2020/12/21 - 2020/12/21
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しにあの旅人さん
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日本書紀に厩戸皇子が次に登場するのは、崇峻5年(591年)冬12月8日の推古天皇即位後です。
★推古元年(593年)夏4月10日、
厩戸豊聡耳(うまやとの・とよみみの)皇子を立てて、皇太子(ひつぎのみこ)とされ、国政をすべて任せられた。★
厩戸皇子19才です。同時に摂政に就任したといわれております。
この4月10日の記事は皇子の略伝紹介です。
★生まれて程なくものを言われた。★
という有名なエピソードが出てきます。幼少期から極めて優秀であった、と置き換えればいい。
★成人してからは、一度に10人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまでよく見通された。★
優秀なスタッフを抱えていて、同時にいくつものプロジェクトを遂行できたということです。先を見通すマネジメントの能力に優れておりました。
とくに奇跡ということではなく、1000年に1人の天才なら驚くにあたりません。
フェデリーコ2世は、4才でラテン語の読み書きができ、少年期に母国語イタリア語のほか、フランス語、ドイツ語、ギリシャ語、アラビア語が母国語のようにできました。ほぼ全てが独学だったようです。天才なら当たり前です。
★また仏法を高麗の僧慧慈(えじ)に習われ、儒教の経典を覚袈博士に学ばれた。そしてことごとくそれをおきわめになった。★
話が前後します。慧慈が来朝したのは推古3年です。
★推古3年5月10日、
高麗の僧慧慈が帰化した。皇太子はそれを師とされた。★
帰化したとありますが、この年来日したという意味でしょう。来日してすぐ日本語ができるはずがない。厩戸皇子は慧慈から中国語で仏教を学んだことになります。直接教授法ですから、オーラルもできた。
この年厩戸皇子22才、中国語は完璧にできたということです。天才ですから驚きません。
六国史および参考書については、「六国史の旅 厩戸皇子1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
推古元年(593年)夏4月10日の厩戸皇子の摂政就任は、書紀だとそれだけの事実の叙述です。
ところが、これが聖徳太子伝暦だと、実にファンタスティックな話になります。「まさか!」と言う方もいると思うので、漢文原文から。
即位後初めて推古天皇は群臣を集めてこういいました。
★推古元年春正月(伝暦のママ)、
吾女人也。性不解物。万機日慎國務滋多。冝天下之事皆啓太子。即日立太子爲皇太子。仍禄摂政。★
訓み下し。
★吾れは女人也。性物を解らず。万機日に慎ち(み)國務磁々(ますます)多し。冝く天下之事を皆太子に啓(もう)すべし。即日に太子を立てゝ皇太子と爲す。仍て禄(とりかさ)ねて政を摂たまふ。★
現代語訳。
★「我は女人が故、性物を解らず。万機や国務は日増しに多くなる一方である」
「そのため、国政は太子は任せることにする。天下のことは皆太子に申し上げよ」
そして、天皇は太子を皇太子とした。(皇太子は)国政を摂られた。★
ファンタスティックでしょ!
このブログの読者はご婦人が多いので、カッときたはず。まあ、深呼吸して落ち着いて下さい。
編纂者は藤原兼輔(ふじわら・かねすけ)と言われていますが、このおっさんは何を考えていたのか。推古天皇が活躍した6世紀末から日本書紀が完成した8世紀初頭まで、推古、斉明(重祚して皇極)、持統、元明、元正と女帝がいっぱいおります。飛鳥、天平は女の時代だと知らないはずがない。一言でいうと、アホですね、このおじさん。
大体、平安時代なんて、紫式部や清少納言などの女流文化人を除けばカスじゃないですか。よくいうよ、藤原兼輔!
一書に曰く、
藤原兼輔、聞いたことのある名前だなあ。
もしかして、百人一首の
みかの原 わきてながるる泉川 いつ見きとてか 恋しかるらん
の人じゃあありませんか。だとしたら、紫式部のひいじいさまですよ。
ふむふむ、だとしたら、推古天皇が、「あたし、女だから、、、」というのは、信用できませんよ。
ご存知、紫式部は、清少納言のことを、女のくせに、男の学問をさも知ったかぶりして。と嫌った人ですからね。
紫式部は、学者の家系に生まれ、幼少の時には、兄よりも学問の習得が早かったというエピソードがあります。
紫式部の時代の学問は、漢文のことでしょうから、読めたのです。
なのに、読めないふりをした。
何故の猫かぶり?
分かりません。けれど、狭い貴族社会の中、蜘蛛の巣のように絡まり合っている親戚関係では、宮廷の表、政治に携わっている男たちに恥をかかせてはならないことが、後々まで気分良く生きて行くためには、必要だった。
少なくとも、兼輔は、そう考えていたのではないですかね。
ほら、法事のときなんかに、何十年も前の事をほじくり返して揉めるって、よく聞くことでしょう?
今は八十才の爺さんが、おれが八歳の時、親父の盆栽を折っちゃって、兄貴といっしょにしたのに、兄貴は逃げて、オレだけ柿の木に縛られたとか。兄貴、逃げ足速いからなあ。
なに?!逃げ足速いとはなんだ!とかで、大喧嘩とかありますでしょ?
蜻蛉日記の作者の息子、藤原道綱は、うそか誠か、自分の名前を書くのがやっと等、悪口を書かれているそうです。
その道綱を馬鹿にしたら、父親は、時の権力者の兼家ですから、怒りを買いでもしたら、末代の損です。
女は、バカのふりをしろ!は、兼輔家の家訓だった。
兼輔は、その家訓を、推古天皇に当てはめた。自分の理想像に描いたわけです。
ほら、天皇だって、こうなのだよ。
それで、ひ孫の紫式部は、なるほど、私もそうしなくちゃ。と考えたのではないですかね。
それに兼輔が真実を著述したとしても、現代でも、男の人って、一人で黙々と自分の任務を果たす女より、
いやん、わたしぃ、こんなのできなーい。クスン。
なんて、くねくね言ってる女の方が好きなのね。
いいよ。いいよ。ボクがやっておくよ。なんちって、鼻の下伸ばしてさ。
ウッフンと言って、男が動くのなら、そりゃあ、ウッフン言っちゃいますわな。
推古さんって、かしこーい!
どっちだったでしょうね。
いずれにしましても、言葉通りってことは、絶対にない。むしろ、相当に根性入れた賢さでしょうね。
By妻 -
厩戸皇子が赤ん坊のころから秀でていたという記事は、日本書紀では、
★推古元年(593年)夏4月10日、
生まれて程なくものを言われた。★
これだけです。
伝暦の、書紀にはない幼児時代の聖徳太子エピソードを列挙します。
数が多いんで、現代語訳より箇条書き。
2歳、2月15日の釈迦入滅の朝、東へ向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えた。
3歳、天皇から松の枝と桃の花のどっちが好きかと聞かれて、松が好き。理由は「桃の花は美しいけど儚(はかな)く、松は万年枯れる事がないからです」
4歳、皇子悪ガキどもがいたずらして、父(天皇)が笞を持って出てきた。ガキどもは逃げたが、太子は進んで笞に打たれた。理由は「天にハシゴをかけようが、地に穴を開けようが、隠れる所がありません。だから進んで罰を受けます」
5歳、叔母の豊御食炊屋姫(推古天皇)が敏達天皇の皇后になるとき、乳母に抱かれて見ていたが、乳母の膝から降りて、大臣よりも先に立って正式な方式を以って天皇・皇后に拝礼した。
6歳、「百済の使者が仏教の教典を献上したため、天皇はこれを太子に読ませて内容を尋ねた。太子は「諸悪莫作 衆善奉行(悪いことはするな、善いことをしなさい)」と書いてありますと答えた」
7歳、「百済の使者が仏教の教典を100冊献上してきたため、太子は香を焚いてこれを読み始めた。日毎に12冊ずつ読み進め、夏から冬までの間に全て読み終えた」
まだまだありますが、あまりに伝暦のヨイショが激しいので、これでやめます。
要するに、厩戸皇子が子供時代から優秀であったという伝承は、ほとんどが伝暦が根拠で、書紀ではないということです -
★推古元年(593年)月日不明、
この年、初めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に作り始めた。★
四天王寺建立は、丁未(ていび)の乱のときの厩戸皇子の誓願がありますから、厩戸皇子が造った、と読んでいい。 -
2020年6月29日、コロナ騒ぎの谷間に四天王寺に行ってきました。
ところが開館時間が違っていて中に入れません。次の予定があるので、周囲から写真を撮りました。 -
八尾の丁未(ていび)の乱の古戦場巡りでも同じでしたが、現在の四天王寺は大阪のど真ん中。どこからでも現代の高層建築が映りこんでしまうのです。
-
こういうのも困る。折角だから古代ぽいアングルがほしい。厩戸皇子ものぼりは立てなかったと思うけどなあ。
-
ようやくみつけたこのアングル。右下の案内板が邪魔だって?分かってます。
-
現在の四天王寺はオリジナルではなく、度重なる再建の結果であることは充分承知。
-
それでも太子創建時の雰囲気を少しでもとらえたい、苦心の結果と思って下さい。
-
街灯は見なかったことにしてね。回廊の中に入れたらもう少しましな写真が撮れたかもしれません。コロナ騒ぎを恨みつつ、四天王寺を後にしたのであります。
-
一書に曰く、
関西地区以外にお住まいの方のために、ご説明いたしますと、四天王寺は、東京なら銀座、フランスならシャンゼリゼ、イギリスなら、トラファルガー広場にあると、たぶん、そんな感じかなと思いますが、関西地区の方いかがでしょう?
私にとっては、想像以上の町の真ん中。
想像って、何にも考えていなかったってことですが。
空を見上げれば、ニョキニョキ摩天楼。道は、平日の昼間だって言うのに、しかもコロナだっていうのに、何?この人出。車は、渋滞また渋滞。
さっきまで、誰も居ない田舎道を、大いばりで走っておりまして、ナビなんて、運転席の隣で、おせんべ食べることかと思っていたのに。
ぎゃー!ですよ。
By夫が、切羽詰まった声で聞きます。次は、右折か左折か?
知りませんよ。おせんべ、まだ口の中なのに。
と、ドタバタして、ナビゲーターさまが教えて下さったとおりに走り回って、右折を左折して、余計に回ったりはしましたが、無事に四天王寺到着。
着きましたが、どうやって入ればいいのか、車を止めればいいのか?
こういうとき、私は、いつも思うのです。ドラえもんの、チビデカ光線とかいうのなかったですかね。自動車にピカッと当てると、小さくなってポケットに入れられるのです。あれがあればねえ。
駐車場、ありました。よかったです。
車から降りると、空が狭かったです。ビルに囲まれていて、空は頭の上だけでした。横、斜め上は、ビルでした。
四天王寺の建物は、修復された後なのでしょう、きれいでした。お参りの人も、ただ単に通り抜ける人もいました。
お参りする人はもちろん、通り抜ける人だって、ちょこっと手を合わせておいででした。
久しぶりの人類との再会で、じろじろ見てしまいましたが、別に気になさる風もなく、都会人は、他人の視線に強いのですね。
そして、大阪のおばちゃんは、人を見ると、あめちゃんをくれるという噂に、少々期待しておりましたが、まさかね。
やっぱり、そんなこともなく、それは都市伝説だと発見し、街中なのに、美しく清められた境内を散歩いたしました。
ここまで都会だと、長い年月を経て、聖徳太子と同じ道をあゆんでおるのだ!ってことは、ない、絶対に。
景色だって、空気だって、こんなじゃねえだろ?とは思うものの、これはこれで立派だったし、皆々様に愛されていることは、間違いありませんでした。
観光地としてでなく、遺跡としてでなく、現役の、我々現代人の信仰を集めるお寺でした。
By妻 -
ここから中国語と漢文を分けます。
中国渡来の文献に書かれた言葉を中国語、日本国内で中国語で書かれた文献を漢文といたします。しにあの都合による適当分類です。受験生の皆さん、真似しないでね。
★推古2年(594年)春2月1日、
皇太子と大臣(蘇我馬子)に詔して、仏教の興隆を図られた。★
推古天皇は、蘇我馬子と厩戸皇子を二本柱として政治を行ったようです。
書紀を読むと、はっきり厩戸皇子の業績と書いてある部分と、だれと主語がない場合があります。これをどう読むか。
基本的には2人の合議、しかし内政は馬子、外政は厩戸皇子と考えればいいのではないか。理由は、馬子には自分で中国語を読む能力がない。厩戸皇子は前述のように中国語の読み書き、オーラルができたのです。この時代、外交とはほぼ全面的に対隋、朝鮮です。ワーキング・ランゲージは中国語。現代では英語ができない外務大臣は使い物にならないのと同じです。
ただし内政でも文化行政は厩戸皇子。馬子にはこの時代の文化の基礎になる中国語文献を読む能力がありません。
要するに馬子は、豪族間の力関係を熟知したギンギンの国内派、フィクサー、現代でもこういういわゆる実力者はおります。
馬子が書紀に登場するのは敏達元年(572年P56)です。
★敏達元年夏4月3日、蘇我馬子宿禰を大臣(おおおみ)とした。★
ウイキペディアによれば、「扶桑略記」に生まれは欽明天皇13年(551年)とあるそうです。このとき21才。これ以降、馬子が中国語を学んだという記録は書紀になく、仏教の経典を自分で読んだとも書いてない。
唯一のそれらしき記述は、仏像2体を手に入れた馬子が修行者を探させ、
★敏達13年(584年P67)日付不明、
播磨国に僧で還俗した、高麗人の恵便(えべん)という人があった。馬子大臣はその人を仏法の師とした★
恵便はその後書紀に登場しません。馬子は彼に仏像を祀らせただけで、仏典を学んだわけではありません。
そもそも馬子が中国語の経典を読めるなら、恵便などという当時でも無名の人物を探す必要はないのです。21才までにまともな中国語教育は受けていないと考えていいでしょう。ある程度の漢文の読み書きができる程度か。
スタッフにもこの種の教養がある人物はいなかったということになります。
この時代、日本語をそのまま書く事はまだできません。中国語、または漢文ができないということは、文盲ということです。 -
推古朝では3度朝鮮南部の任那を救援するための新羅征討作戦が立てられました。
推古8年、10年、11年。これは外政ですが、主導したのは馬子のようです。
この出兵は元来崇峻天皇時代の発案で、
★崇峻4年(591年)秋8月1日、
天皇は群臣に「自分は新羅に滅ぼされた任那を再建したいが卿等はどう思うか」とお尋ねになった。★
群臣は賛成して、2万余の軍が筑紫に出兵しました。しかしこれは翌年の崇峻天皇の暗殺により中止となりました。
★推古3年(595年)秋7月、
将軍たちが筑紫から引き上げた。★
崇峻4年では、丁未(ていび)の乱のあとで、物部守屋はすでになく、馬子独裁状態ですから、馬子の主導でしょう。
推古8年からの3度の出兵も、まえからの続きで、馬子主導と考えるのが合理的です。
推古8年の1回目は1万の兵が実際に任那救援で新羅と戦いました。講和が成立して撤兵。
だれが主導したとは書いていません。
10年の2回目では総司令官の来目(くるめ)皇子が筑紫で病気になりました。11年春2月4日来目皇子が筑紫で薨去しました。
★推古11年2月日付不明、
皇太子(厩戸皇子)蘇我大臣(馬子)を召されて詔し・・・★
天皇は2人をよんで出兵の中断を命じました。
一応厩戸皇子も計画に参加してはいたようです。ここで厩戸皇子が出てくるので、1回目は馬子主導となります。
11年7月、当摩(たぎま)皇子を替わりの司令官に任命して3回目を試みますが、連れていった妻の舎人姫王が播磨の明石で薨じて、皇子は引き返し、征討は中止になりました。
2回目3回目は、初めからあまりやる気はないみたい。3回目なんか、総司令官の妻が死んだからというだけで戦争をやめてしまう。
筑紫に兵は集めましたが、海を渡っておりません。厩戸皇子の意向が反映されたのではないか。 -
中国側の記録では、西暦600年(推古8年)に遣隋使が倭国から来たことになっています。
ところが書紀にはこの記録がありません。隋の文帝に怒られて、すごすごと引き返した。つまり失敗したので、記録に残さなかった、という説が多数説のようです。
元ネタの中国側の記録を読んでみました。引用は「倭国伝」講談社学術文庫の現代語訳です。
★隋書(巻81・東夷)倭国、
隋の文帝の開皇20年(600年、推古天皇8年)、倭王で、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あほけみ)と号している者が、隋の都大興(たいこう、陝西省西安市)に使者を派遣してきた。文帝は担当の役人に倭国の風俗を尋ねさせた。使者はこう言った。
「倭王は天を兄とし、太陽を弟としている。夜がまだ明けないうちに、政殿に出て政治を行い、その間、あぐらをかいて座っている。太陽が出るとそこで政務を執ることをやめ、あとは自分の弟、太陽にまかせようという」
高祖文帝は、
「それははなはだ道理のないことだ」
と言って、倭国を諭してこれを改めさせた」★
これ、ものすごく変な記事です。
常識的に言って、そんなアホな政治システムはない。文帝じゃなくても、これはおかしいと思うのが当然。
「あほけみ」はないよね。「おおきみ」ですね。随の役人、難聴のようです。あるいは、外国語へのカンが鈍い。現代ですと、英語で用が足りるので外国語をやらないアメリカ人に多い。
「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)阿輩雞弥(あほけみ)」とは「あめの・たりしひこの・おおきみ」でしょう。「ひこ」だと男の天皇ですが、当時は女帝推古です。
「倭王は天を兄とし・・・」というのは、当時の日本の何を言っているのかわかりません。推古天皇が日の出前だけ執務して、太陽がでると誰かに政治を任せる、というのは聞いたことがないなあ。
つまりこの使者なる人物は、当時の日本の実情を全く知らない。
もっとおかしいのは、このあと、
★中央宮の位階に12等級がある。一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信といい、人員に定数はない。★
推古11年(603年)に施行した冠位十二階のことです。順番が少し違いますが、名称はぴったりあっています。ところが第1回遣隋使は600年に来たと隋書は書いています。
不思議ですね、3年後に施行される外国の冠位制度を知っている。
結論、隋書倭国伝にある第1回遣隋使の記事は、隋側の捏造、または誤解です。
推測ですが、この使者なる人物は、7年後の正規遣隋使の事前調査隊長ではないか。
難波津から瀬戸内海を縦断して、北九州から朝鮮沿岸経由で中国本土にいたるコースです。推古政府にとって、使節団を中国に送る初めての大事業です。それをぶっつけ本番でやるはずがない。常識で考えて、何度も調査隊を派遣したはずです。
鍵を握るのは、北九州から中国本土への航海です。第1次調査隊の使命は渡航ルートの確定。だれが考えても調査隊長は超ベテランの船乗りです。
彼は担当の役人に通訳なしで答えているようです。たぶん、北九州在住、帰化1世か2世の中国系渡来人ではないか。推古政府の事前調査担当者は、中国語ができる、航海経験が豊富、この2点に絞って人物を抜擢します。彼が当時の日本の政治システムに詳しいかどうか、この際どうでもいい。
この人物が、ルートを開拓して、隋の都に着いたら、すぐ帰るつもりだった。ところがあろうことか使者と誤解されて、なんと皇帝の役人に訳の分からない質問をされた。しかたがないので北九州に伝わる古い伝説を適当に話した。
海賊と誤解されないように、日本の調査隊であることを示す何らかの文書を持っていた可能性はあります。パスポートみたいなものでしょうが、書く方も読む方も前例がないので、誤解が生じた可能性はあるでしょう。
600年には存在しない冠位十二階がここに書かれているのは、その後も2次、3次調査隊は来て、彼らから聞いた最新情報を混ぜて書き込んだ。後続は単なる調査隊と分かっているので、大げさなことはしなかった。それなら第1次のやつを取り消せばいいようなものですが、皇帝の直接命令で担当の役人が調べた結果が正式記録に残ったので、取り消せなかった。事前調査のただの船長に聞いた話で間違いですとは、書けません。
過ちを正すのに臆する、隠蔽するのは、洋の古今東西を問わず、役人の習癖です。
隋書倭国伝が書かれたのは636年、36年後です。詳しいいきさつ、メモのようなものは残らなかった。「これは間違いなので、後日削除するように」とかいう後世の歴史家へのコメントは、たぶん、ない。
というより、これだけアホなことを書いておけば、後世の歴史家は無視するのではないかと、記録係は思った。ところが隋書東夷伝を編集した魏徴(ぎちょう)は、この件については、想定外のアホだった。あるいは、隋本体の歴史の叙述が精一杯で、辺境の倭国とのつきあいなど興味がないので、部下に適当にやらせた。案外あっているかも。
日本書紀に記録がない、当たり前です。600年に遣隋使など送っていないのです。
隋書の記事のアホな内容と、書紀に記載がないことを前提にすると、第1回遣隋使が600年に隋に来たという結論は、出ません。
後述しますが、日本書紀の607年第1回遣隋使の記録は驚くほど正確なのです。小野妹子が書信をなくした不思議な話も書いています。書紀は、遣隋使の一件は、特別リキをいれて書いています。なにかあれば、必ず記録したはずです。
年代的にいって、書紀の編集者は隋史倭国伝を見ている。「え~、こんなこと書いてある。アホらし。無視」 -
隋書がアホ記事を書いた原因のひとつは、ヤマト中央政府が送った使節以外に、勝手に中国に渡った日本人、あるいは日本に来た中国人がいたからです。商人でしょうね。
中国王朝の歴代史書は、前王朝の倭国伝をパクります。
「後漢書東夷列伝・倭」「三国志魏書倭人伝」「宋書夷蛮・倭国」「隋書東夷・倭国」も同じようなことが書いてある。新たに調べるのが面倒くさいのでしょう。
そのなかで、「隋書東夷・倭国」に前の史書にない記事があります。
隋書倭国伝の607年正規遣隋使の記事の少し前、
★阿蘇山という山がある。突然噴火し、その火が天にも届かんばかりとなる。★
阿蘇山の噴火は、なんちゃって使節が来たことになっている600年以前では、553年(欽明天皇14年)です。
(気象庁の「九州地方の活火山・阿蘇山」
気象庁|阿蘇山 有史以降の火山活動 (jma.go.jp))
「宋書夷蛮・倭国」の最後の記事は、順帝昇明2年(487年)倭王武(雄略天皇)の使節派遣です。それから113年間、2国間の正式交流はありません。
したがって、正規の使節から得た情報ではありません。
でも隋書は噴火を知っている。日本の情報は、民間交流によって中国に入っていたことが分かります。その中には「倭王は天を兄とし・・・」というような、ガセネタもあった。それを適当に混ぜ込んだ。 -
★崇峻5年冬12月8日、
皇后(額田部皇女、敏達天皇皇后)は豊浦宮において即位された★
豊浦宮は現在の向原寺とされております。 -
向原寺山門。
2020年11月、山門を入ってご住職の奥様に直接お話をうかがいました。 -
拝見したかったのは、お寺の境内で発掘された豊浦宮跡。
-
豊浦宮と豊浦寺が重なっているのですが、ここが豊浦寺講堂の隅になるそうです。 -
土とジャリを交互に衝き重ねる版築のあとが残っています。この上に豊浦寺は建設されました。
-
これが豊浦宮の基礎だそうです。
豊浦宮はここを西端として飛鳥川の方向に伸びていたようです。
推古天皇の宮です。
ここに厩戸皇子のオフィスはありました。
豊浦宮が推古帝の宮であったのは11年と短かった。
西は丘で行き止まり、東の飛鳥川まで130mくらいですから、東西が限定されます。南の甘樫丘まで120m、こっちも狭い。見るからに狭苦しいお宮だったのでしょう。
このころ続々と半島から文化人がやって来ております。
まだ第2回、3回の新羅征討戦の最中ですが、厩戸皇子としては、そんなことやっていられない。朝鮮半島諸国との戦争など、彼にとっては迷惑な話です。
★推古3年5月10日、
高麗の僧慧慈が帰化した。皇太子はそれを師とされた。★
★推古10年冬10月
百済の僧観勒(かんろく)がやって来た。そして歴の本・天文地理の本、それに遁甲方術(占星術と占い術)の本をたてまつった。★
★同年閏10月15日、
高麗の僧僧(そうりゅう)・雲聡(うんそう)が来朝し、帰化した。★ -
小墾田宮模型(飛鳥資料館。写真掲載許可取得すみ)
★推古11年(603年)冬10月4日、
天皇は小墾田宮に移られた。★
小墾田宮は今の雷の丘近くだそうです。
厩戸皇子はこのころから、4年後、推古15年(607年)の遣隋使計画を具体化し始めたのではないか。遣隋使を送る。隋からの返礼の使者が来る。それには豊浦宮はあまりにシャビ-だ。 -
大坂の四天王寺は、国立難波津外国語大学ではないか。
-
四天王寺。
難波津は飛鳥の外港ですから、朝鮮半島、あるいは中国本土からの外国人はまずここに入ります。外交使節団はもちろん、商人が主体でしょう。日本人商人の根拠地でもある。荒っぽくいえば、幕末明治の横浜みたいなものか。プラティックな中国語を学ぶにはいい場所です。そこに国立の外国語、つまり中国語を学ぶ大学を作った。とにかく何かを体系的に学ぶといったら、お寺しかない時代です。しかもテキストは経典しかありません。
★日本書紀継体天皇6年(513年)冬12月、
彼(物部大連鹿火)がまさに難波館に出向き、百済の使いに勅を伝えようという時・・・★
6世紀初頭に、難波津に難波館(なにわの・むつろみ)がありました。「日本書紀・日本古典文学大系」頭注によれば、
★難波館はここが初見で、ここで外国の使いを宿泊させた。★
★欽明22年(561年)、
難波の大郡(おおごおり、接待用庁舎か-現代語訳注))に、諸国の使者を案内する時、接待役の額田部連・葛城直らが、新羅を百済の後に置いたため、大舎(ださ、新羅の使者)は腹をたてて帰った。★
大郡は迎賓館のようなものです。敏達12年(584年)冬10月の記事では、難波に「小郡」という外国使節用宿泊施設もありました。
当時から外交での席次、プロトコール・オーダーは大事だったようです。
推古16年(608年)4月、小野妹子の第1回遣隋使が北九州に帰ってきました。
★推古16年(608年)夏4月続き、
大唐の使人裴世清と下客(しもべ)十二人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成(なにわの・きし・おなり)を遣わして、大唐の客(まろうど)裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館(こまのむろつみ)の近くに造った。★
難波津には高麗館があったのが分かりました。「こまのむろつみ」と読みます。日本にやってくる高麗人の宿、色々便宜を図る役目を持っていた。運営していたのが高麗人ならば近代の領事館、日本人ならば名誉領事館に相当します。
高麗館があれば、新羅のむろつみ、百済のむろつみ、もあったのではないか。中国館いや、隋のむろつみがあってもおかしくない。
後年の記録ですが、
★舒明2年(630年)冬10月12日、
この年改めて難波の大郡と三韓(みつのからひと)の館を修理した。★
大郡は迎賓館。三韓館も同様でしょう。名前からして、朝鮮諸国に特化した外国人宿泊施設です。「改めて」というので、以前からあった施設ということです。
難波津は当時とてもインターナショナルな都市で、プラティックな外国語を学ぶには最適の場所でした。
厩戸皇子がここに四天王寺、国立難波津外国語大学を作ったのは、当たり前です。 -
ビルが写っちゃって、古代ぽいアングルを探すのに苦労しました。
-
しかし、四天王寺は、もしかするとこんなモノだったかもしれません。高層ビルはともかく、周囲には高麗館だの大郡だのが群がっていて、エキゾチックで賑やかだったかもしれない。
-
厩戸皇子は、推古9年(601年)には斑鳩宮の建設に取りかかりました。
厩戸皇子の宮殿は現在の法隆寺東院伽藍、創建法隆寺は若草伽藍にあったといわれております。
大坂の四天王寺が国立難波津外国語大学だとすると、創建法隆寺はいってみれば国立斑鳩大学、フェデリーコ2世のナポリ大学に相当するのではないかと思っています。 -
法隆寺パンフレットより。
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青空の写真は2020年11月、曇り空は6月です。
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南大門方向。
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東大門方向。
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この土塀の中に、四天王寺形式伽藍配置の創建法隆寺があったとされています。
★推古13年夏4月1日、
冬10月、皇太子は斑鳩宮に移られた。★
斑鳩宮と創建法隆寺は同時に建設されたと考えられるそうです。厩戸皇子31才です。
★推古11年(603年)12月5日、
はじめて冠位を施行した。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、全部で十二階である。★
★推古12年(604年)春1月1日、
はじめて冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。★
冠位十二階はただちに施行されました。
実行者は書かれていません。しかし厩戸皇子であることは確実です。伝統的な豪族に独占されていた政府要職を、有能で位を授けた有能な人物に開放するシステムですから、馬子などの古い制度の連中が喜ぶはずがない。
★推古12年(604年)夏4月3日、
皇太子ははじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。★
この憲法は、これから厩戸皇子が創設しようとしていた法体系の前文、いわば哲学を述べたものでした。具体的な法体系が作られなければ意味がありません。後年の律令制度の嚆矢となるものでしょう。
律令制度がなんとか形になるのは天武天皇の689年飛鳥浄御原令。完成するのは701年の大宝律令です。大宝律令の内容が厩戸皇子が考えていたものであったか、分かりません。しかし成文法をもって国を統治しようとした、いわゆる法治主義が厩戸皇子の頭にあったことは間違いない。
ここで思い出すのはフェデリーコ2世です。13世紀のイタリアに、法治主義による国家運営という、とんでもない理想を掲げました。700年ほど早すぎた。現代でも、法律など名ばかり、人治主義横行する独裁国家は多い。
法律による国家運営となると、それを実行するには優秀な官僚がたくさん必要です。その養成のために彼が設立したのが、ナポリ大学です。現在のナポリ大学そのものです。この大学の正式名称は、フェデリ-コ2世・ナポリ大学(Università degli Studi di Napoli Federico II)
このあたりに興味のある方は塩野七生の「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」をお読みください。 -
マスク姿の怪しい女の背後、土塀のむこうが若草伽藍、創建法隆寺があったところです。今は塔の心礎だけが残る原っぱのようです。公開されておりません。
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写真を撮っている怪しいデブの右が若草伽藍あと。正面が西院伽藍。
★天智9年(670年)夏4月30日、
暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。★
これは、創建法隆寺が焼失したことを物語っています。 -
西院伽藍は7世紀末~8世紀初めに建立されたそうです。厩戸皇子はこの伽藍を見ておりません。
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創建法隆寺は、厩戸皇子が考えた法体系をつくるための専門家、彼の政策を実施するための行政官を養成する大学ではなかったのか。
推古元年に摂政となって国政を担当して、彼が愕然としたのは、どうにもならない当時の教育レベルの低さだったでしょう。
★推古12年(604年)夏4月3日、
皇太子ははじめて自ら作られた十七条憲法を発表された。★
「自ら」というのが、厩戸皇子の絶望感を表している。
「マジかよ、これ全部オレが書いたんだよ・・・基本アイデアをだしたら、ふくらまして書いてくれるやつなんて、いなかった!」
彼自身は天才でしたから、中国語も難なくできるようになった。仏典も理解した。
渡来系の氏族も多かったので、実用中国語は何とかなったでしょうが、専門知識を必要とする仏典や中国の法律体系などはちんぷんかんぷん。
朝鮮半島諸国から専門家を招聘した。彼らは中国語による専門知識は豊富でしょう。ところがこんどは彼らが日本語を理解できない。
この時代、中国語の仏典の抽象概念など、高度な思考体系を記述できる日本語がまだ成立していなかったのです。つまり中国語で書かれた文献を日本語に翻訳できない。
ということは、専門書は中国語の文献を中国語で読むしか方法はないわけです。
とりあえず中国語のエキスパートを養成しよう。テキストは、まともなのは仏典しかないね、それならお寺をつくればいい。
というわけで、斑鳩大学と難波津外大を中心にして、中国語と隋と唐の文化の専門家を養成した、たぶん、当たらずとも遠からず。
彼らがねずみ算式に生徒を増やしていった結果が、689年の飛鳥浄御原令、701年の大宝律令、それを施行した律令国家ということではないか。
そもそも、漢文を自由に書ける専門家がいなければ、720年に日本書紀そのものができません。その基礎になる漢文文献資料も残らなかったのです。
万葉仮名でなんとかならないかって? 古事記を原文でちょっと見て下さい。私はちょっとでやめました。万葉仮名の読み書きは、そもそも漢文ができて、1000弱の漢字を知っているのが前提です。そこまでできる人なら、地名人名以外、初めから漢文で書いた方が速いし正確。
★書紀天武2年(673年)5月1日、
公卿大夫及び諸臣・連・伴造らに詔して「はじめて宮仕えする者は、まず大舎人(おおとねり、宮中で雑務に任ずる役人)として仕え、その上で才能を考え適職に当たらせよ。
また婦女は夫の有無及び長幼を問うことなく、宮仕えしたいと望む者を受け入れよ。その選考は一般男子役人の例に準ずる」とされた。★
性別既婚未婚年齢不問、やる気のあるヤツを採れ。飛鳥時代は現代の日本より進んでいます。
律令国家建設、運営には膨大な官僚機構が必要です。文字の読み書きができて、当たり前のことを当たり前にできる人材がいくらでも必要だった。このころ、670年代には、それに応える人材がいたということです。女にも人材がいたということです。
女にも教育の機会があった。7世紀末ですよ、これ、世界的に見てもすごいことじゃないかと思います。
平城京では7000人が役所で働いていたそうです。奈良時代、高級貴族となる5位以上は、時期によりますが、91人から280人。このうち地方の国司などで都にいない貴族もいます。
「奈良朝貴族の人数変化について」(持田泰彦、PDF、1978年、P28)
つまり7000人のほとんどは6位以下の下級役人と現場スタッフ。この人たちは、レベルは別として、とにかく文字が読めないと仕事にならないわけです。 -
平城宮資料館より。
お役人。左が一番下っ端のようです。こういう人たちがほとんど。でも筆を持っています。字の読み書きができるのです。 -
平城宮資料館より。
机と椅子は古代資料からの復元。
平城宮勤務風景再現ビデオ。左が課長か係長かな。立っているのは木簡係。小刀で木簡を削るので腕に何か巻いている。どうやら間違えて「やり直し!」と言われたみたい。奥のもう一人は筆で紙に何か書いている。木簡以外、現代の勤務風景と変わりません。
文字が書けるのは当たり前。 -
「これ、課長にもっていってね」
「はい。(まあ、きれいな字、すてき❤)」
書類を受け取っているのは、女性職員です。大舎人採用初日かな。 -
大舎人「ほにゃらの舎人様の書類です」
課長「まあ、いいんじゃないの」
★推古13年(605年)冬10月、
皇太子は斑鳩宮に移られた。★
創建法隆寺完成も同時といわれております。国立斑鳩大学の開校です。
厩戸皇子の文教政策は、100年もたたないうちに実を結んだことになります。 -
★推古14年秋7月、
天皇は皇太子を招き、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。三日間かかって説き終えられた。この年皇太子はまた法華経を岡本宮で講じられた。天皇はたいへん喜んで、播磨国の水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺(法隆寺)に納められた。★
さらっと書いていますが、実はこれ、大変なことじゃないでしょうか。
前述のとおり、この時代、お経のような抽象的な内容を表記できる日本語はないのです。万葉仮名は7世紀には成立してはいたようです。でもあれで小難しい内容が書けるかな。たとえば、吉本隆明の文章を、源氏物語の用語と文体で書けと言われたら、たぶん吉本さんも困ると思う。
なんでここで吉本隆明か。私が学生の頃、「それについて、隆明が言うにはだなあ・・・」とかやるのが、学生の学生たる所以でした。なるほどそんなものかと私も読んでみましたが、何度トライしても10ページが限度。それ以降抽象的で難しい本の代名詞が吉本隆明なのです。
推古天皇は、中国語ができたか。読み書きはできたかもしれませんが、オーラルは絶対にできない。
厩戸皇子は原典、つまり中国語で勝鬘経を読み上げて、中国語で推古天皇に説明したわけではないのです。彼の頭の中で当時の日本語に翻訳して、それを説明したはず。
厩戸皇子、つまり聖徳太子が書いたという解説書「勝鬘経義疏」が岩波文庫にあります。本文159ページです。これをそのまま厩戸皇子が推古天皇に講義したとして、普通3日間はかからないでしょう。
彼も相当苦労している。
勝鬘経の訓み下し文、現代語訳がネットにありました。そのほんの一部。
★世尊、我れ今日より乃ちに至るまで、所受の戒に於いて犯心を起さじ。★
★世尊よ、今日より菩提に至るまで、言動を律することはもとより、受戒に反する心すら起さぬことを誓いましょう。★
(東洋西洋の古典書籍)
勝鬘経 - 十大受章[1] - 勝鬘夫人 (rr-livelife.net)
これを漢語無し、和語だけで説明したということです。つまり全部ひらがなみたいな感じ。
手元に原稿はありません。書き表せる日本語がないのです。
「なんで書けねーんだよ、クソッタレ」と皇子は当時の日本語を罵った。「クソッタレ」に該当する優雅な大和言葉を知りませんので、悪しからず。
厩戸皇子「世尊、じゃなかった、お釈迦様、私は今から菩提に行くまで・・・」
推古天皇「ボダイって、なあに?」
厩戸皇子「いや、その、なんと言うか・・・」
多分、こんな感じじゃないかと。
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この旅行記へのコメント (8)
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- kummingさん 2021/07/03 11:03:13
- 新説『厩戸王子、多分こうだったんじゃ?』劇場
- 毎回、「歴史を新たな視点からキリトる」しにあさん説には脱帽しております。参考、参照される文献の多さもさることながら、今回のネット上で見つけられたという、伝暦、情報量に圧倒されました(←チラッと眺めただけ)。一言で、「重箱の隅つつき」というにはスゴ過ぎる、熱量を感じます。
このブログ内の情報量について行くのもやっと、なので、感想を書く覚悟が求められるところ、心に残った印象的な事に限って、カキコしますm(_ _)m
推古天皇は「能あるタカは爪隠す」タイプで、1000年に1人の天才『厩戸皇子』のただならぬ偉才ぶりを認め、お手並み拝見、丸投げしたのかも?推古天皇は為政者の必須条件、才を見つけ適材適所に配す、という能力を発揮、更に頃合いを見て、「全体を俯瞰し、隅々まで目を行き届かせる」トップの仕事もお任せしちゃいました。そんじょそこらの「うっふん」戦法とは似て非なる深謀遠慮!
新説『東院伽藍、創建法隆寺は国立斑鳩大学』←FDll創建ナポリ大学、しかと受け止めました♪ 法治国家運営に必要な優秀な官僚育成所、厩戸皇子にも「僕が考えたアイデア膨らませて成文化してくれるヤツ」は必要だったはずです。
ここで謎なのが、日本語に相当する表現がなくて、中国語を読んで理解して日本語オーラルで説明する、ってどういう事??最後に示された例、で分かったことにします♪
私は、塩野さんご推挙、贔屓、オススメの歴史上の男子、に大体ハマる洗脳され易いタイプです。この先、しにあさん著述『新説厩戸皇子、多分こうだったんじゃないかな~劇場』が、ゴルゴ30劇画風タッチか、はたまた山岸涼子描く、艶っぽいなまめかしいテイストにアレンジされるのか? それによっては、厩戸皇子が憑依するかもしれません!?
いつか現地ナポリ大学正面の「Universita degli Studi Napoli Federico ll」を拝むその日まで、死ねません^o^
- しにあの旅人さん からの返信 2021/07/03 21:01:48
- Re: 新説『厩戸王子、多分こうだったんじゃ?』劇場
- 大きな声では言えませんが、伝暦の作者は、推古天皇は厩戸皇子に恋していたのではないかと、思える書き方をしています。次回、しっとりとご紹介します。
「多分こうだったんじゃないか劇場」続きます。
引用した現代語訳は意訳が多く、このあたりがぼんやりしています。
斑鳩寺ナポリ大学説は、いい思いつきだと自分でも思っています。実証する能力ないのが悲しい。でもこの時期、どこかで誰かが大量の人材養成をやっていたのは間違いない。じゃないと日本書紀ができません。
難波津に近代の迎賓館、領事館か名誉領事館に相当するものがあったと、書紀が書いているわけで、6世紀、7世紀の日本というのは、想像以上に国際的な時代ではなかったのかと思います。
塩野本でもナポリ大学の話はグッとくるところですよね。
ナポリ大学、是非いらしてください。私たちが行った時は、復活祭の休みで大学は閉まっていました。中には入れず、外から見ただけ。kumming節でたっぷりとレポートしてくださいね。パレルモもよろしく。キリストの受難劇のパレードなどというものやっていました。例によって目的外の写真は撮らない原則で、記録なし。損した。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/07/05 06:32:33
- Re: 新説『厩戸王子、多分こうだったんじゃ?』劇場
- 「理学療法士さんと1時間おしゃべり」
理学療法士さんの治療は、私の場合1回15分でした。
楽しい、治療でしたね。
今のところ、薬が効いています。
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- 前日光さん 2021/07/03 07:49:23
- 聖徳太子の孤軍奮闘ぶりが伝わってきます(^^;)
- こんばんは。
一人だけ他に抜きんでているって、孤独なものですね!
千年に一人の天才聖徳太子、中国語ができない馬子といっしょに政治を執るって大変だったことでしょうね。
そうでした。
当時日本語の表記もままならなかった!
万葉仮名も、漢字が分からなければ書けないし読めない。
では大学を造って学んでもらおう。
それにしても、時間が足りない。
「ボダイ」の説明を推古天皇に?
いやはや、太子はさぞ歯痒かったことでしょうね。
しかもby妻さん説によれば、
「現代でも、男の人って、一人で黙々と自分の任務を果たす女より、
いやん、わたしぃ、こんなのできなーい。クスン。
なんて、くねくね言ってる女の方が好き」だと私も思うので、
「ウッフンと言って、男が動くのなら、そりゃあ、ウッフン言っちゃいますわな」
と推古さんが思っていたとすれば、太子は推古さんのしたたかさを見抜いていたのでしょうか?
太子のことですから、その辺は分かっていたでしょうね。
「なにも、甥の私にまでボダイの説明をさせないでくれ」
と思ったかも( ・∀・)
でもこんな賢い天才の甥がいたら、叔母として舞い上がっちゃいますよ。
そして甥なるが故に「油断大敵でせぇ」(「津軽」のタケ風に(^_-))と緊張を強いられていたりして。
でも旅行記の最後を拝読するに、ここはby夫さんの考えでしょうが、太子が一人苦労していたという解釈ですね。
こういう太子を想像するのも楽しいですが。
とにかくこの時代、日本語の表記に苦労したであろうことは想像できます。
あまり具体的に考えたことはありませんでしたが、「十七条憲法」だって発表するまで大変だったことでしょうね。
法隆寺で、いつだったか瓦を寄進したら「十七条憲法」の写しをいただいたことがあります(なにげに疑問も持たずいただいた!)どこかにしまいこんであるのを取りだして、太子の苦労をしのんでみようと思いました。
紫式部さんのことも思うところが多々ありますが、またの機会にします。
前日光
↑
以上のコメントを昨夜送ろうとしたら、非ログインの状態になってしまい送れませんでした(T_T)
コピーを取っておいたので、今から送ります(^^;)
- しにあの旅人さん からの返信 2021/07/03 14:09:51
- Re: 聖徳太子の孤軍奮闘ぶりが伝わってきます(^^;)
- いつまで経っても四十肩、やっちゃたようです。今度は右肩。お医者にいって来ました。レントゲンで骨に異常ないので、四十肩でよろしいだろうとのことです。薬もらって2週間様子みます。
この時代、情報を伝達するのに苦労したでしょうね。創建法隆寺なんか、材木をこの長さに切れとか、全部親方が口頭でやったのかな。
お経だって、お坊さんが「はんにゃーはらみつだー」ってやっても、天皇以下ほとんどの人がわかるはずがない。わかりやすく当時の口語で説明したはず。その口語を書けなかったというのが問題。
相当はしょるか、逆にくどくどと長くなるか。
厩戸皇子は真面目だから、くどくど聞く方が理解するまでやったのではないか。だから3日かかったのでしょう。
あ、前日光さんは、学校の先生だ。このあたり、ご経験あるでしょう!
当たり前のことを説明しろと言ってくる推古さんみたいな生徒、いませんでしたか?
少女コミックの聖徳太子、アマゾンの表紙だと、なんというか、色っぽいというか、怪しいというか。日本書紀だけだとこういうイメージにはならないはずで、作者のお二人は、伝暦を読んでいるのではないかと想像しています。
あと1回、なんとか締めくくろうと苦労しています。
By妻の妄(猛)想像力全開です。何が出てくるか、出てくるまで私も知りません。
藤原兼輔が紫式部のひぃじいさんさんだとは、知りませんでした。
- kummingさん からの返信 2021/07/04 11:14:10
- 私も!!
- 前日光さん、私も法隆寺で1000円の瓦買って家族全員でサインして、「十二箇条の憲法」写し、頂きました♪
私も何度も送ったカキコが消えた(TT)ので、今はコピペ保存しています(←しにあさん直伝の技)
私も数年前に右肩痛、治ったら去年から左肩痛、週一でリハビリに通って理学療法士さんと1時間おしゃべり♪
横レスで「私も」3連発、失礼いたしましたm(._.)m
- 前日光さん からの返信 2021/07/04 16:11:23
- 似たような経験を!
- kummingさん、こんにちは。
kummingさんも法隆寺で、思わず瓦買っちゃったのね!
なんか、聖徳太子の!って思ったら、つい寄進したくなって。。(^^;)
私はしにあさんが主張されるような逞しい聖徳太子を、どうしても連想できず、あくまでも山岸様の、あの妖しい太子像のままなのですが。
そもそも肺病病みの弱っちい腺病質タイプ(たぶんに堀辰雄、立原道造、芥川龍之介の影響あり)が好みなので。
カキコが消えたときの、あの喪失感って。。。
いったい何だったんだ、これを書いた時間を返せ!とパソコンに八つ当たりしても覆水盆に返らずで。。。
今回はコピペ保存しておいて、本当に良かったです(×_×)
さて「四十肩」?
(って、いくつになっても四十肩でいいのでしょうか?
私は十年以上前に、まだ現役の時、左肩をヤラレました。
そして、今年のGWに、孫が遊びに来ていたというのに、今度は右肩でした。
これはさほど長引かず、案外簡単に治りましたが、やっぱり油断大敵だと思いました。
横レス、ありがとうございましたm(_ _)m
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/07/05 06:27:21
- Re: 聖徳太子の孤軍奮闘ぶりが伝わってきます(^^;)
- かかりつけのクリニックでは、院長の娘さんらしい、若い美人のお医者さんでした。「痛みの原因は、ご自分ではなんだと思いますか?」と聞かれて、「?」でした。
「四十肩だと思います」
レントゲンの結果、そんなもんだろうということで、薬をもらいましたが、痛みがだいぶ和らぎました。
頼りないお医者でしたが、薬が効いているので、まあ、いいか。かわゆいお医者だったし。
法隆寺に行ったら、私たちも瓦を寄進してきます。
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