2021/08/11 - 2021/10/27
864位(同エリア17021件中)
関連タグ
ばねおさん
カンパーニュ・プルミエール通り(Rue Campagne-Première)は、モンパルナス墓地の先でラスパイユ大通りとモンパルナス大通りを結んでいる道のひとつ。
これといって特徴のない300m足らずの通りではあるが、ここの奇数番地側には世界に名を知られた多くの芸術家がアトリエや住まいを構えたことで知られている。
一体なぜこの通りがそれほどまでに人々を引き寄せたのか、芸術史に残る多くの舞台となったのか、紐解く鍵はいくつも用意されているのだけれど、残された歴史は分厚く、辿っても辿っても行く着くことはおぼつかない。
表紙写真は、「モンパルナスのキキ」(フランスTV3より)
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
モンパルナスタワーを背に、右手にモンパルナス墓地の塀を見ながらエドガーキネ通りを進むとラスパイユ大通にぶつかる。
左へ行くとサンジェルマンデプレ、右へ行くと大きなライオン像とカタコンブのあるダンフォールリシュリューとなる。その手前には現代美術館を併設しているカルチェ本社がある。 -
ラスパイユ大通り角にあるのは、カフェ「 Le Lithographe(リトグラフ)」
ウインドウにはプレス機の図が大きく描かれている。
パリには至る所にカフェがあるが、その店名を拾って歩きながら、由来を考えるのもなかなか面白い。 -
カフェ「リトグラフ」の前は、メトロ4、6号線の「ラスパイユ Raspail」駅。
大通りの向こう側、白い建物の横からカンパーニュ・プルミエール通りは始まっている。 -
ラスパイユ大通りを渡る前に、ちょと覗いておきたいのがラスパイユ大通り242番地にあるピカソの旧アトリエ。
ピカソのアトリエはいくつかあるが、ここはあまり知られていないようだ。
大きな構えの建物で、通りに面してガラス面が広く確保されている。 -
ついでに大通りの向かいに見える建物にはアルチュール・ランボーが住んでいたとも言われるが、カンパーニュ・プルミエール通り14番地説もあり、定かでない。
パリ市の公式解説では、「ランボーがカンパーニュ・プルミエール通りに住んでいたのは事実だが、それがどこかは不明」、となっている。 -
ラスパイユ大通りを渡り、角のレストラン「Le DUC」前からカンパーニュ・プルミエール通りとなる。
長さ300m足らずの距離を真直ぐに延びているため、突き当りのモンパルナス大通り沿いの建物が遠目にも見えるほどだ。
ヌーベルバーグの記念碑的作品と位置付けられるゴダールの映画『勝手にしやがれ』の中で、ジャン・ポール・ベルモンドが演じる主人公が息を引き取ったのがこのあたり。演じたベルモンド自身もこの9月に88歳で亡くなった。 -
カンパーニュ・プルミエール通りに足を踏み入れて、まず最初に目を引くのが31と31bisの番地が付されたこの建物。
外装がビゴの豪華なタイルの意匠によって際立つ存在となっている。
1911年にパリ市のファサードコンベンションで賞を得た建築で、パリで最も美しい工房と評価されている。 -
アトリエ兼住居であるが、内部がどのような構造であるかは不明。
ここに居た主な人物を挙げると、マン・レイとモンパルナスのキキ、ルイ・アラゴン(Louis Aragon) とエルザ・トリオレ (Elsa Triolet)、貧困から抜けだしたシャイム・スーチンも一時期ここのアトリエに身を置いていた。
時代を下れば、現代芸術家のピエール・レスタニ(Pierre Restany) とジャン・ピエール・レイノー (Jean-Pierre Raynaud) もここに住んでいた。 -
モンパルナスのキキは、本名アリス・プランAlice Prin(1901-1953年)
マン・レイとはモデルとして、やがて愛人としての関係に発展した。
キキに関しては数多くの伝説的な話が残されているが、フジタがキキを評して「全く偽りのない丸出しの女」という表現が、最も当を得ているように思う。
ただ現代においては、こうした表現は差別的だとたちまち非難の対象になりそうだが -
キキの裸体画で一躍世に出たフジタが、断片的ながらキキのことをエッセーの形で書き残している。
食べる物も十分でなかった中で、はじめて絵が売れて数千フランを手にしたフジタの元にそうとは知らないキキが2フランの借用に来るシーンがある。
フジタはキキの眼を瞑らせ、手に百フラン紙幣を握らせる、2枚3枚と...
眼を開けたキキは見たこともない金額に驚き、外套とハンケチ以外には身に着けるものがなかったキキが、まずは着る物をと安衣料店に走る..
多少の脚色はあろうが、フジタの筆は絵筆以上に見事なもので、彼が小説を書いたならば世に認められる作品をいくつも残したに違いない。 -
31番地の隣にあるのは、有名な l’ Hôtel Istria ロテルイストリア(イストリアホテル)。
このイストリアには一時期ダダイストたちが多く居て、ホテルでありながらまるでダダイストたちの共同住宅のようであったような観がある。
今では、ほぼ無一文の芸術家たちが月極で借りていた頃よりはずっと整備されたのだろうか、とてもシックな印象を受ける。
自分もここに体験宿泊して、かっての芸術家たちの残り香でも追ってみようかと思い料金を調べたら1万円少々である。
コロナでまだ実現できていないが、いずれとは思っている。 -
ホテルの玄関わきに高く掲げられている一枚のプレート。
ここにに滞在した芸術家たちの名が誇らしげに列挙されている。
その記述によると、
「画家のフランシス・ピカビア、マルセル・デュシャン、モアーズ・キスリング、写真家のマン・レイ
モデルでありミューズのモンパルナスのキキ
作曲家のエリック・サテイ
詩人のマリア・リルケ、トリスタン・ザラ、ウラジーミル・マヤコフスキー、
エルザ・トリオレに加えてルイ・アラゴン」
そして、ルイ・アラゴンの詩『私にとってはエルザのパリだけ』の一節で締めくくられている。 -
これらの名前のどの一人をとっても芸術史には欠かせない存在だが、とりわけ文学史上重要なアラゴンとエルザの出会いは、この少し先のヴァヴァンにある「ク―ポール」から始まった。
-
詩人マヤコフスキーを介してアラゴンとエルザが初めて言葉を交わしたのは、イストリアホテルからもほど近い「ラ・クーポール 」(La Coupole)。
モンパルナスだけでなくパリを代表するブラッスリーのひとつだ。
昔のデパートの大食堂のような広さに驚くが、接客は細やかで、料理も満足できる内容で歴史や名声にあぐらをかいていないことに好感が持てる。
食通の池波正太郎がこの店のことを書いていたはずだが、手元に本がなく、はてどんな内容であったかが思い出せない。 -
中央に彫刻作品が置かれ、アールデコ調の柱が数十本立つ店内の客席は約300もあり、パリで一番の広さと言われ、歴史的遺産にも登録されている。
物理的には見えないが、決められた担当の区画はその区画の責任者が配下のウエイターたちに細かく指示を飛ばし、お客へは常に配慮を欠かさない。
このあたりの呼吸というか采配ぶりは本当に見事だと感心する。 -
普段は閉鎖されているが、地階のダンスホールも健在で、ここで夜な夜なジャズ演奏やダンスが繰り広げられた頃の賑わいを偲ばせてくれる。トイレを利用ついでに覗いてみると、当時の雰囲気が感じられる。
今、人気なのは昼のランチコースで、前菜+料理または料理+デザートで19.5ユーロ。
近隣のカフェランチが15ユーロ前後であることを考えると、やや高いようだが、料理の内容ははるかに上質で、そこで過ごす時間を含め、むしろ安いとさえ思える。 -
さて、カンパーニュ・プルミエール通りに戻って、イストリアホテルの隣は27番地。
ここの扉に注目
1928年、佐伯祐三が描いた作品『扉』のモデルである。 -
以前の旅行記と重複するが、『扉』はこちら
佐伯はこの通りで『カフェのテラス』という作品も描いたという。
ちなみに佐伯が2度目の渡仏で暮らしたアパルトマンは、このカンパーニュ・プルミエール通りの先、モンパルナス大通りに出て右にある。 -
23番地にあるのはフジタが終戦後の日本を離れてフランスに戻り、1950年から1961年の間住んでいたアトリエ兼住居のある建物。
パリ南郊に移り住むまでフジタはここで君代夫人と生活した。
蚤の市が好きなフジタは、ここからエドガーキネやヴァンヴの骨董市に足を運んだことだろう。
ポーラ美術館にある小作品群は、ここでの暮らしで生まれたものであるという。 -
第2次大戦中、日本に帰国し従軍画家として絵筆を執っていたフジタの珍しい画像をフランスのTVが放映しているのを見つけた。特徴のおかっぱ頭ではなく、いたって普通の髪型でキャンバスに向かっている姿だ。
但し、テロップの表記がFoujitaではなく、Fujitaとなっている。 -
フジタの旧住居横に大きな鉄の門があり、中に私道が延びている。
私道の名は何と「Passage d'Enfer」。「地獄通り」あるいは「地獄の通り道」とでも訳せばよいのか 。 -
こちらがその内部。どのような地獄なのか辿ってみると
ちょうどフジタの旧居のある建物を角にしてL字型になっていて、カンパーニュ・プルミエール通りと建物を挟んで並行していることになる。 -
私道沿いにも番号が振られていて
例えば、ここは地獄通り3番地となる。 -
先ほどの31番地,31bis、そしてイストリアホテルの裏側も私道に接していて、出入りもできるようになっている。
面白いことにカンパーニュ・プルミエール通り沿いの番地とは別に「地獄通り」の番号が振られていて、同一の建物が二つの住所を持っているようなことになる。 -
この私道の名前はランボーの『地獄の季節』から来ているものと早合点していたが、どうやらそうではないようで、ラスパイユ大通りの古名に由来しているらしい。
-
結局、地獄の通り道は、カンパーニュ・プルミエール通りと並行しているので、そのまま進めばラスパイユ大通りに戻る形になる。
-
カンパーニュ・プルミエール通りは、パリ市の芸術散策モデルコースにもなっているためか、たまにグループでの参観者が見られる。
この日出会った写真の一団も、引率者とその参加者のようだ。
どことどこを回り、どのような説明がされるのか興味もあり勉強にもなるので、縁があれば随いていきたいところだ。 -
次に17番地と17bis
17番地はこの奥に広がっているが、居住者以外の立ち入りができないので外から眺める他はない。 -
17番地には高村光太郎がアトリエを借り、その跡を梅原龍三郎が受け継いだ建物もここにある。
今は移転してしまったが、実験的な印刷技術を用いた版画の有名な「アトリエ17(Atelier 17)」の名称は、ここの番地から由来している。
ここに足繫く通った人物としては、シャガール、、ミロ、ピカソ、ジャコメッティ、カンディンスキー、マックス・エルンスト、ジャクソン・ポロックなどが知られている。 -
1階がレストランになっている17bisの建物。
コロナウイルスの規制の下で、時限的に設置が許されていた車道上のテラス席は10月末ですべて撤去と決まり、これも又、なつかしい風景となる。 -
17bis 建物外壁にあるプレートには、写真家のウジェーヌ・アジェ(Jean-Eugène Atget)の名がある。
そして下のレストランの店名に注目。
À
Bout
De
Souffle
映画『勝手にしやがれ』(邦題)をそのまま店名にしている。
カンパーニュ・プルミエール通りの端で亡くなる主人公が出てきた店はここだったか -
ウジェーヌ・アジェのプレート。
「近代写真の父」と呼ばれる割には、ずいぶんと簡素なプレートだ。
ウジェーヌ・アジェの写真家としてのキャリアはここから始まり、1927年に亡くなるまで終生このアパルトマンにとどまった。
有名な建物や観光名所ではなく、アジェはひとびとの日常風景、旧い建物や屋内の家具などを撮った。それらの写真を自らの生計を立てるためにモンマルトルやモンパルナスの画家たちに売り込み、画家たちはその写真でインスピレーションを得て創作の参考にした。
アジェの顧客としてドラン、ユトリロ、フジタ等の名前が残っている。 -
次に13bisの建物。
一階のバーの名前に聞き覚えがあるのだが、何であったのかどうしても思い出せない。 -
ここにはベルナード・ノーダンBernard NAUDIN (1876-1946年) のプレートがある。画家、デザイナー、風刺画家、彫刻家と時代によって肩書は変化したが、挿絵画家あるいは図案画家と呼ぶのが適当なのかも知れない。
-
カンパーニュ・プルミエール通りの奇数番地には... と、はじめに書いたが、唯一の例外として道路反対側の14番地に立ち寄る必要がある。
ここは画家イヴ・クライン(Yves Klein, 1928 - 1962年)が暮らし、ピエール・レスタニと共に「ヌーヴォーレアリスム」運動を宣言した場所とされている 。 -
イヴ・クレインの署名を添えたプレートが建物入り口横にある。
「画家イヴ・クレインは1958年-1962年 ここのアパルトマンで暮らし、彼の ”モノクローム絵画” を制作した」と記されている。
僅か2行だけの説明ともいえない内容だが、記念プレートはこの程度でよいのだろう。興味があれば自分で調べればよいのだから。 -
9番地の建物前には、この通り沿いでは唯一の歴史解説碑(史跡碑)がある。
長文だが、すべてを語ってくれているので引用する。
「この碑の背後には1889年の万博のパビリオンから回収された材料を用いて建てられた、建築家のタバレットによる約100のスタジオがあります。
これらの明るく安価なアトリエには、カルチェラタン、クロズリー・デ・リラの周辺で新たなインスピレーションを模索していた画家や彫刻家が住みつきました。その中で、ゴーギャンとゴッホに触発されたオトン・フリエス(1879-1949)は、ここで彼の最初の「フォーヴィスム」作品を制作し、ジョルジョ・デ・キリコは、アポリネールとピカソとの出会いの後、シュルレアリスムに目を向けました。1902年にパリに来たオーストリアの作家ライナー・マリア・リルケは、彼の「貧困と死の書」に記されている悲惨な状況を体験した後、彼が秘書になった彫刻家オーギュスト・ロダンに出会いました」 -
カンパーニュ・プルミエール通りからの9番地の外観。
現在も奥のアトリエは存続して使用されているという。 -
ちょっとだけ内部の様子を窺える機会があった。
住民が出入りするときに扉の片面が開いて、偶然その瞬間をとらえたもので、小さな中庭があり、奥に建物が取り囲んでいるようだ。 -
隣にあるのは、5番地の古い建物
2階部分にあるプレートにはルイ・アラゴンとエルザの名前がある。 -
プレートには、「エルザ・トリオレ(1896-1970) とルイ・アラゴン(1897-1982) が1929年から1935年までここに住んでいた」とだけ記されている。
妻エルザに捧げる多くの詩を書いたアラゴンだが、中でも『エルザの瞳』はシャンソンとしても有名になった。
ロシア出身のエルザはアラゴンの妻というだけでなく、女性として史上初めてフランスの文学賞であるゴンクール賞を受賞している。 -
5番地の内部を少しだけ見せてもらった。
手前横手には通り沿いの建物の内玄関があり、さらにこのように奥行きのある建物が続いていて、思っていた以上に部屋数がある。 -
3番地の現在の姿。
本来ここは、この通りで大きな意味を持つ場所なのだが、今は鉄筋コンクリートのビジネスビルになってしまった。
かってはフランソワ・ポンポン(François Pompon)とモディリアニのアトリエがあり、モデルをやめたロザリオ・トビア(Rosalia Tobia )の営む大衆レストランがあった。 -
ロザリオ・トビアは、ルドンOdilon Redonの家で(おそらく女中として)働いていたときに、ルドンの画家仲間の一人が彼女にポーズを依頼し、以来、モデルになったという。
ウィリアム・アドルフ・ブグロー(W. A. Bouguereau)による古典風な作品のいくつかには彼女がモデルとして登場している。
さらには、カロリュス・デュラン(Carolus-Duran)、パリ時代のホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler)、エミール・バヤール(Émile Bayard)、パスカル・ダニャン・ブーベレット(Pascal Dagnan-Bouveret)などのモデルにもなっている。
モデルをやめた後、労働者向けの安いレストランをカンパーニュ・プルミエール通り3番地に開業し、2フランの料理にも手が出ない客のためには、さらに安いメニュを用意するなどの工夫をしたことが伝えられている。 -
同じイタリア出身のモディリアニを可愛がり、母親のように世話を焼いたが、その作品はまったく評価していなかったようだ。
時に食事代もなかったモディリアニは、支払いの代わりにしばしば絵を残し、ユトリロは壁に描いていった。
後に、ユトリロの壁画は切り取って高値で売ることができたが、放置しておいたモディリアニの作品はネズミに齧られてしまっていたという。
この点、シテ・ファルギエールの女管理人が、モディリアニの残した作品をやはりごみ同然に扱っていたことと似通っている。
もっとも芸術的価値はさておき、描かれた当人を前に2枚の絵を並べて、どちらか好きな方を取れと言ったら左を選んでも仕方のない気はするが...
左はブグローの作品、右はモディリアニ作「ロザリオ・トビアの肖像」 -
今は跡形もなく失われた、かっての3番地の事跡を偲ぶように7番地に記念のプレートが掲げられている。
それには、「動物彫刻家フランソワ・ポンポン 1855-1953 のアトリエが今では失われた3番地にあった」とだけ記されている。
なんと、そのポンポンの展覧会が今、日本で開催されているという。
どのような作品が展示され、どのような構成になっているのだろうか。
そして、日本での評判はどのようなものなのか、気になるところだ。 -
1番地。ここでこカンパーニュ・プルミエール通りはモンパルナス大通りに出会い、終わりとなる。右手に折れると天文台広場、ルクサンブルク庭園、左に折れるとヴァヴァンの交差点となる。
失われたものは多いが、わずか300m足らずのこの通りには人びとの分厚い歴史と物語があり、まだまだ知らざる宝が残されているような気がする。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ばねおさんの関連旅行記
パリ(フランス) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
47