2023/04/05 - 2023/04/05
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gianiさん
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日本一の産出量を誇った筑豊炭田。
三井財閥が経営した田川鉱は、重要なアイコン。
三井と共に繫栄した田川市の博物館を訪れます。
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旅の玄関口。
1943年に後藤寺町と伊田町が合併した、田川市です。
旧伊田町のエリアです。
これから石炭歴史博物館へ向かいます。田川伊田駅 駅
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いざ展示室へ。
そもそも石炭とは?
時代:主に新生代古第三紀(2500~6500万年前)
原料:海岸平野-三角州湖沼(湖沼沢)地に堆積した陸生植物
過程:完全に分解される前に(地盤沈降して)熱変成作用を受けたもの田川市石炭 歴史博物館 美術館・博物館
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筑豊炭田の石炭
時代:同上。原始的な哺乳類が誕生する頃。
原料:沼地に茂る葦や熱帯~温帯植物が茂る密林。
過程:温暖ゆえに豪雨も半端なく、密林そのものが沼地に埋没して地熱作用を受けた。 -
寄り道
珪化木:珪酸の作用で、石炭化されず化石化したもの。木の根や節の部分が多い。石炭採掘時の邪魔者。 -
筑豊炭田
遠賀川流域に広く分布する炭田の総称。
国内需要の約半分を供給しました。戦後のエネルギー革命で主役は重油になり、1976年にすべての鉱山が閉鎖しました。
豊前筑前両国にまたがるエリアで、
石炭採掘を機に「筑豊」という土地区分が誕生しました。 -
現在も平野部で、古第三紀に湿地だったいうのも納得の地形。
田川は、筑豊炭田の上流部(奥部)に位置します。 -
1868年ごろの地図
赤丸が炭鉱。18世紀に瀬戸内海の塩田で石炭需要が発生し、採掘がはじまりました。無数の零細坑が掘り出した石炭を藩が買い取り、専売しました。明治政府は大型資本の進出を促し、採炭効率を上げようとします。 -
筑豊炭田の先人
安川敬一郎(1849-1934)
福岡藩士で廃藩置県や佐賀の乱の煽りを受けて、25歳で炭鉱業に携わる。明治鉱業を起こし、安川電機や後の九州工大も創立。 -
麻生太吉(1857-1933)
家業の炭鉱を手伝いつつも、27歳で独立。石炭以外にセメント、電力業界にも手を伸ばし、現代に通じる麻生グループを形成。元首相の麻生太郎氏の曽祖父。 -
田川の炭鉱
積出港や消費地に遠い田川では、1880年代に地元資本が集まって田川採炭会社を創設し、ハンディを克服すべく結束します。しかし内紛で紛糾し、1900年に三井財閥(三井鉱山)に鉱区を譲渡します。 -
最終的に大規模・中堅資本が参入する一方で、零細・小規模資本の炭坑も戦後まで多く存在し、両者の待遇格差(機械化・安全対策・給与・福利厚生)も大きくなりました。
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三井田川炭礦として
地表に近い部分は採掘が進んでおり、大規模な鉱脈を得るために、業界は竪坑(たてこう)開削に動いていた。
三井鉱山(現日本コークス工業)田川炭礦では、伊田竪坑を1904年より開削します。1909年に第一竪坑(利用深度314m)、翌年に第二竪坑(利用深度349m)を運用開始ます。当時日本最深で、日本三大竪坑の一つです。 -
往時の田川坑
中央の箱型の建物(発電所)の場所に、博物館が建っています。
第一竪坑、第二竪坑、斜坑の3坑が主力坑です。 -
鉱山では必ず山の神を祀り、安全祈願をしました。通常入山前と、出山後にお参りします。田川炭礦では、英彦山神社(戦後は神宮)の天忍穂耳命を祀りました。
英彦山 自然・景勝地
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外は公園整備され、第一竪坑の櫓が遺っています。
頂上に巻上用の車輪が固定され、ゲージ(籠)を巻き上げたり、降ろしたりしました。
第一は地下への吸気口、第二は地上への排気口を兼ねていました。大型の扇風機が設置され、坑内は強制吸気・排気されました。石炭記念公園 公園・植物園
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手前にゲージが見えます。上段に坑夫、下段に炭車を搭載し、300m以上垂直移動しました。
櫓の高さは28.4m、竪坑の内径は5.5m。
地上までワイヤーが伸び、巻上機がコントロールしました。 -
煙突(1908年)
明治時代の巨大巻上機の動力は、蒸気機関。ボイラー内に高圧の水蒸気を生成しました。ボイラーは12基あり、燃焼した石炭の煙を排出する煙突がセットでした。
高さ45m、一本で21万3000枚のレンガを積み上げました。 -
大規模炭鉱の地下
左上は、石炭層に沿って斜めに下る「斜坑」。一般に石炭層は、地殻変動を経て斜めに広がります。筑豊炭田の場合は17度の傾斜。右端は、垂直な竪坑。
竪坑などは炭坑のメインストリートで、鉱脈に沿って採掘坑が掘られます。 -
主要坑道
竪坑の先には、運搬用の主要坑道が走ります。地下300mとは思えない大きくて、整備された目抜き通りです。 -
左上:主要揚水ポンプ
坑内の地下水を地上へ汲み上げます。20世紀に大手は、電動ポンプを導入していました。
中上:配電所
坑内は、いち早く電化されました。
こうした設備は、竪坑の最深部(-346m)に設置され、技術者の身が出入りしました。 -
最前線:採炭現場
三井の傘下に入っても、昔ながらの手掘りでした。作業は二人一組で、先山役がツルハシで掘り崩し、後山役が運搬車まで運び出しました。写真のように夫婦で組むことが一般でした。 -
打柱…目が詰まっている松丸太を使用。
奥 トンボ柱:T字型。冠木があるので丈夫。
手前 坊主柱:単独で柱を支える。 -
残柱式採炭法
坑道が崩れないように鉱脈の半分以上を堀り残して、柱の役割を担わせます。もったいない限りです。 -
長壁式採炭法(1907年~)
全長20~100mほどの壁面を一斉に掘り進む方法。残柱(炭柱)がないので、ロスがない方法です。第一竪坑が供用開始する2年前に導入されました。 -
採炭前線の天井が弱くなるので、カッペと呼ばれる鉄製の支柱を一列に立てて、天井を支えます。柱の下の部分がガイドレールになっていて、採掘が進んで前線が移動するのに合わせて進めます。柱の高さを調整でき、天井と僅かに隙間を作って、前へ移動します。
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動力は、相変わらず人力でした。壁面に先山を一列に配置して採鉱すると、個人の能力差が原因で凸凹になります。採炭速い人は遅れている人を手伝うことで、均質化を図る「自治式切羽」が1913年に導入されました。
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機械採炭
昭和へ向けて、大手では採炭の機械化が進みます。坑夫がコールピック(写真)を採炭面に押し当てて、切り崩しました。電力もしくは圧縮空気を動力としました。 -
空気圧縮機(出力100馬力)
圧縮空気は、火花を飛ばして坑内のガスに引火する危険がないので重宝されました。 -
レシーバータンク
生成した圧縮空気を貯めます。
圧縮空気の採炭機械は、圧力が弱まると使い物にならないために、メタンガスの濃い現場でのみ使用されました。 -
ドラムカッター
長壁式採炭法の最終兵器。高度成長期に導入。採炭スピードはピークに達します。 -
自走枠
鉄柱とカッペは一本ずつ人が調整しましたが、自走枠はドラムカッターの掘削に合わせて合理的に動きました。天井を支える力は、油圧です。 -
ベルトコンベア
採炭速度の向上に比例して、採炭物を速く運ぶ必要も。ドラムカッターの真下からベルトコンベアで迅速に運びます。 -
コンベアは坑道の手前で上昇し、炭車の荷台に積まれます。
坑道を支える枠も、鉄製に代わります。
このような進歩にもかかわらず、田川坑は1964年に閉山します。
※同じ三井系の三池炭鉱は、1996年に閉山。 -
ロードヘッダー
ドラムカッターが導入できない狭い採掘面で使用しました。採炭面からコンベアで吸い上げ、後ろには車の荷台に積み込めるような便利な仕様です。 -
スクリューコンベア
ロードヘッダーの下の部分と同じ構造なので、参考までに。 -
炭車の走行
巻上機のワイヤーを動力とする、一種のケーブルカーです。 -
実際の様子
折り返し運転ではなく、環状運転。終点の動きは、むしろロープウェイと同じです。 -
人車
人員を輸送する客車。 -
先頭に車掌が乗って、巻上の指示を出しました。逆走防止のための安全機が付いています。
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乗廻し棹取
炭車を運行する際、棹取と呼ばれる運搬夫(オペレーター)が乗車しました。軽やかな動きが特徴で、彼らは糊目のきいたシャツを着て、派手な色の服を着て、サスペンダーを着用する伊達男でした。若い女性からの人気も高かったそうです。 -
電気機関車
坑口外の構内を走る鉄道の機関車。線路の幅が狭い「ナローゲージ」という分類です。 -
チップラー
電気機関車が引く炭車を回転または傾斜させて、積み荷を移し替える機械。 -
駅からは、国鉄の路線網で八幡製鉄所や若松港、または全国各地へ運ばれました。
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石炭車
1両当たり10tの石炭を積載できました。 -
石炭輸送:川艜(かわひらた)
川舟のカテゴリーの一つで、一般名称は平田舟。
響灘に注ぐ遠賀川、および中間から分岐して洞海湾の若松港へ至る堀川(運河)は堰が多く、農繁期は一日数回しか開門しないため、運搬には多くの日数を要しました。1880年代後半の出炭量増加に伴い、交通渋滞も発生しました。
船賃と、炭坑から川までの馬賃を合わせた輸送費が大きな負担となりました。 -
川艜の模型(1/4の縮尺)
長さ9m幅1.8mで、杉材を使用しています。
浅瀬仕様のために一般的な平田舟よりも小型です。
中央に帆柱と1畳分の船室、両側が船倉で6t分の石炭を積載できました。
船頭は船に住み、船室には家具と竈が付いていました。
※写真は下流用の七間(11.6m)舟 -
鉄道の敷設
低コスト大量輸送のメリット。1894年に若松~直方間を筆頭に。1910年頃に路線網が完成しました。
田川~若松港は、筑豊興業鉄道が1896年に伸張しました。地元有力者が共同出資して設立し、先述の麻生太吉や安川敬一郎も参加してます。
田川~門司港は、関西資本の豊州鉄道が1898年に開通させました(門司港~小倉は九州鉄道に乗入)。
両社とも九州鉄道(後の国鉄、JR九州/平成筑豊鉄道)に吸収されます。 -
石炭利用:近世
メインは製塩でした。ほかには炊事用薪不足を補う燃料として、漁業のかがり火(照明)として利用されました。
塩田の塩焼(水分を飛ばす)は古来から薪を使用していましたが、福岡藩では1710年頃、本場の瀬戸内では1778年以降、石炭利用が始まりました。
石炭は藩の専売品として、貴重な収入源でした。 -
石炭利用:近代初期
鉄道・船舶・工場機械の動力源として用いられた蒸気機関の燃料として、需要が急騰しました。 -
近代産業革命(19世紀末~20世紀初頭)
紡績業・製鉄業をメインに、重化学工業、発電、セメント工業、ガス工業等を支える一次エネルギーとして不可欠な存在になり、需要も更に急騰します。旺盛な需要に応えるべく、炭鉱業に大手資本が参入しました。
筑豊炭田は、八幡製鉄所の溶鉱炉や北九州工業地帯を支える屋台骨でした。 -
資材-原料として:石炭化学コンビナート
掘り出された石炭は、石油でいうところの原油に相当します。真空状態で熱を加えることで、様々な化学物質を気化・抽出します。俗に石炭の木と呼ばれ、様々な原料を取り出せます。 -
コークス
炭素比率が高く、硫黄やコールタールといった不純物を取り除いた石炭。用途は、主に製鉄所の溶鉱炉の燃料です。硫黄などは鉄の品質低下を招き、コールタールやピッチなどは炉の温度低下を招くので、乾留(真空下で熱をかける)によって不純物を取り除きます。
石炭化学コンビナートは、製鉄所用コークス製造の際の抽出物を余すことなく利用する観点で誕生しました。他にも、家庭燃料用に脱硫したものもあります。 -
石炭の分類(品質)
国際基準に基づき、主成分である炭素の含有率(炭化の進み具合)で等級分けされます。低品質順に褐炭、亜瀝青炭、瀝青炭、無煙炭に分けられます。瀝青炭以上を石炭、それ以下を亜炭とされます。ただし、国内では亜瀝青炭も石炭と呼んでいます。概して、石狩炭田は中品質、筑豊炭田は高品質のものを算出します。
炭化とは別に、硫黄分の含有量も評価されます。例えば釧路炭田(三井系の太平洋炭鉱)は概ね亜瀝青炭ですが、硫黄分が少ないので、家庭用や環境基準の厳しい地域での使用に最適です。 -
無煙炭
熱量が高い代わりに、酸素や水素の含有量が少ない。着火が困難な代わりに、火持ちは良い。軍艦用の燃料供給が最優先されました。 -
20世紀に石油が本格登場し、日本では戦後のエネルギー革命で、石炭は脇役になります。とはいえ、オイルショックに始まる産油国の政情不安等に伴う価格高騰や供給の不安定要素等もあり、石炭は大きな役割を果たしています。日本では、火力発電所の燃料として、総発電量の4分の1を賄っています。
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日本は、中国に次ぐ世界第二の石炭輸入国です。
主な輸入先は、世界第二の産出国オーストラリアです。
先進国では、環境問題とりわけカーボンニュートラルの観点から脱石炭がトレンドです。 -
資源の乏しい日本では、価格と供給の安定性から、石炭を重要視しています。
従来の石炭火力発電よりも効率的なシステムを構築しており、二酸化炭素排出量を十分抑えられるとの立場をとっています。
大気汚染についても、上記のシステムは低温ゆえに窒素酸化物を抑制され、脱硫設備で硫黄酸化物の放出も抑制し、有効な選択肢だと主張しています。 -
日本での採掘
様々な努力を払いつつも、人件費等がネックになり、海外の露天掘りによる低価格の石炭との価格競争についていけず、閉山が続きます。2014年現在で北海道の8坑が稼働中と貼り出されていましたが、この数年後に釧路の1坑のみになっています。 -
1908年築以降の炭鉱夫住宅
共同住宅は、四畳半一間に押入、突き上げ窓でした。手前は土間です。
居間は板敷きです。 -
外観
2世帯分の外観です。土間側は無双窓です。屋外に専用の竈があります。井戸と風呂トイレは共同です。屋根は藁ぶきか板葺きでした(メンテナンスのために、展示家屋は瓦葺です)。
庶民の共同住宅としては、かなり魅力的な物件です。 -
1918年の炭鉱夫住宅
居間は6畳で畳敷き、土間や窓には障子戸が付き、防風採光等が改善されます。雨戸も付きます。照明は電灯が導入されました。
相変わらず天井はなく、針金を通して新聞紙を敷いて寒さを防ぎました。 -
屋内(土間)には窯と流し場が設置され、水道も引かれました。
窓は、無双窓のままです。 -
1935年の共同住宅
六畳間と4畳半の二間になり、天井板も付きました。
格子窓でガラスがはめられました。 -
土間の窓もガラスが入り、手前に床の間ができました。収納スペースも充実します。
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外観
窓の周りには庇が付きます。
以上は妻帯者用で、単身者は共同部屋で寮生活でした。 -
切符(炭券)
炭鉱は資金繰りが厳しく、金融機関も進出していなかったこともあって、日給(賃金)を切符という形で支給しました。1000斤が1円に相当し、炭鉱社会で通貨代わりに流通しました。毎月決まった日に、現金に換金できました。これは、移り気な炭鉱夫を引き留める効果もありました。
1919年に福岡鉱務署が、給与の現金支給を命令し、終焉しました。 -
博物館の外には、炭坑節発祥の地の費が。
でも、三橋美智也さんのレコードでは、三池(炭鉱)の上に月が出たと唄われているのでは??? -
ルーツは、選炭場の女性が作業中に唄っていた「伊田場打選炭唄」で、それが宴席に持ち込まれました。当初は、三井に月が出たと唄われ、それ以前には伊田に出たと唄われました。後に三井鉱山の各地で歌い継がれ、派生形が有名になったというのが顛末です。1962年に田川・大牟田両市長がテレビ対談し、原始は田川で合意に達しています。
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たびたび登場する詳細な説明付きの挿絵。
実は、地元の山本作兵衛(1892-1984)の作品です。自身は7歳から炭坑に入り、筑豊の18の炭鉱を渡り歩いた筑豊炭田の生き字引。絵のセンスのみならず、炭鉱の記録・文化・風俗・方言を記録したものとして、ユネスコの無形文化遺産に登録されています。博物館2階では、膨大なコレクションを季節ごとに入れ替えて、常時展示しています。
ミュージアムショップでは、図鑑を買えます。市立美術館の図書コーナーは、文献が充実していました。田川市美術館 美術館・博物館
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目の前に、山頂が真っ平らな香春岳が。
セメント採掘で、こういう形になりました。
手前には、ぼた山が。香春岳 自然・景勝地
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駅前には、八幡宮が。
神功皇后が三韓征伐の帰路に防風雨に遭い、ここに腰かけて伊田神に祈ったところ、嵐が静まったという言い伝えが。風治八幡宮 寺・神社・教会
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向かいには、寂しい商店街。
炭鉱の閉山と共に、市も衰退中です。 -
今は殺風景の街にも、確実に春は訪れています。
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