2022/02/22 - 2022/02/22
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gianiさん
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戦国大名として、日本初のキリシタン大名を輩出し、
長崎を港として開いた大村氏。
江戸時代は大村藩として、いち早くキリスト教を禁止し、
明治維新にも大きく貢献。
歴史の詰まった街を巡る旅。
長崎空港から至近距離です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅の始まりは長崎空港。
簑島を崩し、福岡ドーム22個分の広さの土地を埋め立てた世界初の海上空港として1975年に開業。
本土側には、旧大村空港が写っています。大正12年に開設された海軍航空隊の飛行場が起源で、海自と共用していました。長崎空港 空港
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簑島の部分は、今も小高い丘になっています。
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最大の自慢は、コンコルドが飛来したこと。
国内では羽田と関空と長崎だけだそうです。 -
旧大村空港の場所には、昭和16年に海軍第21航空廠が設立された。
2平方キロを超える広大な敷地に180棟の工場が並ぶ、東洋一の施設。
それゆえB29の標的になり、S19.10.25には300名以上の工員が犠牲に(写真は慰霊塔)。
※敷地には海自大村航空基地、陸自竹松駐屯地が建っています。向かいには陸自大村駐屯地も建ち、自衛隊の町という一面があります。 -
空港から諫早行きのローカルバスへ乗車します。
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JR大村駅横の文教施設に入っている歴史資料館。
無料で、地域史を学べる優良スポット。
過去の特別展の余りもの「解大藩書」「Sumitada」という冊子は、大いに役立ちました。 -
大化の改新以降、国家の体裁を整え始めた古代。
その完成形としての律令制。領土を五畿七道に区分し、
現在の九州は大宰府が管轄する「西海道」に分類され、
大村は肥前国彼杵(そのぎ)郡に所属し、さらに郷・里という細かい区分が存在した。
※五畿=大和、山城、河内、摂津、和泉の五国
七道=東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海。
西海道=豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩の九国と壱岐、対馬の二島。 -
彼杵郡の郡衙(ぐんが)は、現在の大村市内にあったと推定される。
郡のトップは郡司で、郡衙では政務税務等が執行された。
官道には16km毎に馬を管理する駅家が設置され、都と繋がっていた。
彼杵郡には新分駅が設置され、近世には松原宿となる。 -
鎌倉時代には、彼杵郡=荘園となっていた。
寄進を受けた九条家(五摂家の一つ)は、不在地主として荘官に現場指揮を任せ、自らも仁和寺(後には東福寺)に寄進していた。代々天皇家から様々な特権を付与されている寺社の権力を盾に、都の貴族や現地の豪族らを役人から保護していた。 -
彼杵郡および彼杵荘の範囲が大村湾を囲む形であることが分かります。
現在の長崎佐世保大村市を含む広大な土地です。 -
大村氏
系図によれば、藤原純友の孫を祖とすることになっているが作り話で、実際は藤津荘(現在の佐賀県鹿島市周辺)の原氏の一族と考えられている。隣接する彼杵郡にも勢力を伸ばし、大村に進出する。 -
藤原純友の孫、直澄が上陸したとされる場所。
939年に純友が反乱を起こして41年後、伊予大洲に住んでいた直澄は祖父の罪を許され、藤津・高来・彼杵の3郡を賜り、994年には現地へ赴き、ここから上陸したという伝説がある。寺島 自然・景勝地
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島は堤防で本土と結ばれ、漁港の護岸癖になっていました。
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直澄は、久原城に居を定めたとのことです。
久原城跡 名所・史跡
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15世紀の大村純伊の墓石には、平朝臣純伊と記載されており、藤原ではなく平を名乗っていたことが分かります。藤原始祖の話は、家柄を良くするために江戸時代に創作されたようです。
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足利尊氏から送られた書状(1336)
新田義貞を討伐するための軍勢を大村氏に催促している。 -
隣接する有馬氏と政略結婚をしつつも、大村純前は中岳の合戦で有馬晴純に敗退する。講和では、世継を後藤家の養子に出し、有馬晴純の実子有馬純忠を養子として迎えて大村家を継がせることで落ち着く(1538年)。
※有馬忠純の母親は大村純前の姉か妹なので、血縁上の甥に家督を譲ったことになる。 -
純忠は、三城城を居城とする。
大村駅に面した丘の上に位置します。
現在は富松神社と長崎県忠霊塔が建ちます。
有馬氏の庇護の下で大村家を継いだ純忠ですが、その後有馬氏の力は低下し、有馬家から来た養子に不満を持つ家臣団に悩まされます。一方で佐賀の龍造寺氏が台頭し、脅威は日増しに強くなります。 -
状況を打破すべく、1562年にキリスト教導入と南蛮貿易開始を決断。新しい教えで家臣を一致させ、南蛮貿易で武器を手に入れることが目的でした。日本初のキリシタン大名誕生(1563)です。最終的に領内の寺社は全て破壊されます。唯一破壊を免れたのが宝生寺です。建物はそのまま教会に転用され、領内で最大の教会となります。
三城城の麓の踏切沿いにありました。 -
1570年に大村純忠は、南蛮貿易のために領内の長崎に港を作ります。今に通じる国際都市の誕生の瞬間です。1582年には、ここから天正遣欧少年使節がバチカン目指して旅立ちます。写真は、現在の窓口長崎空港を向いた使節像。
※大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の3名のキリシタン大名が送り出した外交使節。天正遣欧少年使節像 名所・史跡
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市内からは、県内最古のキリシタン墓碑が発掘。十字架の下に、BASTIAN FIOBV(バスチアン・ヒョウブ)と表記。
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1586年に純忠の跡を継いだ喜前は、中興の祖とされます。
秀吉の島津征伐の際は、天草攻略に参加。加藤清正と協働し、仲良くなりました。秀吉死去の翌年、不穏な政治情勢を鑑みて城を玖島に移します。朝鮮出兵時の籠城経験が活かされ、三方を海に囲まれた土地を選定。堀も築いて孤島に仕上げています。鉄砲大砲対策を主眼に置いています。同時に現在も残る城下町も建設しました。 -
城跡は大村公園として整備されています。大きな内堀が印象的です。
関ヶ原の戦いでは徳川恭順の意をいち早く示し、東軍として肥後の宇土城攻めに参加。徳川政権下で、初代藩主になります。大村公園・玖島城跡 名所・史跡
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1606年には、全国に先駆けてキリスト教禁教政策を実施し、自らも棄教。今後幕府のキリシタン取り締まりが厳しくなることを、いち早く見越しての行動です。
禁教政策の際は加藤清正にアドバイスを仰ぎ、彼が帰依する日蓮宗を招聘。本経寺を菩提寺としました。本経寺大村家墓碑群 名所・史跡
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本経寺は、長崎街道の通行人の目に付く立地で、歴代藩主の巨大な墓碑は、大村藩は仏教徒であることを世間にアピールする目的もありました。2万7千石にしては立派すぎる墓石軍には、そんな理由があります。
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写真は初代藩主喜前夫妻の墓碑。
戦国武将、大村藩主として不安定な時代を乗り越え、基盤を築きました。 -
海に張り出した部分が城。城の先には、現在日本初の競艇場があります。
本土側に城下町を建設。
東西に5つの小路が通っています。 -
大村藩は領内を4つに区分。外海には、外国船の出入りを監視する番所が16か所設けられました。長崎の町は、秀吉の九州征伐以降、歴代政権の天領となっています。
長崎警備は、長崎奉行の下で福岡・佐賀・五島・大村藩等が参加しました。 -
鈴田牢
1617年に建設されるも、キリシタンの大量検挙に伴い、2年後に大増築。
実際に収容されたカルロ・スピノラ神父の1620年2月18日付の書簡の内容に基づいて再現。彼ら55名は2年後に処刑される(元和の大殉教)。
牢は間口3.52m奥行5.28mで屋根は瓦葺き、10本の支柱で支えられ、壁はない。その外に二重の柵が張り巡らされた。雨風を凌げない、監視に便利な構造。
現在の岩松駅付近にあった。 -
大村牢跡
本小路に位置します。普通の牢ではなく、異国人や幕府から直接指令された重要人物を収容しました。1657年に領内の潜伏キリシタン603名が検挙された「郡崩れ」の際には、209名を残して長崎・島原・佐賀・平戸へ移送された。
大村牢では、131名が死刑判決を受ける。本小路 武家屋敷通り 名所・史跡
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大村牢より200人の藩士による厳重な警備の下で到着。
処刑前に、ここで家族と別れの時を過ごしました。
落花生のような形をした石は「涙石」と呼ばれ、見送る妻子の悲しみの涙で苔が生えないと言われています。旧長崎街道沿いのスポット。妻子別れの石 名所・史跡
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海と長崎街道に挟まれた部分は、広大な未開地でした。
開墾者により、虎が走り回れるような広い原野「放虎原」と命名されます。
大村藩の処刑場が設置され、131名のキリシタンが斬首されました。
現地には、殉教顕彰碑が立ちます。放虎原殉教地 名所・史跡
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獄門所跡
放虎原の処刑場から遺体から首の部分が運ばれ、ここで20日間衆目にさらされました。一大幹線道路長崎街道沿いにあり、見せしめ、顛末の周知を目的としました。
その後、首から上は首塚に、胴体は胴塚に埋葬されます。キリシタンが妖術を使って、首と胴が合体して復活するという迷信を怖れて、互いに500m離れた場所に埋葬しました。 -
4代藩主純長(養子。3代藩主夫人の甥)は、郡崩れ発覚の際に、迅速に包み隠さずに幕府へ報告したために、取り潰しを免れました。写真は、彼の墓所。
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純長への世継届は、藩主の意識不明下で家光の格別の配慮で受け入れられました。恩義を感じた純長は家光の死後、家光と歴代将軍を祀る円融寺を建立。
庭園が有名です。
明治期に廃寺となり、護国神社となっています。
城内には、全国7番目の藩校「集義館」も開校しています。旧円融寺庭園 公園・植物園
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更に、船蔵を建設し、城から直接軍船や商船等を発着させました。
現在も、和船用ドック跡が残っています。大村藩お船蔵跡 名所・史跡
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鯨長者
捕鯨集団「深沢組」を率いた深沢義太夫(世襲名)。初代は紀州で捕鯨のノウハウを学び、五島灘で操業。財を藩に貸し出したり、溜池の造営や新田開発、中岳堤防の建設など、社会に還元させます。円融寺も、彼の資金援助で建てられました。 -
1831年には藩校「五教館」が現在地に移転。
市立大村小学校として現在に至ります。黒門は、入学・卒業式にのみ開くそうです。 -
12代藩主純煕や勤王三十七士などの働きかけで、幕末は討幕派をリードします。
明治維新の際は、薩長土佐に次ぐ恩賞を得ました。小藩とはいえ、大健闘です。 -
館内のおしゃれなカフェで昼食。
カフェ ミライノ グルメ・レストラン
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地元名産のサバのサンドイッチ。
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とても良い雰囲気の店内です。
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味や見た目だけでなく、地産地消も心掛ける意識高い系のお店でした。
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地元の商店街。
何気に、大村宿の本陣跡でした。 -
小姓小路は、JRで分断されています。
小姓小路 寺・神社・教会
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勤王三十七士の一人の屋敷跡。
梅の花が咲き、春は間近です。旧楠本正隆屋敷 名所・史跡
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大村湾に夕日が沈みます。
大村湾 自然・景勝地
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おまけ
大村城を守る黒猫。
目が笑っていません。
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