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2021年9月9日(木)2時過ぎに打下日吉神社を出て、南に歩くこと約15分、ようやく白髭神社の湖の中に建つ鳥居が見えて来る。鳥居の近くに沢山の人影が見えるが、おそらくこれは途中にあった白ひげビーチから白ひげSUP体験でやって来られた皆さんと思われる。SUPとは「Stand Up Paddle」の略で「立って漕ぐボート」のこと。白ひげビーチで4500円の2時間コースを楽しめるようだ。<br /><br />白鬚神社は「白鬚さん」、「明神さん」の名で広く親しまれ、また沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、近江の厳島とも称される近江最古の大社。数え年2歳の子に名前を授け、その子の無事成育を祈る「なるこまいり」の神事は有名で、この神事の行われる秋の例大祭には、全国から参拝者が訪れる。<br /><br />祭神は延命長寿の神とされる猿田彦命で、白い鬚を蓄えた老人のお姿をしており、白鬚神社あるいは白鬚大明神と呼ばれる由来になった。ただ、元々の祭神は社殿の背後にそびえる比良山の神とも云われることから比良明神とも呼ばれる。全国にある白鬚神社の総本社。縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通安全・航海安全など人の営みごと、業ごと全ての導きの神でもある。<br /><br />社伝によると古墳時代の第11代垂仁天皇の時代に創建されたとある。考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半頃と推定されるが定かではない。国史では平安時代の865年に比良神が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この比良神がこの神社にあたるとされる。観阿弥の「白鬚」は白鬚神社の縁起を謡っている。<br /><br />湖中の大鳥居はこの神社のシンボルになっている。大昔から湖中に鳥居があったと伝えられ、室町時代の屏風絵や江戸時代に描かれた白鬚神社の縁起絵巻にも湖中の鳥居が描かれているが、実際にあったという証拠はない伝説の鳥居だった。<br /><br />鎌倉時代の1280年の絵図では陸上に描かれており、その後の琵琶湖の水位上昇に伴い水中に沈んでいったと考えられる。1491年、室町時代の史料に「鳥井(鳥居)湖ニツクリカクル」と云う記述があり、さらに1562年には湖中から華表(鳥居)が顕出したと云う記事もあるが、痕跡は見つかっていない。<br /><br />1937年(昭和12年)、この伝説に基づいて大阪の薬問屋の小西久兵衛氏によって湖中の鳥居が寄進された。現在の鳥居は1981年に15m沖に建て替えられたもの。これは1972年から1997年にかけて琵琶湖の水資源開発と治水、地域の社会基盤整備を目的として行われた琵琶湖総合開発事業により、琵琶湖の水位がそれまでより1.5m下がるため。<br /><br />両本柱に稚児柱が建てられている両部鳥居で、高さ12m、本柱の径1mで間隔7.8mの鉄筋コンクリート造り。基準水位より30cm低い水位で最も美しく見えるように設計されている。扁額は巾2.3m 高さ2.45mの青銅製で、明治初期の元帥陸軍大将だった小松宮彰仁親王殿下の筆。<br /><br />なお、この大鳥居は道路の湖側に見学や撮影スペースはなく、国道は横断歩道はなく横断禁止。この時から3か月ほど先の2021年12月に境内に展望フォトスポット「藍湖(おうみ)白鬚台」が高島ロータリークラブ創立45周年記念事業で設置されたそうなので、そこで見ること。この時はまだなかったが私は横断してない。この展望台設置後に渡ろうとした方が車にはねられてなくなったとのことなので、これから行く方は絶対に横断しないように!<br /><br />境内入口の赤鳥居を潜ると正面に拝殿、そして屋根続きの本殿。奥の本殿は、豊臣秀吉の遺命を受け、秀頼の寄進により1603年に建立されたもので国の重文。片桐且元書の棟札も残されている。<br /><br />正方形の明解な平面で、檜皮葺き、入母屋造り。大型で向拝の手挟、蟇股などの絵様に桃山時代の特徴をよく表している。拝殿は1879年(明治12年)に再建されたもので、向拝の軒先を切り縮めて拝殿を付加したため、権現造風となった。<br /><br />拝殿右手の手水舎は1987年に白鬚神社延齢会によって再建された。銅板葺きで総檜造りの風格ある建造物。中の手水鉢は1881年(明治14年)に京都延齢社により寄進されたもの。手水舎の反対側には与謝野寛(鉄幹)・晶子歌碑。1918年(大正8年)に先代(?)の手水舎を再建したことを記念して建立された。<br /><br />揮毫は寛の手であり、全国にある与謝野の歌碑の中で最も古い頃のものと云われる。彫られている歌は、1911年(大正元年)に2人がここに初参拝した時に、社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、上の句が寛、下の句が晶子の合作。「しらひげの神のみまへにわくいづみ これをむすべばひとの清まる」。<br /><br />さらにその奥(東側)に建つ社務所は、1933年(昭和8年)の建築。当時の粋を集めた建造物で、昭和の文化財としての価値が高く、国の登録文化財に指定されている。<br /><br />社殿の左手の広場には絵馬殿。江戸初期の1624年に大溝藩主 分部光信によって造営された旧拝殿。絵馬殿の横の街道沿いには湖中の鳥居を復興した経緯を記した鳥居復興碑(下の写真1)。<br /><br />広場の旧街道南出口付近には芭蕉の句碑。「四方より花 吹き入れて鳰(にほ)の湖」。芭蕉47歳の作で、桜の花びらが四方から吹き入れて来る春たけなわの琵琶湖(鳰の湖)の風景を詠んでいる。江戸末期の1857年に蕉門の人たちによって建立されたもの。<br /><br />絵馬殿の奥には若宮神社。御祭神は猿田彦命のえい孫とも別名とも云われる太田命。本殿と同じ1603年に豊臣秀頼公による再建の記録が棟札にある。2000年に修復されている。市の指定文化財。<br /><br />若宮神社横の階段から上の宮に進む。3つの段に10社のお宮がある。1段目は外宮(豊受大神宮)、内宮(天照皇大神宮)、八幡三社(加茂神社、八幡神社、高良神社の相殿)。外宮は2012年、内宮は2011年の修復で、共に市の指定文化財。八幡三社の創建は1540年で、伊勢両宮と共に領主佐々木義賢の奉納。<br /><br />2段目は天満宮、(波除)稲荷社、寿老神社・鳴子弁財天社。天満宮は1段目の八幡三社の奥にあったものを1999年に修復移転した。稲荷社は2015年に修復。寿老神社は1988年に西近江七福神巡りの一つになったのを記念して建立。鳴子弁財天社は1926年(大正15年)から社務所や宮司宅に奉斎していたが、大阪の信者によって社殿が建立寄進された。<br /><br />一番上の段には岩戸社 境内の一番上手にある石室(古墳)の前に社を建て、天の岩戸として奉祀してある。<br /><br />また、上の宮には多くの歌碑・句碑が建てられているが、紫式部しか知らない。他は羽田岳水、中野照子、松本鷹根(下の写真2、3、4)。<br /><br />紫式部の歌碑は1988年に紫式部を顕彰し、高島町観光協会が建立したもの。式部が、996年に越前国司として赴任する父藤原為時に従ってこの地を通った時に詠んだ歌「みおの海に網引く民のてまもなく 立ちゐにつけて都恋しも」。<br /><br />帰りに社務所で御守を購入。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8177541982315754&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />帰路に就くが、続く<br />

滋賀 近江高島 白鬚神社(Shirahige-jinja Shrine,Omi-Takashima,Shiga,Japan)

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2021/09/09 - 2021/09/09

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旅行記グループ 湖西

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年9月9日(木)2時過ぎに打下日吉神社を出て、南に歩くこと約15分、ようやく白髭神社の湖の中に建つ鳥居が見えて来る。鳥居の近くに沢山の人影が見えるが、おそらくこれは途中にあった白ひげビーチから白ひげSUP体験でやって来られた皆さんと思われる。SUPとは「Stand Up Paddle」の略で「立って漕ぐボート」のこと。白ひげビーチで4500円の2時間コースを楽しめるようだ。

白鬚神社は「白鬚さん」、「明神さん」の名で広く親しまれ、また沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、近江の厳島とも称される近江最古の大社。数え年2歳の子に名前を授け、その子の無事成育を祈る「なるこまいり」の神事は有名で、この神事の行われる秋の例大祭には、全国から参拝者が訪れる。

祭神は延命長寿の神とされる猿田彦命で、白い鬚を蓄えた老人のお姿をしており、白鬚神社あるいは白鬚大明神と呼ばれる由来になった。ただ、元々の祭神は社殿の背後にそびえる比良山の神とも云われることから比良明神とも呼ばれる。全国にある白鬚神社の総本社。縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通安全・航海安全など人の営みごと、業ごと全ての導きの神でもある。

社伝によると古墳時代の第11代垂仁天皇の時代に創建されたとある。考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半頃と推定されるが定かではない。国史では平安時代の865年に比良神が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この比良神がこの神社にあたるとされる。観阿弥の「白鬚」は白鬚神社の縁起を謡っている。

湖中の大鳥居はこの神社のシンボルになっている。大昔から湖中に鳥居があったと伝えられ、室町時代の屏風絵や江戸時代に描かれた白鬚神社の縁起絵巻にも湖中の鳥居が描かれているが、実際にあったという証拠はない伝説の鳥居だった。

鎌倉時代の1280年の絵図では陸上に描かれており、その後の琵琶湖の水位上昇に伴い水中に沈んでいったと考えられる。1491年、室町時代の史料に「鳥井(鳥居)湖ニツクリカクル」と云う記述があり、さらに1562年には湖中から華表(鳥居)が顕出したと云う記事もあるが、痕跡は見つかっていない。

1937年(昭和12年)、この伝説に基づいて大阪の薬問屋の小西久兵衛氏によって湖中の鳥居が寄進された。現在の鳥居は1981年に15m沖に建て替えられたもの。これは1972年から1997年にかけて琵琶湖の水資源開発と治水、地域の社会基盤整備を目的として行われた琵琶湖総合開発事業により、琵琶湖の水位がそれまでより1.5m下がるため。

両本柱に稚児柱が建てられている両部鳥居で、高さ12m、本柱の径1mで間隔7.8mの鉄筋コンクリート造り。基準水位より30cm低い水位で最も美しく見えるように設計されている。扁額は巾2.3m 高さ2.45mの青銅製で、明治初期の元帥陸軍大将だった小松宮彰仁親王殿下の筆。

なお、この大鳥居は道路の湖側に見学や撮影スペースはなく、国道は横断歩道はなく横断禁止。この時から3か月ほど先の2021年12月に境内に展望フォトスポット「藍湖(おうみ)白鬚台」が高島ロータリークラブ創立45周年記念事業で設置されたそうなので、そこで見ること。この時はまだなかったが私は横断してない。この展望台設置後に渡ろうとした方が車にはねられてなくなったとのことなので、これから行く方は絶対に横断しないように!

境内入口の赤鳥居を潜ると正面に拝殿、そして屋根続きの本殿。奥の本殿は、豊臣秀吉の遺命を受け、秀頼の寄進により1603年に建立されたもので国の重文。片桐且元書の棟札も残されている。

正方形の明解な平面で、檜皮葺き、入母屋造り。大型で向拝の手挟、蟇股などの絵様に桃山時代の特徴をよく表している。拝殿は1879年(明治12年)に再建されたもので、向拝の軒先を切り縮めて拝殿を付加したため、権現造風となった。

拝殿右手の手水舎は1987年に白鬚神社延齢会によって再建された。銅板葺きで総檜造りの風格ある建造物。中の手水鉢は1881年(明治14年)に京都延齢社により寄進されたもの。手水舎の反対側には与謝野寛(鉄幹)・晶子歌碑。1918年(大正8年)に先代(?)の手水舎を再建したことを記念して建立された。

揮毫は寛の手であり、全国にある与謝野の歌碑の中で最も古い頃のものと云われる。彫られている歌は、1911年(大正元年)に2人がここに初参拝した時に、社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、上の句が寛、下の句が晶子の合作。「しらひげの神のみまへにわくいづみ これをむすべばひとの清まる」。

さらにその奥(東側)に建つ社務所は、1933年(昭和8年)の建築。当時の粋を集めた建造物で、昭和の文化財としての価値が高く、国の登録文化財に指定されている。

社殿の左手の広場には絵馬殿。江戸初期の1624年に大溝藩主 分部光信によって造営された旧拝殿。絵馬殿の横の街道沿いには湖中の鳥居を復興した経緯を記した鳥居復興碑(下の写真1)。

広場の旧街道南出口付近には芭蕉の句碑。「四方より花 吹き入れて鳰(にほ)の湖」。芭蕉47歳の作で、桜の花びらが四方から吹き入れて来る春たけなわの琵琶湖(鳰の湖)の風景を詠んでいる。江戸末期の1857年に蕉門の人たちによって建立されたもの。

絵馬殿の奥には若宮神社。御祭神は猿田彦命のえい孫とも別名とも云われる太田命。本殿と同じ1603年に豊臣秀頼公による再建の記録が棟札にある。2000年に修復されている。市の指定文化財。

若宮神社横の階段から上の宮に進む。3つの段に10社のお宮がある。1段目は外宮(豊受大神宮)、内宮(天照皇大神宮)、八幡三社(加茂神社、八幡神社、高良神社の相殿)。外宮は2012年、内宮は2011年の修復で、共に市の指定文化財。八幡三社の創建は1540年で、伊勢両宮と共に領主佐々木義賢の奉納。

2段目は天満宮、(波除)稲荷社、寿老神社・鳴子弁財天社。天満宮は1段目の八幡三社の奥にあったものを1999年に修復移転した。稲荷社は2015年に修復。寿老神社は1988年に西近江七福神巡りの一つになったのを記念して建立。鳴子弁財天社は1926年(大正15年)から社務所や宮司宅に奉斎していたが、大阪の信者によって社殿が建立寄進された。

一番上の段には岩戸社 境内の一番上手にある石室(古墳)の前に社を建て、天の岩戸として奉祀してある。

また、上の宮には多くの歌碑・句碑が建てられているが、紫式部しか知らない。他は羽田岳水、中野照子、松本鷹根(下の写真2、3、4)。

紫式部の歌碑は1988年に紫式部を顕彰し、高島町観光協会が建立したもの。式部が、996年に越前国司として赴任する父藤原為時に従ってこの地を通った時に詠んだ歌「みおの海に網引く民のてまもなく 立ちゐにつけて都恋しも」。

帰りに社務所で御守を購入。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8177541982315754&type=1&l=223fe1adec


帰路に就くが、続く

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  • 写真1 鳥居復興碑 裏面

    写真1 鳥居復興碑 裏面

  • 写真2 羽田岳水 句碑

    写真2 羽田岳水 句碑

  • 写真3 中野照子 歌碑

    写真3 中野照子 歌碑

  • 写真4 松本鷹根 句碑

    写真4 松本鷹根 句碑

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