2020/12/22 - 2020/12/22
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日本書紀が語る厩戸皇子の生涯後半の一大イベントは、遣隋使の派遣です。
その後、書紀の記述の多くは、対隋、朝鮮諸国との交流の記録となります。
厩戸皇子は喜々として日本の古代史に輝く外交を展開したのであります。
六国史および参考書については、「六国史の旅 厩戸皇子1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
遣隋使船、では残念ながらありません。平城京跡朱雀門の南に展示されている、遣唐使船の実物大復元です。
第1回遣隋使は推古15年(607年)第1回遣唐使が舒明2年(630年)ですから、使われた船もそれほど大きな違いがないことにしましょう。
全長30m、全幅9.6m、排水量300トン。まあ、だいたいこんなものではないか。
★推古15年(607年)秋7月3日、
大礼(だいらい)小野妹子を大唐(もろこし、隋)に使わされた。鞍作福利(くらつくりの・ふくり)を通訳とした。★
大礼は位階十二階の5番目、それほどの高位ではありません。
「鞍作福利を通訳とした」とありますが、だからといって、小野妹子が中国語ができないということはありえない。中国語ができない人物をこの国家的大事業に使うはずがありません。
現代でも同じです。アメリカの大学院を出て英語が完璧にできる外務大臣でも、正式な外交交渉では通訳がつきます。通訳の間に返答を考える時間的余裕ができるので、双方ともこのほうが都合いいのです。もうひとつ、会議に出席する全員が英語が達者だとはかぎりません。
小野妹子使節団でも、蘇我馬子が情報収集のため送り込んだ100パーセント国内派もいたでしょう。こういう人物のためには通訳が必要です。 -
出典:同じ遣唐使船展示場。手作り感がいいと思いませんか?
隋の都は大興城ですが、唐の長安とほぼ同じ所だそうです。
コースは前期遣唐使が朝鮮半島沿岸コースの北路ですので、これと同じでしょう。
第1回遣隋使船は何隻だったか、書紀は書いていません。たぶん3隻。
★推古16年(608年)夏4月、
小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名づけて、蘇因高とよんだ。(妹=因・子=高-現代語訳注)★
「小野」はどこへ行ったんだろう。
交渉相手から通名をもらうくらいですから、中国語で丁々発止、やりあったのでしょう。「オノノイモコ」では向こうが興奮してくると舌を噛む。「舌が何枚あっても足らん、わるいけど、蘇因高と呼ばしてくれ」ってな感じかな。
タフネゴシエイターは相手から尊敬されるのです。
私は、小野妹子の隋朝のカウンターパートは、返礼使節となる裴世清自身だったと思います。
★続き
大唐の使人裴世清と下客(しもべ)十二人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成(なにわの・きし・おなり)を遣わして、大唐の客(まろうど)裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を高麗館(こまのむろつみ)の近くに造った。★
★推古16年(608年)6月15日、
客たちは難波津に泊まった。★
難波吉士雄成は筑紫で裴世清一行を出迎えたのです。また筑紫に着いたのが4月初めとして、6月15日までに新しい館を作れるはずがない。
つまり日本側は前もって唐の返礼使節団が来ることを知らされていた。
遣隋使船は2隻以上ということです。小野妹子が目的を達成し、裴世清の派遣が決まった段階で、第1船で日本に知らせた。
多分もう1隻隋に派遣していた。
現代の日本には政府専用機が2機あります。天皇、総理大臣の外国訪問の時に使いますが、2機が少しの時間差で同時に飛びます。万が一1番機に故障があったら、2番機がすぐバックアップします。外交の原則は古代も現代も同じはずで、連絡用に一隻使ったあとでも、小野妹子は手元に少なくとも2隻船を持っていたはずです。したがって遣隋使船は最低3隻。 -
戸皇子の対隋外交で有名なのは対等外交。
隋書と日本書紀を比べてみました。
「日出る処の天子、書を日の没する処の天子に致す」
という有名な文句は本当だった。
★隋書・倭国
隋の煬帝の大業3年(607年)、倭国の王の多利思比孤(たりしひこ)が、使者を派遣して朝貢してきた。その使者が言うには、
「大海の西方にいる菩薩のような天子は、重ねて仏教を興隆させていると聞きました。それ故に使者を派遣して天子に礼拝をさせ、同時に僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです」★
使者、小野妹子のこの口上は書紀にはありません。「僧侶数十人を引き連れて」とあります。創建法隆寺つまり斑鳩大学、四天王寺つまり難波津外国語大学の第1期生というところでしょうか。
★続き、
そして倭国の国書にはこうあった。
「太陽の昇る国の天子が、太陽の沈む国の天子に書信を差し上げる。無事でお変わりないか・・・」★
「日出處天子致書日没處天子」
「日出る処の天子、書を日の没する処の天子に致す」と訓まれる、有名な一文です。
この名文句は日本書紀では、帰国する裴世清に託した言葉となっています。国書を渡したとはなっておりませんが、文書を渡したはず。実質は国書でしょう。
★書紀推古16年(608年)9月5日、
客たちを難波の大郡(おおごおり、外国使臣接待用の使節-現代語訳注)でもてなされた。11日裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子を大使(おおつかい)とし、吉士雄成を小使(そいつかい)とした。鞍作福利を通訳として、随行させた。天皇は唐の君をとぶらって述べられるのに、
「東の天皇(やまとの・すめらみこと)が謹んで西の皇帝に申し上げます。使人鴻臚寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。東方は無事です。今大礼蘇因高・大礼雄成(難波吉士雄成)らを使いに遣わします。意をつくしませんが謹んで申し上げます」★
「東の天皇(やまとの・すめらみこと)が謹んで西の皇帝に申し上げます」の書紀原文は、
「東天皇敬白西皇帝」
隋書は「国書」と明記、書紀は使者に託した文書ですが実質国書。
隋書は使者の訪隋冒頭、書紀は使者が帰国する時にもたせた。
形式とタイミングは異なりますが、2文献の意味が一致している。本当だった。
やったんだ、厩戸皇子!
これに対し、
★隋書、
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(外務大臣)にこう言った。
「蛮夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように」★
煬帝が不機嫌になったのは、日本の天皇が隋の皇帝と対等だと言っていることです。「日の没する=西、日出る処=東」で当時の用語としては特に問題はないそうです。
「煬帝が不機嫌になった」とは日本書紀には書いてありません。 -
ところが隋は対等だと認めません。そりゃそうでしょうね。
天子=皇帝=天皇です。天子はだれに認められなくても初めから天子。王は天子に承認されて初めて王。
一言でいうと、おれは「天子」お前は「王」
★隋書倭国伝、
倭国の都に到着すると、倭国王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。
「海を渡った西方に大隋国という礼儀の整った国があると、私は聞いていた。そこで使者を遣わして貢ぎ物を持って入朝させた。私は野蛮人であり、大海の一隅に住んでいて、礼儀を知らない。そのために今まで国内に止まっていて、すぐには会えなかった。今、特に道を清め、館を飾って裴大使を待っていた。どうか大隋国の新たな教化の方法を聞かせてほしい」
裴世清が答えて言った。
「皇帝の徳の明らかなことは日月と並び、その恩沢は四海に流れ込んでいる。倭国王は隋の皇帝の徳を慕って教化に従おうとしているので、皇帝は使者を遣わしてこの国に来させ、ここに宣べ諭させるのである」★
隋側の記録ですから、天皇は充分にへりくだって、礼儀正しい。
常に上から目線で、隋の皇帝と倭国王は対等ではないと言っております。
特に天皇を「倭国王」と言って、皇帝の1ランク下においています。
「倭国王」の隋書原文は「其王」
「使者を遣わして貢ぎ物を持って入朝させた」と、つまり倭国は隋に朝貢してきたと、言っているわけです。隋書原文は「故遣朝貢」
「私は野蛮人であり・・・」はちょっと現代語訳がきつすぎるかと思いました。原文は「我夷人」です。「夷人」には、三省堂例解新漢和辞典によれば「野蛮人、未開人」という意味はあるようです。隋朝もあえて厳しい単語を使って「おれはお前よりはるかに偉いんだ」というニュアンスを出そうとしている。
これに対して書紀の言い分は少し違います。
★書紀推古16年(608年)秋8月3日、
(天皇の宮殿に裴世清は招かれ)使者裴世清は自ら書をもち、二度再拝(再拝を重ねて行う-現代語訳注)して使いの旨を言上した。その書には、「皇帝から倭皇(やまとの・すめらみこと)にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。
自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうととする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節は漸く暖かで私は無事である。鴻臚寺の掌客(外国使節の接待役-現代語訳注)裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」★
推古天皇と裴世清の会見の内容の大意は、隋書、日本書紀とも大体同じようなものです。
「倭皇(やまとの・すめらみこと)」は書紀原文ではそのまま「倭皇」で、「王」ではありません。対等だと言っております。
「天皇は海のかなたにあって」は「知皇介居海表」で「皇」だとしています。
隋の国書の原文は「王」でしょうが、書紀は「皇」と言い換えているわけです。書紀もせいいっぱい気張っている。
「遠く朝貢されること」は「遠侑朝貢」
「朝貢」とは格下が格上に貢ぎ物をもって挨拶に来ることですから、書紀も隋の皇帝が格上であることは認めているようです。ただし天子=天皇は譲らない。 -
厩戸皇子の対等対隋外交で実質的に一番重要なのは、天子だの王だの呼称の問題ではなくて、冊封を求めなかったことにあります。
倭は隋に「家来にしてくれ」と頼んでいない。隋も「お前はおれの家来だ」とはいっていない。
話は5世紀に遡ります。488年に完成したといわれる、宋王朝(420年-479年)の歴史書「宋書」に倭国伝があります。倭の五王(讃、珍、済、興、武)が421年から478年にかけて、宋の皇帝に「使持節・・・・倭国王」という、めちゃくちゃ長い称号を認めてくれと断続的に朝貢してきております。漢字変換が非常に面倒くさいので称号をここに書くのは勘弁して下さい。ときにより値切られていますが、そこそこ要求した称号が承認されています。「倭国王」は必ずOKでした。
最後は雄略天皇に比定される倭王武です。長い上奏文全文がのっております。その最後。
★順帝の昇明2年(478年)に倭王武は使者を遣わして上奏文をたてまつって言った。
「・・・かってながら自分に、開府儀同三司を帯方郡を介して任命され、部下の諸将にもみなそれぞれ官爵を郡を介して授けていただき、よって私が中国に忠節をはげんでいる」と。
そこで順帝は詔をくだして武を、「使持節・・・・倭国王」に任命した。★
このときは満額回答でした。
これが冊封ということです。
隋の煬帝と推古天皇がやりとりした国書には、このような話はまったくありません。
称号は双方家庭の事情があるのでいろいろ操作されているでしょうが、冊封関係がない以上、両国は当時の国際関係では対等であったということです。
やったね、厩戸皇子! -
隋書倭国伝の前に、この時代の隋とお隣さんち、高麗、百済、新羅、靺鞨、琉球国の関係が書かれています。せっかくなので読んでみました。
冊封とはこういうものか!
●高麗(高句麗)
隋書によれば、高麗(高句麗)は北周の時代(556年-581年)に湯高麗王湯(とう)が朝貢し、北周の武帝より冊封されています。その後隋にも朝貢し、
★隋は湯の称号を進めて大将軍とし、あらためて高句麗王に冊封した。湯は隋に毎年使者を派遣して朝貢は絶えることがなかった。★
ところが湯が隋の領土に侵入したことで関係が怪しくなります。
開皇17年(597年)隋の文帝が高句麗王に璽書を送ります。璽書というのは天子の印が押してある文書、要するに国書と言うことでしょう。これがすごい。
★・・・汝高句麗王は、いつも使節を派遣し、毎年、朝貢してくる。ところが、自分を中国の属国であると言いながら、その真心はまだ十分ではない。汝高句麗王は、すでに我が隋朝の臣下であるとなっているのだから、必ず朕の行うことに同調するべきなのに、今、靺鞨を駆り立て追い込み、契丹を閉じ込めている。もろもろの辺境民族がぬかずいて我が隋の臣下となっているのに、彼ら善人の隋朝を慕うことを怒って妨害するということは、どういう了見からなのか。★
この時代の事実関係がどうなのかはこの際問題ではなく、この国書の文言です。隋が冊封関係にある、つまり属国であるとみなしている国に、皇帝が怒って出す国書はこういうものです。
厩戸皇子の名文句、
「日出る処の天子、書を日の没する処の天子に致す」
★隋書、
煬帝はこの国書を見て不機嫌になり、鴻臚卿(外務大臣)にこう言った。
「蛮夷からの手紙のくせに礼儀をわきまえておらぬ。二度と奏上させることのないように」★
こうは書いてありますが、煬帝さん怒っているようには思えない。本当に怒っていれば、高句麗王あての国書みたいなのが出てきたはず。
筆の墨が渇かないうちの次の語句、
★翌大業4年(608年)、煬帝は文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した。★
しかも小野妹子の船に使者を同乗させている。怒っていれば、裴世清を乗せた5,6隻の艦隊の返礼使節団を送って、倭国を威嚇してもいいのではないか。
煬帝は倭国に対して紳士的です。
冊封を求めてこずに、対等外交を要求してきた倭国をそれなりに尊重する意思があったのではないかと想像します。要するに、交渉とは、気合ということらしい。
煬帝曰く「お主、なかなかやるな」
★隋書百済伝、
隋の高祖文帝の開皇(581年-600年)の初め、百済の王余昌が使者を派遣してその地の物産を献上してきた。そこで、高祖は上開府・帯方郡公・百済王の位を余昌に授けた。★
完全な冊封関係です。時代も遣隋使の607年と近く、ヤマト隋関係とは違いが分かります。
百済はこのあとも、607年、614年に朝貢したと隋書にあります。
★隋書新羅伝、
隋の開皇14年(594年)、新羅は隋に使者を派遣して土地の産物を貢納してきた。そこで、隋の文帝は新羅王の金真平を、上開府・楽浪郡公・新羅王に任命した。★
★隋の大業年間(605年-617年)以来、毎年隋朝に朝貢してきている。★
これでこの時代の朝鮮諸国はすべて隋と冊封関係にあったことが分かります。
倭国は隋にとっては、冊封を求めてこない、非常に不思議な国であったのです。 -
●靺鞨
靺鞨(まつかつ)は中国東北部、沿海州に住んでいた民族で、のち渤海国、さらには女真族として金、清を建国したそうです。この時代はまだ国としてまとまっていたとは隋書に書いてありません。しかし隋の異民族感がよく分かる一節があります。開皇年間(581年-600年)のことらしい。
★隋書靺鞨伝、
靺鞨の使者がやって来たとき、御前で酒宴を開いた。使者とその仲間はみな起って舞った。その舞の動作には戦いの形が多かった。文帝は傍らの臣下を振り返って言った。
「この世に、なんとこのような奴らがいるのか。いつも戦いのことが頭から離れない。ひどいことではないか」★
当時の中国人の異民族蔑視感むんむんのセリフです。
中華文明の中心の中心、皇帝の宮殿、しかも皇帝の目の前でどんな舞が舞われたのか、皇帝がびっくりするような物だったらしい。
●琉球国(台湾か)
倭国伝脚注によれば、隋書の琉球国が、沖縄と台湾のいずれにあたるかについては、いまではほぼ台湾と考えられているそうです。中国の遠征部隊のなかに崑崙人(現在のアンナン、カンボジア、マレー半島出身者)がいて、その人が琉球の言葉をよく理解した、となっています。なるほど、すると、台湾ぽいですね。
小野妹子使節団との関係で面白い記事があります。
★隋書琉球伝、
大業4年(608年)、煬帝は再び朱寛に命じて、琉球国へ派遣し、中国に服従させようとしたが、琉球は従わなかった。そこで朱寛は琉球の麻の鎧を奪って中国に帰った。ちょうどその時、倭国の使者が隋の朝廷に来ていて、この鎧を見ると、
「これは夷邪久(いやく)国のものだ」
と言った。★
小野妹子使節団は608年初めにはまだ隋の都におりました。年代は一致します。
ところが、夷邪久国とは屋久島のことだそうです。すると沖縄らしくなる。しかし当時の沖縄で、少なくともその一部で、カンボジア語かマレー語が話されていたというのは、どういうこと?
7世紀の南シナ海、東シナ海というのは、もしかすると想像以上に各民族が入り乱れて移動していたのかもしれません。
上述のように、隋書百済伝では607年に百済朝貢使節団が隋に派遣されております。新羅伝では、605年以降、新羅は毎年隋朝に朝貢してきている、となっています。
すると小野妹子は隋の都で百済や新羅の大使と会っているのではないか。何を話したか。
3カ国の使節が、大興飯店で大興ダックなどをつつきながら、情報交換をしたなんて、想像するだけで愉快。
新羅・百済「本当に煬帝は怒らなかったの?」
「別に、楽勝よ、わっはっは!」いばる妹子。なんちゃって。
そこにやってきた高句麗の大使。
「そのときの煬帝の表情はどうだったの?教えてくんないかな。あ、今夜の飯代うちが持つから」とか、ムニャムニャ・・・
この時代は、想像以上に国際性豊かだったのです。
ウイキペディアによれば、
★「三国史記」(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。1143年執筆開始、1145年完成。★
その三国史記の日本に関する記事を抜粋してまとめたのが、岩波文庫の「三国史記倭人伝」です。編訳したのは佐伯有清(さえき・ありきよ、1925年-2005年)教授で、同名の史書があるわけではありません。漢文原文、注釈つき訓み下し文、現代語訳からなり、私みたいな素人には、非常にありがたい本です。日本古代史研究者にも、日本書紀の記事のウラをとるには有益なツールだそうです。
★三国史記百済本紀の武王9年(608年)3月の条、
隋の文林郎の裴世が、使者となって倭国に行くのに、我が国の南路を経ていった。★
★推古16年(608年)夏4月、
小野妹子は大唐から帰朝した。★
という日本書紀の記述のウラが取れました。百済南部というのがどこだか分かりませんが、3月通過4月北九州着という日程が確認でき、北九州から隋への航路が、初期遣唐使と同じ北路である証拠となります。百済南部と北九州はそれほど遠くないので、3月末通過としても、4月初めには北九州着と推定できます。
ちょっと脱線。
日本書紀は不比等の潤色が入っているとよく言われますが、こういうディテールの記述が正確なのをみると、そうも思えない。。この場合、推古16年4月遣隋使が帰ってきたというのは、第三者の記録があり、間違いないということになります。ディテールに神宿ると申します。1413年前の出来事の月まで正確となると、全体も信頼していいのではないかと思っちゃいます。
本線復帰。
百済政府が、小野妹子使節団の存在を知っているというのが、びっくりです。
倭の遣隋使というのは、当時の東アジアでの無視できない一大イベントであったことが分かります。
上述のように同時期に百済使節団も隋の首都にいました。むしろ百済は遣隋使派遣の情報を事前に入手し、リアルタイムで情報を入手するため、この時期使節団を隋に送ったのではないか。裴世清の自国南部通過は当然事前に知っていた。
そういえば、新羅使節団も隋にいました。百済同様、バッチリ情報を仕入れて、本国に報告したでしょう。
厩戸皇子の対等外交の成功を目の当たりにして百済、新羅は何を思ったか。
東アジアのお騒がせ高句麗ですが、これ以降も隋に逆らい続けます。結果的には、隋は高句麗との戦いに疲弊して、滅びることになるのです。
強気に出れば隋も引っ込む、高句麗の高姿勢の理由に、厩戸皇子の対隋政策の影響がなかったとは、いえないのではないか。
その高句麗も、この戦いに国力を消耗し、やがて新羅に滅ぼされます。
要するに、厩戸皇子は東アジアで大変なことをしでかしたらしい。 -
書紀に変なことが書いてあります。
★書紀推古16年(608年)6月15日続き、
妹子臣は、「私が帰還の時、煬帝が私に書を授けました。ところが百済国を通るとき、百済人が探りこれを掠め取りましたために、これをお届けすることができません」と奏上した。★
この書簡に、煬帝の怒りが書かれていたという説があります。それを表沙汰にしないために、国書を盗まれたことにした。
しかし隋書にはそうした記述はありません。中国の正史は、滅びた前王朝の記録を、後世の歴史家が書くことになっております。したがって、今はやりの忖度はありません。前王朝の非は非として書く。
煬帝の書簡の記録が隋書にないということは、書簡そのものが存在しないか、後世の歴史家がその存在を発見できなかったほどの極秘であった、どちらかです。
煬帝の怒りの国書であれば、隋にとってそれを極秘にする理由がありません。前述の高句麗への璽書のように、皇帝の怒りはそのまま記録に残ります。
煬帝の国書は、裴世清が持参し、推古帝の前で読み上げられております。したがって、ここで問題になる煬帝の書とは、正式な国書ではなかったことになります。
さらに不思議なのは、小野妹子の失態は不問にふされております。流刑にしろという声もありました。しかし、
★書紀推古16年(608年)6月15日続き、
天皇は、「妹子が書を失った罪はあるが、軽々に処罰してはならぬ。大唐の客人への聞こえもよくない」といわれた。許して罪とされなかった。★
でき芝居ですな。
この件で分かるのは、
煬帝の書簡は極秘のまま記録に残さないほど隋に都合の悪いモノであった。
日本は書簡の内容は、記録に残さなかった。しかし書簡があったという事実は公開した。
以上の条件から、どんなモノであったか、推理、邪推するのは楽しくありませんか。皆さんもどうか充分に楽しんでください。
で、私の邪推は、 -
隋までの歴代中国の王朝に女帝はおりません。煬帝は倭の天皇が女であることに非常な興味をいだいた。帰国直前の小野妹子を非公式によんで聞いた。
「天皇は、美人か?」
妹子の答え。
「姿色端麗、進止軌制」(みかおきらきらしく、ふるまいおさおさし)
推古元年(593年)、推古帝即位のときに、書紀の記録にこう記されました。39歳であります。それから16年、宝算55歳、しかし美貌衰えず。高島礼子56才、沢口靖子55才、みたいな感じか。妹子は正直に伝えました。
煬帝はその場で詩を書き、私信を添えて妹子に託しました。煬帝は優れた詩人だったそうです。
「はるか東の国より書信をいただいた。お美しい天皇に直接お会いしたいが、いく千里の海原を隔て、それができないのは残念である。云々」
その後煬帝はこんな私信を送ったことを後悔し、密使をおくった。使者が妹子においつき、書信を取り戻したのは百済南部。
いかがでしょう、こんな事情だと隋に記録が残らないのは当然のような。
一方帰国した妹子は、当然写しておいた煬帝の私信を厩戸皇子と推古天皇に見せます。
推古天皇、「まあっ!」と言って頬をあからめたりして。煬帝この時39歳。
厩戸皇子「このことを裴世清は知っているか?」
妹子「はい、知っております」
皇子「手紙は、お前が百済で盗まれたことにする。盗まれたと記録に残す」
皇子は続けて、
「隋に留学生を送る。経費は向こうもち。隋の招待留学生だ。とりあえず8人、その後100人、いや200人送る。よろしく、と裴世清に言え」
推古天皇、妹子、まじまじと皇子を見たでしょうな。
妹子「場合によっては、私信の中身をばらす、ということですか」
天皇「皇子、私をダシに、かなりえぐいことをしますね」
皇子、ニコリともせずに「外交ですから」
ゴルゴ13風劇画タッチの厩戸皇子をイメージしてください。
このシチュエーションだと、手紙の内容は伏せたまま、盗まれたという記録だけが残ります。
お後がよろしいようで。 -
★書紀推古16年(608年)9月5日、
客たちを難波の大郡(おおごおり、外国使臣接待用の使節-現代語訳注)でもてなされた。11日裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子を大使(おおつかい)とし、吉士雄成を小使(そいつかい)とした。鞍作福利を通訳として、随行させた。(中略)このとき隋に遣わされたのは、学生倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高村漢人玄理・新漢人大国・学問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧陰・新漢人広済らを合わせて8人である。★
第2回遣隋使です。600年のなんちゃって遣隋使を含めれば3回目。
8人の名前に含まれる「漢、あや」「漢人、あやひと」「新漢人、いまき・あやひと」からいって、中国からの渡来系豪族の2世、3世でしょう。まだ実家では中国語が話されていたのではないか。特別に優秀だったので、創建法隆寺つまり斑鳩大学、四天王寺つまり難波津外大に入れて、鍛え直した。前年の第1期生に次ぐ2期生です。
斑鳩大学の開校は605年、初期の学生は、とりあえず中国語の基礎のある渡来系豪族から選抜したのは、やむを得ないところではないか。
これこそが、厩戸皇子の遣隋使の目的であります。はるか後年、明治維新のあと、新政府が欧米に選りすぐりの秀才を続々送り込んだのと、おなじ政策であった。優れた文化を導入することに積極果敢であった、これが厩戸皇子の古代史に輝く大仕事であったのです。
この想像は、かなりの確率で当たっていると思います。
この8人の1人南淵漢人請安(みなみぶちの・あやひと・しょうあん)は、後年中大兄皇子と藤原鎌足の儒教の師となった人物です。
第2回遣隋使に同行した通訳・鞍作福利ですが、
★推古17年(609年)9月、
小野妹子らが大唐(隋)から帰った。ただ通訳の福利だけは帰らなかった。★
もともと渡来系豪族の出身です。故地中国で同族に引き留められたか、あるいは現地妻ができたか。
私の想像では、日本の現地駐在官として大興に残ったのではないか。このあとも遣隋使の派遣は続きます。そのとき、現地に出先機関があった方がなにかと便利です。
初代駐中国大使であります。
★推古22年(616年)6月13日、
犬上君御田鍬(いぬかみのきみ・みたすき)・矢田部造(やたべの・みやつこ)を大唐(隋)に遣わされた。★
★推古23年(617年)秋9月、
犬上君御田鍬・矢田部造が大唐から帰った。百済の使いが犬上君につき従ってやってきた。★
第3回遣隋使が往復しました。行き、帰りとも書紀ではベタ記事です。厩戸皇子の敷いたレールに乗って、もはやルーティーンの行事になったということでしょう。
百済の使者が同行しています。帰りは、船に外国使節を便乗させるくらいの余裕があったということです。ということは、行きは大人数の留学生を乗せていたと想像できます。
618年隋が滅び、唐がこれに代わりました。日本の留学生は、この歴史的大事件に立ち会ったことになります。
★推古31年(623年)秋7月、
新羅が大使奈末智洗爾(まなちせんに)を遣わし、(中略)来朝した。このときに唐の学問僧の恵齊・恵光および医者恵日・福音らが、智洗爾らにしたがってやってきた。恵日らが、「唐に来ている留学生たちは、もうみな業を成し遂げております。お召しになるべきでしょう。かの大唐の国は、法式完備の立派な国であります。常に往来して交わりをもつのがよいでしょう」といった。★
このうち福音は小野妹子の第2回遣隋使(609年)に従った留学生です。そのほかは、607年の第1回、608年の第2回、617年の第3回遣隋使同行の留学生ということになります。
厩戸皇子は前年推古30年(622年)には薨去しています。しかしながら、607年の第1回遣隋使より16年、皇子の中国文化導入政策は、結実しようとしております。
ちょっと驚くのは、恵日・福音らは新羅の大使の船に乗って帰国していることです。617年には百済の使節が第3回遣隋使の帰国船で来朝しています。この時代、日本、百済、新羅は隋、唐との交流では、便宜を計りあっていたことが分かります。
★舒明2年(630年)秋8月5日、
大仁犬上君御田鍬(いぬかみのきみ・みたすき)・大仁薬師恵日(くすし・えにち)を大唐に遣わした。★
628年に推古天皇は崩御しました。
遣隋使は遣唐使と呼び名が変わりましたが、事業は継続されました。初代遣唐使の犬上君御田鍬は、推古22年(616年)の最後の遣隋使と同じ人物です。薬師恵日は推古31年(623年)に新羅の船で帰ってきた医者恵日です。
留学生が帰国後重要な地位について、自身が遣唐使になる。人事の好循環が始まったのです。しかも医師、つまり技術者を遣唐使にしている。日本は、経典や仏教などではなく、もっと直接ハラの足しになるものを、唐から導入する明確な意図をもっていたことがわかります。
「留学生を呼び戻せ」という恵日の7年前の進言は、恵日自身が実行しました。各分野で専門家となった、大量の留学生が帰国したでありましょう。
厩戸皇子がこの光景を見ることはありませんでした。しかし状況は、彼の計画通りに進行したのです。
天国か極楽かしりませんが、そこで彼は、「次は誰が書くのか知らないが、17条憲法のようなモノは、もうちょっと楽に書けるな」と言ったにちがいない。 -
お話は前に戻ります。
★推古13年冬10月、
皇太子は斑鳩宮に移られた。★
厩戸皇子31才。
斑鳩宮(現在の東院伽藍)完成です。創建法隆寺も同時期に完成といわれております。
皇子の引っ越しは、書紀では極めてあっさりとしています。
ところが、聖徳太子伝暦では、またもやメロドラマになります。
編者藤原兼輔は、よっぽど女を物理的に泣かせるのが好きなのです。
私の厩戸皇子のイメージは、ゴルゴ13の劇画タッチ。このブログを書き始めて、コメントのやりとりで、二つの有名な少女コミックがあるのをおしえていただきました。山岸涼子の「日出処の天子」と池田理代子「聖徳太子」
アマゾンで本の表紙のイメージを見て、びっくり。ゴルゴ13とはえらい違います。まあ、しょうがない、このまま押し通します。
そこで聖徳太子伝暦を読んでみて、またびっくり。びっくりの2乗。
これもまた、漢文原文、訓み下し、現代語訳を並べます。
伝暦によれば聖徳太子34歳、推古13年
★冬十月、太子遷于班鳩宮。(中略)拜別天皇埀涙曰、朕雖爲人主、唯憑皇太子、天下万機日夕下行。子遠別斑鳩、朕所不快。太子辞謝奏曰、雖居別宅、臣何以敢離宿衛之下。★
訓み下し文
★冬十月に、太子于班鳩の宮に遷りたまふ。(中略)拜別したまふとき天皇涙を埀て曰く、朕人主為(た)りと雖も、唯皇太子を憑(たの)んで、天下の万機日夕に下し行ふ。子(なんじ)遠く斑鳩に別れなば、朕快(こころよ)からざる所なり。太子辞謝して奏して曰たまはく、別宅に居すと雖ふとも、臣何を以か敢て宿衛之下(もと)を離れたてまつらん。★
大意現代語訳
★ 冬に太子は斑鳩宮に遷った。
それを天皇に伝えると、天皇は涙を垂らして、太子を引きとめた。
太子は天皇に感謝して、別宅に住んでも天皇から心は離れませんという旨を伝えた。★
現代語訳の大意に補足します。たしかに訓み下しは「涙を埀て」ですが、やはりここは「涙を流して」の方がいいと思います。じゃないと、鼻水をすするような感じ。
しにあ流トンデモ訳だと、
推古天皇が涙を流して聖徳太子にすがり、「行かないで!」と引き留めた。「私は天皇といったって、頼るのはあなただけよ。遠くに行っちゃたら、私どうすればいいの?」
太子「とめてくださるな、推古様。離れて住んでも、心はいつも推古様と一緒です!」
これ、高倉健です。推古天皇はさしずめ倍賞千恵子。こういう場面、なんかの映画であったような。
すげー、さすが伝暦。聖徳太子伝暦というのは、日本書紀を原作とする小説なのだ!
そう思って読むと、すごくおもしろい。
つまり神格化された聖徳太子像のほとんどは、小説聖徳太子伝暦をベースにしていることになるのです。 -
正面東院伽藍四脚門、背後の夢殿の屋根。
-
斑鳩宮は厩戸皇子の宮殿でした。推古13年(605年)にここに移り住んでからは、飛鳥小墾田宮まで約20kmを通勤したことになります。太子道といわれる直線道路が建設されました。20kmというと、普通の馬の巡航最高速度は時速16kmですから、1時間ではちょっときつい距離です。この距離を通勤していたので、愛馬甲斐の黒駒の伝説ができたのでしょう。非常に優秀な馬なら20kmをもっと短い時間で飛ばせたかもしれません。
甲斐の黒駒の話は、書紀には出てきません。
伝暦によれば
★以後、太子は毎朝黒駒に乗って来朝し、政務が終わるとすぐに斑鳩に帰るようになった。
しかし、日日に間(ひま)旡(とぼ)し(日増しに飛鳥に居る時間が少なくなり)、時の人々はそれを怪しんだ。★
伝暦が書かれた平安時代初期でも、朝晩の通勤は普通の馬では無理だと思ったらしく、黒駒という特別に優れた馬を想定したらしい。
「日増しに飛鳥に居る時間が少なくなり」とは何ですかね。この記事の後日談はないので、詳細は伝暦では不明です。 -
夢殿。
斑鳩宮は厩戸皇子の死後、第一皇子山背大兄王(やましろの・おおえの・おう)の宮殿でしたが、皇極2年(643年)に蘇我入鹿の兵が宮を急襲したと書紀は伝えています。
★皇極2年(643年)11月1日、
山背大兄王は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。そして妃や子弟らをつれて隙を見て逃げ出し生駒山に隠れた。(中略)巨瀬徳太臣(こせの・とこだの・おみ)らは斑鳩宮を焼き、灰の中に骨を見て、王は死んだものと思い、囲みを解いて退却した。★
このあと、山背大兄王は斑鳩寺に戻り、内戦を避けるために一族そろって自決しました。
現在の東院伽藍は、天平11年(739年)僧行信により創建されたものだそうです。 -
夢殿を一周しながら考えました。
なぜ、厩戸皇子は、飛鳥から20kmも離れたここに宮を作ったのだろう。
一つの答えは、難波津に近かったからではないかな。入港してくる日本船、朝鮮諸国船、中国の船の船長から外国の情報を直接聞きたかった。船長を呼び寄せるもよし、場合によっては自分で難波津に駆ける。飛鳥からでは、皇太子、この場合推古政府の首相が血相変えて馬をとばすことになるので、気楽にはできません。
厩戸皇子が斑鳩宮に移ったのは推古13年(605年)です。第1回遣隋使は推古15年(607年)です。隋と高句麗の関係など、東アジア情勢をしっかり把握して、今なら対等外交を隋に要求できると、読んだのではないか。 -
もう一つの答えは、自ら法隆寺の学生に教鞭をとった。東アジアの国際情勢を自分以上に把握している人間はいない。やがて国家の実務をになう人材に自分の知見を直接伝授したい。
-
三つ目、たぶんこれがもっとも切実な問題ではないか。法隆寺の学生を引き抜きから守る。
彼が手塩にかけた学生は、中国語ができて、隋や朝鮮諸国の実情に詳しい。有力豪族が、自分の寺の建立などに喉から手が出るほど欲しがっている人材です。
しかしまだ学半ばの有為の人材を引き抜かれては困るのです。厩戸皇子が考えている人材養成は、国家百年の大計に基づきます。それをたかが豪族の私益のために消耗させるわけにはいきません。
そのためには、自分が斑鳩大学のすぐ近くに居座って、目を光らせるのが効果的だ。 -
もとより何らかの文献資料に基づく推測ではありませんが、仏教の哲学的瞑想にふける、などというのんきな話より、事実に近いのではないかと思います。
「日増しに飛鳥に居る時間が少なくなり」という聖徳太子伝暦の一文に、「そうだろうね」と納得してしまうのでした。 -
2020年の夢殿本尊救世観音の秋期特別開扉は10月22日-11月22日でした。私たちが訪れたのは11月19日、幸運にも直接拝顔できたのです。しかし撮影は外からでも禁止、内部は暗くて、正直いってはっきり見えませんでした。
この扉の奥にいらっしゃいました。 -
★書紀推古29年春2月5日、
夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された。(中略)この月、太子を磯長陵(しながの・みささぎ)に葬った。★
磯長陵は現在の叡福寺の境内にあります。 -
宮内庁はこの陵を厩戸皇子の陵墓と治定しております。専門の考古学者もその可能性が高いと認めております。宮内庁は大体あさっての古墳を陵墓と治定することが多いのですが、珍しいことです。
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宮内庁の治定以前に実際に入室した人々により詳細な記録、絵図が現存しています。
「品」の字の形に、3人の柩の柩台が残されており、上が穴穂部間人皇女(用明天皇皇后、皇子母)、下の右が厩戸皇子、左が膳部菩岐々美郎女(皇子妃)と考えられるそうです。
この玄室と柩の実物団模型が大阪府立近つ博物館に展示されています。行ってきました。しかし、展示室のすぐ近くにあったので、「出るときに写真を撮ろう」と思って、そのまま忘れてしまいました。たしか入口と出口が違ったような。この旅行最大のドジでありました。 -
古墳は円憤で、南に開口しています。
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天保15年(1844年)開口部に唐風の御霊屋が加えられました
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古墳を二重の石柱列が取り巻いておりました。
内側が嘉禄元年(1225年)以降の設置、中段結界石。外側が享保19年(1734年)頃以降、下段結界石だそうです。 -
中断結界石上部にはπに似た梵字が刻まれています。これですね。聖観音を意味するそうです。
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この陵墓も盗掘されております。しかしながら、「聖徳太子の墓」(京都橘大学名誉教授・猪熊兼勝)によれば、
★太子墓は、天皇陵クラスの古墳のなかで、古代以来、近世まで太子信仰に護られて、叡福寺によって保存、伝承されてきた。九世紀の延喜年間以来、十七世紀の元禄年間まで検証されなかった天皇陵と大きく異なる点であろう。★ -
聖徳太子信仰というのは、相当古そうです。
720年成立の日本書紀を読むと、確かに厩戸皇子は賞嘆すべき人物と描かれてはおります。しかしこれだけだと、とても後世信仰といえるものが成立するとは思えないのです。
「上宮聖徳法王帝説」は810年-824年ごろの成立だそうです。聖徳太子の最初の伝記で、ギンギンの学術書みたいなもんです。私はなにか調べる必要がなければ触りません。漢文読めないし、訓み下し文だって、苦労して読むほど内容がおもしろくない。
でもこの文書の作者は、すごい情熱でこの本を書いている。622年の聖徳太子つまり厩戸皇子没後約200年、書紀成立後約100年です。この時代にすでに「聖徳太子の伝記を書こう!」と作者を奮い立たせる何かがあったということです。
一方917年成立といわれる「聖徳太子伝暦」は、それまでの太子伝説の集大成で、その後の伝説の源流だそうです。大意ですが現代語訳もあるし、これというところを見当つけて訓み下し文を読めば、めちゃくちゃおもしろい。まさに小説聖徳太子です。太子没後約300年、書紀成立後約200年、「帝説」より時代が100年下がりますが、集大成するほど伝説、伝承があったということになります。
720年の書紀だけだと、「帝説」も「伝暦」も書けません。つまり文書か、伝承、伝説かは別として、書紀以外に聖徳太子に関わる情報がこの時代にあったのです。
6世紀後半から7世紀前半にかけて、古代日本の政治、文化、外交を取り仕切った天才がいた。200年後、300年後に、伝記を書こう、伝承、伝説をまとめようと、当時の一流の文化人の情熱をかき立てた人物がいたということです。
私は、厩戸皇子または聖徳太子に相当する人物は確実に実在したと思います。
日本書紀の作者は、100年前に死んだその人物の情報をかきあつめた。当然伝承伝説も文字に起こされたはず。その上でその生涯を描写するとき、筆を抑えて書いたのではないか。歴史書ですから、あまり突飛なことは書けない。当時の常識でも「これはなあ~」と思うようなエピソードは採用しなかった。
そこでボツになった資料が、100年後、200年後の「帝説」「伝暦」のネタなのではないかと思うのです。 -
西方院ホームページより。
「推古天皇の30年(西暦622年)に聖徳太子御薨去のあと、
月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)三姫は剃髪され、
その名も善信・禅蔵・恵善と称されて、太子御廟の前に一宇を建立して、
太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置して、ひたすら弥陀の西方浄土を
欣求されたとつたえられております」 -
これから全部By妻。
叡福寺の真ん前に、西方院があります。
太子町太子という住所です。
太子町のエッセンスみたいな名前です。
あの二上山を越えた大阪側にある町で、山を越えたらこうも雰囲気が変わるものかと驚きます。世の中には、美人なのに、っていわれる美人がいますが、そういう感じの町です。個人の感想ですが。
叡福寺は、立派な堂々たる建物で、折しも太子1400年忌で、さらにさらにご威光輝くばかりにしつらえてありました。
が、コロナと平日のせいか、それほどの人出ではありませんでした。
お参りを済ませて、坂道を下って参りますと、目前に、なにやら趣のある建物が。
このときのわたくしメは、聖徳太子にもその周辺にもあまり興味がありませんでした。
行く先々の博物館で、お目々ぱっちりのイラストの推古天皇、持統天皇、そして善信尼なんてポスターがありました。が、軽く考えてしまって、よく見ても居なかったです。善信尼ってだれよ?
ということで、地蔵堂の方が目立って、その側の説明板もついでに、という感じで読みます。
聖徳太子御薨去のあと、太子にお仕えした三人の侍女が剃髪して、と書いてあります。ふーん。
聖人偉人も、その故郷では受け入れられないものだと聞きますが、聖徳太子という人は、常住坐臥、本当に立派な人だったのねえ。そうでなければ、身近な人が、その後に続こうとはしなかったでしょうから。
でもまだ、惹かれるものは、あまり感じません。
けれど、細い道の先にある寂しげな建物が、なんとしても奥ゆかしく惹かれるのです。呼ばれるというか。 -
By夫は、もはや疲れたのか、車に向かっております。誘うのですが、叡福寺に上りまして、散々歩き回りましたあとで、もう、いいよ。だそうなので、ひとりで西方院への坂道を上ります。
-
叡福寺と西方院とは、谷を隔てて向かい合っているのです。
登って行く途中にかわいらしい石橋がありまして、小川が流れておりました。う~ん、いい感じ。
参道は細く、石畳なのですが、左右から攻め寄せてくる住宅に押しつぶされそうな、ここは、ど~この細道じゃあ。
西方院そのものは、ものすごい美人なのですが、この攻め寄せる家並み。これが、岩下志麻をナントカ恵美子にしちゃうのですよ。
西方院は、小さな可愛らしい、質素清潔な中にもなにやら柔らかな空気が流れる、いい尼寺でした。
叡福寺との対比は、ベルサイユ宮殿とプチトリアノンみたいで、ほほえましかったです。
間を流れる川といい、谷を隔てた作りといい、なんだか白線流しみたいだな。 -
西方院にも、地蔵堂の横と同じ説明書でした。
ただ、善信尼、俗名月益 蘇我馬子の娘。禅藏尼、俗名日益 小野妹子の娘。恵善尼、俗名玉照 物部守屋の娘。
と書いてありまして、俗名が、月、日、玉照って!
おもしろいですね。
ところが、その父親の名前が、馬子、妹子までは、納得。けれど、物部守屋の娘って!?
えーっ、父親は、ああでも娘は?
酒乱とギャンブルで身を持ち崩した父親の、健気な娘ってことでしょうか?
なんとなく釈然としません。守屋さん、意外と人気あったってこと?
頭に?いっぱい。
調べてみました。
善信尼さんたち、実は、物部対蘇我の宗教戦争に先立って、守屋の意向で、尼さんたちが海石榴市で、袈裟をむしりとられ、むち打たれた事件がありました。その尼さん方だったのです。
キリスト教にも女性の受難が数多く伝えられて、その女性たちは、聖女と呼ばれるようになりますが、まさにその聖女だったのです。
善信尼という人は、574年生まれだそうですから、そのむち打ち事件は585年ですから、わずかに11才。
あんまりではないですか!
あとの二人も似たような年頃だったようです。
三人は、常に行動を共にしております。
善信尼さんが中心で、あとの二人は、彼女の弟子だそうです。
けれど、11才の少女の弟子ってねえ。
天正の遣欧少年使節のように、四人が使者だったけれど、その間に身分差があった、他の三人は家来であったのと同じだったことでしょう。
とにかく、この人達は、守屋滅亡の後に百済に仏教の勉強に留学しております。
出家したのも、女性だけでなく、男性を含めても、日本初めてだそうですからすごい人達です。
聖女であり、また元祖津田梅子。
でも、となると、當麻寺の中将姫の話は、どうなっちゃうんだろう?
女は救われないとかって、中将姫さん苦労するんですよね。
それに、585年に11才って、守屋滅亡、あの八尾の大聖勝軍寺ですよね、あそこで守屋が滅亡した年には、13才ということになりますね。
聖徳太子と年変わらないじゃないですか?
西方院の三人は、聖徳太子の乳母だったと書いてありますから、同じ人ではないのかな?
わたくし、大混乱。途方に暮れております。
途方に暮れましたけれど、まあいいや、あのなんとか恵美子さんの大阪ですもん。良いんだよ良いんだよ。細かいこと言わんと、楽しゅう、仲よう、いきまひょ。なんだろか?
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この旅行記へのコメント (8)
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- 前日光さん 2021/08/07 15:59:46
- 消えた煬帝書簡の謎(?_?)
- しにあさん&by妻さん、こんにちは。
暑さのため思考停止中で、何に重点を置いたらいいのか焦点が絞れず。
それで幻の煬帝書簡の内容を、しにあさんが例によってトンデモ考察しているのに(@_@)となり、ありうるかもと納得しました。
煬帝って、女好きそうだし(^^;)
それにしても推古様に色目を使ったとな?
厩戸皇子が、それをうまく歴史上から消去したというのに私も一票!
厩戸皇子なら、後世にこんなしょうもない書簡を残してもなぁと冷静に判断したのでしょうね。
推古様は高島礼子様のイメージですか。
あの人なら悪役もできそうだし、時には厩戸皇子にも皇子がギョッとするような色目を使いそうだし。。。よろしきキャストと思われます。
でも皇子がゴルゴのイメージなのには、未だに賛成しかねます。
山岸凉子様の「日出処の天子」に深く影響されてしまい、そのイメージを180度転換するのは無理なのです。
皇子が突然夢殿に籠もってしまった理由についても、瞑想するためというよりは、法隆寺の学生を引き抜きから守るために目を光らせていた説、納得です!
それでなかったら、片道20キロもの道を毎日往復しませんよね。
夢殿の救世観音像をご覧になったのですね!
この観音像、モデルは太子とも言われていますが、あの微笑みは確かに奇妙な謎に満ちています。
アルカイックスマイルだったら、中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像の方が好きですし。
それにしてもあの夢殿で、太子はどんな宇宙観にその脳髄を煩わせていたのでしょう?
聖徳太子など存在しなかったという説には、猛烈に反論します。
天才というのは、数千年に一度は世に現れるものであり、それが日本にとっては聖徳太子であったと信じています。
西方院には気づきませんでした!
by妻さんの西方院訪問記を拝読しますと、行かなかったことを激しく後悔。
(しにあさんもそうなんでしょ?)
「美人なのに、っていわれる美人がいますが、そういう感じの町です。」という表現に納得です!
でも大阪だから「なんとか恵美子さん」になっちゃうのね!
岩下志麻さんを凌駕しちゃう「なんとか恵美子さん」のパワーには参りますね。
大阪のイメージを低下させることには貢献してますね。
聖徳太子のことについては,書かずにいられない人がいて、それが「小説聖徳太子伝暦」となって、数々の聖徳太子神話を後世にイメージさせることになったとか。
太子はそれだけ、魅力的な人だったということなのでしょうね(^-^)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/08/07 18:20:11
- Re: 消えた煬帝書簡の謎(?_?)
- 今回はめちゃくちゃ暴走しました。読む方に大変ご迷惑をおかけしました。
多分、家持に「窃」の責任を負わせたやつ以来の、妄説、暴説。これで終わるかというと、さにあらず、これからも出てきちゃうと思います。
聖徳太子という名前は8世紀に淡海三船が作ったのは確実なので、彼が実在したかどうかを議論しても無意味です。書紀がいう厩戸皇子が実在したかどうかなら、確実にいたと、今回確信しました。それが「厩戸皇子」という名前ではなかったかもしれません。
でも伝暦や帝説などそれほど時代がたっていない時期に、これほどの書物が書かれるというのは、その対象になった人物はやっぱりすごかった、と考えないと、辻褄が合いません。
伝暦なんか、完全にファンタジー小説ですよ。誰か現代語に訳してくれないかな。物語の親は竹取物語だというようなことを言ったのは、確か紫式部でしたよね。電暦の方が古い。しかも著者はひいお爺さんかもしれないのに。読んでいなかったのかな。
「日出処の天子」のイメージ、あれで「外交ですから」と言わせるには無理がある。
前提と環境を変えると、これほど歴史上の人物のイメージは変わるのですね。これだから歴史の縦の旅はやめられない。
このラブレター説は、歴史のとんでも解釈、自分でも気に入っています。
ところで、前日光さんのトラベラーページの写真、吉野の浄見原神社みたいに思えるのですが。行ったことはないのですが、こいう岩屋に囲まれた神社はそうはないと思うので。
- 前日光さん からの返信 2021/08/08 00:01:26
- RE: Re: 消えた煬帝書簡の謎(?_?)
- こんばんは。
質問に答えます。
> ところで、前日光さんのトラベラーページの写真、吉野の浄見原神社みたいに思えるのですが。行ったことはないのですが、こいう岩屋に囲まれた神社はそうはないと思うので。
→残念ながら、この神社は奈良にはありません。
出雲の島根半島にある「韓竈(からかま)神社」と言います。
出雲出身の俳優佐野史郎さんが、テレビで紹介していたのを見て行ってみました。
その当時は、おおざっぱな地図には載っていませんでした。
今ではたいていの地図に載っています。
崩れかかった石段をけっこう登り、大きな岩と岩の間を通り抜けないと辿り着けません。
夏に行ったので、石段登りがつらいし、石の間の通り抜けも苦労しました。
祭神はもちろん素戔嗚尊です。
大昔の私の旅行記にあるのですが。
後で紹介しますね。
前日光
- 前日光さん からの返信 2021/08/08 00:07:21
- Re: 消えた煬帝書簡の謎(?_?)
- 大昔の私の旅行記です。
もう10年も前のものです。
↓
https://4travel.jp/travelogue/10635365
お時間がありましたら、覗いてみてください。
前日光
-
- mistralさん 2021/07/31 21:43:16
- 太子像に迫られて。
- しにあの旅人さん
こんばんは。
今回の旅行記 「東アジアの厩戸皇子」一度読んだだけでは心に染み込まず
2度目にしてしにあさんの思惑の片鱗がチラッと見えてきました。
この酷暑の折、フォロワー (私です) にとりましては難解の旅行記でした。
それでも太子1400年忌の折、記念すべき旅行記である事間違いないと思います。
日本書紀は歴史書である以上、その中で描かれる聖徳太子像であまりに突飛な
ネタはどうしても省かれてしまったけれど
100年、200年後になっても当時集められていた太子伝をどうしても後世に
残そうとの情熱を抱いていた人がいた、、、
それがしにあさんの愛読書の「聖徳太子伝歴」につながるのですね。
聖徳太子ほどの人物は、実は実在していない?とか複数の人物の寄せ集め?
などとも言われる昨今、しにあさんは太子像に迫られ、多くの文献から
検証され、確かに
知略、品格ともに優れた人物が存在した事は間違いない事を述べられました。
随の都での百済、新羅の外交官との小野妹子の丁々発止のやり取り
外交とはさもありなん、気合がち、なのですね。
東アジアの諸国、三つ巴、いや四つ巴になっての聖徳太子の暗躍ぶり、
倭国は隋とは冊封関係ではなかった、凄いことです。
2度目で、読み込んでみたら旅行記の面白さに気づいた次第です。
終盤のby妻さんのエッセイ
いつもながらの雨あがりの後のような清涼感に満たされていて秀逸でした。
太子の乳母 (という言葉はなんだか違和感が) のお三人の西方院
私も門前に立って呼ばれてみたい、と想いました。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/08/03 09:31:55
- Re: 太子像に迫られて。
- あついですね。でも、体重7んキロになり、朝の散歩を始めました。汗だくで帰ってくると1キロ減ります。増量ぶんがまだ水分のうちに減量せねば。
じっくり読んでいただいて、感謝感激です。
日本書紀は不比等の手が入っているなど、いろいろ批判があります。でも実際に読んでみると、これは当時の現場の記録をベースにした歴史の事実の記録なのだという印象です。
遣隋使が帰ってきた月まで、百済本紀という外国の歴史書でウラが取れてしまう。壬申の乱の端役の文ね麻呂のお墓が墓誌ごと発見されて、実在が証明される。こういう細かいところまで正確に記述されているとなると、全体の編集方針も、実直でクソ真面目なのではないかという印象です。
村国男依に凝っているのですが、彼を祀る神社とお墓が岐阜県各務原市に現存しています。次のブログの主人公です。
厩戸皇子も抑えて書いている。もっと突拍子もない資料もいっぱいあったけれど、つかわなかったのではないかな。都が、平城京から平安京に落ち着くまで、目まぐるしく動きますよね。あの時のどこかで散逸したのではないかと。
mistralさんも、引っ越しの時、古い本や手紙が出てきて、どうしようか、まあ、いいや、捨てちゃお、というのがありませんか。
西方院はバテバテで、ギブアップ。By妻に丸投げしました。そのほうがよかったみたい。本人もおほめにあずかって、喜んでいます。あの人は、誉めればメタセコイヤのテッペンまで登る人ですから、どんどんお願いします。
-
- kummingさん 2021/07/31 11:50:46
- あれっ?
- 毎日、暑い、酷暑、の中、久しぶりに読み応え満点以上のブログ(汗)、ありがとうございます♪
遣隋使のお話、ちょっと前にBSプレミアムの「英雄たちの選択」とかいう、学者っぽくない派手なジャケット、ネクタイの人が司会で、出演者(皆さん各方面の識者さん)が言いたい放題、其々に自説を繰り広げる、出演者が一番楽しそう?な番組で、初めて「聖徳太子」をやっていて(再放送かも)、遣隋使について検証されていました。
それによると、第一回かな?初めての遣隋使(太子以前)は、倭国の政治は変な時間帯にやってる?みたいな事で、「蛮族」と認定されたので、そこを猛省して、次の遣隋使派遣までに国内の法整備や行政の拠点を整えた、とかって言ってたような?
隋からの使者が来日して通る道すがら(川?)から見える場所に宮や寺を建設したのも太子の戦略ですね。
その番組では、煬帝は使者の口上で「仏教に厚く仏教による治世を行っている」事を褒められて喜んだけど、問題は渡した文書の件の「日出処の……」で、2度とこんなの読ませるな!でも全体としては、自分の治世を褒められて+-、割と好印象だったのでは?と。「日出処の…」だけに焦点を合わせない読み方が紹介されていました。
いつもはあさって、の宮内庁正定の陵墓も、厩戸皇子に関してはお墨付き?古墳に開口してるってのは、初めて見ました。が、玄室と柩の実物大模型、見たかったな~(←傷口に塩)
「上宮聖徳法王帝説」(しにあさんでさえ手が出ない学術書)も、「聖徳太子伝暦」(面白くてしにあさんの妄想力、いえ、創造力をかき立てた)も、わたくしには豚に真珠でございますが、没後100年、300年に成立したという事は、その間に記紀に書けなかった伝承伝説があった!当時の知識人を「聖徳太子伝」を書かなきゃ~、と駆り立てる、太子信仰の様なものがあったのですね。
思えば、教皇が振りかざす神意に捉われない官僚組織育成の為、ナポリ大学を創設、教皇が唱える神権政治的国家秩序を排し、皇帝の意志と緊密な国家行政機構による統治を目指す新法典公布、「権威の根拠をカトリックでなく古代ローマ帝国の栄光に求め」法治国家体制を目指したFDIIも、志し半ばにして病歿、しかも子孫断絶という憂き目に
(ToT)
何が言いたいのか、というと、FDII にも、「死後甦り伝説」というのがドイツに残っていて、今やそれはFDIIのおじいちゃん、バルバロッサの伝承とされていますが、もともとは彼の蘇り待望論から生まれたものであるらしい。ニヒリストのFDIIより単純明快人好きのする祖父バルバロッサの支配像にすり替えられているとはいえ、祖国の危機を救う為に深い眠りから覚める、という皇帝伝説が残るFDII♪
厩戸皇子もその子孫断絶、という惨事に見舞われた事を思うと、この天才2人の未完の大志と没後の世界に暗澹たる気持ちになります。しにあさんとby妻さんが「悲運の姉弟往来、大津」を物語られたその動機、心情に通ずる、後世に残したい物語、伝承、というものがある!
斑鳩に引っ越した動機、さもありなん、ですね♪ 人材育成は国家100年の大計、引き抜き防止策は必須です。
夢殿本尊久世観音、あの何百年も白布でぐるぐる巻にされて、開いたら天変地異が!とされていた秘仏ですね?薄暗い中でもお目にかかられたとは何という僥倖♪ お二人の日頃の心持ち、善行へのご褒美でしょう。
by妻さんお薦めの西方院、単独行動ですか?あれ、しにあさん、反省が活かされてないいじゃん(°_°)お宝をまた一つ取りこぼしましたね?!?!
美人なのに…、の後に続くのは、奥ゆかしい、でしょうか?西方院のご三方、太子と同年で乳母?はちょっと謎(*_*)ですが、年代記の誤記とか何とかですかね~昔の女性は一部とはいえ、政治や学問、宗教の世界でも活躍の場があった事にびっくり。
オリンピック反対派急先鋒、を任じていた私、今や観戦応援団化、身替りの速さ(笑)恥ずかしげもなく、パソコン、タブレット、スマフォにTV、4画面同時放送中^o^
が、しか~し、この後の日本の出入国管理が更に厳格になり、海外への道が遠ざかる~(ToT)
- しにあの旅人さん からの返信 2021/08/01 10:38:21
- Re: あれっ?
- 猛烈に長いやつ、ご苦労様でした。読むの、大変だったでしょう。
こいつは、最初は、大阪の八尾あたりをチラッと行って、法隆寺と叡福寺に行って、観光ガイドぽくやるつもりだったのです。ところが、いろいろ資料を漁っていって、特に隋書倭人伝と日本書紀の食い違いあたりから、のめり込んじゃいました。
第1回遣隋使をぶっつけ本番でやるはずがないというのが、常識だと思うのですが、専門の学者はなぜそれに気がつかないのかな、と思いました。多分、中国すごい、日本ダメ、という先入観念があるみたい。
中国歴代古代王朝の倭国伝、実物を読んでみると、相当いい加減なモンですよ。前の王朝のコピペが多い。真面目に書いているとは思えない。日本書紀の方が信頼性が高いという感じです。
大和川を上がってくる船から法隆寺を隋の使者に見せるという話ですね。テレビで何回か見ました。
一つ気になるのは、あのあたり、照葉樹林じゃないかな。もののけ姫の森です。水面スレスレの船から、樹高30mの常緑樹の原生林越しに法隆寺が見えますかね。
私には恨みの近つ博物館、ぜひいらしてください。発掘された修羅が展示されています。想像以上にでかい。最近博物館に凝っています。
久世観音、ほとんど見えなかった。暗すぎます。
毎年開扉の時は長蛇の列だそうですが、2、3組、これも不謹慎ながらコロナのおかげでした。ほかでも年に1度のご開帳というのがあったら、行ってみるといいかもしれません。ワクチン終わっているし。
西方院、この時はバテバテで、行く気力なし。By妻に全面的におまかせで「行ってらっしゃーい」これからもこの手の丸投げ分業増えると思います。
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旅行記グループ 六国史の旅 厩戸皇子
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