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《2021.July》あみんちゅ仕事帰りに歩く旅その六~調子に乗って彦根編~<br /><br />気がつけば令和3年も後半に入ってしまった。しかし相変わらずのコロナウィルスが猛威を奮っている。そんな中始まったコロナワクチン接種だが、リスクファクターの程度により接種順位が決められた。医療従事者は勿論のこと罹患するとクラスター発生に繋がりかねない保育士等の職種、そして高齢者や基礎疾患を持つ者等から順に接種が進められた。そして免疫力が一般に高いとされる若年層は後回しにされる。若くもない私ではあるが、市町村に於ける一般接種を希望した場合9月になるということを知る。そんなに後回しになるとかと思っていたところ〝職域接種〟の話が社内で持ち上がって来た。しかし接種会場は彦根である。我が街石山からだと小一時間はかかる場所だということが少し引っかかるが致し方ない。ただ職域接種もお偉いさんからという〝縦割り社会〟であることは当たり前。一店舗の平社員迄順番が回って来るのはいつのことやら・・・と思っていたが意外にも第一回目の接種は早い者勝ちではあれど7月中に可能だということを知る。しかし同一売場で2人が同一日時を希望するとシフトが回らなくなるという現実に加え、第二回接種は基本翌月同一日に決まり、副反応対策で連休を取ることが必須となる。接種者の〝選抜〟とも取れる職域接種ではあるが、なぜか御老体の接種を優先する旨のお達しが作業割合に書かれていた。上司指示なのであるが、遅番担当者のシフト変更が厄介なのが理由と知り納得する。勤務日数が少ないスタッフは7月前半の枠で接種を済ませられた者もいるが、私の場合はなかなか思うようにはいかない。結局7月20日の最終時間に当たる11:35で予約が取れ、晴れて本日の彦根行きに繋がった。<br /><br />梅雨明け宣言が出て夏の青空が広がる南淡海を出発する職域ワクチン接種の旅、それだけでおとなしく帰ってくる私ではない。暴走モードに入った後に何処へと立ち寄ったのだろうか?<br /><br />令和3(2021)年7月20日火曜日<br /><br />彦根を訪れるのは桜の花を見るために長浜を目指して以来となる。今回は勿論職域接種のコロナワクチンを打つためだということに違いはない。いつものようにハルに駅まで送って貰い、JRを利用する。いつもギリギリにしか着かない予定を組む私ではあるが、さすがに今回は遅刻厳禁ということで一本前となる9:54発の新快速野洲行きに乗車した。勿論南彦根駅発普通しか停車しないのは知っているが、この時間の新快速は野洲で先発の普通に連絡する。到着ホームで乗り換えができるので便利だし数分だが出発時刻を遅らせることが出来る。今回も〝時刻表の魔術〟と呼ばれる乗り継ぎを行うことにした。<br /><br />野洲以降はひたすら各駅に停車して行く。次の駅が南彦根という河瀬でまさかのトラブルが発生する。前編成のエアコンが故障したとのこと。通電を切りドアの開閉等をした後にどうやら復活した様子。5分程度の遅れで無事南彦根に到着する。会議で訪れたのは一昨年の秋。約2年ぶりとは言え駅前は変わらない。さっさと向かえば良いのかも知れないが、待ち時間を過ごす場所はありませんということだったので、駅前で時間を潰すことにする。<br /><br />駅の周りを散策し、喉を潤しつつ一服したりして20分程過ごした後会場入りする。それでも早かったようで暫く食堂で寛ぐことにする。10分程前になって待ちの列が出来るが呼ばれることもなかった。問診票等は事前に記入しておいたが、そんなこともしていなかった者もいたようである。接種の時間が来ると後は流作業、接種後15分間の待機を経て終わりとなる。<br /><br />長居をする場所でもないためにさっさと館外へと出る.取り敢えずビバシティに立ち寄り、この後どうしようかを考える。頭の中は早起きして彦根までやって来たからには・・・ということがぐるぐると巡っていた。ならばということで〝彦根城〟へ行こうと思い立ち早速経路をスマホで検索する。元々彦根という街は平成の大合併には関わっておらず、エリアも昔からは変わってはいない。しかし彦根城をはじめとする〝市街地〟と呼ばれるエリアは彦根駅界隈であり、バスでのアクセスを表示されてもバス停がわからない。結局オーソドックスにJRで彦根駅迄移動して歩く方法を選択した。<br /><br />南彦根から一駅で彦根に到着する。駅前には彦根藩初代藩主である井伊直政公の銅像が建立されており、観光客の来訪を歓迎している。その向かいには平和堂の24番店アルプラザ彦根がある。アルプラザと言えば平和堂の大規模店舗のイメージがあるようだが全てに当てはまる訳ではない。外装工事をしている最中だったことからも築年数を感じさせるものであった。<br /><br />そんな駅前からまっすぐに歩くと突き当たりに滋賀県護国神社が鎮座する。県庁所在地である大津にはないためはじめての参拝となるが、やはり日本国内でも滋賀県の代表都市は彦根という考えが強いようにも思える現実であった。滋賀県で編成された部隊については知識がないためここでは述べることはできないが、やはり沖縄県護国神社同様戦争で傷ついた兵士や母の像等、第二次世界大戦を彷彿させるような像が建立されている。今回は時間の関係で訪れてはいないが滋賀県英霊顕彰館等もあり、また改めて時間が取れる際にゆっくりと見学できればと思う。<br /><br />護国神社を後にすると彦根城のお堀沿いに植えられたいろは松が並んでいる。47本植えられたことから名付けられたものだそうが、藩主の参勤着城時には必ず通らなければならない主要道であったため、人馬の通行の邪魔とならないように根が地上に張り出さない土佐松を高知からわざわざ取り寄せて植えたものである。最初は彦根藩二代藩主井伊直孝公の治世下で植えられたものだそうだが、枯れたものやその後植えられたものが混在しており、樹齢300年以上の老木から15年位の若木が種類を増やして現在33本が植えられて現在に至っている。丁度訪れた際に薬品散布に対する注意が記されていた。老木になればなるほど保存に掛かる手間は増えるが、今の姿を後世に残してほしいという気持ちにさせられた。<br /><br />この佐和口多聞櫓に通ずる道には井伊家に纏わる碑などが建立されている。しかし観光という概念からはさほど重要視するまでもないのか記載されていないものが多いことに残念な気持ちになる。井伊直弼が幼少の頃勉学に励んだ場所である埋木舎も公開されてはいるが有料のしせつである。この辺りは考え方の問題だが時間的な余裕があればひとつひとつゆっくりと時間をかけて回れるならば有料施設も回れば良いと思うが、無計画に訪れたならばあまり欲張らずにメジャー所を回って行く方が自分の知識になると常々思う。そういう私自身の判断基準で埋木舎は次回に回すことにした。<br /><br />堀を渡ると重文指定の二ノ丸佐和口多聞櫓横を通り抜け城内へと入る。まずは開国記念館となるが、まあこれは開国に踏み切った時の大老井伊直弼の功績を知らせるためのものだとわかる。井伊直弼自身に賛否両論があることには違いはないが、お膝元では日本の国際化に向けた第一歩を踏み出させたという解釈がなされているようだ。<br /><br />次いで二ノ丸駐車場横の馬屋を左手に見て表門橋を渡って行く。渡り切った場所にチケットブースがあり入場料を払うこととなる。今まで彦根城を訪れた際は〝ふるさと納税〟をした返礼として持っていた〝フリーパス〟があったので気にはしなかったのだが、今回初めて自費で入ることとなる。彦根城博物館・彦根城・玄宮園の入場料1,300円也。改めて良い値段だと言うことを知る。<br /><br />熱中症予防に定期的にミスト噴射が行われているチケットブース。そのすぐ近くに彦根城博物館がある。城内の施設を復元し、伝承の宝物を展示している場所である。本来の目的が開催される迄の時間を利用して見学するが、まあ一度見ることができたならば良いのではないかと思う。付近には電気自動車2台が飾られている。彦根城といえば〝ひこにゃん〟と〝井伊の赤鬼〟仕様だがそのままのデザインであった。公的な乗り物ではないようなので、スタッフやひこにゃんの移動に使われるものかなどと空想に耽る。<br /><br />時間は15:00前であるがここは天守閣へ向かわずに彦根城博物館前冠木門前にて〝出待ち〟をする。あたりには小さな集団ができており、同じ目的を持つのは老若男女問わないことを改めて感じる。時間になると皆と一緒に移動する。さあなんだろう・・・と暫し待つ。奥から赤とオレンジの兜を被った白い塊が動いて来る。そう、何を隠そう別格ゆるキャラの〝ひこにゃん〟だ!1日3回の登場は天気や時間によって違うのだが、通常15:00はここ冠木門となっている。<br /><br />ひこにゃんと前回会ったのは11年前の平成22(2010)年だったので暫く以上である。ゆるキャラブームの走りだった頃で県内のお土産やグッズを扱う店舗には、必ずひこにゃんに会える時代であった。著作権の問題もあったが純粋に〝滋賀=彦根=ひこにゃん〟という繋がりが当たり前だった時代であった。前回は秋だったので紅葉した枝をふりふりしていたひこにゃんだったが、今回はバッグに入れた〝鮭おにぎり〟と〝どら焼き〟を自慢げに見せつけながらお姉さんと掛け合う姿を披露してくれた。ただ30℃越えの炎天下、いくら会場が日陰になるとはいえ見ている方も汗が滴り落ちる夏の日のひこにゃんの動きに見ている方も心配になる。いつもならばお姉さんもマイクやインカムを使って掛け合いをするが、両方とも暑さにやられ地声で勝負という過酷さ。お散歩大好きなひこにゃんには〝この暑さは関係な~い〟ということが本当であって貰いたいと思ってしまった私であった。<br /><br />30分の〝ひこにゃん登場〟を張り付いてみた後に彦根城博物館を見学する。井伊家に伝わる品々や建造物がそのまま博物館になっている素晴らしいものではあるが、この手のものは時間的余裕がある時に見るものであって、逆算しながら見て回るには不向きである。そんな思いもあり適当に見学した後に彦根城天守閣への向かった。<br /><br />廃藩置県に於ける城郭の破壊を免れた彦根城天守閣は、石垣も往時のものが残っている。その修復の模様がビジュアルで残されているが、佐和山城の石垣が移設されている部分があることは興味深い。近世城郭を構築したのは石田三成だと伝えられており、関ヶ原の戦いで三成が敗れた後に東軍に寝返った小早川秀秋らの軍勢に攻められて開城している。その中には後々佐和山藩初代藩主となる井伊直政もいたが、領民に三成の領地を受け継いだと思われるのを嫌がり、新たに居城を作ろうと考えていたことだ。直政は関ヶ原の戦いで受けた戦傷が元で佐和山城に代わる居城築城の始まりを見ずに亡くなっている。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、慶長8(1603)年に琵琶湖に面した金亀山に彦根城の築城を開始した。天下普請で行われた築城は、慶長11(1608)年に天守が完成し、城主として直継が入城した。大坂の陣で一時中断があったがその後井伊家によって工事が進められ、御殿の他城下町の形成までが元和8(1622)年迄に完成している。直政が毛嫌いした佐和山城であったが、験担ぎかはたまた経費節減なのかはわからないが旧佐和山城の石垣が彦根城の石垣に使われている。その他にも大津城からは天守、佐和山城から非現存ではあるが佐和口多門櫓と太鼓櫓門、小谷城からは西ノ丸三重櫓等近隣の廃城となったなったところから移設したという伝承が残っているものも多くある。直政の後継だった直継であるが、直政以来の癖のある重臣達を纏め切れずにその素質を問われ、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣の後異母弟の直孝が彦根藩主となり、直継は上野安中藩主3万石が分知されることとなる。よって彦根城や城下を今の姿にしたのは直孝である。井伊直孝と言えば江戸で鷹狩りの最中に急に雨が降り出し、大木の下で雨宿りをしていると、小さな貧しい弘徳庵という寺に招く〝猫〟に遭遇し、寺に入った瞬間雨宿りをしていた大木に落雷があり九死に一生を得た逸話が知られている。命拾いした直孝はその後寺院に寄進を続け立派に改築された。豪徳寺の始まりであり、井伊家の菩提寺となった。また直孝を手招きした〝猫〟がその後寺の隆盛のきっかけになったことから〝福を招き縁起が良い〟として招猫堂を立てて祀ったとされている。史実はどうかは不明であるが〝招き猫〟を大切にした直孝の逸話から生まれたものが、ゆるキャラの頂点に立つ〝ひこにゃん〟であることは有名な話である。<br /><br />そんな話を思い出しながら天守閣のあの急な階段を上り降りする。平城ではあるが眺望は素晴らしく、近江富士三上山から竹生島迄が一望できる場所である。コロナ感染のこともあり手摺りは極力持ちたくはないのだが、天守閣の階段だけはそうはいかない。横着して転がり落ち、打ちどころが悪かっただけだとまだ救われるが、コロナワクチン接種後に彦根城で・・・となると言い訳も出来なくなる。鈍った足腰を鍛え、マスクが不要になった暁に再訪したいとふと感じた私であった。<br /><br />天守は私が出ると最後だった様子。ただ最終入場時刻は決まっているので、早めに撤収作業を始めたスタッフが注意を受けていた。後はひたすら降りる道故ヘタレにはありがたい。立派な石垣を見ながら黒門出入口から城外へと進む。順路は右方向に進むのだが、ここは敢えて左に進む。金亀公園は市民公園で各種スポーツ等も楽しめる場所となっている。時間が押していることもありどんなものかを確認して最後の目的地を目指すことにする。玄宮園に向かうが丁度帰るスタッフさんにチケットを捥いで箱に入れておいてと言われる。この玄宮園は第四代彦根藩主井伊直興によって作られたものである。江戸時代には〝槻之御庭〟、隣接する楽々園は〝槻御殿〟と呼ばれていた。昭和26(1951)年に国の名称に指定され、その後庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園となり現在に至っている。広大な池水を中心に池中の島や入江に架かる9つの橋なと?により、変化に富んた?回遊式庭園となっている玄宮園は、池の水を湧き水の豊富な外堀から〝サイフォンの原理〟を用いて導水し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てるといった自然現象を巧みに用いている。現在でも〝凝った演出〟と見えるものを江戸時代に作っていたということも驚きである。<br /><br />彦根という街は戦時中に大規模な爆撃を受けていないと書いたが、実は8月15日に都市爆撃の対象だったことが彦根史に書かれている。日本がポツダム宣言を受諾したことから中止となり、江戸期の建造物が残っている訳である。日本が配線を認めるのがもう一日遅ければ目の前に広がる景色はなかったのかも知れない・・・。戦跡を巡っていると〝もし〟というものを多々見ることがある。そんな経験から名勝指定を受ける程の〝庭園〟が残ったことに不思議さを感じてしまうところがあった。<br /><br />この玄宮園は彦根城の庭園という位置付けなので有料区域にあたる。その先には井伊直弼の銅像が建立されている金亀児童公園があるとされている。しかしその境目がわからない。児童公園と言うならば公の公園として無料であると思うのだが。<br /><br />まあ色々なことを考えながら彦根城とその周辺史跡を堪能し、職員用みたいなところから外へと出た。彦根城外堀跡を渡り、行きに歩いた道を戻って行く。ふと思ったのはこの界隈に〝石屋〟が多いということ。彦根や彦根城に纏わる由来書の碑があったりする。なぜこんなところにあるのかとも思ったが、ある意味宣伝の意味もあるようだ。四番町スクエアで見た〝ひこにゃんの石像〟は相変わらず可愛さが目立っており、我が家の庭にも置けるのか~?などと意味不明な気持ちになったりもした。<br /><br />何気ない通りではあるが彦根駅と彦根城とを結ぶ〝観光ロード〟でもある。中央分離帯には石柱が並び、なかなか手が込んでいるな~と改めて思う。そんな物思いに耽りながら歩いているとあっという間に彦根駅に到着する。駅前には湖国バスのターミナルがあるが、数年前に訪れた時とは異なり小型バスの運行となっていた。鉄道各社もそうかも知れないが、コロナ禍で路線バスはもっと影響を受けている。おまけに需要がないために小さなバスでの運行となる訳だが、同じ乗車人数ならば小さなバスの方が〝密〟を感じさせてしまうのは致し方ないことである。結局のところそれを嫌ってバス利用をしなくなる。結果乗客数は減る一方となる悪循環を引き起こす。当たり前の話だが地方のコミュニティバス程補助も出ていないことを考えれば、不採算路線からの撤退も時間の問題のように思えてならない。私自身も歩きを選択したがバスを使うまでもない距離や、使ってもそれ程恩恵を被れない場所であれば、敢えて使わないと考えるのも理解できる。ドライバー不足を含め運輸業界が厳しい事情もわかるのだが、コロナ禍が収束し、何も考えずに旅ができるようになった際に〝この路線は廃止されました〟となればあまりに悲しい。高齢者の自動車事故が増え、当事者になる前に免許を返納した方々の中にはバスがあるからという理由もあるだろう。様々な社会的要素はあるのだろうが、免許の返納をしたのが間違いだったと思われないように地方公共団体も真摯に考えて貰いたいと思う。<br /><br />そんなことをぶつぶつ考えながら歩いてきたが、駅についてふと思い出したことがあった。それは〝喫煙所〟。都市部はともかく最近は地方都市でも駅前を中心に〝路上喫煙禁止区域〟が広がっている。最近は特に吸い殻処分時に於けるコロナ感染を防ぐために〝灰皿〟を置いていないコンビニが増えてきた。多分私の場合福岡でタバコを販売しているコンビニを探して購入した後に、灰皿を置いていないことに気付いてブチ切れたことが最初だと思う。喫煙者にしかわからないことかも知れないが、灰皿を置けない場所でのタバコ販売はいい加減にやめて貰いたいと思う。収益のことはあるにしてもタバコを切らして駅近のコンビニを探し回り、やっとの思いでタバコを買った迄は良いが吸う所がないことを知ればタバコ自体を返品したくなる。受動喫煙の問題は理解しているが、タバコを吸える場所かどうかはよそ者にはわからないことだ。流石に私自身バス停でタバコを吸う程ヘビーでもないし、そんなマナーの悪いことをする気もない。しかしどこにでも不届き者はいる訳であり、その言い訳に灰皿がないことを指摘する者もいると言う。こじつけだとは思うが。行政側の対応も中途半端だと言われるのも仕方がない部分もあるだろう。年々喫煙者は減る傾向にあると言うが、タバコの販売を止める店舗がどれだけあるのかを何故発表しないのかと思う。結果は目に見えるほど明らかな者だろう。タバコが路上喫煙禁止区域で購入できることに対する〝矛盾〟が解決されない限りは、私のようにヘタレで意志の弱い者にとって〝禁煙〟しようという気持ちになれないのが本音である。タバコ購入時の年齢確認は法律の問題であり、路上喫煙禁止は〝条例〟の問題である。タバコを購入する際に〝この近くではタバコが吸えませんが宜しいですか?〟こんな応対があっても良いのではと常々思う私であった。<br /><br />蘊蓄はともかく西口には喫煙所はないようなので東口へと足を伸ばす。ようやく見つけた喫煙所で一服をした後やっと帰ろうという気持ちになる。彦根も田舎駅も新快速停車駅ではあるが、せっかく彦根まで来たからにはのんびり帰ろうと普通に乗車する。50分弱の乗車時間を利用して本日撮りまくった写真を整理しようと思っていたが、乗車後間もなく睡魔に襲われてzzz。乗り過ごすことはなかったがスマホを触ることも殆どなく田舎駅に到着する。店に立ち寄ろうかとも考えてはいたがもう気力が残っておらず、一服しただけでバス停に向かった。乗ってしまえば15分弱でど田舎バス停に到着。後日談だが〝元気やねぇ~〟と嘲笑された。ただワクチンの副反応を利用してのズル休みは出来なくなってしまった。あまり調子に乗るのも考えものだと反省したコロナワクチン職域接種+αの旅路であった。<br /><br />  《終わり》

《2021.July》あみんちゅ仕事帰りに歩く旅その六~調子に乗って彦根編~

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2021/07/20 - 2021/07/20

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《2021.July》あみんちゅ仕事帰りに歩く旅その六~調子に乗って彦根編~

気がつけば令和3年も後半に入ってしまった。しかし相変わらずのコロナウィルスが猛威を奮っている。そんな中始まったコロナワクチン接種だが、リスクファクターの程度により接種順位が決められた。医療従事者は勿論のこと罹患するとクラスター発生に繋がりかねない保育士等の職種、そして高齢者や基礎疾患を持つ者等から順に接種が進められた。そして免疫力が一般に高いとされる若年層は後回しにされる。若くもない私ではあるが、市町村に於ける一般接種を希望した場合9月になるということを知る。そんなに後回しになるとかと思っていたところ〝職域接種〟の話が社内で持ち上がって来た。しかし接種会場は彦根である。我が街石山からだと小一時間はかかる場所だということが少し引っかかるが致し方ない。ただ職域接種もお偉いさんからという〝縦割り社会〟であることは当たり前。一店舗の平社員迄順番が回って来るのはいつのことやら・・・と思っていたが意外にも第一回目の接種は早い者勝ちではあれど7月中に可能だということを知る。しかし同一売場で2人が同一日時を希望するとシフトが回らなくなるという現実に加え、第二回接種は基本翌月同一日に決まり、副反応対策で連休を取ることが必須となる。接種者の〝選抜〟とも取れる職域接種ではあるが、なぜか御老体の接種を優先する旨のお達しが作業割合に書かれていた。上司指示なのであるが、遅番担当者のシフト変更が厄介なのが理由と知り納得する。勤務日数が少ないスタッフは7月前半の枠で接種を済ませられた者もいるが、私の場合はなかなか思うようにはいかない。結局7月20日の最終時間に当たる11:35で予約が取れ、晴れて本日の彦根行きに繋がった。

梅雨明け宣言が出て夏の青空が広がる南淡海を出発する職域ワクチン接種の旅、それだけでおとなしく帰ってくる私ではない。暴走モードに入った後に何処へと立ち寄ったのだろうか?

令和3(2021)年7月20日火曜日

彦根を訪れるのは桜の花を見るために長浜を目指して以来となる。今回は勿論職域接種のコロナワクチンを打つためだということに違いはない。いつものようにハルに駅まで送って貰い、JRを利用する。いつもギリギリにしか着かない予定を組む私ではあるが、さすがに今回は遅刻厳禁ということで一本前となる9:54発の新快速野洲行きに乗車した。勿論南彦根駅発普通しか停車しないのは知っているが、この時間の新快速は野洲で先発の普通に連絡する。到着ホームで乗り換えができるので便利だし数分だが出発時刻を遅らせることが出来る。今回も〝時刻表の魔術〟と呼ばれる乗り継ぎを行うことにした。

野洲以降はひたすら各駅に停車して行く。次の駅が南彦根という河瀬でまさかのトラブルが発生する。前編成のエアコンが故障したとのこと。通電を切りドアの開閉等をした後にどうやら復活した様子。5分程度の遅れで無事南彦根に到着する。会議で訪れたのは一昨年の秋。約2年ぶりとは言え駅前は変わらない。さっさと向かえば良いのかも知れないが、待ち時間を過ごす場所はありませんということだったので、駅前で時間を潰すことにする。

駅の周りを散策し、喉を潤しつつ一服したりして20分程過ごした後会場入りする。それでも早かったようで暫く食堂で寛ぐことにする。10分程前になって待ちの列が出来るが呼ばれることもなかった。問診票等は事前に記入しておいたが、そんなこともしていなかった者もいたようである。接種の時間が来ると後は流作業、接種後15分間の待機を経て終わりとなる。

長居をする場所でもないためにさっさと館外へと出る.取り敢えずビバシティに立ち寄り、この後どうしようかを考える。頭の中は早起きして彦根までやって来たからには・・・ということがぐるぐると巡っていた。ならばということで〝彦根城〟へ行こうと思い立ち早速経路をスマホで検索する。元々彦根という街は平成の大合併には関わっておらず、エリアも昔からは変わってはいない。しかし彦根城をはじめとする〝市街地〟と呼ばれるエリアは彦根駅界隈であり、バスでのアクセスを表示されてもバス停がわからない。結局オーソドックスにJRで彦根駅迄移動して歩く方法を選択した。

南彦根から一駅で彦根に到着する。駅前には彦根藩初代藩主である井伊直政公の銅像が建立されており、観光客の来訪を歓迎している。その向かいには平和堂の24番店アルプラザ彦根がある。アルプラザと言えば平和堂の大規模店舗のイメージがあるようだが全てに当てはまる訳ではない。外装工事をしている最中だったことからも築年数を感じさせるものであった。

そんな駅前からまっすぐに歩くと突き当たりに滋賀県護国神社が鎮座する。県庁所在地である大津にはないためはじめての参拝となるが、やはり日本国内でも滋賀県の代表都市は彦根という考えが強いようにも思える現実であった。滋賀県で編成された部隊については知識がないためここでは述べることはできないが、やはり沖縄県護国神社同様戦争で傷ついた兵士や母の像等、第二次世界大戦を彷彿させるような像が建立されている。今回は時間の関係で訪れてはいないが滋賀県英霊顕彰館等もあり、また改めて時間が取れる際にゆっくりと見学できればと思う。

護国神社を後にすると彦根城のお堀沿いに植えられたいろは松が並んでいる。47本植えられたことから名付けられたものだそうが、藩主の参勤着城時には必ず通らなければならない主要道であったため、人馬の通行の邪魔とならないように根が地上に張り出さない土佐松を高知からわざわざ取り寄せて植えたものである。最初は彦根藩二代藩主井伊直孝公の治世下で植えられたものだそうだが、枯れたものやその後植えられたものが混在しており、樹齢300年以上の老木から15年位の若木が種類を増やして現在33本が植えられて現在に至っている。丁度訪れた際に薬品散布に対する注意が記されていた。老木になればなるほど保存に掛かる手間は増えるが、今の姿を後世に残してほしいという気持ちにさせられた。

この佐和口多聞櫓に通ずる道には井伊家に纏わる碑などが建立されている。しかし観光という概念からはさほど重要視するまでもないのか記載されていないものが多いことに残念な気持ちになる。井伊直弼が幼少の頃勉学に励んだ場所である埋木舎も公開されてはいるが有料のしせつである。この辺りは考え方の問題だが時間的な余裕があればひとつひとつゆっくりと時間をかけて回れるならば有料施設も回れば良いと思うが、無計画に訪れたならばあまり欲張らずにメジャー所を回って行く方が自分の知識になると常々思う。そういう私自身の判断基準で埋木舎は次回に回すことにした。

堀を渡ると重文指定の二ノ丸佐和口多聞櫓横を通り抜け城内へと入る。まずは開国記念館となるが、まあこれは開国に踏み切った時の大老井伊直弼の功績を知らせるためのものだとわかる。井伊直弼自身に賛否両論があることには違いはないが、お膝元では日本の国際化に向けた第一歩を踏み出させたという解釈がなされているようだ。

次いで二ノ丸駐車場横の馬屋を左手に見て表門橋を渡って行く。渡り切った場所にチケットブースがあり入場料を払うこととなる。今まで彦根城を訪れた際は〝ふるさと納税〟をした返礼として持っていた〝フリーパス〟があったので気にはしなかったのだが、今回初めて自費で入ることとなる。彦根城博物館・彦根城・玄宮園の入場料1,300円也。改めて良い値段だと言うことを知る。

熱中症予防に定期的にミスト噴射が行われているチケットブース。そのすぐ近くに彦根城博物館がある。城内の施設を復元し、伝承の宝物を展示している場所である。本来の目的が開催される迄の時間を利用して見学するが、まあ一度見ることができたならば良いのではないかと思う。付近には電気自動車2台が飾られている。彦根城といえば〝ひこにゃん〟と〝井伊の赤鬼〟仕様だがそのままのデザインであった。公的な乗り物ではないようなので、スタッフやひこにゃんの移動に使われるものかなどと空想に耽る。

時間は15:00前であるがここは天守閣へ向かわずに彦根城博物館前冠木門前にて〝出待ち〟をする。あたりには小さな集団ができており、同じ目的を持つのは老若男女問わないことを改めて感じる。時間になると皆と一緒に移動する。さあなんだろう・・・と暫し待つ。奥から赤とオレンジの兜を被った白い塊が動いて来る。そう、何を隠そう別格ゆるキャラの〝ひこにゃん〟だ!1日3回の登場は天気や時間によって違うのだが、通常15:00はここ冠木門となっている。

ひこにゃんと前回会ったのは11年前の平成22(2010)年だったので暫く以上である。ゆるキャラブームの走りだった頃で県内のお土産やグッズを扱う店舗には、必ずひこにゃんに会える時代であった。著作権の問題もあったが純粋に〝滋賀=彦根=ひこにゃん〟という繋がりが当たり前だった時代であった。前回は秋だったので紅葉した枝をふりふりしていたひこにゃんだったが、今回はバッグに入れた〝鮭おにぎり〟と〝どら焼き〟を自慢げに見せつけながらお姉さんと掛け合う姿を披露してくれた。ただ30℃越えの炎天下、いくら会場が日陰になるとはいえ見ている方も汗が滴り落ちる夏の日のひこにゃんの動きに見ている方も心配になる。いつもならばお姉さんもマイクやインカムを使って掛け合いをするが、両方とも暑さにやられ地声で勝負という過酷さ。お散歩大好きなひこにゃんには〝この暑さは関係な~い〟ということが本当であって貰いたいと思ってしまった私であった。

30分の〝ひこにゃん登場〟を張り付いてみた後に彦根城博物館を見学する。井伊家に伝わる品々や建造物がそのまま博物館になっている素晴らしいものではあるが、この手のものは時間的余裕がある時に見るものであって、逆算しながら見て回るには不向きである。そんな思いもあり適当に見学した後に彦根城天守閣への向かった。

廃藩置県に於ける城郭の破壊を免れた彦根城天守閣は、石垣も往時のものが残っている。その修復の模様がビジュアルで残されているが、佐和山城の石垣が移設されている部分があることは興味深い。近世城郭を構築したのは石田三成だと伝えられており、関ヶ原の戦いで三成が敗れた後に東軍に寝返った小早川秀秋らの軍勢に攻められて開城している。その中には後々佐和山藩初代藩主となる井伊直政もいたが、領民に三成の領地を受け継いだと思われるのを嫌がり、新たに居城を作ろうと考えていたことだ。直政は関ヶ原の戦いで受けた戦傷が元で佐和山城に代わる居城築城の始まりを見ずに亡くなっている。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、慶長8(1603)年に琵琶湖に面した金亀山に彦根城の築城を開始した。天下普請で行われた築城は、慶長11(1608)年に天守が完成し、城主として直継が入城した。大坂の陣で一時中断があったがその後井伊家によって工事が進められ、御殿の他城下町の形成までが元和8(1622)年迄に完成している。直政が毛嫌いした佐和山城であったが、験担ぎかはたまた経費節減なのかはわからないが旧佐和山城の石垣が彦根城の石垣に使われている。その他にも大津城からは天守、佐和山城から非現存ではあるが佐和口多門櫓と太鼓櫓門、小谷城からは西ノ丸三重櫓等近隣の廃城となったなったところから移設したという伝承が残っているものも多くある。直政の後継だった直継であるが、直政以来の癖のある重臣達を纏め切れずにその素質を問われ、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣の後異母弟の直孝が彦根藩主となり、直継は上野安中藩主3万石が分知されることとなる。よって彦根城や城下を今の姿にしたのは直孝である。井伊直孝と言えば江戸で鷹狩りの最中に急に雨が降り出し、大木の下で雨宿りをしていると、小さな貧しい弘徳庵という寺に招く〝猫〟に遭遇し、寺に入った瞬間雨宿りをしていた大木に落雷があり九死に一生を得た逸話が知られている。命拾いした直孝はその後寺院に寄進を続け立派に改築された。豪徳寺の始まりであり、井伊家の菩提寺となった。また直孝を手招きした〝猫〟がその後寺の隆盛のきっかけになったことから〝福を招き縁起が良い〟として招猫堂を立てて祀ったとされている。史実はどうかは不明であるが〝招き猫〟を大切にした直孝の逸話から生まれたものが、ゆるキャラの頂点に立つ〝ひこにゃん〟であることは有名な話である。

そんな話を思い出しながら天守閣のあの急な階段を上り降りする。平城ではあるが眺望は素晴らしく、近江富士三上山から竹生島迄が一望できる場所である。コロナ感染のこともあり手摺りは極力持ちたくはないのだが、天守閣の階段だけはそうはいかない。横着して転がり落ち、打ちどころが悪かっただけだとまだ救われるが、コロナワクチン接種後に彦根城で・・・となると言い訳も出来なくなる。鈍った足腰を鍛え、マスクが不要になった暁に再訪したいとふと感じた私であった。

天守は私が出ると最後だった様子。ただ最終入場時刻は決まっているので、早めに撤収作業を始めたスタッフが注意を受けていた。後はひたすら降りる道故ヘタレにはありがたい。立派な石垣を見ながら黒門出入口から城外へと進む。順路は右方向に進むのだが、ここは敢えて左に進む。金亀公園は市民公園で各種スポーツ等も楽しめる場所となっている。時間が押していることもありどんなものかを確認して最後の目的地を目指すことにする。玄宮園に向かうが丁度帰るスタッフさんにチケットを捥いで箱に入れておいてと言われる。この玄宮園は第四代彦根藩主井伊直興によって作られたものである。江戸時代には〝槻之御庭〟、隣接する楽々園は〝槻御殿〟と呼ばれていた。昭和26(1951)年に国の名称に指定され、その後庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園となり現在に至っている。広大な池水を中心に池中の島や入江に架かる9つの橋なと?により、変化に富んた?回遊式庭園となっている玄宮園は、池の水を湧き水の豊富な外堀から〝サイフォンの原理〟を用いて導水し、小島の岩間から水を落として滝に仕立てるといった自然現象を巧みに用いている。現在でも〝凝った演出〟と見えるものを江戸時代に作っていたということも驚きである。

彦根という街は戦時中に大規模な爆撃を受けていないと書いたが、実は8月15日に都市爆撃の対象だったことが彦根史に書かれている。日本がポツダム宣言を受諾したことから中止となり、江戸期の建造物が残っている訳である。日本が配線を認めるのがもう一日遅ければ目の前に広がる景色はなかったのかも知れない・・・。戦跡を巡っていると〝もし〟というものを多々見ることがある。そんな経験から名勝指定を受ける程の〝庭園〟が残ったことに不思議さを感じてしまうところがあった。

この玄宮園は彦根城の庭園という位置付けなので有料区域にあたる。その先には井伊直弼の銅像が建立されている金亀児童公園があるとされている。しかしその境目がわからない。児童公園と言うならば公の公園として無料であると思うのだが。

まあ色々なことを考えながら彦根城とその周辺史跡を堪能し、職員用みたいなところから外へと出た。彦根城外堀跡を渡り、行きに歩いた道を戻って行く。ふと思ったのはこの界隈に〝石屋〟が多いということ。彦根や彦根城に纏わる由来書の碑があったりする。なぜこんなところにあるのかとも思ったが、ある意味宣伝の意味もあるようだ。四番町スクエアで見た〝ひこにゃんの石像〟は相変わらず可愛さが目立っており、我が家の庭にも置けるのか~?などと意味不明な気持ちになったりもした。

何気ない通りではあるが彦根駅と彦根城とを結ぶ〝観光ロード〟でもある。中央分離帯には石柱が並び、なかなか手が込んでいるな~と改めて思う。そんな物思いに耽りながら歩いているとあっという間に彦根駅に到着する。駅前には湖国バスのターミナルがあるが、数年前に訪れた時とは異なり小型バスの運行となっていた。鉄道各社もそうかも知れないが、コロナ禍で路線バスはもっと影響を受けている。おまけに需要がないために小さなバスでの運行となる訳だが、同じ乗車人数ならば小さなバスの方が〝密〟を感じさせてしまうのは致し方ないことである。結局のところそれを嫌ってバス利用をしなくなる。結果乗客数は減る一方となる悪循環を引き起こす。当たり前の話だが地方のコミュニティバス程補助も出ていないことを考えれば、不採算路線からの撤退も時間の問題のように思えてならない。私自身も歩きを選択したがバスを使うまでもない距離や、使ってもそれ程恩恵を被れない場所であれば、敢えて使わないと考えるのも理解できる。ドライバー不足を含め運輸業界が厳しい事情もわかるのだが、コロナ禍が収束し、何も考えずに旅ができるようになった際に〝この路線は廃止されました〟となればあまりに悲しい。高齢者の自動車事故が増え、当事者になる前に免許を返納した方々の中にはバスがあるからという理由もあるだろう。様々な社会的要素はあるのだろうが、免許の返納をしたのが間違いだったと思われないように地方公共団体も真摯に考えて貰いたいと思う。

そんなことをぶつぶつ考えながら歩いてきたが、駅についてふと思い出したことがあった。それは〝喫煙所〟。都市部はともかく最近は地方都市でも駅前を中心に〝路上喫煙禁止区域〟が広がっている。最近は特に吸い殻処分時に於けるコロナ感染を防ぐために〝灰皿〟を置いていないコンビニが増えてきた。多分私の場合福岡でタバコを販売しているコンビニを探して購入した後に、灰皿を置いていないことに気付いてブチ切れたことが最初だと思う。喫煙者にしかわからないことかも知れないが、灰皿を置けない場所でのタバコ販売はいい加減にやめて貰いたいと思う。収益のことはあるにしてもタバコを切らして駅近のコンビニを探し回り、やっとの思いでタバコを買った迄は良いが吸う所がないことを知ればタバコ自体を返品したくなる。受動喫煙の問題は理解しているが、タバコを吸える場所かどうかはよそ者にはわからないことだ。流石に私自身バス停でタバコを吸う程ヘビーでもないし、そんなマナーの悪いことをする気もない。しかしどこにでも不届き者はいる訳であり、その言い訳に灰皿がないことを指摘する者もいると言う。こじつけだとは思うが。行政側の対応も中途半端だと言われるのも仕方がない部分もあるだろう。年々喫煙者は減る傾向にあると言うが、タバコの販売を止める店舗がどれだけあるのかを何故発表しないのかと思う。結果は目に見えるほど明らかな者だろう。タバコが路上喫煙禁止区域で購入できることに対する〝矛盾〟が解決されない限りは、私のようにヘタレで意志の弱い者にとって〝禁煙〟しようという気持ちになれないのが本音である。タバコ購入時の年齢確認は法律の問題であり、路上喫煙禁止は〝条例〟の問題である。タバコを購入する際に〝この近くではタバコが吸えませんが宜しいですか?〟こんな応対があっても良いのではと常々思う私であった。

蘊蓄はともかく西口には喫煙所はないようなので東口へと足を伸ばす。ようやく見つけた喫煙所で一服をした後やっと帰ろうという気持ちになる。彦根も田舎駅も新快速停車駅ではあるが、せっかく彦根まで来たからにはのんびり帰ろうと普通に乗車する。50分弱の乗車時間を利用して本日撮りまくった写真を整理しようと思っていたが、乗車後間もなく睡魔に襲われてzzz。乗り過ごすことはなかったがスマホを触ることも殆どなく田舎駅に到着する。店に立ち寄ろうかとも考えてはいたがもう気力が残っておらず、一服しただけでバス停に向かった。乗ってしまえば15分弱でど田舎バス停に到着。後日談だが〝元気やねぇ~〟と嘲笑された。ただワクチンの副反応を利用してのズル休みは出来なくなってしまった。あまり調子に乗るのも考えものだと反省したコロナワクチン職域接種+αの旅路であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 夏到来の南淡海を出発する。

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  • やって来たのは南彦根。

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  • 目的地はとある会社の本部である。

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  • 所謂コロナワクチン職域接種である。

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  • 職域接種は今現在武田/モデルナ製が使われている。

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  • ビバシティに立ち寄ってから…。

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  • ワクチン接種のための休みだが、接種後に訪れたのは彦根駅。

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  • 24番店アルプラザ彦根は外装工事中。

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  • 駅前を歩いて行くと滋賀県護国神社に至る。

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  • 滋賀県護国神社、社号標と鳥居。

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  • 平和の礎・シベリア強制抑留者慰霊碑<br />建立年月日:平成12年11月<br />揮号者名:滋賀県知事 國松善次<br />碑文:悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和二十年八月十五日を以って終結した。<br />然るに旧ソ連は、協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者四百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。<br />誠に痛恨の極みである。辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。<br /><br />平成十二年十一月吉日  滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会<br />

    平和の礎・シベリア強制抑留者慰霊碑
    建立年月日:平成12年11月
    揮号者名:滋賀県知事 國松善次
    碑文:悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和二十年八月十五日を以って終結した。
    然るに旧ソ連は、協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者四百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
    誠に痛恨の極みである。辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。

    平成十二年十一月吉日  滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会

  • (左)祈 平和之碑<br />建立:昭和57年5月吉日<br />竣工除幕式:昭和57年6月2日<br />揮号:彦根市長 井伊直愛<br />概要:彦根傷痍軍人会が「平和」を祈念して会員(碑の裏に協賛者151名の氏名)の拠出により、当神社境内、市民会館に隣接する広場に建立。左碑の副碑には昭和天皇の御製「国もると 身をきすつけしひとびとの うへをしおもふあさにゆうへに」が刻されている(宮司 山本浅次郎書)。毎年6月に、彦根傷痍軍人会の主催により、碑前にて護國神社宮司による祭典を関係者が参列して執行している。<br /><br />(右)戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑<br />建立:昭和61年10月1日<br />揮号:彦根市長 井伊直愛<br />碑文:戦歿軍馬軍犬軍鳩を慰む<br />昭和二十年の終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い傷病に斃れあるひは海没となり草むす屍水漬く屍となり一頭も故国に帰らずして終る軍馬犬鳩幾十百万とも数知れず。<br />祖国の護りのため英霊と運命を共にした無言の軍馬犬鳩の尊い犠牲をしのび永くその功をたたえると共にその霊を慰むる一端として有志の主唱により県内は勿論全国から五阡余名の方々の浄財を得ここ彦根市尾末町一番地滋賀県護国神社内に慰霊銅像を建立し安らかな眠りと永遠の平和を希う。<br /><br />昭和六十一年十月一日<br />

    (左)祈 平和之碑
    建立:昭和57年5月吉日
    竣工除幕式:昭和57年6月2日
    揮号:彦根市長 井伊直愛
    概要:彦根傷痍軍人会が「平和」を祈念して会員(碑の裏に協賛者151名の氏名)の拠出により、当神社境内、市民会館に隣接する広場に建立。左碑の副碑には昭和天皇の御製「国もると 身をきすつけしひとびとの うへをしおもふあさにゆうへに」が刻されている(宮司 山本浅次郎書)。毎年6月に、彦根傷痍軍人会の主催により、碑前にて護國神社宮司による祭典を関係者が参列して執行している。

    (右)戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑
    建立:昭和61年10月1日
    揮号:彦根市長 井伊直愛
    碑文:戦歿軍馬軍犬軍鳩を慰む
    昭和二十年の終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い傷病に斃れあるひは海没となり草むす屍水漬く屍となり一頭も故国に帰らずして終る軍馬犬鳩幾十百万とも数知れず。
    祖国の護りのため英霊と運命を共にした無言の軍馬犬鳩の尊い犠牲をしのび永くその功をたたえると共にその霊を慰むる一端として有志の主唱により県内は勿論全国から五阡余名の方々の浄財を得ここ彦根市尾末町一番地滋賀県護国神社内に慰霊銅像を建立し安らかな眠りと永遠の平和を希う。

    昭和六十一年十月一日

  • 花塚<br />建立:平成4年4月<br />揮号:井伊直愛<br />概要:生活にうるおいを与えてくれる花に感謝するだけでなく、乱開発から自然を守り、花と緑を永遠に保っていきたいとの願いから、華道翠香流家元竹中翠香氏を中心に、故井伊文子氏等多数の有志の方々からの浄財により建立された。毎年4月には花と緑に感謝し、供養する祭典が碑前にて斎行されている。

    花塚
    建立:平成4年4月
    揮号:井伊直愛
    概要:生活にうるおいを与えてくれる花に感謝するだけでなく、乱開発から自然を守り、花と緑を永遠に保っていきたいとの願いから、華道翠香流家元竹中翠香氏を中心に、故井伊文子氏等多数の有志の方々からの浄財により建立された。毎年4月には花と緑に感謝し、供養する祭典が碑前にて斎行されている。

  • 拓魂碑<br />建立:昭和47年12月9日<br />揮号:滋賀県知事野崎欣一郎<br />碑文:顧みるに満蒙開拓事業は昭和七年より二十ヵ年百万戸移住計画に基づき民族協和の理想現実と日本民族の発展とを目ざした当時の国策であった。<br />この要請にこたえて本県送出の四十四個団隊千八百余名の開拓者たちは、現地の苛烈な気候風土を克服しあらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き着々その成果を挙げつつあった。<br />然るに、昭和二十年八月、終戦によってその雄図は挫折したのみならず、異境で遭難した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった。<br />戦火に追われて混乱する治安のなかで一家は離散し母子相擁して命を絶つ者、逃避放浪の末生死不明の者、ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者四百名を数え、この渦中に可憐な十四・五歳の青少年義勇隊員の多くもあたら青春を犠牲にしたのである。<br />爾来二十幾星霜辛うじて生還した拓友をはじめ同志相計り多くの賛同を得て、此の地に拓魂碑を建立するに至った。<br />悲運の肉親同胞を偲び、諸霊の冥福を祈願するとともに、われわれもまたこの碑に集い、祖国永遠の平和と弥栄を翼うものである。<br /><br />昭和四十七年十二月九日  滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会<br />

    拓魂碑
    建立:昭和47年12月9日
    揮号:滋賀県知事野崎欣一郎
    碑文:顧みるに満蒙開拓事業は昭和七年より二十ヵ年百万戸移住計画に基づき民族協和の理想現実と日本民族の発展とを目ざした当時の国策であった。
    この要請にこたえて本県送出の四十四個団隊千八百余名の開拓者たちは、現地の苛烈な気候風土を克服しあらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き着々その成果を挙げつつあった。
    然るに、昭和二十年八月、終戦によってその雄図は挫折したのみならず、異境で遭難した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった。
    戦火に追われて混乱する治安のなかで一家は離散し母子相擁して命を絶つ者、逃避放浪の末生死不明の者、ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者四百名を数え、この渦中に可憐な十四・五歳の青少年義勇隊員の多くもあたら青春を犠牲にしたのである。
    爾来二十幾星霜辛うじて生還した拓友をはじめ同志相計り多くの賛同を得て、此の地に拓魂碑を建立するに至った。
    悲運の肉親同胞を偲び、諸霊の冥福を祈願するとともに、われわれもまたこの碑に集い、祖国永遠の平和と弥栄を翼うものである。

    昭和四十七年十二月九日  滋賀県満蒙開拓物故者慰霊碑建立委員会

  • 拓友碑<br />建立:昭和44年9月<br />碑文:顧ミルニ昭和七年カラ十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラシメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五、六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ<br />昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二百三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ<br />爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容の憂目ヲミタ<br />厳寒ノ冬来ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ<br />此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二百三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル<br /><br />昭和四十八年九月<br /><br />元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊<br />三滋北義會<br />中隊長 北島光三<br />教学・教練幹部 藤田重孝<br />農事・畜産幹部 白藤正雄<br />庶務幹部 楠本●蔵<br />寮母 杉江志げ<br />贈 宇野繁一<br /><br />※●は風化のため欠けている部分<br />

    拓友碑
    建立:昭和44年9月
    碑文:顧ミルニ昭和七年カラ十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラシメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五、六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ
    昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二百三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ
    爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容の憂目ヲミタ
    厳寒ノ冬来ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ
    此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二百三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル

    昭和四十八年九月

    元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊
    三滋北義會
    中隊長 北島光三
    教学・教練幹部 藤田重孝
    農事・畜産幹部 白藤正雄
    庶務幹部 楠本●蔵
    寮母 杉江志げ
    贈 宇野繁一

    ※●は風化のため欠けている部分

  • 第二十号掃海艇 慰霊碑<br />建立年月日:昭和52年5月5日<br />揮号者名:滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎<br />碑文:第二十号掃海艇戰闘詳報<br />第二十号掃海艇は昭和二十年五月二日海防艦男鹿が門司港から上海に向かう途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し同艦の遭難者を救助するため翌三日五時十五分朝鮮木浦港を出発、男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中同月五日二十時に通信連絡を行った後同艇は消息不明となりその遭難地点は北緯三三度五六分東経一二二度四九分附近と認定せらる。<br />同艇乗組員艇長海軍中佐田中三蔵以下一七五名壮烈なる戦死を遂ぐ。<br /><br />碑の裏に順不同として刻されている府県別戦没者氏名の柱数は次の通りとなっている。<br />滋賀県16柱、京都府28柱、兵庫県1柱、福井県12柱、石川県15柱、富山県20柱、新潟県50柱、山形県32柱、秋田県1柱。<br /><br />第20号掃海艇戦闘詳報<br />第20号掃海艇は昭和20年5月2日海防艦男鹿が門司港から上海に向う途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ 沈没した情報に接し 同艦の遭難者を救助するため 翌3日5時15分朝鮮木浦港を出発 男鹿の沈没地点である 黄海南部に向け航行中 同月5日20時に通信連絡を行った後 同艇は消息不明となり その遭難地点は北緯33度56分 東経122度49付近と認定せらる<br />同艇乗組員艇長海軍中佐田中三藏以下175名壮烈なる戦死を遂ぐ<br /><br />滋賀縣護國神社宮司<br />山本淺次郎 謹書<br /><br />昭和52年5月5日建立<br />第20号掃海艇<br />艇長 海軍中佐 田中三藏<br />          秀子

    第二十号掃海艇 慰霊碑
    建立年月日:昭和52年5月5日
    揮号者名:滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎
    碑文:第二十号掃海艇戰闘詳報
    第二十号掃海艇は昭和二十年五月二日海防艦男鹿が門司港から上海に向かう途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し同艦の遭難者を救助するため翌三日五時十五分朝鮮木浦港を出発、男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中同月五日二十時に通信連絡を行った後同艇は消息不明となりその遭難地点は北緯三三度五六分東経一二二度四九分附近と認定せらる。
    同艇乗組員艇長海軍中佐田中三蔵以下一七五名壮烈なる戦死を遂ぐ。

    碑の裏に順不同として刻されている府県別戦没者氏名の柱数は次の通りとなっている。
    滋賀県16柱、京都府28柱、兵庫県1柱、福井県12柱、石川県15柱、富山県20柱、新潟県50柱、山形県32柱、秋田県1柱。

    第20号掃海艇戦闘詳報
    第20号掃海艇は昭和20年5月2日海防艦男鹿が門司港から上海に向う途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ 沈没した情報に接し 同艦の遭難者を救助するため 翌3日5時15分朝鮮木浦港を出発 男鹿の沈没地点である 黄海南部に向け航行中 同月5日20時に通信連絡を行った後 同艇は消息不明となり その遭難地点は北緯33度56分 東経122度49付近と認定せらる
    同艇乗組員艇長海軍中佐田中三藏以下175名壮烈なる戦死を遂ぐ

    滋賀縣護國神社宮司
    山本淺次郎 謹書

    昭和52年5月5日建立
    第20号掃海艇
    艇長 海軍中佐 田中三藏
              秀子

  • (左)石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦歿勇士慰靈碑<br /><br />昭和13年2月10日部隊編成於北支天津<br />同20年6月20日沖縄南部に於て玉砕<br />昭和45年3月<br />昔陽會建之<br /><br />碑文<br />部隊は昭和13年2月北支天津に於て編成され、北支山西省昔陽県に駐屯し、山西河南河北の各省に亘り大行山系の各作戦また中原会戦等に参加、赫々たる戦果を挙げ太平洋戦争となるや部隊は昭和19年沖縄に転戦<br />米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末部隊は突撃を敢行し全員玉砕す<br />茲に部隊の在籍生存者が相集り今は亡き戦友の霊に対して心からその栄誉を賞え偉功を永久に伝えるため慰霊碑を建立したものであります<br /><br />この碑の下には沖縄激戦地の石を持帰り奉祀してあります<br /><br />独立歩兵第十一大隊 昔陽会<br /><br />(中)〝慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄〟<br />建立:昭和42年の冬<br />概要:本碑は、自身日露戦争に従軍された彦根市在住の故湯本昌雄氏が建立する。碑裏面には『戦場の四季』と題され、「奉天の東陵南陵揚げ雲雀」「萬世晴れて沙河の敵も雪を捨つ」の4句、そしてその下には日露戦争従軍記念と書かれ、湯本英雄・義雄・昌雄・信雄の4氏の名前が刻されている。<br /><br />(右)奉納灯籠<br />天皇・皇后両陛下行幸啓<br />昭和56年10月12日・平成6年10月27日<br />特別奉迎記念<br />滋賀県近衛歩兵第1聯隊會

    (左)石部隊独立歩兵第十一大隊 北支沖縄戦歿勇士慰靈碑

    昭和13年2月10日部隊編成於北支天津
    同20年6月20日沖縄南部に於て玉砕
    昭和45年3月
    昔陽會建之

    碑文
    部隊は昭和13年2月北支天津に於て編成され、北支山西省昔陽県に駐屯し、山西河南河北の各省に亘り大行山系の各作戦また中原会戦等に参加、赫々たる戦果を挙げ太平洋戦争となるや部隊は昭和19年沖縄に転戦
    米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末部隊は突撃を敢行し全員玉砕す
    茲に部隊の在籍生存者が相集り今は亡き戦友の霊に対して心からその栄誉を賞え偉功を永久に伝えるため慰霊碑を建立したものであります

    この碑の下には沖縄激戦地の石を持帰り奉祀してあります

    独立歩兵第十一大隊 昔陽会

    (中)〝慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄〟
    建立:昭和42年の冬
    概要:本碑は、自身日露戦争に従軍された彦根市在住の故湯本昌雄氏が建立する。碑裏面には『戦場の四季』と題され、「奉天の東陵南陵揚げ雲雀」「萬世晴れて沙河の敵も雪を捨つ」の4句、そしてその下には日露戦争従軍記念と書かれ、湯本英雄・義雄・昌雄・信雄の4氏の名前が刻されている。

    (右)奉納灯籠
    天皇・皇后両陛下行幸啓
    昭和56年10月12日・平成6年10月27日
    特別奉迎記念
    滋賀県近衛歩兵第1聯隊會

  • 滋賀県護国神社、全景。

    滋賀県護国神社、全景。

    滋賀県護国神社 寺・神社・教会

  • 滋賀県護国神社拝殿。厳か感が漂っている。

    滋賀県護国神社拝殿。厳か感が漂っている。

  • 大東亜戦争終結70年、滋賀縣護國神社創立140周年を記念し、平成28年10月5日の秋季例大祭に合わせて「滋賀県英霊顕彰館」が開館致しました。<br />御遺族の高齢化や代替わりにより、英霊のお写真を処分される相談が神社に多く寄せられるようになりました。そこで、英霊のご存在を将来に亘り、具体的に目に見える形で伝えてゆくために、在りし日のお姿(写真)を掲揚・展示して、後世の人々に英霊顕彰を継承してゆきたいと存じます。<br />館内には元滋賀県知事の國松善次様が奉納された「慰霊平和祈願御朱印屏風 全国護国神社自転車参拝録」の展示や欄窓には山本起美郎様作の二十点のステンドグラス(彦根城や長浜曳山祭りの曳山等、湖国滋賀の風景・文化・信仰・伝承を鶴房健蔵様の作品を題材とした)も飾られています。<br />ご参拝の際にはぜひご見学下さい。<br /><br />お写真のお申し込みも随時受け付けておりますので、社務所にお問い合わせ下さい。<br /><br />開館時間 午前9時~午後4時まで<br />休館日  月曜日

    大東亜戦争終結70年、滋賀縣護國神社創立140周年を記念し、平成28年10月5日の秋季例大祭に合わせて「滋賀県英霊顕彰館」が開館致しました。
    御遺族の高齢化や代替わりにより、英霊のお写真を処分される相談が神社に多く寄せられるようになりました。そこで、英霊のご存在を将来に亘り、具体的に目に見える形で伝えてゆくために、在りし日のお姿(写真)を掲揚・展示して、後世の人々に英霊顕彰を継承してゆきたいと存じます。
    館内には元滋賀県知事の國松善次様が奉納された「慰霊平和祈願御朱印屏風 全国護国神社自転車参拝録」の展示や欄窓には山本起美郎様作の二十点のステンドグラス(彦根城や長浜曳山祭りの曳山等、湖国滋賀の風景・文化・信仰・伝承を鶴房健蔵様の作品を題材とした)も飾られています。
    ご参拝の際にはぜひご見学下さい。

    お写真のお申し込みも随時受け付けておりますので、社務所にお問い合わせ下さい。

    開館時間 午前9時~午後4時まで
    休館日  月曜日

  • 天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑。<br />昭和50(1975)年5月28日建立<br />揮号:山本浅次郎<br />概要:昭和50(1975)年5月28日天皇・皇后両陛下には、第26回全国植樹祭ご臨席のため、5日間のご日程で滋賀県に行幸啓あらせられ、その間県下各方面をご視察遊ばされましたが、その御みぎり、当神社にご親拝を賜ったのを記念して建立されたものである。<br />

    天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑。
    昭和50(1975)年5月28日建立
    揮号:山本浅次郎
    概要:昭和50(1975)年5月28日天皇・皇后両陛下には、第26回全国植樹祭ご臨席のため、5日間のご日程で滋賀県に行幸啓あらせられ、その間県下各方面をご視察遊ばされましたが、その御みぎり、当神社にご親拝を賜ったのを記念して建立されたものである。

  • 滋賀県護国神社にて、狛犬様。

    滋賀県護国神社にて、狛犬様。

  • 滋賀県護国神社にて、奉納の灯篭。

    滋賀県護国神社にて、奉納の灯篭。

  • (右)父の像<br />建立:昭和44年8月<br />碑文〝平和を願う〟<br />戦争で幾百万という兵士が死んだ<br />兵士には父や母があり妻と子がいた<br />その子供達は父のいない家庭に育ち<br />父がほしいと何度か思って大人になった<br />そして自分達で父の像をつくった<br />異国で散った兵士も遺された家族も<br />願いは一つ平和であった<br /><br />「父の像に捧ぐ」詞 我孫子元治<br />おとうさん<br />あなたに抱かれたことのない子が<br />あなたの遺骨を抱いたとき<br />おとうさん<br />あなたの無言の帰還を迎えて<br />あなたのきびしい声を聞いた<br />おとうさん<br />あなたの遺志を継いだ子が<br />あなたの霊に改めて誓う<br />おとうさん<br />あなたの抱き続けた平和への祈りを<br />あなたの子として祈り続ける   <br /> 滋賀県遺族会青壮年部(滋賀縣護國神社 宮司 山本浅次郎 書)<br /><br />(左)母の像<br />建立:平成19年9月<br />碑文:祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦禍に散った。<br />残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長を頼りに母として必死に生きた。<br />子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、遺族として各種の活動を展開した。<br />滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて「母の像」を建立する。<br />平成十九年九月吉日<br />財団法人滋賀県遺族会会長 山田利治<br /><br /><br />

    (右)父の像
    建立:昭和44年8月
    碑文〝平和を願う〟
    戦争で幾百万という兵士が死んだ
    兵士には父や母があり妻と子がいた
    その子供達は父のいない家庭に育ち
    父がほしいと何度か思って大人になった
    そして自分達で父の像をつくった
    異国で散った兵士も遺された家族も
    願いは一つ平和であった

    「父の像に捧ぐ」詞 我孫子元治
    おとうさん
    あなたに抱かれたことのない子が
    あなたの遺骨を抱いたとき
    おとうさん
    あなたの無言の帰還を迎えて
    あなたのきびしい声を聞いた
    おとうさん
    あなたの遺志を継いだ子が
    あなたの霊に改めて誓う
    おとうさん
    あなたの抱き続けた平和への祈りを
    あなたの子として祈り続ける   
     滋賀県遺族会青壮年部(滋賀縣護國神社 宮司 山本浅次郎 書)

    (左)母の像
    建立:平成19年9月
    碑文:祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦禍に散った。
    残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長を頼りに母として必死に生きた。
    子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、遺族として各種の活動を展開した。
    滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて「母の像」を建立する。
    平成十九年九月吉日
    財団法人滋賀県遺族会会長 山田利治


  • 滋賀県護国神社南参道鳥居から外へと出る。

    滋賀県護国神社南参道鳥居から外へと出る。

  • 内壕沿いのいろは松。

    内壕沿いのいろは松。

    いろは松 名所・史跡

  • 井伊直弼歌碑がある。これは滋賀県護国神社境内に位置するようだ。<br /><br />〝あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな〟<br />昭和35(1960)年10月建立<br /><br />井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてから100年が経過した昭和35(1960)年に開催された「大老開国100年祭」に先がけて市内有志29名により建立された。碑文は直弼自筆の和歌を写したものとなっている。<br /><br />

    井伊直弼歌碑がある。これは滋賀県護国神社境内に位置するようだ。

    〝あふみの海 磯うつ浪の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな〟
    昭和35(1960)年10月建立

    井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてから100年が経過した昭和35(1960)年に開催された「大老開国100年祭」に先がけて市内有志29名により建立された。碑文は直弼自筆の和歌を写したものとなっている。

  • 滅多に来ない彦根だから足を伸ばしてみた。

    滅多に来ない彦根だから足を伸ばしてみた。

  • 彦根城に到着する。

    彦根城に到着する。

  • 埋木舎に立ち寄る。

    埋木舎に立ち寄る。

  • 埋木舎は井伊直弼が勉学に励んだ場所だが、時間の関係で今日は外観だけにする。

    埋木舎は井伊直弼が勉学に励んだ場所だが、時間の関係で今日は外観だけにする。

    埋木舎 名所・史跡

  • 城内へと普通の道路が繋がっている。

    城内へと普通の道路が繋がっている。

  • 彦根城外堀を渡る。

    彦根城外堀を渡る。

  • 二の丸佐和口多門櫓付近にて。

    二の丸佐和口多門櫓付近にて。

  • 現在でも城下町の風情が色濃く残っている。

    現在でも城下町の風情が色濃く残っている。

  • 開国記念館に立ち寄った。

    開国記念館に立ち寄った。

    開国記念館 美術館・博物館

  • 入口には別格ゆるキャラのひこにゃんが!

    入口には別格ゆるキャラのひこにゃんが!

    開国記念館 美術館・博物館

  • ひこにゃんは御年15才。

    ひこにゃんは御年15才。

  • 開国記念館を後にして彦根城を目指す。

    開国記念館を後にして彦根城を目指す。

  • 家老木俣屋敷跡。非公開建物であるが、彦根藩筆頭家老であった木俣守勝の子孫の住居である。

    家老木俣屋敷跡。非公開建物であるが、彦根藩筆頭家老であった木俣守勝の子孫の住居である。

  • 佐和口門のなんとか。なんとかの部分は隠されていた。

    佐和口門のなんとか。なんとかの部分は隠されていた。

  • 彦根城内堀が見えて来た。

    彦根城内堀が見えて来た。

  • 馬屋。国の重要指定文化財である。

    馬屋。国の重要指定文化財である。

  • 表門の外内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋である。この馬屋は全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されている。<br />馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっておりその数は21、つまり21頭もの馬を収容することができたのである。<br />馬屋はさらに現在の売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていない。<br />馬屋は藩主などの馬を常備したものであり、こうした馬屋の他にもかつて表御殿(現在の彦根城博物館)の玄関脇には客用の馬屋が存在した。また玄宮園やお浜御殿などの下屋敷には馬場(ばば)があって馬の調教が行われていた。<br />武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて藩内で武術が学び継がれた。馬術も例外ではなく2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部(かみおおりべ)の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及した。八代藩主直定はとくに馬術を好んだ藩主として知られているが、藩士も250石以上は馬扶持(うまふもち)を支給されて馬を所持し馬術の修練を怠らなかった。<br />こうした馬に関する役職として馬役(うまやく)があり、彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南行った。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていたのである。

    表門の外内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋である。この馬屋は全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されている。
    馬屋の建物はL字形をしており、佐和口の櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門があるほかは、すべて馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっておりその数は21、つまり21頭もの馬を収容することができたのである。
    馬屋はさらに現在の売店方向に伸びていたようですが、現在は復元されていない。
    馬屋は藩主などの馬を常備したものであり、こうした馬屋の他にもかつて表御殿(現在の彦根城博物館)の玄関脇には客用の馬屋が存在した。また玄宮園やお浜御殿などの下屋敷には馬場(ばば)があって馬の調教が行われていた。
    武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて藩内で武術が学び継がれた。馬術も例外ではなく2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部(かみおおりべ)の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及した。八代藩主直定はとくに馬術を好んだ藩主として知られているが、藩士も250石以上は馬扶持(うまふもち)を支給されて馬を所持し馬術の修練を怠らなかった。
    こうした馬に関する役職として馬役(うまやく)があり、彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南行った。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていたのである。

  • お城が乗っかるポストは開国400年記念のもの。

    お城が乗っかるポストは開国400年記念のもの。

  • 琵琶湖八景〝彦根の古城〟の碑。<br /><br />おや?お堀巡りの船が運航されているようだ。

    琵琶湖八景〝彦根の古城〟の碑。

    おや?お堀巡りの船が運航されているようだ。

  • 表門から彦根城へと入る。

    表門から彦根城へと入る。

  • ひこにゃんの行動予定が書かれていた。

    ひこにゃんの行動予定が書かれていた。

  • 動いていたことを知らなかった彦根城お堀巡り。

    動いていたことを知らなかった彦根城お堀巡り。

    彦根城お堀めぐり 乗り物

  • 地図は必需品だ。

    地図は必需品だ。

  • ひこにゃん仕様の電気自動車。

    ひこにゃん仕様の電気自動車。

  • 赤備え仕様の電気自動車。

    赤備え仕様の電気自動車。

  • 彦根城表門券売所。

    彦根城表門券売所。

  • 彦根城冠木門。ここで暫く待つ。

    彦根城冠木門。ここで暫く待つ。

  • ひこにゃん登場。

    ひこにゃん登場。

  • バイバ~イ!!

    バイバ~イ!!

  • ひこにゃんを公務員だから17:00で帰るなんてことをいう者がいたので、スケジュールがわかることを告知しておく。

    ひこにゃんを公務員だから17:00で帰るなんてことをいう者がいたので、スケジュールがわかることを告知しておく。

  • 彦根城博物館。

    彦根城博物館。

    彦根城博物館 美術館・博物館

  • 彦根城博物館から見られる能舞台。

    彦根城博物館から見られる能舞台。

  • 御座之御間から眺めた庭園。

    御座之御間から眺めた庭園。

  • それでは本丸へと向かうことにする。

    それでは本丸へと向かうことにする。

  • 表門山道を登って行く…。

    表門山道を登って行く…。

  • 天秤櫓が見えて来た。

    天秤櫓が見えて来た。

  • 南堀切石塁石垣の調査と修復が行われた場所。

    南堀切石塁石垣の調査と修復が行われた場所。

  • 逆方向から見た天秤櫓。

    逆方向から見た天秤櫓。

  • 鐘の丸虎口石垣は修復されたもの。

    鐘の丸虎口石垣は修復されたもの。

  • 佐和山城から移設された石垣もあるそうだ。

    佐和山城から移設された石垣もあるそうだ。

  • 鐘の丸跡。

    鐘の丸跡。

  • 鐘の丸跡。

    鐘の丸跡。

  • 鐘の丸跡から見た景色。竹生島が見えている。

    鐘の丸跡から見た景色。竹生島が見えている。

  • 橋を渡って天秤櫓に向かう。

    橋を渡って天秤櫓に向かう。

  • オオトックリイチゴ。

    オオトックリイチゴ。

  • 城郭の中に入り…。

    城郭の中に入り…。

  • 彦根城続櫓。

    彦根城続櫓。

  • 太鼓丸東石塁の調査と修復。

    太鼓丸東石塁の調査と修復。

  • 時報鐘と聴鐘庵。

    時報鐘と聴鐘庵。

  • 太鼓門櫓と続櫓。

    太鼓門櫓と続櫓。

  • 太鼓門櫓と続櫓。

    太鼓門櫓と続櫓。

  • 着見櫓跡から見た景色。

    着見櫓跡から見た景色。

  • 着見櫓跡から見た景色。

    着見櫓跡から見た景色。

  • 彦根城天守閣にやって来た。

    彦根城天守閣にやって来た。

    彦根城 名所・史跡

  • 彦根城天守閣とひこにゃんとたかティムさん。

    彦根城天守閣とひこにゃんとたかティムさん。

    彦根城 名所・史跡

  • 残念ながら太鼓門櫓は工事中のため立入禁止となっていた。

    残念ながら太鼓門櫓は工事中のため立入禁止となっていた。

  • 何だろう…。

    何だろう…。

  • 天守閣の隠狭間。

    天守閣の隠狭間。

    彦根城 名所・史跡

  • 破風の間、由来書き。

    破風の間、由来書き。

    彦根城 名所・史跡

  • 天守閣からの眺めは前ピンだった・・・。

    天守閣からの眺めは前ピンだった・・・。

  • 天守閣、鉄砲狭間。

    天守閣、鉄砲狭間。

    彦根城 名所・史跡

  • 彦根城天守閣国宝指定書。

    彦根城天守閣国宝指定書。

    彦根城 名所・史跡

  • お城の階段は相変わらず急だ。登りも…。

    お城の階段は相変わらず急だ。登りも…。

    彦根城 名所・史跡

  • 天守閣、鉄砲狭間。

    天守閣、鉄砲狭間。

    彦根城 名所・史跡

  • お城の階段は相変わらず急だ。下りも…。

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    彦根城 名所・史跡

  • 天守閣を出て来たのは16:43、入るのは16:45迄らしい。

    天守閣を出て来たのは16:43、入るのは16:45迄らしい。

    彦根城 名所・史跡

  • 黒門出口を目指して歩く。

    黒門出口を目指して歩く。

  • 西の丸水手御門虎口石垣。

    西の丸水手御門虎口石垣。

  • 西の丸水手御門虎口石垣。

    西の丸水手御門虎口石垣。

  • 西の丸水手御門虎口石垣とたかティムさん。

    西の丸水手御門虎口石垣とたかティムさん。

  • 井戸曲輪。

    井戸曲輪。

  • 黒門山道を下って行く。

    黒門山道を下って行く。

  • 彦根城城郭の石垣。

    彦根城城郭の石垣。

  • 修理や発掘の個所もあるが素晴らしい。

    修理や発掘の個所もあるが素晴らしい。

  • 内堀を渡り…。

    内堀を渡り…。

  • 黒門出口から彦根城天守閣エリアを出て金亀公園を目指す。

    黒門出口から彦根城天守閣エリアを出て金亀公園を目指す。

  • 金亀公園を経て…。

    金亀公園を経て…。

    金亀公園 公園・植物園

  • 井伊直弼生誕地でもある槻(けやき)御殿はは工事中。

    井伊直弼生誕地でもある槻(けやき)御殿はは工事中。

  • 臨地閣八景亭。料理旅館としては平成29(2017)年11月末で営業終了している。

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    割烹旅館 八景亭 宿・ホテル

  • 槻御殿は井伊直弼の生誕地。

    槻御殿は井伊直弼の生誕地。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 白い蓮。

    白い蓮。

  • 白い蓮。

    白い蓮。

  • なにやら三重塔が置かれていた。

    なにやら三重塔が置かれていた。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 玄宮園庭園。

    玄宮園庭園。

  • 復元水田。

    復元水田。

  • 復元水田。

    復元水田。

  • 玄宮園の護岸調査・修理状況速報。

    玄宮園の護岸調査・修理状況速報。

  • 遠城謙道師之碑。<br />大正12(1921)年9月建之<br />発起人:奥村勇蔵<br />寄附者:六百名<br /><br />遠城謙道<br />遠城謙道は旧彦根藩士で通称遠城平右衛門といい、文政6(1823)に彦根で生まれた。15歳で鉄砲隊に入ったが、藩医「堀田道策」に医術を学んだのを始め、儒学や画も学ぶなどし、特に禅の修業を積んだことで武士の魂を磨いた。<br />桜田門外の変における、大老井伊直弼公の横死の後、悲憤の余り主君の旧恩に報じようと同志と謀り老中に抗弁するも、果たすことができなかった。<br />追い腹は犬死と判断し、僧となりお墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清涼寺「俊竜和尚」の元で仏門に入り、名を「謙道」と改めた。<br />慶応元(1865)、妻と6人の子供を残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺、豪徳寺(東京都世田谷区)に移り、直弼公の墓側に庵を建て終生掃墓、読経をし、霊を慰めること実に37年に及んだ。<br />「開国始末」の著書、島田三郎氏は清節堅操優に、士人の典型また僧侶の模範と謙道翁の至誠至忠が讃されている。

    遠城謙道師之碑。
    大正12(1921)年9月建之
    発起人:奥村勇蔵
    寄附者:六百名

    遠城謙道
    遠城謙道は旧彦根藩士で通称遠城平右衛門といい、文政6(1823)に彦根で生まれた。15歳で鉄砲隊に入ったが、藩医「堀田道策」に医術を学んだのを始め、儒学や画も学ぶなどし、特に禅の修業を積んだことで武士の魂を磨いた。
    桜田門外の変における、大老井伊直弼公の横死の後、悲憤の余り主君の旧恩に報じようと同志と謀り老中に抗弁するも、果たすことができなかった。
    追い腹は犬死と判断し、僧となりお墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清涼寺「俊竜和尚」の元で仏門に入り、名を「謙道」と改めた。
    慶応元(1865)、妻と6人の子供を残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺、豪徳寺(東京都世田谷区)に移り、直弼公の墓側に庵を建て終生掃墓、読経をし、霊を慰めること実に37年に及んだ。
    「開国始末」の著書、島田三郎氏は清節堅操優に、士人の典型また僧侶の模範と謙道翁の至誠至忠が讃されている。

  • 井伊直弼像。

    井伊直弼像。

  • 像右下の歌碑〝一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ〟は、井伊直弼の曾孫にあたる井伊直愛氏の妻となった井伊文子氏のものである。ちなみに文子氏は琉球王国第二尚氏王朝最後の国王尚泰王の曾孫である。

    像右下の歌碑〝一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ〟は、井伊直弼の曾孫にあたる井伊直愛氏の妻となった井伊文子氏のものである。ちなみに文子氏は琉球王国第二尚氏王朝最後の国王尚泰王の曾孫である。

  • 花の生涯記念碑。昭和38(1963)年の大河ドラマだという…。

    花の生涯記念碑。昭和38(1963)年の大河ドラマだという…。

  • 二期咲桜らしい。

    二期咲桜らしい。

  • 彦根城の外堀跡。戦後のマラリア対策で埋められたらしい。戦争マラリアと言えば南国のものと思っていたが、身近にも遺構があったことを知った。

    彦根城の外堀跡。戦後のマラリア対策で埋められたらしい。戦争マラリアと言えば南国のものと思っていたが、身近にも遺構があったことを知った。

  • 国宝彦根城と彦根藩主井伊家の謂れが刻まれた石碑。公的資料から引用した碑文はホンマ物。彦根の石屋さんは本格だ。

    国宝彦根城と彦根藩主井伊家の謂れが刻まれた石碑。公的資料から引用した碑文はホンマ物。彦根の石屋さんは本格だ。

  • こちらは彦根町と石田三成について。

    こちらは彦根町と石田三成について。

  • 四番趙スクエアで見た〝ひこにゃん石像〟。やはりカワ(・∀・)イイ!!

    四番趙スクエアで見た〝ひこにゃん石像〟。やはりカワ(・∀・)イイ!!

  • 駅前お城通りは中央分離帯がある片側二車線のまっすぐな道路。

    駅前お城通りは中央分離帯がある片側二車線のまっすぐな道路。

  • そんな中央分離帯はやはり〝石〟を主体にして作られている。

    そんな中央分離帯はやはり〝石〟を主体にして作られている。

  • 彦根駅へと戻る。

    彦根駅へと戻る。

  • 湖国バスは小型車の日野ポンチョで運行されることが多いようだ。

    湖国バスは小型車の日野ポンチョで運行されることが多いようだ。

  • ここも駅前お城通りである。角っこにはアルプラザ彦根店がある。

    ここも駅前お城通りである。角っこにはアルプラザ彦根店がある。

  • でもそこそこの利用客はいるようだ。

    でもそこそこの利用客はいるようだ。

  • 彦根市観光案内所は彦根巡りの資料を集められる場所。

    彦根市観光案内所は彦根巡りの資料を集められる場所。

    彦根市観光案内所 名所・史跡

  • 彦根駅から石田三成の居城佐和山城跡を眺める。

    彦根駅から石田三成の居城佐和山城跡を眺める。

    佐和山城跡 名所・史跡

  • 彦根駅東口を出て…。

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  • コンフォートホテル近くに喫煙所がある。

    コンフォートホテル近くに喫煙所がある。

    コンフォートホテル彦根 宿・ホテル

  • 喫煙所は駅東口にある。

    喫煙所は駅東口にある。

  • 再び駅舎へと戻り…。

    再び駅舎へと戻り…。

    彦根駅

  • 18:02発の快速で帰ることにする。

    18:02発の快速で帰ることにする。

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