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東京国立近代美術館へ行ってきました。目的は「あやしい絵展」だったのですが、人気で見れませんでした(2時前に到着しましたが、5時過ぎの入場になるとのこと)。MOMATコレクション展だけ見てきました。こちらはほとんどの作品が写真撮影OKでした。<br />※作品解説はHPより参照しました。<br />

MOMATコレクション(1)2021年3月23日-2021年5月16日

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2021/04/24 - 2021/04/24

340位(同エリア4679件中)

旅行記グループ MOMATコレクション

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東京国立近代美術館へ行ってきました。目的は「あやしい絵展」だったのですが、人気で見れませんでした(2時前に到着しましたが、5時過ぎの入場になるとのこと)。MOMATコレクション展だけ見てきました。こちらはほとんどの作品が写真撮影OKでした。
※作品解説はHPより参照しました。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通手段
新幹線 JRローカル
  • 高村光太郎「手」1918年頃<br />高村光太郎は、東京の生まれ。仏師系の木彫家である父光雲のもとで幼いころから木彫を学びました。1902年東京美術学校彫刻科を卒業、続いて同研究科へ進みましたが、このころ雑誌に掲載されたロダンの〈考える人〉の写真を見て感銘を受け、モークレールの「ロダン」を熟読しました。1906年渡米、ロンドンを経て1908年にパリへ至っています。この間に荻原守衛と知り合いロダンの留守のアトリエを訪れるなどしました。1909年帰国し、雑誌『スバル』『白樺』などに美術評論を書き、ヨーロッパの新しい美術の紹介に力をそそぎました。またフュウザン会展や生活社展にも参加し油彩などを発表しました。1914年長沼智恵子と結婚しましたが、1938年に死別。1945年戦災を逃れて岩手県花巻市に疎開、その後花巻郊外の山小屋へ移り農耕自炊の生活を送りました。1953年十和田国立公園功労者顕彰記念碑を制作。また詩部門で帝国芸術院会員(1947年)、日本芸術院会員(1953年)に推されましたが、彫刻家を自任して辞退しました。訳編「ロダンの言葉」、詩集「智恵子抄」などがあります。

    高村光太郎「手」1918年頃
    高村光太郎は、東京の生まれ。仏師系の木彫家である父光雲のもとで幼いころから木彫を学びました。1902年東京美術学校彫刻科を卒業、続いて同研究科へ進みましたが、このころ雑誌に掲載されたロダンの〈考える人〉の写真を見て感銘を受け、モークレールの「ロダン」を熟読しました。1906年渡米、ロンドンを経て1908年にパリへ至っています。この間に荻原守衛と知り合いロダンの留守のアトリエを訪れるなどしました。1909年帰国し、雑誌『スバル』『白樺』などに美術評論を書き、ヨーロッパの新しい美術の紹介に力をそそぎました。またフュウザン会展や生活社展にも参加し油彩などを発表しました。1914年長沼智恵子と結婚しましたが、1938年に死別。1945年戦災を逃れて岩手県花巻市に疎開、その後花巻郊外の山小屋へ移り農耕自炊の生活を送りました。1953年十和田国立公園功労者顕彰記念碑を制作。また詩部門で帝国芸術院会員(1947年)、日本芸術院会員(1953年)に推されましたが、彫刻家を自任して辞退しました。訳編「ロダンの言葉」、詩集「智恵子抄」などがあります。

  • ポール・セザンヌ「大きな花束」1892-95年頃<br />セザンヌの静物画では大変稀少である幅1メートルの堂々たる大作です。

    ポール・セザンヌ「大きな花束」1892-95年頃
    セザンヌの静物画では大変稀少である幅1メートルの堂々たる大作です。

  • アンリ・ルソー 「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神」1905-06年<br />アンリ・ルソー はフランスのラヴァル生まれ。兵役に服したのち、パリ市の入市税関吏員となり、余暇に絵を描きます。1893年退職後は音楽とデッサンの塾を開いて生活を支えながら、本格的な作画生活に入りました。86年からアンデパンダン展にほぼ毎年のように出品し続けました。<br /> この作品は、1906年3月のアンデパンダン展に出品されたもの。アンデパンダン展とは誰でも出品可能な無鑑査展のこと。正装した画家たちが会場に作品を運ぶ様子を幻想的に描いています。左に三色旗、右にパリ市の幟がひるがえり、並木の間に会場が見えます。これは1900年のパリ万国博で「園芸宮」として建てられ、01年からアンデパンダン展会場として使われました。ライオンの右前方で向かい合って手をにぎっている二人の人物のうち、右がルソー自身です。ライオンや自由の女神は展覧会を主催する独立芸術家協会の寓意でもあります。

    イチオシ

    アンリ・ルソー 「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神」1905-06年
    アンリ・ルソー はフランスのラヴァル生まれ。兵役に服したのち、パリ市の入市税関吏員となり、余暇に絵を描きます。1893年退職後は音楽とデッサンの塾を開いて生活を支えながら、本格的な作画生活に入りました。86年からアンデパンダン展にほぼ毎年のように出品し続けました。
     この作品は、1906年3月のアンデパンダン展に出品されたもの。アンデパンダン展とは誰でも出品可能な無鑑査展のこと。正装した画家たちが会場に作品を運ぶ様子を幻想的に描いています。左に三色旗、右にパリ市の幟がひるがえり、並木の間に会場が見えます。これは1900年のパリ万国博で「園芸宮」として建てられ、01年からアンデパンダン展会場として使われました。ライオンの右前方で向かい合って手をにぎっている二人の人物のうち、右がルソー自身です。ライオンや自由の女神は展覧会を主催する独立芸術家協会の寓意でもあります。

  • 原田直次郎「騎龍観音」1890年<br />白い衣を身にまとい、右手に柳、左手に水瓶を持って、龍に乗る観音を大画面に描いています。ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました。

    原田直次郎「騎龍観音」1890年
    白い衣を身にまとい、右手に柳、左手に水瓶を持って、龍に乗る観音を大画面に描いています。ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました。

  • 和田三造「南風」1907年<br />和田三造は兵庫県生まれ。白馬会洋画研究所、東京美術学校に学びます。1905年白馬会10周年記念展で白馬賞、07年第1回文展で本作品により最高賞の二等賞を受賞。09-15年文部省留学生として渡欧し、絵画および図案の研究を行います。帰国後さらに工芸図案や色彩の研究に努め、32年東京美術学校図案科教授となります。<br /> 和田は美術学校在学中の1902年に八丈島航路で嵐に遭い、三日間漂流の末、伊豆大島に漂着するという経験をしており、《南風》はこれを発想源として描かれました。それまでの洋画壇の主流を占めていた柔らかな外光描写に対して、本作品には、三角形を基本とした堅固な構図、ヒロイックに理想化された人体、強い光と影のコントラストなどの点に、浪漫主義的な傾向を認めることができます。わが国最初の官設展覧会である文展(文部省美術展覧会)の幕開けを飾る記念碑的な作品です。

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    和田三造「南風」1907年
    和田三造は兵庫県生まれ。白馬会洋画研究所、東京美術学校に学びます。1905年白馬会10周年記念展で白馬賞、07年第1回文展で本作品により最高賞の二等賞を受賞。09-15年文部省留学生として渡欧し、絵画および図案の研究を行います。帰国後さらに工芸図案や色彩の研究に努め、32年東京美術学校図案科教授となります。
     和田は美術学校在学中の1902年に八丈島航路で嵐に遭い、三日間漂流の末、伊豆大島に漂着するという経験をしており、《南風》はこれを発想源として描かれました。それまでの洋画壇の主流を占めていた柔らかな外光描写に対して、本作品には、三角形を基本とした堅固な構図、ヒロイックに理想化された人体、強い光と影のコントラストなどの点に、浪漫主義的な傾向を認めることができます。わが国最初の官設展覧会である文展(文部省美術展覧会)の幕開けを飾る記念碑的な作品です。

  • 岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年<br />この絵は、1915年ll月5日に10日問くらいかけて描きあげたもので、劉生はこれを「クラシツクの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響から脱しはじめ、再び「ぢかに自然の質量そのものにぶつかつてみたい要求が目覚め」て生まれた風景画の一つに挙げています。そして再びじかに自然にぶつかるといっても、もうこの時は前の時代と同じになることはできないといって、次のように述べています。「何故ならこの時はもうクラシツクの強い感化を一度通り、猶またそれに浴しつゝあるからだ。捕はれから段々と離れたが、得るべきものは得てゐた。切通しの写生はこの事を明かに語ると思ふ。その土や草は、どこ迄もしつかりと、ぢかに土そのものの美にふれてゐる。しかしどことなく、古典の感じを内容にも形式にも持つ。自分はこの画は、今日でも可なり好きである。一方その表現法がクラシツクの形式にまだ縛られてゐる処があるのを認めるけれど、あの道のはしの方の土の硬く強い感じと、そこからわり出して生へてゐる秋のくすんだ草の淋しい力とは或る処迄よく表現されてあると思ふ」。<br />劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作です。

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    岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」1915年
    この絵は、1915年ll月5日に10日問くらいかけて描きあげたもので、劉生はこれを「クラシツクの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響から脱しはじめ、再び「ぢかに自然の質量そのものにぶつかつてみたい要求が目覚め」て生まれた風景画の一つに挙げています。そして再びじかに自然にぶつかるといっても、もうこの時は前の時代と同じになることはできないといって、次のように述べています。「何故ならこの時はもうクラシツクの強い感化を一度通り、猶またそれに浴しつゝあるからだ。捕はれから段々と離れたが、得るべきものは得てゐた。切通しの写生はこの事を明かに語ると思ふ。その土や草は、どこ迄もしつかりと、ぢかに土そのものの美にふれてゐる。しかしどことなく、古典の感じを内容にも形式にも持つ。自分はこの画は、今日でも可なり好きである。一方その表現法がクラシツクの形式にまだ縛られてゐる処があるのを認めるけれど、あの道のはしの方の土の硬く強い感じと、そこからわり出して生へてゐる秋のくすんだ草の淋しい力とは或る処迄よく表現されてあると思ふ」。
    劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作です。

  • 萬鉄五郎「もたれて立つ人」1917年<br /> 郷里へもどった萬は、孤絶した状況にあって自画像の連作を描きます。それらはかつての原色による色彩表現から褐色を主調にしたモノクロームに近い色調へと一変し、また鋭い筆致による形態の解体が試みられ、キュビスムに対する模索へと発展します。この作品は、そうした試みの結果の一つであり、キュビスムの論理的な絵画思潮が根づくことのなかった日本の近代絵画のなかで、最も早い作例の一つといえます。ただし、その背後には表現主義的な原初的カオスが秘められており、この作品でも、独自のキュビスム理解が見られる一方で、頭部のみに緑色を加え、朱色と褐色を基調にした暗鬱な色調と、上半身が誇張され肩や腰を急激に屈曲させた主観性の強い形態の分割に、まぎれもない萬の姿を見ることができます。

    萬鉄五郎「もたれて立つ人」1917年
    郷里へもどった萬は、孤絶した状況にあって自画像の連作を描きます。それらはかつての原色による色彩表現から褐色を主調にしたモノクロームに近い色調へと一変し、また鋭い筆致による形態の解体が試みられ、キュビスムに対する模索へと発展します。この作品は、そうした試みの結果の一つであり、キュビスムの論理的な絵画思潮が根づくことのなかった日本の近代絵画のなかで、最も早い作例の一つといえます。ただし、その背後には表現主義的な原初的カオスが秘められており、この作品でも、独自のキュビスム理解が見られる一方で、頭部のみに緑色を加え、朱色と褐色を基調にした暗鬱な色調と、上半身が誇張され肩や腰を急激に屈曲させた主観性の強い形態の分割に、まぎれもない萬の姿を見ることができます。

  • 佐伯祐三「ガス灯と広告」1927年<br />1924年渡仏し、26年帰国した佐伯祐三は、その年の『みづゑ』7月号に寄稿した「巴里(パリ)の生活」という短文の中で、制作のあいまに沢山の絵を見たが、「中でもシャガールの色彩、モディリア二の深さ、ユトイーロのシュミ、ヴラマンクの物質描写法に感心しました」と書いています。最初の滞仏期に彼はこれらの画家たち、とくにヴラマンクとユトリロから大きな示唆を受け、また自分の絵のモティーフを見いだすきっかけを与えられ、制作も順調に進みました。したがって、帰国後も再度のパリ行きがつねに念頭にあり、そして27年の9月に再渡仏を果たしてからの制作への打ちこみようは恐るべきものでした。《ガス灯と広告》は、この第二次滞仏期の代表作の一つであり、くすんだ石壁の質感表現と、幾重にも貼られた広告ビラの多彩な色斑やその上を走る鋭い奔放な筆線が渾然となって、一種の幻覚的な佐伯独特の世界を生み出しています。

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    佐伯祐三「ガス灯と広告」1927年
    1924年渡仏し、26年帰国した佐伯祐三は、その年の『みづゑ』7月号に寄稿した「巴里(パリ)の生活」という短文の中で、制作のあいまに沢山の絵を見たが、「中でもシャガールの色彩、モディリア二の深さ、ユトイーロのシュミ、ヴラマンクの物質描写法に感心しました」と書いています。最初の滞仏期に彼はこれらの画家たち、とくにヴラマンクとユトリロから大きな示唆を受け、また自分の絵のモティーフを見いだすきっかけを与えられ、制作も順調に進みました。したがって、帰国後も再度のパリ行きがつねに念頭にあり、そして27年の9月に再渡仏を果たしてからの制作への打ちこみようは恐るべきものでした。《ガス灯と広告》は、この第二次滞仏期の代表作の一つであり、くすんだ石壁の質感表現と、幾重にも貼られた広告ビラの多彩な色斑やその上を走る鋭い奔放な筆線が渾然となって、一種の幻覚的な佐伯独特の世界を生み出しています。

  • 安井曽太郎「奥入瀬の溪流」1933年 <br />安井曽太郎は京都市生まれ。1904年聖護院洋画研究所に学び、07年渡仏。アカデミー・ジュリアンに入学、ジャン=ポール・ローランスに師事、14年帰国。翌年第2回二科展に渡欧作44点を特別出品し、同会会員に推挙されます。35年帝国美術院会員。36年有島生馬、石井柏亭らとともに一水会を創立。44年東京美術学校教授。52年文化勲章受章。<br /> 1932年に安井は初めて十和田湖を訪れ、その帰途奥入瀬に立ち寄りました。省略や変形、強調を加えながらも、現実感のある写実的な画面を構築しようとした安井ですが、ここでも暗い前景から明るい後景への空間のつながりや幹が複雑に交錯する樹木の重なりを巧みに描き分け、青葉に囲まれた奥から水音をあげて流れてくる溪流をみずみずしく描き出しています。様々な諧調の緑と白く照り輝く水流の共鳴が、流れるような筆致とともに運ばれ、澄んだ自然のすがすがしさを伝えています。

    安井曽太郎「奥入瀬の溪流」1933年
    安井曽太郎は京都市生まれ。1904年聖護院洋画研究所に学び、07年渡仏。アカデミー・ジュリアンに入学、ジャン=ポール・ローランスに師事、14年帰国。翌年第2回二科展に渡欧作44点を特別出品し、同会会員に推挙されます。35年帝国美術院会員。36年有島生馬、石井柏亭らとともに一水会を創立。44年東京美術学校教授。52年文化勲章受章。
     1932年に安井は初めて十和田湖を訪れ、その帰途奥入瀬に立ち寄りました。省略や変形、強調を加えながらも、現実感のある写実的な画面を構築しようとした安井ですが、ここでも暗い前景から明るい後景への空間のつながりや幹が複雑に交錯する樹木の重なりを巧みに描き分け、青葉に囲まれた奥から水音をあげて流れてくる溪流をみずみずしく描き出しています。様々な諧調の緑と白く照り輝く水流の共鳴が、流れるような筆致とともに運ばれ、澄んだ自然のすがすがしさを伝えています。

  • 坂本繁二郎「水より上る馬」1937年<br />坂本繁二郎は福岡県久留米市生まれ。不同舎、太平洋画会研究所に学びます。1907年第1回から文展に出品、14年二科会設立に参加。21-24年渡仏しコローなどに傾倒する。41年二科会評議員。56年文化勲章受章。西洋美術から学んだ実証的現実認識と東洋的精神による直覚的把握が融合した彼の芸術は、一連の馬、能面、月などを題材に秀作を生みました。<br /> 坂本がしきりに馬を描くようになったのは、三年にわたる渡仏生活を終えて帰国後、福岡県八女郡福島町を永住の地と定めたころからです。この作品もそのひとつで、淡く明るい色調のうちに、馬と背景をほとんど等質に描きながら、深い存在感をたたえた自然そのものをみごとに表現しています。合理主義に根ざしたヨーロッパの絵画が、対象と背景を画然と描き分けるのに対し、逆に風景の中で対象と自然が響き合い一致するところに、自然そのものを一元的にとらえようとする坂本の東洋的な自然観が色濃く表れています。第24回二科展出品。

    坂本繁二郎「水より上る馬」1937年
    坂本繁二郎は福岡県久留米市生まれ。不同舎、太平洋画会研究所に学びます。1907年第1回から文展に出品、14年二科会設立に参加。21-24年渡仏しコローなどに傾倒する。41年二科会評議員。56年文化勲章受章。西洋美術から学んだ実証的現実認識と東洋的精神による直覚的把握が融合した彼の芸術は、一連の馬、能面、月などを題材に秀作を生みました。
     坂本がしきりに馬を描くようになったのは、三年にわたる渡仏生活を終えて帰国後、福岡県八女郡福島町を永住の地と定めたころからです。この作品もそのひとつで、淡く明るい色調のうちに、馬と背景をほとんど等質に描きながら、深い存在感をたたえた自然そのものをみごとに表現しています。合理主義に根ざしたヨーロッパの絵画が、対象と背景を画然と描き分けるのに対し、逆に風景の中で対象と自然が響き合い一致するところに、自然そのものを一元的にとらえようとする坂本の東洋的な自然観が色濃く表れています。第24回二科展出品。

  • 梅原龍三郎「城山」1937年<br />イタリアのヴェスヴィオ山に匹敵する景観として桜島に魅せられた梅原龍三郎は、昭和9年(1934)以来たびたび鹿児島を訪れました。この作品も昭和12年(1937)秋の鹿児島滞在中に描かれたものですが、一連の桜島の作品の雄大さとは少し趣を異にしており、狭いところにひしめき合って建つ家屋と鬱蒼と茂る樹木が画面のほとんどを占める密度の濃い画面です。木々の深い緑と屋根の青が画面の主調を成しながら、所々挿入された紅葉等の赤が絶妙なかたちで効いており、梅原ならではの卓越した色彩感覚が実によく冴えた作品といえます。油彩画の透明感を嫌って梅原はしばしば油絵具と併用して岩絵具を用いており、ここでもこの技法を採用しています。実際、そうした技法上の工夫が、深い緑や青にずっしりとした現実感を吹き込み、力強く、生き生きとした躍動感あふれる画面を形造るのに大いに役立っています。昭和13年(1938)第十三回国画会展出品作。

    梅原龍三郎「城山」1937年
    イタリアのヴェスヴィオ山に匹敵する景観として桜島に魅せられた梅原龍三郎は、昭和9年(1934)以来たびたび鹿児島を訪れました。この作品も昭和12年(1937)秋の鹿児島滞在中に描かれたものですが、一連の桜島の作品の雄大さとは少し趣を異にしており、狭いところにひしめき合って建つ家屋と鬱蒼と茂る樹木が画面のほとんどを占める密度の濃い画面です。木々の深い緑と屋根の青が画面の主調を成しながら、所々挿入された紅葉等の赤が絶妙なかたちで効いており、梅原ならではの卓越した色彩感覚が実によく冴えた作品といえます。油彩画の透明感を嫌って梅原はしばしば油絵具と併用して岩絵具を用いており、ここでもこの技法を採用しています。実際、そうした技法上の工夫が、深い緑や青にずっしりとした現実感を吹き込み、力強く、生き生きとした躍動感あふれる画面を形造るのに大いに役立っています。昭和13年(1938)第十三回国画会展出品作。

  • 中沢弘光「おもいで」1909年<br />中沢弘光は明治三十二年に東京美術学校を卒業後、黒田清輝から学んだ外光派の明るい色彩による穏やかな画風で、白馬会を中心に活躍しました。明治四十年に文展が開設されると、その第一回展で「夏」が三等賞を受賞。そして四十二年の第三回文展に出品された本作品によって中沢は二等賞を受賞し、翌年からは審査員に選出されています。<br />「おもいで」は、光明皇后が奈良の法華寺を建立する際、池に映る観音の姿を見たという伝説をもとにしたものですが、最終的には、現代の尼僧がこの光明皇后の故事を回想しながら池のほとりにたたずむ中で体験した幻覚、という設定に変更したと中沢自身が語っています。外光派の作品はしばしば細部の描写が疎かであるとの謗りを受けましたが、この作品においては、観音の装束や尼僧の足許の草花、あるいは背景の寺院等の細部が克明に描写され、その細密な表現がかえって、黄金の光に包まれた観音の顕現という浪漫的な主題に、一層の幻想味を与えているように思われます。

    中沢弘光「おもいで」1909年
    中沢弘光は明治三十二年に東京美術学校を卒業後、黒田清輝から学んだ外光派の明るい色彩による穏やかな画風で、白馬会を中心に活躍しました。明治四十年に文展が開設されると、その第一回展で「夏」が三等賞を受賞。そして四十二年の第三回文展に出品された本作品によって中沢は二等賞を受賞し、翌年からは審査員に選出されています。
    「おもいで」は、光明皇后が奈良の法華寺を建立する際、池に映る観音の姿を見たという伝説をもとにしたものですが、最終的には、現代の尼僧がこの光明皇后の故事を回想しながら池のほとりにたたずむ中で体験した幻覚、という設定に変更したと中沢自身が語っています。外光派の作品はしばしば細部の描写が疎かであるとの謗りを受けましたが、この作品においては、観音の装束や尼僧の足許の草花、あるいは背景の寺院等の細部が克明に描写され、その細密な表現がかえって、黄金の光に包まれた観音の顕現という浪漫的な主題に、一層の幻想味を与えているように思われます。

  • 中沢弘光「かきつばた」1918年

    中沢弘光「かきつばた」1918年

  • 中沢弘光「野路」1920年

    中沢弘光「野路」1920年

  • 中沢弘光「花下月影」1926年

    中沢弘光「花下月影」1926年

  • 中村不折「桂樹の井(龍宮の婚約)」1926年<br />江戸の京橋東湊町に生まれ、長野県高遠次いで松本で育った中村不折は、一人八八年に上京して小山正太郎の不同舎に学び、九四年には正岡子規の知己をえて『小日本』等に新聞挿絵を描きはじめました。1901年に渡仏し、アカデミー・ジュリアンでJ・P・ローランスらに学んで1905年に帰国、以後太平洋画会会員として同会研究所で後進の指導にあたるほか、文展・帝展に毎回出品しました。早くから書をはじめとする東洋文化に傾倒し、フランスでは歴史画家ローランスに師事した不折は、中国・日本の歴史や故事に因んだ作品を生涯描きつづけましたが、この「桂樹の井」は、『古事記』中の海幸彦・山幸彦の物語に拠ります。渡津見神宮(龍宮)の井戸のかたわらに立つ桂の木に登っていた山幸の姿が井戸に映っているのを、水を汲みにきた豊玉姫の侍女が見つける場面――これが緑で山幸彦は姫とむすばれます――が、古拙味のある画風で描かれています。

    中村不折「桂樹の井(龍宮の婚約)」1926年
    江戸の京橋東湊町に生まれ、長野県高遠次いで松本で育った中村不折は、一人八八年に上京して小山正太郎の不同舎に学び、九四年には正岡子規の知己をえて『小日本』等に新聞挿絵を描きはじめました。1901年に渡仏し、アカデミー・ジュリアンでJ・P・ローランスらに学んで1905年に帰国、以後太平洋画会会員として同会研究所で後進の指導にあたるほか、文展・帝展に毎回出品しました。早くから書をはじめとする東洋文化に傾倒し、フランスでは歴史画家ローランスに師事した不折は、中国・日本の歴史や故事に因んだ作品を生涯描きつづけましたが、この「桂樹の井」は、『古事記』中の海幸彦・山幸彦の物語に拠ります。渡津見神宮(龍宮)の井戸のかたわらに立つ桂の木に登っていた山幸の姿が井戸に映っているのを、水を汲みにきた豊玉姫の侍女が見つける場面――これが緑で山幸彦は姫とむすばれます――が、古拙味のある画風で描かれています。

  • 中村不折「廬生の夢(邯鄲)」1929年

    中村不折「廬生の夢(邯鄲)」1929年

  • 荻原守衛「女」1910年 <br />荻原守衛は、高村光太郎とともにロダンを日本へ紹介した最初の彫刻家とされますが、確かにこの作品に見られる上方へ伸びあがるようなポーズやそのモデリングにはロダンの作品を思わせるものがあります。しかし、そのようなロダンの形式的な模倣のみによってこの作品が成立しているわけではありません。この像には、作者がひそかに思慕を寄せていた同郷の先輩の夫人相馬良(黒光)の存在が色濃く影を落としており、彼女に象徴される守衛にとっての普遍的な女性像がそこに表されていると解釈することができます。それはまた守衛が主張する内的生命をもった彫刻の具現化であり、むしろ彼がそのような確信をもつに至るプロセスでロダンの精神的影響を強く受けていたといえるでしょう。<br />守衛の絶作となったこの作品は、山本安曇の手でブロンズに鋳造され、作者の死から半年後の第4回文展に出品されています。

    荻原守衛「女」1910年
    荻原守衛は、高村光太郎とともにロダンを日本へ紹介した最初の彫刻家とされますが、確かにこの作品に見られる上方へ伸びあがるようなポーズやそのモデリングにはロダンの作品を思わせるものがあります。しかし、そのようなロダンの形式的な模倣のみによってこの作品が成立しているわけではありません。この像には、作者がひそかに思慕を寄せていた同郷の先輩の夫人相馬良(黒光)の存在が色濃く影を落としており、彼女に象徴される守衛にとっての普遍的な女性像がそこに表されていると解釈することができます。それはまた守衛が主張する内的生命をもった彫刻の具現化であり、むしろ彼がそのような確信をもつに至るプロセスでロダンの精神的影響を強く受けていたといえるでしょう。
    守衛の絶作となったこの作品は、山本安曇の手でブロンズに鋳造され、作者の死から半年後の第4回文展に出品されています。

  • 戸張孤雁「曇り」1917年 <br />戸張孤雁は東京日本橋生まれ。1901-6年渡米,西洋画と挿絵を学びました。荻原守衛と知り合い彫刻に興味をもち,帰国後は彫刻に転じました。16年再興院展に参加,以来同人として活躍。日本創作版画協会創立者の一人で,版画家としても知られます。

    戸張孤雁「曇り」1917年
    戸張孤雁は東京日本橋生まれ。1901-6年渡米,西洋画と挿絵を学びました。荻原守衛と知り合い彫刻に興味をもち,帰国後は彫刻に転じました。16年再興院展に参加,以来同人として活躍。日本創作版画協会創立者の一人で,版画家としても知られます。

  • 萬鉄五郎「太陽の麦畑」1913年頃<br />萬鉄五郎は岩手県生まれ。1903年上京、早稲田中学に学ぶかたわら白馬会第二研究所で素描を学び、07年東京美術学校西洋画科入学。12年フュウザン会に参加。14-16年には帰郷して制作に専念し、17年日本美術家協会展に出品。19年病気療養のため神奈川県茅ケ崎に転居。日本画の制作もはじめ、のちに南画研究にも関心を示しました。22年春陽会の設立に参加。<br />

    萬鉄五郎「太陽の麦畑」1913年頃
    萬鉄五郎は岩手県生まれ。1903年上京、早稲田中学に学ぶかたわら白馬会第二研究所で素描を学び、07年東京美術学校西洋画科入学。12年フュウザン会に参加。14-16年には帰郷して制作に専念し、17年日本美術家協会展に出品。19年病気療養のため神奈川県茅ケ崎に転居。日本画の制作もはじめ、のちに南画研究にも関心を示しました。22年春陽会の設立に参加。

  • 萬鉄五郎「裸体美人」1912年<br /> この作品は東京美術学校の卒業制作として描かれました。激しい色彩と造形とによる並外れた表現は当時、黒田清輝ら穏健な教官を当惑させました。萬は当時雑誌などで紹介されるようになったゴッホやマティスの感化を受けたと言っており、わが国ではじめてのフォーヴィスム(野獣派)的な作品と位置付けられます。しかし、単に新しい西洋思潮を取り込んだだけではなく、ここには土着性や諧謔味といった萬の独特な感性や内面性までもがはっきりと示されています。

    萬鉄五郎「裸体美人」1912年
     この作品は東京美術学校の卒業制作として描かれました。激しい色彩と造形とによる並外れた表現は当時、黒田清輝ら穏健な教官を当惑させました。萬は当時雑誌などで紹介されるようになったゴッホやマティスの感化を受けたと言っており、わが国ではじめてのフォーヴィスム(野獣派)的な作品と位置付けられます。しかし、単に新しい西洋思潮を取り込んだだけではなく、ここには土着性や諧謔味といった萬の独特な感性や内面性までもがはっきりと示されています。

  • 岸田劉生「自画像」1913年<br />岸田劉生は一時期、友人の肖像や自画像を集中的に描きました。この作品もその時期のものであり、斜めにこちらをじっと見つめる劉生自身の姿が描き出されています。褐色がかった落ち着いた色調、光が顔にあたって照り返す微妙なタッチの表現からは、後期印象派風の表現から入念な写実表現へと移り変わっていく様子がうかがえます。

    岸田劉生「自画像」1913年
    岸田劉生は一時期、友人の肖像や自画像を集中的に描きました。この作品もその時期のものであり、斜めにこちらをじっと見つめる劉生自身の姿が描き出されています。褐色がかった落ち着いた色調、光が顔にあたって照り返す微妙なタッチの表現からは、後期印象派風の表現から入念な写実表現へと移り変わっていく様子がうかがえます。

  • 岸田劉生「壺の上に林檎が載って在る 」1916年<br />1916年の夏、一時健康を損ねた劉生は、戸外での写生を禁じられて風景画を断念し、それまであまり手がけたことのなかった静物画の制作に意欲を向けました。バックの布の手触りや、バーナード・リーチ作の重い陶器の質感などが、対象に噴い入るなかでみごとに掴み出され、「存在する=在る」ことの不可思議さに打たれた画家の驚嘆が伝わってきます。ところで劉生にとって、こうした存在そのものの驚異に気づくことは、彼の言う、単に「物象に即した美」の世界から、その「物象」を成り立たしめる神秘な力のありかである「唯心的な美」の世界へと、越え出る足掛かりをつかむことを意味していました。画面をいっぱいに占める壷のその口に、林檎をのせるという奇抜な構図と着想もまた、日常的なものの世界から形而上的世界へと、対象を移行させる役割を担っています。裏にはこの作によって彼の画が「或る進歩を一段つけてした」ことが書き記してあり、自己の表現の飛躍を自覚した画家の、自信と喜びをうかがうことができます。

    岸田劉生「壺の上に林檎が載って在る 」1916年
    1916年の夏、一時健康を損ねた劉生は、戸外での写生を禁じられて風景画を断念し、それまであまり手がけたことのなかった静物画の制作に意欲を向けました。バックの布の手触りや、バーナード・リーチ作の重い陶器の質感などが、対象に噴い入るなかでみごとに掴み出され、「存在する=在る」ことの不可思議さに打たれた画家の驚嘆が伝わってきます。ところで劉生にとって、こうした存在そのものの驚異に気づくことは、彼の言う、単に「物象に即した美」の世界から、その「物象」を成り立たしめる神秘な力のありかである「唯心的な美」の世界へと、越え出る足掛かりをつかむことを意味していました。画面をいっぱいに占める壷のその口に、林檎をのせるという奇抜な構図と着想もまた、日常的なものの世界から形而上的世界へと、対象を移行させる役割を担っています。裏にはこの作によって彼の画が「或る進歩を一段つけてした」ことが書き記してあり、自己の表現の飛躍を自覚した画家の、自信と喜びをうかがうことができます。

  • 中村彝「田中館博士の肖像」1916年 <br />新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻を中心に中原悌二郎や柳敬助らと過ごした所謂「中村屋時代」が夫妻の娘俊子を巡る激しい葛藤に終わり、下落合へアトリ工を移したのが大正5年。同年の第10回文展で特選第一席となった作品です。航空工学の権威であった田中館愛橘博士の肖像を頼まれた彝は、ガウン姿の博士が自宅の一室で研究に耽る様子を描きました。柔らかな室内の光につつまれた画面はルノワールの筆触と色彩の暖かみを感じさせ、博士の息づかいやぬくもりが伝わってくるようです。丁寧に筆を重ね、豊かな感触と奥行きを生み出しています。

    中村彝「田中館博士の肖像」1916年
    新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻を中心に中原悌二郎や柳敬助らと過ごした所謂「中村屋時代」が夫妻の娘俊子を巡る激しい葛藤に終わり、下落合へアトリ工を移したのが大正5年。同年の第10回文展で特選第一席となった作品です。航空工学の権威であった田中館愛橘博士の肖像を頼まれた彝は、ガウン姿の博士が自宅の一室で研究に耽る様子を描きました。柔らかな室内の光につつまれた画面はルノワールの筆触と色彩の暖かみを感じさせ、博士の息づかいやぬくもりが伝わってくるようです。丁寧に筆を重ね、豊かな感触と奥行きを生み出しています。

  • 中村彝「エロシェンコ氏の像」1920年<br />この作品のモデルとなっているのは盲目のロシア人青年エロシェンコです。彼は、魯迅の短編にも登場するエスペランティストの詩人で、日本には1914年から7年間ほど滞在して創作童話を書き、一時新宿中村屋に身を寄せていました。当時彝が強く傾倒していたルノワールの作風を思わせる柔らかい筆致が特徴的で、すべてが穏やかな光につつまれながらモデルの人間性を余すところなく伝えています。

    中村彝「エロシェンコ氏の像」1920年
    この作品のモデルとなっているのは盲目のロシア人青年エロシェンコです。彼は、魯迅の短編にも登場するエスペランティストの詩人で、日本には1914年から7年間ほど滞在して創作童話を書き、一時新宿中村屋に身を寄せていました。当時彝が強く傾倒していたルノワールの作風を思わせる柔らかい筆致が特徴的で、すべてが穏やかな光につつまれながらモデルの人間性を余すところなく伝えています。

  • 中原悌二郎「若きカフカス人」1919年<br />彫刻家としての中原悌二郎の活動期間は約10年間であり、現存作品の数も11点といわれます。作者自らの手により破壊され完成に至らなかった作品が何点かあるという記録も残っており、そのような完全主義が彼の作品を少なくしている原因といえるでしょう。太平洋画会研究所時代に彼は写真によりロダンの〈考える人〉を知り、その空間的ひろがりに新鮮な驚きを覚えており、それが彫刻家としての彼に大きな影響をもったと考えられます。この作品は、ニンツァというアジアを放浪していたロシア人をモデルとして中村彝のアトリエで制作されたもので、中村が翌年描く〈エロシェンコ氏の像〉とも深いかかわりをもつものといわれます。しかしこの作品のもつ正面性と様式化は、眼窩として穿たれたくぼみの明暗効果にもかかわらず堅固な量塊性を感じさせるものであり、ロダンの作品とはいささか性格を異にするものです。それはむしろ中原自身のロダン解釈であり、結果的にはロダン以降の彫刻との共通性を示すものといえます。

    中原悌二郎「若きカフカス人」1919年
    彫刻家としての中原悌二郎の活動期間は約10年間であり、現存作品の数も11点といわれます。作者自らの手により破壊され完成に至らなかった作品が何点かあるという記録も残っており、そのような完全主義が彼の作品を少なくしている原因といえるでしょう。太平洋画会研究所時代に彼は写真によりロダンの〈考える人〉を知り、その空間的ひろがりに新鮮な驚きを覚えており、それが彫刻家としての彼に大きな影響をもったと考えられます。この作品は、ニンツァというアジアを放浪していたロシア人をモデルとして中村彝のアトリエで制作されたもので、中村が翌年描く〈エロシェンコ氏の像〉とも深いかかわりをもつものといわれます。しかしこの作品のもつ正面性と様式化は、眼窩として穿たれたくぼみの明暗効果にもかかわらず堅固な量塊性を感じさせるものであり、ロダンの作品とはいささか性格を異にするものです。それはむしろ中原自身のロダン解釈であり、結果的にはロダン以降の彫刻との共通性を示すものといえます。

  • 村山槐多「バラと少女」1917年 <br />村山槐多は横浜市生まれ。従兄山本鼎の影響で画家を志望するようになります。1914年上京して小杉未醒のもとに寄寓し、日本美術院研究所に学びます。同年二科展に入選後、17年には第4回再興院展で《乞食と女》が院賞を受賞、院友に推されます。しかし16年ころから失恋のため自堕落な生活を送るようになり、19年の第5回美術院試作展への出品を最後に、貧困と放浪のうちに病死しました。<br /> 庭に咲き乱れるバラの前に立つ田舎風の少女。その異様に赤い、半襟、帯、そしてバラの花には、槐多が好んだガランス(茜色)が多用され、燃えるような生命感を表出しています。しかし同時に、覆いかぶさる草や深い陰影からは、失恋やデカダンな生活による心の荒廃からくるものか、寂寞とした雰囲気をも感じさせます。生への執着と死への不安が、少女に投影されているかのようです。

    村山槐多「バラと少女」1917年
    村山槐多は横浜市生まれ。従兄山本鼎の影響で画家を志望するようになります。1914年上京して小杉未醒のもとに寄寓し、日本美術院研究所に学びます。同年二科展に入選後、17年には第4回再興院展で《乞食と女》が院賞を受賞、院友に推されます。しかし16年ころから失恋のため自堕落な生活を送るようになり、19年の第5回美術院試作展への出品を最後に、貧困と放浪のうちに病死しました。
     庭に咲き乱れるバラの前に立つ田舎風の少女。その異様に赤い、半襟、帯、そしてバラの花には、槐多が好んだガランス(茜色)が多用され、燃えるような生命感を表出しています。しかし同時に、覆いかぶさる草や深い陰影からは、失恋やデカダンな生活による心の荒廃からくるものか、寂寞とした雰囲気をも感じさせます。生への執着と死への不安が、少女に投影されているかのようです。

  • 関根正二「婦人像」1918年<br />関根正二は福島県生まれ。本郷洋画研究所、太平洋画会研究所に短期間学びます。河野通勢の線描、安井曾太郎の色彩などに触発されます。1918年第5回二科展に「信仰の悲しみ」を出品、樗牛賞を受賞。歿後兜屋画堂で遺作展。<br />この世のものとは思い難いような息詰まる重い風景の中、これもまた憑かれたような顔貌のひとりの女性が一心不乱に一点を目指して歩を進めています。人物を真横からとらえるこの構図は、「姉弟」(1918年)「神の祈り」(1918年頃)といった同時期の関根の作品にしばしば見られるものであり、観る者からきっぱりと視線をそらし、迷いなく彼方へと向かうその厳格な雰囲気には、彼の代表作である同年の「信仰の悲しみ」へと結晶した独特の宗教的ヴィションが表れています。関根は翌年20歳で急逝することになります。<br />

    関根正二「婦人像」1918年
    関根正二は福島県生まれ。本郷洋画研究所、太平洋画会研究所に短期間学びます。河野通勢の線描、安井曾太郎の色彩などに触発されます。1918年第5回二科展に「信仰の悲しみ」を出品、樗牛賞を受賞。歿後兜屋画堂で遺作展。
    この世のものとは思い難いような息詰まる重い風景の中、これもまた憑かれたような顔貌のひとりの女性が一心不乱に一点を目指して歩を進めています。人物を真横からとらえるこの構図は、「姉弟」(1918年)「神の祈り」(1918年頃)といった同時期の関根の作品にしばしば見られるものであり、観る者からきっぱりと視線をそらし、迷いなく彼方へと向かうその厳格な雰囲気には、彼の代表作である同年の「信仰の悲しみ」へと結晶した独特の宗教的ヴィションが表れています。関根は翌年20歳で急逝することになります。

  • 関根正二 「三星(さんせい)」 1919年<br />描かれた三人のうち中央の人物は画家自身です。両脇の女性は右が姉、左が恋人と伝えられるが定かではありません。また「三星」という題名も、オリオン座の三ツ星との連想のみで謎がのこります。死が直前まで迫っているこの時期、神経衰弱によって幻影が現れることもしばしばでした。貧困や失恋などの試練をへて、宗教的な神秘性をたたえる関根のイメージは、好んだヴァーミリオンの鮮烈な色彩とともに自身をとりまく女性像として立ち現れました。

    イチオシ

    関根正二 「三星(さんせい)」 1919年
    描かれた三人のうち中央の人物は画家自身です。両脇の女性は右が姉、左が恋人と伝えられるが定かではありません。また「三星」という題名も、オリオン座の三ツ星との連想のみで謎がのこります。死が直前まで迫っているこの時期、神経衰弱によって幻影が現れることもしばしばでした。貧困や失恋などの試練をへて、宗教的な神秘性をたたえる関根のイメージは、好んだヴァーミリオンの鮮烈な色彩とともに自身をとりまく女性像として立ち現れました。

  • 十亀広太郎「御茶ノ水丘上ヨリ本郷方面ニ向」1923年

    十亀広太郎「御茶ノ水丘上ヨリ本郷方面ニ向」1923年

  • 十亀広太郎「街灯とバラック」1923年

    十亀広太郎「街灯とバラック」1923年

  • 十亀広太郎「白髭上流」1925年

    十亀広太郎「白髭上流」1925年

  • 織田一磨「新東京風景」より銀座(6月)1925年<br />織田一磨は東京の生まれ。1898年家族とともに、石版画工であった実兄東萬の住む大阪に転居しました。石版の技術を兄および金子政治郎から学ぶ一方、1899年京都新古美術品展に〈観桜の図〉を初出品して1等褒賞を受けました。1903年上京して各所の印刷工場で複製石版の製作に従うかたわら、巴会展(1905年)や第1回文展(1907年)に水彩画を出品しました。1908年には美術雑誌『方寸』の同人に加わって創作版画運動に身を投じ、同時に若い文学者や美術家が参集した「パンの会」にも参加しました。やがて自画石版による版画家として自立することを決意し、1916年から1919年にかけて〈東京風景〉や〈大阪風景〉の連作を制作しました。1918年日本創作版画協会を組織し、1924年の洋風版画会結成にも加わり、さらに1931年には版画家の大同団結となった日本版画協会の設立にも参加しました。戦後は日展の出品委嘱となり、第7回展(1951年)から第11回展(1955年)まで出品を続けました。

    織田一磨「新東京風景」より銀座(6月)1925年
    織田一磨は東京の生まれ。1898年家族とともに、石版画工であった実兄東萬の住む大阪に転居しました。石版の技術を兄および金子政治郎から学ぶ一方、1899年京都新古美術品展に〈観桜の図〉を初出品して1等褒賞を受けました。1903年上京して各所の印刷工場で複製石版の製作に従うかたわら、巴会展(1905年)や第1回文展(1907年)に水彩画を出品しました。1908年には美術雑誌『方寸』の同人に加わって創作版画運動に身を投じ、同時に若い文学者や美術家が参集した「パンの会」にも参加しました。やがて自画石版による版画家として自立することを決意し、1916年から1919年にかけて〈東京風景〉や〈大阪風景〉の連作を制作しました。1918年日本創作版画協会を組織し、1924年の洋風版画会結成にも加わり、さらに1931年には版画家の大同団結となった日本版画協会の設立にも参加しました。戦後は日展の出品委嘱となり、第7回展(1951年)から第11回展(1955年)まで出品を続けました。

  • 織田一磨「新東京風景」より 新橋演舞場(8月)	1925年

    織田一磨「新東京風景」より 新橋演舞場(8月) 1925年

  • 川上澄生「新東京百景」のうち 銀座 1929年<br />川上澄生は、横浜生まれ。青山学院高等部卒業。横浜開港図など南蛮趣味に取材し,西洋古木版画の手法をとって丸刀彫に単純な色彩を与える独特の耽美的作品を発表しています。国画会,日本版画協会会員。一時期カナダや北米にも住みました。

    川上澄生「新東京百景」のうち 銀座 1929年
    川上澄生は、横浜生まれ。青山学院高等部卒業。横浜開港図など南蛮趣味に取材し,西洋古木版画の手法をとって丸刀彫に単純な色彩を与える独特の耽美的作品を発表しています。国画会,日本版画協会会員。一時期カナダや北米にも住みました。

  • 前川千帆「新東京百景」のうち 五反田駅 1932年<br />前川千帆は京都生まれ。名は重三郎。関西美術院に学びます。12年上京,新聞等に漫画を描きました。18年日本創作版画協会の創立に参加し,木版画を帝展にも出品しました。東北地方を好み,田舎娘や温泉風俗の版画が多い。連作版画集「浴泉譜」や小型版画本があります。

    前川千帆「新東京百景」のうち 五反田駅 1932年
    前川千帆は京都生まれ。名は重三郎。関西美術院に学びます。12年上京,新聞等に漫画を描きました。18年日本創作版画協会の創立に参加し,木版画を帝展にも出品しました。東北地方を好み,田舎娘や温泉風俗の版画が多い。連作版画集「浴泉譜」や小型版画本があります。

  • 藤森静雄「新東京百景」のうち 愛宕山放送局	1929年<br />

    藤森静雄「新東京百景」のうち 愛宕山放送局 1929年

  • 小泉癸巳男	「昭和大東京百図絵」より 12.春の銀座夜景 1931年<br />小泉癸巳男は静岡生まれ。1909年画家を志して上京,日本水彩画会研究所に学び,戸張孤雁,織田一磨に接しました。18年孤雁の手引きで恩地孝四郎,山本鼎を知り,日本創作版画協会に参加しました。恵まれぬ生活に屈せず,「昭和大東京百図絵」の連作を完成しました。

    小泉癸巳男 「昭和大東京百図絵」より 12.春の銀座夜景 1931年
    小泉癸巳男は静岡生まれ。1909年画家を志して上京,日本水彩画会研究所に学び,戸張孤雁,織田一磨に接しました。18年孤雁の手引きで恩地孝四郎,山本鼎を知り,日本創作版画協会に参加しました。恵まれぬ生活に屈せず,「昭和大東京百図絵」の連作を完成しました。

  • 小泉癸巳男	「昭和大東京百図絵」より 33.本所・震災記念堂 1932年<br />

    小泉癸巳男 「昭和大東京百図絵」より 33.本所・震災記念堂 1932年

  • 小泉癸巳男	「昭和大東京百図絵」より 87.羽田国際飛行場	1937年

    小泉癸巳男 「昭和大東京百図絵」より 87.羽田国際飛行場 1937年

  • 陽咸二「燈下抱擁像」1924年

    陽咸二「燈下抱擁像」1924年

    東京国立近代美術館 美術館・博物館

  • 住谷磐根「工場に於ける愛の日課」1923年<br />住谷磐根が画家を志して上京したのが1921年頃、そうして、2年後の23年にはこの作品(ほか1点)で第10回二科展に入選、だが村山知義ら「マヴォ」グループによる反二科の野外展計画に共鳴した彼は、二科展開幕の日にみずから入選作2点を撒去しています。帝展に対する在野の第一勢力たる二科と、第三の「新興美術」勢との抗争に身を投じたかたちであるが、それにしても、絵を描きはじめてわずか2年ほどの青年の作品が二科展に入選したことをも含めて、規範もなければ、垣根らしい垣根も壊れた、当時の美術界の動静が透けて見えるようなエピソードです。<br />この年の9月に関東大震災が起こっており、大杉栄の虐殺など一連の事件が起こったのも同じ年です。破局の兆候や予感は美術界だけのものではなかったし、たとえばこの作品をみても、それは何よりも画家の心のうちの問題だったようです。同じ年に神田文房堂で開かれた村山知義の個展をみて、「その鋭さ、奇怪な叫びに私の血が滾(たぎ)る思いであった」という住谷は、とある空地に建つ廃屋となった焼き物工場に足を踏み入れたときの印象をもとにこの作品を描いたといいます。立体派的とも、村山が評したように「表現派風」とも呼びうる画面ですが、重苦しい陰惨な色調、画面右上に現れる画家の分身とおぼしき人影、そして彼が覗きこむ格好の、底の知れない壷なと、一種精神病理学的な奥行きすら感じさせる表現となっています。

    住谷磐根「工場に於ける愛の日課」1923年
    住谷磐根が画家を志して上京したのが1921年頃、そうして、2年後の23年にはこの作品(ほか1点)で第10回二科展に入選、だが村山知義ら「マヴォ」グループによる反二科の野外展計画に共鳴した彼は、二科展開幕の日にみずから入選作2点を撒去しています。帝展に対する在野の第一勢力たる二科と、第三の「新興美術」勢との抗争に身を投じたかたちであるが、それにしても、絵を描きはじめてわずか2年ほどの青年の作品が二科展に入選したことをも含めて、規範もなければ、垣根らしい垣根も壊れた、当時の美術界の動静が透けて見えるようなエピソードです。
    この年の9月に関東大震災が起こっており、大杉栄の虐殺など一連の事件が起こったのも同じ年です。破局の兆候や予感は美術界だけのものではなかったし、たとえばこの作品をみても、それは何よりも画家の心のうちの問題だったようです。同じ年に神田文房堂で開かれた村山知義の個展をみて、「その鋭さ、奇怪な叫びに私の血が滾(たぎ)る思いであった」という住谷は、とある空地に建つ廃屋となった焼き物工場に足を踏み入れたときの印象をもとにこの作品を描いたといいます。立体派的とも、村山が評したように「表現派風」とも呼びうる画面ですが、重苦しい陰惨な色調、画面右上に現れる画家の分身とおぼしき人影、そして彼が覗きこむ格好の、底の知れない壷なと、一種精神病理学的な奥行きすら感じさせる表現となっています。

  • 岡本唐貴「制作」 1924年<br />岡本唐貴は岡山県倉敷市生まれ。本名登喜男。東京美術学校彫刻科に学びますが中退。1923年二科展に初入選。24年前衛集団「アクション」、「三科」に参加。翌年の三科解散後グループ「造型」結成。29年日本プロレタリア美術家同盟に参加。戦後、現実会、創作画人協会等を結成。<br /> 岡本は、大正期新興美術のグループに参加して、従来の美術を否定する破壊的な活動を行いました。この作品では、画面は三分割され、右側にマネキン、左上に制作中の自画像、左下に瞑想する僧侶が描かれている。イメージの上では、マネキンや僧侶、そして左上の遠近法を強調した桟橋など、デ・キリコの影響が強く認められるが、左上の自画像が教会の影を踏みつけていることからも明らかなように、制作の動機は宗教や権威的なものへの反発にあります。彼はその後、反抗の対象を当時の社会体制へと拡大し、プロレタリア美術運動へと進んでいきました。

    岡本唐貴「制作」 1924年
    岡本唐貴は岡山県倉敷市生まれ。本名登喜男。東京美術学校彫刻科に学びますが中退。1923年二科展に初入選。24年前衛集団「アクション」、「三科」に参加。翌年の三科解散後グループ「造型」結成。29年日本プロレタリア美術家同盟に参加。戦後、現実会、創作画人協会等を結成。
     岡本は、大正期新興美術のグループに参加して、従来の美術を否定する破壊的な活動を行いました。この作品では、画面は三分割され、右側にマネキン、左上に制作中の自画像、左下に瞑想する僧侶が描かれている。イメージの上では、マネキンや僧侶、そして左上の遠近法を強調した桟橋など、デ・キリコの影響が強く認められるが、左上の自画像が教会の影を踏みつけていることからも明らかなように、制作の動機は宗教や権威的なものへの反発にあります。彼はその後、反抗の対象を当時の社会体制へと拡大し、プロレタリア美術運動へと進んでいきました。

  • 村山知義「コンストルクチオン」1925年<br />村山知義は、東京生まれ。1921年東京帝国大学文学部に入学しますが、翌年ベルリンに留学し、表現主義、ダダ、ロシア構成主義などの前衛美術に触れて美術家を志します。23年帰国、グループ「マヴォ」結成。24年築地小劇場「朝から夜中まで」舞台装置制作。同年「三科」結成。昭和期以後は劇作家として活動。<br /> ベルリンで前衛美術の洗礼を受け「普遍妥当的な美の基準はない」ことを学んだ村山は、芸術と日常との境界を取り外すかのように、木片、布、ブリキ、毛髪、そしてドイツのグラフ雑誌のグラビアなど、身の回りの素材を用いて画面を構成しました。一見、破壊的で混沌としてみえるこの作品ですが、一方で、左上に突き出す角材と中央の下向きの矢印との対比や、垂直軸と水平軸の強調などは、構築への意志を感じさせます。破壊的要素と構築的要素という正反対のベクトルを混在させたこの作品は、むしろそれゆえに、急速に近代化の進められた都市のエネルギーを体現しているように思われます。

    村山知義「コンストルクチオン」1925年
    村山知義は、東京生まれ。1921年東京帝国大学文学部に入学しますが、翌年ベルリンに留学し、表現主義、ダダ、ロシア構成主義などの前衛美術に触れて美術家を志します。23年帰国、グループ「マヴォ」結成。24年築地小劇場「朝から夜中まで」舞台装置制作。同年「三科」結成。昭和期以後は劇作家として活動。
     ベルリンで前衛美術の洗礼を受け「普遍妥当的な美の基準はない」ことを学んだ村山は、芸術と日常との境界を取り外すかのように、木片、布、ブリキ、毛髪、そしてドイツのグラフ雑誌のグラビアなど、身の回りの素材を用いて画面を構成しました。一見、破壊的で混沌としてみえるこの作品ですが、一方で、左上に突き出す角材と中央の下向きの矢印との対比や、垂直軸と水平軸の強調などは、構築への意志を感じさせます。破壊的要素と構築的要素という正反対のベクトルを混在させたこの作品は、むしろそれゆえに、急速に近代化の進められた都市のエネルギーを体現しているように思われます。

  • 東郷青児「サルタンバンク」1926年<br /> この絵は、南フランス滞在からパリにもどってのちシテ・ファルギエールで描かれたものです。画家自身が「この絵はピカソに引かれ、ピカソから逃れようと、日夜苦しんでいた頃の絵である」といっているように、キュビスム期から新古典主義期そしてシュルレアリスム風の時代と変わっていくころのピカソを思わせるところがあります。つまりこの三つの傾向を一緒にしたようなところが認められるといってよいでしょう。形体把握はキュビスム的、様式化をともなった量塊表現は新古典的、そして雰囲気は超現実的ということです。また、ここに見られる様式化の傾向は、戦後の装飾的様式化へとつながっていくものでしょう。この作品は帰国してはじめての二科展に滞欧作として特別展示した23点のうちの1点です。なおサルタンバンクとは大道芸人、旅芸人の意味です。<br />

    東郷青児「サルタンバンク」1926年
    この絵は、南フランス滞在からパリにもどってのちシテ・ファルギエールで描かれたものです。画家自身が「この絵はピカソに引かれ、ピカソから逃れようと、日夜苦しんでいた頃の絵である」といっているように、キュビスム期から新古典主義期そしてシュルレアリスム風の時代と変わっていくころのピカソを思わせるところがあります。つまりこの三つの傾向を一緒にしたようなところが認められるといってよいでしょう。形体把握はキュビスム的、様式化をともなった量塊表現は新古典的、そして雰囲気は超現実的ということです。また、ここに見られる様式化の傾向は、戦後の装飾的様式化へとつながっていくものでしょう。この作品は帰国してはじめての二科展に滞欧作として特別展示した23点のうちの1点です。なおサルタンバンクとは大道芸人、旅芸人の意味です。

  • 古賀春江「海」 1929年<br />昭和のはじめの文芸界では、大正期前衛運動が芸術革命から革命芸術への転回を示し、プロレタリア芸術の隆盛を見つつありました。そうした時代状況にあってヨーロッパの新しい芸術思潮を次々と吸収し、キュビスム、末来派風からクレー風の詩的イメージへと作風を変えていった古賀春江は、親交のあった前衛詩人竹中久七らの科学的超現実主義に影響され、「超現実主義私感」において、芸術と現実の関係、その社会的意義を仮設しています。それによると、現実の不満が芸術という超現実を生み、現実は弁証法的に進展していくという大前提から、「対象が実感の世界のそれであっても、それは寧ろその実感の世界を消滅すべき素材としての形象にすぎない」超現実の表現においては、「情熱もなく感傷もない純粋の境地」へと、対象への直接的欲求を排する自己消滅が目的化され、超現実主義はそのための理知的構成法とされています。混沌の内的現実を体系だてることなく漂わせてきた画家は、以後、主観性を排除した体系化に静寂を求めていきました。その作例である「海」の画面を構成する近代科学の時代の新しい事物の非情のモンタージュには、陰影のない抒情が感じられます。

    古賀春江「海」 1929年
    昭和のはじめの文芸界では、大正期前衛運動が芸術革命から革命芸術への転回を示し、プロレタリア芸術の隆盛を見つつありました。そうした時代状況にあってヨーロッパの新しい芸術思潮を次々と吸収し、キュビスム、末来派風からクレー風の詩的イメージへと作風を変えていった古賀春江は、親交のあった前衛詩人竹中久七らの科学的超現実主義に影響され、「超現実主義私感」において、芸術と現実の関係、その社会的意義を仮設しています。それによると、現実の不満が芸術という超現実を生み、現実は弁証法的に進展していくという大前提から、「対象が実感の世界のそれであっても、それは寧ろその実感の世界を消滅すべき素材としての形象にすぎない」超現実の表現においては、「情熱もなく感傷もない純粋の境地」へと、対象への直接的欲求を排する自己消滅が目的化され、超現実主義はそのための理知的構成法とされています。混沌の内的現実を体系だてることなく漂わせてきた画家は、以後、主観性を排除した体系化に静寂を求めていきました。その作例である「海」の画面を構成する近代科学の時代の新しい事物の非情のモンタージュには、陰影のない抒情が感じられます。

  • 望月晴朗「同志山忠の思い出」1931年

    望月晴朗「同志山忠の思い出」1931年

  • 三岸好太郎「雲の上を飛ぶ蝶」1934年<br />三岸好太郎は札幌市の生まれ。中学を卒業後上京、白樺美術展ではじめてセザンヌ、ゴッホらの作品に接しました。1922年第3回中央美術展に入選、この年、のちに夫人となる吉田節子を知ります(1924年に結婚)。1923年第1回春陽会展に入選、1924年第2回展では春陽会賞を首席で受賞、また同年春陽会の若手6人で麓人社を結成、1926年には春陽会無鑑査に推薦された。1926年中国を旅行、とくに上海における租界体験は、一連のエキゾチックな道化師像やマリオネットが生まれるきっかけとなった。1930年独立美術協会の結成に参加し、地方展、講演会、講習会などの活動に加わりました。1932年、巴里・東京新興美術同盟展でフランスの先鋭的な美術に触れ、このころから構成的な〈コンポジション〉、線描や引っかき線による〈オーケストラ〉の連作をはじめ、また1934年の第4回独立展にはシュルリアリスティックな蝶と貝殻の連作を発表、手彩色による素描画集「蝶と貝殻」を私家出版した。同年、持病の胃潰瘍に心臓麻痺を併発して死去。

    三岸好太郎「雲の上を飛ぶ蝶」1934年
    三岸好太郎は札幌市の生まれ。中学を卒業後上京、白樺美術展ではじめてセザンヌ、ゴッホらの作品に接しました。1922年第3回中央美術展に入選、この年、のちに夫人となる吉田節子を知ります(1924年に結婚)。1923年第1回春陽会展に入選、1924年第2回展では春陽会賞を首席で受賞、また同年春陽会の若手6人で麓人社を結成、1926年には春陽会無鑑査に推薦された。1926年中国を旅行、とくに上海における租界体験は、一連のエキゾチックな道化師像やマリオネットが生まれるきっかけとなった。1930年独立美術協会の結成に参加し、地方展、講演会、講習会などの活動に加わりました。1932年、巴里・東京新興美術同盟展でフランスの先鋭的な美術に触れ、このころから構成的な〈コンポジション〉、線描や引っかき線による〈オーケストラ〉の連作をはじめ、また1934年の第4回独立展にはシュルリアリスティックな蝶と貝殻の連作を発表、手彩色による素描画集「蝶と貝殻」を私家出版した。同年、持病の胃潰瘍に心臓麻痺を併発して死去。

  • 木村荘八「新宿駅」1935年 <br />木村荘八は、いろは牛肉店創業者の八男として、旧日本橋区吉川町両国広小路の牛肉店、いろは第八支店に生まれています。兄の木村荘五と交流のあった谷崎潤一郎は旧日本橋区蛎殻町の生まれです。<br />旧制京華中学校卒業後に画家を志し、岸田劉生と出会い、フュウザン会、草土社の<br />結成にも参加しています。<br /> 本作は晴れた日の多い冬の東京らしい光景で、高い窓から低い日の光が差し込み、行き交う人々を照らしています。男性は帽子を被り、女性は和服と洋装が混じっています。左の赤と緑の洋服が目を惹きます。駅特有の屋根裏や梁の見える天井、スピーカー、案内板も見えます。都会の人々の無名性も表れていて、新興の街、新宿の賑わいが巧みに捉えられています。

    木村荘八「新宿駅」1935年
    木村荘八は、いろは牛肉店創業者の八男として、旧日本橋区吉川町両国広小路の牛肉店、いろは第八支店に生まれています。兄の木村荘五と交流のあった谷崎潤一郎は旧日本橋区蛎殻町の生まれです。
    旧制京華中学校卒業後に画家を志し、岸田劉生と出会い、フュウザン会、草土社の
    結成にも参加しています。
     本作は晴れた日の多い冬の東京らしい光景で、高い窓から低い日の光が差し込み、行き交う人々を照らしています。男性は帽子を被り、女性は和服と洋装が混じっています。左の赤と緑の洋服が目を惹きます。駅特有の屋根裏や梁の見える天井、スピーカー、案内板も見えます。都会の人々の無名性も表れていて、新興の街、新宿の賑わいが巧みに捉えられています。

  • 長谷川利行「カフェ・パウリスタ」1928年 <br />長谷川利行は京都府の生まれ。利行の生い立ちについては不詳の点が多いですが、和歌山県下の中学在学中から小説や詩などに親しんでいたと伝えられ、1919年には歌集『木葦集』を自家出版しました。21年上京し、このころから短歌をつくる一方で、独学で絵を描きはじめました。春陽会展、二科展に落選を重ねるなかで、23年1回新光洋画展に入選しました。26年7回帝展、13回二科展に初入選。27年14回二科展に《酒売場》など3点を出品して樗牛賞を受け、翌年の3回「1930年協会」展でも《瓦斯(ガス)会社》などで同協会賞を受賞しました。しかし、32年ごろから浅草周辺を放浪するようになり、最後は路上で行き倒れとなりました。<br />

    長谷川利行「カフェ・パウリスタ」1928年
    長谷川利行は京都府の生まれ。利行の生い立ちについては不詳の点が多いですが、和歌山県下の中学在学中から小説や詩などに親しんでいたと伝えられ、1919年には歌集『木葦集』を自家出版しました。21年上京し、このころから短歌をつくる一方で、独学で絵を描きはじめました。春陽会展、二科展に落選を重ねるなかで、23年1回新光洋画展に入選しました。26年7回帝展、13回二科展に初入選。27年14回二科展に《酒売場》など3点を出品して樗牛賞を受け、翌年の3回「1930年協会」展でも《瓦斯(ガス)会社》などで同協会賞を受賞しました。しかし、32年ごろから浅草周辺を放浪するようになり、最後は路上で行き倒れとなりました。

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