2022/10/29 - 2022/10/29
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gianiさん
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バラク・オバマ氏が史上初の黒人大統領になった際に、ちょっとだけ話題になった都市。
そんな小浜がブイブイ言っていた繁栄の歴史を辿ります。
歴史順に一筆書きの地図情報もご参照ください。
- 旅行の満足度
- 5.0
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小浜には市立の博物館がないので、県立博物館で学べます。
ここJR東小浜駅付近は、飛鳥時代から若狭国の政治経済文化の中心でした。福井県立若狭歴史博物館 美術館・博物館
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小浜観光の起点。
小浜駅前の観光案内所は、資料が充実しています。精選された土産物販売、ワンコインのコーヒーでスマホの充電し放題と、勝手が良いです。 -
小浜津
京都の外港(京都から一番近い日本海)として、古来から繁栄しました(現在のカキ養殖場)。鎌倉時代になると、湾最深部の古津から西津(小浜城址の北側)へ移動します。 -
鎌倉時代には、操船に長ける漁民が各浦のリーダー刀祢(とね)のリーダーシップのもとに、遠方との交易(廻船業)に乗り出します。若狭国守護(=執権北条氏の直轄領)の庇護を受けました。来る船を迎えるだけでなく、自らも乗り出して富が累進します。
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源頼貞書状(鎌倉時代13世紀)
志積浦の廻船が越前三国湊でトラブルに巻き込まれた際に、刀祢の安倍氏が現地の領主に訴えた次第。自分たちは、廻船で生計を立てているという文面が。 -
繁栄
国内のみならず、室町幕府と中国の明との貿易船も小浜津に寄港します。写真は、1408年に小浜津に華僑とインド象が上陸する様子。
16世紀には、その繁栄ぶりが「堺か小浜か」と比喩されます。 -
小浜津は西津から、北川の河口部に移動します。
北川は熊前まで遡上し、陸路で峠を越えて琵琶湖水運という京都への船輸送に最適です。 -
武田元光
若狭武田氏第5代の守護。
1522年に小浜の後瀬山に本拠地を移動した。
妻は、幕府管領を務めた細川澄元の娘。 -
本丸と二の丸(山上御殿)は山中、守護居館は麓の長源寺を立ち退かせて建設しました。後背山は、国道27号線とJR小浜線がトンネルで回避している天然の要害です。
隣国丹後の守護一色氏との確執等があって、山城にしました。後瀬山城跡 名所・史跡
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写真は、守護居館跡かつ旧小浜小学校跡地。平成18年以降、発掘が進められています。
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居館跡の発掘品
中国・朝鮮の陶磁器が見つかり、武田氏の繁栄ぶりがうかがえます。 -
長源寺の立ち退き先。
山号を向島と名乗るように、当時は沼地の中の小島。
現在は、官公庁・商店街が並ぶ、小浜の一等地です。
国の重文指定を含む、文化財の宝庫。
但し公開されているのは、山門だけです。長源寺 寺・神社・教会
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山門は仁王門。元々は運慶作の仁王像がありましたが、京都の常寂光寺に移設。
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弓馬之書Vol.1 武田流(江戸時代)
武田家は、古来から馬術・弓術の大家。宗家(信玄でお馴染みの甲斐)から安芸分家、安芸分家から独立した若狭系当主が宗家を受け継ぎました。上の元光の画も然り。彼と細川家が姻戚関係だったことがあり、細川家中に引き継がれ現在に至ります。熊本の武田流流鏑馬(やぶさめ)は、三大流派の内最も格式が高いとされます。 -
織田豊臣政権下でも、小浜は重要人物が統治。
関ヶ原合戦後、京極高次が初代小浜藩主になる。
妻の初は、姉が淀君、妹が徳川秀忠夫人の江、自身は織田信長の姪。 -
小浜に入府した京極高次は、城下町再編に取り掛かります。
1601年に、新しい城を港の向かい側に建設します。外敵の脅威が低下し、天下が太平へ向かっていることを意味します。
とはいえ、大坂には豊臣氏が健在。川と海の堀で囲んで、防御に余念はありません。小浜城址 名所・史跡
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高次は、城下町の真ん中(後瀬山廃城と小浜城の中間)に市場を建設しました。
市場跡はいづみ通りとなり、いづみ町商店街が賑わいました(再開発のために数年前に消滅)。 -
市場は京へ通じる鯖街道の起点となりました。
現在は市立のミュージアムが建ちます。いづみ町商店街 市場・商店街
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プロジェクト半ばで京極氏は転封し、
初代幕府大老も務めた譜代の酒井忠勝が1634年に入府し、小浜城は完成します。
明治維新後、陸軍駐屯地、北川改修による南側遺構の破壊を経て、現在は小浜神社になっています。現在も慶長積みの石垣が残ります。 -
酒井忠勝が小浜入りする際に、将軍家光から二条城で拝領した大火縄銃も伝わっています。全長3mの大物です。重量も気になります。
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小浜とキリスト教
小浜は、京都を目指す宣教師上陸の地でもありました。宣教師フラテンは、小浜で日孟上人と教理問答を行っています。
小浜の大名木下勝俊、京極高次・初夫婦もキリシタンでした。 -
豪商の誕生
小浜の商人は時の権力に味方し、秀吉の鳥取攻めに協力しています。
組屋家は小浜筆頭の商人で、浅野長政の命で朝鮮出兵に先立って兵糧の調達・回送等、豊臣政権と深く関わって財を成します。小浜藩では、代官も務めます。 -
北前船の寄港地
17世紀後半に確立された航路で、日本海・瀬戸内海を航行して大坂へ至るルート。荷主の依頼で貨物を輸送するのではなく、船主が買った商品を寄港地で売り捌き、同じく寄港地で買った積荷を出発地で売り捌く。 -
小浜の船主
大航海時代の南蛮貿易船と一緒で、何を仕入れて、何処を経由(積荷を捌き、仕入れる)するかは、船主次第だった。生産地と消費地の価格差が利益の源で、北からは昆布・鰊等を運び、本州からは衣類や酒・米調味料等を運んだ。 -
千石船
北前船に用いられた船。江戸中期の弁才船と呼ばれる形式で、帆で受けた風を動力に進む。船主は、船が竣工した際に、模型を神社に奉納した。 -
船絵馬(古河屋)
航海安全を願って、もしくは無事航海を終えたことを感謝して、神社に絵馬を奉納した。航海はハイリスクハイリターンで、常に死と隣り合わせだった。 -
船絵馬(木綿屋)
北前船の航海は、1年に1往復(稀に2往復)だった。絵馬のように船団を組めば、売り上げも増した。 -
船手形
寄港するには、手形が必要だった。発行元は母港の藩。 -
船仏
古河屋の船に載せたもの。神だけでなく、仏にもすがった。 -
若狭瓦
口名田地区は良質な粘土に恵まれ、南川の水運もあって、江戸中期から瓦を生産しました。耐久性も優れ、小浜・若狭国だけでなく、北前船のバランスを保つバラストとして積載し、寄港地で広く伝わりました。北海道各地のニシン御殿の屋根にも吹かれています。平成22年に、長い歴史に終止符を打ちました。
口名田地区は、祇園伝来の松上げが有名です。松上げ 祭り・イベント
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中央政権に参画する立場にあったために、歴代の小浜藩主は教育を重要視していました。
写真は、1771年にオランダ商館長から借用した2冊の医学書のひとつ「ターヘル・アナトミア」。小浜藩の医師杉田玄白は、高額な2冊の本の購入を藩主酒井忠貫に熱望し、その願いを受け入れました。 -
藩医中川淳庵、杉田玄白らは、「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り掛かります。理解を増すため、当時タブーだった日本初の人体解剖の許可を取り、江戸郊外の小塚原刑場へ赴くなど、行動力を発揮。写真は、出版の前年に出した予告編「解体約図」。
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こうして世に出たのが「解体新書」です。写真は、第一巻。
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そんな訳で、公立小浜病院の前には、地元が輩出した臨床医杉田玄白の銅像が立っています。85歳で亡くなるまで、患者を診ました。
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1774年には、藩校「順造館」も開設されます。写真は、若狭の名門県立小浜高校に移設された正門。
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藩校が存在した一番町。北川南川・を挟んで城の真向かいです。
海に面しているのに、湧き水の宝庫。平成・名水百選にも選ばれた雲城の水は、写真の右枠外。 -
年中一定した水温で、飲用可能です。塩気は無く、すがすがしい味でした。
雲城水 名所・史跡
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順造館が輩出した人材には、尊王攘夷運動の先駆け的存在の梅田雲浜も。
海防を説いて藩籍をはく奪されましたが、翌年の黒船到来で名誉は挽回されます。
一番町と現在の水産加工団地の境界には、1854年に川崎台場が建設され、7門の大砲が設置されました。 -
明治維新
酒井家は幕府大老を務められる4家の一つという事もあって、佐幕派として行動する立場でしたが、戊辰戦争中に優秀な藩士の努力もあって、深い傷を負わずに明治維新を迎えられました。小浜の街も戦火を回避でき、伝統と繁栄が継承されました。
福井県(ほんの一時期は滋賀県)に編入されて、現在に至ります。、 -
北前船
北海道の開発も進み、相変わらず北前船航路は繁栄します。中継点・風待ち港として小浜は繁栄し続けます。しかし、鉄道と通信の発達に伴い、地域間の価格差という最大の利鞘が失われ、昭和に入ると終焉を迎えます。物流の幹線から外れた小浜は衰退の一途をたどります。 -
漁業
小浜は豊富な海産物という武器も。代表格は鯖。江戸時代は能登と並ぶ名産地。能登は乱獲で退場し、江戸後期から、若狭の鯖は質・量共に独り勝ちでした。しかし明治期に導入された延縄漁で自滅し、1970年代から深刻な不漁に悩まされます。現在の小浜市域の浦は、牡蠣・フグ・鯖・鮭の養殖を行い、ブランド化を図っています。 -
ここからは、C級の小浜史。
小浜には人魚の浜と呼ばれるビーチがあり、人魚の銅像も建っています。
なぜかというと、小浜には人魚伝説があるからです。
ベースは、1301年にこの浜で目撃されたジュゴンに由来します。 -
八百比丘尼(はっぴゃくびくに)
西暦654年に勢村の長者の娘として生まれ、16歳mの時に父が竜宮の手土産「人魚の肉」を食べたところ、不老長寿を手にします。120歳で出家して比丘尼になり、諸国を行脚して恩恵をもたらしました。 -
入定洞
1449年に小浜に戻り、長源寺の洞窟に入定して800年の生涯を閉じた。残り200年の寿命を重病の殿様に差し出したともいわれています。 -
敷地は、後瀬山城の居館に組み込まれ、小浜城が完成すると、空印寺の境内になり、今に至ります。400円払えば、入洞できます。
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人魚の浜の近くには、老舗の木崎旅館が。
普通の宿に見えますが、木戸孝允の妻松子の生家です。
小浜藩士木崎市兵衛・末子の娘として生まれ、京都で「幾松」の名前で芸者をしていた際に、桂小五郎と知り合います。彼は、生涯彼女にぞっこんでした。 -
人魚の浜の先には、市街地に隣接した小浜公園が。
表の歴史には出ない、ダークなスポット。
1978年7月7日、地村保志さんが婚約者の濵本富貴惠さんと海岸沿いの小浜公園展望台へデートへ行きました。その時に拉致事件は起きました。 -
このカーブの向こうです。
丹後~越後の沿岸民にとっては、他人事ではないニュース。
今は静かに生活を送っているご夫婦も、未解決問題の風化阻止のためには活動されています。 -
小浜・若狭で見かける恐竜の擬人モニュメント。
嶺北地区(越前)で歴史的発見がなされ、福井県はジオワールドを標榜、化石と無縁の嶺南地区(若狭)も追従しています。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11793634
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