2022/02/23 - 2022/02/23
3440位(同エリア4063件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 804,306アクセス
- フォロワー16人
この旅行記のスケジュール
もっと見る
閉じる
この旅行記スケジュールを元に
大村氏が建設した貿易港長崎は、豊臣・徳川政権下で特別な地位でした。
ポルトガル、オランダ、中国との通商を行ったスポットを順に回ります。
鎖国体制下で、朝鮮と琉球とは国交を結んだ「通信」、オランダと中国とは貿易のみの「通商」関係でした。格の違いを思いに留めつつ、ご覧ください。
幕末の開国による変化も扱います。
旅行記の地図情報も参照すると、理解の一助になるかと思います。
長崎を建設した大村氏および大村藩の足跡を辿るなら↓
https://4travel.jp/travelogue/11731971
年表
1570大村純忠が、長崎に貿易港を建設。
1587豊臣秀吉が直轄領とする。
1600オランダ船リーデフ号が日本に漂着。
1636出島建設し、ポルトガル人を収容。
1637-38島原の乱。ポルトガル人の印象悪化。
1639ポルトガル人追放
1641オランダ平戸商館を閉鎖し、出島へ移転。
1795ナポレオンがオランダを占領。
1800オランダ東インド会社解散
1808長崎でフェートン号事件勃発
1810ナポレオンがオランダを併合。主権完全消滅。
1815ナポレオン失脚後、オランダ王国建国
1828シーボルト事件
1853浦賀沖に黒船来航
1855日蘭和親条約締結
1859日蘭通商条約
- 旅行の満足度
- 5.0
-
旅の始めは、長崎街道。
小倉から長崎へ通じる西国(現在の九州)一の幹線でした。
峠を越えて海に面した扇状地を臨むと終点です。眼下には長崎の町が広がります。 -
終点の手前には鳴滝地区が。シーボルトが邸宅を構えました。当時異国人が出島を出たら死刑。シーボルトの凄さが分かります。
シーボルト記念館 美術館・博物館
-
写真は、長崎歴史博物館に展示されている外科医療用具。
シーボルトの国外追放が解除されたときに、娘イネに手渡しました。
彼女は日本初の女医になります。 -
隣には、大村氏の重臣長崎甚左衛門の屋敷跡が。地名の由来です。
幕府の天領になると、長崎村の庄屋の邸宅が建ちます。 -
(江戸から見て)長崎街道の終点。
長崎街道の石碑 名所・史跡
-
もう少し下ると、長崎奉行所跡が。
奉行は町のトップで、老中の配下。遠国奉行のトップポジションです。
複雑多岐かつ重要な任務のため、2人以上で職務に当たりました。
現在は市立博物館になっています。
※奉行地の周囲は、勘定奉行配下の長崎代官が統治しました。長崎歴史文化博物館 美術館・博物館
-
長崎の町
赤で囲んだ部分が、1572年に大村純忠が建設した6町のうち名前が残っている部分。
17世紀末に、市中は80町に拡大します。各町は、外国船の入出港の手伝いや貿易品の輸送、長崎奉行の江戸往復を支援しました。 -
貿易のしくみ
長崎は、オランダと中国を担当。幕府・相手国間の正規取引と、奉行所役人の裁量、私的プレゼントに分類されます。変わったものとしては、荷揚げの際に業とこぼしたものをゲットできる公認システムも。
※ポルトガルとは、僅か3年間で終了。 -
外国人は、住民との接触を禁止され、隔離されました。オランダ人は出島、唐人は唐人屋敷です。1702年には唐人の貿易品を収納する新地蔵が増設されています。現在は埋め立てが進んでいますが、当時は海上に浮かぶ島でした。
-
外国人視点で見ると、こんな感じです。
-
外国船の動向は、逐一監視されていました。長崎警備に当たった各藩の情報伝達ルート(狼煙)です。また長崎奉行の命により、西彼杵半島の外海地区には16の番所を大村藩が設置し、宣教師の上陸や密貿易がないか監視していました。
外国船は、決められたルートを維持してアプローチすることが求められました。 -
映像による解説もあります。
-
2人のキャスターが事件を読み上げ、解説員がコメントします。
1853年と言えば、ペリー来航がトピック。 -
エナジーチャージ。
中国との交流の副産物、皿うどんを堪能。
太麺タイプは、長崎県のローカルフードです、 -
こちらは細麺タイプ。日本人がイメージする皿うどんです。
どちらも共楽園の一皿。
どちらか片方を選べと言うのは愚問です。めがね橋 共楽園 グルメ・レストラン
-
唐人屋敷跡
貿易に携わった商人が生活する区画。陸上です。塀と有刺線で囲まれ、周囲と隔離されていました。目的は、密貿易の阻止です。唐人屋敷跡 名所・史跡
-
いかにも中国的な雰囲気が今も残ります。
航海の守り神の媽祖神信仰も。 -
蔵のあった埋め立て地は、現在は中華街になっています。
当時は、橋でのみアクセスできました。長崎新地中華街 名所・史跡
-
新地蔵の向かいにあった役所
中国向け三大輸出品の干しアワビ、煎ナマコ、フカヒレを収集加工した。これらは俵に詰めて出荷したために、俵物と呼ばれた。俵物役所跡 対馬藩蔵屋敷跡 長崎商工会議所発祥の地 名所・史跡
-
出島跡
当時は海に突き出た埋め立て地でした。
向かいには、長崎奉行所西役所が対峙していました。 -
いざ、表門より出島へ入ります。
表門橋は唯一の陸路で、24時間警備されていました。出島 名所・史跡
-
当時の表門の様子。
-
19世紀初頭の出島の様子。今よりも建物が多いです。
1884年に水路が広げられ、出島側の18m分が削られました。 -
19世紀初頭の様子を再現したジオラマ。
オランダへ持ち帰られた出島模型を基に再現しました。 -
16棟が復元されています。ここが出島の大通りです。
-
出島は、長崎市中に住んでいたポルトガル人を隔離するために1636年に建設されました。キリスト教の広まりを抑止することが目的でした。
長崎商人の資金で建設され、賃料を受け取って費用を回収しました。
賃料は現在の貨幣価値で、約1億円です。
島原の乱直後の1639年にはポルトガルは追放。1641年以降は、平戸にあったオランダ商館に難癖をつけて出島に移転させました。 -
オランダ船の入港は、季節風の関係で毎年夏の時期でした。
積荷は、小舟を介して水門という建物を通して出島内へ運ばれました。
出島へのアクセスは、本土と繋がる表門と、海に面した水門だけ。それ以外は壁で囲まれ、7か所の番所が警備しました。 -
こちらは、出島の外側から見た水門。海から撮影していることのなりますが、現在は埋め立てられ、出島の先端は、国道になっています。
-
水門を潜ると、右前に検視部屋(跡)が。ここで地役人が積荷を検閲し、それを監視していたのが上級役人の検使でした。
積荷は大きく2つに分かれ、一つはオランダ東インド会社が取引を行う貿易品(コンパニヤ)、もう一つは商館員の私的な貿易品(脇荷)です。 -
検使部屋の前の大通りに秤が設置され、計量が行われました。
写真では、俵に入った砂糖を計量しています。 -
水門の左隣には一番船船頭部屋が。はるばる航海してきた乗組員が滞在した建物です。船長は個室、それ以外は相部屋でした。秋には出港します。
※出島には、二番船船頭部屋も存在しました。 -
船員の滞在施設の次は、一番蔵が建ちます。19世紀初頭には十七番蔵までありました。オランダ人は花の名前で呼び、一番蔵はバラでした。砂糖を保管しました。
-
一番蔵の隣は、二番蔵。オランダ人はチューリップと呼んでいました。
砂糖や蘇木(染料になるスオウの木の枝)を保管しました。水門に近い蔵は、輸入品を収納しました。 -
二番蔵の基礎部分には珊瑚(石灰石)を敷き詰めた痕跡が。
防湿のための措置です。
二番蔵の奥には、脇にを保管する蔵と、主な輸入品である絹製品を保管する蔵がありました。
※明治維新以降の生糸輸出の印象が大きいですが、江戸中期までは輸入品でした。 -
18世紀以降、砂糖の輸入は重要になります。
底荷として、船の安定性を高めました。
国内商人が入札して、各地に伝達しました。とはいえ、輸送経路である長崎街道沿いが潤沢で、カステラ・金平糖などの砂糖文化が栄えました。
脇荷として、船員や商館員が遊女に贈るプレゼントでもありました。 -
オランダ東インド会社は、長崎以外にも50以上の商館を持つ巨大商社。
商館分布図を見ると、現在のインド沿岸が圧倒的です。
※もともとインドとは、インダス川の東側(未知の土地)という意味。
大航海時代の西欧人にとっての東インド(東側の未知の土地)は、アフリカ・アジアだった。 -
東インド会社はバタヴィア(現ジャカルタ・ジャワ島)に一大拠点を置く商社でした。バタヴィアには、各支店(商館)から運ばれた商品が集約されました。オランダを出帆した長崎便は、バタヴィアに寄港して砂糖(ジャワ産)や生糸(台湾・ベトナム・インド仕入)を積みました。
貿易(輸出入の品目および量)は、時代ごとに変動しました。 -
鮫皮
生物学的なサメではなく、エイなど鮫っぽい魚類の総称。インド洋・南シナ海産で、武士の差す刀の鞘や柄の装飾に用いられました。幕府が直接買い上げた品目(商人による入札を介さない)の一つで、出島勤務の鮫皮目利という地役人が検品した。 -
ヘトル部屋
検使部屋の隣。ヘトルとは、次席商館長のことで2階に住みました。1階は、オランダ植民地から連れてきた使用人の部屋です。
※出島の建物の1階はどれも倉庫なので、彼らの地位が推察されます。 -
カピタン(Capitão 英:captain)部屋
現地駐在員のトップである商館長の居住した建物。1階は商館長の食糧や物品の保管庫。2階は商館事務所としての公的スペースと、商館長の私生活の場に大別されます。任期は原則1年。 -
外付けの三角階段は、後に撤去され、室内に階段を新設。
階段を上ると、大玄関。掲示板があり、商館員が目を通しました。
※カピタン・ヘトル(Faitor)共にポルトガル語。 -
大玄関の右は、17.5畳の部屋。
いわゆる事務室で、通訳なども頻繁に出入りしていました。
写真は、商館長交代の引継の様子を表現。その奥は執務室。 -
大玄関の正面は玄関の間。
31.5畳あり、ホールとして使用されました。 -
玄関の間の右隣は、大広間。
35畳あり、商館員は昼夕にここで食事を楽しみました。
応接室兼饗応室としても使用されました。
写真は、阿蘭陀冬至(クリスマス)の食卓。 -
大広間の奥は客間。
来賓時は、西洋の楽器なども演奏されました。 -
その奥は涼所。先にはバルコニーも。
大広間・客間・涼所は迎賓館としての機能も果たしました。 -
1828年に、商館長が長崎警備に当たっていた福岡藩の藩主黒田斉清(なりきよ)を招待した場面。
-
玄関の間の左奥は、居間・女中部屋・寝間・図書室といった商館長のプライベート空間。
-
商館長は毎年、江戸へ参府して将軍に謁見しました(後に5年毎)。写真は、その時の様子。参府の際に立ち寄った長崎街道・山陽道・東海道の宿場は、異国文化と触れる窓口となりました。江戸で滞在した長崎屋は、知識人のたまり場になりました。
-
江戸参府に同行したシーボルトが、深川から永代橋を描いたもの。
-
検使部屋の奥には、通詞(通訳)部屋と料理部屋が。
写真は料理部屋の様子。
※通詞部屋跡の半分は、現在国道202号線になっています。 -
料理部屋には、オランダ人以外にも、日本人、植民地出身のスタッフが働いていました。
-
どうやって洋食の食材を調達したかというと、オランダから持ち込んだだけでなく、出島の左側に農場と菜園を作って、自給していました。食用に牛豚鳥が飼われただけでなく、将軍献上用の珍獣や、ペット(犬猫)も飼っていました。当時の見取図には、牛小屋、豚小屋、鳥飼池、牛飼人小屋等が記載されています。牛は主にバタヴィアから、日本から和牛も仕入れました。水牛もアジアから調達しました。
※ネパールを旅行した際に、ヒンズーの戒律に抵触しない水牛肉を現地で頻繁に味わいましたが、とても美味しかったです。 -
出島には、ブドウ棚もありました。
-
今ではお馴染みの花卉や食材が、出島で栽培されました。
この時期日本に広まったのは、クローバーでした。積荷の詰め物として使用され、繁殖しました。 -
地役人
天領地では遠国奉行または代官の下で、地役人と呼ばれる土着の官僚が自治に当たりました。町人身分ですが、役職は世襲されました。
長崎では、200余りの職種があり、阿蘭陀通詞(通訳)だけでも、通詞目付・大通詞・小通詞(助・並・末席)・稽古通詞・内通詞小頭等に分類され、50名ほどが従事しました。
地役人に準ずるものとして、商館員の日常品を納入する業者や、出入絵師、着物洗等も出入りしました。 -
乙名部屋
町年寄の管理下で、出島乙名は実務管理を行いました。いうなれば、現場トップです。町乙名の中から長崎奉行が選任しました。
貿易期間中は、この建物で貿易や商館員の交代に係る業務を行いました。組頭や日行使が乙名を補佐しました。 -
乙名詰所
出島乙名は、普段ここで仕事しました。表門の真正面に位置し、人の出入りと通行人の監視を行いました。他にも、通行証の発行や建物や道路等のインフラを管理しました。現在でいう大家・物件管理です。 -
輸出品
ポルトガルやオランダが最も欲していたのは、銀でした。しかし、大量の銀流出を危惧した幕府は、銅にシフトしました。いずれも硬貨の原料になります。銅の産出量減少に伴い、長崎貿易は減少して行きました。 -
東インド会社(VOC)は単なる商社ではなく、植民地経営・交戦権・条約締結権を有する勅許会社だった。現地での貨幣鋳造も有した。日本から輸入した銅はバタヴィア等でVOC硬貨に鋳造されました。VOC解散後の1800年以降は、政府の東インド政庁が引き継ぎました。
-
国内で採掘された銅は、大坂の銅吹所で精錬され、棹銅と呼ばれる300gほどの延棒に成形しました。操業していたのは、住友家の経営する泉屋です。愛媛の別子銅山を所有し、明治以降巨大財閥を形成します。
-
炉跡遺構
出島の銅蔵でオランダ商館員が火を焚いて、納められた棹銅の検品を行いました。 -
銅は、このように箱詰して船に積まれました。
-
輸出品には陶磁器も。VOCのロゴ入りのものなど様々な注文に対応。
漆器等の漆製品も輸出されました。 -
樟脳
楠を蒸留して精製。防臭・防虫剤・神経痛や皮膚病の医薬品として珍重された。
幕府の長崎会所が薩摩から買い付けた、 -
大極的に見るとVOCにとっての長崎貿易は、本命であるモロッカ諸島の香辛料を獲得するためのプロセスでした。
アジア・アフリカは高温多湿なので、本国特産の毛織物は全然売れません。香辛料を買うだけでは、一方的な貿易赤字に陥ります。
そこで、モロッカ人の欲しがる綿を輸出して均衡黒字化を図ります。
17世紀半ばを例にすると、ベトナム・台湾・インド各地の商館から仕入れた生糸を日本へ輸出し、日本からは銀を輸入。銀をインドへ輸出し、代わりに綿を輸入。綿をモロッカ諸島へ輸出し、代わりに香辛料を輸入。物流拠点のバタヴィアの重要性が浮き彫りになります。転売を繰り返して、大きな利益(貿易黒字)を得ました。持たざる国も、頭と体を使えば儲けられる典型例です。
では、世界各地に設立されたオランダ商館を巡ってみましょう! -
バタヴィア(現在のジャカルタ)
オランダの植民地支配の本丸的存在。VOCによって1619年に建設された都市。東インド総督が駐在したのもバタヴィア。 -
マラッカ
東インド貿易の先駆者ポルトガルの本拠地として、1511年以降香辛料貿易で繁栄。バタヴィアの位置するジャワ島に向かい合うマレー半島の都市。1641年にVOCがポルトガルを追放し、商館を設置。
※ポルトガルもオランダも、後にマラッカを占領するイギリスも、海上交通の交差点としてマラッカ海峡を重視してきたことが分かります。 -
台南
日本に砂糖や鹿革を仕入れていたが、1661年の鄭成功の攻撃・占領により撤退。 -
長崎貿易は当初は町人に任せていたために、オランダ側に有利な条件で取引したので大いに栄えました。しかし、1698年に幕府の長崎会所が開設され、幕府が管理するようになると、厳しい規制が原因で貿易量は縮小していきました。
-
幕府とVOC間の正規取引は、中国馬やペルシア馬を輸入して品種改良を図る等の国策を推進しましたが、縮小期に大きな科学・文化的役割を果たしたのは脇荷(私貿易)でした。科学書、学術用具、医薬品などは、専ら私貿易を通して広まりました。
-
酒
ビールを日本に伝えたのは、オランダです。蒸留酒のジンを発明したのはライデン大学の教授です。どちらも日本人の嗜好には合わなかったようで、珍重されたのは何と空き瓶でした。 -
出島は女子禁制で、商館員等は単身赴任しました。唯一出入りできたのが、丸山町と寄合町の遊郭の遊女でした。出島へ行く遊女は格が低いとされましたが、商館長イサーク・ティツィングが太夫(最高位)格の「浮音」を呼び入れてからは変化しました。
ティツィングは、1779-84年の間に3回も商館長を務め、親日家かつ日本への造詣が深かったことが背景かと思われます。85年には東インド総督、94年以降は駐清国オランダ大使を務めますが、95年にオランダ共和国がナポレオンに占領されて役目を終えます。隋一の東洋通であるだけでなく、商館長退任後も大名と文通を続けたり、紫禁城に入ることが許された類まれな西洋人であるなど、アジアを愛した人となりを推察できます。 -
ヘンドリック・ドゥーフ(ヅーフ)は1803-17年まで足掛け15年間も商館長を務めた。ナポレオン戦争の関係で自国の船を航行できなかったために、中立国アメリカの船を雇って貿易を続けたが、1809年以降はそれも叶わず、日蘭関係最大の危機に直面する。日本との友好に尽力して、危機を乗り越える。
寄合町の遊女「瓜生野」との間に、息子の丈吉を設け、帰国の際には彼が地役人に取り立てられるように根回しする。 -
1810年にオランダはフランスに併合され、オランダ共和国は消滅。バタヴィアを始めとする海外領土も1811年に英国に占領され、唯一独立を守ったのが出島でした。オランダ国旗を揚げた(オランダ主権のシンボル)ことは、本国の人々の心の支えになり、ドゥーフは帰国後叙勲されています。
-
ドゥーフは辞書編纂にも関わりました。1812年に蘭仏辞典をもとに蘭日辞典編纂に着手。21年後に結実する。写真は最初の蘭日辞典:ドゥーフ・ハルマ辞書(1833年 長崎歴史博物館蔵)
-
一番の有名人は、商館医シーボルト。
実はドイツ人で、通詞よりもオランダ語の発音が下手だったために、自分は高地オランダ人ゆえの訛りだと誤魔化すエピソードも。丸山町の遊女「其扇」(本名:楠本滝)との間に娘イネを設ける。アジサイの学名に滝の名前を付けた。滝は、いわゆる現地妻ではなく、母へ宛てた手紙では、彼女と結婚したと報告している。シーボルト事件が無ければ、一生添い遂げるつもりだったと推測できる証拠が多く存在する。日本追放後も、手紙やお金を送り続けた。
写真は、シーボルトが命名したオタクサ(お滝さん)。 -
鎖国から開国へ
ペリー再来日翌年の1855年には、日蘭和親条約が締結され、日中は出島の外を自由に歩けるようになりました。水門の鍵もオランダ人に委ねられます。写真は、当時の出島の写真。 -
出島は外国人居留地として、プロシア人・フランス人・中国人なども入居。妻子同伴も認められます。洋館が建ち、街燈が設置されるなど、町並みも変化し始めます。山手なども外国人居留地として加わります。
1859年以降は通商条約に基づき、箱館・横浜も加わり貿易は出島から外港人居留地へ。オランダ商館は閉鎖され、領事館に取って代わります。東山手洋風住宅群 名所・史跡
-
外国人を閉じ込める必要がなくなると、出島や新地蔵の周囲は埋め立てが進み、1904年には、出島は内陸化します。新地蔵向かいの湊公園のあたりも昭和30年代に埋め立てられ、内陸化します。
-
旧出島聖公会神学校
明治11年に開校した英和学校の後釜として、同16年に開校。日本初のプロテスタント系神学校で、宗派からわかるようにイギリス系。出島時代の豚小屋・牛小屋・十七番蔵跡地に建つ。 -
旧長崎内外倶楽部
長崎在住の外国人と日本人の交流の場として、明治36年に竣工。八~十一番蔵跡地に建設。 -
内部は、こんな感じ。
追記:1922年に出島が国の史跡に指定された時点で、旧出島は民有地になっており、市街地に同化していました。用地買収が完了したのは2001年です。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
長崎市(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
83