今出川・北大路・北野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
「きょうと魅力再発見旅プロジェクト」、いわゆる京都府民割を利用した旅のVER.3、その2は翌日の散策前半です。<br /><br />その1は、ホテル到着後のカフェタイムと腹ごなしの散歩という、観光要素の薄い内容でしたが、翌日は奥様曰く、いつもの盛り込み過ぎの内容に戻り、京都御所周辺の街歩きからスタートです。<br /><br />ホテルで朝食を頂き、目の前の京都御所を参観し、住宅街を抜ける途中、名も知らない小さな神社2社を参拝し、晴明神社に参拝し、一条戻り橋を見てホテルに戻るという、午前中の行程です。<br /><br />京都御所は、流石の建築美で色々と建築史の教科書で見た内容を改めて振り返る事が出来ました。<br />晴明神社は、陰陽師の効果が続いているのか、参拝の方々で賑わっていましたが、私もこの機会に五芒星を勉強させて貰いました。<br />一条戻り橋を見て、ホテルに戻り北山に向かうまでが、その2となります。<br />今回、写真が多く=見どころが多かったという事で、3部作となりました。<br /><br /><br />*過去の「きょうと魅力再発見旅プロジェクト」の備忘録↓<br />Ver1.は、2022/07/08~2022/07/09の私の誕生日祝い(木屋町通りのおばんざい屋さん)<br />https://4travel.jp/travelogue/11771141<br />Ver.2は、2022/08/26~2022/08/27で貴船の川床料理と龍安寺等<br />https://4travel.jp/travelogue/11777129<br />https://4travel.jp/travelogue/11784448<br />Ver.3 その1<br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11804884/

きょうと魅力再発見旅プロジェクトの旅 Ver.3(京都御所、晴明神社 編)

32いいね!

2022/10/07 - 2022/10/08

808位(同エリア3378件中)

0

23

まつじゅん

まつじゅんさん

この旅行記のスケジュール

この旅行記スケジュールを元に

「きょうと魅力再発見旅プロジェクト」、いわゆる京都府民割を利用した旅のVER.3、その2は翌日の散策前半です。

その1は、ホテル到着後のカフェタイムと腹ごなしの散歩という、観光要素の薄い内容でしたが、翌日は奥様曰く、いつもの盛り込み過ぎの内容に戻り、京都御所周辺の街歩きからスタートです。

ホテルで朝食を頂き、目の前の京都御所を参観し、住宅街を抜ける途中、名も知らない小さな神社2社を参拝し、晴明神社に参拝し、一条戻り橋を見てホテルに戻るという、午前中の行程です。

京都御所は、流石の建築美で色々と建築史の教科書で見た内容を改めて振り返る事が出来ました。
晴明神社は、陰陽師の効果が続いているのか、参拝の方々で賑わっていましたが、私もこの機会に五芒星を勉強させて貰いました。
一条戻り橋を見て、ホテルに戻り北山に向かうまでが、その2となります。
今回、写真が多く=見どころが多かったという事で、3部作となりました。


*過去の「きょうと魅力再発見旅プロジェクト」の備忘録↓
Ver1.は、2022/07/08~2022/07/09の私の誕生日祝い(木屋町通りのおばんざい屋さん)
https://4travel.jp/travelogue/11771141
Ver.2は、2022/08/26~2022/08/27で貴船の川床料理と龍安寺等
https://4travel.jp/travelogue/11777129
https://4travel.jp/travelogue/11784448
Ver.3 その1
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/11804884/

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
自家用車 徒歩

PR

  • 1331年から1869年まで、天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所(内裏)で、現存する建物は、概ね1855年に造営されたものです。<br />京都御苑の北西寄りにあり、築地塀で囲まれた11haの区域が京都御所で、東西約250m、南北約450mの南北に長い長方形で、2016年7月26日から事前申し込み不要で通年公開されています。<br />(仙洞御所の参観は事前申し込みが必要ですが、これは御所内の広さの関係かなと思います。)<br /><br />ホテル前の蛤御門から京都御苑に入り、清所門から御所に入場、チェック等を受け入構証を苦から下げ自由にて、御所参観の始まりです。<br /><br />右上が宣秋門、宮家や公卿が参内する際に用いられた門のようで、通常は通れません。<br />この前にお車寄せがあります。<br /><br />この門の屋根は檜波田葺で、天皇等身分の高い人がくぐる門は桧皮葺、御所に入ることが許された一般の人の門は瓦屋根らしいです。<br /><br />下段は新御車寄、大正時代以降の天皇皇后両陛下の御車寄で、前が広がり、旧の車寄せと比べ、馬車や車等での移動を配慮した造りとなっているようです。

    1331年から1869年まで、天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所(内裏)で、現存する建物は、概ね1855年に造営されたものです。
    京都御苑の北西寄りにあり、築地塀で囲まれた11haの区域が京都御所で、東西約250m、南北約450mの南北に長い長方形で、2016年7月26日から事前申し込み不要で通年公開されています。
    (仙洞御所の参観は事前申し込みが必要ですが、これは御所内の広さの関係かなと思います。)

    ホテル前の蛤御門から京都御苑に入り、清所門から御所に入場、チェック等を受け入構証を苦から下げ自由にて、御所参観の始まりです。

    右上が宣秋門、宮家や公卿が参内する際に用いられた門のようで、通常は通れません。
    この前にお車寄せがあります。

    この門の屋根は檜波田葺で、天皇等身分の高い人がくぐる門は桧皮葺、御所に入ることが許された一般の人の門は瓦屋根らしいです。

    下段は新御車寄、大正時代以降の天皇皇后両陛下の御車寄で、前が広がり、旧の車寄せと比べ、馬車や車等での移動を配慮した造りとなっているようです。

    京都御所 名所・史跡

  • 御車寄に続いて諸大夫の間があります。<br /><br />天皇との拝謁を許された人が待つ部屋の集まりですが、その中にも位が存在し、虎の間、鶴の間、桜の間の3つが、連なった建物となっています。<br /><br />奥から虎の間、鶴の間、桜の間があり、襖の絵にちなんで呼ばれています。<br />虎と鶴の間は、御車寄せから屋根のある廊下を通り部屋に入れますが、桜の間は、車寄せを通らず、外の砂利道から階段を登り、部屋に入るようになっていて、位により畳縁等にも差がつけられています。

    御車寄に続いて諸大夫の間があります。

    天皇との拝謁を許された人が待つ部屋の集まりですが、その中にも位が存在し、虎の間、鶴の間、桜の間の3つが、連なった建物となっています。

    奥から虎の間、鶴の間、桜の間があり、襖の絵にちなんで呼ばれています。
    虎と鶴の間は、御車寄せから屋根のある廊下を通り部屋に入れますが、桜の間は、車寄せを通らず、外の砂利道から階段を登り、部屋に入るようになっていて、位により畳縁等にも差がつけられています。

  • 写真がガラスで反射して、うまく撮れなかったので、各部屋の前にあった説明版で・・・。<br /><br />桜の間の畳縁は、絹で高貴な色ですが一色の緋曽代絹縁であるのに比べ、鶴と虎の間は、絹経小紋縁という高級品のようです。

    写真がガラスで反射して、うまく撮れなかったので、各部屋の前にあった説明版で・・・。

    桜の間の畳縁は、絹で高貴な色ですが一色の緋曽代絹縁であるのに比べ、鶴と虎の間は、絹経小紋縁という高級品のようです。

  • 南側に廻り、昨日外から見た建礼門です。<br /><br />御所には6つの門がありますが、こちらが正門で、天皇陛下や国賓のみに使用されるという、格式高い門です。<br />

    南側に廻り、昨日外から見た建礼門です。

    御所には6つの門がありますが、こちらが正門で、天皇陛下や国賓のみに使用されるという、格式高い門です。

  • 左は建礼門の前にある、承明門から南庭越しに見る紫宸殿です。<br />紫宸殿は、かつての内裏の正殿で格式高く、天皇の即位、元服、立太子等の最重要の公的儀式が執り行われた建物です。<br /><br />屋根は入母屋造、檜皮葺きで、桁行9間、梁間3間の身舎内は間仕切りはありません。<br />柱は円柱、床は畳では無く拭板敷で、天井板を張らない化粧屋根裏で、正面の柱間は蔀戸となっています。<br /><br />右下は、東側にある門建春門です。<br /><br />御所には6門以外に「穴門」、「掖門」と呼ばれる、屋根のない入口が12か所(南面に1、東面に5、西面に4、北面に2)あり、鬼門にあたる北東角は、築地塀を凹ましてあり、「猿ヶ辻」と呼ばれているようです。

    左は建礼門の前にある、承明門から南庭越しに見る紫宸殿です。
    紫宸殿は、かつての内裏の正殿で格式高く、天皇の即位、元服、立太子等の最重要の公的儀式が執り行われた建物です。

    屋根は入母屋造、檜皮葺きで、桁行9間、梁間3間の身舎内は間仕切りはありません。
    柱は円柱、床は畳では無く拭板敷で、天井板を張らない化粧屋根裏で、正面の柱間は蔀戸となっています。

    右下は、東側にある門建春門です。

    御所には6門以外に「穴門」、「掖門」と呼ばれる、屋根のない入口が12か所(南面に1、東面に5、西面に4、北面に2)あり、鬼門にあたる北東角は、築地塀を凹ましてあり、「猿ヶ辻」と呼ばれているようです。

  • 東側にある春興殿です。<br />平安京内裏十七殿のひとつで、平安時代の春興殿とは位置等が異なり、旧内侍所のあった場所に大正天皇の即位礼にあたり造営された建物です。<br /><br />左下は廻廊に設けられた日華門で、東の中門ともいわれています。<br /><br />昔、摂関を座長とする朝議が、紫宸殿から宜陽殿に続く軒廊の左近衛陣座で盛んに行われていて、日華門は左近衛陣座に近い事から、月華門よりも重要とされていたようです。<br /><br />廻廊部には、檜波田葺の模型が展示されていましたが、位の高い人が通る場所は全て檜波田葺だったようです。<br /><br />

    東側にある春興殿です。
    平安京内裏十七殿のひとつで、平安時代の春興殿とは位置等が異なり、旧内侍所のあった場所に大正天皇の即位礼にあたり造営された建物です。

    左下は廻廊に設けられた日華門で、東の中門ともいわれています。

    昔、摂関を座長とする朝議が、紫宸殿から宜陽殿に続く軒廊の左近衛陣座で盛んに行われていて、日華門は左近衛陣座に近い事から、月華門よりも重要とされていたようです。

    廻廊部には、檜波田葺の模型が展示されていましたが、位の高い人が通る場所は全て檜波田葺だったようです。

  • 清涼殿は紫宸殿の北西にあり、東を正面とした入母屋造、檜皮葺の桁行9間、梁間2間の南北に長い建物です。<br />平安時代においては、天皇の居住の場であったようですが、天正期には執務と儀式の場となり、正月の四方拝等の行事が行われていたようです。<br /><br />寝殿造がベースとなっていますが、内部は多くの部屋に仕切られています。<br />中央部分には「昼御座」という天皇の座があって、その奥に御帳台が確認できました。

    清涼殿は紫宸殿の北西にあり、東を正面とした入母屋造、檜皮葺の桁行9間、梁間2間の南北に長い建物です。
    平安時代においては、天皇の居住の場であったようですが、天正期には執務と儀式の場となり、正月の四方拝等の行事が行われていたようです。

    寝殿造がベースとなっていますが、内部は多くの部屋に仕切られています。
    中央部分には「昼御座」という天皇の座があって、その奥に御帳台が確認できました。

  • 小御所から蹴鞠の庭を挟み、御学問所です。<br /><br />小御所は清涼殿の東、紫宸殿の北東にある、南北に長い建物です。<br />屋根は入母屋造、檜皮葺で、外観は寝殿造のように見えますが、内部は書院造のようになっています。<br />会議、対面や皇太子の元服等の儀式に用いられていたようです。<br /><br />小御所の北に位置する御学問所は、南北軸の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺。<br />建具は舞良戸を用い、内部の部屋には床、棚を設ける等、内部、外観共に書院造の意匠となっています。<br />徳川家康による造営時に、初めて設けられた施設です。<br /><br />小御所と御学問所は廊下で繋がっていますが、天皇等の身分の高い人のみ歩けたようです。<br />間には「蹴鞠の庭」と呼ばれる白砂の空間があります。<br /><br />公家=蹴鞠というイメージがありますが、約1,400年前の大和朝廷時代に、中国から伝えられたという球戯で、 中大兄皇子が落とした履を、中臣鎌足が拾ったことから親しくなり、645年に大化の改新が興っと言われています。<br />勝敗を争うのではなく、相手に蹴りやすい鞠を渡すといういう精神で行われるとの事です。<br />

    小御所から蹴鞠の庭を挟み、御学問所です。

    小御所は清涼殿の東、紫宸殿の北東にある、南北に長い建物です。
    屋根は入母屋造、檜皮葺で、外観は寝殿造のように見えますが、内部は書院造のようになっています。
    会議、対面や皇太子の元服等の儀式に用いられていたようです。

    小御所の北に位置する御学問所は、南北軸の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺。
    建具は舞良戸を用い、内部の部屋には床、棚を設ける等、内部、外観共に書院造の意匠となっています。
    徳川家康による造営時に、初めて設けられた施設です。

    小御所と御学問所は廊下で繋がっていますが、天皇等の身分の高い人のみ歩けたようです。
    間には「蹴鞠の庭」と呼ばれる白砂の空間があります。

    公家=蹴鞠というイメージがありますが、約1,400年前の大和朝廷時代に、中国から伝えられたという球戯で、 中大兄皇子が落とした履を、中臣鎌足が拾ったことから親しくなり、645年に大化の改新が興っと言われています。
    勝敗を争うのではなく、相手に蹴りやすい鞠を渡すといういう精神で行われるとの事です。

  • 蹴鞠の庭の前には、回遊式庭園の御池庭が広がります。<br />江戸時代初期に作庭された、御池庭、池を中心にした回遊式庭園です。<br /><br />この庭園が池を中心としているのは、江戸時代最初の造営である慶長度(1613年)に、小堀遠州が参画していたからと思われますが、現在の庭の原型ができたのは、仙洞御所と女院御所の造営が始められた延宝度(1675年)で、西岸に玉石を敷き並べた洲浜があり、池の中に3つの島があり、木橋2基、石橋3基が架けられています。

    蹴鞠の庭の前には、回遊式庭園の御池庭が広がります。
    江戸時代初期に作庭された、御池庭、池を中心にした回遊式庭園です。

    この庭園が池を中心としているのは、江戸時代最初の造営である慶長度(1613年)に、小堀遠州が参画していたからと思われますが、現在の庭の原型ができたのは、仙洞御所と女院御所の造営が始められた延宝度(1675年)で、西岸に玉石を敷き並べた洲浜があり、池の中に3つの島があり、木橋2基、石橋3基が架けられています。

  • 御常御殿に向かいます。<br />1589年に豊臣秀吉が紫宸殿の修造工事に着手した際に、日常生活の場として新しくつくられたのが御常御殿で、後陽成天皇から明治天皇まで、16代の天皇のプライベート空間でしたが、男子禁制の皇室版大奥ともいえる空間だったようです。<br /><br />「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」をはじめ、寝室の「御寝の間」、面談の「二の間」等15部屋があります。

    御常御殿に向かいます。
    1589年に豊臣秀吉が紫宸殿の修造工事に着手した際に、日常生活の場として新しくつくられたのが御常御殿で、後陽成天皇から明治天皇まで、16代の天皇のプライベート空間でしたが、男子禁制の皇室版大奥ともいえる空間だったようです。

    「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」をはじめ、寝室の「御寝の間」、面談の「二の間」等15部屋があります。

  • 御所には、襖絵、板絵等の美術品が多くあります。<br /><br />御常御殿等の居住建物では、儀式等に用いる諸室には中国の賢人功臣等の、鑑戒的な主題の漢画が描かれ、日常生活等に用いる内向きの諸室には、大和絵による風景や花鳥等が描かれています。<br />左から、曲水図(岡本亮彦 筆、1855年)、(陵王納曽利図(原在照 筆、1855年)、蹴鞠絵(岡本亮彦 筆、1855年)<br /><br />

    御所には、襖絵、板絵等の美術品が多くあります。

    御常御殿等の居住建物では、儀式等に用いる諸室には中国の賢人功臣等の、鑑戒的な主題の漢画が描かれ、日常生活等に用いる内向きの諸室には、大和絵による風景や花鳥等が描かれています。
    左から、曲水図(岡本亮彦 筆、1855年)、(陵王納曽利図(原在照 筆、1855年)、蹴鞠絵(岡本亮彦 筆、1855年)

  • 御常御殿の南西に「御三間」(おみま)があります。<br /><br />左側から上段の間、中段の間、下段の間と呼ばれていて、こちらの障壁画も庭から見る事が出来ました。<br /><br />下段の間にある 岸誠筆「駒引図」と、御縁座敷の杉戸絵です。<br /><br />最近はAI活用が進み、入口でレシーバを借りる事も出来ますし、スマホで説明を聞く事も出来るようになっていました。<br />私達は、スマホの音声案内を活用し、ゆっくりと各建物を見る事が出来ました。<br />駒引というのは平安時代に天皇が馬を御覧になる儀式だったようです。

    御常御殿の南西に「御三間」(おみま)があります。

    左側から上段の間、中段の間、下段の間と呼ばれていて、こちらの障壁画も庭から見る事が出来ました。

    下段の間にある 岸誠筆「駒引図」と、御縁座敷の杉戸絵です。

    最近はAI活用が進み、入口でレシーバを借りる事も出来ますし、スマホで説明を聞く事も出来るようになっていました。
    私達は、スマホの音声案内を活用し、ゆっくりと各建物を見る事が出来ました。
    駒引というのは平安時代に天皇が馬を御覧になる儀式だったようです。

  • 京都御所の参観を終え、次の目的地に向かう途中、近衞邸休憩所前に、緑に包まれた雰囲気の良いカフェを発見、「SASAYAIORI+ 京都御苑」と言うらしいです。<br /><br />和菓子の老舗「笹屋伊織」が手掛けるカフェで、2022年5月にオープンしたようで、どら焼きやパフェ等美味しそうでしたが、先を急ぎます。<br />

    京都御所の参観を終え、次の目的地に向かう途中、近衞邸休憩所前に、緑に包まれた雰囲気の良いカフェを発見、「SASAYAIORI+ 京都御苑」と言うらしいです。

    和菓子の老舗「笹屋伊織」が手掛けるカフェで、2022年5月にオープンしたようで、どら焼きやパフェ等美味しそうでしたが、先を急ぎます。

  • 住宅地の中、こんなところにも式内社があるのが京都でしょうか・・・。<br /><br />福長神社の謂れを読むと、社名は福井、綱長井の二神を合祀することに由来するようですが、元は大内裏内の神祇官西院に祀られていたようです。<br /><br />この辺りの福長町という、名の起こりともなっている神社で、福井神と綱長井神は共に井戸の神で、元は宮中の井戸を守護する神であったようです。<br />平安時代、大宮と猪熊の間に、福井社・綱長井社として祀られていたようですが、聚楽第の造営により移転する事になり、屋敷内の井戸や泉の神とされているようです。<br /><br />天明の大火で焼亡後、小社となったようですが、水の神としての信仰が篤く、明治以降も無格社ですが、公許の神社として取り扱われてきた社です

    住宅地の中、こんなところにも式内社があるのが京都でしょうか・・・。

    福長神社の謂れを読むと、社名は福井、綱長井の二神を合祀することに由来するようですが、元は大内裏内の神祇官西院に祀られていたようです。

    この辺りの福長町という、名の起こりともなっている神社で、福井神と綱長井神は共に井戸の神で、元は宮中の井戸を守護する神であったようです。
    平安時代、大宮と猪熊の間に、福井社・綱長井社として祀られていたようですが、聚楽第の造営により移転する事になり、屋敷内の井戸や泉の神とされているようです。

    天明の大火で焼亡後、小社となったようですが、水の神としての信仰が篤く、明治以降も無格社ですが、公許の神社として取り扱われてきた社です

    福長神社 寺・神社・教会

  • 福長神社から風情のある小路を歩いていくと、またまた鳥居がありました。<br /><br />霊光殿天満宮は、祭神が菅原道真公と徳川家康公を合祀する、珍しい天満宮のようです。<br />1018年創建と伝わる由緒ある神社で、道真公の6世孫である菅原義郷が、現在の大阪府東大阪市に天皇の命で建立したのが最初です。<br /><br />平安京には、道真公が太宰府に左遷された時に、一条の光が天から下りたと伝わる地点があり、河内から遷座されたこの天満宮が霊光殿と呼称されるようになったようです。<br /><br />鳥居には「天下無敵必勝利運」と記された扁額が掲げられています。<br />後宇多天皇より下賜された筆を書き写したもので、1281年に後宇多天皇の勅命によって敵国降伏の祈祷を行い、その時に用いられた書です。<br />功が奏したのか、敵の船がことごとく海に没した、と伝えられています。<br /><br />その後、応仁の乱や火災、社家の衰退等がありましたが、現在地に落ち着いたのは1761年です。<br /><br />1570年には、徳川家康が天下太平を霊光殿天満宮に祈願し、その後も深くこの天満宮を崇敬した徳川家康を、1636年に合祀したと伝えられています。

    福長神社から風情のある小路を歩いていくと、またまた鳥居がありました。

    霊光殿天満宮は、祭神が菅原道真公と徳川家康公を合祀する、珍しい天満宮のようです。
    1018年創建と伝わる由緒ある神社で、道真公の6世孫である菅原義郷が、現在の大阪府東大阪市に天皇の命で建立したのが最初です。

    平安京には、道真公が太宰府に左遷された時に、一条の光が天から下りたと伝わる地点があり、河内から遷座されたこの天満宮が霊光殿と呼称されるようになったようです。

    鳥居には「天下無敵必勝利運」と記された扁額が掲げられています。
    後宇多天皇より下賜された筆を書き写したもので、1281年に後宇多天皇の勅命によって敵国降伏の祈祷を行い、その時に用いられた書です。
    功が奏したのか、敵の船がことごとく海に没した、と伝えられています。

    その後、応仁の乱や火災、社家の衰退等がありましたが、現在地に落ち着いたのは1761年です。

    1570年には、徳川家康が天下太平を霊光殿天満宮に祈願し、その後も深くこの天満宮を崇敬した徳川家康を、1636年に合祀したと伝えられています。

    霊光殿天満宮 寺・神社・教会

  • 「天下無敵必勝利運」を写したのですが、我ながら下手ですねぇ。<br /><br />狛犬さんと天満宮の丑の写真は、マズマズかなと思うのですが。

    「天下無敵必勝利運」を写したのですが、我ながら下手ですねぇ。

    狛犬さんと天満宮の丑の写真は、マズマズかなと思うのですが。

  • 目的地の晴明神社に到着です。<br /><br />1005年に安倍晴明が亡くなると、その時の一条天皇が遺業を賛え、稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年に屋敷跡に祀る神社を創建したと伝えられています。<br />当時は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通までという広大な敷地だったようですが、戦火や秀吉による都市整備(天正の地割り)等により次第に縮小され、社殿も荒れてきたのを幕末以降に氏子らが見かねたのか、社殿・境内の整備を行い、明治時代に村社に列せられたようです。<br /><br />平成に入り、夢枕獏氏の『陰陽師』シリーズが大ヒットし、漫画・映画化され陰陽師 安倍晴明ブームが起こり、全国から参拝者が殺到する神社となったようです。

    目的地の晴明神社に到着です。

    1005年に安倍晴明が亡くなると、その時の一条天皇が遺業を賛え、稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年に屋敷跡に祀る神社を創建したと伝えられています。
    当時は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通までという広大な敷地だったようですが、戦火や秀吉による都市整備(天正の地割り)等により次第に縮小され、社殿も荒れてきたのを幕末以降に氏子らが見かねたのか、社殿・境内の整備を行い、明治時代に村社に列せられたようです。

    平成に入り、夢枕獏氏の『陰陽師』シリーズが大ヒットし、漫画・映画化され陰陽師 安倍晴明ブームが起こり、全国から参拝者が殺到する神社となったようです。

    晴明神社 寺・神社・教会

  • 『陰陽師』は、安倍晴明の活躍を描いた伝奇小説らしいですが、私、知りませんでした。<br /><br />そもそも陰陽師とは何か、という所から始めたのですが、Wikipediaによると、古代日本の律令制の中で、中務省の陰陽寮に属した官職の1つ、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮、及び地相などを職掌とする技術系の技官で、占術や呪術、祭祀を司る人のようです。<br /><br />陰陽五行思想とは、全ての事象は陰・陽と、木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の陰陽五行思想がルーツのようですね。<br />推古天皇の頃、602年に觀勒が来日し、聖徳太子をはじめ34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が国政に大きな影響を与えるようになったようです。初めて暦が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法等学ぶため607年には、遣隋使の派遣が始められ、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定にも、陰陽五行思想の影響が色濃く現れていったようです。<br /><br />天文学、暦学、易学、時計等の組み合わせですが、よく考えると様々な事で、現在でも私達の生活の中に、溶け込んでいますね。

    『陰陽師』は、安倍晴明の活躍を描いた伝奇小説らしいですが、私、知りませんでした。

    そもそも陰陽師とは何か、という所から始めたのですが、Wikipediaによると、古代日本の律令制の中で、中務省の陰陽寮に属した官職の1つ、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮、及び地相などを職掌とする技術系の技官で、占術や呪術、祭祀を司る人のようです。

    陰陽五行思想とは、全ての事象は陰・陽と、木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする、中国古代の陰陽五行思想がルーツのようですね。
    推古天皇の頃、602年に觀勒が来日し、聖徳太子をはじめ34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が国政に大きな影響を与えるようになったようです。初めて暦が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法等学ぶため607年には、遣隋使の派遣が始められ、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定にも、陰陽五行思想の影響が色濃く現れていったようです。

    天文学、暦学、易学、時計等の組み合わせですが、よく考えると様々な事で、現在でも私達の生活の中に、溶け込んでいますね。

  • 陰陽道と言えば五芒星ですが、魔除けの呪符として伝えられているようです。<br />安倍晴明の紋としても有名ですね。<br /><br />印に込められた意味としては、陰陽五行説によると、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表したもので、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として使用されています。<br /><br />左上は晴明井と呼ばれる井戸ですが、ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力より湧き出たと伝えられていて、無病息災のご利益があるといわれています。<br />また、千利休がこの井戸から汲んだ水を、茶の湯として利用していたと伝えられています。<br /><br />取水口が五芒星の頂点の一つに向くように、立春の日に神職が上部を回転させ、その年の恵方に向けるのが慣わしのようです。

    陰陽道と言えば五芒星ですが、魔除けの呪符として伝えられているようです。
    安倍晴明の紋としても有名ですね。

    印に込められた意味としては、陰陽五行説によると、木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表したもので、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として使用されています。

    左上は晴明井と呼ばれる井戸ですが、ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力より湧き出たと伝えられていて、無病息災のご利益があるといわれています。
    また、千利休がこの井戸から汲んだ水を、茶の湯として利用していたと伝えられています。

    取水口が五芒星の頂点の一つに向くように、立春の日に神職が上部を回転させ、その年の恵方に向けるのが慣わしのようです。

  • 神社のHPでは、晴明は天文学者と記載されています。<br />移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当てていたと伝えられていますが、確かに現在では、気象観測や天体観測の数値により予報精度が向上していますが、当時の科学的検証の結果を知りたいですね。<br /><br />本殿は、晴明桔梗(五芒星)が随所にあしらわれています。<br />「晴明桔梗」のモチーフは桔梗で、境内には約2,000株の桔梗が植えられているようです。<br /><br />本殿脇には神社所有の肖像画を元に作成された像があります。<br />衣の下で印を結び、夜空の星を見て遠く天体を観測している様子を表しているようです。<br />本殿は1905年に建立されたものです。

    神社のHPでは、晴明は天文学者と記載されています。
    移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言い当てていたと伝えられていますが、確かに現在では、気象観測や天体観測の数値により予報精度が向上していますが、当時の科学的検証の結果を知りたいですね。

    本殿は、晴明桔梗(五芒星)が随所にあしらわれています。
    「晴明桔梗」のモチーフは桔梗で、境内には約2,000株の桔梗が植えられているようです。

    本殿脇には神社所有の肖像画を元に作成された像があります。
    衣の下で印を結び、夜空の星を見て遠く天体を観測している様子を表しているようです。
    本殿は1905年に建立されたものです。

  • こちらも本殿脇にある、厄除桃です。<br /><br />古来より陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれているそうです。<br />ます。<br />「古事記」、「日本書紀」でも、魔物を追い払う様が描かれている事から、「桃太郎」もその一つではないかと言われています。<br /><br />この桃を撫でることで、厄払いできるという事で、ナデナデしておきました。

    こちらも本殿脇にある、厄除桃です。

    古来より陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれているそうです。
    ます。
    「古事記」、「日本書紀」でも、魔物を追い払う様が描かれている事から、「桃太郎」もその一つではないかと言われています。

    この桃を撫でることで、厄払いできるという事で、ナデナデしておきました。

  • 安倍晴明は、十二神将を式神として使役し家の中に置いていたようですが、妻がその顔を怖がったので、一条戻橋の下に封じ込め、必要なときに召喚していたと伝えられています。<br />その橋が架け替えられる前の欄干 親柱を境内に移し、「一條戻橋」が再現されています。<br />傍らには、式神の石像も置かれています。<br /><br />また、一条戻橋は、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所のようです。<br /><br />現在も、昔ながらの位置である、晴明神社から南へ約100mの所に架かっていて、「戻る」を嫌って嫁入りや葬式の列は、この橋を渡らないのが習わしのようです。

    安倍晴明は、十二神将を式神として使役し家の中に置いていたようですが、妻がその顔を怖がったので、一条戻橋の下に封じ込め、必要なときに召喚していたと伝えられています。
    その橋が架け替えられる前の欄干 親柱を境内に移し、「一條戻橋」が再現されています。
    傍らには、式神の石像も置かれています。

    また、一条戻橋は、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした場所のようです。

    現在も、昔ながらの位置である、晴明神社から南へ約100mの所に架かっていて、「戻る」を嫌って嫁入りや葬式の列は、この橋を渡らないのが習わしのようです。

  • 一条戻橋を渡りホテルに向かう途中に、一般の住宅の敷地に、このような石碑と看板がありました。<br /><br />真偽のほどは分かりませんが、応仁の乱の洛中合戦の勃発地、主計町の地名から加藤清正邸跡という事のようです。<br /><br />では、北山に向かいます。<br /><br />前半、これまで。

    一条戻橋を渡りホテルに向かう途中に、一般の住宅の敷地に、このような石碑と看板がありました。

    真偽のほどは分かりませんが、応仁の乱の洛中合戦の勃発地、主計町の地名から加藤清正邸跡という事のようです。

    では、北山に向かいます。

    前半、これまで。

32いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP