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更新記録:2021/06/22<br />聖徳太子伝暦(でんれき)をネタにする文章を、橘寺「甲斐の黒駒」の写真のあとに2カ所追加。<br />引用文献追加。<br /><br />今回は聖徳太子ツアーをいたします。<br />まずお生まれになったところ。<br /><br />日本書紀には聖徳太子という名は出てきません。<br />★用明元年(586年)春1月1日、<br />「(用明天皇は)穴穂部間人皇女(あなほべの・はしひとの・ひめみこ)を立てて皇后とした。この人は四人の男子を生まれた。一番目を厩戸(うまやとの)皇子という。またの名は豊耳聡聖徳(とよとみみ・しょうとく)という(以下略)」★<br />またの名に「聖徳」とあるので、後年聖徳太子となったのでしょう。<br />六国史の旅ですから、原典に忠実に「厩戸皇子」といたします。<br /><br />「聖徳太子」の歴史文献初出は懐風藻(751年)です。<br />★懐風藻序<br />「聖徳太子が摂政となられ、官位を十二階にさだめ、はじめて礼と義の法を制定された」★<br /><br />聖徳太子は実在しなかった、などという学説もあります。今の学校ではそう教えているそうです。<br />私は、厩戸皇子は実在したと思っています。そのつもりで書紀にツアーのガイドをしてもらいます。<br /><br />ひとつ前提があります。厩戸皇子が1000年に1人の天才だとします。<br />聖人君子ではありません。私たちの同時代、直近の過去に聖人君子など見たことない。しかし天才は各分野に現物がおります。いるのを前提にしても、特に問題なし。<br />千年以上の歴史をもつ民族、国家には、ときどき前後の時代の脈絡を外れた天才が現れます。司馬遼太郎によれば、源義経は軍事的天才だったそうです。織田信長も政治的天才でしょう。紫式部は人類文学史上の天才。<br />塩野七生の受け売りですが、イタリアのフェデリーコ2世は13世紀に法治国家を造ろうとしました。それから700年以上たった現代でも法治など名ばかりの大国があります。<br />そういう木に竹を接いだような天才はときどき現れます。<br />厩戸皇子は1000年に1人の、トップクラスの天才ですが、彼のアイデを具体化できる優れたスタッフに囲まれていたということにします。<br /><br />飛鳥、奈良の旅でいろいろガイドブックを探しましたが、元になっているのは、どうやら六国史といわれる一連の歴史書のようです。それならいっそのこと、六国史そのものをガイドブックにしよう。<br /><br />六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。<br />記述する時代は、<br />「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。<br />「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)<br />「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)<br />「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)<br />「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)<br />「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)<br /><br />今回は主に日本書紀のお世話になりました。<br />原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。<br /><br />今回の旅行記では次の資料を使用しました。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br />「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫<br />「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社学術文庫、引用では「万葉集中西」<br />「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」<br />「日本書紀・日本古典文学大系」坂本太郎他・岩波書店 読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました<br />「懐風藻」全訳注・江口孝夫・講談社学術文庫<br />「八尾市観光データベース」<br />八尾市観光データベース (yaomania.jp)<br />「上宮聖徳法王帝説」狩谷望之証注/平子尚補校/花山信勝/家永三郎校訳・岩波文庫<br />「Taiju’s Netebook・聖徳太子伝略・上下」の漢文原文、訓み下し文。<br />聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju&#39;s Notebook (biglobe.ne.jp)<br />聖徳太子伝暦 2/2 _Taiju&#39;s Notebook (biglobe.ne.jp)<br />「人文科学研究録」聖徳太子伝略現代語訳の一部。<br />聖徳太子とは?(伝説上の人物像)-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)<br /><br />「倭国伝・中国正史に描かれた日本」全訳注・藤堂明保・竹田晃・影山輝国・講談社学術文庫<br />「三国史記倭人伝」佐伯占清編訳・岩波文庫<br />「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版<br />「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書<br />「古代甲斐国の交通と社会」大隅?陽・六一書房<br />「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館<br />「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。<br />

六国史の旅 厩戸皇子1 飛鳥-誕生

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2020/12/19 - 2020/12/19

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旅行記グループ 六国史の旅 厩戸皇子

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

更新記録:2021/06/22
聖徳太子伝暦(でんれき)をネタにする文章を、橘寺「甲斐の黒駒」の写真のあとに2カ所追加。
引用文献追加。

今回は聖徳太子ツアーをいたします。
まずお生まれになったところ。

日本書紀には聖徳太子という名は出てきません。
★用明元年(586年)春1月1日、
「(用明天皇は)穴穂部間人皇女(あなほべの・はしひとの・ひめみこ)を立てて皇后とした。この人は四人の男子を生まれた。一番目を厩戸(うまやとの)皇子という。またの名は豊耳聡聖徳(とよとみみ・しょうとく)という(以下略)」★
またの名に「聖徳」とあるので、後年聖徳太子となったのでしょう。
六国史の旅ですから、原典に忠実に「厩戸皇子」といたします。

「聖徳太子」の歴史文献初出は懐風藻(751年)です。
★懐風藻序
「聖徳太子が摂政となられ、官位を十二階にさだめ、はじめて礼と義の法を制定された」★

聖徳太子は実在しなかった、などという学説もあります。今の学校ではそう教えているそうです。
私は、厩戸皇子は実在したと思っています。そのつもりで書紀にツアーのガイドをしてもらいます。

ひとつ前提があります。厩戸皇子が1000年に1人の天才だとします。
聖人君子ではありません。私たちの同時代、直近の過去に聖人君子など見たことない。しかし天才は各分野に現物がおります。いるのを前提にしても、特に問題なし。
千年以上の歴史をもつ民族、国家には、ときどき前後の時代の脈絡を外れた天才が現れます。司馬遼太郎によれば、源義経は軍事的天才だったそうです。織田信長も政治的天才でしょう。紫式部は人類文学史上の天才。
塩野七生の受け売りですが、イタリアのフェデリーコ2世は13世紀に法治国家を造ろうとしました。それから700年以上たった現代でも法治など名ばかりの大国があります。
そういう木に竹を接いだような天才はときどき現れます。
厩戸皇子は1000年に1人の、トップクラスの天才ですが、彼のアイデを具体化できる優れたスタッフに囲まれていたということにします。

飛鳥、奈良の旅でいろいろガイドブックを探しましたが、元になっているのは、どうやら六国史といわれる一連の歴史書のようです。それならいっそのこと、六国史そのものをガイドブックにしよう。

六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。
記述する時代は、
「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。
「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)
「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)
「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)
「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)
「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)

今回は主に日本書紀のお世話になりました。
原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。

今回の旅行記では次の資料を使用しました。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫
「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社学術文庫、引用では「万葉集中西」
「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」
「日本書紀・日本古典文学大系」坂本太郎他・岩波書店 読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました
「懐風藻」全訳注・江口孝夫・講談社学術文庫
「八尾市観光データベース」
八尾市観光データベース (yaomania.jp)
「上宮聖徳法王帝説」狩谷望之証注/平子尚補校/花山信勝/家永三郎校訳・岩波文庫
「Taiju’s Netebook・聖徳太子伝略・上下」の漢文原文、訓み下し文。
聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)
聖徳太子伝暦 2/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)
「人文科学研究録」聖徳太子伝略現代語訳の一部。
聖徳太子とは?(伝説上の人物像)-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)

「倭国伝・中国正史に描かれた日本」全訳注・藤堂明保・竹田晃・影山輝国・講談社学術文庫
「三国史記倭人伝」佐伯占清編訳・岩波文庫
「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版
「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書
「古代甲斐国の交通と社会」大隅?陽・六一書房
「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館
「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • ★推古元年(593年)夏4月10日、<br />皇后(穴穂部間人皇女、あなほべの・はしひとの・ひめみこ、用明天皇の皇后)はご出産予定日に禁中を巡察しておいでになったが、馬司(うまのつかさ)のところにおいでになったとき、厩(うまや)の戸にあたられた拍子に難なく出産された。★<br />厩戸皇子は用明天皇の宮で生まれたことになっています。<br />用明天皇の宮はどこにあったか。<br />★用明元年(586年)即位記事、<br />9月5日に用明天皇は即位された。磐余の地に宮をつくられた。名づけて池辺双槻(いけのへの・なみつきの)宮という。★<br />「池辺双槻宮」がどこにあったか。<br />桜井市にある石寸(いわれ)山口神社という説があります。<br />

    ★推古元年(593年)夏4月10日、
    皇后(穴穂部間人皇女、あなほべの・はしひとの・ひめみこ、用明天皇の皇后)はご出産予定日に禁中を巡察しておいでになったが、馬司(うまのつかさ)のところにおいでになったとき、厩(うまや)の戸にあたられた拍子に難なく出産された。★
    厩戸皇子は用明天皇の宮で生まれたことになっています。
    用明天皇の宮はどこにあったか。
    ★用明元年(586年)即位記事、
    9月5日に用明天皇は即位された。磐余の地に宮をつくられた。名づけて池辺双槻(いけのへの・なみつきの)宮という。★
    「池辺双槻宮」がどこにあったか。
    桜井市にある石寸(いわれ)山口神社という説があります。

  • 「新陵墓深訪記」<br />磐余池辺双槻宮 | 新陵墓探訪記 (fromnara.com)<br />というブログによれば、この神社は「大和志」という地誌に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたことが根拠だそうです。<br />

    「新陵墓深訪記」
    磐余池辺双槻宮 | 新陵墓探訪記 (fromnara.com)
    というブログによれば、この神社は「大和志」という地誌に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたことが根拠だそうです。

  • 桜井市谷502

    桜井市谷502

  • 桜井市内の丘の上にあります。

    桜井市内の丘の上にあります。

  • 木立に囲まれた静かな神社です。式内社だそうです。

    木立に囲まれた静かな神社です。式内社だそうです。

  • 薦池(こもいけ)という池に隣接しています。<br />池辺双槻(いけのへの・なみつきの)宮の「池辺」に該当しそうで、一瞬「もしや!」と思いました。でも現在この池は魚の養殖池で、近世に造られた可能性あり。確認できませんでした。池辺というのもそういう地名らしい。<br />

    薦池(こもいけ)という池に隣接しています。
    池辺双槻(いけのへの・なみつきの)宮の「池辺」に該当しそうで、一瞬「もしや!」と思いました。でも現在この池は魚の養殖池で、近世に造られた可能性あり。確認できませんでした。池辺というのもそういう地名らしい。

  • ご覧のように丘の上です。<br />丘の麓の標高は83m、丘の一番高いところで126mですから、43mの標高差があります。<br />31代用明天皇の前、30代敏達天皇の訳語田(おさだ)宮、32代崇峻天皇の倉梯柴垣宮(くらはし・しばがきの)宮、33代推古天皇以降の天皇の宮は全部平地です。使いにくい丘のてっぺんにわざわざ宮を造りますかね。<br />

    ご覧のように丘の上です。
    丘の麓の標高は83m、丘の一番高いところで126mですから、43mの標高差があります。
    31代用明天皇の前、30代敏達天皇の訳語田(おさだ)宮、32代崇峻天皇の倉梯柴垣宮(くらはし・しばがきの)宮、33代推古天皇以降の天皇の宮は全部平地です。使いにくい丘のてっぺんにわざわざ宮を造りますかね。

  • 私たちは桜井市の国道165号から歩いて上がってきましたが、ごらんの急坂です。神社は「この先行き止まり」の手前の路を左に曲がります。

    私たちは桜井市の国道165号から歩いて上がってきましたが、ごらんの急坂です。神社は「この先行き止まり」の手前の路を左に曲がります。

  • 駐車場の先に、桜井小学校方向に下りる小路があります。車は通れませんが、この路の方が趣きがありそうでした。

    駐車場の先に、桜井小学校方向に下りる小路があります。車は通れませんが、この路の方が趣きがありそうでした。

  • 神社前に駐車場はあります。しかし途中の路が非常に狭いので、歩いて上がってくることをお勧めします。<br />以上、珍しく役に立つ観光情報でした。<br /><br />だれが観光に来るの?<br />By妻<br />

    神社前に駐車場はあります。しかし途中の路が非常に狭いので、歩いて上がってくることをお勧めします。
    以上、珍しく役に立つ観光情報でした。

    だれが観光に来るの?
    By妻

  • 一書に曰く、<br />我々の年代の人間にとっては、聖徳太子さまは、もう、身近と言いますか憧れと申しますか、ぜひに、お友達になりたかった方でございます<br />今はご引退なさいましたが。<br />お顔も、古代の人の割に知られておりますし。<br />偽札に作りにくい為には、髭が必要だと聞きましたが、最近では髭がない人もでてきておりますね。<br />我が家には、あまり長くご滞在にならない方でしたが、まあ、それは、我が家の遺伝的な病気と申しますか、先祖は代々、猫の家系か、小判にも縁がなかったようだし、やむを得ない。<br />と言うことで、今回初めて、お顔をしみじみと拝見しました。<br />四十いくつかで亡くなったそうですから、我々が欲しがる肖像画は、まだ四十代ということになります。<br />現代なら、なんと!あのキムタクが48歳だそうです。福山雅治は、あのつるんとした顔で52歳だそう。<br />昔の人は老成していらっしゃいました。<br /><br />今回我々は、その聖徳太子いえ、厩戸皇子のお生まれになった場所を求めてさまよいました。<br />またまた、いつものことでございますが、どなたもおいでにならず、われわれだけの山口神社でした。<br />厩戸皇子という名には、キリスト教の影響があったという、今では有名な説があります。和をもって貴しとなす。とかいうのも、キリスト教的ですね。<br />けれど、本当にウマヤで生まれたから、厩戸皇子という名付けは、ずいぶんとイージーな気がします。<br />馬という動物がどのように考えられていたのか、現代は、また違う理由で珍しくなってしまいましたが、その前はかなりポピュラーな動物だったようです。ある時代は、今の犬猫並みに見かける動物だったのではないでしょうか。今なら犬小屋くんとか?庶民の身近な存在だったかと。<br />そこが、聖徳太子の人気の秘密のひとつだったかもしれませんね。<br />けれど、さらに遡ると、太子の時代では、馬は大変に貴重な運搬手段だったのではないでしょうか。画期的な交通手段だったし、希少だし。当然高額だっただろうし。<br />持っているだけで、すごい!ってもの。<br />スーパーカーに例えようかと思ったのですが、そんなものではすまないでしょうね。<br />普通の人間には、触ることもできない、例えば自家用飛行機、自家用ヘリコプター並みの乗り物だとおもうのです。ロケットかな?<br />だとしたら、もしもお宅に、ロケット基地があったなら、自慢しません?しますよねえ。そういう名前なら、決してイージーな名前ではありませんよ。ロケット、呂圭人なんてね。いい名前ですよ。<br />と、考えると、当時としてはウルトラ豪華な設備がありそうと思ったのですが、山口神社はそんなこともありませんでした。<br />静かな普通の神社でございました。<br />あ、生まれたときから。ロケット所有していたわけではなかったですね。<br />それにしましても、静かな普通の神社でございましたよ。<br />By妻<br />

    一書に曰く、
    我々の年代の人間にとっては、聖徳太子さまは、もう、身近と言いますか憧れと申しますか、ぜひに、お友達になりたかった方でございます
    今はご引退なさいましたが。
    お顔も、古代の人の割に知られておりますし。
    偽札に作りにくい為には、髭が必要だと聞きましたが、最近では髭がない人もでてきておりますね。
    我が家には、あまり長くご滞在にならない方でしたが、まあ、それは、我が家の遺伝的な病気と申しますか、先祖は代々、猫の家系か、小判にも縁がなかったようだし、やむを得ない。
    と言うことで、今回初めて、お顔をしみじみと拝見しました。
    四十いくつかで亡くなったそうですから、我々が欲しがる肖像画は、まだ四十代ということになります。
    現代なら、なんと!あのキムタクが48歳だそうです。福山雅治は、あのつるんとした顔で52歳だそう。
    昔の人は老成していらっしゃいました。

    今回我々は、その聖徳太子いえ、厩戸皇子のお生まれになった場所を求めてさまよいました。
    またまた、いつものことでございますが、どなたもおいでにならず、われわれだけの山口神社でした。
    厩戸皇子という名には、キリスト教の影響があったという、今では有名な説があります。和をもって貴しとなす。とかいうのも、キリスト教的ですね。
    けれど、本当にウマヤで生まれたから、厩戸皇子という名付けは、ずいぶんとイージーな気がします。
    馬という動物がどのように考えられていたのか、現代は、また違う理由で珍しくなってしまいましたが、その前はかなりポピュラーな動物だったようです。ある時代は、今の犬猫並みに見かける動物だったのではないでしょうか。今なら犬小屋くんとか?庶民の身近な存在だったかと。
    そこが、聖徳太子の人気の秘密のひとつだったかもしれませんね。
    けれど、さらに遡ると、太子の時代では、馬は大変に貴重な運搬手段だったのではないでしょうか。画期的な交通手段だったし、希少だし。当然高額だっただろうし。
    持っているだけで、すごい!ってもの。
    スーパーカーに例えようかと思ったのですが、そんなものではすまないでしょうね。
    普通の人間には、触ることもできない、例えば自家用飛行機、自家用ヘリコプター並みの乗り物だとおもうのです。ロケットかな?
    だとしたら、もしもお宅に、ロケット基地があったなら、自慢しません?しますよねえ。そういう名前なら、決してイージーな名前ではありませんよ。ロケット、呂圭人なんてね。いい名前ですよ。
    と、考えると、当時としてはウルトラ豪華な設備がありそうと思ったのですが、山口神社はそんなこともありませんでした。
    静かな普通の神社でございました。
    あ、生まれたときから。ロケット所有していたわけではなかったですね。
    それにしましても、静かな普通の神社でございましたよ。
    By妻

  • この神社が池辺双槻宮といわれる根拠はもう一つあります。<br />上の地図の右下に上之宮遺跡があるからです。<br />

    この神社が池辺双槻宮といわれる根拠はもう一つあります。
    上の地図の右下に上之宮遺跡があるからです。

  • ★推古元年(593年)夏4月10日続き、<br />父の天皇(用明天皇)が可愛がられて、宮殿の南の上宮(かみつみや、桜井市上之宮か-訳注)に住まわされた。それでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみや・うまやとの・とよとみみの・ひつぎのみこ)という。★<br />聖徳太子のことを上宮とよぶことがあります。これが根拠らしい。<br />「厩戸太子」が出てきました。厩戸、聖徳、太子、全部書紀にあるわけで、組み合わせを替えればいいだけ。「聖徳太子」という言葉を造った懐風藻の淡海三船も、それほど難しいことをしたわけではない。<br />

    ★推古元年(593年)夏4月10日続き、
    父の天皇(用明天皇)が可愛がられて、宮殿の南の上宮(かみつみや、桜井市上之宮か-訳注)に住まわされた。それでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみや・うまやとの・とよとみみの・ひつぎのみこ)という。★
    聖徳太子のことを上宮とよぶことがあります。これが根拠らしい。
    「厩戸太子」が出てきました。厩戸、聖徳、太子、全部書紀にあるわけで、組み合わせを替えればいいだけ。「聖徳太子」という言葉を造った懐風藻の淡海三船も、それほど難しいことをしたわけではない。

  • 遺跡案内板より。<br />上之宮というのはこのあたりの古い地名です。1986年~1991年までの発掘調査で、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての集落遺跡がでてきました。<br />★特に、第四期とよばれる時期の遺構は、上図のように、四面庇建物を中心とする掘立柱建物群と、それを囲む溝や柵が、東・南側に作られている。西側には、半円形の排水溝をともなう、方形石組み遺構を中心とした園池遺構が造られている。一辺が約百メートルの方形区画の中に収まってしまうことから、古墳時代末期から飛鳥時代初期の豪族居館と考えることができる。(中略)<br />地名や建物の時期、貴重な出土品などから、聖徳太子の上宮(かみつみや)の可能性もある。★<br />

    遺跡案内板より。
    上之宮というのはこのあたりの古い地名です。1986年~1991年までの発掘調査で、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての集落遺跡がでてきました。
    ★特に、第四期とよばれる時期の遺構は、上図のように、四面庇建物を中心とする掘立柱建物群と、それを囲む溝や柵が、東・南側に作られている。西側には、半円形の排水溝をともなう、方形石組み遺構を中心とした園池遺構が造られている。一辺が約百メートルの方形区画の中に収まってしまうことから、古墳時代末期から飛鳥時代初期の豪族居館と考えることができる。(中略)
    地名や建物の時期、貴重な出土品などから、聖徳太子の上宮(かみつみや)の可能性もある。★

  • 「半円形の排水溝」です。遺跡は埋め戻され、その上につくられたレプリカです。

    「半円形の排水溝」です。遺跡は埋め戻され、その上につくられたレプリカです。

  • 現在は高級住宅地の真ん中です。<br />石寸山口神社のほぼ南ですから、神社が池辺双槻宮あとであるという根拠です。双方が補い合って、宮跡と上宮跡の有力候補地のように見えます。<br />麓の小学校あたりから宮跡らしい遺跡でもでてこないかな。<br />

    現在は高級住宅地の真ん中です。
    石寸山口神社のほぼ南ですから、神社が池辺双槻宮あとであるという根拠です。双方が補い合って、宮跡と上宮跡の有力候補地のように見えます。
    麓の小学校あたりから宮跡らしい遺跡でもでてこないかな。

  • 脱線します。<br />今回は、聖徳太子最古の伝記という「上宮聖徳法主帝説」も参考にしました。<br />ウイキペディアによれば、<br />★編者は法隆寺縁の高僧、内容から主な部分は弘仁年間(810年 - 824年)以降、延喜17年(917年)以前には成立し、永承5年(1050年)までには現在の形となったとされる。(中略)本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。★<br />なんかこう、プロっぽい感じで勇んでページを開いたら、どひゃー、びっくり!<br />

    脱線します。
    今回は、聖徳太子最古の伝記という「上宮聖徳法主帝説」も参考にしました。
    ウイキペディアによれば、
    ★編者は法隆寺縁の高僧、内容から主な部分は弘仁年間(810年 - 824年)以降、延喜17年(917年)以前には成立し、永承5年(1050年)までには現在の形となったとされる。(中略)本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。★
    なんかこう、プロっぽい感じで勇んでページを開いたら、どひゃー、びっくり!

  • 「上宮聖徳法主帝説」を、狩谷望之(かりや・ぼうし、17-18世紀の江戸の書誌学者)が証注し、明治時代の文献学者平子尚(ひらこ・ひさし)が補校したもの。<br />右ページに「帝説」漢文原文と狩谷望之の証注/平子尚の補校漢文原文。原文と証注補校がベタつながっています。多少字の大きさは違う。<br />左ページが花山信勝/家永三郎の訓み下し文になっています。これもベタ。<br />これほど、「素人が読むな!」オーラが立ちこめている本は初めて。右ページはどっちみち読まないけれど、左は「帝説」原文と証注補校を改行してくれたら読みやすいのに。<br />「はいはい、シロートが読んで申し訳ありません」と、肩身が狭かった。<br /><br />このページに狩谷の証注として<br />★大和国十市郡に上宮村有り。宇閉能美夜(ウエノミヤ)と呼ぶ。是太子の居たまう所、後に村の名と為るなり。書紀に加牟都美夜(カムツミヤ)と訓むは是からじ。★<br />上之宮というのはこのあたりの古い地名で、厩戸皇子が幼年期を過ごしたと、あちこちのブログにありますが、根拠はこれのようです。<br />どひゃー、びっくりしましたが、ひとつ利口になりました。<br />

    「上宮聖徳法主帝説」を、狩谷望之(かりや・ぼうし、17-18世紀の江戸の書誌学者)が証注し、明治時代の文献学者平子尚(ひらこ・ひさし)が補校したもの。
    右ページに「帝説」漢文原文と狩谷望之の証注/平子尚の補校漢文原文。原文と証注補校がベタつながっています。多少字の大きさは違う。
    左ページが花山信勝/家永三郎の訓み下し文になっています。これもベタ。
    これほど、「素人が読むな!」オーラが立ちこめている本は初めて。右ページはどっちみち読まないけれど、左は「帝説」原文と証注補校を改行してくれたら読みやすいのに。
    「はいはい、シロートが読んで申し訳ありません」と、肩身が狭かった。

    このページに狩谷の証注として
    ★大和国十市郡に上宮村有り。宇閉能美夜(ウエノミヤ)と呼ぶ。是太子の居たまう所、後に村の名と為るなり。書紀に加牟都美夜(カムツミヤ)と訓むは是からじ。★
    上之宮というのはこのあたりの古い地名で、厩戸皇子が幼年期を過ごしたと、あちこちのブログにありますが、根拠はこれのようです。
    どひゃー、びっくりしましたが、ひとつ利口になりました。

  • 橘寺は、聖徳太子誕生の地として、アッピールしています。<br />お寺のホームページによれば、<br />★西暦572年、当時欽明天皇の別宮で橘の宮のあったこの地に、その第4皇子橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とされて御誕生になったと伝えられています。★<br />

    橘寺は、聖徳太子誕生の地として、アッピールしています。
    お寺のホームページによれば、
    ★西暦572年、当時欽明天皇の別宮で橘の宮のあったこの地に、その第4皇子橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とされて御誕生になったと伝えられています。★

    橘寺 寺・神社・教会

    駐車場完備 by しにあの旅人さん
  • 県道からの登り口、

    県道からの登り口、

  • 東門駐車場からの登り口。<br />厩戸皇子誕生地への誇りが感じられます。<br />

    東門駐車場からの登り口。
    厩戸皇子誕生地への誇りが感じられます。

  • 正面が川原寺跡。その向こうは川原寺の法灯を継いだ弘福寺。

    正面が川原寺跡。その向こうは川原寺の法灯を継いだ弘福寺。

  • 弘福寺の左には、美しい大和棟の民家。

    弘福寺の左には、美しい大和棟の民家。

  • ここで振り向くと、白壁一文字の橘寺です。<br />お寺よりも、城か、宮殿のような面構え。<br />「当時欽明天皇の別宮で橘の宮」というお寺の縁起は、書紀には見られませんが、さもありなんという感じです。<br />

    ここで振り向くと、白壁一文字の橘寺です。
    お寺よりも、城か、宮殿のような面構え。
    「当時欽明天皇の別宮で橘の宮」というお寺の縁起は、書紀には見られませんが、さもありなんという感じです。

  • 本堂。

    本堂。

  • 馬の銅像が見えます。

    馬の銅像が見えます。

  • 太子の愛馬、空を飛ぶ馬「甲斐の黒駒」ですね。この馬は日本書紀の厩戸皇子には登場しません。<br />この有名な馬が聖徳太子伝説に登場するのは、聖徳太子伝暦(または伝略。両方とも「でんりゃく」と読みます)のようです。<br />伝暦は延喜十七年(917年)九月藤原兼輔(877年-933年)によって編纂されたとなっておりますが、諸説あります。平安時代初期10世紀前半に成立した、それまでの聖徳太子伝説の集大成で、その後の伝説の源流になりました。<br />日本書紀は、いくつかの例外はありますが、厩戸皇子を特に神秘化しているとは思えません。しかしこの伝暦には、びっくり。極めてファンタスティックな厩戸皇子、じゃなかった聖徳太子が描かれております。<br /><br />「Taiju’s Netebook」というホームページに「聖徳太子伝暦・上下」の漢文原文、訓み下し文が載っております。大変なお仕事だと思います。感謝です。<br />聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju&#39;s Notebook (biglobe.ne.jp)<br />聖徳太子伝暦 2/2 _Taiju&#39;s Notebook (biglobe.ne.jp)<br /><br />また「人文科学研究録」というホームページには、その現代語訳の一部がありました。参考、引用させて頂きました。<br />聖徳太子とは?(伝説上の人物像)-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)<br /><br />★聖徳太子伝暦・上太子27才推古6年(598年)戊午春三月、<br />この歳、太子は良馬を求めて諸国から馬を集めた。甲斐国(東海~関東)より集められた数百頭の黒駒の中で四脚の白いものを見つけた。★<br />これが甲斐の黒駒。「人文科学研究録」より。<br />★太子は甲斐の黒駒に試し乗りをし、浮雲の如く東に去っていった。(中略)3日後、太子は轡(くつわ)を廻して(馬を操って)帰って来た。★<br />このお馬さんの話など、まだ序の口、次回以降もっと刺激的な話が出てきます。<br />

    太子の愛馬、空を飛ぶ馬「甲斐の黒駒」ですね。この馬は日本書紀の厩戸皇子には登場しません。
    この有名な馬が聖徳太子伝説に登場するのは、聖徳太子伝暦(または伝略。両方とも「でんりゃく」と読みます)のようです。
    伝暦は延喜十七年(917年)九月藤原兼輔(877年-933年)によって編纂されたとなっておりますが、諸説あります。平安時代初期10世紀前半に成立した、それまでの聖徳太子伝説の集大成で、その後の伝説の源流になりました。
    日本書紀は、いくつかの例外はありますが、厩戸皇子を特に神秘化しているとは思えません。しかしこの伝暦には、びっくり。極めてファンタスティックな厩戸皇子、じゃなかった聖徳太子が描かれております。

    「Taiju’s Netebook」というホームページに「聖徳太子伝暦・上下」の漢文原文、訓み下し文が載っております。大変なお仕事だと思います。感謝です。
    聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)
    聖徳太子伝暦 2/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)

    また「人文科学研究録」というホームページには、その現代語訳の一部がありました。参考、引用させて頂きました。
    聖徳太子とは?(伝説上の人物像)-人文研究見聞録 (cultural-experience.blogspot.com)

    ★聖徳太子伝暦・上太子27才推古6年(598年)戊午春三月、
    この歳、太子は良馬を求めて諸国から馬を集めた。甲斐国(東海~関東)より集められた数百頭の黒駒の中で四脚の白いものを見つけた。★
    これが甲斐の黒駒。「人文科学研究録」より。
    ★太子は甲斐の黒駒に試し乗りをし、浮雲の如く東に去っていった。(中略)3日後、太子は轡(くつわ)を廻して(馬を操って)帰って来た。★
    このお馬さんの話など、まだ序の口、次回以降もっと刺激的な話が出てきます。

  • 私たちが橘寺をお参りしたのでは2020年6月26日、コロナ騒ぎの谷間でした。参拝者少なかった。

    私たちが橘寺をお参りしたのでは2020年6月26日、コロナ騒ぎの谷間でした。参拝者少なかった。

  • 静かなお寺でした。<br />厩戸皇子の誕生の地として、このままいつまでも伝説をまもっていただきたいと思いました。<br /><br />厩戸皇子が仏典の講義をしたというお話が書紀にあります。<br />★推古14年秋7月、<br />(推古)天皇は皇太子を招き、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。三日間かかって説き終えられた。この年皇太子はまた法華経を岡本宮で講じられた。天皇はたいへん喜んで、播磨国の水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺(法隆寺)に納められた。★<br />勝鬘経(しょうまんきょう)を講じた場所は、この橘寺ということになっています。<br />橘寺のパンフレットに次のようにあります。<br />★33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるように太子に命ぜられた。<br />そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺(たちばなのきてら)で、聖徳太子建立七ヵ大寺の一つに数えられた。★<br />この出典が聖徳太子伝暦・上です。<br />★秋七月に、天皇太子に詔して曰く、諸佛所説の諸經演べおわりぬ。然に勝鬘經未だ其の説を具にせず。冝しく朕が之前に於て其の義を講説したまふべし。(中略)太子天皇の請を受て、其の儀い僧の如して、三日あつて竟ぬ。講竟ぬる之夜、蓮花零る。花の長さ二三尺にして方三四丈之地に溢り。明る旦之を奏す。天皇大に竒として、車駕して之を覧会はしたまふ。即其の地に於て誓て寺堂を立てたまふ。《是れ今の橘樹寺也。》★<br />天皇の依頼により講義したのは書紀と同じ。<br />「其の儀い僧の如して」というので、お坊さんの装いで講義したなど、具体的です。お花の件を別にすれば、特に不思議はありません。<br />「是れ今の橘樹寺也」これが橘寺由緒となります。<br />お寺の本堂横には三光石という石碑があり、勝鬘経を講じたときに日・月・星の三光を放ったとされるそうです。残念ながら、当日そんなことは露も知らず、写真無し。<br /><br />

    静かなお寺でした。
    厩戸皇子の誕生の地として、このままいつまでも伝説をまもっていただきたいと思いました。

    厩戸皇子が仏典の講義をしたというお話が書紀にあります。
    ★推古14年秋7月、
    (推古)天皇は皇太子を招き、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。三日間かかって説き終えられた。この年皇太子はまた法華経を岡本宮で講じられた。天皇はたいへん喜んで、播磨国の水田百町を皇太子におくられた。太子はこれを斑鳩寺(法隆寺)に納められた。★
    勝鬘経(しょうまんきょう)を講じた場所は、この橘寺ということになっています。
    橘寺のパンフレットに次のようにあります。
    ★33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるように太子に命ぜられた。
    そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺(たちばなのきてら)で、聖徳太子建立七ヵ大寺の一つに数えられた。★
    この出典が聖徳太子伝暦・上です。
    ★秋七月に、天皇太子に詔して曰く、諸佛所説の諸經演べおわりぬ。然に勝鬘經未だ其の説を具にせず。冝しく朕が之前に於て其の義を講説したまふべし。(中略)太子天皇の請を受て、其の儀い僧の如して、三日あつて竟ぬ。講竟ぬる之夜、蓮花零る。花の長さ二三尺にして方三四丈之地に溢り。明る旦之を奏す。天皇大に竒として、車駕して之を覧会はしたまふ。即其の地に於て誓て寺堂を立てたまふ。《是れ今の橘樹寺也。》★
    天皇の依頼により講義したのは書紀と同じ。
    「其の儀い僧の如して」というので、お坊さんの装いで講義したなど、具体的です。お花の件を別にすれば、特に不思議はありません。
    「是れ今の橘樹寺也」これが橘寺由緒となります。
    お寺の本堂横には三光石という石碑があり、勝鬘経を講じたときに日・月・星の三光を放ったとされるそうです。残念ながら、当日そんなことは露も知らず、写真無し。

  • 一書に曰く、<br />ここでは、他にも参拝者がいらっしゃいましたよ。<br />三、四人の女性ばかりのグループでした。<br />その方々が、このお寺の雰囲気にぴったりで、三好達治の<br />あはれ花びら流れ、をみなごに 花びら流れ、、、<br />という詩を思い出しました。<br />あの詩は、のびのびしていて、若い女性らしいですが、その二十年後みたいな上品なミセスの方々でした。<br />上品なお寺で、ここには観光バスは来てほしくないです。<br />中年の男女が、静かに語り合いながら歩いてほしいです。男の人は、渋めがいいなあ。<br /><br />聖徳太子さんなんか、いいかもです。品行方正、理路整然、沈着冷静。<br />こういう男性が、心に愛を秘めて、一期一会のそぞろ歩き。<br />ふたりには、なんにも起きないんだけれど。立場もあるし、基からの彼の性質もあるし、本当に、何にもないのよ。By夫的には。<br />でも、二人は、全て分かっているのです。お互いの気持ちも、互いの立場も。<br />でもその日のことは、二人とも、その生涯が終わるまで、忘れないのです。キャハッ<br />やっぱり、こういう場合は、あいらぶゆう なんて言いません。<br />月がきれいですね。これですよ。<br />そういうお寺でした。<br /><br />しかし、すごい名前ですね-。聖徳太子。<br />聖徳。これに匹敵する名前は、神武天皇、なんたって神様だから。<br />それに、仁徳天皇。仁ですからね。巧言令色少なきかな仁。の仁です。<br />人間の理想ですぞ。そういう人だったのですね。<br />それでも、仁より聖のほうがすごいように思えますが、いかがでしょう。<br />もはや、人間ではない。聖なる存在です。<br />崇敬の対象です。<br />厩戸皇子も天皇に準じた人として、諡号を淡海三船がつけたのでしょうか。<br /><br />ああ、そういう方に、昼メロを演じさせてしまった!<br />わたし、バチが当たるかも。<br />By妻<br />

    一書に曰く、
    ここでは、他にも参拝者がいらっしゃいましたよ。
    三、四人の女性ばかりのグループでした。
    その方々が、このお寺の雰囲気にぴったりで、三好達治の
    あはれ花びら流れ、をみなごに 花びら流れ、、、
    という詩を思い出しました。
    あの詩は、のびのびしていて、若い女性らしいですが、その二十年後みたいな上品なミセスの方々でした。
    上品なお寺で、ここには観光バスは来てほしくないです。
    中年の男女が、静かに語り合いながら歩いてほしいです。男の人は、渋めがいいなあ。

    聖徳太子さんなんか、いいかもです。品行方正、理路整然、沈着冷静。
    こういう男性が、心に愛を秘めて、一期一会のそぞろ歩き。
    ふたりには、なんにも起きないんだけれど。立場もあるし、基からの彼の性質もあるし、本当に、何にもないのよ。By夫的には。
    でも、二人は、全て分かっているのです。お互いの気持ちも、互いの立場も。
    でもその日のことは、二人とも、その生涯が終わるまで、忘れないのです。キャハッ
    やっぱり、こういう場合は、あいらぶゆう なんて言いません。
    月がきれいですね。これですよ。
    そういうお寺でした。

    しかし、すごい名前ですね-。聖徳太子。
    聖徳。これに匹敵する名前は、神武天皇、なんたって神様だから。
    それに、仁徳天皇。仁ですからね。巧言令色少なきかな仁。の仁です。
    人間の理想ですぞ。そういう人だったのですね。
    それでも、仁より聖のほうがすごいように思えますが、いかがでしょう。
    もはや、人間ではない。聖なる存在です。
    崇敬の対象です。
    厩戸皇子も天皇に準じた人として、諡号を淡海三船がつけたのでしょうか。

    ああ、そういう方に、昼メロを演じさせてしまった!
    わたし、バチが当たるかも。
    By妻

  • 川原寺あとへの下り口にも石碑があります。

    川原寺あとへの下り口にも石碑があります。

  • 誕生地については書紀にも書かれており、橘寺の伝承もあります。<br />ところが、誕生日は書紀に書いてありません。でもウイキペディアなどには堂々と敏達天皇3年1月1日(西暦574年2月7日)となっている。どこかにチョロッと書いてあるかと、細かく敏達天皇から推古天皇まで探してみました。ない。<br />享年が49才なので、没年から逆算するとこうなるのだそうです。没年は推古30年2月22(622年4月8日)<br />ところが、<br />★推古29年春2月5日(西暦621年3月3日)、<br />夜半、聖徳太子(書紀原文では「厩戸豊聡耳皇子命」)は斑鳩宮に薨去された。★<br />推古29年2月5日は西暦621年3月3日、あれ~ちがうよ~<br /><br />調べたら、書紀の間違い!<br />▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲<br /><br />「日本書紀・日本古典文学大系」の頭注に、天寿国&#32353;帳(てんじゅこくしゅうちょう)、法隆寺金堂釈迦像銘、聖徳太子伝私記法起寺塔婆露盤銘に没年は30年2月22日とあり、<br />★「太子の没年は本文の29年ではなく、翌30年2月22日を正しいとすべきであろう」★<br />となっています。天寿国&#32353;帳とは、あの有名な「天寿国曼荼羅&#32353;帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」です。<br />「上宮聖徳法主帝説」でも、いろいろな説を列挙した後、法隆寺金堂釈迦仏像光後銘、天寿国&#32353;帳は、<br />★並びに是当時の物なれば即ち當に據って以て正と為すべきなり。★<br />つまり推古30年2月22日が太子命日だとしています。<br />やめてほしいな、書紀さん。<br />半日つぶしたよ。ちゃんと書いてよね~~~<br /><br />今年2021年は聖徳太子没後1400年ということで、美術展などが盛大に開催されております。書紀の記述を基準にした間違いということになります。<br /><br />「享年49才」ですが、どこにもサラッとこう書いてある。ところが根拠が書いてない。<br />えらい先生が書いているので、49才とします。<br />

    誕生地については書紀にも書かれており、橘寺の伝承もあります。
    ところが、誕生日は書紀に書いてありません。でもウイキペディアなどには堂々と敏達天皇3年1月1日(西暦574年2月7日)となっている。どこかにチョロッと書いてあるかと、細かく敏達天皇から推古天皇まで探してみました。ない。
    享年が49才なので、没年から逆算するとこうなるのだそうです。没年は推古30年2月22(622年4月8日)
    ところが、
    ★推古29年春2月5日(西暦621年3月3日)、
    夜半、聖徳太子(書紀原文では「厩戸豊聡耳皇子命」)は斑鳩宮に薨去された。★
    推古29年2月5日は西暦621年3月3日、あれ~ちがうよ~

    調べたら、書紀の間違い!
    ▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲

    「日本書紀・日本古典文学大系」の頭注に、天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)、法隆寺金堂釈迦像銘、聖徳太子伝私記法起寺塔婆露盤銘に没年は30年2月22日とあり、
    ★「太子の没年は本文の29年ではなく、翌30年2月22日を正しいとすべきであろう」★
    となっています。天寿国繡帳とは、あの有名な「天寿国曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」です。
    「上宮聖徳法主帝説」でも、いろいろな説を列挙した後、法隆寺金堂釈迦仏像光後銘、天寿国繡帳は、
    ★並びに是当時の物なれば即ち當に據って以て正と為すべきなり。★
    つまり推古30年2月22日が太子命日だとしています。
    やめてほしいな、書紀さん。
    半日つぶしたよ。ちゃんと書いてよね~~~

    今年2021年は聖徳太子没後1400年ということで、美術展などが盛大に開催されております。書紀の記述を基準にした間違いということになります。

    「享年49才」ですが、どこにもサラッとこう書いてある。ところが根拠が書いてない。
    えらい先生が書いているので、49才とします。

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この旅行記へのコメント (18)

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  • mistralさん 2021/06/19 23:47:09
    一書に曰く、、、
    しにあさん、by妻さん

    こんばんは。
    「六国史」をガイドブックにされる、ということも凄いことと
    今までも思っていることですが
    表紙でコメントされる、参考文献リストにはいつもながらびっくりします。
    今回は聖徳太子さん、厩戸皇子さま!
    それ故か?今回はリストに載る書籍の数が半端ないこと。
    あのお髭のある肖像画のイメージばかりが先行していて
    実像は大して理解しないながらも、推古天皇の摂政とし政をとりしきった
    千年に1人現れるかの人物。
    それほどの逸材が、何故、天皇にはなられなかったのでしょう?
    これから解き明かして下さるのかしら、楽しみです。

    kummingさんへの返信コメントによりますと、「ゴルゴ13」のようなイメージとか。
    当時の東アジア情勢を鑑みたら、列強諸国を相手にするには、
    ただ静かに佇んでおられるだけでは済まなかったことでしょう。
    なるほど、ちょっぴり聖徳太子さんのイメージが立体的なものに変わりますね。

    川原寺跡地の左手に連なる民家の家並み、大和棟と言うんですね。
    本当にあのあたりの民家は美しいと思います。
    私もあの辺りで写真を撮りました。

    そして端正な橘寺。
    そこでの一書に曰く、のby妻さんのコメントが傑作です。
    品行方正な聖徳太子さん風の渋めの男性と上品な女性がそぞろ歩きをしている情景。
    本当に何もないのよ、、、でも全てわかっている。
    そこにはby夫さんのコメントはないので、妻さんに一本を、でしょうか。
    そんな連想をしたくなる、静かなお寺でした。

    書記での聖徳太子の没年の誤りまで発見されてしまうしにあさん、恐るべしです。
    続きを楽しみにしております。

    mistral



    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/20 19:14:10
    Re: 一書に曰く、、、
    参考書をリストアップするのは、この種の文章の仁義だそうで、「ありがと、ござんした」ということです。
    本当にお世話になっております。
    最後に並べるのが多いそうですが、忘れそうなので、頭にもってきました。

    厩戸皇子が天皇にならなかったのか、うーん、これはちょっと私の能力の範囲外。一つには、推古天皇がこの時代にしては、異例の長寿だったからでしょうね。宝算65。つまらない結論だと自分でも思います。
    日本書紀が、この話に付け入る隙をくれないのです。なんかとっかりがあれば面白いテーマですね。

    前日光さんやkummingさんがおっしゃっていた少女コミックの聖徳太子を、Webで表紙だけ見ました。びっくり仰天。ゴルゴ13タッチの厩戸皇子とはえらい違い。
    このイメージの落差をどうするか、埋めるか広げるか。埋めようがないなあ。

    大和棟、大和屋根ともいうようです。ちょっと小高い丘に立って見下ろすと、えーっというくらいに美しい景色です。黒瓦と白壁、シンプルですよね。
    「昔の天皇さんのお好みどすえ」飛鳥人はいいそう。「1400年前は、お隣さんでした。もうそろそろ、東京からお帰りになればよろし」とか、言うと思いませんか。

    橘寺は、By妻の連想がぴったりのいいお寺さんでした。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/06/22 19:46:08
    加筆された文献♪
    mistralさんにはまた笑われそうですが、むか~し昔、推古天皇と馬子の息子説、どっかで読んだ記憶⁈
    さて、この度しにあさん肝いりのtaiju's netebookとcaltural experience.blog spot さっそくgoogleってみました。前者は記事にヒットしませんでしたが、experience の方には、「聖徳太子とは?伝説上の人物像」ありました。年代別に、膨大な情報量(*_*;

    なので、読むのはしにあさんにお任せして、続編を待つ(^^♪
    楽しみにしています。出来れば、山岸涼子風アレンジで?(笑)

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/22 19:56:44
    Re: 一書に曰く、、、
    引用したurlは、
    聖徳太子伝暦 1/2 _Taiju's Notebook (biglobe.ne.jp)
    のように聖徳太子以下全部コピーしてWeb検索すると出てくると思います。

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/06/22 20:38:22
    Re: 一書に曰く、、、
    kummingさん
    しにあの旅人さん

    ほとんど同時にお二人からコメントをいただきました。
    これでお二人への返信が成立するのやら?
    ちなみにkumming さんからのコメントには、返信するという欄がなく、、、

    私もしにあさんから追記したので、というコメントをいただき検索。
    辿り着いたのは良いけれど膨大かつ難解そうで
    すぐ閉じてしまいました。
    太子の年齢の順に記載されているようでしたね。

    聖徳太子さん、推古天皇より二年前にお亡くなりになったそうですね。
    それでは大王になれない訳ですね。
    やはりしにあさんがおっしゃったように、推古天皇が長命だった故に大王にはなれなかった?

    コミックでお勉強は私もやりますよ。
    ポーランドを旅する折、覚えにくい王族名が
    コミックの読後にはすんなり言えるようになりました。

    聖徳太子の人物像、教科書的でない生身の人となり、
    しにあさんが解き明かして下さるのが楽しみです。
    (自分では努力せず、ひたすらお待ちしております。)

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/07/16 11:43:47
    「日出処の天子」読後感
    「日出処の天子」読後感を、前日光さんのコメ「天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?」に加えました。
  • kummingさん 2021/06/18 17:05:24
    1000年に1人の天才♪
    正統派の厩戸皇子伝、犯しがたい聖なる存在としての聖徳太子像ですね。
    ちょっと前に、某説に心奪われ、真正の太子像を見失っていた私としては、穴があったら、(なくても掘って)隠れたい(ーー;) おかげで、私たち日本人の心の中にある太子のイメージを回復する事が出来ました。

    今の子どもたちは、太子は実在しない、と教育されている?それって、我が家も通過点に過ぎないあの肖像が、渋沢栄一氏に代わるのと、リンクしてる政策なので?なんだか世代間断絶の観、年金を誰が支える?問題以上のものがありますね。

    前日光さんが触れておられる少女コミック「日出る処の天子」私もハマりました。ですが、そこではかなり妖しく小悪魔的でセクシーな太子でいらした記憶♪ by妻さんには睨まれそうな、色っぽいイメージ、だったような?

    実は、最近、前日光さんに、少女漫画ワールドへ誘われ、ちょい夢みがち乙女感覚を思い出しました。さらに、前日光さんのカキコが遅い事情もうかがい、先に書いてね~、お願いしたら、叶いました(笑)だから何だ、って話ですが、私のカキコが賢くなる筈もなく、でも、気持ち楽ちんに、くだらないコメントに終始出来る^o^

    1000年に一人の天才、FDIIはもちろん、カエサル、アウグストス(彼は実務派で天才、の範疇ではないかも)、チェザーレ、あと変わりどころで、背教者ユリウス(生きてたら、ローマ帝国のキリスト教化がなくなりはしなくても、相当遅れた)、とか、私的オシですが…。この人が歴史を変えた、とか、長生きしてたら、歴史はどうなった?惜しまれる人材として、心動かされ、記憶に残ります。

    天寿国曼荼羅繡帳、なるほど、太子の生年を調べていらしたのですね。私が見たのは、レプリカで、しかも、生年が記されているとは、知る由もありませんでしたm(._.)m

    世間は、日本書紀の誤謬をそのままに、生誕1400年祭を催す!
    歴史を調べていると、近年発掘されて明らかになった事実、とか何とか、色々出て来て、シロウトの私は迷子のおばちゃんになりがちなところ、「えらい人が書いているので…」、以後心の拠り所とさせていただきます^o^

    あ、蛇足ですが、4traに、不比等の子孫、ご先祖が鎌足で不比等直系という家系図をお持ち、という方がおられます♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/18 19:32:27
    Re: 1000年に1人の天才♪
    「犯しがたい聖なる存在としての聖徳太子像」
    これからの展開は、ちょっと違うかもしれません。
    FD2が天才ではありますが、やたらに女に手が速かったなど、聖なる存在ではないと同様に、厩戸皇子も聖人君子ではない。
    あ、彼については、女性関係のことではありません。

    コミックで言いますと、「さいとう・たかお」による劇画「ゴルゴ13」をイメージしてください。厩戸皇子の絵はああいうタッチ。
    「激動の東アジア、推古天皇をたすけ、煬帝と渡り合う日の出る国の皇子!」こんな感じです。「隋、新羅、百済、高句麗を相手に、厩戸皇子の秘策はいかに!ジャーン」

    私の御幼少のみぎり、少女漫画はタブーでした。男子は「少年」の「鉄腕アトム」、雑誌名は忘れた「鉄人28号」、「砂漠の魔王」などを読むべし。「少女」の「リボンの騎士」などは軟弱な女子のハナシ、そんなものを読むと、近所のガキ大将から怒られた時代です。隠れて読んでいましたから、題名をおぼています。
    主人公が、生まれる前の天国で、担当のいたずら天使に、男の子のたまごと女の子のたまごを同時に飲まされる、という物語の発端をリアルタイムで読んだ記憶があります。
    それがいまだに尾を引いて、少女コミックは苦手なのです。特に、あの顔の30%くらいを占める瞳と、その中に光る光芒が気になります。
    By妻は「それがなんだ」と言っております。

    不比等の子孫の方のブログ、是非教えてください。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/06/18 20:04:36
    笑笑
    https://4travel.jp/travelogue/11694063
    eahawkさん、談山神社訪問ブログです。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/07/16 11:34:47
    「日出処の天子」読後感
    「日出処の天子」読後感を、前日光さんのコメ「天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?」に加えました。
  • 前日光さん 2021/06/18 15:18:27
    天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?
    しにあさん&by妻さん、こんにちは。
    今日は、まるで「聖徳皇太子御誕生所」の碑上に広がる空のように、久しぶりに気持ちのよい天気ですね!
    橘寺周辺、私もレンタサイクルで巡りました。
    桜にはまだ早かった奈良巡りの時に行きました。
    でも橘寺には、ちらほら桜が咲いていたような?

    太子の愛馬黒駒の像近くに、会津八一氏の歌碑がありました。
    その時もやはり人はあまりいませんでした。
    「甓のうへ」のような気品のある貴婦人もいませんでした(残念!)
    あと数週間経ってから行けば「あはれ 花びらながれ をみなごに花びらながれ。。。」だったかもしれない。
    by妻さんの妄想、聖徳太子のような渋めの男性と手弱女ぶりの女性が、参道を歩いていたら( ̄∇ ̄)、「うららかの跫音空にながれ をりふしに瞳をあげて 翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり。。。」なぁんてなるのですが。

    私、聖徳太子も大ファンであります。
    しにあさんご夫妻は少女漫画は読まないのでしょうが、私は日本書紀は読まずとも山岸凉子氏の「日出ずる処の天子」は、愛読書であります。
    厩戸皇子の超スーパーぶりがよく描かれています。

    ところで書記は皇子の没年を間違えているとか。。。しかしよく見つけますねぇ(>_<)
    しかも書記に従っているから、今年は「太子没後1400年」とな?
    「天寿国繡帳」を軽んじるが故のミスですね?
    太子は49歳で没、漱石先生も没年は49歳です。
    お二方とも、50前の顔があれなんですねぇ(>_<)
    どちらも老成されています。
    何事かを成し遂げる人というのは、あのようなのかもしれませぬ。

    太子が黒駒に水を与え、自らも水を飲んだと言われる井戸が橿原市今井町の入り口にありました。
    また東大阪の太子町には、太子ゆかりの遺跡がたくさん。
    この旅行記に触発され、また行ってみたくなりました。


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/18 18:38:21
    Re: 天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?
    会津八一の歌碑、知らなかった!知っていたら、これをネタにサビをもう一つきかせたのに。
    くろごま の あさ の あがき に ふませたる をか の くさね と なづさひ ぞ こし
    これですね。残念。
    By妻は知っていました。「言ったじゃない!」例によって、無視したのは私のようです。
    でも太子が勝鬘教を講じたのは橘寺だという説を、知りました。これはまだ使える。

    「太子が黒駒に水を与え、自らも水を飲んだと言われる井戸が橿原市今井町の入り口にありました」
    これは読まなかったことにします。7月の、たぶん最後の奈良飛鳥旅で、このあたりに行くのですが、もう厩戸皇子シリーズは終わっているので、パス!!
    時間が、ああ、時間が!

    「東大阪の太子町には、太子ゆかりの遺跡がたくさん」ひょっとして、八尾のこと?
    だとしたら、次回をご期待ください。前日光さんが愛してやまない猫が主役です。「なんのことかわからん」いいのです。読めばわかる。

    それにしても、法隆寺も、談山神社の多武峯縁起絵巻みたいに、天寿国繍帳の写真と現代語訳パンフレットを出してくてませんかね!一大文化事業だと思うのですが。
    30ページくらいの冊子でも、3000円くらいなら買う!文化事業への寄付です。

    前日光

    前日光さん からの返信 2021/06/18 21:25:22
    RE: Re: 天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?
    こんばんは、

    > 「東大阪の太子町には、太子ゆかりの遺跡がたくさん」ひょっとして、八尾のこと?

    →この質問にお答えします。
    たぶん八尾ではないと思います。
    八尾よりも南の河内長野、羽曳野とか富田林です。
    太子町というのがありまして、「叡福寺」には、太子や母、妻の3人が祀られています。
    太子中学校や小学校もあります。
    推古天皇陵はもちろん、小野妹子のお墓(伝)まで行ってきました。
    用明天皇陵や孝徳天皇陵も見てきました。
    竹之内街道を歩いて、あの頃はまだ足腰がなんとかなったのですが、今はもう街道歩きは無理だろうなと思います。

    https://4travel.jp/travelogue/10877555

    その時の旅行記です。
    よろしかったらご覧になってみてください(^^;)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/19 07:46:21
    RE: RE: Re: 天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?
    旅行記拝見しました。八尾の太子ゆかりの地とは違います。
    感想はそちらの方に。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2023/07/16 11:31:49
    山岸凉子「日出処の天子」
    Bookoffで時間つぶしをしていたら、山岸凉子の「日出処の天子」白泉社文庫本7巻揃いがありました。2500円。思い切って買ってきました。きれいに読んで、10年くらいしたら倍で売れるかも。

    びっくりぎょうてんです。コミックとはいえ、読者は少女ではないですよね。大人でもやばいかも。
    絵はきれいだし、日本書紀の出来事を要所に取り入れて、ところどころに 聖徳太子伝暦らしきエピソードもあります。それにしてもよく調べてあります。さすが山岸凉子。
    第1巻では額田部皇女30くらい、7巻で推古天皇として即位するときは39ですから、それらしく描いてある。

    いづれにしてもこの厩戸皇子が、ゴルゴ13のイメージとは両立しないのはよく分かりました。
    こういうのがコミックで出てしまうと、文章だけの厩戸皇子の小説は書けないでしょうね。
    だれが言ったか忘れましたが、一昔前は小説になる題材が、いまはコミックになってしまう。
    なるほど、です。

    kumming

    kummingさん からの返信 2023/07/16 14:19:28
    Re: 天才や文豪は、50前に亡くなるのでしょうか?
    しにあさん、今頃?とは思いながら、少女コミックの真の威力!に気付かれた由、良かったです♪
    山岸凉子氏は別格で、その絵の凄み、妖艶さ、妖しい雰囲気では第一人者ではないかと思われます。
    歴史モノ少女コミックの中でも1番エグいヤツを入門編になさったワケです。
    前日光さんご紹介の日本古代史モノや、私のオススメ、チェザーレ、なんかは、絵的にはおとなしいものです。
    ちょっと前に、新聞で古事記のマンガ版の紹介記事を見て、切り取っていたのが、見当たらない(;O;)
    複雑怪奇な古代神話の世界は、コミックから入れば、少しはわかり易いかな?

    さて、今さらではありますが、しにあさんのご紹介で前日光さんと、お知り合いになれました事、改めて感謝(._.)アカデミックなお友だちでいらっしゃいましたね! おかげで、貴重な本にめぐりあわせて頂きました♪
  • 熟年ドラゴンさん 2021/06/17 17:06:47
    フォローありがとうございます。
     何と、アカデミックな旅行記書かれますね。

     私も文学、歴史には多少興味もありますが受け売り専門のなんちゃって蘊蓄旅行記です。

     真面目に解説かと思いきや >我が家には、あまり長くご滞在にならない方でしたが、まあ、それは、我が家の遺伝的な病気と申しますか、先祖は代々、猫の家系か、小判にも縁がなかったようだし、やむを得ない。< ユーモア交じりで面白く読めました。

     これからもよろしくお願いします。

                    熟年ドラゴン

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/06/17 21:17:43
    Re: フォローありがとうございます。
    アカデミックとおっしゃって頂けるようなものではございません。
    日本書紀をいじわる読みして、アラを探すのを楽しみにしている、根性悪ジジイです。筆者から絶対に反論がないことをいいことに、ないことないこと書き散らしております。

    このブログは妻との共作です。競作とも言います、向こうのがファンが多いもので。「一書に曰く」で始まり、「By妻」で終わるのが、妻のパートです。書紀の体裁を借りて、カッコつけております。
    By夫の実証主義とBy妻の浪漫主義と、ほめて(多分)いただくこともあります。負けないように、これからも重箱の隅つつきに邁進します。「いい加減にしてよ」と言わないで、これも前世の因縁と、あきらめてお付き合いください。

    フォローありがとうございます。

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