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2021年9月9日(木)1時半過ぎ、近江高島駅前から大溝城跡へ進む。駅のすぐ東。高島ふれあい交流広場の南にある分部神社の裏側のすぐ東。高島城、鴻溝(こうこう)城、鴻湖(こうこ)城とも云う。<br /><br />大溝城は安土桃山時代の1578年に、織田信長の命により甥の津田(織田)信澄が築城した。設計は明智光秀とも云われる。本能寺の変の後に光秀の娘を妻としていた信澄は自害に追い込まれ、大溝城は数年のうちに丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次らへと移り変わり、やがて大溝城は解体された。<br /><br />江戸時代に入り、1619年に分部(わけべ)光信が入封し、西側の三ノ丸に陣屋を設置し、総門を境に、武家屋敷地と町人地を分画して再整備した。以後明治維新まで分部家が11代続いた。<br /><br />琵琶湖の内湖である洞海(現在の乙女ヶ池)を利用して取り囲むように築いた水城。規模は東西600m、南北1000m。本丸の南側に二ノ丸、西側に三ノ丸があり、堀で鍵型に囲むように配置されていた。また、本丸の北側および北の湊の東側に面して同じく鍵型に囲むように武家屋敷地があった。<br /><br />今日、本丸天守台の石垣を除いて、周囲の堀や二ノ丸、三ノ丸一帯は埋め立てられているが、大溝城跡は旧城下地区と共に「大溝の水辺景観」として国の重要文化的景観に指定されている。<br /><br />1950年開設の高島市民病院の正面玄関横の広場を横切って天守台跡へ。大溝城の遺構で残っているのはここだけ。駅前のガリバーメルヘン広場にあったパネルの古図(下の写真1)と、この天守台跡に立つパネルの縄張り推定図(下の写真2)を見比べると、駅前から分部神社辺りが三の丸、市民病院前の広場が二の丸で、この残っている天守台一帯が本丸で、後の部分は堀や洞海だったようだ。<br /><br />天守台は、本丸の南東部に位置し、東西24m、南北29mで、高さは約5mある。石材は花崗岩で野面積みだが、一部は算木積みで補強されている。石垣は比良山地の石材が使用されたと伝わる他、琵琶湖の沖島から湖上を筏によって運搬されたとも伝えられている。<br /><br />大溝城跡の東南方向に大きく広がるのは乙女が池。万葉の時代には香取の海と呼ばれ、山の麓まで琵琶湖の入り江だったが、その後内湖となり、表の湖(琵琶湖)に対して、裏海、背戸海などと呼ばれていた。大溝城築城に当たっては外堀として利用された。<br /><br />近年は洞海(どうかい)と呼ばれていたが、昭和30年代、淡水真珠の養殖場として利用されることとなった際に「イメージのよい名前を」ということから現在の名前に改名された。県の園地公園として1991年から3年掛けて水景整備された。面積8.6haで平均水深は1.6m。ビワマス、フナ、コイ、ブラックバスなどが生息し、特にバス釣りのメッカとなっている。<br /><br />天守台跡から池の西岸沿いを南に行くと万葉歌碑がある。「大船香取海慍下 何有人物不念有」。万葉集巻11に収録されているもので、詠み人知らず。香取海は上述のようにこの池があるところの古名。大船は枕詞で、「香取の海に碇を下ろし、いかなる人が物思いをしないでいられようか(どんな人でも恋の心には悩むものを)」の意。ちなみに近江高島周辺にはこの辺りで詠まれたされる万葉集の歌碑が6基設置されている。<br /><br />歌碑から少し南に進むと太鼓橋がある。池の真ん中で東西の岸を結んでいるが、この橋は2013年度下期に放送されたNHKの朝ドラ「ごちそうさん」でロケに使われた。東京の本郷近くの池(不忍池と思われる)と云う設定で、杏演じる主人公のめ以子と夫となる東出昌大演じる西門悠太郎との出会いの場面が3回撮られており、縁結びスポットになっている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8162824220454197&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />太鼓橋を渡って打下集落に進むが、続く

滋賀 近江高島 大溝城跡(Omizo Castel Ruins,Omi-Takashima,Shiga,Japan)

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2021/09/09 - 2021/09/09

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旅行記グループ 湖西

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年9月9日(木)1時半過ぎ、近江高島駅前から大溝城跡へ進む。駅のすぐ東。高島ふれあい交流広場の南にある分部神社の裏側のすぐ東。高島城、鴻溝(こうこう)城、鴻湖(こうこ)城とも云う。

大溝城は安土桃山時代の1578年に、織田信長の命により甥の津田(織田)信澄が築城した。設計は明智光秀とも云われる。本能寺の変の後に光秀の娘を妻としていた信澄は自害に追い込まれ、大溝城は数年のうちに丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次らへと移り変わり、やがて大溝城は解体された。

江戸時代に入り、1619年に分部(わけべ)光信が入封し、西側の三ノ丸に陣屋を設置し、総門を境に、武家屋敷地と町人地を分画して再整備した。以後明治維新まで分部家が11代続いた。

琵琶湖の内湖である洞海(現在の乙女ヶ池)を利用して取り囲むように築いた水城。規模は東西600m、南北1000m。本丸の南側に二ノ丸、西側に三ノ丸があり、堀で鍵型に囲むように配置されていた。また、本丸の北側および北の湊の東側に面して同じく鍵型に囲むように武家屋敷地があった。

今日、本丸天守台の石垣を除いて、周囲の堀や二ノ丸、三ノ丸一帯は埋め立てられているが、大溝城跡は旧城下地区と共に「大溝の水辺景観」として国の重要文化的景観に指定されている。

1950年開設の高島市民病院の正面玄関横の広場を横切って天守台跡へ。大溝城の遺構で残っているのはここだけ。駅前のガリバーメルヘン広場にあったパネルの古図(下の写真1)と、この天守台跡に立つパネルの縄張り推定図(下の写真2)を見比べると、駅前から分部神社辺りが三の丸、市民病院前の広場が二の丸で、この残っている天守台一帯が本丸で、後の部分は堀や洞海だったようだ。

天守台は、本丸の南東部に位置し、東西24m、南北29mで、高さは約5mある。石材は花崗岩で野面積みだが、一部は算木積みで補強されている。石垣は比良山地の石材が使用されたと伝わる他、琵琶湖の沖島から湖上を筏によって運搬されたとも伝えられている。

大溝城跡の東南方向に大きく広がるのは乙女が池。万葉の時代には香取の海と呼ばれ、山の麓まで琵琶湖の入り江だったが、その後内湖となり、表の湖(琵琶湖)に対して、裏海、背戸海などと呼ばれていた。大溝城築城に当たっては外堀として利用された。

近年は洞海(どうかい)と呼ばれていたが、昭和30年代、淡水真珠の養殖場として利用されることとなった際に「イメージのよい名前を」ということから現在の名前に改名された。県の園地公園として1991年から3年掛けて水景整備された。面積8.6haで平均水深は1.6m。ビワマス、フナ、コイ、ブラックバスなどが生息し、特にバス釣りのメッカとなっている。

天守台跡から池の西岸沿いを南に行くと万葉歌碑がある。「大船香取海慍下 何有人物不念有」。万葉集巻11に収録されているもので、詠み人知らず。香取海は上述のようにこの池があるところの古名。大船は枕詞で、「香取の海に碇を下ろし、いかなる人が物思いをしないでいられようか(どんな人でも恋の心には悩むものを)」の意。ちなみに近江高島周辺にはこの辺りで詠まれたされる万葉集の歌碑が6基設置されている。

歌碑から少し南に進むと太鼓橋がある。池の真ん中で東西の岸を結んでいるが、この橋は2013年度下期に放送されたNHKの朝ドラ「ごちそうさん」でロケに使われた。東京の本郷近くの池(不忍池と思われる)と云う設定で、杏演じる主人公のめ以子と夫となる東出昌大演じる西門悠太郎との出会いの場面が3回撮られており、縁結びスポットになっている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.8162824220454197&type=1&l=223fe1adec


太鼓橋を渡って打下集落に進むが、続く

  • 写真1 駅前広場の大溝城説明パネル

    写真1 駅前広場の大溝城説明パネル

  • 写真2 大溝城本丸跡説明板

    写真2 大溝城本丸跡説明板

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