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日本書紀によれば、厩戸皇子は用明天皇の池辺双槻(いけのへの・なみつきの)宮で生まれ、宮殿の南の上宮(かみつみや)で少年期を過ごしました。<br />その後しばらく音沙汰なく、次に登場するのは<br />★用明2年(587年)秋7月、<br />蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣とに勧めて物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子(中略、皇子計5人、群臣5人)らが、一緒になって軍勢を率い、大連を討った。★<br />厩戸皇子13才または14才です。<br />現代では青春というには幼いですが、当時ではそろそろ大人の仲間です。<br />仏教伝来にともなう宗教戦争、丁未(ていび)の乱の勃発です。排仏派の物部守屋の本拠地河内国へ、崇仏派の蘇我馬子率いる連合軍が攻め込んだのでした。厩戸皇子は馬子連合軍に加わりました。<br />書紀の書き方、年齢からいって、最初はその他大勢の一人という感じです。<br />でもこの事件は厩戸皇子の青春を彩る一大イベント、現大阪府八尾のあたりの古戦場をたどります。<br /><br />六国史および参考書については、「六国史の旅 厩戸皇子1」をご覧下さい。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。<br />

六国史の旅 厩戸皇子2 八尾-青春

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2020/12/20 - 2020/12/20

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旅行記グループ 六国史の旅 厩戸皇子

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

日本書紀によれば、厩戸皇子は用明天皇の池辺双槻(いけのへの・なみつきの)宮で生まれ、宮殿の南の上宮(かみつみや)で少年期を過ごしました。
その後しばらく音沙汰なく、次に登場するのは
★用明2年(587年)秋7月、
蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣とに勧めて物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子(中略、皇子計5人、群臣5人)らが、一緒になって軍勢を率い、大連を討った。★
厩戸皇子13才または14才です。
現代では青春というには幼いですが、当時ではそろそろ大人の仲間です。
仏教伝来にともなう宗教戦争、丁未(ていび)の乱の勃発です。排仏派の物部守屋の本拠地河内国へ、崇仏派の蘇我馬子率いる連合軍が攻め込んだのでした。厩戸皇子は馬子連合軍に加わりました。
書紀の書き方、年齢からいって、最初はその他大勢の一人という感じです。
でもこの事件は厩戸皇子の青春を彩る一大イベント、現大阪府八尾のあたりの古戦場をたどります。

六国史および参考書については、「六国史の旅 厩戸皇子1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 跡部神社本殿。<br /><br />★用明2年(587年)秋7月続き、<br />(馬子・諸皇子・群臣連合軍は)志気郡から守屋の渋河の家に至った。★<br />「八尾市観光データベース」によれば、渋河とは現在の跡部神社を中心とする一帯だそうです。<br />

    跡部神社本殿。

    ★用明2年(587年)秋7月続き、
    (馬子・諸皇子・群臣連合軍は)志気郡から守屋の渋河の家に至った。★
    「八尾市観光データベース」によれば、渋河とは現在の跡部神社を中心とする一帯だそうです。

  • 式内社です。

    式内社です。

  • 道路から直接境内に車で入れます。車止めはありませんでした。

    道路から直接境内に車で入れます。車止めはありませんでした。

  • つめれば、車10台くらいは停められます。

    つめれば、車10台くらいは停められます。

  • 私たちは大坂をほとんど知りません。跡部神社がある八尾市がどこにあるか、見当もつきませんでした。私たちみたいな土地勘なしむけに、地図を貼っておきます。目印は大阪城。

    私たちは大坂をほとんど知りません。跡部神社がある八尾市がどこにあるか、見当もつきませんでした。私たちみたいな土地勘なしむけに、地図を貼っておきます。目印は大阪城。

  • これは渋河古戦場周辺。跡部神社から主戦場とされる大聖将軍寺まで直線約970mです。<br />地形は真っ平ら、現在はびっしりと人家、ビルが建ち並んでいます。<br />

    これは渋河古戦場周辺。跡部神社から主戦場とされる大聖将軍寺まで直線約970mです。
    地形は真っ平ら、現在はびっしりと人家、ビルが建ち並んでいます。

  • 大聖勝軍寺山門。

    大聖勝軍寺山門。

  • 開基は聖徳太子とされています。本尊は聖徳太子。<br />聖徳太子が建立したとされる、叡福寺、野中寺とならぶ三寺のひとつだそうです。<br />

    開基は聖徳太子とされています。本尊は聖徳太子。
    聖徳太子が建立したとされる、叡福寺、野中寺とならぶ三寺のひとつだそうです。

  • 「聖徳太子古戦場」とありますが、ここが実際に古戦場であったか、学問的には確証がないそうです。<br />いずれにしてもこの辺りで、丁未の乱が戦われたのでありましょう。<br />

    「聖徳太子古戦場」とありますが、ここが実際に古戦場であったか、学問的には確証がないそうです。
    いずれにしてもこの辺りで、丁未の乱が戦われたのでありましょう。

  • 本堂。

    本堂。

  • 地蔵堂。

    地蔵堂。

  • 地蔵堂の周囲に並んでいたかわいいお地蔵さん。

    地蔵堂の周囲に並んでいたかわいいお地蔵さん。

  • 山門の前に車が10台くらい止められます。ここから歩き始めました。<br /><br />一書に曰く、<br />八尾にやってきました。<br />まず、大聖勝軍寺から。<br />聖徳太子様については、あんまり可愛がってもらえなかった小学校の担任の先生といった印象を抱いております。<br />なぜって、他所にはよく家庭訪問してるのにうちには、さっぱりで。<br />可愛がってくれないなら、いいやって、すねてます。<br />大聖勝軍寺って、どこで息継ぎするのよ。大、聖勝軍寺か、大聖、勝軍寺なのか、はたまた、、、なんて八つ当たり。<br />結果、いいお寺でした。地元民に愛されているのでしょう。お地蔵さんなんか、本当に大坂のおばちゃんの情愛です。しみます。<br />大聖勝軍寺は、わたくしの結論としましては、一気に言う。<br />まず息を整えて、深ーく息を吸って、いっきに言う。<br /><br />平日の昼間に行きましたので、道をうろつく人は皆無。自動車は、横断できないほどビュンビュン走っておりました。<br />わがアズマの国では、好きなときに好きなように道を横切っていいのですよ。歩行者優先。車はめったに来ないしね。来たって、渡るぞ。と強い意志を表明すると、たいていは止まります。<br />運転する側だって、きつね、たぬき、猫くらいまでは轢いてもブタは轢きたくないのかもですが。<br />ということで、アズマエビスは、道を渡るところから不愉快でした。<br />が、が、そこで発見してしまいました。大理石御殿。<br />私、一挙に上機嫌。<br />そんなにものすごく大きいっていうわけではありませんが、近所のお家と比較すると大きいです。<br />この御殿、なかなかの策士。普通のお家って感じを装っております。<br />しかし、ただものではありません。<br />庶民的町並みのここ八尾に、洋風、宝塚風の建物でっせ。<br />じろじろ見回しておりましたら、結構控えめの表札。<br />天童よしみ音楽事務所だって。<br />「東京に負けたらあかん」と歌って、これ建てたのですね。<br />八尾なら今東光ですねえ。ところで。こつまなんきんって、なによ?無理矢理話題を変えて、弓代塚に向かいます。<br />歩行者はいません。<br />なんやのん、このいっそがしいのに、昼間っからウロウロしてからに。<br />という感じ?はいはい、こちらサンデー毎日ですわ。デイリーバカンスでもいいけど。<br />By妻<br />

    山門の前に車が10台くらい止められます。ここから歩き始めました。

    一書に曰く、
    八尾にやってきました。
    まず、大聖勝軍寺から。
    聖徳太子様については、あんまり可愛がってもらえなかった小学校の担任の先生といった印象を抱いております。
    なぜって、他所にはよく家庭訪問してるのにうちには、さっぱりで。
    可愛がってくれないなら、いいやって、すねてます。
    大聖勝軍寺って、どこで息継ぎするのよ。大、聖勝軍寺か、大聖、勝軍寺なのか、はたまた、、、なんて八つ当たり。
    結果、いいお寺でした。地元民に愛されているのでしょう。お地蔵さんなんか、本当に大坂のおばちゃんの情愛です。しみます。
    大聖勝軍寺は、わたくしの結論としましては、一気に言う。
    まず息を整えて、深ーく息を吸って、いっきに言う。

    平日の昼間に行きましたので、道をうろつく人は皆無。自動車は、横断できないほどビュンビュン走っておりました。
    わがアズマの国では、好きなときに好きなように道を横切っていいのですよ。歩行者優先。車はめったに来ないしね。来たって、渡るぞ。と強い意志を表明すると、たいていは止まります。
    運転する側だって、きつね、たぬき、猫くらいまでは轢いてもブタは轢きたくないのかもですが。
    ということで、アズマエビスは、道を渡るところから不愉快でした。
    が、が、そこで発見してしまいました。大理石御殿。
    私、一挙に上機嫌。
    そんなにものすごく大きいっていうわけではありませんが、近所のお家と比較すると大きいです。
    この御殿、なかなかの策士。普通のお家って感じを装っております。
    しかし、ただものではありません。
    庶民的町並みのここ八尾に、洋風、宝塚風の建物でっせ。
    じろじろ見回しておりましたら、結構控えめの表札。
    天童よしみ音楽事務所だって。
    「東京に負けたらあかん」と歌って、これ建てたのですね。
    八尾なら今東光ですねえ。ところで。こつまなんきんって、なによ?無理矢理話題を変えて、弓代塚に向かいます。
    歩行者はいません。
    なんやのん、このいっそがしいのに、昼間っからウロウロしてからに。
    という感じ?はいはい、こちらサンデー毎日ですわ。デイリーバカンスでもいいけど。
    By妻

  • 馬子・諸皇子・群臣連合軍は守屋の本拠に迫りました。<br />ところが、<br />★用明2年(587年)秋7月続き、<br />(物部守屋)大連は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲を積んだとりでを築いて戦った。大連は衣掏の地の榎の木股に登って、上から眺め射かけることは雨のようであった。その軍は勢いが盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなして三度退却した。★<br />連合軍といえばカッコいいですが、烏合の衆ともいう。守屋1人に射すくめられて、三度も逃げ帰るだらしなさ。「皇子たちと群臣の軍は弱くて」と馬鹿にされております。<br />稲を積んだとりで、とは何ですかね。書紀原文でも「稲城」です。家の周りに稲を積んで敵の矢を防ぐ、と辞書にありますが、そんな物、火矢を射かけられたら一発で燃え上がる。<br />★続き<br />このとき厩戸皇子は、瓠形(ひさごがた)の結髮をして、軍の後ろに従っていた。★<br />軍の後ろに従っていた、というのが正直でいいと思いませんか。書紀は厩戸皇子をなにがなんでも聖人にするといわれますが、こんなところに注目するとそうでもない。渋河への進軍でもone of themでした。<br />瓠形、ひょうたんの形の髪型? 耳の下で、髪をくるっと巻いている、あれですかね。<br />★続き、<br />なんとなく感じて、「もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願いをかけないと叶わないだろう」と言われた。★<br />軍のうしろにしたがったまま言っております。前線にしゃしゃり出てきてはおりません。<br />「なんとなく感じて・・・」たよりないなあ。<br />★続き、<br />そこで白膠木(ぬりで)を切りとって、急いで四天王の像(みかた)を作り、束髪の上にのせ、誓いを立てていわれるのに、「今もし自分を敵に勝たせてくださったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」といわれた。★<br />私が書紀の作者で、厩戸皇子をヒーローに仕立て上げるなら、敵前に立ちはだかって大音声で誓ったと書きます。<br />厩戸皇子が丁未の乱にでてくるのはこれが最後です。<br />書紀は丁未の乱に関しては、厩戸皇子をそれほど神格化しているとは思えません。やったことは、平たくいえば、頭のうえに木切れを載っけただけです。<br /><br />ここで「厩戸皇子1」で引用した「聖徳太子伝暦」再登場。<br />平安時代初期10世紀初めに編纂され、聖徳太子の神格化の源流になったと言われる文書です。<br />「Taiju’s Netebook」の伝暦の漢文原文の訓み下し文は正確ですが、読みにくい。できるかぎり「人文科学研究録」の現代語訳を使いますが、これは全訳ではなく、一部訳または意訳です。大意が同じであれば現代語訳、それ以外は訓み下し文を引用します。<br />リンクを張っておきます。<br />聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju&#39;s Notebook (biglobe.ne.jp)<br />聖徳太子伝暦 2/2 _Taiju&#39;s Notebook (biglobe.ne.jp)<br />聖徳太子とは?(伝説上の人物像)-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)<br /><br />現代語訳該当部分です。<br />★しかし、物部大連の率いる軍は強く、三度攻めたが倒すことはできなかった。<br />その際、蘇我軍の後方に居た太子は、秦河勝に命じて白膠の木を持って来させ、四天王像を刻み作った。<br />そして、その像を頭上に掲げ「軍を勝利に導いてくれるなら、必ず四天王を奉る為の寺塔を起こそう」と誓った。<br />(中略)<br />一方、物部大連は、榎の木に登って神祇に誓いを立て、物部の府都の「大明神之矢」を蘇我軍に向けて放った。<br />すると、太子の着ていた鎧に命中した。<br />太子は舎人の迹見赤檮に「四天王之矢」を放たせると物部大連の胸に命中し、彼の動きを止めた。<br />その途端、物部軍は動揺し始めて統制を失ったため、秦河勝が隙を付いて物部大連の首を斬った(以下略)。★<br />内容は、大体書紀と同じです。秦河勝は書紀のこの場面に出てきませんが、あちこちで守屋を討ち取ったのは秦河勝だといわれております。出典は伝暦のようです。<br />守屋の矢が太子の鎧に命中したとあり、太子が勇敢にも前線にいたと言いたいらしい。しかしこれ以外、特に太子を神格化するような記述はありません。<br />伝暦は、ここでは、それほど飛躍しないようです。<br /><br />ところが、ある部分では書紀の内容をパクった上、強引に太子を登場させます。<br />★書紀用明2年(587年)夏4月2日、<br />この日天皇は病気にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍り、天皇は群臣にいわれた。「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい。と。群臣は参内して相談した。物部守屋大連は、勅命の会議に反対して、「どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体このようなことは今まで聞いたことがない」といった。蘇我の馬子大臣は、「詔に従って協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」といった。穴穂部皇子は豊国法師をつれて、内裏にはいられた。物部守屋大連は、これを睨んで大いに怒った。★<br />これが伝暦だと、<br />★用明天皇は、群臣に「仏教に帰依しようと思うので、協議せよ」と命じた。<br />物部大連・中臣勝海は異国の神を祀るべきではないとして、これに反対した。<br />一方、蘇我馬子大臣は賛成し、皇居の裏に豊國法師を呼んで、そこに入れた。<br />それを見た太子は大いに悦び、大臣の手を取って涙を流して言った。<br />「三宝の妙理を識別できる人は少ない、妄想に因る異説を唱え、邪険にしてわだかまりを作り出す」云々。<br />そう言って、天皇の帰依に賛成した蘇我馬子大臣を讃えた。<br />しかし、物部大連・中臣勝海は馬子大臣の判断に大いに怒り、それを怨んだ。<br />太子は、二臣にかつて託した忠告(因果の理)の意味が理解されていないことを知り、大いに悲しんだ。★<br />書紀にはない太子が颯爽と参加しております。<br />このとき伝暦によれば太子16歳。生年を574年とすると13~14歳です。<br />早熟というか、天才というか、いずれにしても神格化のはじまりです。<br />

    馬子・諸皇子・群臣連合軍は守屋の本拠に迫りました。
    ところが、
    ★用明2年(587年)秋7月続き、
    (物部守屋)大連は自ら子弟と奴の兵士たちを率いて、稲を積んだとりでを築いて戦った。大連は衣掏の地の榎の木股に登って、上から眺め射かけることは雨のようであった。その軍は勢いが盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなして三度退却した。★
    連合軍といえばカッコいいですが、烏合の衆ともいう。守屋1人に射すくめられて、三度も逃げ帰るだらしなさ。「皇子たちと群臣の軍は弱くて」と馬鹿にされております。
    稲を積んだとりで、とは何ですかね。書紀原文でも「稲城」です。家の周りに稲を積んで敵の矢を防ぐ、と辞書にありますが、そんな物、火矢を射かけられたら一発で燃え上がる。
    ★続き
    このとき厩戸皇子は、瓠形(ひさごがた)の結髮をして、軍の後ろに従っていた。★
    軍の後ろに従っていた、というのが正直でいいと思いませんか。書紀は厩戸皇子をなにがなんでも聖人にするといわれますが、こんなところに注目するとそうでもない。渋河への進軍でもone of themでした。
    瓠形、ひょうたんの形の髪型? 耳の下で、髪をくるっと巻いている、あれですかね。
    ★続き、
    なんとなく感じて、「もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願いをかけないと叶わないだろう」と言われた。★
    軍のうしろにしたがったまま言っております。前線にしゃしゃり出てきてはおりません。
    「なんとなく感じて・・・」たよりないなあ。
    ★続き、
    そこで白膠木(ぬりで)を切りとって、急いで四天王の像(みかた)を作り、束髪の上にのせ、誓いを立てていわれるのに、「今もし自分を敵に勝たせてくださったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」といわれた。★
    私が書紀の作者で、厩戸皇子をヒーローに仕立て上げるなら、敵前に立ちはだかって大音声で誓ったと書きます。
    厩戸皇子が丁未の乱にでてくるのはこれが最後です。
    書紀は丁未の乱に関しては、厩戸皇子をそれほど神格化しているとは思えません。やったことは、平たくいえば、頭のうえに木切れを載っけただけです。

    ここで「厩戸皇子1」で引用した「聖徳太子伝暦」再登場。
    平安時代初期10世紀初めに編纂され、聖徳太子の神格化の源流になったと言われる文書です。
    「Taiju’s Netebook」の伝暦の漢文原文の訓み下し文は正確ですが、読みにくい。できるかぎり「人文科学研究録」の現代語訳を使いますが、これは全訳ではなく、一部訳または意訳です。大意が同じであれば現代語訳、それ以外は訓み下し文を引用します。
    リンクを張っておきます。
    聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)
    聖徳太子伝暦 2/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)
    聖徳太子とは?(伝説上の人物像)-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)

    現代語訳該当部分です。
    ★しかし、物部大連の率いる軍は強く、三度攻めたが倒すことはできなかった。
    その際、蘇我軍の後方に居た太子は、秦河勝に命じて白膠の木を持って来させ、四天王像を刻み作った。
    そして、その像を頭上に掲げ「軍を勝利に導いてくれるなら、必ず四天王を奉る為の寺塔を起こそう」と誓った。
    (中略)
    一方、物部大連は、榎の木に登って神祇に誓いを立て、物部の府都の「大明神之矢」を蘇我軍に向けて放った。
    すると、太子の着ていた鎧に命中した。
    太子は舎人の迹見赤檮に「四天王之矢」を放たせると物部大連の胸に命中し、彼の動きを止めた。
    その途端、物部軍は動揺し始めて統制を失ったため、秦河勝が隙を付いて物部大連の首を斬った(以下略)。★
    内容は、大体書紀と同じです。秦河勝は書紀のこの場面に出てきませんが、あちこちで守屋を討ち取ったのは秦河勝だといわれております。出典は伝暦のようです。
    守屋の矢が太子の鎧に命中したとあり、太子が勇敢にも前線にいたと言いたいらしい。しかしこれ以外、特に太子を神格化するような記述はありません。
    伝暦は、ここでは、それほど飛躍しないようです。

    ところが、ある部分では書紀の内容をパクった上、強引に太子を登場させます。
    ★書紀用明2年(587年)夏4月2日、
    この日天皇は病気にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍り、天皇は群臣にいわれた。「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい。と。群臣は参内して相談した。物部守屋大連は、勅命の会議に反対して、「どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体このようなことは今まで聞いたことがない」といった。蘇我の馬子大臣は、「詔に従って協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」といった。穴穂部皇子は豊国法師をつれて、内裏にはいられた。物部守屋大連は、これを睨んで大いに怒った。★
    これが伝暦だと、
    ★用明天皇は、群臣に「仏教に帰依しようと思うので、協議せよ」と命じた。
    物部大連・中臣勝海は異国の神を祀るべきではないとして、これに反対した。
    一方、蘇我馬子大臣は賛成し、皇居の裏に豊國法師を呼んで、そこに入れた。
    それを見た太子は大いに悦び、大臣の手を取って涙を流して言った。
    「三宝の妙理を識別できる人は少ない、妄想に因る異説を唱え、邪険にしてわだかまりを作り出す」云々。
    そう言って、天皇の帰依に賛成した蘇我馬子大臣を讃えた。
    しかし、物部大連・中臣勝海は馬子大臣の判断に大いに怒り、それを怨んだ。
    太子は、二臣にかつて託した忠告(因果の理)の意味が理解されていないことを知り、大いに悲しんだ。★
    書紀にはない太子が颯爽と参加しております。
    このとき伝暦によれば太子16歳。生年を574年とすると13~14歳です。
    早熟というか、天才というか、いずれにしても神格化のはじまりです。

  • ★用明2年(587年)秋7月続き、<br />(連合軍は)誓い終わって武備を整え進撃した。★<br />厩戸皇子の誓いに勇気づけられた、と書紀は言いたいらしい。<br />★続き、<br />迹見首赤檮(とみの・おびと・いちい)が大連を木の股から射落して、大連とその子らを殺した。これによって大連の軍は、たちまち自然に崩れた。★<br /><br />

    ★用明2年(587年)秋7月続き、
    (連合軍は)誓い終わって武備を整え進撃した。★
    厩戸皇子の誓いに勇気づけられた、と書紀は言いたいらしい。
    ★続き、
    迹見首赤檮(とみの・おびと・いちい)が大連を木の股から射落して、大連とその子らを殺した。これによって大連の軍は、たちまち自然に崩れた。★

  • 鏑矢塚の近くにあった説明板です。1455年の「大聖将軍寺略縁起」という書物に書かれているそうです。

    鏑矢塚の近くにあった説明板です。1455年の「大聖将軍寺略縁起」という書物に書かれているそうです。

  • 古地図を拡大します。<br /><br />「御戦場」は、迹見首赤檮が守屋を射た弓を埋めた塚、「守屋塚」はその矢を埋めた場所となっております。<br />

    古地図を拡大します。

    「御戦場」は、迹見首赤檮が守屋を射た弓を埋めた塚、「守屋塚」はその矢を埋めた場所となっております。

  • 御戦場、つまり弓代塚。

    御戦場、つまり弓代塚。

  • 史跡を訪ねる旅をやってきて、いろいろ写真を撮りましたが、これほど処置に困ったのは初めてです。<br />弓代塚は、かつては文字通りこんもりした塚だったそうです。それも今は住宅地に埋もれ、塚はなくなり、民家の片隅に小さな石碑が残るだけ。そのままでは普通のお家の玄関を拝見してしまうので、不細工ながら目隠しをします。<br />八尾市さん、もうちょっと広い面積を史跡として保存して頂きたかった。<br />

    史跡を訪ねる旅をやってきて、いろいろ写真を撮りましたが、これほど処置に困ったのは初めてです。
    弓代塚は、かつては文字通りこんもりした塚だったそうです。それも今は住宅地に埋もれ、塚はなくなり、民家の片隅に小さな石碑が残るだけ。そのままでは普通のお家の玄関を拝見してしまうので、不細工ながら目隠しをします。
    八尾市さん、もうちょっと広い面積を史跡として保存して頂きたかった。

  • 鏑矢塚。お家の窓は入っていないので安心。<br />ここにも昔は塚があったそうです。<br />

    鏑矢塚。お家の窓は入っていないので安心。
    ここにも昔は塚があったそうです。

  • 拡大しておきます。

    拡大しておきます。

  • 迹見首赤檮さんは、まさか1434年後にこうなるとは思っていなかっただろうな。<br />モダンなショッピング街です。<br /><br />★用明2年(587年)秋7月続き、<br />田一万代(しろ、一代は百畝-訳注)を迹見首赤檮に賜った。★<br />恩賞はいっぱいもらいました、じゃ、ないかな。<br />現代では1畝は約100平米なので、100畝は1万平米=1ヘクタール、1万代は1万ヘクタール、え~~~~!山手線の内側の面積じゃないかな。書紀の間違いか、訳注の間違い。<br />調べてみたら、古代では、<br />「1束の稲を得ることのできる田圃の広さを『1代』と言った」<br />「土地面積の単位について」簗瀬範彦<br />土地の単位 (ashitech.ac.jp)<br />1万束の稲を得る田圃ということらしい。多いか少ないか、うーん、稲1万束ねえ~、どなたか、玄米でいいので、お米何キロとか、フツーの人に分かる単位で教えて下さい。<br /><br />丁未(ていび)の乱の続き。殺された守屋の首を洗ったという池が、大聖勝軍寺に残っています。日本書紀には記述がありません。<br />

    迹見首赤檮さんは、まさか1434年後にこうなるとは思っていなかっただろうな。
    モダンなショッピング街です。

    ★用明2年(587年)秋7月続き、
    田一万代(しろ、一代は百畝-訳注)を迹見首赤檮に賜った。★
    恩賞はいっぱいもらいました、じゃ、ないかな。
    現代では1畝は約100平米なので、100畝は1万平米=1ヘクタール、1万代は1万ヘクタール、え~~~~!山手線の内側の面積じゃないかな。書紀の間違いか、訳注の間違い。
    調べてみたら、古代では、
    「1束の稲を得ることのできる田圃の広さを『1代』と言った」
    「土地面積の単位について」簗瀬範彦
    土地の単位 (ashitech.ac.jp)
    1万束の稲を得る田圃ということらしい。多いか少ないか、うーん、稲1万束ねえ~、どなたか、玄米でいいので、お米何キロとか、フツーの人に分かる単位で教えて下さい。

    丁未(ていび)の乱の続き。殺された守屋の首を洗ったという池が、大聖勝軍寺に残っています。日本書紀には記述がありません。

  • 駐車場入ってすぐ右です。水はなし。

    駐車場入ってすぐ右です。水はなし。

  • お供えやお水がありました。いまでも供養する方がいるのです。

    お供えやお水がありました。いまでも供養する方がいるのです。

  • 「守屋池」とあります。

    「守屋池」とあります。

  • 丁未の乱の古戦場巡りはこれで終わり、とはなりません。<br />日本書紀だと悪役となる守屋の墓があるのです。上述の「河内美枝諸名所図会」にも「守屋墓」とありますから、古くからあった墓でした。しかし現在のような立派な史跡となったのは、明治初年でした。<br />このあたりのいきさつについては、「天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)」というHPにくわしく述べられております。<br />「物部守屋墳墓」と大聖勝軍寺|天璽瑞宝 (webcrow.jp)<br />とくに石玉垣は、<br />★昭和六十二年の千四百年祭のときには、全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられました。仏敵として長い間辱められてきた物部守屋ですが、明治以降は神道界から顕彰を受けているのがわかります。★<br />

    丁未の乱の古戦場巡りはこれで終わり、とはなりません。
    日本書紀だと悪役となる守屋の墓があるのです。上述の「河内美枝諸名所図会」にも「守屋墓」とありますから、古くからあった墓でした。しかし現在のような立派な史跡となったのは、明治初年でした。
    このあたりのいきさつについては、「天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)」というHPにくわしく述べられております。
    「物部守屋墳墓」と大聖勝軍寺|天璽瑞宝 (webcrow.jp)
    とくに石玉垣は、
    ★昭和六十二年の千四百年祭のときには、全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられました。仏敵として長い間辱められてきた物部守屋ですが、明治以降は神道界から顕彰を受けているのがわかります。★

  • 私たちも行ってきました。鏑矢塚から道路を歩道橋で渡ります。歩道橋から見下ろせます。ところが住宅地の真ん中ですから、そのままでは個人のお家の中が丸見えです。トリミングが忙しい。

    私たちも行ってきました。鏑矢塚から道路を歩道橋で渡ります。歩道橋から見下ろせます。ところが住宅地の真ん中ですから、そのままでは個人のお家の中が丸見えです。トリミングが忙しい。

  • 守屋墓全景。

    守屋墓全景。

  • 「全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられました」とありますが、なるほど、石玉垣には有名な神社の名があります。<br />あれ、墓石の前に何かいる。<br />

    「全国の有名神社の寄付によって、石玉垣が設けられました」とありますが、なるほど、石玉垣には有名な神社の名があります。
    あれ、墓石の前に何かいる。

  • 猫だ。<br />全然動かないので、置物かと思いました。<br />

    猫だ。
    全然動かないので、置物かと思いました。

  • しかしカメラの位置を変えると、目で追ってきます。

    しかしカメラの位置を変えると、目で追ってきます。

  • 一書に曰く、<br />日本人のバランス感覚の発露ですかね。<br />大聖勝軍寺から、歩いて二分。守屋墓がありました。<br />聖徳太子様に、すねていたわたくしといたしましては、大喜びでございます。<br />もう、過ぎてしまった事ではないですか。まあまあ。<br />こっちにも理由はあったし、あちらさんにも筋があったのでしょう。という考えなのか。<br />ホームグラウンドに突如の敵陣地です。<br />世界のいろいろな国の中には、宗教の敵は、骨の髄まで悪であり敵であると考える国が多いように思います。<br />相手を攻撃することに手段を選ばず、どんな悪逆非道でも、我が神に利すれば正義になってしまうというのが現実です。<br />そういう世界の中で、日本人って、水に流してしまうのですよね。<br />良くも悪くも水に流してしまう。<br />「いろいろあったけど、ま、今は。ね。」<br />仲良くしましょうやと、守屋墓なのですかね。<br />しかし、数々の有名神社の応援があったにしても、守屋さん、アウエーですぞ。緊張の日々でしょう。<br />ご心配無用!見て下さい。この面構え。守護猫!<br />ぬいぐるみかと思ったほどびくりとも動きません。目だけがじろーり動きます。下手すると、のど笛かっ切ってやるぞ。の殺気。<br />この佇まい、十年、二十年の猫ではありませぬ。<br />うーむ。<br />この貫禄、この迫力。<br />「負けたらあかん」とおっしゃってます。<br />下がれおろう!アズマの夷め。散れ散れ!<br />と言われたので、<br />はは はあー。<br />と退出して参りました。<br />次は、ねこチュールをお貢ぎ物に。<br />By妻<br />

    一書に曰く、
    日本人のバランス感覚の発露ですかね。
    大聖勝軍寺から、歩いて二分。守屋墓がありました。
    聖徳太子様に、すねていたわたくしといたしましては、大喜びでございます。
    もう、過ぎてしまった事ではないですか。まあまあ。
    こっちにも理由はあったし、あちらさんにも筋があったのでしょう。という考えなのか。
    ホームグラウンドに突如の敵陣地です。
    世界のいろいろな国の中には、宗教の敵は、骨の髄まで悪であり敵であると考える国が多いように思います。
    相手を攻撃することに手段を選ばず、どんな悪逆非道でも、我が神に利すれば正義になってしまうというのが現実です。
    そういう世界の中で、日本人って、水に流してしまうのですよね。
    良くも悪くも水に流してしまう。
    「いろいろあったけど、ま、今は。ね。」
    仲良くしましょうやと、守屋墓なのですかね。
    しかし、数々の有名神社の応援があったにしても、守屋さん、アウエーですぞ。緊張の日々でしょう。
    ご心配無用!見て下さい。この面構え。守護猫!
    ぬいぐるみかと思ったほどびくりとも動きません。目だけがじろーり動きます。下手すると、のど笛かっ切ってやるぞ。の殺気。
    この佇まい、十年、二十年の猫ではありませぬ。
    うーむ。
    この貫禄、この迫力。
    「負けたらあかん」とおっしゃってます。
    下がれおろう!アズマの夷め。散れ散れ!
    と言われたので、
    はは はあー。
    と退出して参りました。
    次は、ねこチュールをお貢ぎ物に。
    By妻

  • はったと私を睨む。

    はったと私を睨む。

  • 「何者じゃい」と言っている。

    「何者じゃい」と言っている。

  • 鋭い眼光。<br />私たちがここにいる間、まったく姿勢を変えませんでした。<br />千数百年、代々守屋の墓を守る守屋猫、ではないかと。<br />

    鋭い眼光。
    私たちがここにいる間、まったく姿勢を変えませんでした。
    千数百年、代々守屋の墓を守る守屋猫、ではないかと。

  • 左の耳の先がカットされ、桜耳になっています。ノラさん、地域猫ですね。<br />地域の人々に愛され、面倒見てもらっているのです。<br />いや、逆ですね。守屋の墓の墓守のついでに、地域の人々を守っているのでしょう。<br />

    左の耳の先がカットされ、桜耳になっています。ノラさん、地域猫ですね。
    地域の人々に愛され、面倒見てもらっているのです。
    いや、逆ですね。守屋の墓の墓守のついでに、地域の人々を守っているのでしょう。

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この旅行記へのコメント (5)

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  • 前日光さん 2021/06/28 23:41:36
    守屋の墓守猫はキジトラ!
    元祖家猫はキジトラだとか。
    ウチの梵ちゃんもキジトラです。

    表紙を見て狂喜乱舞(>_<)
    いい面構えの=^_^=です。
    負けたらアカン東京に♪と言ってる感じ。
    アズマエビス、何するものぞ!かかってこい!ってか。

    いやはや、ここ数日、埼玉に行ったり、ちょっとした駄文を書いたりと、なかなかコメントできず。。。でした。
    漱石先生に倣って、ちょうど=^_^=に関する文章を書いておりました。
    「Y子(私のこと)とオイラ(梵ちゃんのこと)の日々」というタイトルです。
    明日集まりがあって、その文章の批評会なんかをやります。

    さて、太子は少年の頃、既に戦に出陣しております。
    身辺を詳しく探ると、きれい事では済まされぬ血なまぐさいこともあったやうな?
    馬子と守屋の時代ですからねぇ。
    山岸さんだったか池田理代子さんだったか、どっちかの(いや、両方かな?)作品にもその部分は出てきたやうな気がしまする。
    「聖徳太子古戦場」なんていう石碑まである!
    やはり太子も生身の当時の人間、馬子軍と共に守屋を討伐?

    確かに太子様は、よその家には訪ねて行っても、我が家にはほんの時折だったやうな(?_?)特にゼロが4つ付いたのは、滅多にお目にかかれず(>o<)
    ゼロが3つだって、お正月にちょこっとやって来て、すぐに去って行ってしまわれた。
    つれなくされると思いはつのり。。。ああ、でもいつも魅力的でございました。
    世の犯罪と名の付くものは、とどのつまりは、太子様を求めてのこと、つくづく罪作りな方で。。(-_-)

    あの猫はずっと守屋の墓守?
    あのカットされた桜耳は、守屋ばかりか地域の人々まで守ってる?
    なんと!姿勢を崩さず、ガン見しているあの不適な面構え。
    にっくきは邪悪な外つ国伝来の宗教なり!
    末代まで、物部一族を守りまする!
    「負けたらアカン仏教に」というフキダシが、漂っておりますね。


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/29 05:57:35
    Re: 守屋の墓守猫はキジトラ!
    おはようございます。
    ネコに吹き出しをつける、考え付かなかった。吹き出しは、やったことないわけではないですが、今回ほど効果的な場面はないですね。
    表紙にネコを持ってきたら、前日光さんに受けるだろうなと思いました。受けた!

    「Y子(私のこと)とオイラ(梵ちゃんのこと)の日々」は、なんとか旅行記に編集できませんか。ネコと行く古跡、なんというのでも、立派な旅行記だと思うのですが。写真は撮り放題だし。梵ちゃんは、車移動、嫌いですか。

    山岸・池田少女コミックの聖徳太子、読んでみようかと思ったのですが、混乱しそうなのでやめました。
    私のイメージでは、厩戸皇子はゴルゴ13タッチなのです。アマゾンで、表紙の絵と書評で少女コミック版聖徳太子の中身を見当つけるに、これは合わない。
    聖徳太子伝歴を読んでいます。皇子と推古天皇は高倉健と倍賞千恵子みたいな感じでもある。少女コミックと、ゴルゴ13も干渉してくるし、目下どう結末をつけるか、四苦八苦しております。

    聖徳太子は、お札の肖像としては、最高だと思います。ぜひ復活してほしい。ついでに我が家にも、団体で来てほしい。
  • kummingさん 2021/06/27 10:15:11
    初コメ?
    しにあさん、おはようございます♪
    珍しく、午前中から4traっております。
    事情があって、訪問するのが遅くなり、既にイイね20個ゲットにも関わらず、まだコメントがない(°_°)
    という事態に、急遽、熟読前にカキコします(←意味不明な動機づけ)

    まず、質問、前回の旅でここを訪れられた、という事は、その時点で、厩戸王子関連ブログ制作の目論見をお持ちだったのですか?つめれば10台停められる駐車場、つめる必要あるのか?聖徳太子没後◯年に訪れる太子贔屓、はたまた、神道派の守屋ファン、とか?
    かわゆいお地蔵さま、地元で愛されていらっしゃる♪ 不謹慎にも、韓国で服まで着せられている、慰安婦像、連想しちゃいました(-。-; あちらは、毛糸の帽子+マフラー…。

    物部vs蘇我神仏闘争に関しては、教科書で1~2行の簡略化著述で知っているくらいでしたが、厩戸王子参戦?となると俄然興味掻き立てられ、話題性も高い!既存の歴史を新たな視点で切り開く、しにあさんの得意技ですね♪

    宗教間闘争については、私もよく考えさせられます。どうして、あんなに非寛容なんだ!!宗教が政治利用されるから、という理由だけではない、本質的な問題。そういう意味でも、ノルマン王朝支配下のシチリアが好きです。(←間違って理解しているところもあるかも、ですが……。)

    で、(←何が、で、なんだ?)先日、高山博氏のシチリア関係の本を取り寄せ(図書館にないと、他図書館から取り寄せて貸してくれるシステム)借りました。しにあさんではありませんが、ページを開くなり、「この本開くには100年早い!顔洗って出直して来いっ、」と言われまして、借用本は期限厳守の決まりにのっとり、早々に返却して参りました。なんだか、西欧の行政システム?の端緒をシチリアの官僚体制に見出そうとする、諸学者の試み、に意を唱えていらっしゃる?のかな、とぼんやり理解(笑笑)

    猫はキジトラが一番好きです♪ 私の「川を歩いて渡るおネコさま」も同じ、他を圧する眼差しといい、威風堂々とした佇まいといい、守屋守護ネコさまに違いないでしょう^ ^

    また、身勝手なコメントになってしまいましてm(_ _)m

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/28 05:34:05
    Re: 初コメ?
    おはようございます。
    八尾に行ったのは昨年の11月でした。厩戸皇子の旅行記を書こうと思ってはいましたが、こんなふうになるとは予想だにせず。日本書紀を片手にサラーっと、おしゃれーにやるつもりでしたが、芋づる式にケッタイな古い資料を目にしちゃって、身動きできなくなっております。
    しょうがないので、このまま突っ走ります。

    「既存の歴史を新たな視点で切り開く、しにあさんの得意技ですね」ありがとうございます。資料をいじわる読みして、アラを探すのが楽しみです。これからも頑張ります。日本書紀や伝暦、著者から文句が出ることは絶対ないので、安心して悪口の言い放題です。

    高山博の「中世シチリア王国」、面白いのに。シチリアのイスラム教徒は、妻や娘を叱れなかった、なんてエピソード、いいなあ。教会に駆け込んでキリスト教に改宗しちゃう。今も昔も、男は女房と娘に手を焼いている。
    これを読んでパレルモに行くと、グッと深みが出ますよ。特に7、8章。

    この旅の主役は猫でした。知らない方が読みにきてくれましたが、猫ファンのようでした。タグに「猫」って追加しておこう。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/07/02 22:43:05
    今更ですが…
    あ、「中世シチリア王国」は読みました、面白くて2度(笑)
    いつかシチリアに行ける日が来たら、また読みましょ~
    門前払い食らったのは、高山博氏の他のシチリア関係の本で、何だかやけに専門書?っぽい香り、ぷんぷんの小難しい内容、シチリア関係でいっぱい著作あるみたいです。

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