2021/03/17 - 2021/09/17
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ばねおさん
モンパルナスMontparnasse のモンMont は、フランス語で山の意味。
パルナス parnasse(パルナッス)はギリシャ神話にも登場する山の名で、文芸をつかさどるミューゼが住むとされた。
17世紀後半に、今のヴァヴァン vivin あたりに集まるカルチェラタンの学生たちが、集合場所に名前が必要だと考えてモンパルナッスと呼んだのが地名の始まりだといわれている。
パルナッス山とは比べようもないが、モンパルナスはパリの南の小高い丘で、北側のモンマルトルと対している。
このモンパルナスの名が世界中に知られるようになったのは、第一次大戦後、さまざまな国から画家、彫刻家、詩人、小説家、音楽家たちが集まり、エコール・ド・パリと呼ばれる芸術家たちの活動拠点になったことからで、世界の芸術の首都とさえ言われた時期もあった。
それまで「洗濯船」を中心にモンマルトルに拠点をおいていた多くの芸術家たちは、モンマルトルの観光地化、通俗化を嫌って次第にモンパルナスに移り住むようになったが、その要因の一つは物価にあったのだろう。
モンパルナスには19世紀末頃より、貧乏な外国人画家たちに提供する安アトリエ群があり、金のない芸術家たちにとっては何よりもありがたい創作の場が得られ、物価も安く、何とか命をつなぐことができた。
ジャンコクトーは、「モンパルナスの貧しさは芸術の肥やしだ」と言ったが、たしかに食うや食わずの貧しさの中から、やがて後世に名を残す多くの芸術家たちが生まれることになった。
中でも、「シテ・ファルギエール」は、1900年~1960年代まで数多くの日本人美術家たちが足をとどめたアトリエ長屋で、とりわけ第一次大戦前後の彼らの生活ぶりを知ると、ここは他に類をみない芸術家の営巣地であったことが分かる。
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シテ・ファルギエール ( Cité Falguière )があるのは、モンパルナス駅から700mほど西に行ったところで、ファルギエール通り (Rue Falguière) の72番地と74番地の間にある袋小路一画で構成されている。
ファルギエール通り74番地は、シテ・ファルギエール1番地と同一で、ここにはかってゴーギャンが居たとされている。
名称がファルギエール通りとなったのは1901年で、ここにアトリエを有していた彫刻家ファルギエール(1831-1900年)の名前からとられている。 -
ファルギエール通りを東に行くと、モンパルナス駅近くでブールデル通り( Rue Antoine Bourdelle )と枝分かれしてブールデル美術館の前に出るが、かってファルギエールの下からロダンの工房に移ったブールデルの歩んだ道をまるで暗喩しているかのようでもある。
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シテ・ファルギエールの辺りも含め、1960年代以降にモンパルナス駅周辺はすっかり再開発されてしまい、昔の写真と比べると以前の面影はほとんど失われてしまっている。
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写真左の建物がファルギエール通り74番地、右手が72番地となる。
その間にある通路沿いがシテ・ファルギエールの区画となる。 -
シテ・ファルギエールに入っていくと、突き当り正面に白いアパートが見える。
シテ・ファルギエール14、15番地にあたり、1967年に取り壊されるまでは 「Hotel Villa Falguière(ヴィラ・ファルギエール)」 と名付けられた安宿があって、その横手のアトリエ長屋とつながっていた。 -
現在のシテ・ファルギエール14番地、15番地の姿。
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かってここにあった Hotel Villa Falguière (ヴィラ・ファルギエール)の取り壊される前の画像。
塀には、ここに住んだ者として、PICASO, SOUTINE MODIGLIANI FOUJITA
(ピカソ、スーチン、モディリアニ、フジタ)と白い字で書かれている。 -
その手前にある、明らかに周囲とは異なる様相を呈している2階建てが、シテ・ファルギエールに唯一残存しているアトリエ長屋である。
もともと貧しい外国人美術家向けの安価なアトリエを提供するために、パリ万博の廃材等を利用して作られただけに、建物はいたって質素であり、装飾性は皆無である。 -
現在、残されているこのアトリエ長屋には9番地、11番地と付されているが、左側の9番地は改造されて住宅となっており、アトリエとして現存しているのは11番地のみということになる。
取り壊される前には、裏手に中庭をはさんだ数棟の長屋があり、全部で20室以上のアトリエで構成されていた。
階下は彫刻家、2階は画家が使うというおおよその棲み分けがあり、トイレは共同で外に設けられていた。 -
ここに制作の場を持った美術家が何人いたのか正確には分からないが、入れ代わり立ち代わりパリにやってきて、アトリエを受け継いだ日本人だけでも200人は越えているに違いない。
のちに日本で大家として認められる存在になった者も多いが、1910年代にここに身を置いた山本鼎、高村真夫、正宗得三郎、藤田嗣治等の書き残したものを読むと、貧しさの中で生きるために助け合った様子が断片的ながらも窺い知ることができる。
さらには、彼らと交流を深めて、幾度となくここを訪れた島崎藤村のすぐれた描写が大いに理解を助けてくれる。 -
ここでの1910~30年代の生活ぶりは、誰もが食うや食わずの時もあり、冬はストーヴに入れる石炭(豆炭)にも事欠き、寒がるモデルの膚を手の甲で擦りながら描き続けたことなどもあった。
毎日、貧乏画家たちに売り込みに来る多くのモデルたちはさらに貧しく、程度の差こそあれ、誰もが貧困という文字でくくられるのだが、不思議なくらい彼ら彼女らに悲壮感はない。 -
このシテ・ファルギエールに言及しているひとは多いのだが、1930年代から約10年の間、ここをアトリエにした彫刻家高田博厚の文章を引用してみる。
「シテ・ファルギエールというモンパルナスの裏手、パストウール研究所の隣のアトリエ街は、モデイリアニやキリコまた安井曽太郎や藤田嗣治などの日本学生、貧乏な美術家が、代々いたところで有名だった。汚いのでも有名だったが、石階段があり中庭があり渡橋があり樹が茂り、パリ風景の味に満ちていた。」(『武者小路実篤』)
また、島崎藤村と1937年にパリで会った時のことを綴った文章では、「藤村が友人画家、山本鼎たちをよく訪ねたシテ・ファルギエールはパストウール研究所の裏手にあり、石切場の跡に建てたアトリエ街で歴史的なものだった。石階段があり渡橋があり、美術家連が巣食う界隈として右岸のモンマルトルの丘周辺と、左岸のヴォジラール通りあたりが十九世紀末頃から有名だったが、シテ・ファルギエールはその中でも田舎めいていて味があった。日本人画家も代々そこに沢山いた。」
藤村が滞在していた当時の情景と比較し、今も変わらぬものとして藤村の下宿近くのヴァル・ド・グラース、シャヴァンヌの壁画のパンテオン、天文台広場のクロズリー・リラの名を挙げている一方、この文が書かれた1967年の2月に訪ねて行ったシテ・ファルギエールが「取り壊しの最中で、借りていたアトリエが腹を立ち割られたように無残な姿になっている」のを見て感慨を深くしたことも記されている。
今は廃刊となった雑誌「太陽」に、シテ・ファルギエールの最後の住人の記事が出ていたことを憶えているが、たしか日本人彫刻家であったと思う。 -
1910年代にフジタの描いた『シテ・ファルギエール』
アトリエ長屋の2階から中庭に続く階段が描かれている。
フジタが住んでいたのは11番地の真後ろ当たりであったろうと思われる。 -
1960年代になって、この一画が再開発される計画が明らかになると、時の文部大臣アンドレ・マルロー(André Malraux)の反対をはじめ、保存運動が起きたものの、時代の波には抗えず、旧い建物は順次壊されていった。
1967年2月に高田博厚の目撃したシテ・ファルギエールは、まさに取り壊し最中の光景であった。
取り壊し反対運動にも加わった、隣接するパスツール研究所のノーベル賞受賞研究者が「パスツール研究所には科学の花が、シテ・ファルギエールには芸術の花が咲く」と述べたが、その言葉を借りれば、残念ながらここに芸術の花は一輪しか残っていないということになる。 -
日本人以外の外国人としては東欧の出身者、ユダヤ人が多く、モディリアニ、スーチン、コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi)あたりが代表格だろう。
フランス人のマックスジャコブ(Max Jacob)やフェルナン・レジェ(Fernand Léger) も居たはずだ。
日本のTVや雑誌などを含め、ここには世界中から取材に来ているようだが、中には誤った説明もあるようだ。
例えば、この残された建物を指してピカソが居た、フジタのアトリエだった云々。
ピカソが居たというのも少し疑問だが、いずれにしてもこの建物ではないはずだ。
また、美術家たちが残した郵便はがきなどを基に、14番地に住んでいたという解説もあるが、これも少し思い違いがあるようだ。
アトリエ長屋の住人たちは郵便の受け取りの便宜上、誰もが住所をヴィラのある14番地としたもので、このことは取り壊し前の14番地の写真に写っている門柱の周囲に、いくつもの郵便受けが並んでいることからも明らかだと思う。 -
前の写真とほぼ同じ角度から、スーチンの描いたシテ・ファルギエールの絵が残っている。
煙突は、隣接するパスツール研究所のものであるが、現存していない。 -
11番地の外壁の近くに寄ってみると、誰が書いたのか赤文字で「スーチンがここに居た」と記されているのが読み取れる。
書かれてあるからということでけでなく、おそらくスーチンがいた棟であることには間違いないだろう。 -
モディリアニの描いた『スーチン』(1916)
シテ・ファルギエールでは、スーチンはモディリアニと共に暮らしていた時期があったようだ。
そしてこの二人ときわめて密接だったのがフジタだ。
フジタは、8歳下のスーチンを弟のように可愛がり、面倒をみたという。
身だしなみに全く気を使わないスーチンの頭にはいつもシラミ(蚤?)が湧いていて、痒くなるとフジタの部屋を訪ねてはノミ取りをしてもらったらしい。
フジタとモディリアニとの親交も深いもので、死んだらモディリアニの近くに埋葬することをフジタが望んだという話が残っている。
モディリアニの生涯を描いた映画『モンパルナスの灯』にフジタの関わりがまったく見えないのは、奇異にさえ思えてくるくらいだ。 -
スーチンの立像が、モンパルナス駅の南東、エドガーキネ通り( Bd. Edgar Quinet )にほど近い公園(square Gaston-Baty)の一角にある。
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多少のデフォルメはあるとしても、ずいぶんと荒々しい姿形だ。
バーンズ・コレクションのアルバート・C・バーンズ に「ゴッホ以上である」と絶賛され、一度は栄華をつかんで、豪邸に住み、運転手付きの車を乗り回しながらも、最後は再び極貧のまま亡くなった。まさにドラマチックとしか言いようのない生涯だ。
墓は、すぐ先のモンパルナス墓地にある。 -
いたって簡素な墓で、墓石の上には一本の絵筆とスプーン。それと数個の小石。
スプーンは何を意味するのだろうか。
足元には花もあるのだが、訪れるひとを見かけたことはない。
写真を撮っていたら、誰の墓なのか尋ねられたことがあるのだが、スーチンの名を伝えても知らない様子だった。
スーチンの絵が多く展示されているのはオランジェリー美術館だが、オルセー美術館で企画展を予定しているようで、どのような作品が集められるのか楽しみだ。 -
モンパルナス墓地で、スーチンの筋向いにあるのはボードレールの墓。
いつも誰かしら訪問者がいて、常に花が手向けられ、時には何やら書かれた原稿用紙も置かれている。
おかしな言い方だが、こちらは常に賑わいのある人気の墓だ。 -
スーチンの像がある公園の近く、エドガーキネ通りに面して、フジタがパリで初めて投宿したホテル「オデッサ」Hotel Odessa がある。
階下のカフェはいつも客で賑わい、このあたりの人気カフェの一つである。 -
ホテル・オデッサの玄関横には、「画家 藤田嗣治は 1913年ここで暮らし創作活動をしていました」と日本語でも書かれたプレートが掲げられている。
フジタがパリにやってきたのは1913年6月だが、シテ・ファルギエールに居た川島理一郎のギリシャ回帰思想に感化され、川島のところに転がり込んだので、ここに滞在したのはごく短期間であったと思われる。 -
シテ・ファルギエールに住む画家たちがヴァヴァンあるいはルクセンブルク公園への往来に通ったエドガーキネ通り。
週2回、古くからの朝市が出て買い物客で賑わう。
日曜日には美術品だけのマルシェも出るが、正直あまり見るべきものはない。
誰の書いた話であったか、エドガーキネの朝市でパスキンのモデルであり愛人であった老いた姉妹の買い物姿の目撃談を読んだことがある。
この姉妹についてはヘミングウェイの『パスキンとドームで』という一文で強烈な印象を受けたのだが、老いてなお近辺に生活していたということにも驚いた。もっとも考えれば意外でもないのかも知れない。
フジタはこのパスキンとも交流があり、その死について触れているが本題から外れるので、別の機会があれば取り上げたい。 -
モンパルナスを代表するエドガーキネのマルシェ。
日によって出店の数はかなり変わるが、野菜、果物の店は多い反面、鮮魚を扱う店がやや少ないと思う。
セーヌ川のカモメもそこはよく心得ているようで、ラスパーユのマルシェの魚屋が店仕舞いを始めると大挙してやってくるが、ここには現れない。
どこのマルシェも同様だが、同じ商品を扱っていても、人気には目に見える差がある。
行列ができるのは質の良い店、多くが群がっているのは安い店、と勝手に区分けしてみている。 -
1930年代にパリに滞在した金子光晴は、ヴィラ・ファルギエールに居た戸田海笛等について語っているが、『ねむれ巴里』の中でエドガー・キネを次のように書いている。
「ポート・ヴェルサイユからメトロで、いつもおりるのは、エドガー・キネというところで、その通りには、ねむの繊葉の爽やかな並木が植わっていた。右へ折れると、モンパルナスの墓地があった。」 -
ついでに言えば、エドガーキネ通りのベンチに座っていた若い娘に同情して家に連れ帰り、翌日、気がつくと有り金すべてを持ち去られていた男の話も出てくるが、それはともかくとして、サラサラとしたねむの並木とベンチは当時と変わらぬ佇まいを保っている。
余談だが、ねむの並木を~♪という出だしの歌詞で始まる『南の国の花嫁さん』という古い歌があるが、そもそも南国産の樹なのだろうか? どうもイメージが一致しない。 -
フジタに関しては、エドガーキネ通りからヴァヴァンに通じるドランブル通り (Rue Delambre )5番地にも、ここで1917年~1924年にかけて暮らしたと記された公式
プレートが掲げられている。
このすぐ近くにはヘミングウェイやフィッツジェラルドの足跡もあるはずだ。 -
現在のヴァヴァンの交差点。
観光名所にもなっているカフェ、ル・ドーム(Le Dôme)、ラ・ロトンド(La Rotonde)が鼻を突き合わせるようにしてあり、ラ・クポール(La Coupole)、ル・セレクト(Le Select)が並びにある。
クレープ屋さんも数多い。
ここが今も昔も、モンパルナスを象徴する中心地であるといってよいのだろう。 -
ヴァヴァン交差点近くの、アカデミー・グランショミエール(Académie de la Grande Chaumière)。
1904年の創設で、誰にも開かれた自由な美術学校である。
観光ついでに、デッサンに来たなどという人さえいる。
スイス人画家ステットラーMartha Stettlerが初代の校長を務めたことを最近になって知った。 -
すり減った内部の石階段が、幾多の学生、美術家たちが行き交った歴史を物語っている。
世間に知られている名を挙げれば、モディリアニ、ジャコメッティ(Alberto Giacometti)、レンピッカ(Tamara de Lempicka)、カルダー(Alexander Calder)、、イサム・ノグチ等々、これもまたきりがないほどになる。
シテ・ファルギエールの日本人美術家たちも多くここに通った縁があるところだが、経営主体が替わり、近年閉鎖の噂もあって果たしてどうなるか。 -
先ほどの高田博厚の書いた本の中で、グランショミエールへモデルを探しに来た、という一節があるのだが、1910年代はモデルやモデル志望の娘たちが僅かなモデル代を得るために、せっせとアトリエの個別訪問をしていたのだが、1930年代になると社会状況も変化してモデルの売り込みが少なくなったのだろうか。
それとも気に入ったモデルが見つからず、出向いてきたものなのだろうか。
いずれにしても「良いモデル」に出会うというのは、そう簡単なことではなさそうだ。 -
まだパリに20名もいなかった1910年代のシテ・ファルギエールの日本人美術家や、ダゲール街やその他のアトリエ住まいの面々がよく出かけたところとして名が出てくるのは、天文台広場のカルポーの噴水のあるルクセンブルク公園であり、近接する二つのカフェである。
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シテ・ファルギエールの面々にとっては、「シモンヌの家」が最大のたまり場であったのだが、今はなく、その店のあった正確な場所も分からない。
今でも残っているのは、「リラの家」ことクロズリー・デ・リラ(La Closerie des Lilas)であるが、ここは画家たちより文学者たちによって名が高められている。
毎年、女流作家に与えられる文学賞も創設されている。 -
クロズリー・デ・リラは、昔は貧乏画家たちでも気軽に立ち寄れる店であったはずだが、今は少々高級感を漂わせている。
とはいっても、パリ中心部の店にくらべれば、まったく庶民的である。 -
もう一度ファルギエール通りへ戻ってみよう。
すっかり変貌した街の中で、何となく昔の面影をとどめているカフェ・ビストロがある。
その名も「AUX ARTISTES(アーティストたちへ)」
シテ・ファルギエールを出てすぐのファルギエール通り沿いにある店だ。
昼食時はいつも満員で、3種類から選べる12~15ユーロの定食が人気のようだ。 -
カフェ・ビストロ AUX ARTISTES の向かいにある綺麗な建物は、ラ・サール協会。
背中合わせに別の通りに面しているジョン-バプテスト・ラ・サール教会があるので、建物も内部でつながっているのだろう。 -
その少し先で、ファルギエール通りはパスツール大通りと交わり、さらに東に延びているのだが、交差点角にある写真右側の建物が描き込まれている作品がある。
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1924年にアメリカからパリにやって来た清水登之の作品『パリの夜街』(栃木県立美術館 }
神父と人々の背後に描かれているのが、当時あったカフェ&酒場「 BAL MASCOTTE」で、100年近く経過した今は機械道具の店になっている。
上階のホテルは昔のまま続いている。 -
ファルギエール通りと交差するパスツール通りの中央に設けられた歩行者用路。
ずいぶん前から存在しているような落ち着いた風景に見えるが、じつは数年間続いていた工事が終わり、つい最近になって開放されたばかり。
樹木以外はまだおろしたてなのだが、早くもすっかり馴染んでいる。
4連のマロニエの並木があり、さらに左右車道側の並木を入れると、6連の並木道ということになる。
住まいから出てすぐのところにあるこの並木を歩くのが楽しみになって、わざわざ先端まで行って戻ってくることもある。
ここを真っ直ぐに進んでいくとアンヴァリッドにぶつかり、その左手にはエッフェル塔のあるシャン・ド・マルスに出ることになる。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ちゅう。さん 2021/10/05 22:25:37
- 懐かしいモンパルナス
- ばねおさん、こんばんは!
エコール・ドゥ・パリのモンパルナス、懐かしく拝見しました。
20年ほど前出版された君代夫人が初めて監修した藤田の画集、
私にとっては相当高価なもので大切にしていましたが、
埃をかぶったままになっておりました。
ばねおさんのおかげで、
同じ時期に出版された 近藤史人氏の藤田嗣治の評伝とともに、
久しぶりに手に取る機会を得ることできました!
画集の方に「モンパルナスの灯」の完成記念パーティで、
ジェラール・フィリップと藤田が、モディリアーニの1枚の絵を一緒に持っている写真が載っています。アヌーク・エメも後ろに。
モディリアーニと藤田が懇意であった証左ですね。
カフェやシテ・ファルギエールや、Rue Campagne Première、La Rucheなど
エコール・ドゥ・パリや藤田など足跡をたどった薄~い記憶が蘇りました。
確かモンパルナス墓地には、Niki de Saint Phalleの作品もありましたよね。
「モンパルナス界隈(2)」はどちらを巡るのでしょうか。楽しみです。
ちゅう。
- ばねおさん からの返信 2021/10/06 04:41:32
- RE: 懐かしいモンパルナス
- ちゅう。さん こんにちは
コメントをお寄せいただきありがとうございます。
貴重な画集をお持ちなのですね、
> 画集の方に「モンパルナスの灯」の完成記念パーティで、
> ジェラール・フィリップと藤田が、モディリアーニの1枚の絵を一緒に持っている写真が載っています。アヌーク・エメも後ろに。
ジェラール・フィリップにしてもアヌーク・エメにしても、これほどの俳優は滅多にいません。
今考えれば、たいへんな顔触れです。
「モンパルナスの灯」の翌年だったと思いますが、ジェラール・フィリップが36歳の若さで急死してしまい、奇しくも演じたモディリアーニと同年であったことで覚えています。
別な旅行記で触れましたが、ジェラール・フィリップの亡くなった場所にはパリ市の歴史解説碑がありました。
> カフェやシテ・ファルギエールや、Rue Campagne Première、La Rucheなど
> エコール・ドゥ・パリや藤田など足跡をたどった薄?い記憶が蘇りました。
> 確かモンパルナス墓地には、Niki de Saint Phalleの作品もありましたよね。
>
> 「モンパルナス界隈(2)」はどちらを巡るのでしょうか。楽しみです。
モンパルナス墓地のニキの作品は際立っていますが、モンパルナスにはこのように墓碑が作品となっている例がいくつも見られますね。
墓地見学を嫌う人もいますが、鑑賞の対象としてわざわざ作られているのに、と思ってしまいます。
「モンパルナス界隈(2)」になるかどうかは分かりませんが、Rue Campagne Première、La Ruche のいずれも予定しています。
乞うご期待!というよりも、またご意見などお寄せいただければ嬉しいです。
ばねお
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