2023/04/29 - 2023/04/29
403位(同エリア4708件中)
+mo2さん
東京国立近代美術館では、19世紀末から今日までの美術作品を収集しています。収集対象は、絵画、版画、水彩、素描、彫刻、写真、映像、書、及び関連する資料などの多分野にわたり、点数は13,000点を超えます(2023年2月現在)。その中から会期ごとにコレクション展として約200点を展示しています。2023.3.17-5.14のコレクション展から前回2021年3月23日-2021年5月16日(1)で紹介されていない作品を中心にアップしていきます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
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片岡球子「渇仰(かつぎょう)」 1960年
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ピエール・ボナール「プロヴァンス風景」 1932年
ボナール(1867?1947)は、19世紀末から20世紀半ばにかけて活躍したフランスの画家です。60年近くに及ぶ長いキャリアの中でボナールは何度か作風を変化させますが、とりわけ1920年代以降の豊麗な色彩や抽象度の高い表現を特徴とする作品は、「視神経の冒険」(ボナール本人の言葉)、「絵画の中の絵画」といった形容で語られてきました。20世紀を代表する画家の一人アンリ・マティスは、「ボナールが今日でも、そして確実に未来まで偉大な画家であることを私が証明する」と、ボナールの作品の革新性について予言的な言葉を残しています。 -
甲斐仁代「よりかかる像」 1931年
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三岸節子「静物(金魚)」 1950年
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草間彌生 「無題(16)」「女(33) 」「夜」 「太陽」1953年
東京国立近代美術館 美術館・博物館
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瑛九「れいめい」 1957年
伝統というものに一切とらわれず、権威に屈せず、ひたすら自己完結的で自由な作品世界を追求したという点で、瑛九はまさに真正なモダニストであった。モダニストの例にもれず、そのスタイルはめまぐるしく変化したが、すべては作品の自立性を求めつづけた結果であった。この意味で、なにひとつ具体的なものものを指示せず、にもかかわらずたしかに澄明(ちょうめい)な宇宙というものを暗示する、この最晩年の《れいめい》ほど瑛九らしさを感じさせる作品もないだろう。この作品が描かれた1957年末、彼は若い友人、池田満寿夫にあてた手紙の末尾をこう結んでいる。「僕は職人になって働いています。空が青い。」青、この天上的な色彩こそこの作品の本質である。画面いっばいに広がる、隕石群のような小さな不定形のフォルムが中央の燐光のような輝きを浴びて、より鮮やかに浮遊する。これはまさに黎明、夜明け、それも宇宙の夜明けのヴィジョンである。翌年、彼はオノサトトシノブの作品を「真昼の絵画」と評し、「言葉の観念によらず、フォルムと色を実在させた」絵画について語ったが、それはなによりも、この宇宙的な夢想そのもののような作品にふさわしい直観だったといえよう。 -
岸田劉生 「蕪図」 1925年
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岸田劉生「人蔘図」1926年
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青木繁 「運命」 1904年
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萬鉄五郎「太陽の麦畑」1913年頃
燦然と輝く太陽の色に加えて、燃える炎を描いているかのような粗い筆致によって、ほとんどゴッホのようなマチュエールを得ています。放射線状に放出された太陽光が大地に突き刺さるかのように描かれており、まるで遠方にあるはずの太陽が直ぐそこに居るヒトデ状の生き物のように見えてきます。 -
中村彝 「田中館博士の肖像」 1916年
新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻を中心に中原悌二郎や柳敬助らと過ごした所謂「中村屋時代」が夫妻の娘俊子を巡る激しい葛藤に終わり、下落合へアトリ工を移したのが大正5年。同年の第10回文展で特選第一席となった作品です。航空工学の権威であった田中館愛橘博士の肖像を頼まれた彝は、ガウン姿の博士が自宅の一室で研究に耽る様子を描きました。柔らかな室内の光につつまれた画面はルノワールの筆触と色彩の暖かみを感じさせ、博士の息づかいやぬくもりが伝わってくるようです。丁寧に筆を重ね、豊かな感触と奥行きを生み出しています。 -
藤島武二「匂い」 1915年
藤島の画業は、繊細さと装飾性を兼ね備えた浪漫主義的な前期作品と、造形性に主眼を置いた明快で力強い後期作品とに大別できます。渡欧体験がその境目となっているが、この作品《匂い》は、帰国後の移行期にあたる作品です。チャイナドレスをまとい、香を楽しむ女性には、浪漫主義的な優美さがまだ認められますが、一方で筆致や色彩はより単純化され、また女性の腕や左端の花瓶などが形成する画面構成の堅固さなど、造形的要素への関心の強さもうかがえます。 -
小出楢重「ラッパを持てる少年」 1923年
1921年から翌年にかけて、わずか半年にすぎなかったが、パリを中心とした外遊は、小出の画風の展開にとって大きな転機となりました。その背後には、「西洋人の絵には何かしら動かせない処の重みと油絵具の必然性が備わり、絵画の組織が整頓せるために骨格がある如くである」と後に記したように、日本では学びえなかった、ヨーロッパ絵画=油彩画の本質に対する深い認識があった。彼我の差を克服しつつ、日本人として自らの絵画を形成していこうとするなかで、以前の厚塗りで粘りのある描写は払拭され、要約されたフォルムと歯切れのよい筆致によって、近代的な感覚をもりこもうとするようになりました。当時5歳になる愛息泰弘をモデルにしたこの作品でも、青と褐色の鮮やかな対比と簡潔な描写によって、あどけない対象の存在感と、ともすればバランスをくずしかねない画面構成のおもしろさが表現されています。 -
新海竹太郎「ゆあみ」 1907年
ドイツで彫刻を学び、その技術と東洋的な主題との融合をもとめた新海竹太郎が、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した、日本における裸婦彫刻の先駆的作品。
天平風のまげを結い、薄布を手にした控えめなポーズをとる日本人をモデルとして、ヨーロッパ風の理想化された人体像を示しています。和洋美術の融合を見せつつ、清楚な姿には気品が漂っています。 -
矢部友衛 「裸婦」 1920年
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古賀春江 「母子」 1922年
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里見勝蔵「石膏像のある静物」1927年
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荻原守衛「坑夫」 1907年
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ロベール・ドローネー「リズム 螺旋」1935年
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ワシリー・カンディンスキー「全体」1940年
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パウル・クレー「花のテラス」1937年
1933年、半ば亡命に近いかたちでドイツを離れ、故国のスイスに戻ったクレーは、35年に皮膚硬化症と呼ばれる難病にみまわれたが、小康をえた37年頃から最晩年のきわめて多産な制作期をむかえた。この《花のテラス》にみられるように、線描を主体にしたこの時期の絵画には、以前にもまして自然の営みの奥深く分け入ったような作品が多い。一筆書き状に成長し、運動する線の軌跡は、樹木や草花が階段状に折り重なる花檀の情景というよりも、植物と動物の区別すらない、生命の、あるいは創造の神秘の園をそこに彷彿とさせるのである。 -
パウル・クレー「黄色の中の思考」1937年
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パウル・クレー「山への衝動」1939年
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福沢一郎「牛」1936年
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靉光「眼のある風景」 1938年
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香月泰男 「水鏡」 1942年
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梅原龍三郎 「長安街」1940年
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丸木俊(赤松俊子)「解放され行く人間性」 1947年
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内田巌「ラ・ペ(平和)」 1952年
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松本竣介 「Y市の橋」 1943年
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鶴田吾郎「神兵パレンバンに降下す」 1942年
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小川原脩「成都爆撃」1945年
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藤田嗣治「哈爾哈河畔之戦闘」1941年
1938(昭和13)年の国家総動員法によって、国民すべてが戦争協力を迫られるなかで、美術家も戦争記録画を描くようになりました。戦後、アメリカ連合軍総司令部が現存する戦争画の主要作品153点を接収し、1951(昭和26)年に合衆国に移送します。日本への返還要求の声が実り、ようやく1970(昭和45)年3月にアメリカ政府から日本政府に「無期限貸与」するかたちで、日米両国が作品返還に合意。傷みに応じて修復処置が施されましたが、経年変化などで過去の修復跡の変化なども目立つようになったことから、近年新たに修復し直し、額を新調するなどしています。今会期は修復を終えた戦争画を中心に戦時期の美術を展示します。 -
藤田嗣治「薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」1945年
特に色彩豊かですが表現は淡泊、人物より広大な光景での戦闘の記録に近い藤田の初期の戦争画と戦争末期の複雑に人物が絡み合う褐色調の死闘図との違いは、画家の関心の変化も見て取れ、見どころのひとつです。 -
藤田嗣治「大柿部隊の奮戦」1944年
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小磯良平「カンパル攻略(倉田中尉の奮戦)」1944年
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宮本三郎「本間、ウエンライト会見図」1944年
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