2021/11/24 - 2021/11/24
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しにあの旅人さん
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神護景雲3年(769年)夏、和気清麻呂は勅使道のゆるい坂を下り、宇佐神宮に向かったのであります。
続日本紀神護景雲3年(769年)9月25日の記事によれば、
★太宰府の主神(かんづかさ)の習宣阿曽麻呂(すげの・あそまろ)は、道鏡に気に入られようと媚び仕えた。そこで宇佐八幡宮の神のお告げであると偽って「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」といった。★
称徳天皇は道鏡を崇拝しておりました。しかし、さすがにこれでただちに道鏡を天皇にするわけにはいかない。そこで、
★天皇は清麻呂を玉座近く招き「昨夜の夢に八幡神の使いが来て『大神は天皇に奏上することがあるので尼の法均(清麻呂の姉)を遣わされることを願っています』とつげた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と勅した。★
かつての宇佐神宮の表参道は現在とはちがい、西より呉橋を渡って神域に入りました。天皇の勅使がこの参道をとることから、勅使道と呼ばれてきました。現在の西参道です。
私たちは化粧井戸の駐車場から呉橋まで歩きました。清麻呂の気分を味わいます。
題名は、「清麻呂参上」か「推参」か。参上は目上に会いにうかがうこと。推参は呼ばれてもいないのに押しかける。旗本退屈男は悪代官に参上しません。推参です。だから清麻呂も推参でよいかと。
このシリーズで参照、引用した資料は下記の通りです。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫
「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・日本後紀」森田悌・講談社学術文庫
「宇佐神宮由緒記」宇佐神宮
「和気清麻呂公一代記」宇佐神宮
「隼人の古代史」中村明蔵・平凡社
「宇佐八幡神話伝説の研究」村田真一・仏教大学研究叢書・法蔵館
文中「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」と「宇佐神宮御託宣集」はこの本からの引用です。
「更級日記 現代語訳つき電子版」原岡文子訳注・角川ソフィア文庫
「陸行水行」松本清張・文春文庫電子版
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
百体神社の真向かいにある案内板。
宇佐神宮の神官はここで勅使を出迎えた、とあります。 -
化粧井戸から呉橋まで約1kmです。
-
一書に曰く、
清麻呂は、この道を、真っ正面奥にある真っ赤な橋を見据えながら、歩いていったのです。
とにかくまっすぐ。
このとき、既に気持ちは定まっていました。
今から起きる、と言うか起こす事に武者震いしたのでしょうか。
それとも、やはり、、、という迷いは無かったでしょうか。
ちょっと、清麻呂になった気分で歩いてゆくと、
すぐに呉橋まで着きました。
傍らに広い駐車場がありました。
By妻
かつては石畳の参道だったそうです。道路改修の時に舗装の下から石畳が出てきました。宇佐勅使街道 名所・史跡
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百体神社の前に一部が保存されていました。
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こういう石畳が呉橋まで続いていたのでしょう。
百体神社 寺・神社・教会
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県道10号との交差点からクラシックな町並みです。
-
品の良いお店が並んでおりました。食べ物屋、土産物屋がずらりの表参道より、はるかにいい雰囲気です。電信柱がなく空がすっきり。街灯がいいですね。
一書に曰く、
素敵な道でした。
どこのお宮さんでもそうですが、正面の参道は、堂々として賑やかで、まるで常設のお祭りです。それはそれで楽しいのだけれど、情緒が欠けるというのか、感動は薄いのではないでしょうか。
と、あれこれ文句が多くて申し訳ないですが、この道は、文句なし。
素敵でした。
勅使道は、まず、私たちが大好きな、人の姿のない田んぼの中の道をひょいと曲がった所から始まりました。
化粧井戸に来ました。ここまでは、普通の道です。
それから、少し歩いて百体神社。
百体神社も素朴で、いい雰囲気でした。
そして、ここからです。
道は先に朱色の呉橋に向かって、真っ直ぐ下っていきます。
歩いて行こうよ。
思わず言うと、百体神社で会った、熊本から来たという邪馬台国ファンの若い男性が、
「車で行った方が、、、」
と、私たちのトシを気遣って言って下さいます。
おいおいおい、お若ーの、なめちゃあいけねーよ。
こちとらー、毎朝海までの散歩で鍛えてるんだよ~。
口には出さず、ニッコリ笑って歩き出しました。
大正解!
By妻 -
正面が西参道鳥居です。
おしゃれなカフェや、ひょうたんの専門店など一味違ったお店がありました。
宇佐神宮にお参りするときは、この参道からおいでになることをお勧めします。
一書に曰く
静かな住宅地が続くのですが、趣があるし、なんといっても、ひょうたんやさんがあるのです。
なぜヒョウタン?
なぞなのですが、なにかあるのですね。
ちょっと入ってみたかったけれど、「清兵衛とヒョウタン」という、志賀直哉の小説がありました。
子供が磨いたヒョウタンを、商売人が旨いこと安く買って、客には高く売りつける話でした。その値段がすごかったように記憶しております。
入りませんでした。私、びびりですから。
By妻 -
西参道鳥居をくぐりまして、呉橋に到着。
宇佐神宮 寺・神社・教会
-
呉橋は渡れません。
屋根付きの橋というのは珍しい。
鎌倉時代にはすでに屋根付きの橋だったという記録があるそうです。いつできたかは正確には分からない。
清麻呂が勅使として下向した769年には、どうでしょう。勅使道から宇佐神宮に入るには川を渡ります。屋根があったかどうかは別にして、橋が架かっていたことはまちがいない。 -
現在の橋は17世紀に改築。1951年にさらに大改修されたそうです。橋桁の基礎がコンクリートでした。
-
3mの高さからの俯瞰画像。
今回の新兵器、1.8mの一脚の先につけたアクションカメラの映像です。iPhoneでリモートコントロールします。呉橋 名所・史跡
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呉橋左の神橋より神宮に出入りします。
-
神域に入りました。呉橋を神域より。
-
失礼して、呉橋の中を撮影。ピカピカです。
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呉橋より神社中心部へ向かいます。清麻呂もこの道を通ったのかな。
-
本殿。
社伝によると、現在位置に神亀2年(725年)に一之御殿、天平3年(731年)に二之御殿が建てられたそうです。三之御殿が建てられて現在の形になったのは弘仁14年(823年)ですから、清麻呂が参詣したときは二つの御殿が並んでおりました。
このとき一之御殿の八幡大神つまり応神天皇は、神社東の大尾神社に鎮座しておりました。
しかしまあ、清麻呂も一応御殿に挨拶はしただろうと思います。宇佐神宮 寺・神社・教会
-
私たちがお参りしたとき、ちょうど立派なご老人が一之御殿でお賽銭を献じようとしておられました。するとうしろからお孫さんでしょう、3歳くらいの女の子が「わたしが、わたしが」と駆け寄ってきました。わたしがお賽銭をあげたい。ところが間に合わずおじいちゃんはお賽銭を投げてしまったので、女の子はぶんむくれ。泣き出してしまいました。お祖父さんからあらためてお賽銭をもらったら、ケロッと泣き止んで、賽銭箱にバスケットボールのシュートの要領でコインを投げ込んでおりました。お賽銭箱まで背が届きません。
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ご祈祷依頼所にあった、ご祈祷一覧メニューです。いろいろ神社の御利益を見てきましたが、「選挙当選」というのは初めてです。
さすが8世紀の天皇後継に介入した宇佐神宮、選挙当選には効果ありそうです。 -
いよいよ大尾神社に向かいます。
宇佐神宮 大尾神社 寺・神社・教会
-
大尾山参道。
例年8月に行われる流鏑馬の馬場はこの先です。 -
2mくらいの幅の杭の間を馬を走らせ、3カ所の的を射ます。
By妻は「的が近すぎる。私でもできる」と申しました。
馬に乗れるの?
「乗れないけど、首をどうどうどうと撫でるくらいはできる」
弓は?
「さわったことない」
一書に曰く、
流鏑馬のことは、言い過ぎました。ごめんなさい。
すぐにバチが当たりまして、私、ここで帽子を失くしてしまいました。
その夜、雨が降りましたから、私の帽子は、大尾神社のどこかで濡れて泥にまみれてしまったことでしょう。
かあさん、あの帽子、どうしたんでせうね?
By妻 -
鳥居のかなたには、
-
このあと九州旅行でいやっというほど登ることになる階段が現れました。
これを登りきると、 -
東郷元帥の筆になる「和気公之碑」
身を挺して皇統を護った清麻呂は旧軍の軍人に崇拝されておりました。
ここから右に曲がってすぐ、 -
和気清麻呂を祀る護皇神社。創建明治3年(1871年)
私は平安時代以降の神社は新しすぎて、今ひとつ気合いが入りません。明治3年だと昨日と同じ。
「和気公之碑」の前で左に道をとると、 -
大尾神社の鳥居。
-
鳥居をくぐり直角に曲がると、神門です。神門前に案内板がありました。
-
★八幡大神は奈良の都の大仏開眼式に臨まれ、宇佐へご帰還ののち、天平神護元(765)年、この大尾山にしばしの間鎮座するとの御託宣を下した。
これを受けて山上に本殿が造営され、15年間お鎮まりになった。
この間、神護景雲3(679)年7月11日、和気清麻呂公は「宇佐使」として当地に参向、八幡神より皇統を守護する託宣を受けられた。★
とあります。
清麻呂は大神の神託が事実か確認するため、ここに参上したことになります。 -
門は閉まっておりましたが、
-
お言葉に甘えまして、
-
お邪魔します。
一書に曰く、
坂道を登って行くとき、下ってくる人とすれ違いました。
それっきり。
だーれもいない。だーれも来ない。
無人のお社に、自由にお入り下さい。と言われても。
良いのかしらん。
入ったら、ギイイと閉まって、、、。
開けてくれーーてことになったら、どうしようと思ったけれど、そんなことも無く普通に入って、普通に出てきました。
ただ、日が当たると、暖かなのに、日陰は、ゾッとする寒さでした。
どこでもそうですかね。ご神託ではないですかね。
By妻 -
大尾神社拝殿。
-
本殿。
アクションカメラで動画を撮ってみました。高さ3m、ところどころカクカクするのは、手動回転だからです。
https://youtu.be/9QW2qGpmeIg -
宇佐神宮神託事件は、称徳天皇治世の出来事ですから、延暦16年(797年)完成の続日本紀に書いてあります。
しかし実は承和7年(840年)編纂の日本後紀のほうが詳しいのです。
桓武天皇の延暦18年(799年)2月21日、「和気朝臣清麻呂が死去した」として、姉法均とともに詳しい評伝を載せています。
「八幡宇佐宮御託宣集」という書物があります。正和2年(1313年)成立の宇佐神宮の縁起書です。以降「御託宣集」とします。
宇佐神宮の縁起でもっとも古い文献は、9世紀から10世紀の成立といわれる「宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起」です。以降「建立縁起」とします。
宇佐神宮編纂の「宇佐神宮由緒記」には道鏡事件の記述がありますが、この「御託宣集」や「建立縁起」をベースとしているようです。
この事件のクライマックスです。
続日本紀によれば、
★清麻呂は出かけていって神宮に着いた。大神は「わが国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。臣下を君主とすることは未だかってなかったことだ。天つ日嗣(皇位)には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除けよ」と託宣した。★
日本後紀だと、
★(清麻呂は)宇佐神宮へ参詣し、神の託宣(習宣阿曽麻呂(すげの・あそまろ)の偽作によるもので、道鏡を皇位につけよとの内容)とされるものについて申上した。
清麻呂が「このたび伺った宇佐八幡神の教命は朝廷の大事であり、信じがたい内容です。願わくは、格別の神の意志を示せ」と訴えると、突如として神が長さ三丈ほどの満月のような形をして現れた。清麻呂はびっくりして度を失い、仰ぎ見ることができなくなってしまったが、神は「我が国では君臣の身分が定まっているにもかかわらず、道鏡は人の道に悖り、皇位につこうとの野望を抱いている。汝は朝廷に戻り、私の言ったとおりを天皇へ奏上せよ。皇位は必ず皇孫が継ぐものである。汝は道鏡の怨みを恐れてはいけない。私が必ず助けるであろう」と託宣したのであった。★
続紀はたんたんと託宣の内容と述べるだけ。後記は「突如として神が長さ三丈ほどの満月のような形をして現れた。」と非常に具体的に描写しています。私はトトロのようなものを連想しました。
宇佐神宮由緒記では、
★(清麻呂は)当時、大尾山の仮殿にて、大宮司ならびに女祢宜辛島勝乙女(めねぎ・からしまの・かつおとめ)の神託のとりつぎにて「わが国は開闢このかた君臣の秩序は定まれり臣をもって君とする、いまだ、これあらず。天つ日嗣(皇位)には必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除をすべし」との神託をえてこれを報告したので、道鏡の怒りにより、追放されたのである。★
これだと大神は直接登場せず、大宮司ならびに女祢宜辛島勝乙女つまり宇佐神宮事務局レベルで、習宣阿曽麻呂の神託はニセモノであるとの回答を得ています。 -
続日本紀は、清麻呂が習宣阿曽麻呂の神託をひっくり返す決意を事前にしていたとは、はっきり書いていません。しかしそう読める書き方をしています。
★清麻呂が出発するにおよんで道鏡は「大神が使者の派遣を請うのは、おそらく私の即位のことを告げるためであろう」と語り、吉報をもたらせば、官職位階を重く上げてやると、もちかけた。★
ここまで言われれば、清麻呂はこれが道鏡即位のでき芝居だとすぐ分かる。反抗する決意をこのとき固めた。
後記は身も蓋もなく、
★清麻呂は豊永の(道鏡を皇位につかせてはいけないという)言葉を当然のものと思い、主君(天皇)のために身を捧げようとの気持ちをかため、宇佐神宮へ参詣し・・・★
続紀も後記も、清麻呂は出発前に答えは決めていたといっています。
習宣阿曽麻呂も馬鹿ではない。当然宇佐神宮に根回しした上での託宣でしょう。しかし、清麻呂は宇佐神宮と交渉し、神宮を反道鏡に方針転換させたということです。
習宣阿曽麻呂が神の託宣の形で道鏡への譲位を提案しているので、対抗上大神の神託という形式を取りました。
やるなら派手にしよう、ということで「長さ三丈ほどの満月」を持ち出したのが後記でしょう。
清麻呂はご神託と称するモノをふところに宇佐を後にし、朝廷に「道鏡天皇即位NO!」と復命しました。
習宣阿曽麻呂の託宣はニセモノです。清麻呂の神託も平たくいえばニセモノです。
清麻呂は確かに忠臣ですが、賞讃すべきは宇佐神宮を味方に引き込んだ度胸と交渉力であります。
称徳天皇と道鏡は激怒しました。
称徳天皇は怒ると、臣下を罰する時に名前を変えるという変わった趣味があります。
和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべ・きたなまろ)、姉の法均は広虫売(ひろむしめ)。
清麻呂は大隅国、法均は備後国に配流されました。
あだ名をつけて嫌がらせをするわけで、中学のボス女学生のいじめみたいです。
しかし翌年宝亀元年(770年)の称徳天皇の崩御と道鏡の失脚で、2人はみごとに返り咲きました。
一書に曰く、
和気清麻呂は東京のお堀端に、銅像が建っております。
堂々たる偉丈夫です。
立派に見せたい気持ちは分かるけれど、きっと本物は違っていた。
小柄な一見おとなしめな人だったに違いない。
でなければ、道鏡が、こいつは自分の思い通りになるとは思わなかっただろうし。
ところがどっこい、はむかっちゃった。
絶好調の道鏡に逆らうなんざ良い度胸です。
正義の味方で、怒濤の世論と戦う根性もあり、政治的でもあるとなると、勝海舟みたいです。
勅使道を歩いたときの和気清麻呂は、写真の勝海舟みたいに、みなぎるファイトだったに違いない。
うん、きっとそうだ!
By妻 -
清麻呂が大神の神託を受け取ったのは、宇佐神宮本宮ではなく、大尾神社でした。
宇佐の大神と比売(ひめ)大神はめおと神ということになっております。
なぜ15年間も大神夫婦は宅地内別居していたのか。不思議。
続日本紀に変な記事があります。孝謙天皇治下です。天平勝宝4年(752年)4月9日大仏開眼の2年後です。神護景雲3(679)託宣事件の25年前。
天平勝宝6年(754年)11月24日、
★薬師寺の僧行信と、八幡神宮(宇佐神宮)の主神(かんつかさ)・大神朝臣多麻呂(おおみわ・あそん・たまろ)らは、共同して人を呪い殺そうとする呪法を行った。(中略)11月27日、従四位下の大神朝臣杜女(もりめ)と外従五位下の大神朝臣多麻呂を、それぞれ官人の名簿から除名して、本姓大神に戻した。杜女は日向国に、多麻呂は多褹嶋(種子島)に配流した。そのためあらためて別人をえらんで、神宮の禰宜、祝(はふり)を補任した。★
「建立縁起」に上記の事件の記述があり、その後日談は次のようになっています。
「宇佐八幡神話伝説の研究」に漢文原文がのっていますが、長くて読めないんで現代語訳は勘弁してください。村田のまとめを引用します。
★天平勝宝7年(755年)年7月、大神朝臣杜女が禰宜であった時、八幡神が神官の「穢」を嫌って「菱形小椋山」から「伊予国宇和嶺」へ移りさったと託宣した。
(中略)
天平神護元年(765年)には「菱形宮」の東の「大尾山」を切り開いて宮を建て、八幡神はここに移る。「大尾山社」に移って15年、八幡神は禰宜の(辛嶋勝)与曾女(よそめ)に託いて、神の名を初めて顕示し、また「位封」を高く受けた「菱形宮」に戻り、「甲冑」を身に着けて朝廷と国家を守護すると宣した。★
清麻呂が神護景雲3年(769年)宇佐にやって来たとき、こういう事情で大神は大尾山社に鎮座していたのであります。 -
宇佐神宮は、宇佐氏、大神氏、辛嶋(からしま)氏の3氏連合体制だったそうです。宇佐氏は神社経営、大神氏は神官、辛嶋氏は禰宜として大神の託宣の取り次ぎという職掌だった。
平たく解釈すると、3氏の勢力争いがあったのではないか。天平勝宝6年(754年)の呪い事件の時は神官も禰宜も大神氏です。大神氏による辛嶋氏の縄張り侵犯です。呪い事件を契機に辛嶋氏が大神を「伊予国宇和嶺」に連れて行っちゃった。
その後和解が成立して、辛嶋氏は大神を宇佐に戻しはしましたが、大尾神社に隔離。
完全に和解がなったのは大神が「菱形宮」に戻ったとき。それが15年後、天応元年(781年)ということになります。
辛嶋氏の女禰宜による託宣の取り次ぎがなければ大神はなにも発言できないわけで、要するに辛嶋氏の思うがママということになります。
なお辛嶋氏の女禰宜(めねぎ)は巫女さんつまり聖なる処女というわけではありません。結婚してもかまわなくて、子供もいます。
禰宜をくびになった人もいます。呪い事件の当事者・大神朝臣杜女のあとは「辛嶋勝久須売(くすめ)」ですが、
★数年を経ても託宣が無く、天平宝字7年に久須売の任を解いて・・・★
ということは、神がかりになれなかった。ぶっちゃけた話、あまり要領よくなかった。あるいは演技力不足。神がかりと正気を行き来しながら宇佐神宮に都合のいいことを口走らなければいけないわけで、かなりの才能を必要とします。
その娘「志奈布女(しなふめ)」を禰宜としたら託宣がありました。
志奈布女のあとが前述の与曾女(よそめ)で、この人は大神が宇佐神宮本宮に戻るまで長く託宣の取り次ぎをしました。
一書に曰く、
神懸かるって。
自己陶酔しやすい人っています。
最初は、振り付けとかで、することになっているのだろうけれど、その内、観客の熱視線、歓声に酔ってしまって振り付けが本気になってしまうのですよ。
すると、客もすっかり陶酔する。すると、歌手もますます過激になる。
さらに、、って続くのですね。相乗作用ってやつ。
ロックコンサートなどでは、舞台で、ひっくり返って、裸になるシンガーがいるらしい。
それ、正気でやれますか?
そういうときは、自分の意志では無く、なにかの力で動かされているとしか思えません。
そういうのを、昔なら神懸かっているっていうのですよね。
今は、その状態で、ラブ&ピースとか言っているから平和なのですが、そこで政治的なことを口走っちゃったら御託宣ですな。
よかったですね。現代の歌手が政治的な野心を抱いて無くて。
By妻 -
霧島市和気神社大絵馬より。右端が清麻呂。
「道鏡を天皇にせよ」という神託をとりついだ習宣阿曽麻呂(すげの・あそまろ)は、時の宇佐神宮の支配者大神氏とは話をつけていたでしょう。
朝廷から勅使が来ます。天皇と道鏡の権威をもってすれば、なんでもヘイヘイと言うことを聞く腰抜けが来ると思っていた。
ところが、和気清麻呂という、骨太の硬骨漢が乗り込んできた。大神氏を反道鏡に方針転換させてしまった。あるいは辛嶋氏の巻き返しを強力に支援した。
清麻呂は平城京の反道鏡派の全面的バックアップを受けて、宇佐神宮での反道鏡工作に成功したのであります。下品な表現ではありますが、ケツをまくってちゃぶ台をひっくり返した。
称徳天皇が清麻呂の処罰を発表した記事では、
神護景雲3年(769年)9月25日、
★(前略)またこのことを知っていて、清麻呂らとともに謀ったひとがいることは(私=天皇は)知っているが、君主は慈しみをもって天下の政治を行うものであるから、この度は慈しみ哀れんで免罪とする。★
政権中枢に、天皇でさえ迂闊には手を出せない強力な反道鏡勢力があったということです。
習宣阿曽麻呂は道鏡派の神託メッセンジャー、所詮パシリでした。
宝亀元年(770年)8月4日称徳天皇崩御。
8月21日、道鏡失脚の当日です。
★従五位下中臣習宣阿曽麻呂を多褹嶋守に任じた。★
種子島守に左遷されております。実質的に島流し。逆に言うと、この程度の処罰で済んだということが、彼はパシリであった証拠です。
この宇佐神宮神託事件は、道鏡の悪だくみだと続日本紀に書いてあります。しかし同じ続日本紀をよく読むと、首謀者は称徳天皇自身みたいです。道鏡も含め、全員が被害者じゃないかな。
一書に曰く、
習宣阿曽麻呂という人は、野心的な人だったのですね。
ローカルな宇佐神宮を、全国デビューさせたかった。
その願いは、見事叶いました。
道鏡が天皇になるべきかなんてどうでもよくて、ただ宇佐神宮が皇位継承にからんじゃった。むりやりに。突如。
全日本規模のごますり。
その後、御託宣が偽だと言われようと、自分がニセモノだと言われようと、皇位継承にからんだ事実で「宇佐神宮は永遠です。」になっちゃった。
目的達成!イエーイ。
あの世で、習宣阿曽麻呂は、きっとVサインしていることでしょう。
By妻和気神社 寺・神社・教会
-
大尾神社の前になにやら広いスペースが・・・
怪しいなと思いました。 -
東郷元帥が見下ろす長い石段を下りました。
-
膝がケラケラ笑うのを我慢して、下りきって、ふと右の石灯籠脇を見ると、
-
車で上れるのでした。
誰の祟りじゃ、清麻呂か、道鏡か。
西田敏行の「眼鏡市場さん」でした。通じるかな、このギャグ。
一書に曰く、
車で行けましたし、このどこかに、私の帽子を置いてきてしまったけれど、でも歩いて登る方がいいですよ。
「はやく言ってよ~~~」って、by夫が騒ぐほど大変ではなかったです。
道は整備されていましたし、空気はいいし、和気清麻呂気分になれるしね。
時の権力者に刃向かうって、どんな気分だろうとか思いながら歩きます。
わが国のお姫様のご結婚について語ったり。現代の清麻呂はいないのか!
私も少々憂国の士。
なんちって。
By妻
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旅行記グループ
諸国寺社旧跡めぐり 豊前国
この旅行記へのコメント (6)
-
- ももであさん 2022/02/18 22:31:37
- 清麻呂 スマホ!
- しにあさん こんばんは
ぼくが長らくサボっている間にしにあさんの諸国漫遊記は、新シリーズに進んでいたのですね。
日本三悪人の不名誉な称号をいただく道鏡さんですが、八尾の地元では根拠なし、むしろ好青年だったと名誉回復運動を起こしてますね。吉良町の吉良上野介みたいな。
ってことは「道鏡を天皇にすれば、天下は太平になる」っていう根拠なき神託も、意外と嘘から出た誠... だったりして。
少なくともスピード出世した処世術は本物だし、筑波大付属高校くらい合格できる実力の持ち主だったのかも知れません。清麻呂さんがいなければ天皇家の血筋も途絶え、日本は大きく変わっていたのでしょうか。
それにしても神託を確認するために都からはるばる宇佐神宮まで出向く羽目になった清麻呂さんも大変でしたね。現代人なら間違いなくスマホで宇佐神宮まで問い合わせていたことでしょう。
それを知った清麻呂さん、それこそ地団駄踏んで「眼鏡市場さん」になってた!?
- しにあの旅人さん からの返信 2022/02/19 06:19:28
- Re: 清麻呂 スマホ!
- 復活、ももであさん。私たちのブログにも降臨!
続紀や後紀をウラから読むと、道鏡は犠牲者じゃないかって気がします。
兄弟親戚にたかられて、断りきれなくて、天皇に頼んでみんな偉くしちゃった。それが当時の伝統的勢力に拒否られた、というオチではないかと。
気のいい、わりかし意志の弱いおっさんじゃないかな。
道鏡は義淵の弟子で、若い時は非常に優秀だったという記録も残っているそうです。梵語ができたらしい。筑波大付属どころではなくて、中学生が飛び級で東大大学院というレベル。
清麻呂さんはタフだったみたいです。あの広い宇佐神宮を走り回って、あっちとねごり、こっちを説得、大尾神社の階段を何度昇り降りしたことか。
スマホがあったら、たしかに便利だった。仲店あたりのお茶屋に落ち着いて、電話をかけまくればいい。
宇佐餅食べ放題。
晩年足を悪くしたという記録が残っています。大尾神社の階段で転んだのが原因。ただの妄説です。
-
- 前日光さん 2022/02/18 00:01:25
- ん?天国に続く道 in 九州?
- こんばんは。
フィギュアスケートに見入っておりました(案の定(^_-)
それにしても宇佐神宮への道、まっすぐですね!
化粧井戸からの道は、こんな風なんですね!
私たちは普通に大駐車場に車を駐め、呉橋を右に見て、神橋を渡りました。
ですから、化粧井戸から呉橋までまっすぐに続く道路は、知りませんでした。
いやぁ、この道路は感動的ですねぇ(^o^)
いかにも宇佐神宮への道という感じがします。
高校の歴史の時間に、この道鏡に絡む宇佐神宮の話を聞いて、いくら昔でもそれはないだろうと思ったものです。
宇佐神宮の大神が宣ったから、天皇の地位には道鏡ではなくやはり皇室から。。なんて、子どもでも分かる出来レースじゃなかろうか?と、思いました。
天皇の位には皇統からという話を成立させるために、わざわざ遠い宇佐まで和気清麻呂を使者に立てるという。。しかも大神の返事(天皇は皇統に)を持ち帰った清麻呂や姉に罰を与えるなんて。
称徳天応の崩御や道鏡の左遷は、天罰としか言いようがありません。
しかもその道鏡は、下野国に流されたのです。
下野国の住人としては、罪人が流されたところが下野国という点に引っかかるわけです。
そんなずるがしこいヤツを、なぜこの地に流したのかと、当時はとてもイヤな気分になりました。
でも最近道鏡も見直されてきており、頭の良いかなりのイケメンだったんじゃなかろうかという話にまでなってきて、時代と共に歴史もものの見方も変わるんだなぁと思った次第です。
過日なぜか下野国にある「孝謙天皇神社」と、道鏡が流された「下野薬師寺」、また道鏡の墓と言われる「道鏡塚」の場所も確認し、近くにある「下野国分寺跡」など見学して、大いに天平の昔を偲ぶ機会がありました。
遠い奈良の都との繋がりを感じ、今となっては興味深い道鏡事件だったなと思うようになりました。
で、私は宇佐神宮では、司馬さんが「街道をゆく」で、「宇佐神宮の池」について触れていたので、池ばかりが気になり、あまり他の所は見ませんでした。
というよりは、行った時にちょうど本殿が改修中でテントの中に在り、見られなかったのです。
それから大分県には「宇都宮さん」という方がかなりいらっしゃると言うことの方に関心がいってしまいまして。
私は今まで栃木県で「宇都宮さん」という苗字の方に会ったことがないのです。
なのに大分にはけっこうたくさんいらっしゃるとか。
すみません!
せっかく格調高い旅行記なのに、話が逸れてしまいました。
by妻さんのご意見をよく拝読させていただき、次回宇佐に行くときには、車でどこまで行けるかを充分調べて行こうと思いました。
なにしろ腰痛持ちなので、階段は強敵なのです。
大尾神社が気になりまして、ただでさえ宇佐神宮は広いので、焦点を絞って見学しようと思います。
ピントのずれた感想で申し訳ございません。
この時代に興味がないわけでは決してありませんので、次も楽しみにしております(^^;)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/02/18 11:24:49
- Re: ん?天国に続く道 in 九州?
- 真夜中過ぎまで起きておられるのですね。フィギアスケート観覧とか。私はどういうわけか、今度のオリンピックは全く見る気がしなくて、ほとんどテレビを見ておりません。
前日光さんの宇佐神宮訪問記読んでおります。2014年のことですね。西参道は、この年代ですと、まだ整備されていなかったかもしれません。昨年11月でもかなり新しい感じでした。ちょっと古い写真ですと電柱がありますが、今はご覧のように電線なしで空がすっきり。
宇佐市か沿道の住民か、誰かセンスの良い方が音頭をとって、こういうふうに道路の外観を変えたのです。西参道はまだ無名ですが、そのうち新たな宇佐神宮の観光スポットとしてブレイクするのではないかと予想しています。
By妻が言うように、大神社の仲店はそれなりの面白いのですが、こういう非常にセンスの良い参道があってもいい。
kummingさんへのコメント返信にも書きましたが、「毎年4月下旬と8月中旬に見られ、参道に真っすぐに沈む夕日の光で黄金色に輝く。」そうです。
神社愛好の女性、神女が殺到しそうな観光スポットです。神女は歴女からイメージした私の造語です。「かみじょ」と読んでください。神社ガールという呼び名もあるそうですが、私は神女の方がいいと思う。
現代はなんでも、女性がイニシアティブをとって物事が動く時代です。男は後からついてくる。
道鏡にまつわるトンデモ話は後世の創作だそうです。続紀や後期では、道鏡はこの神託事件の時だけ、特に憎々しい悪役で登場します。どうもこちらも創作ぽい感じです。
このお話は後日旅行記にまとめる予定です。
それには下野薬師寺跡に行かねば。
前日光さんの旅行記で薬師寺については詳しくわかっております。21日に3回目のワクチンの予約が取れました。オミクロン様次第ですが、3月には北関東の旅と同時に行こうかなと思っております。できれば、梅か桜を入れて、アクションカメラかドローンを飛ばして俯瞰写真を撮りたい。カメラアングルなど、プランはこれから作ります。梅は遅すぎますね。薬師寺跡あたりの桜は例年いつ頃でしょうか。
アクションカメラは2人でないと操作できないので、「よーい、スタート。カット!」なんて、映画監督気分です。
大尾神社はおすすめです。車ですぐ近くまで上がれました。一応確認なさってください。
九州の神社は、どこも階段でした。神社は多かれ少なかれ階段ですよね。
-
- kummingさん 2022/02/11 22:57:14
- ご神託捏造事件
- 宇佐神宮までの道、お店など少なくて、良さげな雰囲気♪ 私にも、いつか訪れる機会があるでしょうか。
このお話は、高校の日本史の先生が熱く語ってくれたので覚えています。とにかく称徳天皇と道鏡の話に熱の入った授業でしたが、何しろ文春砲的な脚色満載で、それが女子高生の好奇心を煽った模様。今回、しにあさんby妻さんのルポと歴史書に基づく検証で、より史実に近い事の次第を理解できたような気がします。
称徳天皇の覚え愛でたく、飛ぶ鳥落とす道鏡、ご寵愛あまって皇位につける為にご神託を捏造するも、反対派の横やりがはいり、反道鏡派、皇統守護側、が勝利した。偽のご神託を更に捏造ご神託で制す?毒には毒を!
習宣阿曽麻呂の根回しの上を行く、清麻呂の、宇佐神宮を味方に引き入れた度胸と交渉力、あっぱれです。我が身に降りかかるであろう災厄を顧みず、時の権力者に立ち向かう姿は、いつの世であれ賞賛の的!かっこいい~♪それで、交渉力とは、 宇佐神宮の宇佐氏、大神氏、辛島氏の力関係、役割分担、縄張り争い、的なところを利用した、という事ですか?読み込み不足、理解力の限界です(;_;)
習宣阿曽麻呂が、本人の意志の如何に関わらず、宇佐神宮の全国的知名度アップ、に貢献したのですね。遠方から大分を訪れる方たちが、必ず宇佐神宮詣でされるのはなぜ?という謎が解けたような気がします。
「母さん、ぼくの帽子、どうしたんでせうね?」はどこからの引用ですか?小説?まさか角川映画?
称徳天皇の嫌がらせ、きたなまろ、ひろむしひめ、とは中高生の意地悪レベル(笑)
九州旅で登らされた階段、を思うと、「早く言ってよ~」も頷けます。初めての場所あるある、遠回りさせられちゃった(-。-;
「眼鏡市場」ギャグ、通じてません(;o;)
木更津に、久留米発祥のラーメン屋さん支店?が3月くらいに開店するという情報。我が母校近くの「沖食堂」のれん分けかどうか、は未確認。博多うどんのクチコミ拝見しました、久留米うどんのゆるふわ系としこしこ系、ご紹介したかったな~。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/02/12 13:08:24
- Re: ご神託捏造事件
- まず「はやく言ってよ、西田敏行、眼鏡市場」でググってください。「知らなかった男」で出てきます。
九州では、このCMやらなかったのかな。
「母さん、ぼくの帽子、どうしたんでせうね?」は、映画「人間の証明」のキャッチですが、西條八十の「ぼくの帽子」が元々の出典だそうです。
読んでみたけれど、グッとくるいい詩でした。
宇佐神宮西参道、おすすめです。
夕陽が西参道鳥居に沈む日があるとか。「毎年4月下旬と8月中旬に見られ、参道に真っすぐに沈む夕日の光で黄金色に輝く。」そうです。
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2021/12/06/JD0060862030
私は宇佐神宮は卒業です。
ブログはバッチリ読んでいただけて、嬉しい。いつものように行ったり来たりの文章で、ついてきてもらえるか心配でしたが、なんとかなりました。
この事件は、称徳天皇の思い込みだったというのが、私の結論です。老いを迎えた孤独な女帝の独走。52歳で崩御ですから、今でいうと70過ぎじゃないでしょうか。
奈良もの旅行記の最後は、このお話で〆ようかと思っています。前日光さんのお膝元の下野薬師寺に行かねば。
女子高生に道鏡の話は、ちょっと刺激が強いかと。
若い頃、孝謙天皇の頃ですが、藤原仲麻呂ともあやしかったのですが、この先生、そちらの方はなんかおっしゃっていましたか。
久留米にもシコシコ系うどんがあるのですか。全部ゆるふわ系だと思っていた。
東京駅八重洲で、「博多うどん」という看板のお店があったので食べてみましたが、普通のシコシコでした。関東でふわふわ系はないみたい。
九州はBy妻のお墓参りで必ず行きます。そのときはご連絡します。
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