金山・熱田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
高蔵遺跡の紹介の続きです。現在も新しい発見があり、確認された古墳は、一部のものはまだ詳細はわかりませんが、八つに上りました。6世紀後半から7世紀には、横穴式石室をもつ円墳が造られ、高蔵古墳群を形成しています。大豪族とそれに連なる人々が葬られたと想定されています。<br />

2021春、高蔵遺跡(3/4):椿、杉原千畝・人道の道、高蔵公園、1号墳、6号墳らしい跡

51いいね!

2021/02/17 - 2021/02/17

63位(同エリア631件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

高蔵遺跡の紹介の続きです。現在も新しい発見があり、確認された古墳は、一部のものはまだ詳細はわかりませんが、八つに上りました。6世紀後半から7世紀には、横穴式石室をもつ円墳が造られ、高蔵古墳群を形成しています。大豪族とそれに連なる人々が葬られたと想定されています。

  • 平成29年度(2017年度)の発掘調査で、古墳であることが判明した『高蔵7号墳』の紹介の続きです。河原石を積んだ、長さ8メートルの石室を持つ、直径16メートルの円墳は、現在は埋め戻されて、周溝の位置に石を置いて表示されています。その周溝を現した2列の置石の光景です。

    平成29年度(2017年度)の発掘調査で、古墳であることが判明した『高蔵7号墳』の紹介の続きです。河原石を積んだ、長さ8メートルの石室を持つ、直径16メートルの円墳は、現在は埋め戻されて、周溝の位置に石を置いて表示されています。その周溝を現した2列の置石の光景です。

  • 平成29年度(2017年度)の発掘調査は、限定的なものらしく、樹木などはそのままに残し、概ね上からの観察の範囲での調査だったようです。右手中央付近に見えているのが墳丘の中心部分です。『高蔵7号墳』は、7世紀頃に造られたもので、今から1400年ほど前の古墳です。

    平成29年度(2017年度)の発掘調査は、限定的なものらしく、樹木などはそのままに残し、概ね上からの観察の範囲での調査だったようです。右手中央付近に見えているのが墳丘の中心部分です。『高蔵7号墳』は、7世紀頃に造られたもので、今から1400年ほど前の古墳です。

  • 『高蔵貝塚・環濠遺構』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右側の写真6枚は、1981年(昭和56年)の高蔵遺跡第1次調査時のものです。高蔵貝塚、環濠遺跡と発掘調査の歴史の3つの中見出しで説明されていました。屋用時代の人々は海の近くに住み、貝殻を捨てた貝塚ができました。調査は明治41年(1908年)から平成29年(2017年)の調査までの間に、80回を超えました。

    『高蔵貝塚・環濠遺構』のタイトルがあった説明パネルの光景です。右側の写真6枚は、1981年(昭和56年)の高蔵遺跡第1次調査時のものです。高蔵貝塚、環濠遺跡と発掘調査の歴史の3つの中見出しで説明されていました。屋用時代の人々は海の近くに住み、貝殻を捨てた貝塚ができました。調査は明治41年(1908年)から平成29年(2017年)の調査までの間に、80回を超えました。

  • 石段が付いた丘の上下ともに『高蔵公園』のエリアになります。高蔵古墳があった場所は、上の段になります。方角的には左側が東方面、石段の先が南方面になります。金山駅からは、南東に1キロ弱の場所です。

    石段が付いた丘の上下ともに『高蔵公園』のエリアになります。高蔵古墳があった場所は、上の段になります。方角的には左側が東方面、石段の先が南方面になります。金山駅からは、南東に1キロ弱の場所です。

  • 名前:『ツバキ(椿)』<br />分類:ツバキ科ツバキ属の常緑樹。<br />分布:日本原産、各地に分布。<br />その他:中国では、『海柘榴』と呼ばれ、海を渡ってきた意味ともされます。

    名前:『ツバキ(椿)』
    分類:ツバキ科ツバキ属の常緑樹。
    分布:日本原産、各地に分布。
    その他:中国では、『海柘榴』と呼ばれ、海を渡ってきた意味ともされます。

  • 名前:『ツバキ(椿)』<br />分類:ツバキ科ツバキ属の常緑樹。<br />分布:日本原産、各地に分布。<br />その他:枯葉の上に散り敷いた赤い椿の花です。花びらで散る山茶花との違いです。

    イチオシ

    名前:『ツバキ(椿)』
    分類:ツバキ科ツバキ属の常緑樹。
    分布:日本原産、各地に分布。
    その他:枯葉の上に散り敷いた赤い椿の花です。花びらで散る山茶花との違いです。

  • 高蔵公園の東北付近から眺めた、西北方面の光景です。地図で調べた、紅白に塗られた塔はNTT熱田ビルのアンテナ塔になるようです。ネットで調べた現在の名称は、『NTTコム名古屋熱田ビル』のようでした。<br />

    高蔵公園の東北付近から眺めた、西北方面の光景です。地図で調べた、紅白に塗られた塔はNTT熱田ビルのアンテナ塔になるようです。ネットで調べた現在の名称は、『NTTコム名古屋熱田ビル』のようでした。

  • 横断歩道に記してあった『外土居町』の表示です。今散策している『高蔵町』は、東に『外土居町』、西に『五本松町』、南に『夜寒町』、北に『沢上町』と接しています。熱田区HPでは『外土居町』の名前の由来を、『沢上城(城畠)の外土居があったといわれるところから名付けられた。外居とは、中世の豪族や武士の屋敷の土塁のことで、空堀の上をかき上げた土居を意味する』と紹介していました。

    横断歩道に記してあった『外土居町』の表示です。今散策している『高蔵町』は、東に『外土居町』、西に『五本松町』、南に『夜寒町』、北に『沢上町』と接しています。熱田区HPでは『外土居町』の名前の由来を、『沢上城(城畠)の外土居があったといわれるところから名付けられた。外居とは、中世の豪族や武士の屋敷の土塁のことで、空堀の上をかき上げた土居を意味する』と紹介していました。

  • 『杉原千畝・人道の道』のタイトルがあった案内看板の光景です。『命のビザ』の発行で、世界的に有名になった外交官の杉原千畝(1900~1986年)は、若い頃の10年間を名古屋で過ごし、市立古渡尋常小学校(現、市立平和小学校)と、県立第5中学校(現、県立瑞陵高校)に通いました。千畝の功績を讃え、当時の居住地付近の中区平和1丁目から、瑞陵高校を結ぶ通りが2018年(平成30年)に『杉原千畝・人道の道』と命名されました。命のビザ発行から80年目に当たります。

    イチオシ

    『杉原千畝・人道の道』のタイトルがあった案内看板の光景です。『命のビザ』の発行で、世界的に有名になった外交官の杉原千畝(1900~1986年)は、若い頃の10年間を名古屋で過ごし、市立古渡尋常小学校(現、市立平和小学校)と、県立第5中学校(現、県立瑞陵高校)に通いました。千畝の功績を讃え、当時の居住地付近の中区平和1丁目から、瑞陵高校を結ぶ通りが2018年(平成30年)に『杉原千畝・人道の道』と命名されました。命のビザ発行から80年目に当たります。

  • 千畝さんの紹介を続けます。杉原夫人が、難民たちの中にいた憔悴する子供の姿に目を留めたとき、『町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ』という旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かびました。『領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?』という千畝の問いかけに、『あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい』と同意しました。

    千畝さんの紹介を続けます。杉原夫人が、難民たちの中にいた憔悴する子供の姿に目を留めたとき、『町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ』という旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かびました。『領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?』という千畝の問いかけに、『あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい』と同意しました。

  • 杉原の外務省への復帰は適いませんでした。2000年(平成12年)、当時の河野洋平・外務大臣の顕彰演説により、日本国政府による公式の名誉回復がなされました。それは、千畝の没後14年目、そして生誕100年という節目のことでした。また、2019年10月21日、杉原が参議院に提出した履歴書と人事記録を発見され、履歴書によると、外務省の退職については依願退職だった事が判明しました。

    杉原の外務省への復帰は適いませんでした。2000年(平成12年)、当時の河野洋平・外務大臣の顕彰演説により、日本国政府による公式の名誉回復がなされました。それは、千畝の没後14年目、そして生誕100年という節目のことでした。また、2019年10月21日、杉原が参議院に提出した履歴書と人事記録を発見され、履歴書によると、外務省の退職については依願退職だった事が判明しました。

  • 上の標識が『史跡散策路』のルート表示、下の表示が『熱田史跡ガイド』のタイトルがありました。熱田施設ガイドは、南北に走る国道19号線にある地下鉄19号線を中心に、西側は雲心寺から南に順に青大悲寺、熱田神宮公園と断夫山古墳が、東側は、現在地の高蔵公園と高座結御子神社、南に夜寒の里碑が記されていました。夜寒の里は、熱田神宮の周りの名所の一つです。

    上の標識が『史跡散策路』のルート表示、下の表示が『熱田史跡ガイド』のタイトルがありました。熱田施設ガイドは、南北に走る国道19号線にある地下鉄19号線を中心に、西側は雲心寺から南に順に青大悲寺、熱田神宮公園と断夫山古墳が、東側は、現在地の高蔵公園と高座結御子神社、南に夜寒の里碑が記されていました。夜寒の里は、熱田神宮の周りの名所の一つです。

  • まだ新しい説明看板が立っていましたので、そちらに向かいました。この後ズームアップで紹介する『高蔵古墳群と高蔵1号墳』のタイトルでした。『高蔵古墳群』発見の功績者が、当時名古屋幼年学校の先生だった『鍵谷徳三郎(かぎや・とくさぶろう:1867~1924年)』です。明治時代の軍歌の名作といわれる『橘中佐』の作詞者としても有名です。

    まだ新しい説明看板が立っていましたので、そちらに向かいました。この後ズームアップで紹介する『高蔵古墳群と高蔵1号墳』のタイトルでした。『高蔵古墳群』発見の功績者が、当時名古屋幼年学校の先生だった『鍵谷徳三郎(かぎや・とくさぶろう:1867~1924年)』です。明治時代の軍歌の名作といわれる『橘中佐』の作詞者としても有名です。

  • 『高蔵古墳群と高蔵1号墳』のタイトルがあった説明パネルのズームアップ光景です。明治41年(1908年)の鍵谷徳三郎による発掘調査の後、場所不明の時代もあったようです。墳径16~18メートル、墳高2~2.5メートルの円墳で、1954年(昭和29年)5月に名古屋大学による発掘調査が行われ、二つの横穴式石室を繋いだ後室胴張型石室と多くの副葬品が見つかりました。

    『高蔵古墳群と高蔵1号墳』のタイトルがあった説明パネルのズームアップ光景です。明治41年(1908年)の鍵谷徳三郎による発掘調査の後、場所不明の時代もあったようです。墳径16~18メートル、墳高2~2.5メートルの円墳で、1954年(昭和29年)5月に名古屋大学による発掘調査が行われ、二つの横穴式石室を繋いだ後室胴張型石室と多くの副葬品が見つかりました。

  • 石室は南側に開口しており、直径20~30センチ、長さ40~50センチの丸石で組みあげられ、壁が彎曲した長さ3メートル、幅1.5メートル、高さ2.3メートルの二つの石室が、長さ4メートル、幅1メートルほどの羨道(通路)で繋がれていました。床は平石仕上げ。これらの石は、木曽川、あるいは庄内川の上流から運ばれたと考えられています。

    石室は南側に開口しており、直径20~30センチ、長さ40~50センチの丸石で組みあげられ、壁が彎曲した長さ3メートル、幅1.5メートル、高さ2.3メートルの二つの石室が、長さ4メートル、幅1メートルほどの羨道(通路)で繋がれていました。床は平石仕上げ。これらの石は、木曽川、あるいは庄内川の上流から運ばれたと考えられています。

  • 『高蔵1号墳』からは、複数の人骨が見つかっていることから、この墳墓に複数回の埋葬が行われたと見られています。出土品は、人骨:(前室2体、後室3体)、玉類 :多数、金環:9本、直刀:10本、鏃:20本以上、釣針:1本、釘?:1本、鍵手状製品:2本、須恵器:後室(台附長頸壺:3点、堤瓶:1点、平瓶:2点、高坏:6点、坏蓋:1点、破片:17点)、前室(台附鉢:1点、壺:1点、平瓶:3点、高坏:3点、坏蓋 :1点)、土師器:瓶:1点(後室)、その他:中国古銭 :8枚、巴文軒丸瓦片:1点、唐草文軒丸瓦片:1点、平瓦片:3点、陶質皿・土師皿:数点ずつ、陶質丸玉:1点、弥生土器片(封土封土中)、と豊富です。

    『高蔵1号墳』からは、複数の人骨が見つかっていることから、この墳墓に複数回の埋葬が行われたと見られています。出土品は、人骨:(前室2体、後室3体)、玉類 :多数、金環:9本、直刀:10本、鏃:20本以上、釣針:1本、釘?:1本、鍵手状製品:2本、須恵器:後室(台附長頸壺:3点、堤瓶:1点、平瓶:2点、高坏:6点、坏蓋:1点、破片:17点)、前室(台附鉢:1点、壺:1点、平瓶:3点、高坏:3点、坏蓋 :1点)、土師器:瓶:1点(後室)、その他:中国古銭 :8枚、巴文軒丸瓦片:1点、唐草文軒丸瓦片:1点、平瓦片:3点、陶質皿・土師皿:数点ずつ、陶質丸玉:1点、弥生土器片(封土封土中)、と豊富です。

  • 高蔵公園での発掘調査の現地説明会は、平成30年(2018年)11月11月23日(金・祝)に行われています。『高蔵遺跡第60次発掘調査説明会』(教育委員会文化財保護室主催)による実施でした。高蔵公園の再整備工事に先立つ調査でした。当日は250名ほどの参加者があったようです。学芸員の解説で、5号墳付近の遺構、7号墳の石室の石積み、新規発見の8号墳(仮)の発掘現場などの見学です。

    高蔵公園での発掘調査の現地説明会は、平成30年(2018年)11月11月23日(金・祝)に行われています。『高蔵遺跡第60次発掘調査説明会』(教育委員会文化財保護室主催)による実施でした。高蔵公園の再整備工事に先立つ調査でした。当日は250名ほどの参加者があったようです。学芸員の解説で、5号墳付近の遺構、7号墳の石室の石積み、新規発見の8号墳(仮)の発掘現場などの見学です。

  • 平成30年(2018年)11月の発掘調査説明会の紹介の続きです。当日の初めに、昨年度(2017年度)の調査で見つかった7号墳は、地中に残る石室の一部が見学できたようです。写真も緑政土木局の公式ブログに公表されていました。7号墳は横穴式石室をもつ円墳で、実際に石が積み上がって壁状になっている様子を写真でも確認できました。http://doryokun.blog.fc2.com/blog-entry-715.html

    平成30年(2018年)11月の発掘調査説明会の紹介の続きです。当日の初めに、昨年度(2017年度)の調査で見つかった7号墳は、地中に残る石室の一部が見学できたようです。写真も緑政土木局の公式ブログに公表されていました。7号墳は横穴式石室をもつ円墳で、実際に石が積み上がって壁状になっている様子を写真でも確認できました。http://doryokun.blog.fc2.com/blog-entry-715.html

  • 次に紹介は、8号墳(仮:以下略)の現場です。8号墳は今年度(2018年度)の調査で新たに発見された円墳です。『地表に現れていた石から推測し、発掘したら新たな古墳だった』という学芸員の説明があったそうです。最後になる3番目が、5号墳付近の発掘現場です。5号墳は、公園の南東側に位置しており、発掘調査の結果、この古墳は方墳の可能性が高いということが分かっています。

    次に紹介は、8号墳(仮:以下略)の現場です。8号墳は今年度(2018年度)の調査で新たに発見された円墳です。『地表に現れていた石から推測し、発掘したら新たな古墳だった』という学芸員の説明があったそうです。最後になる3番目が、5号墳付近の発掘現場です。5号墳は、公園の南東側に位置しており、発掘調査の結果、この古墳は方墳の可能性が高いということが分かっています。

  • 5号墳の墳丘の周りにめぐらされた遺構からは、今回調査で土器片も出土し、その状況を直接見ることが出来たようです。この写真も公表されていました。はにわや熱田神宮の遺跡の瓦と同一の模様の瓦が出てきたという説明もあったようです。写真は、『高蔵公園』の文字が刻まれた石標の光景です。この辺りは、高蔵公園の西南辺りに位置するようです。

    5号墳の墳丘の周りにめぐらされた遺構からは、今回調査で土器片も出土し、その状況を直接見ることが出来たようです。この写真も公表されていました。はにわや熱田神宮の遺跡の瓦と同一の模様の瓦が出てきたという説明もあったようです。写真は、『高蔵公園』の文字が刻まれた石標の光景です。この辺りは、高蔵公園の西南辺りに位置するようです。

  • 高蔵神社と高蔵公園との西側の境界線になる、金網フェンスの光景です。右手奥に見えるの赤い鳥居列が、すでに紹介した太閤出世稲荷、その左手の数メートル程度の小高い山が、『高蔵4号墳』になるようです。

    高蔵神社と高蔵公園との西側の境界線になる、金網フェンスの光景です。右手奥に見えるの赤い鳥居列が、すでに紹介した太閤出世稲荷、その左手の数メートル程度の小高い山が、『高蔵4号墳』になるようです。

  • フェンス越しに眺めた、太閤出世稲荷の赤い幟の光景です。赤い鳥居に赤い幟、赤色尽しのお稲荷さんです。太閤出世稲荷については、2011年秋の旅行記で、少し詳しく紹介しておきました。<br />https://4travel.jp/travelogue/10625214

    フェンス越しに眺めた、太閤出世稲荷の赤い幟の光景です。赤い鳥居に赤い幟、赤色尽しのお稲荷さんです。太閤出世稲荷については、2011年秋の旅行記で、少し詳しく紹介しておきました。
    https://4travel.jp/travelogue/10625214

  • 2011年秋の旅行記に記した、稲荷社についての説明です。『百済王朝滅亡に伴い、朝鮮半島からは多くの帰化人が渡来したとされます。その中でも秦氏一族が三分の一を占めていたとされます。その秦氏の氏神が京都市伏見区の稲荷山の西麓にある、伏見稲荷大社とされます』百済が滅びたのは660年のことです。中国では618年に隋が滅び、唐の時代になりました。

    2011年秋の旅行記に記した、稲荷社についての説明です。『百済王朝滅亡に伴い、朝鮮半島からは多くの帰化人が渡来したとされます。その中でも秦氏一族が三分の一を占めていたとされます。その秦氏の氏神が京都市伏見区の稲荷山の西麓にある、伏見稲荷大社とされます』百済が滅びたのは660年のことです。中国では618年に隋が滅び、唐の時代になりました。

  • 百済の滅亡は、日本史にも大きく関わりますので、もう少し補足しておきます。589年に隋が中国を統一し、長く続いた南北朝時代が終わりますと、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けました。百済は589年にいち早く使者を建てて隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努め、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに参加しました。しかし、隋軍を撃退した高句麗は、百済領への侵攻を行うようになりました。

    百済の滅亡は、日本史にも大きく関わりますので、もう少し補足しておきます。589年に隋が中国を統一し、長く続いた南北朝時代が終わりますと、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けました。百済は589年にいち早く使者を建てて隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努め、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに参加しました。しかし、隋軍を撃退した高句麗は、百済領への侵攻を行うようになりました。

  • 百済は隋に対して、更なる高句麗征討を要請しました。その一方で、新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、更に倭国とも協力しました。602年に百済は新羅の阿莫山城(アマクサンソン?:全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領の北漢山城(プカンサンソン:ソウル市鍾路区新営)を攻撃しました。

    百済は隋に対して、更なる高句麗征討を要請しました。その一方で、新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、更に倭国とも協力しました。602年に百済は新羅の阿莫山城(アマクサンソン?:全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領の北漢山城(プカンサンソン:ソウル市鍾路区新営)を攻撃しました。

  • 当時の倭国は、『任那(みなま)の調(いつき)』の実施を求めて591年と602年に筑紫への駐兵を行い、新羅への軍事的圧力をかけました。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見えるようです。『任那府』の存在をめぐっては、今も日本と韓国の学会でも論争があるようです。写真は、『愛知国学院・中部神祇学校・之跡』の石標です。

    当時の倭国は、『任那(みなま)の調(いつき)』の実施を求めて591年と602年に筑紫への駐兵を行い、新羅への軍事的圧力をかけました。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見えるようです。『任那府』の存在をめぐっては、今も日本と韓国の学会でも論争があるようです。写真は、『愛知国学院・中部神祇学校・之跡』の石標です。

  • 中国では、度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から、618年には隋朝が倒れ、唐にとって代わられました。百済は、611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領しました。624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けています。写真は、神社息の鳥類保護区の標識です。

    中国では、度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から、618年には隋朝が倒れ、唐にとって代わられました。百済は、611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領しました。624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けています。写真は、神社息の鳥類保護区の標識です。

  • 642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となりました。この年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与えました。この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にある湯です。写真は『第2古墳』か『第6古墳』のようですが、特定されていません。

    642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となりました。この年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与えました。この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にある湯です。写真は『第2古墳』か『第6古墳』のようですが、特定されていません。

  • 百済は、後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えました。翌643年には高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指しました。百済の義慈王は、国内でも専制的な体制の構築を目指し、独裁権の強化と反対派の粛清を進めたようです。写真は、別の方角から眺めた、『第2古墳』か『第6古墳』のようです。

    イチオシ

    百済は、後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えました。翌643年には高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指しました。百済の義慈王は、国内でも専制的な体制の構築を目指し、独裁権の強化と反対派の粛清を進めたようです。写真は、別の方角から眺めた、『第2古墳』か『第6古墳』のようです。

  • 百済は、高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、新羅は、唐への援軍要請を繰り返しました。唐は、高句麗征討で、その同盟国の百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、ついに660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ差し向け、百済は滅びました。写真は、古墳付近から見下ろした、稲荷社方面の光景です。その後、百済復興を支援したのが倭国ですが、663年の白村江の戦いで大敗しました。

    百済は、高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、新羅は、唐への援軍要請を繰り返しました。唐は、高句麗征討で、その同盟国の百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、ついに660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ差し向け、百済は滅びました。写真は、古墳付近から見下ろした、稲荷社方面の光景です。その後、百済復興を支援したのが倭国ですが、663年の白村江の戦いで大敗しました。

51いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP