2023/04/19 - 2023/04/28
1604位(同エリア2195件中)
おかまのこがねさん
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今回は京都です。
6月のビールは今までヨーロッパ(主にドイツなのでビールということですが)のビールなんですが、ハワイもありましたね。今回は国内です
京都にもビールも美味しいでしょうということで。
さて始まります////
デンジャラスな旅をとくと:::
画像の日付は間違いです
誤字、脱字にはご容赦を
表紙は
嵯峨の祇王寺
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- スカイマーク
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ホテル 徒歩5分→三条京阪駅(ロッカー)一日券東西線太秦天神川行き2駅4分¥220→烏丸御池駅烏丸線国際会館行き¥230→国際会館駅出口1→徒歩3分→国際会館駅前バス停4乗り場京都バス19系統大原,小出石行き22分乗車8;40発¥230→大原
-
大垣書店
京都では
知らない人はいない -
国際会館から
バスにて -
さて
京都バスです。
当然
実は乗るとき
だったのですが
うっかり地下鉄バス一日券を
磁気カード読み取り機に入れてしまった。
運転所に行ったら
うなずくのみで
そのまま発射
かなり走ってから出てきました
私たち
座っていたので
他の乗客が取ってくれた。
満員でした
でも途中でたくさん
降りました
たぶん服装からして京都一周トレイルに行くんですね
京都一周トレイル®は、京都の東南、伏見桃山から、比叡山、大原、鞍馬を経て、高雄、嵐山、苔寺に至る全長約84キロのコースと、豊かな森林や清流、田園風景に恵まれた京北地域をめぐる全長約48.7キロのコースからなります。 -
大原に
着きました -
19系統
乗るかぁ~ -
あとで八大神社に
いくんで -
洛北エリアは、大きく分けると、鞍馬貴船エリア(鞍馬寺・貴船神社)、大原エリア(三千院・宝泉院・寂光院)、鷹ヶ峯エリア(源光庵・光悦寺・常照寺)、紫野エリア(今宮神社・大徳寺)があります。
鞍馬寺は、牛若丸(源義経)ゆかりの地、天狗伝説があります。貴船神社は、水占おみくじが女性に人気。
源光庵は、「悟りの窓」「迷いの窓」が有名です。広大な大徳寺境内には、織田信長の墓がある総見院や大友宗麟が建立した瑞峯院など戦国武将ゆかりの塔頭寺院が多くあります。 -
わっ
団体さん
外国ん
寂光院は左
寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる。当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しない。
鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院によって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されている。
第3代住持(じゅうじとは一寺の主人のこと)の建礼門院徳子(けんれいもんいん とくこ)
を話すことにしよう
建礼門院徳子は平清盛と時子の次女で、16歳の時に、第80代高倉天皇に嫁ぎ、言仁親王(のちの安徳天皇)をもうけました。しかし、その後、建礼門院は波瀾万丈の人生を送ることになるのです。
病弱であった夫の高倉天皇はわずか20歳にして崩御し、世は源平争乱の時代へと進んでいきます。安徳天皇が平家一門とともに都落ちした際に、建礼門院も同行し、一ノ谷の戦いや屋島の戦いを転戦。そして、1185(文治元)年3月、平家一門は壇ノ浦の戦いに敗れ、建礼門院は母の時子と、まだ8歳だった安徳天皇を抱きかかえて海に入水しました。
しかし、母の時子と安徳天皇は亡くなりますが、十二単を着ていた(空気の層ができて、十二単が浮き輪の役割になった)建礼門院は沈まず、海に浮いていたところを無念にも源氏方に助けられてしまうのです。なんと哀しい運命…。
その後、助けられた建礼門院はひとり京に戻され、東山の長楽寺に入り、出家します。そして、1185(文治元)年9月に我が子、安徳天皇と平家一門の菩提を弔うために、隠棲の場所となる寂光院に入りました。建礼門院、29歳のことです。
1186(文治2)年の初夏、寂光院での生活に慣れてきた頃に、思いがけない人物が現れます。その人物とは、義理の父親でる後白河法皇。法王は失意の中で大原に住まう建礼門院を案じて、はるばる都から訪ねてきたのです。
建礼門院は話し相手もなく、滅びた平家一門と我が子である安徳天皇の冥福を祈るだけの毎日でした。法皇はその侘び住まいに暮らす建礼門院の姿を見て、涙を流し、再会を果たしたふたりは、いつまでも懐かしく語り合ったと言われています。これが“祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり…”で始まる『平家物語』に出てくる有名な「大原御幸(おおはらごこう)」のくだりです。
それからも、建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再び、歴史の表舞台に登場することなく、1213(健保1)年にその波乱の生涯を閉じました。 -
三千院の先には
勝林院
その先には
宝泉院
ではその勝林院には
お堂の中央に安置されている本尊の阿弥陀如来坐像は「大原問答」の折りに奇瑞を示したことから「証拠の阿弥陀」と通称されています。
文治2年(1168)、勝林院住職の顕真が法然をまねいて、延暦寺・金剛峯寺・東大寺などの高僧らとともに念仏の教えについて問答を交わしました。法然は白熱する論議の中で、念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できると経典を引用しながら説きました。すると本尊が光を放ち、法然の主張が正しいと証明したのです。集まっていた多くの聴衆たちは、どんな人でも等しく極楽往生できることができると知り、大いに喜んで三日三晩絶えることなく念仏を唱え続けたといいます。
宝泉院とはいうと
血 天 井
慶長五年関ヶ原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が
豊臣の大軍と戦い伏見城 中で自刃した。
その武将達の霊をなぐさめ、自刃した床板を天井にして祀り、供養としている。 -
さわだ
地元野菜を使ったヘルシーな手作り料理 -
冬は湯豆腐セットや豆乳鍋、夏は冷やしつけそばや大根おろしそばが人気のメニューです。
このだしを使って、そばやだし巻き卵、鍋料理なども作ります。
手作りで作っているので、お手頃な価格を実現しています。
大原の自然そのままに、素朴で健康的なお料理で心も体も楽にしていただければ幸いです。 -
しそ畑
=柴漬け -
右は手作り民芸品もとしろ
中の天井
微笑天井がある
左は
和紙の店もとしろ
人は旅の途中 -
甚五兵衛茶屋
鍋焼きうどん
¥900
にしんそば
¥900
春を迎えた大原で、大原女姿で里を巡行
新緑の頃、大原の里での行われる大原女まつり。期間中、中世から現代までの大原女装束をまとった大原女時代行列が行われ、柴を頭に乗せて売り歩く「大原女」に扮した女性たちが、勝林院から寂光院までの約2キロを練り歩く。毎年3月半ば頃から一般参加者を募集し、地元の人以外に、観光客も参加することができる。見学自由。参加には事前予約が必要(参加費1,500円)。これとは別に、期間中は大原女衣装の着付け体験が1,500円となる(通常は2,500円)。大原女の姿をして大原の里を散策、観光でき、いろいろな特典もある。
大原女時代行列:4月29日(土) 13:00 (寂光院を出発)~15:00(三千院・勝林院) ※雨天の場合中止 -
志野松門
松門について
一汁八菜 京都大原 地元の野菜を使ったお昼ごはん
かつて大原郷土資料館だった建物を改装した店内は、古民家の風情が残されています。最大40名様程度までご予約が可能です。 -
味工房志野
人気ドレッシングBest5!
(4/1更新)
1.
ゆず白味噌ドレッシング
2.
新たまねぎドレッシング
3.
とまとドレッシング
4.
たまねぎドレッシング
5.
ゆず胡椒ドレッシング -
呂川茶屋
-
玉水茶屋
-
高野川
-
玉水茶屋
大原女の小路
大原女の小径(こみち)は、「大原女まつり」にて大原女時代行列が歩行するルートです。 -
呂川(りょせん)
-
大原女の小径を中心に、大原の各所には「大原女石像」が配置されています。三千院の「わらべ地蔵」のような小さな石像です。全部で24体あります。すべて表情が違いますので、ぜひ探してみてください。(石像の制作は尾崎石材)
寂光院、大原山荘、味噌庵>>>>>> -
料理旅館 芹生
もうひとつの京都、大原。
京都大原の料理旅館「芹生(せりょう)」は、自然美溢れる里山の中にあり、
賑わいある京都市内で観光を楽しんだ後は、
この大原で、ゆったりと流れる時間が旅の疲れを癒すとともに、
京都市内では決して味わえない「もうひとつの京都」をご堪能ください。 -
京野菜・自家菜園野菜・山菜など、
旬の素材を調進した、季節を彩る芹生自慢の
「草菜味懐石」と、厳選された京の地酒で
至福のひとときをご堪能いただけます。
●ご夕食:至福の味「草菜味懐石」
●ご夕食:「しゃぶしゃぶ」「ぼたん鍋(冬季限定)」
●京の地酒&ワイン
●ご朝食
●ご昼食:お食事処「ひな里」
●ご宴会
この写真は
ランチらしい -
これも
-
大原にある三千院門跡(さんぜんいんもんぜき)です。
三千院は、天台宗の寺院で山号は、魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄です。
三千院は8世紀に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現在の大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものです。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったものです。 -
千咲都
-
心の里 心繋
きずなと読む -
土井志ば漬本舗 三千院前店
柴漬けではないのですね
志ば漬とは
茄子・紫蘇に手塩を振り、樽の中で長期熟成させた自然乳酸発酵の京漬物。
赤紫蘇の香りと乳酸菌による酸味が特徴で「すぐき」、「千枚漬」と並び、京都の 三大漬物のひとつに称されています。
大原の里が「しば漬」の産地として名高いのは、大原盆地の昼夜の寒暖の差が大きく 香り豊かな良質の「紫蘇」を収穫出来ることが、しば漬造りにおいて欠かせない条件で あることがあげられます。
しば漬造りは紫蘇造り、志ば久ではこのように考えています。 志ば久で使用する紫蘇は、すべて自家栽培。 古くから伝わる紫蘇の種子を絶やすことなく今に伝え、しば漬造りの第一歩として 柔らかくて香り高い紫蘇を育てるよう努めております。
志ば久では古くからの伝統製法を守り、いまもなお手造りにこだわり毎年漬け込みを行なっています。また、おもてなしの心を忘れることなく、また多くの方に召し上がっていただきたいという“こころざし”から、当店ではしば漬を「志ば漬」 と呼んでおります。 -
三千院は延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔南谷(とうとうみなみだに)の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まります。
その後、慈覚大師円仁に引き継がれ、最雲法親王入室により、平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となりました。
寺地は時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を火災や応仁の乱などにより幾度か移転し、その都度、寺名も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井宮と呼称されてきました。
明治4年、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称されるようになりました。
明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史を紡いでいます。 -
川勝総本家 大原店(森善)
京漬物は豊かな自然の恵みと手作りの伝統にささえられた見事な保存食ですが、
もともとは各家庭の簡素を旨とする京の家庭で日々食卓にのぼったお惣菜でありました。
それがハレの料理、京料理と並んで食文化のひとつに数えられるようになったのは、
先人たちの豊かな創意工夫があったからに他なりません。
私ども川勝總本家は、創業の年より一世紀近い歴史を有する京漬物の老舗として
味とのれんを守り続けております。
よく継続は力なりと申しますが、
受け継ぐだけでは伝統は眠ってしまいます。
京都は伝統ある都ですが、
その伝統は新たな歩みの
積み重ねであったはずです。
川勝總本家は京に生まれ育った企業として
創意と革新の精神をもち、
オリジナリティーを大切にしながら
時代のニーズにお応えしてゆきたい。
活気にあふれ、魅力にあふれる老舗でありたいと願っております。 -
三千院 御殿門
御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である政所の入口にふさわしい重厚な門構えである。前述の石垣は築城で名高い近江坂本の穴太衆の築いたものである
明治4年、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称されるようになる。
明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史をつないでいる。 -
門から入り、大玄関から拝観順路に沿って進むと、客殿、宸殿、及びこれらを囲む庭園があり、庭園内に往生極楽院が建つ。その庭園にはわらべ地蔵が数体佇んでいる。
『不動大祭』
期間 令和5年4月16日(日)~5月15日(月)
4月28日の不動縁日を中日として約1ヶ月間、秘仏の金色不動明王を御開扉します。
期間中、お不動様の特別朱印『紺紙金泥金色不動明王御朱印』(一体500円)を授与致します。 -
書院から客殿への廊下に
内庭が設えてあります。 -
水琴窟
水琴窟(すいきんくつ)は、日本庭園の装飾の一つで、手水鉢の近くの地中に作りだした空洞の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する機能をもつ。水琴窟という名称の由来は不明である。同系統[3]もしくは同義の言葉に洞水門(とうすいもん)がある。伏鉢水門、伏瓶水門ともいう。 -
伝統的な水琴窟は茶室前の蹲踞(つくばい)に併設されることが多い。空洞の中に溜まる水の量を一定に保つ(溜まり過ぎた水を排出する)ため、底には排水管が設けられる。瓶を使用する場合、その底(空洞の頂上部)には穴が開けられ、地上から水を導くための管が取り付けられる。
-
苔も美しい
-
庭園に見る竹の音がコンと響く鹿威し(ししおどし)は良く知られている。
元来、鳥獣を追い払う農具であったが、後に風流を愉しむための装置として、今なお、親しまれている。
水琴窟」は、水の音を愉しむための、日本独特の装置である。
日本庭園文化における最高技法の1つとされ、その不思議な音色に多くの人が魅了される。
添水(僧都、そうず)とは、水力により自動的に音響を発生する装置である。中央付近に支点を設けて支え、上向きに一端を開放した竹筒に水を引き入れる[1]。竹筒に水が満杯になるとその重みで竹筒が頭を下げ水がこぼれて空になり軽くなる。その軽くなった竹筒が元に戻る際に支持台(石など)を勢いよく叩き音響を生ずる。
もともとは鳥獣を追い払う農具であったが、のちに風流としてその音を楽しむようになり、日本庭園の装飾として設置されることが多くなった[1]。代表的なものとして京都の詩仙堂のものがある。 -
平山勝蔵によると、水琴窟の音は底部に溜まった水の深さに影響される。平山は深さが深ければ「静的な深みのある音」が、浅ければ「騒的な軽い音」が出、水琴窟内部の空洞の高さの1/10ほど水が溜まった際に「清楚にして中和せる」、最良の音が出る。また、水滴が底部の中心部に落ちると「正確にして且豊か」で、中心から外れるほど「繁雑にしてかつ貧しきものとなる」
-
三千院往生極楽院から
シャクナゲ -
三千院客殿聚碧園
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宸殿から見た庭です。
有清園(ゆうせいえん)
有清園は宸殿より往生極楽院を眺める池泉回遊式庭園で、中国の六朝時代を代表する詩人・謝霊運(しゃれいうん 385-433)の「山水清音有(山水に清音有り」より命名されました。
青苔に杉や檜などの立木が並び、山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっています。
春には山桜と石楠花(シャクナゲ)が庭園を淡く染め、夏の新緑、秋の紅葉、そして雪景色と季節毎にその色を美しく変えます。 -
振り返って
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庭園「有清園(ゆうせいえん)」(京都市指定名勝) - 池泉回遊式庭園で宸殿前から往生極楽院にかけて広がる。有清園の名称は中国南朝・宋の詩人謝霊運の「山水有清音」という句に由来する。
わらべ地蔵 - 石彫刻家の杉村孝氏の手によるもので数体置かれている。
庭園「聚碧園(しゅうへきえん)」(京都市指定名勝) - 池泉観賞式庭園で客殿の周囲に広がる。江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ)の作庭と伝えるが確証はない。有清園と聚碧園の境は生垣と石垣で区切られている。 -
宸殿です。
修学旅行生
がたくさんいましたね -
石楠花に
苔
飛び石
飛び石の「置き方」は、専門的には「打ち方」といいます。続いては、この「打ち方」について解説しましょう。
飛び石には、伝統的な作法により、歩きやすさと意匠性を持ち合わせた打ち方の種類がいくつかあります。例えば、一直線の通路であっても、あえて動線を曲げ、流れをつくったりします。また、大、小の飛び石の並びが単調にならないよう、リズム感を出すようなイメージで配置します。 -
石灯籠
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何かに似ていません
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三千院の客殿は慶長年間に建て替えられた、御所の旧材を用いた建築物で書院造の美しい建物です。三千院客殿からは池泉観賞式庭園の聚碧園(じゅへきえん)が眺められます(撮影4月下旬)。三千院客殿には茶席が設けられ、聚碧園を眺めながら一服することができます。
-
朱雀門
往生極楽院の南側にある朱塗りの小さな門で、その昔、極楽院を本堂としていた頃の正門にあたります。その様式は藤原期の様式とも言われていますが、江戸時代に再建されたものになります。なお、現在開扉は行われておりません。 -
生込み灯籠
柱・受鉢・火袋・笠・玉の部品からできています。
基礎がないため、地面に柱を埋めて設置します。
柱の高さは、自分で調節できるため、自分の庭の高さに合った位置にできます。 -
よく見ると
玉は? -
一般的な
各部の名称
上からの各部の名称
宝珠(擬宝珠)
笠の頂上に載る玉ねぎ状のもの。
笠
火袋の屋根になる部分。六角形や四角形が主流であるが雪見型の円形などもある。多角形の場合は宝珠の下部分から角部分に向かって線が伸び、突端にわらび手という装飾が施されることもある。
火袋
灯火が入る部分で灯籠の主役部分である。この部分だけは省略することができない。装飾目的の場合は火をともすことは無いが、実用性が求められる場合には火や電気等により明りがともされる。
中台
火袋を支える部分で最下部の基礎と対照的な形をとる。蓮弁や格狭間という装飾を施すことがある。
竿
もっとも長い柱の部分。雪見型に代表される背の低い灯籠ではよく省略される。円筒状が一般的であるが、四角形、六角形、八角形のものも見られる。節と呼ばれる装飾がよく用いられる。
基礎
最下部の足となる部分である。六角形や円形が主流。雪見型灯籠などでは3本や4本の足で構成される。 -
往生極楽院南側、弁天池の脇にたたずむ小さなお地蔵さまたち。
有清園の苔と一体となってきれいに苔むしており、もう何年も前からずっとたたずんでくださっているようです。
わらべ地蔵と名づけられたこのお地蔵さまたちは、石彫刻家の杉村孝氏の手によるものです。 -
金色水である。
三千院の「金色水」は、「福寿延命」の水として有名で、訪れた観光客の多くはこの水に手をぬらし、「福寿延命」を祈願するという。水は一年中枯れることはなく、夏は冷たく汗ばんだ体には気持ちいいが、冬は手に触れるには少し冷た過ぎるかも?
「金色水」が流れ落ちる裏側から弁天池を見ると、そのむこうに「宸殿」が美しく浮かび上がって見える。少し目を左に向けると、美しい苔の中にかわいい「わらべ地蔵」が横たわっていて、その周りには観光客がカメラを構えて群がっている…三千院でよく見る光景である。 -
延命の水なのだ
-
日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。古くから弁才天を祭っていた社では明治初頭の神仏分離以降は、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。瀬織津姫が弁才天として祀られる例もあるが少ない。
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弁財天
往生極楽院を過ぎ、金色不動堂に向かう参道脇に、弁財天が祀られています。
『京の七福神』のうちの一つとなっており、そのほかの『京の七福神』は恵美須(ゑびす神社)、大黒天(妙円寺)、毘沙門天(毘沙門堂)、布袋尊(長楽寺)、福禄寿(護浄院)、寿老人(行願寺)です。 -
七福神のご真言
おん そらそばていえい そわか
唱えればよかったか
金福になるかも -
宇賀神(うがじん、うかのかみ)は、日本で中世以降信仰された神である。財をもたらす福神として信仰された。
宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出された神、との説もある
この花はミヤコワスレ -
あじさいに時期は混むでしょうね。
-
金色不動堂
1989年(平成元年)4月建立の根本道場。智証大師円珍の作と伝える金色不動明王を本尊とする。 -
観音堂
1998年(平成10年)建立。身の丈3メートルの金色の観音菩薩立像が祀られている。
北小観音堂 - 小観音像を安置する。
南小観音堂 - 小観音像を安置する。 -
赤い花は
ヤブツバキ -
石楠花も
いいですね。
桜、紅葉もいいですが
石楠花は元々ヒマラヤの高山地帯に生える植物であり、採りに行くのに危険を伴うことから「危険」「警戒」という花言葉をもつようになりました。また、「威厳」「荘厳」は、高山の奥地に咲いている様子に由来しています。
その生息環境からなかなか目にすることができないことと、その美しい花から、手の届かない存在を表す「高嶺の花」といえば石楠花を指すといわれています。 -
石楠花の葉は「ロードトキシン」という毒性をもっており、嘔吐や痙攣、下痢を引き起こすとされています。特にハクサンシャクナゲの葉をお茶として飲用するときには注意するようにと厚生労働省も注意を促しており、2008年には北海道で中毒症を起こしたという方がいます。
また、欧米ではmad honey poisoningとも呼ばれており、マレーシアから持ち帰った石楠花のハチミツを食べた方が呼吸困難や視覚異常を訴えた例も報告されています。 -
三千院は天台宗派の寺院で、開基は最澄です。三千院は比叡山に建立された円融房に起源をもち、その後移転を繰り返し1871年に現在の場所に定まりました。正月に三千院を訪問すると、城郭を思わせる石垣に覆われた御殿門前に門松が置かれていました
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京都大原にある三千院付近は、古くから隠遁生活をする貴人が棲む地でした。大原にある三千院付近には惟喬親王(これたかしんのう西暦844~897年)や天台声明を成した良忍(1073~1132)などが古くから住んでいました
-
シャガ
-
紅白
が -
奉納
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紅白のシャクナゲ
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レンゲツツジ?
-
シャガ
-
律川にかかる赤い橋
-
この橋には二つの名前が付いています。三千院の方からだと「未明橋」、勝林寺側は「茅穂橋」と書かれています。
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何かに
-
わらべ地蔵が続きます
-
-
-
お地蔵様の
お母さま?
阿弥陀石仏(売炭翁石仏)
金色不動堂の北、律川にかかる橋を渡ったところに、鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が安置されています。
この石仏は高さ2.25メートルの単弁の蓮華座上に結跏跌座(けっかふざ)する、定印阿弥陀如来(じょういんあみだにょらい)で、おそらく「欣求浄土(ごんぐじょうど)」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物です。
またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになったと伝わっています。
炭竈のたなびく煙ひとすじに心細さは大原の里 (寂然法師) -
津川
の
青モミジ -
これも
イロハモミジともいう。
葉っぱには5つから七つの切れ込みがある。
その切れ込みをいろはにほへとと数えるらしい。 -
鎌倉石仏・おさな六地蔵
-
ミヤマヨメナ
-
さて
-
戻りますか
-
-
-
出てきました
-
土井
のぼり
あえて
柴漬けは買いません -
秋もいいけど
青モミジ
も最高 -
洛禅
雑貨店
大原バス停から三千院に向かう呂川沿いの道を上がって三千院の手前にあります。
茶屋風の平屋で広々とした店内でゆっくり買い物して頂けて、坂で疲れた方には休憩して座る 席も用意しておりますので、良い空気を吸って心も体もリフレッシュして頂ける店です。 -
創作雑貨・小物 こにし
黒檀、紫檀のお箸とある -
女ひとり歌碑
京都 大原 三千院
恋に 疲れた女が ひとり』で始まる男声コーラスグループのデュークエイセスが歌ったご当地ソングシリーズ「にほんのうた」の1曲です。 -
la bûche (ラブッシュ)
京都・大原にあるレストラン。
大原の地は、私が生まれ育った大好きな故郷です。
地域で大切に育てられた素材を主役に、薪焼き料理を提供。
日々変わるお野菜や、平飼い鶏、野生の鹿や猪など、その瞬間だからこそできる一皿を目指します。
また、そんな料理の表情をさらに引き立てるのは、大好きなナチュラルワイン。
フランスを中心に、個性豊かな一本を揃えています。
la bûcheにお越しいただくまでの旅路や、降り立った時の空気、目に映る景色・・・
この土地の全てをお楽しみいただければ幸いです。
la bûche は、フランス語で「薪」の意。
地元・大原の素晴らしい食材を主役にした、薪焼き料理を提供します。
一皿一皿の表情を引き立てるのは、個性豊かなナチュラルワインたち。
その瞬間ごとのすべての出逢いをお楽しみいただければ幸いです -
何ともかわいい
-
しぶ柿
本格的な藍染め衣服や、オリジナルのかばん、小物などを販売しています。お気軽にお立ち寄り下さい。 -
さわだ
湯豆腐セットは¥1,400 -
京都バス
-
17系統です
-
土井志ば漬本舗 本店
竈炊き立てごはん土井 大原本店 -
「大原の生しば漬」はナスと赤しそを塩のみで漬け込んだ、ほんとうに素朴なお漬物。乳酸発酵を生かした酸味が特徴です。現在では製造元が限られた大変希少なお漬物です。樽出しの他に、刻んだもの、しょうゆ等で調味したものをご用意しております。
-
神子ヶ渕
という
バス停
ここで降りて猫猫寺へと思っていましたが
やめます -
八瀬比叡山口駅が
先に
叡山電鉄本線 普通に乗って
出町柳へ
14分の旅 -
ではなく
高野川沿いを -
-
修学院駅前
バス停で降りました
是酔庵
居酒屋
釜めし少し時間がかかります。
のどぐろなど入り ¥1,500 -
フレスコ修学院店
私たちは1992年7月に、京都市山科区の勧修公設小売市場を前身として営業を開始。イタリア語で「新鮮・みずみずしい」を意味する「Fresco」を屋号にしました。
新鮮な食材と、地域の笑顔が集まるみんなの市場。特別な場所ではないけれど、毎日の暮らしのそばにある「みんなの公園」のようないつものお店。お客様から「やっぱりフレスコじゃないと。」とお声掛けいただけるお店にするため、私たちは日々奔走しています。 -
左から電車が
右は修学院駅
叡山電鉄です。
出町柳から八瀬比叡山口が叡山本線
宝ヶ池で乗り換えると鞍馬まで行けます -
観光列車「ひえい」 Sightseeing Train “HIEI”
1925年(大正14年)に比叡山延暦寺への参詣ルートとして開業した叡山本線(出町柳駅~八瀬比叡山口駅間)は、叡山ケ―ブル・ロープウェイとともに比叡山への京都側の足として、これまでも多くのお客さまにご利用いただいてきました。
観光列車「ひえい」は、京都中心部から八瀬、比叡山を経由し、坂本、びわ湖に至る観光ルート「比叡山・びわ湖<山と水と光の廻廊>」の道しるべとして運行しています。
京都中心部から気軽に行ける、身近な自然空間「八瀬・比叡山」へ。
大胆で新しいデザインの車両が、洛北の持つ、もう一つの京都の魅力を体感できる旅へと誘います。 -
展望列車「きらら」 Panorama Train "KIRARA"
展望列車「きらら」は、沿線の移り変わる景色を満喫しながら、ちょっとした旅気分を楽しんでいただけるように、大きなガラス窓を採用しており、木漏れ日を浴びながら「きらきら」と輝く外観が印象的です。
また、沿線の「雲母坂(きららざか)」は、修学院から比叡山に通じる登山道で、太平記にも登場するなど古来より京都の方々には大変なじみの深い地名です。
このようなイメージと、お客さまに愛される車両を目指していきたいという願いを込めて「きらら」と名付けました。 -
北山通りです
イオンスタイル修学院小町 -
右手に
京都中央信用金庫 修学院支店
ちゅうしんといいます。
創立 1940(昭和15)年6月18日
預金・譲渡性預金 5兆2,686億円 -
白川通り
ここ
修学院道
バス停 -
スポーツカー
なんですが
遠いですね -
-
緑峰苑
-
-
祠
卍{左まんじ}とは
日本では、奈良時代の薬師寺本尊である中尊の薬師如来の掌と足の裏に描かれたものが現存最古の例とされる。卍を組み合わせた、紗綾形(さやがた)は安土桃山時代に明から輸入された織物に見られた文様で、染め物や陶磁器などに使用される -
建物探訪
えっ -
-
一乗寺・修学院の界隈は美しい庭園のある曼殊院や詩仙堂、宮本武蔵と吉岡一門が戦ったとされる一乗寺下がり松や、武蔵ゆかりの八大神社などのスポットが点在します。また、和洋折衷のスイーツで有名な一乗寺中谷、個性的な本のセレクトショップ・恵文社一条寺店といったスポットも人気です。比較的近い距離に観光スポットが固まっており静かにゆっくりと散策することができます。
左上に曼殊院があります。
ちょっと歩きでは -
慶長6年(1601年)徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。
圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許しました。また、孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称されています。当寺には出版に使用された木活字が現存しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえるでしょう。
寺内には本尊千手観世音菩薩坐像(伝運慶作)・開山元佶禅師頂相(重文)・雨竹風竹図屏風六曲一双(円山応挙作・重文)・日本最古の木製活字約五万個(重文)があります。
山門を入ると、枯山水「奔龍庭」、苔と紅葉の美しい「十牛之庭」があります。洛北でもっとも古い池といわれる栖龍池、澄んだ音色が響く水琴窟とともに洛北の静寂さをかもしだしております。 -
庭園
十牛之庭
石庭
奔龍庭(ほんりゅうてい)
とある -
十牛之庭
禅の悟りに至る道。
牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして、近世初期に造られた池泉回遊式庭園です。十牛図に描かれた牛は、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が禅の悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です。庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池があります。 -
奔龍庭
龍が奔り 雲海が煌めく。
渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組であらわした平成の枯山水である奔龍庭。 -
圓光寺
拝観しました
ことに -
清風、万里ノ秋
せいふう、ばんりのあき
昨夜一声ノ雁の対句です。
昨夜は渡り鳥雁の声に秋の到来を思った。
今朝目覚めると何処もかしこも秋の気に満ちている。
実に気持ちいい朝だ。 -
八大神社
大祭の宵々宮にあたる5月3日の夜に、祭礼を盛り上げる野外コンサートを4年ぶりに開催します!
鎮守の杜の境内で、御神輿の灯りの中、伸びやかな歌声が夜空に響きます。
あわせて、八大神社宮座の下座座員による奉幣太鼓・鉦(ほうへいたいこ・かね)も披露されます。
どなたでもご自由にご覧いただけますので、お誘い合わせの上、是非お越しください。
□出演 シャンソン歌手 文太郎
八大神社宮座下座
□開演 午後7時
□入場料 無料
※雨天の場合は中止の予定です -
宵宮祭では6色の大風流花笠が氏子地域を巡行。
20:00頃には、神社から下がり松にかけてかがり火が焚かれます。
神幸祭では、御輿、重要文化財の剣鉾などが巡行。
一乗寺一帯の各町から出発し、15:00頃から八大神社に集まります。 -
蔵に
興味 -
←曼殊院 1K位か
延暦年間(728~806)、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりである。
その後
明暦二年(1656)になり、桂離宮を創始された、八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王が入寺され、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。
「わび」
質素なもの、貧相なもの、不足の中に心の充足を見出そうとする意識
「さび」
静かでさびしさの中に奥深いもの、豊かさを感じること
醜い中にも美しさを 卑しい中にも尊さを
貧しい中にも豊かさを まづい中にも美味しさを 苦しい中にも楽しさを
良尚法親王はここ曼殊院で、「侘びの美・さびの美」の世界に生きられた文化人でした。 -
詩仙堂 (丈山寺)
詩仙堂は、正しくは「凹凸窠(穴冠に果)」(おうとつか)と呼びます。凹凸窠(穴冠に果)とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
凹凸窠の中心には、江戸時代の絵師、狩野探幽(1602年~1674年)が描いた中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画があり、各詩人の肖像画の頭上には、石川丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。
四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としていることから、現在は「詩仙堂」と呼ばれています。 -
住職から一言
石川 順之
住職
「詩仙堂」を訪れる皆様は毎日の喧騒からのがれ、心のやすらぎを求めるため来られる方が多いと思います。
山門をくぐった時と帰られる時の気持ちが、少しでも心静かになり「来てよかった」と思っていただくことが多くなるような環境作りに勤めております。
どうぞゆっくりと縁側に腰をおろし、丈山が過ごした頃に思いを馳せ、ひとときを過ごしていただきたいと思います。
皆様の心が少しでも洗われますように念じております。 -
通り過ぎて
八大神社へ -
創祀は不詳ですが、永仁2年3月15日(1294年)に八大天王(はちだいてんのう)が勧請されました。
京都の洛北一乗寺地区の産土神様、氏神様。
祇園八坂神社と御同神をお祀りし、北天王(北の祇園社)とも称され京の表鬼門に位置し、方除、厄除、縁むすび、学業の神様として古くから多くの人々の崇敬を集めます。
後水尾(ごみずのお)天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の際にお立寄り白銀等の御奉納がありました。
明治6年10月5日藪里牛頭天王(やぶさとごずてんのう)社
明治7年3月5日舞楽寺八大天王(ぶがくじはちだいてんのう)社を合祀。
大正13年幣帛供進神社に指定されました。
剣聖宮本武蔵が、境内地である「一乗寺下り松(さがりまつ)」に於いて吉岡一門と決闘し、その決闘の前に奉拝した神社としても知られ、境内には決闘当時の「下り松」古木が祀られています。
現在の御本殿は大正15年造営、流造社殿、総尾州檜造り。 -
神社を参拝する際には手や口を清める風習があり、これを手水(てみず、または、ちょうず)と呼びます。手水舎は、手水をおこなう建物のことです。中央の部分に水をたたえた桶の「水盤」が設けられ、柄杓が置かれています。神社・寺院の入り口、参道、社殿の脇に設置されていることが多いです。
龍の口から水が流れ出る手水舎は、龍が水を司る神様として崇められていたことが由来とされています。龍以外に、ウサギや亀のモチーフが使われていることもあります。手水舎に取り入れられたモチーフにより、神社の特色を伺い知ることができます。 -
ここでは手水の基本的な作法と注意点を紹介します。
1.心を落ち着かせる
心身を清めることが、手水の主な目的です。そのためには、心の平静を保つことが大切です。まずは鳥居の前で一礼をし、神様に挨拶をします。その後、手水舎に着いたら手水の前に心を落ち着かせてください。邪念を払い、落ち着いた気持ちになれたら軽く一礼をします。
2.右手で柄杓を持って左手を清める
作法では、柄杓(ひしゃく)を持つ手が決められています。まずは右手で柄杓を持ち、水をくみます。そのまま左手に水をかけて清めます。
柄杓には、たっぷりと満杯になる程度まで水を入れてください。柄杓の水はこの後も使うため、すべてを左手にかけないように注意が必要です。3割くらいの量を目安に使うようにします。
3.左手で柄杓を持って右手を清める
続いて、柄杓を左手に持ち替えます。このとき、水をこぼさないように注意してください。持ち替えたら、左手と同様に3割くらいの水を使って右手を清めます。
4.右手で柄杓を持って口を清める
両手を清めたら柄杓を右手に持ち替えます。左手に水を注ぎ、口をすすいでください。衛生面が気になる場合は口を漱ぐ真似をします。この時、柄杓の水は、少し残しておくのがポイントです。
5.両手で柄杓を持って持ち手部分を清める
口と両手を清めたら、使用した柄杓の柄を清めます。両手で立てるように持ち、柄杓の中に残っていた水を持ち手部分に流してください。このとき、勢いよく柄杓を立てると衣服が水で濡れる場合があります。
なるべくゆっくり立てて、水しぶきを立てないようにするのがコツです。清め終わったら柄杓を元の場所に戻し、軽く一礼をしてから離れます。 -
柄杓はありませんね
コロナで -
龍の口から水が流れ出てくる「手水舎」を良く見かけますが、これは龍が水を司る神様である事に由来しているそうです。
ウサギがいます。
東京の穴八幡宮は布袋様がお水を流すそうだ
それに
花手水 -
初
御朱印を
いただきました。
両面開きで -
一乗寺下り松
この石段より上で
と
注意書き
犬を乗せないでください -
八大神社は、京都洛北一乗寺地区の氏神様として、祇園八坂神社と御同神をお祀りし、方除・厄除・縁結び、学業の神様として古くから多くの人々の崇敬を集めます。 本殿の前に盛られた一対の砂山は、立砂と称され、清浄を示す意味合いなどから、砂を盛るかたちが現在も伝承されています。
-
二つの立砂は神が降臨した神山(こうやま)をかたどって円錐形になっています。
盛砂(もりずな)とも云い、「たつ」とは神様のご出現に由来した言葉であり、神代の昔ご祭神が最初に降臨された、本殿の後二kmにある円錐形の美しい形の神山(こうやま)に因んだもので、一種の神籬(ひもろぎ)(神様が降りられる憑代(よりしろ))である。鬼門・裏鬼門のお砂を撒き清めるのは此の立砂の信仰が起源で、「清めのお砂」の始まりである。 -
宮本武蔵
武蔵は京に上り「扶桑第一之兵術」の吉岡一門と戦った。吉岡家は代々足利将軍家の師範で、「扶桑第一兵術者」の号であった。足利義昭の時に新免無二を召して吉岡と兵術の試合をさせた。三度の約束で、吉岡が一度、新免が二度勝利した。それにより、新免無二は「日下無双兵法術者」の号を賜った。このこともあって、武蔵は京で吉岡と戦ったのである。
最初に吉岡家の当主である吉岡清十郎と洛外蓮台野で戦った。武蔵は木刀の一撃で清十郎を破った。予め一撃で勝負を決する約束だったので命を奪わなかった。清十郎の弟子は彼を板にのせて帰り、治療の後、清十郎は回復したが、兵術をやめ出家した。
その後、吉岡伝七郎と洛外で戦った。伝七郎の五尺の木刀を、その場で武蔵が奪いそれで撃ち倒した。伝七郎は死亡した。
そこで、吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。
この一連の戦いにより、吉岡家は滅び絶えた。 -
下り松古木
宮本武蔵の決闘の時代の前から明治時代まで生きた一乗寺下り松の大木の一部は、現在、八大神社境内の本殿西側に御神木として大切に祀られ、広く崇敬を集めます。毎年、5月の大祭と正月の前に、注連縄が新しくされます。 -
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本殿
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12か月定期郵送
(令和5年7月~令和6年6月)書置き
【予約申込】
初穂料6,000円+送料1,200円=7,200円 -
京都 洛北エリア御朱印巡りルートコース
三千院周辺ルートコース
三千院
宝泉院(ほうせんいん)
実光院(じっこういん)
勝林院(しょうりんいん)
来迎院(らいごういん)
寂光院(じゃっこういん)
出世稲荷神社
三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)
蓮華寺(れんげじ)
祟道神社(すどうじんじゃ)
赤山禅院(せきざんぜんいん)
曼殊院(まんしゅいん)
八大神社
圓光寺
詩仙堂 -
さて
詩仙堂 -
日本の心を映す、
情緒あふれる山荘跡
京都市左京区一乗寺にある詩仙堂は、江戸時代の文人・石川丈山の晩年を過ごした山荘跡です。現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺としても知られており、連日多くの方にご参拝いただいております。
また当寺は、四季折々の景色や日本ならではの風情が楽しめる場所として、過去には英国王室チャールズ皇太子と故ダイアナ妃が訪れたことでも有名です。京都にお越しの際は、ぜひ当寺をご参拝ください。 -
詩仙堂は、正しくは「凹凸窠(穴冠に果)」(おうとつか)と呼びます。凹凸窠(穴冠に果)とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
凹凸窠の中心には、江戸時代の絵師、狩野探幽(1602年~1674年)が描いた中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画があり、各詩人の肖像画の頭上には、石川丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。
四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としていることから、現在は「詩仙堂」と呼ばれています。 -
拝観料:500円
-
庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された庭園「百花塢(ひゃっかのう)」は四季折々に楽しむことができ、特に春(5月下旬)のサツキと秋(11月下旬)の紅葉が有名で観光客で賑わう。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつ。一般にししおどしとして知られる、添水(そうず)と呼ばれる仕掛けにより時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性とともに、静寂な庭のアクセントになっており丈山も好んだという。
ところで
この
障子窓の形がすでにおもしろい。
簡素ながら独自の世界観がぷんぷんです。 -
屋根が瓦と茅葺の二重の屋根が見ていてあきない。その比例配分も感動します。
屋根の上には物見台? ベランダみたいのもあったりでかなりおもしろい建造物。 -
石山丈山は江戸初期の風流人。元々は徳川家康に仕える武将でしたが、
「大阪の陣」のあと、隠棲することに。
儒学、朱子学者でもあり、師匠は藤原惺窩。林羅山とも親交が深かった。
歌を詠み、書道、作庭が好きで、多岐にわたって才能を発揮した。
いまで言えば、学者であり、小説家であり、空間デザイナーでもあるマルチクリエイターと言えるかも。
さらに、煎茶の祖といわれるように、茶を初めて煎じた人とも言われる。
そんなセンスの塊のような人が作った山荘、当然センスがいい。 -
中には
入りません -
苔むした茅の屋根と竹の簡素な門が美しい
竹林の中を抜けるアプローチがまたいい。
篭る感じがいかにも鄙びていい感じ。 -
石山丈山が生きた安土桃山時代から江戸時代初期は、完全に侘び寂びがブーム真っ只中。
その影響を色濃く反映してます。 -
一乗寺の里
ちりめん山椒
山椒おこぶ
京つけもの
京友禅
和雑貨
でっち羊羹
鳩もち -
蔵
-
笹川孝造商店
錦金らん地とある
金襴【きんらん】
紋織物の一種。綾(あや),繻子(しゅす),琥珀(こはく)などの地に緯糸(よこいと)に金糸を用いて模様を織り出したもので,模様の部分だけ金糸を織りこんで絵緯(えぬき)にしたものと,地を金糸で織り,模様を地緯(じぬき)(地の色を抜いて模様を表す)にしたものがある。地質は絹が多いが,綿や交織もある。おもに帯,袋物,表具地,能衣装などに用いる。もとは中国から輸入されたが,桃山末期から西陣でも織られるようになった。古いものは名物裂(ぎれ)として茶人に珍重された。なお金糸の代りに銀糸を用いたものは銀襴という。 -
「花の生涯」 舟橋聖一とある
花の生涯』(はなのしょうがい)は、舟橋聖一の歴史小説。1952年から1953年にかけて『毎日新聞』紙上で連載された。現在は祥伝社文庫版が刊行されている。
幕末の大老・彦根藩主井伊直弼を主人公に、その波乱の生涯を描いている。
村山たか女隠棲の地とある
たか女晒し者の図(金福寺蔵)
村山 たか(むらやま たか、文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女性。舟橋聖一の小説『花の生涯』のヒロインとして知られる。別名村山加寿江(かずえ、可寿江とも)。
生涯
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。
20歳になり京に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であったために自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。その際彦根城下で部屋住み生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。やがて直弼が大老となり、江戸に移った後2人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる反幕府勢力の情報を江戸に送る間諜となり、大獄に大きく加担した。日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。
1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられるも女性ということで死罪を免れたが、三条河原に3日3晩晒された。しかし、息子の多田帯刀は母親のかわりに土佐藩士・長州藩士によって斬殺され、首を晒されている。
その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)死去。墓は金福寺の本寺である円光寺にあり、金福寺には詣り墓がある。 -
先は
浄土宗
稱名寺は
非公開寺院 立ち入り禁止 無断写真アップ禁止 -
和モダンな
-
シャクヤク
-
あれが
八大神社
参道の鳥居 -
-
道標
左は右詩仙堂、圓光寺とある
右の道標は狸谷不動明王道とある -
宮本武蔵悟りの地
-
宮本武蔵・吉岡一門の決闘で知られる八大神社境内地「一乗寺下り松(さがりまつ)」は、古くからの交通の要所で、松の前で道が2つに分かれます。北へ折れると白鳥越え、東へ折れると今道越え、共に、比叡山を経て近江へ通じる、平安時代からの古い街道です。
-
曼殊院道を進む
-
お顔にみえませんか?
-
テクネジャパン
-
一乗寺中谷
和菓子店
三代にわたり一乗寺の郷土銘菓でもある、
でっち羊かんを作り続けている、老舗の和菓子処です。
昔ながらの伝統を受け継ぐ和菓子づくりに心を込め、
和と洋を融合させた新しい感性のスイーツを生み出しております。
「一乗寺中谷」でしか味わえないお菓子を是非ご賞味ください。 -
看板ですが
偶然
右の看板が
ここから曼殊院まで1,3K -
左は
一品料理 平安
居酒屋
右は
しみず整体院
あなたのお悩み・既往歴をしっかり聞きます
身体の隅々まで検査します
身体がどういう状態かわかりやすく説明します
今度こそ本当の原因を徹底追求します
身体の変化を実感していただきます
自分で自分をケア出来るようになっていただきます
結果に後悔しない施術を行います -
白い建物
あいかむ
定食屋
右
麺屋 龍玄
ラーメン屋
中華そば(並)
850円
見た目は黒く濃そうなスープながら、濃すぎ無い適度な醤油の香りがチャーシューとよくマッチし、独自の麺にスープが良く絡みます。
毎日食べても飽きない、京都の古き良き時代から継承されてきた中華そばです。
龍玄ごはん
500円
スタッフの賄いからメニューに!
あったかご飯の上にモヤシ、チャーシュー、卵焼き、キムチのあるもの乗せちゃえ的なトッピング(笑)
よだれが -
さくらキッチンバー
白い店 -
一乗寺とうふ
口コミ
週一で必ず食べています。 私のお気に入りは木綿豆腐と揚げとおから。木綿豆腐は外側が少し固い感じが好き!大きな木綿豆腐を手揚げしてできる揚げもとてもジューシーで美味しい。豆腐がごはんの主役になっちゃいます。おからも豆の味がしっかりして変な臭みはないので、スコーンやクッキーにして食べてます。 -
おから
いいな -
和音どれみ
-
Doppio Zero (ドッピォゼロ)
イタリア料理 -
Vegan&Gluten Free Mushiyashinai むしやしない
アレルギー対応・グルテンフリー、ヴィーガンetc...
世界で唯一の豆乳パティシエ「うのゆきこ」による「すべての人を笑顔にするために」がコンセプトのケーキやお菓子のお店です。 -
インキョカフェ
-
修学院ゆう薬局
白い建物
RAVENALA CUT&STAND
美容院
美容室ではない美容室
あなたの暮らしを日々の髪で豊かにできる場所
あったかくて、ホッとできる、家族といるような場所
髪を切らなくても、遊びにいきたいと思ってもらえる場所
何か小さな幸せのかけらを探せる場所
髪はあなたの心そのもの
髪を通して”あなた”を表現するお手伝いをする
そんな場所です -
一乗寺から叡山本線に
出町柳まで電車で -
賀茂大橋
-
今出川通の橋。大正時代の都市改造に
より、今出川通が拡張・延長され、その
東西を結ぶ橋として建設された。設計は
京都市役所や京大本館(時計台)を設計
した武田五一。 -
そして、鴨川に架かる橋の中では最長で、橋長142mを有します。
-
わりと真新しい状態ですが、建設から80年以上経過し、老朽化がすすみ耐震性も不足していたため、平成27年度から補修工事が行われ、令和3年2月に完成したのが現在の賀茂大橋。
-
中央の鴨川デルタ(三角州)を境に西側から流れ込む賀茂川とそれに架かる出町橋、東側から流れ込む高野川と河合橋。さらに地元民が水遊びをする憩いの場・飛び石も見え、この時も小さな子供たちが渡っていくのを目の当たりにしました。そして、背景に連なる北山や東山。さらに鴨川デルタの北には下鴨神社・糺の森の緑が広がります。鴨川の中でも最も風光明媚な場所と言えます。
-
広域避難場所
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すみれフローリスト
花屋 -
-
茶房 いせはん
茶房いせはんについて
外観四季折々いろいろな表情を見せてくれる鴨川や、下鴨神社、京都御所に程近い出町にございます甘味処です。
丹波大納言小豆など、厳選した国産の素材を使用し、毎日一つひとつ丁寧につくる甘味をご提供しています。
看板メニューのあんみつの他にも、自家製のアイスクリームを使ったパフェや、春にはあまおう苺、夏はかき氷、秋には丹波栗を使ったメニューと、季節ごとに様々なメニューをご用意しております。
また、京都小川珈琲さんのコーヒーや柳桜園茶舗さんのお抹茶を使用したお飲み物などもご用意しておりますので、お気軽にお立ち寄りください。 -
当店のこだわり
イメージ「甘味で身も心もほっこりとしてもらう」をコンセプトに、厳選した素材を使用し、手作りにこだわった商品をご提供しています。
特に、あずきは大粒の京都府産丹波大納言のみを使用し、一粒一粒選り分け、2日をかけじっくり炊き上げています。
また、お餅は向かいの「出町ふたば」さんにお願いし、おぜんざいに合う大きさに作っていただいています。
お抹茶は柳桜園茶舗さんのものを使用。あんみつ等に入る抹茶ゼリー、パフェに使用する抹茶アイス、夏には氷用の抹茶蜜にたっぷり贅沢に使っています。
黒糖は沖縄県波照間のものを、これもまた黒糖ゼリー、あんみつ用黒みつ、氷用黒みつと、それぞれに合わせ使用しています。
その他、本わらび粉を使用したわらびもちや、寒天、きなこ、白玉、豆乳にいたるまでも国産にこだわっています。
丹波大納言小豆は、丹波地方を中心に兵庫県・京都府などで古くから栽培される小豆で、風味や香りがよく、大粒で艶があり、煮くずれ、皮切れしにくいという特性があります。
年間収穫量は北海道産小豆に比べ1%程度の生産量ということで、手に入りづらいですが、当店では京都産、そして大粒な品種の中でも大きなサイズのものにこだわって使用しています。
また、炊き上げた際に、豆の形が残り、程よい柔らかさで、食感はもちろん余分な甘みを抑え、豆本来の風味が生きるようにし、丹波産の小豆の特徴を最大限に発揮出来るよう工夫しています。 -
出町妙音堂(妙音弁財天)
-
鴨川に架かる出町橋の西詰,買い物に来た人々の信仰を得ているのが,出町の妙音弁財天です。六角堂には弘法大師筆と伝える妙音弁財天の画像が祀られています。
この画像は北朝の崇光天皇から皇子で伏見宮家の始祖となられる栄仁(よしひと)親王へ伝えられ,伏見殿内に建立されたのが始まりです。江戸時代になって14代貞建(さだたけ)親王の時,宮家の移転により河原町今出川下る東側に遷座しました。18代貞敬(さだよし)親王によって邸内が一新され,妙音堂も改築され,庶民の参拝も許されるようになりました。
明治になって一旦東京の宮邸へ移されますが,明治34年,地元の人々の請願により旧宮邸に近い現在の地に鎮座されるところとなりました。 -
出町橋
若狭街道の出発点(鯖街道口)。江戸
時代以来、洛北から京都市街への出入口
として重要な橋だった。かつては、加茂川
と高野川の両方をまたいで出町と出町柳を
一気に結ぶ長大な橋だった。大正7年に
出町橋と河合橋に分割された。 -
一級河川
鴨川
向こうの橋は
加茂大橋 -
糺の森(ただすのもり、糺ノ森とも表記)
-
京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。
賀茂川と高野川の合流地点に発達した原生林で、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。森林の全域が1983年(昭和58年)に国の史跡として指定を受け、保存されている。また、1994年(平成6年)には下鴨神社全域が世界遺産に登録されている。 -
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
国際連合教育科学文化機関(UNESCO=ユネスコ)の世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。 -
【明治時代以降の出来事:下鴨神社】
明治維新後に神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、下鴨神社の神宮寺が廃寺になりました。
1871年(明治4年)に下鴨神社が官幣大社(かんぺいたいしゃ)に列せられました。
1883年(明治16年)に勅祭社に定められました。
1884年(明治17年)から葵祭が5月15日に行われるようになりました。葵祭はかつて旧暦4月の中の酉(なかのとり)の日または二の酉の年は下の酉の日に行われていました。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に列せられました。
1994年(平成6年)に下鴨神社はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
これは下鴨神社境内図
上の方にみたらし団子発祥地がある
みたらし団子の起源は、京都市左京区下鴨の下鴨神社が行う「御手洗祭」「葵祭」とされる[1]。これらの祭りの際に神前に供えるため、氏子の家庭で作られていた団子が、やがて境内の店で売られるようになり、名物になったという[1]。異説もあるが、境内(糺の森)にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して、この団子がつくられたとされる[1]。
元々は、竹の先を10本に割って串を扇状にし、各々の串に5個の団子を差した合計50個の串団子である。この5個ずつ差す団子のスタイルの起源説は2説ある。
鎌倉時代から建武政権期、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つ大きな泡が出て、続いて4つの泡が出てきた逸話による説がある[1]。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を表している[1]。この団子が池の名前から「御手洗団子」となった。
本来は醤油のつけ焼きだったものの、やがて葛餡かけになった。
関東では団子が4個の方が多い。これは四文銭ができたことによるとする説が有力である(団子1個が1文。四文銭で団子1串)。
この団子に独特の味つけを施したのが、前述の下鴨神社の氏子であった菓子店・亀屋粟義の主人であった。この団子は、商品化された1922年頃には生醤油のみをつけて焼かれていたが、太平洋戦争後、黒砂糖を加え葛粉でとろみをつけた餡をからめる趣向が考え出され、製品化された団子は人気を得ることとなった。他に、大正の頃に加茂みたらし茶屋の店主が醤油と黒砂糖を使ったたれを考え出し、これが好評を博し全国に広まったという説もある[要出典]。 -
旧三井家下鴨別邸です。
旧三井家下鴨別荘は下鴨神社の南側にあります。三井喜多家族10家すべての本家である第1909代当主・高峰八郎右衛門が、三井家全員の別荘として設立した。一家は1925年に安芸名霊社を建て、この場所に先祖の霊を祀っています。高峰は神社を訪れた際に休憩所を必要とし、1949年にこの巨大な邸宅を委託しました。一家は木屋町地区に別の住居を持ち、本館を現在の場所に移転しました。別荘は1951年に国に移されました。2007年から1912年まで京都家庭裁判所長官の住居として使用されていました。大正時代(1926-2011)の本館をはじめとする広大な住宅地は、見事に整備されており、大規模な古典的日本邸宅の好例として高く評価されています。<>年に重要文化財に指定されました。 -
本館
本館の南側には、開放的で明るい雰囲気の素晴らしい庭園があります。3階には望楼があり、そこから鴨川と東山尾根の素晴らしい景色を楽しむことができます。それはまた庭全体のデザインの主要な構造的ハイライトであると考えられています。
※2階・3階は特別開館期間以外は非公開です。
エントランスホール
エントランスホールは、再配置されたときに本館に追加されました。建築構造は日本の古典的な書院造り様式を踏襲していますが、天井は高く、内部はカーペット、テーブル、椅子が置かれているため、西洋風のスタイルを示しています。
茶室
庭園に面した茶室は、従来の3.4畳の部屋の隣に5畳の部屋が増設されているため、一般的よりも開放的で広い空間になっています。奥には別のミニ茶室があり、煎茶や茶の湯(抹茶)などの茶道スタイルに適応できます。
※非公開 -
庭園
建物の前には見事に手入れされた苔庭が広がっています。南側には泉川から水を汲むひょうたん型の池があります。石橋は南の池の上にあり、曲がりくねった散歩道が続き、石灯籠と大きな鞍馬石が配置された小さな人工丘があります。 -
-
鴨社資料館 秀穂舎
(かもしゃしりょうかん・しゅうすいしゃ)、下鴨神社の学問所絵師であった浅田家の社家住宅が鴨社資料館として公開された。社家の日常生活を復元した資料が展示されている。
下鴨神社の社家として残る数少ない建物「旧浅田家」が、下鴨神社の資料館として2016年オープンしました。糺の森に向かう参道を進むと途中に泉川に掛かる橋(分かりにくいですが)があり、その右手前が「鴨社資料館・秀穂舎」です。 -
かつては下鴨神社周辺には340軒ほどの社家があったそうですが、現在まで残っているのはこちら浅田家と鴨脚家(いちょうけ)の2軒のみだそうです。江戸時代中期に建造されました。明治以降は民間に払い下げられ京都市長宅にもなりましたが、最終的に下鴨神社が買い取り、資料館として整備したものです。
玄関脇には学問の神様風の石像が立っていますが由緒は不明です。 -
糺すの森
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世界文化遺産碑
が右手に -
神社、境内、史跡、糺すの森を
守るための注意書きが
左に -
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河合神社
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「さわた社」は雑太社、澤田社とも書き、かつては糺の森の中、現在の「第一蹴の地」石碑横に所在していました。 御社殿の腐朽から戦後まなしに解体を余儀なくされ、摂社三井神社に合祀されていましたが、平成29年(2017)第34回式年遷宮事業の一環として再興されました。
御祭神の神魂命(かんたまのみこと)の御神名から、魂は玉に通じるとして球技上達の御神徳があるといわれています。下鴨神社では毎年正月の4日には「蹴鞠初め」がおこなわれます。 -
ラグビー
好きです。
昭和44年(1969)に、旧制第三高等学校の蹴球部OBによって「第一蹴の地」の記念碑が建立。
紅葉橋は、糺の森を流れる奈良の小川に架けられた橋。 -
石碑
なんだったか
世界文化遺産? -
京都・下鴨神社の摂社のひとつ「河合神社」は、古くから女性守護の信仰を集める神社。縁結び・美麗・安産・育児にご利益があるとされています。ここにしかない噂の「美人水」とは? 美人になりたい・良縁が欲しい!という方は、ぜひ参考にしてください。
-
下鴨神社へ南北に伸びる表参道。「糺の森」の入り口近く、西側に「河合神社」が祀られています。まっすぐに「下鴨神社」を見つめて歩いていると、うっかり見落としてしまうかもしれません。
「河合神社」の創建は定かではありませんが、その歴史は日本の初代天皇・神武天皇の時代、つまり紀元前まで遡ると言われています。
ご祭神は、神武天皇の母・玉依姫命。玉のように美しいことから名付けられたとされ、美麗の神様として信仰されています。 -
「河合神社」では、とくに美麗祈願として奉納する「鏡絵馬」が女性たちに人気を集めています。顔が書かれた絵馬に、普段使用している化粧品で美しくメイクを施し裏に願いを書きます。
こうして、外見だけでなく内面まで美しくなりますようにと願いを託しましょう。 -
「下鴨神社」の境内にはカリンの木がたくさん生息しているそう。
咳止めなどで知られるカリンの実には、美容効果も期待できることをご存知ですか? ビタミンCやタンニン、クエン酸などの成分が豊富に含まれているため、若々しいお肌を作るとされています。
ということで、「下鴨神社」の「カリンの庭」で収穫された黄金色のカリンの実と、ご神水で作られたありがたい美容ドリンクがこちらの「美人水」です。「河合神社」境内の売店で販売中。夏は冷やして、冬はホットをその場でいただくことができます。
その味は……クセがなく自然の優しい甘みが喉にスッキリ染み渡り、ついもう一杯がほしくなってしまうほど。 -
末社
の一つ -
河崎社
-
第一蹴の地碑
下鴨神社の敷地内にある糺の森にある「第一蹴の地」と記された石碑
には,明治 43 年(1910 年)慶應義塾の学生が,京都の第三高等学校の
学生にラグビーを伝え,関西の地で初め
てラグビーボールを蹴ったと記載されて
います。今から遡ること 100 年以上前
に,この地で関西ラグビーが発祥したこ
とを伝えるもので,昭和 44 年(1969 年)旧制三高関係者の手によって建立さ
れました。この度,そのすぐ傍に,雑太社(さわたしゃ)という神社が再興
され,同神社には,神魂命(かんたまのみこと)という神様が祀られ,蹴鞠
やサッカーの神様,魂は球に通じるとされる。同地では,ラグビーのほかに -
もここではさまざまなスポーツ大会が開かれてきたという由緒ある場所であり,今日も多くのラグビー関係
者が訪れる関西ラグビーの聖地でとなっています。雑太社には,関西はも
とより,全国各地のラグビーに想いを寄せる方々の想いをつづった絵馬を
見ることが出来ます。すでに下鴨神
社という名前がすでに全国のラグビ
ーファンに浸透し始めている事実を
如実に物語っていると言えるのでは
ないでしょうか? -
垂水(たるみ)
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平成27年・第三十四回・式年遷宮事業の一環として、垂水の復旧工事にかかりました。昭和33年、戦後復興期のなかで式年遷宮事業にて造替が計画されましたが実現しないうちに倒壊し、撤去してしまいました。ようやく、この度、60年ぶりに再現をみることができました。言ってみれば、いまだに戦後が続いているのです。
垂水と言うのは、どこの神社もお寺さんにも手水舎が参拝者のために備えてあります。下鴨神社の場合は、歴史的にみれば行幸、御幸は、いとまなく御親齋、御親拝がおこなわれ、そのせつに御手水、解除に続いて、垂水がおこなわれます。
宮中へ鴨氏が奉仕にあがっているなかで、氏人の一員のお役が主水司(もんどのつかさ)でした。常にお水に関わったこと、明かりや薪炭のことなどを司るお役としてあがっていました。
御親齋や御親拝のせつには、御手水は、主水司が御奉仕をし、解除(げじょ・お祓いのこと)は、宮主(みやじ)が奉仕をいたしました。古い時代から御親齋(ごしんさい・御自から御祭されること)にさいしては、唐戸(からと・御本宮まじかの御扉のこと)に御入りのせつ御垂水を御奉仕するのも宮主の奉仕が慣わしとなっていました。
垂水は、神奈備(かんなび・神々の鎮まるところ)の糺の森の木々の葉の露を両手にお受けになり、御体をうるおされることによって自然の神々の大きなお力を得て御生(みあれ)される儀礼でありました。
この度の御遷宮により賀茂斎院御歴代の斎王さまの御神霊のお社が御造替になり、それに連れて、お社の南側に御垂水を御再興になります。
近年、糺の森の植生状況は、過動期にあり樹齢百年単位の樹木と若木の入れ替わりが激しく、今回、垂水の再興にさいして、昨今の長雨により倒木した老木を用いることにいたしました。 -
白馬
と
白装束の宮司 -
神馬
乗りたかったっと -
賀茂斎院御歴代斎王神霊社
下鴨神社賀茂斎院歴代斎王神霊社は糺の森(ただすのもり)に祀られている下鴨神社の末社です。賀茂斎院歴代斎王神霊社は2018年(平成30年)4月に再興されました。4月18日夕方にご神体を移す遷座祭が営まれ、ご神体が葱華輦(そうかれん)に乗せられて遷されました。賀茂斎院歴代斎王神霊社は平安時代前期の第52代・嵯峨天皇の時代(809年(大同4年)~823年(弘仁14年))に勧進されたとも言われ、古くから祀られていたとも言われています。公家の日記などを抜粋・編集した歴史書「百錬抄(ひゃくれんしょう)・鎌倉時代後期の13世紀末頃編纂」の1151(仁平元年)7月4日の条に「一院供養河東御所内中嶋御塔」と記され、平安時代後期に糺の森の鴨社頭賀茂斎院御所の池庭の中嶋に賀茂斎院歴代斎王神霊社が祀られていたことが記されています。1894年(明治27年)に調査編修された「賀茂御祖神社御事歴調記」に河崎社(こうさきのやしろ)・斎院鎮守御社合社と賀茂斎院御代々神霊社が合祀された記録があります。1958年(昭和33年)の第32回式年遷宮の際に造替の計画が進められ、祭神は摂社・三井社の末社に仮遷御され、社殿が撤去されました。2015年(平成27年)の第34回式年遷宮の際に再興が計画されました。なお賀茂斎院歴代斎王神霊社には歴代35人の斎王が祀られています。 -
TRP
高宮ライディングパーク -
京都市右京区京北上中町にある?宮ライディングパーク。
緑に囲まれた42,000m?の広大な土地の中で、本格的な馬術レッスンが受けられる乗馬クラブです。
当パークには競走馬の休養厩舎も併設されており、リハビリ中の現役競走馬も復帰に向けトレーニングを積んでおります。
当パークでは、本格的に馬術を習得されたい方や、乗馬経験者に満足いただける乗馬レッスンメニューをご用意。
優秀なスタッフが丁寧に一からしっかり教えます。レッスン後は、山の逍遥道でリフレッシュできます。 -
-
同行者
がトイレに -
献木
樋口さん -
泉川
花が
糺の森
太古の自然を遺す森
糺の森は、縄文時代から生き続ける広さ3万6千坪の森。国際文化都市・京都の中心に位置し、その昔は150万坪にも及んでいたと伝えられています。ケヤキ、エノキ、ムクノキなどの広葉樹を中心に、古代・山背原野の樹林を構成していた樹種が自生。樹齢6百年から2百年の樹木が約6百本にも数えられ、森林生態学、環境学などの学術分野からも、たいへん貴重な森とされています。
人の心を伝える森
糺の森には瀬見の小川や奈良の小川など、四季折々の美で人の心をとらえてやまない名所があります。奈良・平安時代より、数々の詩歌管絃、物語にもうたわれてきました。『源氏物語』須磨の巻では、光源氏が、
憂き世をば、今ぞ別るる とどまらぬ 名をば糺の 神にまかせて
と都を離れる想いを詠んでいます。 神秘の森として敬われてきた糺の森は、人の想いも伝え続けてきたのです。
この森に来たかったんです -
何
ここでおしまい
いや
お昼に
行く店
めっちゃ
混むので -
おもしろい
-
この塀から中は
境内です -
-
ほぅ
-
うどんや
ぼの -
-
夜
なんぞもいいですな -
もう
お飲みですか -
-
追加
ありは
いいですね -
あんかけ
-
桜エビのかき揚げ
-
-
-
-
-
しかし
うどん通の私としては
関西より下の出身なので
ここ最高です -
あふひ ~aoi~
人気の天ぷら盛り合わせで¥800なり。ぶぶあられをまぶしてある海老が可愛らしいインスタ映え案件。海老二匹にサツマイモ、カボチャに海苔に獅子唐、なぜかエノキダケという布陣ですが、蕎麦のサイドを固める名脇役的な感じ。ちゃんと美味しいです。添えてある3種の塩(普通に、カレーに山椒)もGOOD!
鴨南蛮¥1400を。鴨ロース肉が4枚、焼きネギに三ツ葉というシンプルな熱々温蕎麦。あっさりダシで、するすると頂けますな。 -
京のおじゃこ ふみ屋
二千年の歴史を誇る世界遺産下鴨神社のすぐ西側で
暖簾を掲げております。
ふみ屋のおじゃこはすべて国内産の厳選した
小ぶりのちりめんじゃこを使っており、まるで
グリーンの宝石のような和歌山県産ぶどう山椒は
辛さ控えめで爽やかな味わいです。
おじゃこと山椒をふんだんに使ったふみ屋の商品は
それぞれの素材にこだわり、お店の厨房でひとつひとつ
丁寧に炊き上げたものです。
四季折々の素材を活かした季節限定の商品もございます。
ご飯のおともに、お酒のあてに、大切な方への贈り物へと、
ふみ屋のおじゃこをお召し上がりくださいませ。
おじゃこご飯の素
京あげ・おじゃこ・実山椒を独自の出汁でアレンジしたものです。
ひと袋を2合分のお米と一緒に炊き込めば簡単に仕上がります。
炊き込み中、おじゃこと醤油の香りが家中に広がり食欲をそそります。
賞味期限:約30日 -
レストラン 下鴨デリ
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下鴨デリのこだわり
食材
当店のデリは丹波から直送される新鮮な有機野菜を中心に毎日手作りしています。
移りゆく季節と共にデリの内容も変化するためご来店のたびに新しいデリとの出会いがありまよ。
手作り
ひと手間&ひと工夫が美味しさの秘密。
毎日20種類以上のデリがショーケースに並びます。
時間はかかりますが美味しく仕上げるためのひと手間を惜しみません。
スパイス、ハーブ、ビネガー
食材の旨味を際立たせるため、塩分は控えめ。その代わりにいろんな調味料を使って味にアクセントを付けているのが当店の特徴。豊富なハーブやスパイス、色んなビネガーを使った料理はどこか海外にありそうな味付けに仕上がっています。世界へ旅している気分になれるかも
選べる
色々選べるのが当店の特徴。ショーケースに並ぶデリは量り売りで好きな量や好きな種類をワンプレートに盛り合わせたりといろんなスタイルでお召し上がりいただけます。テイクアウトメニューも豊富です。オードブルやちょっと贅沢なお弁当、ローストチキン等色々取り揃えています。 -
西参道から
入ります -
植木市をやっていた
いらない
飛行機に乗るわけない -
重要文化財 大炊殿(おおいどの)
加茂斎院御所旧址
斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女で、伊勢神宮の斎宮と併せて斎王(斎皇女)という。斎王の御所を指すこともある。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する。
賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。
そして
重要文化財 御井(みい)
いわゆる井戸である
井戸の井筒を井戸屋形
上屋を井戸屋と呼び
全体を御井と称している -
葵祭
- 二葉葵と桂 -
葵祭の〝あおい〟って何?
「路頭の儀」(行列)の御所車、勅使、供奉者の衣冠などに飾られた緑の葉。これは「葵桂(〝あおいかつら〟または〝きっけい〟)」といって、桂の小枝に、下鴨神社と上賀茂神社の神紋である二葉葵の葉を絡ませたものです。葵祭は、もともとは「賀茂祭」と呼ばれていましたが、江戸時代に祭が再興されてから葵の葉を飾るようになり、「葵祭」と呼ばれるように。祭で使われる葵は毎年両神社から御所に納められています。
平安王朝の装束 -
平安絵巻が目の前に!
祭の見どころは、天皇の使者である勅使が下鴨、上賀茂の両神社に参向する道中の「路頭の儀」。近衛使(勅使代)をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、古の姿そのままに馬36頭、牛4頭、500余名の行列が京都御所建礼門前より出発し、王朝絵巻さながらに行われます。平安貴族の装束を身にまとった人々の行列は、葵祭のハイライト。日本の伝統的な美意識を感じる貴族の衣裳に注目を。 -
神服殿
-
御朱印所
-
鴨の社へ えと詣
また、言社(ことしゃ)はエトの守護神としても有名で古くから信仰をあつめている。各お社ごとに御神徳があり、それをエトで表わし、ネ年からイ年までの生れ年の守護神として信仰されるようになったお社である。
中門から入ったら
並んでいます -
出町ふたばです
お神酒
に
黒豆大福 -
並んでますね
-
満寿形屋
鯖ずしとうどんセットで¥1,100 -
出町座
映画館です
BF:映画・教室(42席)
2F:映画・教室(48席)
1F:カフェ(出町座のソコ)
1F:書店(CAVA BOOKS)
スクール(シネマカレッジ京都)/オフィス/ギャラリー/フリースペース -
CAVA BOOKS(サヴァ・ブックス)
`ここ
いろんなイベントを -
かわしま歯科・矯正歯科
-
この白い暖簾は
-
DELTA / KYOTOGRAPHIE Permanent Space
シェフ近江(おうみ)について
宮城県石巻市生まれ。子供のころから、料理好きな母のもと、親戚が営む洋食店を身近に見て育ちました。東京のエコール辻でフレンチ・イタリアンを学んだのち、料理一筋20年以上のDELTAのシェフです。ビストロやレストランでの調理のほか、ブーランジェやバーテンダーの修行もしました。モロッコ料理やタイ料理の経験も活かし、国境を越えた多様なメニューを、季節やギャラリーの展示に合わせて組み立てます。
(経歴)Pignon、Dar Roiseau、Zero Waste Kyotoなど。 -
ワインについて
オーガニックのハウスワインに加えて、日々入れ替わるボトルワインも準備しています。長野の山麓から、風の吹きさらすカタルーニャの葡萄畑まで、世界各地から届くワインを、DELTAの展示や、商店街の雰囲気と共にお楽しみください。 -
MENU
LUNCH
?
鯖街道(さばかいどう)の終着点の商店街という由来からインスピレーションを得た、自家製「スモーク鯖」のホットサンドを始めました。
出町桝形商店街や大原の朝市で売られている食材で作る新鮮なサラダボウルなど、季節を感じる メニューもございます。
テイクアウトできるメニューもありますので、鴨川や御所などへのピクニックにどうぞ! -
新進作家から巨匠まで、私たちを新たな境地へと誘う国内外のアーティストの作品やコレクションを月替りで展示します。
イベントやワークショップ、各第一人者を迎えた学びの場「KYOTOGRAPHIEアカデミー」も開催。
また京都精華大学とコラボレーションし、学生によるキュレーションの展示を開催するなど、DELTAは若手の育成にも力を注ぎます。
さまざまな発信を続ける、文化的かつ実験的な土壌を育むスペースです。 -
-
持ち帰りは
どうですか -
両開き
-
桝形商店街が属している「出町商店街」は、東は鴨川、西に同志社大学、南は京都御所に囲まれ、歴史と文化に育まれてきた京都でも有数の規模を持つ商店街として、近隣のみならず広く京都の皆様に親しまれています。
-
ここ
商店街のお店の
人の写真が -
-
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京都という
感じですね -
-
年2回
春3月上旬~6月上旬、9月初旬~12月上旬の特別展のみ開催
されるんですね。
どうも秋には
四君子苑 国・登録有形文化財
(茶室と庭園)が公開されているみたい -
加茂川館
-
駅伝の歴史ここに
始まる
スタート三条大橋
ゴール上野不忍池
うそぅ! -
三日間で行われた
へぇー
大正6年ですか
今、やればどうですかね。
東海道516km、23人がたすきをつないだ
「途中の木曽川や天竜川にはまだ橋がかかっておらず、選手は渡し船で川を渡ったそうです。昔らしいのんびりとした雰囲気が伝わってきます。
とはいえ、三島~箱根間の13km区間では標高800mを駆け上る元祖『箱根の山上り』の難所もありました。選手たちが走ったのはちょうど夜中だったことから、近所の住民が道に沿って松明をともしたそうです。前代未聞のイベントにそんな協力が得られたことは、今の箱根駅伝の大人気を予兆しているようにも思えますね」 -
もより市
-
ポイントゲットょ
右に
KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭の
ポスター
4/15~5/14
でした -
市バス
の給油スタッフ
大募集 -
京都タワーサンド
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成城石井
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志津屋
昭和23年誕生。志津屋は、ずっと京都で、おいしいパンを届けています!
志津屋は誕生以来「おいしさ」を大切に商品の開発を続けてまいりました。
真心を込めて丁寧に商品をつくることが基本姿勢であり、1日約12,000人のお客様にご利用いただいている実績を励みに
従業員一同研究努力しております。 -
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観光案内所
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OGAWA COFFEE
1200年を超える悠久の歴史の中で、創造的な革新を幾重にも重ねながら、日本が世界に誇る生活文化を築き上げてきた京都。「小川珈琲」は、伝統と進取の気風が息づくこの街で、昭和27年(1952)から珈琲づくりをはじめました。以来、私たちは長い歳月をかけて醸成された京都の美意識と感性に支えられながら、“京都の珈琲職人”としての誇りをもってその審美眼と腕を磨き、世界に通じる「本物」の味わいをたえず追求してきました。
しかし、本当にそれだけでいいのでしょうか?珈琲にはいつの時代も人の心を癒し、世界を潤す普遍的な力が宿っていると私たちは信じています。だからこそ、「小川珈琲」はその味を深化させるだけでなく、これからの社会のために、その価値をさらに進化させていきたいと思っています。
珈琲を嗜好品でなく、日常にとってかけがえのないものにすること。私たちの珈琲づくりの基盤である地球環境や生産者の暮らしを守っていくこと。“京都の珈琲職人”としての情熱を忘れることなく、一粒一粒の豆を大切に「本物」としての価値を求め続けること。その一杯がきっと明日の希望になると信じて。これからも「小川珈琲」は、一人でも多くの人たちの心と暮らしに寄り添う存在でありたいと願います。 -
もより市三条駅(京阪ザ・ストア)
行きつけの店に
なっちゃった -
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京の宿西大路に
-
もより市で
今日の夕飯シリーズ -
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ファミマの
つまみに
うっとり -
ふじや鰹節店で
購入
これ好きなんで -
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コーヒーランチ こばやし
の紹介です。 -
中央は
北野天満宮は、菅原道真公が愛した梅木が約50種・1500本もある全国的に知られる梅の名所です。
梅園南側に新しく設置された「舞台」と、梅園内に復元された「花の庭」にも注目! -
右のお札は
京都ゑびす神社ですかね。 -
-
一番下は
何語ですかね -
左
観音殿
銀閣寺のことでしょうか
右から二つ目
鹿苑寺(ろくおんじ)の「舎利殿(金閣)ですかね
いわゆる民泊ですので
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