2019/05/18 - 2019/06/02
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さいたまさん
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ガダルカナルは、大東亜戦争当初は、ツラギ島の一部として認識されていて、ガダルカナル島が、単独で言及されることはありませんでした。
英国の植民地政府が、広いガダルカナル島ではなく、小さな島ですが、天然の良港を有するツラギ島に置かれていたためかとも思われます。
例えば、大本営は、米軍の反攻をツラギへの反攻として、理解していて、ツラギ対応の処置について命令を発しています。大本営命令の中に、ガダルカナルは出てきませんでした。
米軍としては、反攻の目的は、ガダルカナル島の飛行場の奪取であり、そのため、日本海軍の飛行場建設の完了を待っていたのです。
米軍は、飛行場の奪取と確保のため、ガダルカナル島に、海兵隊約11,000名、ツラギ島には、約1,500名の兵力を投入したのです。
太平洋の戦いにおいては、航空優勢の確保が絶対条件であり、その意味から、飛行場の確保が、最重点の目標となっていたのです。
米軍の上陸後、大本営も、ガダルカナルの飛行場の重要性を認識したのです。
まさに、マレー作戦の当初において、プリンスオブウェールズやレパレスが日本軍の航空機により、撃沈された教訓から導かれた原則でした。
今回、ガダルカナル島における激戦により散華された英霊が、ご苦労された現地を訪れ、地形を目にする機会を得ました。
実際の地形を目にしますと、多くの英霊がご苦労されたことが目に浮かびます。大変、険しい地形とマラリアの温床の地です。
先回は、一木支隊を主に、ガダルカナルの戦いについて、整理しましたが、本稿においては、一木支隊の全滅の次に、投入された川口支隊を主に、現地において撮影した写真と、それの参考になるであろう背景の説明を紹介し、英霊が、ご苦労された実態を、想い起したいと思っております。
その際、自らの理解を深めるため、川口支隊を巡る状況について、理解容易なように、なるべく、解り易い図示に努めてあります。
写真は、一木支隊が、ほぼ全滅したイル川沿いの高台を、飛行場東端から見ているものです。
飛行場東端の高台の陣地の配備についていた米軍の圧倒的火力により、一木支隊が、大損害を受けた高台の地形に注目する必要があります。
川口支隊は、飛行場の南側で、米軍と死闘を繰り広げたのでした。
川口支隊の具体的な苦悩については、次稿(川口支隊その2)においても、整理します。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー
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ガダルカナルへの移動は、電車の利用から始まりました。
出発に際して、航空機に遅れては、話にもなりませんので、定時運航率の最も高い交通機関を選定します。
いよいよ、成田空港まで、移動が始まります。京成本線 乗り物
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ガダルカナル島に行くには、直行便が無いため、オーストラリア経由かパプアニューギニア経由になります。
今回は、日航機にて、成田からオーストラリアのブリスベーンに向かいます。成田国際空港 空港
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前日の夜、成田空港を出発した日航機は、オーストラリア第3の都市ブリスベーン空港に、早朝到着します。
ブリスベーン空港で、ソロモン航空に乗り継いで、ソロモン諸島のホニアラ国際空港に向かいます。ブリスベン空港 (BNE) 空港
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オーストラリア第3の都市ブリスベーン空港を離陸し、ソロモン諸島の首都のあるホニアラに向け、飛行します。
オーストラリアの平地部を流れるブリスベーン川は、平地部の河川特有の蛇行状態であることが解ります。ブリスベン川 滝・河川・湖
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ガダルカナル島の北側には、フロリダ諸島という島々があります。
戦前のソロモン諸島の植民地政府の首都機能は、フロリダ諸島の中のツラギ島にありましたが、戦後、首都機能を、ガダルカナル島のホニアラに移されました。 -
従来、ソロモン諸島は、イギリスの植民地でした。
イギリスの植民地政府の首都機能は、天然の良港のあるツラギ島にありました。
ツラギ港は、ツラギ島とフロリダ諸島に囲まれた深海港です。
日本軍も、ツラギ島と周辺島嶼に、約1000名の陸戦隊を派遣し、同島を占領し、水上機基地として活用していました。
日本軍にとって、「ツラギ」の名称は、有名ですが、ガダルカナルの地名は、ほとんど知られていませんでした。
日本軍上層部からの命令は、「ツラギ奪回」であり、「ガダルカナル奪回」ではありませんでした。
つまり、ガダルカナルは、ツラギの一部として理解されていました。
第17軍司令部参謀長は、海軍が、ガダルカナルに飛行場を建設しいてたことを、承知していませんでした。 -
ツラギ島のツラギ港は、天然の良港であり、南太平洋の中心的な港として、現在も注目されています。
最近、中国が、ツラギ島全体の75年の借用契約をツラギのセントラル州政府と締結したとの報道がありました。
ソロモン諸島の中央政府は、中国とセントラル州との間の75年の借用契約締結を否定していますが、2020年に、台湾との国交を断絶し、中国政府との国交を開始したこともあり、中国が、米豪両国の連携を阻害し、南太平洋にする動きとして、注視されています。
ガダルカナル島の飛行場とともに日本への反攻の根拠地になっていたバヌアツにも、中国は、約2億ドルの資金援助を提供し、港湾建設を推進しています。 -
太平洋に限らず、海洋に艦艇を派遣する際には、整備・補給・通信・情報等の機能を確保することが、最も大事です。
日米両軍とも、この原則に基づき、根拠基地、前進基地そして航空基地を、逐次、推進していきました。
中国も、152人の中国人乗客を乗せたマレーシア航空機の捜索のため、多数の艦艇を派遣しましたが、整備・補給等のための基地を有しておらず、困難に直面しました。一路一帯政策を推進する中国は、これらの教訓から、ジブチに基地を設けました。
米軍は、太平洋において、対日反攻のための根拠基地を、バヌアツに建設しましたが、戦後の米国撤退後、中国は、バヌアツに対して経済援助を拡大し、港湾・空港等のインフラ建設に資金を提供し、関係を深めていきました。
中国は、ソロモン諸島にも、多額の援助を持ち掛け、従来の台湾との関係を断ち切り、中国との外交関係を樹立させることに成功しました。
中国との外交関係を樹立させた後、すぐに、中国企業とセントラル州政府とのツラギ島の75年間の租借契約が、報道されることとなりました。 -
中国の南太平洋諸国への働きかけが活発化しています。
2019年、2020年、台湾との国交断絶と中国との国交樹立というニュース、続きました。
米国とオートスラリアの地理的連携の遮断ばかりでなく、第1、第2列島線の延伸等の観点から大きな影響が考えられます。
米国とオートスラリアの地理的連携の遮断という戦略は、過去の日本海軍の進出とも、一面、共通する面が考えられます。 -
フロリダ諸島とガダルカナル島のほぼ中間に、サボ島があります。
日米海戦においては、サボ島は、両海軍にとって、重要な島でした。
サボ島沖の海戦をはじめとして、日米両軍は、多くの艦艇や航空機を投入、多くの犠牲を払い、勝機をつかもうとしました。
意図せぬ消耗戦に入り込んだのです。 -
写真は、台湾の援助資金で建設されたホニアラの陸上競技場です。
ソロモン諸島は、従来、台湾との国交を維持していました。
その歴史の中において、2020年、ソロモン諸島政府は、台湾との国交を断絶し、中国との国交関係を樹立しました。
その後、ソロモン諸島の州のひとつであるセントラル州政府は、ツラギ島の75年間の貸与契約を締結し、同島の使用を中国に委ねるとの報道がなされました。
真偽のほどは、判りません。
従来からの台湾からの援助の返済金については、中国が肩代わりするとの噂です。 -
ガダルカナル島の目抜き通り、ヘリテージパークホテルがあるメンダナ通りのショッピングモールの建設計画の看板です。
従来は、建設用の資金には、台湾の援助資金が入っていました。
今後は、中国が、台湾にとって代わって、建設計画に関与することとなります。
経済規模の小さな太平洋諸国にとっては、将来の資金返還は、大きな負担になりそうです。ヘリテージ パーク ホテル ホナリア ホテル
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搭乗している航空機は、ガダルカナル島に、近づいています。
ガダルカナル島着陸前の機上から、地形を見ています。
ガダルカナル島の中心は、ホニアラです。
ホニアラは、海岸沿いに発達した市街地です。
海岸に突出した岬が見えます。クルツ岬です。
クルツ岬の根元には、日本人の支配人が采配を振るうキタノメンダナホテルがあります。ソロモン キタノ メンダナ ホテル ホテル
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ガダルカナル島着陸前の機上から、地形を見ています。
山岳地帯の多いガダルカナル島の地形です。
海岸沿いに、住宅地が広がっていますが、反面、山岳地帯には、殆ど、住宅が見られません。 -
ガダルカナル島着陸前の機上から、地形を見ています。
ガダルカナルの幹線道路が、写真右下に見えます。
山岳地帯が、海岸線に迫っています。平坦な平野部は、あまり見られません。
幹線道路の南側に、川口支隊隷下の歩兵第124聯隊の慰霊碑がある国立博物館があります。
市街地は、ガダルカナルの作戦時は、多くなく、首都機能がツラギ島から、ガダルカナル島に移ってから、市街地が発達したとのことです。ソロモン諸島国立博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ガダルカナルの山岳地帯は、熱帯特有の降雨の関係から、河川が発達していて、侵食により、多くの谷地が形成されています。
山岳地帯の密林と凹凸の多い谷地の存在は、日本軍にとって、大きな利点でもありました。 -
米軍の地図です。
市街地の中心に流れ込んでいるマタニカウ川の本流及び支流を青色で表示してあります。
熱帯雨林における降水量の影響で、山岳地帯が侵食され、谷地が縦横に発達していることが解ります。
深い谷地により、凹凸の多い、起伏のある地形となっています。 -
ガダルカナル島着陸前の機上から、地形を見ています。
山岳地帯は、密林により覆われ、台脚部分は、開豁した地域が見られます。
平地部は、海岸沿いに、限定的に存在します。
山岳地帯から台脚部にかけて、川口支隊の歩兵第124聯隊の将兵が、防御陣地を構築しました。 -
ガダルカナル島着陸前の機上から、地形を見ています。
頂上が平坦になっている山地が、ガダルカナルの飛行場を望むアウステン山です。
ガダルカナル島の地形は、起伏や谷地が多く、複雑です。
密林が、縦横に、発達しています。 -
ガダルカナル島着陸前の機上から、地形を見ています。
記録によりますと、川口支隊は、この付近を、東から西方向に、横断しているようです。
密林内を、移動したのでしょうか、それとも、夜間に通過したのでしょうか。
平坦な平野部にも、密林が迫っています。
密林は、深く、通視が制限されています。 -
海岸近くに、空港が見えます。
当初、日本海軍が、飛行場を建設し、完成直前の段階で、米軍が上陸し、飛行場を
奪取しました。
飛行場の周囲には、密林が発達しています。
上空から見た密林は、芝生のようにも見えますが、地上から見ると、樹々が密生しています。 -
川口支隊と米国海兵師団が激闘を続けた飛行場南側の一帯です。
写真の右側に、川口支隊が、夜間、前進したルンガ川が見えています。
写真手前が、飛行場滑走路の保安区域です。 -
ガダルカナルの飛行場の西端です。
写真の遠方(滑走路の南側)が、日米両軍が激戦を繰り広げた「血染めの丘」です。
川口支隊が、飛行場を攻撃した際、米軍の防御陣地の一部に進入しましたが、後続が続かず、血染めの丘を確保できませんでした。 -
ガダルカナルの飛行場です。格納庫の奥に、滑走路が見えます。
滑走路の奥には、密林が迫っています。
川口支隊の夜間攻撃では、日本軍が飛行場近くまで迫りましたが、飛行場奪取までは、至りませんでした。 -
地上から見たガダルカナルの海岸周辺の密林の中の様子です。
樹々の枝や葉で、視界が制限されます。
上空からは、樹々の下側が、見えません。 -
日本軍は、開戦直後、フィリピン、グアムを奪取した後、ラバウルに進出しました。
一方、連合軍は、オーストラリア、フィジーやバヌアツに、反攻のための根拠地を建設していました。
各根拠地には、航空機の発着のための飛行場と物資を運ぶ港湾が、必要となっています。
ラバウルを確保した日本軍は、フィージーやサモアに進出し、米国とオーストラリアの分断を企図しました。
ガダルカナル島は、護衛する戦闘機の活動範囲の限界付近にありました。
日米両軍とも、飛行場を欲していたのです。 -
靖国神社に展示されているゼロ戦です。復元されたものです。軽量化されたゼロ戦は、長距離の航続距離と優れた運動性能が、大きな特色でした。
大東亜戦争の特色は、航空優勢、海上優勢が、最も重要であることを証明した点にあります。
ガダルカナル島の戦いは、まさに飛行場の確保を巡る戦いでした。
航空機の母艦たる空母を根拠にする艦隊航空部隊は、駆逐艦による護衛、天候や燃料補給等の要因を考慮しなくてはなりません。
地上の航空基地を根拠とする基地航空部隊は、島嶼のような安定的な飛行場の確保が重要な要因です。
空母の保有隻数が少なかった米軍が、ガダルカナルの飛行場を欲した理由は、よく理解できます。靖国神社 寺・神社・教会
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日本海軍のパラオ基地の海中に沈んでいるゼロ戦の機体です。
パラオは、川口支隊が、ガダルカナルに出撃した際、根拠地として作戦準備を進めていた島です。
この写真は、日本のNPOから提供を受けました。マーメルダイバーズ パラオ ダイビング
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川口支隊は、パラオで、作戦準備を実施していました。
写真は、パラオの国会議事堂です。
日本は、国際連盟からパラオの委任統治を任されていました。パラオ国会 建造物
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日本海軍は、フィジー(F)やサモア(S)を確保し、米豪両国の連絡線を遮断する前に、米国の根拠地ハワイをけん制の目的から、ミッドウェー攻略を計画しました。
その中において、日米両軍によるミッドウェー海戦が、生起しました。
日本海軍は、空母4隻を失う結果となりました。
上陸部隊を予定されていた一木支隊は、グアムに戻りました。 -
南太平洋における日本海軍の根拠地は、ラバウルになります。
日本海軍は、フィジー(F)やサモア(S)への進出を企図していました。
また、フィジー(F)やサモア(S)への進出のためや、ラバウルを連合国の反攻から守るためには、ゼロ戦の航続範囲の外縁のガダルカナルが重要な位置となります。このため、日本海軍は、ガダルカナルに飛行場を建設することを決断しました。
日本海軍が建設していたガダルカナルの飛行場は、1942年8月7日に、上陸してきた米軍に奪取され、8月20日には、米軍の戦闘機約30機が、進出し、ガダルカナル島の飛行場を根拠地として、制空権を確保してしまいました。
日本軍は、ガダルカナルの飛行場を奪回するため、当初、一木支隊を派遣しました。
一木支隊による奪回が、失敗した後は、川口支隊を派遣して、飛行場を攻撃することにしました。ホニアラ国際空港 (HIR) 空港
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日本海軍は、ラバウルを占領した後、フィジー(F)やサモア(S)を確保するため
FS作戦と称した計画を作成し、準備を進めていました。
しかしながら、ミッドウェー海戦の結果、空母4隻を失い、艦隊航空部隊の戦力が低下し、基地航空部隊の飛行場を重要視することとなりました。
ガダルカナルは、平坦な地形であり、飛行場には、最適の場所でした。 -
ガダルカナル島に、米軍部隊が上陸したことから、大本営は、ガダルカナルを担当範囲に含んでいる第17軍に、反撃を命じました。
早期のガダルカナル奪回を狙う大本営は、直轄部隊として運用していた一木支隊、青葉支隊を、第17軍の指揮下に入れ、第17軍を増強しました。
しかしながら、第17軍のポートモレスビー作戦重視の任務は、従前と変わらず、ガダルカナルは、海軍への協力であり、二の次の対応でした。
第17軍としては、精強部隊である一木支隊だけで、ガダルカナル飛行場の奪回は可能だと、判断していました。 -
当初、ミッドウェーの作戦で上陸部隊として予定されていた一木支隊は、ミッドウェー海戦の後、グアム島に戻り、アッツ・キスカ方面に転用されることとなり、グアム島を出港した直後でした。
この時点で、米軍が、ガダルカナルに上陸したのでした。
大本営は、一木支隊の航行を止め、とりあえずグアムに戻すこととしました。 -
米軍が、ガダルカナルに上陸する以前、川口支隊は、パラオにおいて、フィジーに向けての作戦準備中の状態でした。
第17軍は、第17軍の隷下に入った一木支隊か川口支隊かを、ガダルカナルに派遣することを検討しましたが、まずは、精強の誉の高い一木支隊で、飛行場奪回が可能だと考えていました。
つまり、米軍の上陸部隊は、約2000名程度と判断し、一木支隊と川口支隊の戦力を合一せずとも、約900名の一木支隊単独で、飛行場奪回が可能だと考えたのでした。
しかし、米軍の上陸部隊の勢力は、約11,000であり、一木支隊の約10倍以上の勢力でした。
これまでの日本軍の精強さを、過信する大きな判断間違いでした。
また、川口支隊は、ボルネオにおける作戦で、舟艇を活用した機動作戦の経験を有していた部隊でした。 -
川口支隊は、西ボルネオの作戦において、舟艇を活用し、ボルネオ島内の飛行場の確保に活躍しました。
川口支隊長であった川口少将は、500海里に及ぶ舟艇を活用した機動作戦に自信を持っていました。 -
一木支隊及び川口支隊は、輸送船でガダルカナルに輸送される予定でしたが、輸送船の航行速度が遅く、かつ米軍の航空攻撃による危険性を考慮し、航行速度の速い駆逐艦で輸送されることとなりました。
駆逐艦への乗艦可能人員の制限から、部隊を纏めて輸送することはできず、一木支隊と川口支隊は、それぞれ支隊を分割され、移動することとなりました。
大きな問題としては、米軍が確保していた航空優勢のもと、米軍の航空攻撃による被害が、予想されていたことです。
かつ、砲兵装備品や弾薬は、別個の輸送とならざるを得るなかったのも事実です。
また、敵航空攻撃を避けるため、夜間の舟艇による移動をも考慮せざるを得ず、大きな問題となったのでした。 -
ガダルカナル島の飛行場を奪回するため派遣された一木支隊は、駆逐艦により輸送された先遣部隊900名と、輸送船により移動していた第2梯団に分割され、ガダルカナル島に、移動することとなりました。
約900名の一木大佐に指揮された先遣隊は、無事、上陸しましたが、輸送船団による第2梯団は、米軍の航空攻撃等により、ガダルカナル島に上陸できず、ショートランド泊地に戻り、その後、ラバウルに廻航されました。
約900名の一木支隊は、米軍約10,000名が守備する飛行場を攻撃しましたが、圧倒的な火力の差異により、全滅してしまいました。
この結果から、川口支隊が投入されることとなりましたが、移動手段に対して、大きな問題が浮かび上がりました。
上級部隊たる第17軍司令部の駆逐艦移動に対して、川口支隊長は、航空攻撃による損害を避けるため、舟艇移動を主張し、海軍駆逐艦への乗艦や海軍との交渉に応じようとはしませんでした。 -
川口支隊の輸送については、川口支隊長の強い意見具申に基づき、第17軍司令部は、命令を一部変更し、駆逐艦移動と舟艇移動を組み合わせることとなりました。
しかし、舟艇移動を命ぜられた歩兵第124連隊長は、移動経路を、川口支隊命令に反し、米軍の航空攻撃にさらされる時間の多い北側の経路を選定したのでした。
しかも、川口支隊本隊が上陸する地点に向かわず、飛行場と反対側の西側に上陸し、支隊と戦力を合一することが不可能な形になってしまいました。 -
川口支隊の主力は、駆逐艦で、無事、タイボ岬に上陸しましたが、舟艇により移動した部隊は、米軍の航空攻撃により、1/3が損耗する等、大きな被害を受けましたが、なんとかエスペランス岬に上陸しました。
しかしながら、駆逐艦機動部隊と舟艇機動部隊の両部隊の戦力を集中することが、かなわず、舟艇機動部隊は、川口支隊主力の攻撃に参加することが、できず、戦力の分散に陥りました。 -
東西に分離した川口支隊の両部隊の間には、山岳地帯もあり、連絡も取れませんでした。
加えて、無線も通じず、伝令による連絡のみとなってしまいました。米軍に比し、劣勢な兵力が、さらに分散され、川口支隊の組織的な戦闘は、困難となってしまいました。 -
写真は、川口支隊主力が、飛行場に向かっ経路周辺の地形を示しています。
写真の左側上部に海岸線が見えます。
川口支隊主力は、一木支隊が移動した海岸沿いの経路ではなく、米軍の航空攻撃を避けるため、密林内に入り、夜間のみ移動しました。 -
防衛省の防衛研究所の公刊戦史によると、川口支隊主力は、主として、密林内を移動したそうですが、密林以外の開豁地に通過に際しては、灌木林等の植生を利用して、上空からの視察を避けたとのことです。
いずれにしても、航空優勢が期待できない状況下では、攻撃発起位置までの移動は、困難を極めました。 -
ガダルカナルの飛行場の西側を流れるルンガ川です。
川口支隊本隊は、この流域の上流で、攻撃の準備をしました。
このルンガ川の東側で、日米両軍の死闘が繰り広げられ、血染めの丘と言われる激戦地となりました。 -
マタニカウ川の東側の地形です。
川口支隊本隊の攻撃に合流できなかった舟艇移動部隊が、マタニカウ川を渡河して、飛行場を目指した経路です。
厳しい地形が、日本軍を悩ませました。
現在は、海岸沿いの幹線道路から南側に、住宅地が広がっていて、当時とは、異なっているようです。 -
マタニカウ川の東側の地形です。
飛行場の攻撃奪取に失敗した日本軍は、態勢を立て直し、引き続き飛行場を攻撃するため、マタニカウ川周辺地域を確保するように命ぜられた地域です。
厳しい地形と飢餓が、日本軍を悩ませました。 -
マタニカウ川東岸の地形です。
米軍は、飛行場確保を確実にするため、日本軍を追い詰めました。
日本軍は、増援部隊の来着を得て、飛行場を攻撃するため、重要地域であるこの地域に防御陣地を構築し、日米両軍による、死闘が繰り広げられました。 -
ガダルカナルの中には、未だ多くの英霊が眠っています。
祖国日本に帰れる日を心待ちにして、異国の地で戦った将兵の気持ちを考えますと、断腸の思いです。
ガダルカナルの地には、英霊の遺品等が集められている場所があります。
後に続く者として、英霊の想いを叶えることが出来ればと感じています。
次稿では、川口支隊の戦いをガダルカナルの地形を通じて振り返ってみたいと思います。
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