2019/05/18 - 2019/06/02
8位(同エリア41件中)
さいたまさん
ガダルカナルの戦いは、悲惨な戦闘でした。
ガダルカナルの島の中には、現在も、多くの戦争の傷跡があります。
限られた時間の中でしたが、戦跡を見て廻りました。
ガダルカナル島には、日本陸軍の約3万6000人の地上兵力が上陸し、約6万人の米国将兵との約7ケ月間の死闘を続けましたが、1942年2月、約1万人の離脱をもって、飢餓やマラリアとの苦闘末、ガダルカナル島の戦いから敗退しました。
その間の日本軍の死者は、約2万人に上りましたが、半数以上が、餓死とマラリアによる戦病死でした。
ガダルカナル島の戦いは、太平洋を巡る日米両軍の戦いの中において、日本軍にとっても、米軍にとっても大きな転換点となりました。
日本軍としては、米軍に対して勝利を続けていた中で、米軍を甘く見ていた面が否めませんでした。
また米軍も、日本軍に勝利したこともなく、閉塞感に苛まれていたことも事実かもしれません。
そのような流れの中、日本軍は、米軍のガダルカナル島への進攻の報に接するや、米軍の戦力を軽視し、情報をしっかり収集をすること無く、また補給等の兵站面を顧みず、場当たり的な逐次戦闘加入に陥ることを厭わず、白兵戦により、優勢な米軍に戦いを挑んだのです。
米軍も、当初は、補給もままならず、日本海軍の糧食に頼る等、決して有利な状況ではありませんでしたが、時間とともに戦力を増強し、情報の先取及び火力の優越により日本軍を圧倒したのです。
米軍にとっては、精強さを謳われていた日本軍に勝利したことは、大きな自信につながったのです。
逆に、日本軍にとって、悲惨なガダルカナル作戦は、太平洋戦争への劣勢への始まりでした。
写真は、ガダルカナルにおける悲惨な戦闘の中、最も悲運な運命をたどった川口支隊の実働部隊歩兵第124連隊の慰霊碑です。
歩兵第124連隊は、ガダルカナルの悲劇を経験した後、離脱後、再び、ビルマに送られ、激戦のインパール作戦において、コヒマの攻防に参加させられ、白骨街道の飢餓退却を経験したのです。
- 旅行の満足度
- 3.5
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ガダルカナル島には、ソロモン諸島の首都ホニアラが所在しています。
写真の平地部には、首都ホニアラの市街が広がっています。 -
ガダルカナル島の海岸部には、市街地が見られますが、南側には、山岳地があり、
移動が制限される密林のジャングルが広がっています。 -
ガダルカナル島の密生したジャングルと市街地の間には、開闊した丘陵地帯があります。
市街地は、ほとんどが海岸の平地部のみとなっています。 -
丘陵地帯の南側には、密林が広がり、山岳地帯へ続いています。
日本陸軍は、米軍の航空攻撃を避けるため、密林内を移動することを余儀なくされました。 -
日本軍が米軍の航空攻撃を避けるため、錯雑した密林内を、主として夜間に行動しました。
凹地内の行動には、急峻な地形のこともあり、大変な労苦を伴いました。 -
日本軍は、密林内の隠密行動から平地部の開闊した地域に出ると、米軍に捕捉され、火力によって、戦力を失うことになりました。
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日本軍の行く手を阻んだ、河川です。
ルンガ川と呼ばれている川を挟み、日米の激戦が繰り広げられました。 -
ガダルカナルの戦闘は、終始、飛行場を巡る攻防でした。
飛行場の滑走路に着陸する寸前の航空機から撮影したルンガ川と滑走路周辺の地形です。 -
日米両軍が死闘を繰り返した激戦の地の跡には、慰霊のための公苑が設置されています。
公苑は、アウステン山と呼ばれる丘陵地帯にあります。 -
飛行場を巡る激戦の地において、飛行場の北側にある慰霊公苑の入口の石標です。
日本語による標石です。 -
飛行場を望む丘に日本の手により慰霊公苑が、建てられています。
アウステン山という丘陵地にあります。 -
アウステン山の慰霊公苑です。
入口には、案内のための要員が配置されています。 -
アウステン山の慰霊公苑から北方向の海岸地帯を見ています。
遠くにツラギ島を含む島々が見られます。 -
飛行場を右手に臨みながら、海岸方向に市街地が広がっています。
樹木地帯が広がっていますが、激戦の地は、砲弾の着弾で、地形が変わっています。 -
アウステン山の慰霊碑の一角から、海岸方向を見ています。
飛行場を見渡すこの丘は、日米の両軍にとって戦いの帰趨を決する重要な地となっていました。 -
アウステン山の慰霊公苑の入口に入ると、白亜の壁に、慰霊の文が掲げられています。
多くの命が、ここに失われたことが記されています。 -
日本から戦没者の慰霊のため、遺族等が公苑参拝にやって来られます。
戦没者への慰霊のための印です。
多くの魂が、静かに眠っています。 -
アウステン山の丘陵地帯に設置されている慰霊公苑の像です。
像の背後に見える密林から、この地域に向けて多くの日本軍将兵が、命を懸けて駆け降りてきた場所です。
執念の地かと思われます。 -
アウステン山の慰霊公苑には、戦没者の霊を慰めるための像が建てられています。
幾多の命が失われたのです。
ガダルカナルの暑い太陽のもと、公苑の中において静かに南の激戦の地を見守っています。 -
密林の中の隠密行動の後、アウステン山に向け、多くの命が散華されました。
その思いを背にして、北の海岸を向いた像が、高く空を見ながら、立っています。
その霊を、慰霊するソロモンの慰霊公苑です -
遠く北の方向を向いているアウステン山の慰霊公苑の像です。
長く遠い密林の中での隠密行動の後、開かれた天空の中での飛躍の像です。 -
疲労困憊の中での気持ちが、天空に向かい躍動するような像です。
青く透き通った空に向かう気持ちが伝わってきます。 -
アウステン山の像の台座には、碑文が記されています。
行間に、苦悩の気持ちを読み取ることができる感じです。 -
アウステン山の慰霊碑の前の碑文です。
いろいろな気持ちが去来し、碑文を見ます。
慰霊の気持ちが募ってきます。 -
アウステン山の慰霊公苑の一角には、日本とソロモン諸島の国旗が掲げられています。
強い陽射しと抜けるような青い空は、激しい攻防の時と変わらないものと推察しています。 -
アウステン山の北側の密林地帯と丘陵地帯の接際部です。
日本軍は、密林地帯を利用して、接近していったと思われます。 -
高低差のある丘陵地帯に、密林地域が接しています。
火力及び航空兵力に劣る日本軍は、地形の凹地を利用して接近していったと考えられています。 -
アウステン山に近い集落における日本軍の装具等が展示されていました。
収集された日本軍の水筒や食器等が見らます。 -
アウステン山に近い集落における日本軍の鉄帽や弾丸、装具等が展示されていました。
鉄帽には、敵弾の破片による貫通痕が見られます。
生々しい遺品です。 -
アウステン山に近い集落の展示場所における日本軍の装具等です。
手りゅう弾や銃剣等も置かれています。
数多くの遺品が見られます。 -
手りゅう弾が置かれている棚です。
形状から見ると、米軍の手りゅう弾のようです。
生々しい品々です。 -
アウステン山の近くの集落の展示場です。
弾丸とともに、各種の瓶等が置かれています。
生きていくためには、必要なものばかりです。 -
生きていくためには、食器や各種の瓶が不可欠だったのでしょう。
収納缶も見えます。
いろいろな物が、置かれています。 -
弾丸が置かれている棚には、錆びた容器もあります。
穴の開いた皿のようなものも見えます。 -
国立博物館の西隣の広場に、日米両軍の慰霊碑があります。
この広場には、日本軍の第124歩兵連隊の慰霊碑が置かれています。 -
緑の芝生の奥に、四角の屏風を模した大理石の前に石球が配されている慰霊碑が、日本軍の第124歩兵連隊の慰霊碑です。
ガダルカナルの第2陣として上陸した川口支隊の実働部隊です。
悲しい運命をたどりました。
右側に、米国海兵隊の慰霊碑があります。 -
国立博物館の広場にある米国海兵隊の慰霊碑です。
日本軍の慰霊碑の西側にあります。 -
日本軍の慰霊碑は、やや小さいですが、端正な大理石の造りです。
緑の芝生の中で、静かに眠っています。 -
川口支隊 歩兵第124連隊との文字が刻されています。
川口支隊の鎮魂碑です。 -
芝生の東側には、大砲が置かれています。
口径が大きい大砲です。 -
米国の海兵隊の慰霊碑です。
ガダルカナルの作戦に参加した将兵等を慰霊する旨の碑文が掲げられています。 -
米国の海兵隊の慰霊碑の東側基部には、米国の海兵隊のマークが付けられています。
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米国の海兵隊の慰霊碑の西側基部には、米国の海兵隊の碑文が付けられています。
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ガダルカナル島の西側の森の中には、慰霊碑が置かれています。
草の中に静かに眠っています。 -
全国ソロモン会により建立された慰霊碑です。
戦没者の関係者の参拝が絶えないようです。 -
密林の中に静かに眠っている慰霊碑です。
背後には、日本軍の重車両が見えます。 -
慰霊碑の台座の文字です。
野戦重砲兵第四連隊との標示が見えます。 -
慰霊碑の傍には、解説の碑があります。
この車輌は、日本軍の砲兵が15糎榴弾砲を運んだ6トン牽引車であるとの解説文が刻されています。 -
野戦重砲兵第四聯隊の慰霊碑の南側には、履帯式の牽引車があります。
この車輌は、日本軍の砲兵が15糎榴弾砲を運んだ6トン牽引車であるとの解説文があります。 -
英文の碑文と十字架が記されている慰霊碑です。
黒色の台座に、白色の文字か刻されています。 -
南十字星の碑と書かれた慰霊碑です。
野戦重砲兵第七聯隊との標示が見えます。
台座には
とうときいのち祖国に捧げて第二中隊百三十六柱の魂ここに眠る
その苦しみ無念さを思へば胸痛み涙尽きず
されど兄等 願わくばこの地に留まり永遠に平和の礎となられかしと
われら南十字星に誓いてこれらを守らん
とあります。 -
黒色の台座の裏面には、漢字で
忠節
禮儀
武勇
信義
質素
との文字を鮮やかに見ることができます。 -
日本軍は、米軍の圧倒的な兵力差、特に航空戦力と火力を避けるため、飛行場の北側の密林地帯を大きく迂回し、丘陵地域から海岸方向に、攻撃することとしました。
このため、道なき密林地帯を進んだのです。 -
日本軍は、地図もないまま、道なき密林地帯内を、磁石を頼りに進みました。
飛行場奪回のため進んだのですが、目指す飛行場がどこにあるか判らず、前進は困難を極めました。 -
日本軍は、人間の高さの5~6倍もある高木が密生する密林地帯を、飛行場を目指し、進みました。
補給のない状態で、暑さの中、疲労とマラリアに苦しみました。 -
日本軍の攻撃目標は、飛行場でした。
ガダルカナルの飛行場は、海兵隊の飛行隊長ヘンダーソン少佐の名前を取り、ヘンダーソン飛行場と名付けられました。
写真は、ホニアラ国際空港のターミナルビルの入口に置かれてある記念碑です。 -
ヘンダーソン飛行場の争奪戦において、日本軍の当初の攻撃部隊一木支隊が、壊滅的な損害を受けたイル川です。
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日本軍は、ヘンダーソン飛行場の東約35Kmのタイボ岬に、一木支隊を上陸させ、米軍の航空攻撃を避けるため夜間のみ、前進し、海岸沿いの密林地域を飛行場に接近しました。
写真の左側の海岸沿いの密林地域を行動したのです。
写真の航空機の翼の前方に見える蛇行した川は、テナル川です。
テナル川は、激戦の川イル川の1本東側の川です。
つまり、写真の航空機の翼の真下辺りで、日米の激戦が戦われたことになります。 -
日本軍は、補給が絶たれ、飢餓とマラリアに悩まされつつも、奮戦半年に及びましたが、昭和18年初め、ガダルカナル島から転進することとなりました。
奇跡的にも、約1万人の将兵が、ガダルカナル島の西側海岸から、なんとか離脱することができました。
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