reopens-to-public-visit-158378
と同時に窮屈な宮廷生活を脱して密かに’違った時間と空間’を持てるという事はサルタンの精神面のリフレッシュメントに大いに役立ったのではないだろうか? -
傾斜路はゆるい勾配をつけた’くの字型’になっており、最後がこの門に到達する。ここが変装したサルタンの外界への入り口であった。
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ホースランプ(馬用傾斜路)の途中左側にこれも最近初公開された黒人宦官のハマムがある。入ってみよう。
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ここは脱衣室。靴は下の窪みに、衣類は壁に設けられた棚にいれた。
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トイレ。左側にに水道の蛇口とシンクがある。
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2,3人が入れる湯舟。プール程広くはないので泳ぐのは無理だろう。
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お湯と水の蛇口が付いた洗面台。
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ホースランプ(馬用傾斜路)を上り詰めるとこのカーテンゲートにつく。黒人宦官の中庭に通じる部分。
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その次に清めの泉のホール門(Gate to the Hall of the Ablutions Fountain)が出てくる。
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黒人宦官の部屋だが修復中のものもあるようだ。
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黒人宦官の部屋が並ぶ中庭。ポルティコの部分。
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黒人宦官のモスク内にあるミフラーブ。中央はメッカのカーバ神殿の描写?
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モスクの天井。
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この赤いカフタン(?)に身を包んだ黒人宦官には見覚えがある。チーフ黒人宦官で王子達の教育係であった。12年前に私が来た時と同じ姿のままだ。置かれてる場所は違ってるが。。。時の流れに感無量!!
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黒人宦官のセクターが終わる。前方に見えるのがメーンゲート。ハーレムの中心部、最も閉鎖的空間に入る。
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Concubine's Passage(側室の通路)。壁に沿って黒人宦官が側室や女官達のための食事を並べておく石作りのテーブルがある。それを侍女たちが部屋へ運んだのである。https://theistanbulinsider.com/see-how-easily-you-can-visit-the-harem-of-topkapi-palace/
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この通路は側室の中庭(ハーレムで最も小さい)に通じる。
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側室たちの中庭。
スルタンに見初められた女奴隷(オダルク、odalık)は側室と呼ばれる立場になる。彼女たちは「幸運な者」という意味のイクバル(İkbal)あるいは「目をかけられた者」という意味のギョズデ(Gözde)と呼ばれ、個人の部屋を与えられた。
大量の女性が奴隷としてサルタンのハレムに献上されたのだが、殆どが異教徒の女性であった。(イスラム法ではムスリムを奴隷にすること、また非ムスリムであっても帝国臣民を奴隷にすることを禁じている。)、戦争捕虜、もしくは略奪や誘拐された異教徒の女性(多くはキリスト教徒であった)が奴隷市場で売買されてハレムに送り込まれたり、宮殿の高官がサルタンに献上するケースなどもあった。この中には当然貴族出身や高い教育を受けた女性もいたのである。
それらの女性が黒人宦官によって教育、指導され、しかるべくイスラムの教養、文化を身につけた後、オダルク(odalık)としてハレムに配属された。
*オダルク(odalık)?オダリスク(Odalisque)? オスマン帝国のスルタンのハレムで奉仕する女奴隷。トルコ語では「部屋」を意味するオダリク(Odaliq)と呼ばれる。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパでオリエンタリズムが流行するにつれ、絵画の題材として好まれた。-wikipedia -
ヴァーリデ・スルタン(サルタンの母后)の部屋。セリム3世の時代にロココ調でまとめられた室内の内装。天井に近い部分は西欧風の風景画のフレスコで飾られている。
*セリム3世は18世紀に’上からの近代化’を進めたサルタンであったが保守派によって暗殺された。生前、西欧化を積極的にすすめ、宮殿のインテリアも西欧風に改装したのだが、このフレスコ画もそれらの一部であろう。 -
ヴァーリデ・スルタンの部屋の暖炉。17世紀に造られたイズニックタイルでカバーされている。
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天井ドーム。
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精巧な螺鈿細工。
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母后のダイニングルーム。
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母后のハマム。壁面の窪みは夜間ランプを灯す場所であった。
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母后のハマムの洗面台。
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母后のハマム。
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サルタンのハマム。金色のブロンズの手すり替わりの仕切りが設置されている。入浴時には2名の侍女がアテンドしたという。
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インペリアルホール。お祝い事なども行われるレセプションホールだった。サルタンはこの席に座って歌舞や音楽を鑑賞した。
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インペリアルホール。こちらは母后、側室、お気に入りの侍女の席でサルタンと共に歌舞音曲を鑑賞した。
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2回バルコニーは音楽隊の席。
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インペリアルホール。
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ムラト3世 MuradⅢのプライベートルーム(ベッドルーム)。
現在残っているハレムの豪華な内装はムラト3世時代のものがもとになっている。スレイマン1世時代のハレムはさほど豪華ではなかった。またベッドルームと言いつつもベッドがないが、オスマントルコの生活様式にベッドが取り入れられたのは19世紀のこと。この時代にはまだベッドはなくムラト3世は一段高くなった床の上に布団またはマットレス様のものを敷いて寝ていた。 -
天井をみればトプカピ宮殿で最大と言われるドーム。
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ムラト3世 (MuradⅢ)のプライベートルーム。青いタイルにはコーランがアラビア語で書かれている。
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ムラト3世 (MuradⅢ)のプライベートルームのファウンテン。1597年、オスマン帝国最高の建築家ミマールシナンのデザイン。水の滴り落ちる音を楽しむと同時に外部への会話の漏洩を防ぐ目的もあったという。この下には大きなインドアプールがある。
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暖炉および壁面のタイル装飾。ミマールシナンのデザインによる古典的オスマン建築様式。
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サルタンのお気に入りの人々のアパート。サルタンの側室,女官長、王女達、幼い王子達といった面々が住んでいた一角。
この中庭(Chamberlain’s Courtyard)は四方を建物で囲んだスタイルではなく一方をオープンにしたベランダのようなつくりになっている。
https://www.islamichistoryandtravel.com/topkapi-palace-harem-apartments/ -
ベランダから下を見下ろすともとプールであった部分がみえる。往時、夏ともなるとここに水がたたえられ女官たちが泳いでいた。
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Twins Kiosks いわゆる黄金の鳥籠。
征服王、7代皇帝のメフメト2世は晩年に作った法令集を改定し「世界の秩序のために兄弟を処刑することは許される」という規定を加えた。王位をめぐる争いを避けるために第2王位継承権者である兄弟殺しを認める規定である。これによって兄弟殺しが正当化され、最悪の例であるが13代 皇帝メフメト3世 の場合、19人もの弟を処刑している。しかし、この残酷極まりない規定に対する非難もあり、また第1王位継承権者に万が一のことがあったときに王系が途絶えてしまうということで、メフメト3世の子であるアフメト1世の治世から幽閉するというやや穏便な方法がとられた。ここがその美しく装飾された幽閉場所である。そして密かに鳥籠と呼ばれた。 -
壁面のイズニックタイルのクロースアップ。
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この場所からは金角湾を挟んで新市街のガラタ塔が見える。ビザンチン時代ジェノバの商人の居留区の物見の塔であった。
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ハーレムモスク(女性用)。
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ゴールデンロード(黄金の道)。 名の由来として一説にはスルタンがヨーロッパでの戦争から凱旋してくると、この道からハレムに入り、道沿いに並んだお気に入りの女性たちに金、銀、ダイヤモンド、真珠宝石を投げ与えたからだというが、諸説あり真偽のほどは定かではない。
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ここを過ぎたところにこれも最近公開されたハーレムのキッチン。(1階と中2階から構成されているのだが、中2階の部分は公開されていない。)石づくりのオーブン台、パン工房もあった。食事を準備するものは外部からではなく信頼できるサルタン直属のズリュフリュ警備兵の中から選ばれた。
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サルタンの母后の中庭。ここでツアーは解散。
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出口に向かう前に御前会議の間の向かい側にある厨房棟に寄ってみた。最初メフメット2世によって宮殿の一部として造られたが、1574年の火事で焼失。建築家ミマール・シナンによって再建されたのが現在の建物である。ここで約800人の料理人が多い時で4,000人分ほどの宮廷で働く人々のために食事を作っていたと言われる。料理人の宿舎やハマム、調理棟が並んだ150mほどの宮廷厨房は現在宮殿の文献室、布生地倉庫、修理工房、オスマン帝国厨房コレクション展示室になっている。
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厨房用具展示室にて。鍋、釜、油入れその他。
男性からなるコック(アシュジュ)達が調理にあたり、料理の専門家のみならず、菓子づくりの専門家(ヘルバジュ)などがいた。当初はスルタンの食事も作られていたが、18世紀末に、宮廷の職員達と外来者達のための台所となり、スルタンの日常の食事は、かわって内廷の台所クシュ・ハネで作られるようになった。http://www.tufs.ac.jp/st/club/turkiye1/maejima.htmより。 -
クッションかと思ったら、トプカピ宮殿で使用されたフードワオ―マーであった。トレイ全体を覆うサイズの布地に鋲のようなものが沢山縫い付けてある。予め、火にかざして金属部分を温めた後、トレイの上にかぶせて食べ物や皿を保温したのではないだろうか?
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ヤギの皮と布で出来た食事用マット。16世紀。宴席で直接絨毯の上にこのマットを置き大皿に盛られた料理が供された。後ろにあるのはテプスイ(巨大なピザパンのような盆)。
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ムラト3世の王子の割礼式の祝い膳を用意する厨房の人々と動物屠殺係の絵。
因みにオスマン時代の食事風景はhttps://deraliyerestaurant.com/eating-and-drinking-habits-of-the-sultans-in-the-ottoman-empire/を参照されたし。
オスマン朝では、イスラムのしきたりにならい、少人数の食事には短い足つきのテプスイを食卓としたが、大きな宴席では、絨毯の上に食事用マットを置いてご馳走を並べた。食べ物は大皿や大鉢で供され、個人の取り皿や切り分けるナイフやフォーク等のカトラリーもこの当時はまだなかったので、各自指か、匙で直接自分でとりわけて飲み食いした。
ある資料では、イエニチェリはこういう時のために首尾よく帽子にスプーンをさしていたとあるのだが。。。
さあ、この宮殿で見ていないところもあるのだが、時間がない。先を急ごう。アヤソフィアに行かないといけない!!
④4日目その2に続く。
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この旅行記へのコメント (2)
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- komnenosさん 2023/08/27 10:39:08
- フォローありがとうございました。
- イスタンブルの旅行記興味深く拝見させていただいています。
やっぱり良いですよね。イスタンブル。
若い時は毎年のように訪問していましたが前回の訪問が2005年 もう18年前なんですね。
コロナ禍明けの初欧州に組み込んでも良い目的地になりそうです。
それではまた訪問させていただきます。フォローバックもさせていただきましたので今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
- Noraさん からの返信 2023/08/27 15:03:48
- Re: フォローありがとうございました。
- komnenos さん:どういたしまして。ご丁寧にありがとうございます。イスタンブールは世界中で最もユニークな都市の一つだと思います。ぜひ再訪なさって下さい。きっと新しい発見があると思います。旅行記楽しみにしています。こちらこそよろしくお願いいたします。
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