2021/09/01 - 2022/08/06
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ばねおさん
頭の中で組み立てている『モンパルナス界隈』が(6)となり、ようやく予定の半分近くになった。自分にとって思い入れが強いだけに、あれもこれもと欲張ってしまい纏めづらいのが正直なところだ。
興味のない人には全く面白くもない内容だろうが、それでも立ち寄って一読し、さらには票まで投じてくださる方々がいることに感謝申し上げたい。
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ヴァル・ド・グラース( Église du Val-de-Grâce )は、ルイ13世の妃であるアンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche )が、世継ぎのルイ14世の誕生を神に感謝して創設した修道院教会で、パリの古道サン ジャック通りに面して建っている。
日本では『三銃士』で知られている『ダルタニアン物語』にも主要人物として登場する王妃アンヌは、実家のスペイン・ハプスブルク家との関係を巡って王の信任厚いリシュリュー枢機卿と激しく対立し、危うい立場にあった。
当然、夫のルイ13世との関係も良好ではない訳であるが、それが悪天候を避けて王がアンヌの居館に立ち寄ったことが契機で懐妊し、世継ぎの王子を出生するに至った。
王位継承者の母となったことで、これまでの追い詰められていた状況を一転させ、その後の運命を大きく変えることになったのだから、アンヌが神に感謝する気持ちは計り知れないほど深いものであっただろう。
ルイ13世が亡くなると、遺言ではアンヌの摂政就任を禁じていたにも拘らず見事にこれを覆し、幼い息子のルイ14世の摂政として手腕をふるった。
三十年戦争、フロンドの乱をくぐり抜け、1659年にスペインとの戦争を終結してピレネー条約を結び、ルイ14世を自らの姪(スペイン、フェリペ4世の王女)であるマリー・テレーズ・ドートリッシュと結婚させた。
やがて、ルイ14世の親政が始まると最後はヴァル・ド・グラースに隠棲し、病の中で静かに生涯を閉じている。その引き際をみると、ルイ13世の毋后でやはり摂政として政治を担い、どこまでも実権を手放すまいとして追放されたマリー・ド・メディシスの生き方から学んだかとも思えてくる。
フランス革命を境に修道院は廃止されたが、古道サン ジャックに面する建物は良く保存され、とりわけパリで最古の一つである教会ドームは、革命前の美しさを保っているように思われる。
そのサン ジャック通りを少し進んだ先のポール ロワイヤル大通りと交わる角には、歴史的に名高いかってのポール・ロワイヤル・パリ修道院の門を見ることができる。
パリの南西シュヴルーズの谷に1204年に創立されたシトー会のポール・ロワイヤル修道院は、1625年にパリに新たな修道院を設立し、前者をデ・シャン後者をパリのポール・ロワイヤルと呼び分けている。
付随する学校からラシーヌなどを生み出し、パスカルを代表とする多くの重要人物が参集したことでも有名だが、ジャンセニズムと呼ばれる思想によってカトリック教会からは背教とみなされ、反王権的であるとしてルイ14世の強い弾圧を受けて、やがてポール・ロワイヤル修道院は解体に追い込まれ、デ・シャンは徹底的に破壊された。
パリのポール・ロワイヤルは聖母訪問会に組み込まれ、形だけは存続したが、フランス革命によって建物は一時監獄として用いられ、その後は産科病院となり今日に至っている。広大な敷地には近代的な産科病院が建てられ、かっての修道院の建物は病院の管理棟として一部が現在使用されている。
ヴァル・ド・グラースもポール・ロワイヤルも、革命時の略奪や破壊などを経たものの建築物に大きな被害を免れているのは、革命軍の兵士の救護や手当にあたり、治療所として活動したからだともいわれている。
王立修道院であったヴァル・ド・グラースは、革命以後は陸軍の管轄施設となったため、建物の保存という面では幸いしたのだろう。こちらも広大な敷地にフランス陸軍病院が建てられ(2016年に閉鎖)、陸軍衛生学校も併設されている。
おそらくガイドブックにはほとんど載らないだろうこの二つの(かっての)修道院は、一方はルイ14世が礎石を置き、他方はルイ14世によって壊滅させられたという何とも皮肉な取り合わせでもある。
ヴァル・ド・グラースは軍施設内ながらも見学は可能で、その教会ドームは一見に値する。
ポール・ロワイヤルは民間病院施設内であるが見学不可(但し、礼拝堂の予約参拝は可能らしい)なので、ベンチにでも腰を下ろして外観を眺める他ない。
そのついでに時間と興味があれば、ポール ロワイヤル大通りを挟んで向かいにある島崎藤村が下宿したアパルトマンを見て、さらに少し先のリラの店(La Closerie des Lilas)に立ち寄ることができたら、まことに申し分ない。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ヴァル・ド・グラースの最寄りの駅はRERの「ポール ロワイヤル」となるが、カルチェ ラタンもしくはモンパルナスから歩いても15分ほどである。
8月のこの日は、パンテオン前から裏道を辿ってポール ロワイヤル大通りへ出てみた。
大通り沿いに長々と続くかってのヴァル・ド・グラース修道院の敷地。大革命以降は陸軍の軍用地となっている。 -
現在は閉鎖されているが、陸軍病院(ヴァル・ド・グラース病院)の出入り口が途中にある。
フランスの医療の最高水準であったことと、陸軍管轄で秘密の保持が厳正であったこともあって多くの高位高官がここに治療に訪れている。
フランスに亡命したベトナム最後の皇帝も1997年にここで息を引き取っている。
鉄柵の内側には隈なく有刺鉄線が巡らせてあり、ここが軍管轄施設であることを物語っている。 -
ポール ロワイヤル大通りから遠望する旧修道院の建物南側。教会ドームが少しだけ頭をのぞかせている。
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こちらはヴァル・ド・グラース通りから眺めた教会建物の正面。
教会前をサン ジャック通りが横に通っている。 -
サン ジャック通りに面しているファサード。
幾度となく訪れているが、季節や天候によって受ける印象は微妙に違う。 -
2021年11月の訪問時の様子。
手前にはアルフォンス・ラヴラン広場の泉水(Fontaine Place Alphonse Laveran)があり、季節を問わず絶え間なく水が流れている。 -
今回(2022年8月)、久々の訪問で一目で分かる変化があった。
今までは見学案内らしきものが何もなかったのだが、外柵に黒地に白文字で簡易な案内(わずか2行)が掲示され、矢印が入り口の方向を示していた。 -
あまりにも分かりにくいと、誰かが苦情でも申し立てたのだろうか
とりあえずミュゼであることを記し、入口を指し示すことになったのは大進歩だ。 -
その入り口がこちら。職員の通用口でもある。
言い方を変えれば、職員の通用口がミュゼの出入り口である。
外柵の西端にあって、まったく目立たず、初めてきた時にはかなり戸惑った。
横にあるインターフォンで見学の希望を述べ、解錠してもらう。
入った先に警衛所があり、ここで身分証明書(旅行者の場合はパスポート)を預けて引き換えの番号札をもらい、次にミュゼの受付に進むことになる。
やはり軍の施設ゆえの敷居の高さは感じられる。 -
正面ゲートの上にあるモノグラムは、 AL すなわちアンヌ・ルイ Anne Louis を表している。(オーストリアのアンヌとしては AA のモノグラムを使った。この場合のオーストリアとは、すなわちハプスブルク家のことになる。)
このモノグラムは建物内外の至る所に散りばめられている。 -
建物は、バロック建築の大家 マンサール François Mansart (1598-1666) が設計し、1645年に起工したが、その後、ジャック・ルメルシエ Jacques Lemercier (1585-1654) が継承し、ピエール・ル・ミュエ Pierre Le Muet、ガブリエル・ル・ドゥックGabriel Le Duc が参加して1667年に完成している。
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ファサード下段の破風に記されている文字 IESV NASCENTI VIRGINIO MATRI は、聖母マリアがイエスを出生したの意。
ルイ13世と結婚23年後に子を授かったことをイエスと彼の母親マリアに感謝すると共に、まるで自らの立場をなぞらえたようにも思える。
1643年に亡くなったルイ13世は王妃アンヌが摂政に就くことを禁じる遺言を残していたが、アンヌは見事にこれを覆し、リシュリューの後継としてマザランを実質的な宰相に用いて国の采配を握った。 -
残念ながら訪問した8月は休館で見学不可。
(以下の内部写真は、2021年10月の訪問時のものを使用) -
受付を済ませドームのある教会へ直行する前に、かっての修道院を少し辿ってみたい。
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中庭をぐるりと囲む長い回廊は大きく窓がとられ、昼光と白壁とが相まって明るさがあるが、無人のゆえもあって静謐さが伝わってくる。
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回廊から眺めた中庭風景。
庭には立ち入ることはできないが、隅々まで十分に手入れがされている様子が窓越しにうかがえる。 -
回廊から見上げる教会のドーム。
このドームはモンマルトルの丘からも認識されるランドマークの一つのようだ。
このすぐ近くに下宿生活を送っていた島崎藤村が後年パリを再訪した際に、彫刻家高田博厚と版画家長谷川潔の案内でモンマルトの丘に上がり、下宿した地の目印としてこのドームを指し示されている場面が、高田博厚の記述にある。 -
現在は図書資料室として利用されている2階に通じる階段。
ちょっとだけ内部の様子を覗かせてもらった。
この手摺や階段も歴史的建造物の指定を受けている。 -
この奥は非公開。
今は陸軍の教育施設に用いられていると思われる。 -
もともとはベネディクト会の菜園と修道院であったこの地に王妃アンヌは頻繁に訪問を繰り返し滞在していた。信仰心が厚かっただけでなく、彼女にとって居心地の良い場所だったのだろう。
同時に実家のハプスブルク家との文通など数々の謀をここで巡らしていたことがリシュリュー枢機卿の知るところとなり、ついには反逆罪に問われる事態になった。
世継ぎの王子の出生ということがなかったら、アンヌの運命は確実に暗転していたであろう。 -
修道院から教会への通路。
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教会に入るとまず目が行くのは17世紀フランスを代表する画家ピエール・ミニャール Pierre Mignard によるフレスコで描かれた天井画だ。
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ピエール・ミニャールの友人であったモリエールが、『ヴァル・ド・グラース教会の天井画を称える詩』( La Gloire du Val-de-Grâce )でこの画を賛美している。
モリエールの賞賛は、当時の宮廷画家シャルル・ブランとライバル関係にあったこの友人画家の立場を擁護するためもあったと思われるが、そうした事情を知らずともこの天井画はとても魅力的だ。
全体の構成、調和のとれた美しさだろうか、首が疲れるまで倦むことなく見続けてしまう。 -
一応、このように写真に収めてはいるが、いつもポケットに入れて持ち歩いているコンデジゆえ再現力ははなはだ劣る。
やはり、こうしたものを撮影するには高精度のカメラ、レンズでないと無理だろう。その分しっかりと自分の目に収めて焼き付けておく他ない。 -
信徒席の天井も壁面もなかなか手の込んだ作りとなっている。
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信徒席からの祭壇の眺め。
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祭壇には大理石のねじり柱を使用した立派な天蓋がある。
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これはサン・ピエトロ大聖堂に触発されたものと言われている。
肝心のサン・ピエトロ大聖堂に行ったことがないので比較ができず、そうなんですか、と頷くしかない。 -
こちらは礼拝室とみられる小さなスペース。
ガラス窓から柔らかな光が差し込んでいる。 -
窓の中央にもAL、アンヌ・ルイAnne Louisのモノグラムは忘れずにある。
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床面にもAL。
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ALの周りを王家を象徴するフルール・ド・リ(fleur-de-lys) が囲っている。
fleur-de-lys は直訳すればユリの花で、フランス王家の象徴は一般的には白百合とされている。
ただ、このフルール・ド・リ をめぐっては面白いほど諸説紛紛で、「ユリ」(ユリ科ユリ属)ではなく、ユリ目に属するとされたアヤメ科アヤメ属のキショウブ(Iris pseudacorus)やアイリスフロレンティーナ(Iris florentina)といった花を指すとも言われている。 -
元は、聖ジュヌヴィエーヴ教会に設置されていたカヴァイエ・コルのオルガン。
説明書きによれば、聖ジュヌヴィエーヴ教会がパンテオンになった1891年にここに移されてきた、とある。 -
教会を出て、さまざまな展示物を見て歩く。
こちらは創立当初の様子を描いた図。
もともとはベネディクト会の広大な菜園、修道院があった地に王妃アンヌが教会と宮殿の建設を構想し、教会だけが建てられた。
政治から離れたアンヌはここに隠棲し亡くなるまでの5年間をここで過ごした。
乳がんであったと伝えられている。 -
現在のヴァル・ド・グラースのジオラマ。
こうして俯瞰的に眺めると全体の規模と配置がよく分かる。
手前左側が教会、右側が修道院、上部にあるのが陸軍病院で、中間にあるのが陸軍保健衛生学校と見られる。
近代的な総合病院である陸軍病院(ヴァル・ド・グラース病院)は、2016年に閉鎖されたままであるが、今後その活用が注目されている。
フランスでトップクラスの医療水準の高さから多くの著名人が治療に訪れていて、パリに亡命していたベトナム最後の皇帝バオダイは、1997年7月30日にここで亡くなっている。 -
聖マルタン(サン・マルタン Saint-Martin)の有名なマントの逸話の図が陳列の中にあった。(この絵画作品が有名という意味ではない)
キリスト教の聖人名サン・マルタンは複数の人物に与えられているようだが、フランスでサン・マルタンというとトゥールToursで祀られているサン・マルタンを指している。
もともとローマ軍の兵士だったマルタンが、寒さに震えている貧者に自分のマントを着せ与えたが、これが実はキリストであったという逸話で、やがて洗礼を受けてトゥールの司教にまでなって亡くなったという人物である。
聖人の名に因んだ地名は多いが、サン・マルタンもずいぶんと数多く用いられている。
聖遺物となったマルタンのマントは彼のために建てられたバジリカ聖堂に納められ、トゥールは中世ヨーロッパの三大巡礼地のひとつとなった。
マントはラテン語で capellaと表され、マントを納める場所を意味するようにもなり、これがチャペルの語源とも言われている。
マルタンの亡くなった11月11日は、キリスト教の祝祭日「聖マルタンの日」であり、第一次大戦の休戦記念日の祝日でもある。
ついでに言えば、かってはこの日がボジョレーヌーボの解禁日でもあった。 -
ルイ14世の王命書の表紙。
内容がよく分からないが、サン ジャック通りやアルフォンス・ラヴラン噴水の地名も記されている。 -
バスチーユ襲撃から6年後の1795年6月19日付けのプレート。
読みづらいが、ヴァルドグラース修道院が軍病院となる決定が記されている。
軍病院となる前には短期間だけ産科が置かれ、後にポール ロワイヤルへ移行している。 -
見学コースの先に見えたのは陸軍保健衛生学校の一部だろう。
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フランス軍事衛生博物館(ミュゼ)として構成されてもいるので、軍事医療の歴史を伝える種々の資料が展示されている。
ナポレオン時代の野戦病院の図やら、救急医療の器具類、第一大戦時の毒ガス用マスク、病院船などなど、専門的には興味深い内容なのだろう、
この日出会った一般見学者は一組みの家族と若い女性だけだったが、ここで大勢の看護兵や衛生兵たちの見学実習グループに遭遇し、共に見学コースを歩むこととなった。 -
最後に目を引いたのは、見事な薬品壺類のコレクション。
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美術品としても第一級クラスと思われる品々。
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用途を考えると、ここまで彩色を施し、丁寧にデザインされていることに感心してしまう。
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こちらは、ちょっと珍しい松葉杖を中央にあしらったイタリア製のプレート。
用途は不明。 -
この棚は明らかに調剤薬瓶のようだ。
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リュクサンブルク公園には歴代王妃の立像が大きな円を描いて並んでいるが、その中のアンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche;全名はアナ・マリーア・マウリシア Ana María Maurícia)の石像がこちら。
歴史に「もしも...」は無いと言われるが、アンヌの生涯を辿ってみると、まさに「もしもあの時...」の連続の觀がある。 -
カルチェ ラタン方向からポール ロワイヤル方向へ向けてのサン ジャック通り。
昔はいざ知らず、車も人も普段の通行はあまり多くない。 -
サン ジャック通りに埋め込まれている巡礼路を示すホタテ貝のマーク。
このサンティアゴ・デ・コンポステーラヘの古い道沿いには、今でも修道院や教会が数多く残っている。 -
ポール ロワイヤル大通りと交わる角に、かってのポール・ロワイヤル・パリ修道院の門がある。ここにも史跡碑が建てられているのだが、立ち止まってあらためて見る人もいない。
かつてここが、王権国家とカトリック教会を震撼させたジャンセニズムの拠点でもあったことは、 もはや遠い過去の埋もれた話なのだろう。 -
現在は産科病院の構内となっている、ポール・ロワイヤル・パリ修道院の敷地も広大だ。
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古色蒼然とした旧修道院の佇まい。400年の時の経過がここにある。
1204年にパリの南西シュヴルーズの谷にシトー会のポール・ロワイヤル女子修道院 Port-Royal-des-Champs が建てられた。
ベネディクト会から分かれたシトー会は聖ベネディクトの戒律を厳密に守り、労働と学習を重んじて、自ら開墾や新しい農法の指導普及を行うなど実践活動が盛んであった。
外見上はベネディクト会が黒い修道服であるのに対し、シトー会は染料を用いない白い修道服であったことから、両者を対比して黒い修道士、白い修道士(女)とも称される。(1647年からは黒いスカプラリオ(肩衣)とシトー 会系の頭巾付き外套をやめ、白い羅紗の外套と赤い 十字架がついた白いスカプラリオがポール ロワイヤル修道女の正服となった。) -
カトリックの国フランスでは、さまざまな場所で修道女に出会う機会が多いが、その修道服が実に多様であることに気付かされる。一目みて、会派や修道会を言い当てられるほどの知識はもちろん無いのだが、着衣の分類だけでも奥が深い。
こちらはルーヴル前で見かけたひとりの修道女。
この姿を見て思い出したことがある。
半世紀以上前に東京のアテネ・フランセに通っていた時期があり、同じクラスに一人のシスターが居た。もう一人のクラス仲間と、なぜか3人の気が良く合い、帰り道も共にしていた。一度だけクラス仲間と喫茶店に誘ったら、本当はいけないんですけど(禁じられている)と言いながらも付き合ってくれた。名前も忘れてしまったが、その時の情景といつも変わらず着用していた白のシスター服だけは鮮明に憶えている。
たぶん修道会の規則に反したことだったと思うのだが、今更ながらゴメンなさい。 -
ポール・ロワイヤル修道院は財政が豊かで、それゆえに次第に戒律の乱れも出るようになり、1600年代になって修道院長となったジャクリーヌ・アルノー (Jacqueline Arnauld) による改革によって再び本来の厳格さを取り戻した。
1625年にこのパリ修道院が設立されると、修道女たちはデ・シャンdes-Champsからこちらに移り、デ・シャンにはサン・シランの通称名で知られるデュベルジエ・ド・オーランヌ (Jean Duvergier de Hauranne)を指導者としてソリテールと呼ばれる隠者たちが住み始めた。 -
1648年にデ・シャン修道院が再開されると、隠者たちは近くに移って「小さな学校 Petites-Écoles 」を建てて教育に力を注いだ。「小さな学校」は教育水準の高さで知られるだけでなく、サン・シランの主導するジャンセニズム(ヤンセン主義)の拠点ともなり、多くの知識人が参集しポール・ロワイヤル学派を形成した。
「人間は考える葦である」、「クレオパトラの鼻」といった名文句や「パスカルの定理」で知られるパスカルもポール・ロワイヤルを代表する一人で、後年、演劇の道に進んで袂を分かったラシーヌは「小さな学校」で学び、著名な書物をいくつも執筆した。 -
ジャンセニズムは一時は隆盛を極めたが、イエズス会と激しく敵対し、やがてカトリック教会からは背教とみなされ、個人主義的な信仰は王権を危うくすものとしてルイ14世の弾圧の対象となった。
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1656年には国王の命令で「小さな学校」は閉鎖されるが、この時期にパスカルの姪でポール・ロワイヤルの誓願修道女であった10歳のマルグリト・ペリエの身の上に「奇蹟」が生じたことが知られている。
ある高位聖職者がルイ13世の母后マリー・ド・メディシス のために、厳重に保管されていたキリストの聖荊冠から荊棘を2本引き抜いていて、その内の1本を修道院に貸出したところ、それに触れたペリエの宿病がたちどころに快癒したというものだ。 -
この事実は、微妙な立場にあった修道院の存続にも関わることとして口止めされていたものが、外部に伝わり、王太后であるアンヌ・ドートリシュ の耳にも入った。
アンヌは事の真偽を調べさせたが、事実に間違いないとする医師の証言だけでなく、国王の侍医もソルボンヌの神学者たちも、パリの司教代理も皆認めるに至った。
パスカルはこの奇蹟をパリの宗教裁判所に届け出、正式に承認されるに至っている。つまりは、これは真正な奇蹟であるとカトリック教会に認定されたという事になる。 -
やがて、この「奇蹟」はジャンセニズムの宣伝に利用されるようになり、敵対するイエズス会を煽り、パスカルとの応酬が繰り広げられた。
しかし、奇蹟の出現も功を奏さず、1705年には国王の働きかけによって、ポール・ロワイヤルの聖職者、修道女を追放するとのローマ教皇の勅書が出された。
翌年には新たな修道女の受け入れを禁じられ、さらには王令でデ・シャンの修道院資格が取り消された。 -
さらに1708年、2度目の教皇勅書が出され、翌年、ポール・ロワイヤルを壊滅させることを目的としていたルイ14世は、ポール・ロワイヤル・デ・シャンを構成する建築物の解体を命じ、デ・シャンは徹底的に破壊された。
最後まで残っていた修道女たちは強制的に連行され、引き取り手のいない墳墓の遺骸は共同墓穴に投げ込まれることになった。
最後に奇蹟が起きることはついになかった。 -
ポール・ロワイヤル修道院の解体を自分なりに要約すれば、すなわちポール・ロワイヤルの厳格な戒律は時のカトリック教会の意にそぐわず、個人主義的信仰スタイルは絶対王権とは相容れないものであった、と解するのは少し単純すぎるだろうか。
いずれにせよ、キリスト教史の中でとても興味を引く数ページがここにはある。 -
旧ポール・ロワイヤル・パリ修道院の向かい側のポール ロワイヤル大通り86番地には、1913年から16年にかけてフランスに滞在した島崎藤村が多くの時間を過ごした下宿がある。
初めは天文台を望むポールロワイヤル大通り沿いの部屋に、次いでサン ジャック通りも見渡せる角部屋に移り住んでいる。 -
藤村の下宿側から眺めた旧修道院の姿。
街路樹のマロニエが落葉するとはっきりと建物が見える。(2021年11月撮影)
当時は産院として使用されていたもので、フランスにやって来た藤村の事情を思えば、彼が毎日向き合っていたのが産院とは何とも皮肉な事ではある。 -
藤村の下宿を後にしてRERの駅前を通り過ぎると、天文台噴水が右手に見え、そのまま進むと「リラの店」に出会う。
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クロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas)
古今東西の数多くの芸術家が足をとめ、その名を多くの書物にとどめているパリを代表する老舗カフェ・レストラン・ブラッスリーだ。
モンパルナスにはヴァヴァンにロトンド、ドーム、クポール、セレクトといった有名カフェが顔を突き合わせてあるが、観光案内は別として本来筆頭に挙げるべきはこの店である。 -
店名は庭に植えられた多数のリラ(ライラック)に由来するとされていて、今では数こそ少ないが季節にはリラの花を見ることができる。
文学者が多く利用したことから、文学カフェのような説明も見られるが、どうしてどうしてピカソ、モネ、ルノワールなどの画家たちも常連に名を連ねている。日本人をざっと列挙しても与謝野晶子、鉄幹、藤村、藤田嗣治、林芙美子の名が思い浮ぶし、近くに住んでいた佐伯祐三は作品にこの店を描き入れている。 -
そしてリラの店に行ったら、用はなくてもトイレに行ってほしい。
ここのトイレは、ちょっと目を見張るものがある。
モザイクの装飾が手の込んだもので、なかなか見応えがある。
向かいには専任のコンシェルジュが控えていて、常に清掃や手入れを怠らないことにも驚かされる。 -
与謝野晶子は、リュクサンブルク公園で写生を終えた後に、絵筆を洗うためにリラの店の洗面所を利用したとさりげなく書いているが、当時は今のようなやや高級感を押し出している雰囲気はなく、金の無い芸術家たちが気負いなく利用できる店構えだった。
その当時の洗面台がそのまま残っている訳でもないのだが、絵筆を洗うには躊躇する洗面台だ。
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